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議員年金と生活保護

産経新聞の記事によれば:

自民党の竹下亘総務会長は14日の記者会見で、国、地方の議員年金が廃止された現状について「若くして国会に出てきた議員は、退職したら全員生活保護だ。こんな国は世界中にない」と述べ、見直しの必要性に言及した。”

…とのことである。

 つまり「議員をやめても収入がないと生活保護を受けざるを得なくなる。だから議員年金を復活させるべきだ」ということのようである。

 だが、言うまでも無く、生活保護だろうと、議員年金だろうと、どちらも国民の税金が財源であることに違いはない。

竹下氏の真意はこの記事だけではよくわからないが、敢えて解釈してみると、
 「議員が退職した後に生活保護を受けることになっても、給付の金額が足りなくて、生活が苦しい
ということだろうか。

 それなら生活保護の給付の水準を上げるべきということになるが、それは(元)議員だろうと、一般国民だろうと、すべて同じことである。

 退職後に議員がもらう生活保護が足りなくて困るというのなら、議員年金を復活させるのではなく、生活保護そのものを増額させるべきである。

 一方、別な解釈もできる。
 「生活保護は卑しく恥ずかしいものだ。そんなものを元議員がもらうことがあっては望ましくない
という意味かも知れない。

 国民の生存権を保障するための生活保護を、卑しく恥ずかしいものだと政治家が主張したなどとは考えたくないが・・・。

 

「選択的夫婦別姓」=「選択的夫婦同姓」である件

 サイボウズの青野社長が、選択的夫婦別姓を国が認めないことについて訴訟を提起するとのことである。毎日新聞の記事によれば:

日本人と外国人との結婚では同姓か別姓かを選べるのに、日本人同士の結婚だと選択できないのは「法の下の平等」を定めた憲法に反するとして、東証1部上場のソフトウエア開発会社「サイボウズ」(東京都中央区)の青野慶久社長(46)ら2人が、国に計220万円の損害賠償を求め、来春にも東京地裁に提訴する方針を固めた。”

毎日新聞の記事リンク先

 一般に、選択的夫婦別姓の議論で問題になっているのは「夫婦同姓か、夫婦別姓か」ではなく「夫婦同姓を強制するか(現状)、夫婦別姓も選びたい人は選べるようにするか」である。選択的夫婦別姓賛成派も、夫婦同姓を自分たちの意思で選ぶことを否定しているわけではない。

 言い換えれば、「選択的夫婦別姓」は、「選択的夫婦同姓」でもあるのだ。

 従って、「強制的夫婦同姓か、選択的夫婦同姓か」と言い換えることができるのである。

 そう、賛否は別として、現状の制度は「強制的夫婦同姓」なのである。もちろん自分の意思で喜んで同じ姓にする人は大勢いるのだろうが、制度としては他に選択の余地がないのだから、「強制」なのだ。

 良しとするかどうかにかかわらず、現状は、同姓にしなければならない以上は、「強制」があるということは改めて自覚しておくべきだろう。そのうえで現状を良しとするかどうかは、また別な判断である。

 「強制的夫婦同姓か、選択的夫婦同姓か」と言い換えれば、もう少し冷静に議論ができるようになるのではないだろうか。

日本で「二大政党制」など無理である件

日本の政治で自民党一強の状況を憂慮して、「二大政党制を目指すべきだ」と主張する声は昔からあった。

だが少なくとも当面のところ、日本の状況では二大政党制など所詮は机上の空論にすぎ ない。

まず「保守二大政党制」はどうかといえば、大きな「保守」がわざわざ2つ存在する理由などないというのがっ根本的理由になるだろう。

 よく言われるのが「大きな政府/小さな政府」の二大政党という主張で、三浦瑠璃あたりが言うのだが、これは米国の二大政党制の図式をそのまま直輸入したものである。

 米国の場合、アンチ連邦政府、自助努力重視という伝統が草の根レベルで昔からあるので、「小さな政府」の主張に大衆的な支持を得ることができる。

 日本ではそんな伝統はどこにもないのであって、むしろ行政と企業と社会がいろいろ密着して調整するという発想こそが「伝統」というべきである。社会福祉も公共事業もほとんどやらない「小さな政府」論など、一部の企業経営者や資産家や思想家以外には支持する人間はいないどころか、むしろ大衆から激しい反発を喰らうのではないか。
 大衆が支持しない路線の政党が「二大政党」の一翼を担うことなどできるわけがない。

