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城繁幸氏がまたいい加減なことを・・・

 城繁幸がまたブログで、いい加減なことを書いていた。

  サルでもわかる「終身雇用がブラックを産む」わけ

 言わんとするところを整理して要約すると、次のとおりである。

(1)日本の大企業は、繁忙期に急に正社員を増員することはなく、まずは残業でこなす。逆に業務量が減った時も、正社員を解雇することはなく、残業を減らすことで調整する。このようにして解雇を避け、終身雇用を維持している。
(2)労働基準法はザル法であって、労使協定を締結すれば事実上、いくらでも残業をすることができるようになっている。
(3)従って、終身雇用が過労死を産み出していると言える。
(4)ところで、終身雇用で労働条件の良い大企業だけでなく、そうでない中小企業にも同じ労働基準法が適用される。終身雇用のない企業の方が残業規制が厳格というわけではない。
(5)よって、中小企業の労働者は、終身雇用の恩恵を受けられないにもかかわらず、ザル法の労働基準法によって残業が野放しになっていることのしわ寄せを受けている。

(論旨はまだあるが、以下略)

 この城繁幸の文章は、例によって、当たっている部分とデタラメで乱暴な部分が混在している。

 (1)(2)は、単純化した図式ではあるが、ここでは一応良しとしておく。
 問題は(3)以下だ。城繁幸の理屈では、「終身雇用→業務の増減に応じて採用したり解雇したりできない→よって忙しい時も増員ではなく残業で対応せざるをえない→よって終身雇用が過酷な残業や過労死を産み出している」ということになっている。

 そうだとすれば、終身雇用でない企業は、単純に言えば(法的にどうかは別として)ほしいままに採用したり解雇して業務量の変動に対応できるのだから、無茶な残業をさせる必要はないことになるはずである。

 終身雇用をやめれば解雇と採用によって人員を調整するので、少なくとも長時間残業を強いられることはほとんどない、というのが城繁幸がこれまでも繰り返してきた主張だ。

 ということは、逆に、現に終身雇用などせず、ほしいままに解雇も採用もしている中小企業は、無茶な残業は原理的にありえないはずである。労働基準法が「ザル法」かどうかとは関係ない。必要がなければ長時間残業は発生しないからだ。

 有名な「すき家」のバイトの長時間残業の事例について城は、

 “すき家はバイトに長時間残業やらせようとしたらバイトが逃げて本社の正社員が駆り出されてそれでも回らなくて営業時間縮小に追い込まれたという話です。流動性こそが労働者の最大の武器という好例です。”

と述べている。この指摘は間違ってはいないが、持論の根拠として城が持ち出すのは実はおかしい。城繁幸の理論でいえば、そもそも「すき家」のようなところでは、最初から長時間残業など(ほとんど)発生しないはずだろう仕事が忙しいならすぐバイトを増やし、仕事が減ればすぐバイトを減らすだけのことだからである。

 終身雇用でもない中小企業やすき家バイトで過酷な長時間残業が発生しているということは、「終身雇用をやめれば長時間残業はなくなる」という城の主張そのものが破綻していることは明らかである。

 それでは、そもそもなぜ中小企業や「すき家」バイトで長時間残業が発生するのかといえば、それはただ、経営者が人件費(終身雇用でないのなら固定費ではなく変動費のはずだが)を抑えたがっているというだけのことだろう。経営者が悪徳だというよりも、市場競争や取引構造などの問題として見る方が良いと思われる。

 いわゆる終身雇用と残業の発生に大きな関係があるのは事実だろうが、終身雇用がなければ過労死や長時間残業が発生しなくなるという単純な問題ではない。

常見陽平ブログに思う:「政権選択」ではなく「不満の代弁者選択」の投票ではダメなの?

