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LINE上級執行役員の「憲法って、ただの紙の上に書かれた文章」発言

 LINEの上級執行役員の田端信太郎という人が、ツィッターである人と議論していて、

納税している人は納税していない人と比べて社会の存続を考えるうえで比較すれば、有用であるということ。そして納税していない人が、公的な再分配を受け取る程度は、納税している人を含めた民主的な政治決定の結果をはみ出ることはできない、ということに合意されるということですね。”

と述べると、それについて相手側が

それには合意できないです。憲法では、全ての個人に生存権が保証されているので。”

と答えた。

 そこでさらに田端は、

 “憲法って、ただの紙の上に書かれた文章ですよね。。。実際に餓死しそうな人がいるときに、「憲法」がアンパンを恵んでくれたりするのですか? 誰か、生身の人間が、お金を出してアンパン買うところから始まりますよね?

 とコメントしたのだが、これがネット上で賛否両論を巻き起こし、また勤務先の会社から厳重注意を受けたそうである。

 (ITmediaの記事参照) 

 私なりの感想をいうならば、田端は、「憲法は紙切れにすぎないから無視して良い」とか「憲法には価値がない」とかいうレベルの主張をしているのではなく、憲法それ自体が直接的に人間の生存を保証する給付を与えてくれる機能を持っているわけではない(=憲法に「生存権」の条項を書き入れても、現実には公的財源の裏付けがなければどうにもならない)という意味のことを言おうとしているのだと思われる。

 憲法は25条で「生存権」を保障している。これは、国や自治体が、国民に対して最低限の生活ができるための一定の給付を与えることを憲法によって義務づけられているということである。生活保護が代表的なものだが、食料や住居を現物支給するという制度も理屈としては考えられるだろう。

 とばいえ、憲法に生存権が規定されていれば、それだけで生活保護費等が自動的にどこかからわき出てくるわけではなく、そのための財源がなければならない。その財源は税収によってまかなわれる。

 つまり田端は、憲法それ自体に生活保護を直接給付できる機能があるわけではなくて、誰かが納税して国が生活保護の財源を確保することによって初めて生存権が保障される、という当たり前のことを、いささか挑発的に述べたのではないか

 憲法の教科書を学んだ人なら誰でもわかると思うが、この「生存権」は、同じ憲法で保障された他の権利、たとえば「信教の自由」(20条)などと違う、際だった特徴がある。

 たとえばカトリックや浄土真宗を信仰する人の信教の自由は、政府=公権力がカトリックや浄土真宗を弾圧したり、違う宗教を信じるように押しつけたりしなければ、守られる。
 ここでは政府は何もしなければ良いのであり、憲法は、公権力を制限して、個人の自由を守る働きをする。政府が個人の自由を侵害すれば、憲法違反となる。(このような権利を「消極的自由権」ともいう。)

 これに対して「生存権」は、政府が何もしなければ、どうすることもできない。政府が積極的に動いて、生活困難な人に対して何らかの金銭や物品を給付することで、初めて「生存権」が保障されることになるからである。
 
 この場合、いくつかの問題が出てくる。まず、政府は、どの程度の給付を支給すれば、憲法の「生存権」に違反しないのだろうか。たとえば生活保護を支給するとして、いくらであれば、憲法違反にならずに済むのだろうか。
 さらに、上記の問題がクリアできて、一応の生活保護として支給すべき水準がある程度は基準として決めることができるとしても、実際の財源がどうしても足りない場合は、どうすれば良いのだろうか。

 このように、「生存権」は憲法上の権利ではあるが、それをどのように実現するかについては、「信教の自由」などとは違う困難な問題があるわけである。

 さて、今回の田端の発言で本当に議論の対象とするべきなのは、「憲法がただの紙の上の文章」という部分ではなく、その前の「納税していない人が、公的な再分配を受け取る程度は、納税している人を含めた民主的な政治決定の結果をはみ出ることはできない」という部分である。

