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厚生年金の事業主負担分も本人が負担しているのか?(城繁幸氏の説について)

 「みんなの介護」という介護系メディアのサイトで、人事コンサルタントの城繁幸は最近、次のように言っている。

厚生年金に関して知っておくべき話がひとつあります。厚生年金は現在、約19%で、そのうち半分は会社が負担してくれるということになっています。しかし会社側から見れば、事業主負担も実質的には本人負担だということです。”

 城の主張をさらに読んでみると、具体的にはこういうことである。

 まずある企業のAという労働者が、額面で50万円の給料を支給されているとする。厚生年金の保険料率が仮に20%とすると、Aの場合は(単純化していえば)10万円である。

 厚生年金保険料は、事業主と被保険者が折半で負担することになっている。
そこでこの10万円を企業とA本人が折半で5万円ずつ負担することになるから、A自身の手取りは、50万-5万=45万円である(ここでは所得税その他の徴収は無視しておく)。

 しかし城繁幸によれば、事業主負担も、実際には本人が負担させられているのだという。

 企業側からみれば、給料50万円+厚生年金保険料事業主負担分5万円=55万円がAの人件費である。つまりAは「本来55万円をもらえるはずだった」という。

 そのうえで企業側は、上記の5万円を事業主負担分として納付しているから、実際にはAは、“自分がもらうべき”55万円から、事業主負担分5万円と本人負担分5万円の両方の合計10万円を負担して、45万円を手取りとして受け取っていることになる。

 つまり城によれば、厚生年金保険料は、事業主負担分も本人負担分も、どちらも結局は労働者本人の負担でしかないのだという。

 城繁幸のこの議論は、「Aは本来、50万円ではなく55万円をもらえるはずだった」という仮定に基づいている
 仮に厚生年金制度が存在しなければ、Aの給料は50万円ではなく55万円になっていたはずだという主張である。

 だが、本当にそういえるのだろうか。仮に厚生年金のない世界であれば、会社の負担するAに関する人件費が月55万円から50万円に下がるだけではないのか。

 Aは、支給される給料が額面月50万円という前提で会社に雇用されている。月50万円で働いてくれる者に、わざわざ月55万円を支払う会社はないだろう。
 厚生年金がなければ、会社は余計な5万円などわざわざ負担する必要はないし、そしてAは50万円という条件で納得して働くのだから、Aの支給される給料は50万円のままなのではないか。

 なお「事業主負担分」があるのは、厚生年金だけではない。健康保険にも労働保険(雇用保険と労災保険)にも事業主負担分はある。とりわけ労災保険には、本人負担は存在せず、100%事業主負担だが、城繁幸の理屈では、この労災保険も、「労働者が本来もらえるはずだった人件費の中から、すべて自分で支出しているのだ」ということになるのだろうか。

 さらに城繁幸の理屈でいえば、会社が支出する各種福利厚生費(これも人件費の一部といえるだろう。たとえば会社独自の福利厚生制度とか、社内食堂の会社負担分とか、社内運動会とか)も、「本来なら労働者が全額もらえるはずだった人件費に含まれる」ということになる。
 つまり城繁幸の説では、人事や福利厚生にかかわる諸費用は、一見「会社負担」のように見えても、実際はすべて労働者本人が負担しているものでしかなく、実質的には「会社負担」のものなど存在しない、ということになるのだろうか

「強すぎない安倍政権」という選択肢はないのか?

都議選での自民党の大敗と、内閣支持率の低下を受けて、自民党内では「反安倍」の動きが始まったようである。

特に内閣支持率では、NHK・朝日・読売のいずれの調査でも30%台に落ち込んでおり、これまでの比較的高い支持率に比べてかなり急激な低下であって、自民党内でも危機感が強まるのはまあ当然である。

政局の動きについてはあまり立ち入りたくはないが、「強すぎない安倍政権」という選択肢はないのだろうか。

あまり自民党の議席が多すぎない程度で、国会では野党との協議や調整をきめ細かくやらなければならない状況になったうえで、政権は当面、安倍内閣にやってもらう・・・という選択肢があっても良いと思うのだが。

もっとも、次の国政選挙がいつになるかわからない今の段階で、こんなことを言ってもむなしいかも知れない。

実際は、安倍首相が自民党内で圧倒的な力をもって「安倍一強」と呼ばれるのは、選挙で強さを示して多数の議席を確保してきたからであって、それができないとなれば、「強すぎない安倍内閣」ではなく、「安倍降ろし」が自民党としての選択肢ということになるのだろう。

なぜ都議会選挙や都知事選挙は、国政選挙のような雰囲気になってしまうのか?

