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2014年4月

労働者派遣法の「改正」の動き

 労働者派遣法の「改正」の動きについて、様々な立場の論者の見解をリンクしておく。

http://thepage.jp/detail/20140327-00000009-wordleaf

http://bylines.news.yahoo.co.jp/sasakiryo/20140314-00033545/

http://diamond.jp/articles/-/50094

 細かい議論は省くが、労働者派遣という制度が問題にされる一番の理由は、派遣社員の雇用が不安定だということである。派遣社員を雇用するのはあくまでも派遣会社(派遣元)であって、実際に勤務する職場の会社(派遣先)ではない。派遣先の会社は、派遣社員が不要になれば、派遣元との間の契約を終了させれば済むのであって、正社員のような解雇の手続きをとる必要はない。(ここでいう「正社員」とは、直接雇用されている社員という意味である。)

 このような問題への対応の仕方としては、一つには、派遣の利用そのものを規制し、本来ならば正社員に行わせるべき業務を安易に派遣社員にやらせることがないようにするということが考えられる。これは「常用代替の防止」と呼ばれ、基本的には現在の労働者派遣法の規制の根底にある考え方である。

 もう一つの対応としては、派遣社員の立場であっても、実質的には派遣先に雇用されているのと同じと考えて、派遣先に対しても雇用上の責任を負わせるようにするというあり方も考えられる。派遣先が「間接的」に派遣社員を雇用していると考えるのである。

 派遣社員の利用がここまで広がっている現在、派遣そのものを規制するよりも、派遣は派遣として、そのまま正社員と同様の保護を与えられるような法制を検討するほうが現実的で即効性があるように思われる。

「残業代ゼロ」一般社員も?

 朝日新聞の報道によれば、政府の産業競争力会議で、労働時間にかかわらず賃金が一定になる(つまり時間外割増賃金=残業代が不要な)働き方を一般社員に広げることが検討されているという。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140422-00000008-asahi-pol

 

 記事によれば、対象として、年収が1千万円以上など高収入の社員のほか、高収入でなくても労働組合との合意で認められた社員を検討しており、「社員本人の同意」を前提にするとされている。

 この記事だけでは具体性に欠けるので、現時点ではあまり立ち入ることはしないが、「社員本人の同意」が前提といっても、このような扱いに社員(労働者)が同意するとすれば、それは次の2つの場合しかありえない。

 ①この制度を適用することにより、現在よりも収入が増加する場合

 ②この制度の適用に同意しないと、様々な点で会社から不利益取扱を受ける恐れがある場合

①は、たとえば、現在の労働時間を前提にしたとして、基本給+時間外割増賃金よりも、この制度で適用される賃金の方が高くなる場合である。

②は言うまでもないだろう。出世や昇給に響くとか、そういう不利益である。

「日本の課長に元気がなくなった訳」といういい加減な記事

 雑誌『プレジデント』に、「日本の課長に元気がなくなった訳」という記事を鶴光太郎・慶大教授が書いている。

http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20140422-00012365-president-nb&recPos=3

 この記事では、

「かつて日本企業の現場を引っ張っているといわれた40代ミドルの多くが、現在は社内で活躍できず元気を失っているようです。」

と言っているので、かつて活躍していた「40代ミドル」が「元気を失った」という理由は一体何なのか、その具体的な分析が出てくるのかと期待して読み進めていくと、

「こうした40代ミドルの閉塞状況は、日本の雇用の構造的問題が背景にあります。」

といって、「日本的な雇用システム」の批判が始まる。

 しかし、「日本の雇用システム」なるものは、筆者が「かつて40代ミドルが活躍していた」としている時代から変わっていないはずで、同じ「日本の雇用システム」が続いているのに、どうして「40代ミドル」または「日本の課長」に「元気がなくなった」のか、その問いへの答えはどこにも書いていない。

 

 そして、いつのまにか、「40代ミドルをどうやったらうまく労働移動させられるか(労働移動できるか)」という問題に話がすり替わっている。

 最初から「日本の課長をどうすれば労働移動させられるか」という題名にするべきだろう。

 

 

パウル・ツェランと「敵の言葉」(?)