 憲法の規範レベルの問題でいえば、公的な再配分=生活保護等は、民主的な政治決定のプロセスで定めさえすれば、どのようにでも変えて良いというわけではない。
 たとえば、“民主的な政治決定”の結果として、一切の生活保護は月5千円の給付だけとすることは、さすがに(現在の物価水準を前提として)憲法違反だろう。かなり稀なケースを除いて、月5千円ではまず生活できないからである。
 いかに民主的な意思決定の結果として、生活保護を月5千円と決めたのだとしても、それは生存権を侵害するものであり、憲法違反と評価されるだろう。つまりどのように民主的な意思決定の結果であっても、憲法に違反することはできないのである。その意味では、田端の議論相手の人物の「憲法では、すべての個人に生存権が保障されている。」という反論は正しい。

 しかし次の段階として、現実の経済的制約の問題が出てくる。どのように財源を探しても、増税しても何をしても、財政上の制約があって、生活保護を1人あたり月5千円しか支給できない場合は、いくら憲法違反だと言ったところでどうしようもないではないか、という問題である。ここは、田端の表現を借りれば「有用」な存在である「納税者」を確保し、その活動を促進して税収を維持するような施策をするしかないということになるだろう。

フランス大統領選についての2つの対照的な考察(東浩紀と大野舞)

今般のフランスの大統領選挙の結果については、いろいろな考察が発表されているが、『AERA』の東浩紀の巻頭エッセイと、BLOGOSに掲載された大野舞(パリ在住の人)のブログ記事が、好対照をなしていて印象に残ったので、ここでご紹介する。

 まず東浩紀は、現代世界の主要な政治的対立軸は、もはや右と左ではなく、グローバリズムへの賛否なのだという。

 “ルペンは右と言われるが、弱者にやさしい(ように見える)。マクロンは左派に近いと言われるが、実態は金融エリートだ。決選投票では、左右のイデオロギーではなく、グローバリズムへの賛否こそが問われたのである。
  この構図は米大統領選と酷似している。トランプは右だが弱者の支持を集めたし、クリントンはリベラルだが金融街と結びついていた。・・・ナショナリズムとグローバリズムが主要な対立軸を構成し、そこに古い左派の理想が名目的な第三勢力として関わるというこの構図は、おそらくは今後、先進国共通のものになっていくのではないか
。”

 ここでいう「右」「左」の意味は必ずしも定かではないが、それはさておき、東はさらに日本の状況に目を向けて、

 “日本の問題はじつは、右傾化や保守化にではなく、まさに上記の構図自体を作れていないことにあることがわかる。安倍政権は経済的にはグローバリズム寄りだが、イデオロギーは守旧的で排外主義的である。他方で野党はみなグローバリズム批判であり、マクロンに相当する勢力は存在しない。・・・日本にいま必要なのは真のブルジョア政党かもしれない。”

ともいう。

 (安倍政権が経済的にグローバリズム寄りだというのは良いとして、イデオロギー的に「守旧的」「排外主義的」と言えるのだろうか。たとえば外国人材の受入を進めている安倍内閣は「排外主義イデオロギー」に動かされているなのだろうか。
 もちろん安倍首相の個人的信念や傾向については、日本会議との関係とか、その価値観について、「右寄り」「復古的」などと言えるのだろうが、東は、この安倍晋三という一個人の傾向・信念と、安倍内閣全体のイデオロギーとを混同しているといえよう。内閣は、様々な利害調整の中で動いているのであって、首相一人の信念のままに動いているわけではないし、内閣として統一された「イデオロギー」を持っているわけではない。)

 一方の大野舞の記事は、マクロンとルペンの対立の中で、その対立軸そのものが排除してしまっている視点を拾い上げている。決選投票で棄権者が多く出たということは、「グローバリズム(ネオリベ)か排外主義か」の二者択一しかないことへの反発、嫌悪を感じる層が根強く存在しているということである

 そして大野は、マクロンを強く支持する動きは、極右でも極左でもなく「極中」(Extrême Centre)というべきだという論評も紹介する。現在の主流のグローバル資本主義の経済システムを強く推進し、平均的な「中道」こそが正義であるとして、そこから外れた者に対して極めて不寛容なのが「極中」だというのである。
 つまりアイロニカルな表現ではあるが、極左・極右を排除して、自分たちこそが主流だとする「極中」という立場が存在するわけである。