 東京都議会選挙は、都民ファーストの圧勝に終わった。

 都知事選挙や都議会選挙の場合、今回に限らず、多かれ少なかれ“国政の代理戦争、前哨戦”みたいな扱いで報道されて、実務的な政策論争になりにくく、有権者もその流れに乗って、国政についての意識をそのまま持ち込んだりムードに流されたりする傾向は、前々からある。
  (昭和の「革新都政」がもてはやされた時代もそうだった。)

 なぜこういう現象が起こるのだろうか?
 なぜ、東京都知事選挙や東京都議会選挙は、国政選挙のような感覚になってしまうのだろうか?
 「マスコミが煽っているからだ」というのは一つの答えだろうが、有権者がその煽りに反応するだけの理由の説明は一応必要だろう。

 たとえば静岡県や鹿児島県の県議会選挙で、マスコミが「この県議会選挙は、実質的には、安倍政権への国民の支持の度合いを測る意味のある選挙だ」と言ったところで、有権者は乗ってくるだろうか? 
 他の府県では成り立たないことが、どうして東京では成り立つのだろうか?

 もちろんそれは、東京都民が他の府県民よりもバカとか変わり者だからというわけではない。
 答えは簡単で、東京都民の大半は、都政がどうなろうとあまり生活には実質的に影響を受けないような立ち位置の人間だからである(大企業のサラリーマンとその家族、第三次産業従事者、小学校から大学までの教員、メディア関係者、大学生、などなど)。

 他の府県の知事選挙ともなれば、全然話が違ってくるだろう。農林水産業、比較的小規模な商工業、土建業などに従事する人々の比率が高い府県では、どういう知事を選んでどういう行政をしてもらうかは、その地域住民にとっては死活問題である。

 東京にも農林水産業や小規模な商工業や土建業にかかわる人はいるし、築地・豊洲問題はここらへんの関係者にとっては重要な課題のはずだが、いかんせん、東京全体の有権者の中では少数派なのである。

 東京の有権者の大半は、都知事選挙や都議会選挙を、国政選挙の代用物のように考えて、大雑把な感覚で投票しているが、それは、そういうことができるだけの余裕がある社会層が東京都民の大半をしめているということであり、これがいわゆる浮動層なのだ。

 (付け加えると、市長選とか区長選になると、いくら東京でも、さすがにもう少し現場の実情を反映した状況になるかと思う。)

稲田朋美防衛大臣の発言と自衛隊法と公職選挙法

都議会選挙で、自民党の候補について「自衛隊としても」応援をお願いしたという稲田朋美防衛大臣の発言が問題となっている。

具体的な法律に照らして検討してみよう。

まず自衛隊法61条1項で
隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。」
とある。

これだけを見ると、まず、政党などのための寄付金集めをしてはいけないのは何となくわかる。ただ、「政治的目的」と「政治的行為」とは具体的にどこまでの範囲を指しているのかよくわからないが、これは政令で定めることになっている。

この「政令」が、自衛隊法施行令である。
自衛隊施行令86条1号によれば、禁止される「政治的目的」の例として

衆議院議員、参議院議員、地方公共団体の長、地方公共団体の議会の議員・・・の選挙において、特定の候補者を支持し、又はこれに反対すること

があり、さらに87条1項8号によれば、禁止される「政治的行為」の例として

政治的目的をもつて、前条第一号に掲げる選挙・・・において、投票するように又はしないように勧誘運動をすること

とある。

すると、都議会選挙で「自民党候補に投票するように、自衛隊としてお願いするという稲田朋美の発言はそのまま自衛隊法違反ということになりそうだが、自衛隊法で政治的行為が禁じられているのは、「隊員」である。
「隊員」とは、自衛隊法2条5項によれば

防衛省の職員で、防衛大臣、防衛副大臣、防衛大臣政務官、防衛大臣補佐官、防衛大臣政策参与、防衛大臣秘書官、第一項の政令で定める合議制の機関の委員、同項の政令で定める部局に勤務する職員及び同項の政令で定める職にある職員以外のものをいう

とされているので、たとえば統幕議長や東部方面総監は「隊員」に含まれるが、防衛大臣は「隊員」ではないので、稲田自身が自衛隊法違反の罪そのものに直接問われるということにはならない。

(ちなみに自衛隊法61条1項に違反して「隊員」が政治的行為を行った場合、3年以下の懲役または禁固に処せられる(同法119条1項1号)。

ただし、防衛大臣が、防衛大臣の立場で、自衛隊が自衛隊法違反の行為をすることを前提とした発言を公に行ったということになるから、防衛大臣としては不適格ということになるだろう。

またこれとは別に、公職選挙法違反の問題がある。

詳細ははぶくが、公選法136条の2では、公務員(防衛大臣も含まれる)が、候補者を推薦し、支持する目的をもって、その地位を利用して、候補者の推薦に関与し、若しくは関与することを援助し、又は他人をしてこれらの行為をさせることを禁止している。

選挙について「防衛省として、自衛隊としてお願いしたい」という言い方をした稲田の発言は、ここでは、防衛大臣としての地位を利用した都議選の候補者支援活動ではないかということで、問題となるわけである。

待機児童問題は、保育料の値上げで「解決」すれば良い?