 20年ほど前のことになるが、パウル・ツェランの詩をいくつも読んだことがあり、ドイツ語の原書と訳書を揃えたり、雑誌「ユリイカ」のツェラン特集を買ったりした。

 ツェランを解説する文章で時々気になるのが、「ツェランは『敵の言葉』で詩を作った」という類いの言い方である。

 ツェランはユダヤ系で、戦争中ナチ・ドイツに迫害されて、自分も両親も強制収容所に送られた。自らは辛うじて生きのびたものの、両親は死亡している。その後、ツェランはドイツ語で詩を書いて世に知られるようになったそうだが、それを評してツェランにとってドイツ語が「敵の言葉」「殺人者の言葉」であったとして、そこに苦悩や逆説的なものを読み取る解説が時々目につくのである。

 たとえば最近では、中央大学教授の北彰という人が、

「母語がドイツ語であったツェランは、結果的にいわば「敵」の言葉で「詩」を書き、それを「敵」の言葉を読む者たちに届けることになったのである。何という逆説、何という矛盾だろうか。」

と述べている。(下記リンク先参照)

http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20140421.html

 ツェラン自身の苦悩や内面は知る由も無いが、ツェラン自身がドイツ語で生まれ育ち、ドイツ語で思考し生活する人だったことは間違いない。(上記の北教授もそれを前提に述べている。)そうだとすれば、ツェランがドイツ語を使って詩を作ることは当たり前のことであって「敵の言語で詩を作った」などという言い方で、特別な意味を読み込む必要はないように思う。

 迫害を生きのびつつドイツ語で作品や研究成果を残したドイツ系ユダヤ人はいくらでもいるわけで、そういう人たちについて、いちいち「敵の言語で著作をした」などと評して、それを特別視する意味があるのだろうか。たとえばホルクハイマーやアドルノについて、「敵の言語で論文を書いた」などという意味があるのか。さらにいえば、たとえばツェランがドイツ語でレストランで注文したら、「敵の言語で注文した」ということになるのか。

 このように、物事に過剰な意味づけを持ち込む解説というのは、いかがなものかと思う。

高齢者は「敵」?

 城繁幸が、サラリーマンの社会保険料の企業負担が増加していることを取り上げて論じている。

 具体的にいえば、平成17年以降の①「正社員の給与」と②「社会保険料の企業負担分」の推移を分析して、①と②の合計はあまり変わっていない一方、実際の内訳としては、②は年々上昇し、①は年々減少しているという。

 これは高齢化に伴う健康保険料や厚生年金保険料の増加が主な要因であるとして、城は、

 「会社が正社員一人に支払うコスト自体はほとんど横ばいではあるが、社会保険料が上昇し続けているため、じりじりと給与は減り続けているということだ。強欲な経営者でも資本家でもなくて、サラリーマンの目下最大の敵は高齢者ということになる。」

と結論づけている。

 

 「敵」というのはもちろん、城が想定しているであろう読者にアピールするための誇大な比喩だが、およそ費用負担を強いるものが「敵」であるなら、たとえば社会保険ではなく家庭内の不要で老いた親を養う場合、親は子の「敵」となるのであろうか。子どもの教育に費用がかかる場合、子どもは親の「敵」なのだろうか。

 「自分の親や子を養う場合はもちろん仕方無いので、『敵』と呼ぶのは妥当ではない。しかし世の中一般の他人の親や子までどうして面倒見なければならないのか。他人の親や子の面倒まで負担させられるなら、それは『敵』だ」ということなのかも知れない。

 そうなると、たとえば私立中学校に子を通わせる親たちにとって、公立中学校にかかる税負担はすべて余計なものだから、公立中学校に通う生徒たちは「敵」なのだろうか。城繁幸の理屈では、当然そういうことになる。

国民の憲法尊重義務?

自民党の憲法改正草案の102条に、国民の憲法尊重義務が定められており、このことが批判を呼んでいて、「近代憲法の本質を崩壊させるものだ」という論評もある。

近代憲法は、国家権力の行使を制限して国民の権利と自由を守るためのものとされており、この観点から、一般的には、憲法を尊重し擁護する義務を負うのは国家の側、すなわち公務員であり、国民にはそのような義務はないとされている。

ただ、「近代憲法」において、国民にも憲法尊重義務を課した例がないわけではない。古くはフランスの1791年憲法にそのような定めがあり、現代でもドイツ基本法は、国民に憲法忠誠義務を課している。もちろんドイツの場合は、ナチズムの経験と共産圏との対決を踏まえた、いわゆる「戦う民主主義」の思想に基づくものである。

そこで問題は、国民に憲法尊重義務を課すること自体の善し悪しというよりも、国民に憲法尊重義務を課するとすれば、その趣旨・目的が何なのかということであろう。

自衛隊違憲論と憲法9条と98条

 今は目立たなくなってしまったが、一昔前は、マスコミでも政治家の発言でもそれなりに「自衛隊違憲論」を目にする機会があった。そして憲法学者の世界では、今も自衛隊違憲論が有力である。

 では、自衛隊違憲論の立場に立つ場合、どうするべきか。憲法に違反する法令や国の行為は効力を有しない(憲法98条)ということを念頭におくならば、次の2つの選択肢が考えられる。