常見陽平氏が9月29日のブログ
私は見ての通りの左派で、反安倍で、反自民だ。親子三代にわたって自民党に入れたことがない。”
と書いていた。

 ここでいう「左派」の定義はともかくとして、今時は、こういう文章を見ると、すぐにいろいろな人から「自民党がダメなら、どこの党が政権を担当できると考えているか?」という反応が返って来そうではある。

 だがおそらく常見氏が「自民党に投票したことがない」というのは、「自民党以外の〇〇党に政権を運営してもらいたい」とか「××党に政権を委ねて、政策を実施して欲しい」という意味ではないだろう。(もし違っていたらご容赦いただきたいが)

 常見氏の深い考えはもちろんわからないが、私なりに勝手に推測させてもらうと、政権を選択する意図で投票するのではなく、政権に不満を意思表示する意図で投票するということではないか。

 私自身の記憶からいうと、ちょっと昔(具体的には小選挙区制導入前?小泉政権より前?または民主党政権成立前?)は、自民党に入れる人はともかくとして、野党に投票する人は、ほとんどが「政権選択」などという意識はなかったはずである。

それではどういうつもりで野党(たとえば旧社会党)に投票していたのかといえば、「お上に対して、自分の不満を代弁してぶつけてくれる者を選ぶ」という意識が大きかったと思う。

 比喩的にいえば、会社の経営者を選ぶのではなく、労働組合の委員長を選ぶような感覚である。

 労組の委員長は、会社の経営者にはならない。あくまで経営者に文句や不満や意見をぶつけるだけである。もちろん前向きな提案をすることもある。いっしょに会議をすることもある。ただし自分が今の社長を追い出して経営者になることまでは意図していない。

 そんな労組委員長に投票するような感覚で、野党に投票する人がいっぱいいたのだ。
(中選挙区制という制度は、そういう感覚と結びついていた。)

 それが今は、何でもかんでも政権選択ということになり、野党もそれに便乗するものだから、逆にいうと「政策を具体的に提示できない政党に投票するのはおかしい」とか、もっといえば「現在の政権に不満があっても、他に政権を取れる党がない限りは、現在の与党に投票すべきだ」という言説が普通に見られるようになってしまった。

 与党を明確に支持する場合は、もちろん問題はない。一方、与党に不満があって、どうしようかと思っている人の場合は…

 …「政権を選ぶ」ために投票するのではなく、「政権に対して不満をぶつける代弁者を選ぶ」ために投票するという考えではいけないのだろうか?

大山のぶ代が「老人ホームのジャイアン」に?

 「女性自身」に「大山のぶ代 『老人ホームのジャイアンに』 」という記事が掲載されていた。

 ドラえもんの声優だった大山のぶ代が、認知症を患って今では介護施設で生活しているということは割と知られているが、それにしても「老人ホームのジャイアン」とは一体どういうことだろうか?

 別人のようになって、粗暴になって暴力をふるったり備品を壊したりして周囲を困らせているのか、それとも変な声で歌を歌っているのか…などと考えながら記事を読むと、ごくごく無難な内容で、

 “現在、ホームではどんな生活を送っているのだろうか。

「認知症が進行していく半面、体調はどんどんよくなっているそうです。規則正しい生活のおかげで、最近は食欲旺盛。先日行われた定期健診でも、不調はまったく見つからなかったと聞いています」(前出・知人)

さらに、社交的な彼女は、すっかり“ホームの人気者”になっているという。

「ホームではちぎり絵教室や合唱の時間があるのですが、のぶ代さんは仲のよい友人たちと一緒に楽しく取り組んでいるそうです。彼女は“姉御肌”ですから、あれやこれやとみんなを仕切ってあげるのが上手。いわばリーダー的存在で、いまでは“ホームのジャイアン”になっています(笑)」(前出・知人)” (以上、上記記事より)

 …ということであり、「老人ホームのジャイアン」とは、みんなを仕切るリーダー的存在というくらいの意味だった。

 ただそれにしても、ただ単にリーダー的存在というくらいで「ジャイアン」という名前を使うのは、ちょっと疑問がある。「ジャイアン」といえば、「乱暴者」「弱い者いじめ」「下手くそな歌を歌う」というイメージが真っ先に思い浮かぶからである。そこで「大山のぶ代がジャイアンに」などというと、何事かと思ってしまう。