 「大きな政府/小さな政府」以外では「保守」同士の対立軸など見つかりそうもないので、こう考えると保守二大政党論など実現性がない、絵に描いた餅であることがわかる。

 一方「左右二大政党」はどうかといえば、これは何をもって「左」とするかにもよるが、仮に社会福祉重視とか労働者保護重視ということになると、これも自民党がまったく無視しているわけでもないので、「自民党よりは相対的に福祉や労働者保護を重視する」というくらいになり、あまり大きな違いを出すことはできないのではないか。

 このように考えると、いずれにしても二大政党というものを日本で実現させることができる可能性はほとんど無いのではないだろうか。

 根本的には、自民党の守備範囲が広すぎ、曖昧で雑然としているので、何をやっても自民党とある程度は重複してしまい、吸い取られてしまうからである。

 自民党が自発的に分裂でもしない限り二大政党は無理だろう。そして自民党が仮に分裂したとしても、そのうちにまたくっつく可能性は高い。

 敢えて付け加えると、昭和の末期や平成の初期くらいは、まだ保守二大政党論に多少のリアリティは感じられた。小沢一郎あたりが強く主張していたことである。

 当時はなぜリアリティがあったかというと、自民党は今よりも各地域の農業その他各種業界との結びつきが強く、「古い利権構造」に立脚した政党とされていた。

 このため、より規制緩和・市場競争を推進し大都市圏住民の利害を強く反映させた政党を要望する声が強かったのだが、当時は自民党以外の選択肢は、実質的に社会党くらいしかなかった。そこで、資本主義を前提とする点は自民党と同じだが、より都市型、市場重視型の別な大型政党が必要だという声が広がって、それが保守二大政党論になり、また日本新党や新進党などの新党ブームにつながっていったのである。

 この流れが立ちきられたのは小泉政権時代であり、この時から自民党は、大都市圏を重視した政策も取り入れるようになっていった。

 保守二大政党論は、このように自民党が農業などを重視していた時代の名残にすぎない。またさらにいえば、左右二大政党論は、マルクス主義や社会主義に抵抗感がなかったもっと古い時代の名残だろう。

経済学者たちは終身雇用をどう説明してきたか

 日本の終身雇用についての経済学者の二冊の本をここで紹介しよう。

 一つは荒井一博『終身雇用制と日本文化 ゲーム論的アプローチ』(中央公論社)。 
 もう一つは大竹文雄『労働経済学入門』(日本経済新聞社)。  
 荒井『終身雇用制と日本文化』は1997年、大竹『労働経済学入門』は1998年に出ており、それぞれ似たような時期に書かれた著作ということになるが、読み比べてみるとその違いはなかなか興味深い。

 荒井本は、終身雇用制が試練にさらされて維持が困難になっていること、また多くの欠点があることを認めつつも、ゲーム理論や文化論の切り口から合理性があることを説き、手直ししながらも維持していくべきことを主張している。

 荒井は言う。
 “終身雇用制は、企業がそう簡単には解雇しないという期待を労働者に抱かせ、彼らの協力行動や組織忠誠心を引き出す制度である。したがって、もし企業がそれを突如として廃止して安易な解雇を行えば、暗黙の「契約」に違反することになる。”  
 このあたりは、私がこのブログで何度も述べてきたことに通じるものがある。
 ちなみにこの荒井本では「解雇規制」という言葉は使われていない。

 一方の大竹本は、後年ほど「解雇を自由化すべし」論を前面に打ち出しているわけではなく、比較的抑制された(と同時に突き放した)感じで現状を分析しているのだが、「解雇制限法は現在雇用されていない労働者の雇用機会を減らす」など、後の“解雇規制”緩和論の萌芽が既に見受けられる。日本企業が長期雇用をしている背景としては、大竹は様々な合理的要因とあわせて「解雇権濫用法理といわれる解雇不自由の法的状態」を挙げている。

 いずれにしても、経済学者たちは、かつては「日本企業は合理的な理由があって終身雇用をしている」と主張していたのに、いつのまにか時が経つにつれて、「日本企業は解雇規制で苦しめられて、やむなく終身雇用を強いられている」と主張するようになっていったわけだ。

 そして「企業が解雇規制で苦しめられている論」を全面的に押し出した本として有名なのが、上記の大竹文雄教授も参加している『脱格差社会と雇用法制』(日本評論社、2006年)であるが、これについては改めて述べたい。

ミクロ経済学が想定する労働の世界はクラウドワークだった!