①違憲だから自衛隊は廃止すべきである

②違憲だから違憲状態を解消するために憲法9条を改正すべきである

 ①は非常に明快だが、これを本当に実現するとなると、自衛隊廃止をいったん決定したあとは、その翌年の自衛隊関連の予算は、自衛隊の廃止に伴う各種の処理に必要な費用(自衛官の転居・再就職とか、各種兵器や物品の処分とか)だけに限定する等の急速かつ徹底した取り組みが必要になるだろう。

 ②も明快であるが、これに対しては「理想を現実に合わせるのはおかしい。現実を理想に合わせるべきである。すぐには理想を実現できないとしても、いつかは実現できるように頑張るべきである。」という批判があるかもしれない。

 それではその理想がいつ実現できるかということになるが、上記の①のように、翌年とかそれに近い短期間内にもすぐ自衛隊を廃止するというのならまだしも、10年とか50年とか80年先というのであれば、その間は「違憲」の状態が続くことになる。違憲の状態が何十年も続いても良いのかということが次に問題になる。

 そして、実際には10年後とか50年後とかの具体的な将来の時点に自衛隊の廃止目標を設定するのも難しいので、結局、上記の「いつかは理想を実現できるように頑張るべき」論は、

 ③違憲だが、自衛隊の廃止は近い将来には無理だし、かといって9条を改正してしまうとそれはそれで歯止めがなくなって弊害も大きいから、今の状態のままで自衛隊を所持していけば良い

…という立場に落ち着く。

 これは、はっきり明言はしないものの、「自衛隊は違憲でも良い」「違憲のまま(日陰者として?)存在していてくれれば良い」ということである。とある憲法の研究書で、名前は忘れたが、ある学者が「憲法9条は、政府の裏切りを最小限に抑えるためにも今のままにしておくべきである。」という意味のことを書いていたが、これも言い換えれば結局は③の立場であろう。

 しかし、この③の立場は「自衛隊は違憲のままでもうまく所持してコントロールすれば良い」ということである。違憲(=効力を持たない)であるはずの自衛隊を国家が所持して良いというのは、立憲主義の論理としては破綻している。ただ、論理としては破綻していても現実の落としどころとしては確かに悪くはないように思える。

 戦後、今では考えられないほど「自衛隊は違憲」という主張が目立っていた時代、実はこの③のように考えている人が比較的多数派だったのではないか。しかし「自衛隊は違憲だが憲法9条は今のままで自衛隊を所持していこう」というのは、それ自体が「憲法に違反する法令や国の行為は無効」という憲法98条を無視する考えである。憲法9条を守るために憲法98条を破り続けてきたということになる。

 98条は立憲主義にとって重要な条文であって、「自衛隊は違憲だが、まったく無しにするのも当面難しいので、 日陰者扱いで所持していこう」というのは、平和主義の立場からはともかくとして、立憲主義の立場からはかなり異常な発想である。

 いうまでもなく「自衛隊合憲論」というのもあるが、それについてはまた機会を改めて考えてみたい。

集団的自衛権と憲法(3)

NHKのサイトの記事によれば、集団的自衛権に関する動きをきっかけに、様々な分野の学者が、「今の政治状況は憲法が権力を縛る『立憲主義』の考え方から離れている」として、「立憲デモクラシーの会」を発足させたという。

この「立憲デモクラシーの会」がホームページを既に立ち上げたのか見ようと思って検索したところ、内田樹教授のブログが目に入った。内田教授もメンバーのようである。

その中の最近の「法治から人知へ」というエントリーでも、最近とみに立憲主義がないがしろにされ、憲法の条文が軽んじられて遵守されず、政府の恣意的な解釈変更や変動する世論によって踏みにじられている・・・という視点に基づいた文章がつづられていた。

内田教授は、エントリーに、あと一言付け加えるべきであった。

「今の憲法では、集団的自衛権の行使はできないはずである。どうしても認めさせたいのなら、正規の手続をふんで憲法を改正せよ。」と。

一般的に言って「Aという政策は、憲法に違反している。解釈改憲はダメだ」という主張は、「どうしてもA政策をやりたいのなら、ちゃんと議論して、憲法を改正するべきだ。」という主張を必然的に伴うものである。

そのAという政策が仮に国民の大多数に支持されているならば、結局のところ、その政策が行われるのを阻止するのは極めて困難であって、そうなってくると解釈改憲でA政策を行うか、憲法を改正してA政策を行うかという違いでしかない。