 さらに、このようなグローバルな資本主義を推進し、その恩恵を享受している層(大野が引用する論者の表現を借りれば「社会の中級かそれ以上の階級に属し、生活に何不自由ない人々で、海外に留学したり仕事で飛び回るなどしている人たち」である)は、正義の味方づらをして、極右のルペンとの対決を呼びかけていたけれども、むしろそのような層こそが、社会の格差を広げて、排除された人々を産み出して、ルペンや国民戦線を支持するように追い込んで言ったのだという。

 前述の東の「グローバリズム対反グローバリズムの図式を作るべきだ」という主張と比べてみると、大野が(いろいろな論者を紹介する形で)述べているのは、そのような図式から排除されてしまう問題があるということ、そしてグローバリズムこそが、恩恵を受けられない人々を産み出して、反グローバリズムや極右排外主義を育てたのだということである。

 「マクロン対ルペン」のような図式を、これからのあるべき対立軸の典型のようにとらえる東と、その対立軸そのものに異議を提示する見解を紹介する大野を対比してみると、その違いは非常に興味深い。

(なお東は、日本でも、フランスや米国のような「グローバリズム対反グローバリズム」の「構図」を作るべきだと主張し、「真のブルジョワ政党」が必要だというのだが、そのような構図が日本でなかなか成り立たないとすれば、それなりの理由があるはずである。
ここではあまり深く考察する余裕はないが、たとえばまず、日本は、外国人の労働力をだいぶ受け入れるようになっているとはいえ、フランスや米国のような移民・難民の受入規模には到底及ばないということが挙げられるだろう。EUの中心であるフランス、移民国家でメキシコと国境を接しているある米国とはまったく立場が違うのである。
 さらに自民党という政党は、グローバリズム寄りの施策をいろいろ推進しているとはいえ、伝統的に大都市圏以外の支持基盤も強く、そのグローバリズム志向を徹底することはできないということもあるだろう。
 もっといえば、東のいう「真のブルジョワ政党」、つまりグローバル資本主義を推進する党が出来たとして、それを支持する層=グローバル化の徹底で恩恵を受ける層がどれくらいいるかという問題でもある。)

松尾陽ほか『アーキテクチャと法 法学のアーキテクチュアルな展開?』

松尾陽・編『アーキテクチャと法 法学のアーキテクチュアルな展開?』(弘文堂)

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アーキテクチャ。本来、建築や建築物を意味するこの言葉は、いまや物理的な技術一般、物事を構成する枠組みや構造一般のことを指すようになった。・・・これらの物理的な技術や構造を設計することで、人々が行為する物理的な環境を構成し、人々の行動を一定の方向へ誘導する手法として、アーキテクチャという言葉が注目されることにもなった。」(はしがき)

 法律により人間の行動を規制することは一般的に行われているが、それとは別次元で、道路や施設の構造、インターネットのシステムなどの客観的な要素によって人間の行動を規制・誘導するという状況が、今、改めて「法」「自由」「人権」などとの関係で、注目・検討されている。

第1章「法とアーキテクチャ」研究のインターフェース(松尾陽)
第2章「アーキテクチャの設計と自由の再構築」(成原慧)

この2章は、アーキテクチャと法の関連について、全体的な思想・研究状況の紹介や概論の役割を果たしている。
特に先駆的な研究として、米国の研究者(法律実務家でもある)のローレンス・レッシグとキャス・サンスティーンがたびたび取り上げられており、この2名はこの後の章でも頻出なので、私としても読まねばという気になった。

第3章「個人化される環境」(山本龍彦)では、情報環境が極度に個々人向けに“カスタマイズ”される状況が、逆に個人の尊重・尊厳を蝕んでいくという“逆説”が取り上げられている。たとえばある人が閲覧するポータルサイト等の画面に、その人の好みや過去の履歴に応じたニュース記事や商品広告ばかりが選ばれて表示されるようになると、「個人化」された環境といいながら、実は特定の傾向に個人を押し込めて、それ以外の選択の可能性が奪われていくのではないか、ということである。それが「超個人化」が「個人主義」を崩していくという意味で“逆説”とされているのだが、こういう状況は「(超)個人化」というより、「孤立化」とでも言い換えた方が良いのではないか。