 記事の筆者は、単にドラえもんに引っかけて「ジャイアン」というキャラ名を使ってみただけかも知れないが、記事を読ませるために、わざわざ読者にショックを与えるようなタイトルを付けたのではないかと勘ぐりたくもなってしまう。

「終身雇用」をやめたいなら、まず内定式の段階から改めましょう

 まだまだ新卒一括採用を行う企業が多いこの日本では、10月初頭といえば、翌年に卒業を控えて企業に雇用される予定の大学生に対する内定式の季節である。

 弁護士ドットコムの記事で、いわゆるブラック企業の“求人詐欺”対策の観点から、内定段階で労働条件を明示させる必要性について、厚生労働省が「内定段階で労働条件を説明する義務がある場合もある」という見解を示したことが紹介されていた。

 労働基準法15条1項は、「使用者は、労働契約の締結に際し、労働者に対して賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない。」と定めている。

 そこで労働契約が「締結」されるのは具体的にいつの時点なのかが問題となってくるが、細かい議論は省くとして、内定段階でも既に何らかの労働契約が成立していると考えられるならば、労働条件を明示しなければならないということになる。

 要するに、内定をもらった後、実際に企業で勤務を開始するようになってから「こんな労働条件を聞いていなかった!ブラック企業に騙された!」などという問題にならないように、労働条件を内定段階で説明してもらうべきだ、という話である。

 さて、ここからが本題である。

 日本のいわゆる“解雇規制”緩和論者は、企業がより簡単に解雇できるようにしたいと考えているわけだが、まさにこういう時こそ出番であって、率先して企業に働きかけるべきだろう。

 企業が内定段階で労働条件を説明しなければならないとすれば、簡単に解雇できるようにしたい場合は、当然、解雇についてもしっかりと内定段階で説明しなければならないはずである。「どういう場合に解雇されるのか」は、重要な労働条件の一つだからだ。

 従って、仕事の出来が悪い者をすぐ解雇したい企業は、内定式の時に学生に向かって「仕事の出来が悪い人は、解雇します」と明言しておくべきだし、さらに不採算事業をすぐに切り捨てて整理解雇をできるようにしたい企業であれば、「特定の事業の業績が思わしくない場合は、個人の働きの善し悪しにかかわらず、解雇することがあります」とハッキリ説明しておくべきだということになる。

 さらに何よりも大切なのは「当社は、いわゆる終身雇用の制度はとりません」と断言しておくことである。

 (ここまでやっておいても、いざ解雇して訴訟となったときに会社側が絶対に勝てるという保証があるわけではない。しかし、少なくとも何もしないよりは勝つ見込みが高くなるだろう。)

 …このようなアドバイスを、解雇規制緩和論者たちは、企業に積極的に行うべきなのだ。

 もちろんほとんどの企業は、そんなことをしろと言われても困るだけだろう。
 しっかり長く働いてもらいたい前途ある若者に、そんな夢のないことを言うのは望ましくないと考えるだろうから、内定式では、「仕事の出来が悪ければ解雇します」とも言わないし、「会社業績が思わしくなければみなさんを整理解雇します」とも言うことはない。

 それどころか内定式では、長きにわたって会社で活躍し続けてもらう前提の話しかしないし、ほとんどの学生もそのつもりで入社の日を迎える。

 (しかもこういう会社のほとんどには定年制がある。定年制は「定年までは原則として解雇しない」ということが前提となっている。仮に個人の働きや会社の業績次第でいつでも解雇できる会社であれば、定年制は単なる不当な高齢者差別でしかない。仕事が出来ない者は、年齢と関係なく、仕事の不出来を理由に解雇すれば良いはずだからである。)