専門外の経済学の話なので誤解があればご指摘いただきたいのだが、教科書的なミクロ経済学の世界で「労働市場」について考えてみると、概ね次の通りだろう。

 ここでは、労働者も企業も、賃金の金額だけを判断基準として行動し、いくらでも自由に労働力が移動することが前提となっている。(つまり賃金以外の他の条件は考慮しないという仮定に立つ。) どの程度の労働者が雇用されて、その時にどのような賃金の水準になるかは、労働力の需要と供給が一致するところで決まる。

 まず企業の行動(=労働力の需要)を考えてみると、賃金が上昇すれば、企業の中には雇えないところもでてくるので、労働力に対する需要が減り、下落すればその反対となる。

 次に労働者の行動(=労働力の供給)はどうかといえば、賃金が上昇すれば、働きたい人間が増えるので、労働力の供給は増え、下落すれば減少する。  

 このような労働力の需要と供給が一致するところが完全雇用の状態であり、これに応じた賃金が完全雇用をもたらす賃金ということになる。

 (ただしここでいう「完全雇用」というのは、およそ世の中の働きたい人間がすべて雇用された状態をいうのではなく、「その賃金で働きたい人間がすべて雇用される状態」を意味する点に注意。
  たとえば世の中に労働者が100万人いるとして、「賃金時給1000円、70万人」が労働の需要と供給の一致する点だとしよう。この場合、時給1000円以下で働く気のある人間は全員雇用されているので、「完全雇用」である。ただし時給1001円以上で働きたい人間(30万人)は雇用されることなく、あぶれる。逆に言えば企業の側も、時給999円以下でだけ雇用したいという企業は、誰も採用することができない。労働者が来なくなるからである。1000円以上で雇用できる企業は、すべて労働者を採用できる。)  

 これが経済学でいう最適な労働市場の状態なのであって、政府の介入は有害だというのが、純粋な経済学上の帰結である。
 たとえば政府が強制的に最低賃金が時給1500円になるように規制すると、999円以下でしか雇用できない企業に加えて、1000円~1499円までの範囲でしか雇用できない企業も、採用できなくなる。このため、雇用は70万人よりも減少してしまうというわけである。

 あくまでこれは様々な仮定を設定したうえでの理論上の世界であって、実際の雇用の世界と違うということは誰でもわかるところである。

 ところが近年、このミクロ経済学の想定する労働市場の世界に近い状況が生まれてきた。それが、いわゆるクラウドワークの世界である。

 クラウドワークでは、依頼者は、仲介企業の運営するウェブサイト経由で、一定の報酬を提示して仕事をしてくれる人を募集し、それに対して無数の人間が応募して、契約者が決まり、仕事をしてもらって報酬を支払う。 仮に提示した報酬が少なすぎて人が集まらないなら金額を上げるだろうし、その逆も成り立つ。そして1つ1つの仕事が終わればお払い箱となる。 クラウドワークで募集される仕事の内容は、自動車運転から記事執筆までいろいろである。

 いわゆる終身雇用が労働市場を硬直化させて資源の適切な配分を阻害する、という一部の経済学者の非難も、こういう世界を想定して初めて感覚的に理解できる。 クラウドワークの世界で、一部の人間だけが何十年も継続的な契約を保証されたら、確かにいろいろとおかしなことになる。

 解雇の徹底した自由化を主張する学者(たとえば福井秀夫教授や八田達夫教授)から見れば、終身雇用を原則とする日本企業は、一部の人間だけ終身契約をしている、歪んだクラウドワークのように映っているのであろう。

 もちろんここでは、今後すべての企業の職場がクラウドワークに近づいて行くべきだなどと主張する意図は一切ないので念のため。

«野党候補統一論って、実は有権者をバカにした発想では?

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