第4章「技術の道徳化と刑事法規制」(稲谷龍彦)では、リスクのある技術開発に刑事制裁を課することの可否と社会的な利益等について、完全自動運転車の事故などの例を挙げて検討している。

第5章「アーキテクチャによる法の私物化と権利の限界」(栗田雅裕)では、著作権(特にドイツ)とコピーガードの問題を中心に、アーキテクチャ(ここではコピーガード)が人間の自由(ここでは複製の自由)を侵害するかどうかという問題を中心に検討している。取り上げているのは、著作権法の中の特定の論点であり、かなり特殊な分野ではあるが、その問題提起としてはかなり普遍性を持っており、本書の中でも異彩を放っている。

第6章「貨幣空間の法とアーキテクチャ」(片桐直人)は、いわゆる仮想通貨と法の問題について論じているが、まだ発展途上で激しく変動する分野の問題だけあって、なかなか深く語るのは難しい感じである。

第7章「憲法のアーキテクチャ」(横大道聡)は、技術や物理的施設ではなく、憲法そのものを「アーキテクチャ」として捉えているので、他の論者とは切り口が根本的に異なるのだが、それはそれで面白い。特に「日本では『何かを建設しようとする構築の意思を持つことは危険であるとするのが、憲法学の初動的な反応』で、『憲法学は何かをつくり上げる学問ではなく、抵抗し、批判する学問であるという自己規定が強い』ため、建築学で用いられる概念を憲法学で用いるのは『大抵評判が悪い』とされる。」という指摘は、実に鋭いと思った。

第8章は座談会で、本書の各著者に加えて、大屋雄裕がゲストとして参加している。私自身、「アーキテクチャ」の概念が法学などで使われていることを初めて知ったのは、大屋雄裕の『自由とは何か』(ちくま新書)が最初だった。

神社本庁の「日本人でよかった」のポスターの中国人モデルに帰化してもらおう!

神社本庁が2011年に「私 日本人でよかった」というキャッチコピーを付けた女性の写真を使ったポスターを製作し、6万枚作成して全国の神社に配布していた。これは日の丸掲揚を提唱する趣旨のポスターだという。

ところがこの写真のモデルの女性は、なんと中国人だったということで、ネットで話題になっている。
いろいろな写真の画像ファイルを有償でダウンロードして利用できるサービスの会社「ゲッティ・イメージズ」の女性モデル画像を業者が使ったのだが、それは中国人女性だったのだ。

(参考)
ハフィントンポストの記事


神社本庁は今のところ、特に問題とするつもりはないようだが、そうは言ってもせっかく「日本人でよかった」というポスターを作ったのに、モデルが中国人女性というのではガッカリで、“国旗掲揚”の啓発のポスターの効果に水を差されたような気分になるのではないだろうか。
しかし物は考えようである。発想を逆転して、この中国人女性を探し出して(上記のハフィントンポストの記事によれば、撮影したカメラマンには特定して接触できているから、女性を探すのも不可能ではなさそうだ)、日本に帰化してもらってはどうだろうか

この女性が日本に帰化すれば、「日本人でよかった」のポスターのモデルは「日本人」だということになるから、何の問題もなくなる。
ただし帰化するためには様々な要件をみたして、法務大臣の許可を得ることが必要だから、必ず実現できるとは限らない。
帰化のための具体的な要件は、国籍法第5条第1項に定めがあり、「引き続き5年以上日本に住所を有すること」「自己又は生計を一にする配偶者その他の親族の資産又は技能によつて生計を営むことができること」など、なかなか面倒だ。
しかも、この第5条第1項の要件を充たしても、必ず法務大臣が帰化を許可しなければならないわけではない。帰化を許可することが「できる」というだけである。
いずれにしても、この女性が現在中国に在住しているとすれば、「5年以上日本に住所を有すること」という要件を充たしていないことになり、少なくとも今の時点では帰化できないことになってしまう。
しかし別な手がないわけではない。
国籍法の第9条を見てみると、「日本に特別の功労のある外国人については、法務大臣は、第5条第1項の規定にかかわらず、国会の承認を得て、その帰化を許可することができる。」と規定されており、「特別の功労」がある外国人なら、さきほどの第5条1項の面倒な要件を充たさなくても、帰化の許可を受ける道があるのだ。

この中国人女性は、国旗掲揚の啓発ポスターのモデルになってくれたのだから、「日本に特別の功労のある外国人」といえるのではないか。あとは法務大臣と国会次第で、この女性に日本人になってもらえるのだ。
この女性が本当に「日本人になれてよかった」と言ってくれるなら、なかなか素晴らしいことだろう。

(以上、もちろん冗談です。というかご本人の意思を何にも考えていませんが。)

安倍首相「憲法は9条改正を優先」に憲法学者はどう答える?