 そういうわけで,、どこの会社も、内定式の時に学生に向かって、整理解雇や成績不良による解雇の説明などすることはなく、ずっと勤めて昇進して定年までいられるような前提の話しかしないまま入社させていくから、実質的にみれば、「定年までできる限り長期間雇用を保証しようという暗黙の契約」(大竹文雄)が相変わらず毎年毎年新たに締結されていくことになる。

 そして一部の評論家たちは、いつまでも「国が解雇規制をしているから企業が全然解雇できない。労働市場が流動化せず、成長分野に人が流れない」などと騒ぎ続けるのである。

「リベラル」概念の混乱についての追記

 「リベラル」という用語の問題については先日の記事で触れたが、この「リベラル」概念については、欧州と米国の意味合いの違いがいろいろな専門家によって指摘されている。
 
 たとえば仲正昌樹『集中講義!アメリカ現代思想』の「アメリカ的な『リベラル』とは何か」の項を見ると(70ページ以下)

  ・米国は、もともと諸個人の政治的・経済的な自由を国家の基本原理としており、「自由主義者」であることをことさらに強調する必要もなかったので、ファシズムや復古主義や社会主義や共産主義との対比での意味で「自由主義者=リベラル」という呼称を使うことはなかった 

  ・しかし、1933年にローズヴェルトの大統領就任後、経済的弱者に対する福祉や、大規模な財政政策による雇用対策を通じての「欠乏からの自由」を重視する観点で、新しい「自由」観を主張する意味で「リベラル」と名乗るようになった。 

  ・よって、米国では、弱者に優しい「福祉国家・大きな政府」を志向し、社会主義あるいは社会民主主義に“より近い”考え方が「リベラル」と呼ばれる傾向が生まれた。

…という具合にまとめていて、これを「特殊アメリカ的な意味での狭義のリベラル」とも呼んでいる。

 また濱口桂一郞氏hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)でも、欧州と米国の「リベラル」概念の違いをかねてから強調しているところである。

 実際、たまにフランスなどの新聞を見てみると、Neoliberalismという言葉が、日本で言う「新自由主義」「市場原理主義」の意味で普通に使われている。

 たとえば少々古いが1998年、ピエール・ブルデューは、Le Monde Diplomatique紙に、L'essence du néolibéralisme(「ネオリベラリズムの本質」)という論考を寄せて、

“Qu’est-ce que le néolibéralisme ? Un programme de destruction des structures collectives capables de faire obstacle à la logique du marché pur.”
(ネオリベラリズムとは何か?純粋な市場の論理に対する障害となりうる集合的な構造を破壊するプログラムである)

とまとめている。

いずれにしても現代日本の「リベラル」概念は、米国の「リベラル」概念の系譜にあるということは間違いなさそうである。
 (ただし戦後の日本で「リベラル」が当初はそれほど広くは使われていなかったという点については、佐々木俊尚氏のブログ記事「日本の左派はいつから『リベラル』になったのか?が指摘しており、興味深い。)

 さて、現在の日本の状況を見ると、「リベラル」概念はさらに拡散しており、マスメディアでは、共産党までも「リベラル」に含める用法が広がっているようだ。

今回の選挙を控えた時点でメディアが使っている「リベラル」概念は、「9条護憲」「安保・自衛隊消極主義」を中核としたうえで、「消費税反対」「反原発」を混ぜて、安倍政権に反対する政治的立場を漠然と指す言葉のようになってしまっているように思われる。

(なお日本共産党と「リベラル」概念の関係については、余裕があればちゃんと調べてみたいところである。日本共産党は、少なくとも党の公式見解としては、自らを「リベラル」には含めないのではないか。
 むしろ歴史的には日本共産党は、「リベラル」という概念を、日和見主義とかブルジョワ自由主義、さらには「科学的社会主義を認める段階まではまだ到達できていない半端者」のような意味合いで考えてきたのではなかろうか。
 とはいえ、今の30代から下くらいの世代の人になると、「日和見主義」「ブルジョワ自由主義」などという用語自体が、訳の分からない古語としか感じられないかも知れない。 )

«結局、「リベラル」の定義って何なの?

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