本日の日経新聞の「経済教室」は、「待機児童解消できるか (上)」というタイトルである。
 経済学者の宇南山卓(一橋大学准教授)が、保育所の待機児童問題の“現実的”な解決策として「保育料引き上げ」を提唱している。

宇南山によれば、そもそも待機児童とは、保護者が希望しても保育所に入所できない児童のことであり、保育所への需要が供給を超過している状態のことである
 つまり需要過多といっても良いし、供給不足といっても良い。

 この解決策としては、まず保育所の供給を増やすことが考えられるが、費用がかかりすぎで限界があり、あまり現実的ではない。無理に増やそうとすれば、質の悪い保育所が乱造される危険もある。

 そこでこの筆者は、逆に需要を減らすことによって待機児童問題を解決する策を提唱する。どのように減らすかといえば、保育料を引き上げることである。

 経済学的にいえば、商品やサービスの価格が高ければ、それに対する需要は減少する。その考えをそのまま適用して、保育所を使うための保育料を引き上げていくべきというのである。
 保育料が高くなれば、それに応じて、保育所を利用しようという保護者は減っていく。
つまり、保育料が引き上げられて、保育所に入所を希望する保護者が減れば、待機児童問題は「解決」する、という主張である。

 (宇南山が言わんとしていることを、私なりに比喩を使って言うならば、あるラーメン屋に人気がありすぎて、客が殺到し、店に入りきらない客が路上にあふれている状態をイメージすれば良い。この状態を解決するにはラーメンの値上げをするべきだ、というのがこの筆者の主張である。ラーメンが高くなれば、そこに来る客は減って混雑は緩和され、みんな店に収容することができるから、ということだ。

  また別な比喩でいうと、有料指定席の通勤電車を思い浮かべてもいいだろう。京急のウィング号や小田急ロマンスカーなどは、指定席料金を払うことで、通勤ラッシュに悩まされず、ゆったり座って通勤することができる。この種の電車の指定席料金を払える人たちにとっては、通勤ラッシュは「解決」されている。

 宇南山自身が保育所をラーメン屋や有料指定席通勤電車に喩えているわけではないが、言っていることは、これとまったく同じ理屈だろう。)

 正確にいえば、保育所に子どもを入所させたい者が絶対的な意味で減るわけではなく、“高くなった保育料を払ってでも”保育所に入所させたい者が減るだけである。
 ただ、“高くなった”保育料を払えない保護者は、保育所に子どもを預けること自体を諦めるので、そもそもその子は待機児童にはカウントされなくなり、待機児童問題は「解決」することになる。

 そうなると、高い保育料を払える者しか子どもを保育所に預けることができなくなってしまうが、これについては、宇南山は望ましいことだと考えている。
「女性の活躍や人的資本の有効活用の観点からは、賃金水準が高く、就業継続の意欲が強い保護者を優先的に入所させるべきだ」というのである。
 つまり平たく言えば、カネをたっぷり稼いで高い保育料を払える親が優先的に保育所に子どもを入れられるのは、経済的効率の観点から望ましい、というのが宇南山の考え方である。

 (とはいえ、母子家庭などの社会福祉的側面にも配慮が必要であることを否定してはいない。その場合の対策としては、現金給付で対応するということを宇南山は提唱している。つまり経済的困難などで子どもを保育所に預けて働かなければならない人たちへの対策としては、保育所への優先入所ではなく、現金を直接給付して、保育料を払えるようにしてやれば良いということのようである。)

 もっとも、ここまで言い切ってしまうなら、保育所への公的支援など必要なく、すべて民間企業任せにして、純粋に市場競争の原理で保育料を決めれば良いことになってしまうのではないかと思うのだが、宇南山はそこまでは徹底せず、「もちろん保育に対する公的負担自体は合理的だ。保育所は、女性の就労支援、幼児教育、子育て負担軽減など多くの役割を果たしており、結果として少子化解消策や女性活用など私的便益を上回る社会的メリットを産み出すからだ。」と述べている。
 ただしそういう部分と、「経済効率からいえば、高く稼げる親が優先されるのが望ましい」と主張する部分とがどういうふうに矛盾なくつながっているのか、この記事だけではよくわからない。

 私としては、ここでは宇南山の主張を別に否定も肯定もするつもりはないが、「希望者全員が保育所に子どもを入れられるわけではない」という状況の中で、どのように保育所への入所枠を配分するかという問題への一つの答えではある。宇南山のような考えに賛同できない人も当然いるだろうし、そういう人は別な解決策を考えているのだろう。

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