 安倍首相は、憲法改正について、9条を改正して自衛隊を憲法に明確に位置づけることを優先する、と述べている。

 政府の解釈論というか公式見解としては、自衛隊も、さらには安保法制も合憲とされているので、それならば逆に、9条を改正する必要などないという話になってしまうと思っていたのだが、この点について安倍首相は、「残念ながら憲法学者の多くが違憲と言っている。そういう状況を変えるのは私たちの責任だ」と国会答弁で説明したようである。
時事通信の記事参照

 憲法学者の中では、時代とともに自衛隊合憲論が次第に増えてきてはいるように思うが、主流は依然として自衛隊違憲論なのではないだろうか。(以前のエントリでも触れた

 いずれにしても憲法学者に対して「政府は自衛隊は合憲だと思うが、お前たち学者の多数派が違憲論を主張しているので、改正せざるを得ない」というふうに首相からボールをストレートに投げつけた格好になった。

 これに対して憲法学者の世界から、何らかの反応や問題提起が出てくれば面白いと思うのだが、どうだろうか。

 ここで思考の実験をしてみようと思う。仮に私が憲法学者で、自衛隊違憲論者で、しかも9条改正反対派だとする。そのうえで、自衛隊を廃止して非武装中立国家になるというのは非現実的なので(なんらかの程度は)自衛隊の存在を是認せざるを得ない・・・と考えているとしたら、この安倍首相の問題提起に対してどう答えるだろうか。

 とりあえず、説明の仕方としては、2つのパターンが考えられる。

(1)自衛隊は違憲であるから、解散すべきである。しかしすぐには解散できない。従って、いずれ自衛隊が解散して非武装中立の国家になれるように、政府は真剣に平和外交その他の施策に取り組まなければならない。いつの日か、非武装中立が可能な時代が来るまで、何十年、何百年かかかるかわからないが、その不断の努力の過程の中で、あくまでもやむを得ない暫定的な途中経過の状態としてであれば、自衛隊の存在は認められる。
 自衛隊は違憲だが、その違憲状態を長い時間をかけて解消していくプロセスの中にあると考えて、当面はやむを得ない範囲で維持しつつも、努力をしていかなければならない。

(2)自分は自衛隊は違憲だと考えているが、合憲だという解釈論も説として一応は成り立たないわけではない。つまり違憲説と合憲説の両方が存在する。もちろん政府は、自衛隊を現に運用している立場であるから、合憲だと主張している。しかし違憲説が有力に存在しているということは、現に安倍首相が認めている。
 つまり、憲法9条がある限り、政府も一応、自衛隊違憲説が存在することを、頭の中で意識しないわけにはいかない。これが9条の価値である。
 違憲説が存在する以上は、政府も、どこかで、自衛隊の運用に慎重になり、暴走しないようになるはずである。9条が改正されて、違憲説がまったく存在しなくなってしまったら、政府は安易に軍備拡張や軍事行動に走ってしまう危険があるのではないか。

・・・いかがなものだろうか?
 ただしこの2つの説明に難点がないわけではない。
 (1)は、「非武装中立が可能な時代」がいつまでも来なければ、結局はなし崩しの現状追認と同じであるし、(2)は、自分は違憲論だといっておきながら、政府が合憲論を根拠に自衛隊を保持・運用することを最初から認めて織り込んでしまっているのと同じなのである。
 とりわけ、自分で考えておいて否定的なことを言うのも妙だが、(2)の主張は、正確には「自衛隊違憲論」というより、「自衛隊違憲論が存在することがプラスになっている論」というべきだろう。

«護憲派が「天皇」を持ち出すということについて

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