解釈改憲なら、立憲主義はおびやかされるが、憲法の条文そのものは残る。憲法改正をするならば、憲法の条文は変わってしまうが、立憲主義は守られる。そのどちらを取るのかということになってしまう。

集団的自衛権が、このような状況にまで至っているのかどうかはわからないが、いずれにしても「今の憲法ではこの政策はできない。無理して解釈改憲するのは許されない」と主張することは、結局のところ憲法改正に脚光を浴びせることになるのである。

配偶者控除の廃止問題(2)

 産経の【金曜討論】で、配偶者控除の廃止問題について、駒崎弘樹と萩原博子が賛否の意見を述べているので、これについて簡単にコメントしたい。

 駒崎は廃止賛成の立場だが、ここで引っかかったのは次の発言である。

>既婚女性の所得分布を内閣府のデータで見てみると、103万円を意識して仕事を抑えて

>いる人が明らかに多数いる。制度としてはともかく、103万円の心理的な壁は相当に高いといえる。

>税制には人の行動を変える力があり、配偶者控除の廃止は心理的な壁の撤廃になる。

 103万円の心理的な壁は確かにあるだろうが、配偶者控除の廃止によってその壁がなくなった場合に働くようになる女性の年収は、まず間違いなく103万円とそれほど変わらないレベルだろう。前回の記事で検討したように、せいぜい110万円とか120万円とか160万円程度と思われる。その気になれば600万円や1000万円を稼げるような女性は、「103万円の心理的な壁」を気にして働くのを控えるとは考えられない。

 なお次の発言で駒崎は「ガラスの天井」という言葉を使っている。

>女性の就労を制限するガラスの天井を突き破り、増えた税収を女性が活躍できるインフラに投資していくことが大事だ。

 しかし本来、「ガラスの天井」とは、女性が仕事で優秀な業績を上げても様々な差別や障害により一定限度以上は昇進や昇給が頭打ちになる状況を指す言葉である。職場では一見男女平等の扱いがなされているように見えても、表にあらわれてこない差別等のために出世が妨げられるからこそ、「ガラス(=透明、目に見えない)」という言い方がされる。

 要は「ガラスの天井」というのは、「女性」が男性並みに努力しても報われないような事例を指すために使う言葉なのであって、年収103万円の仕事についている人が年収104万円以上分働くのを差し控えるような事例を想定した言葉ではないのではないだろうか。

配偶者控除の廃止問題

 「配偶者控除は女性の社会進出を妨げるから廃止すべき」という論調があちこちで目立っている。(ここでは、夫が働いて妻が主婦をするという多数の家庭のパターンを念頭におく。)
 よく報道される通り、妻が働いて給与収入を得る場合、年収が103万円を超えると、配偶者控除の対象ではなくなり、夫の課税額が増えるので、世帯全体の手取りベースの収入が逆転して減ってしまうということで「103万円の壁」という言葉がある。
そこで主婦たちは、「年間の給与が103万円を超えるほどまでは働かないようにしよう」と考えるというわけである。
 (社会保険料や配偶者特別控除なども含めると「130万円の壁」「141万円の壁」という言葉もあるようだが、ここでは議論を簡単にするため省略する。)

 一方、妻がさらに働いて収入をもっと増やせば(たとえば400万円とか600万円)、配偶者控除を受けなくても、妻の収入そのものが多くなるので、世帯全体の手取りベースの収入はまた増えることになる。
この再逆転ラインは、各種報道を見るといろいろな試算の仕方があるようだが、とりあえず160万円程度と仮定しよう。

 さて、配偶者控除を廃止するとどうなるか、場合を分けて検討してみよう。

①現在既に年収160万円(再逆転ライン)分以上働いている層
 この層は当然、何の影響も受けない。もともと配偶者控除の恩恵を受けていなかったから、廃止によるメリットもデメリットも受けないはずである。敢えて言えば、この層の中には今まで配偶者控除を快く思っていなかった人もいるだろうから、そういう人たちの気分が良くなるくらいが“メリット”ということになるのかも知れない。

②年収103万円以下の範囲で働いている層
 この層は、意図的に収入を抑える意味はもはやなくなるので、もっと働いた方が「得」だということになる。これを「配偶者控除の廃止によるメリット」と呼んで良いのかどうかはわからない。働きたいのに我慢していた人にとっては確かに「メリット」だろうが、無理に働きたくなくて渋々少しだけ働いていた人にとっては「デメリット」(=もっと働かねば手取り収入が減ってしまう)になるからである。
さて、この層(年収103万円以下)の人たちが従来よりも働くようになったとして、その収入はどの程度になるだろうか。少なくとも年収600万や1000万になることはまず無いだろう。そんな高収入を得られるくらいなら、今でも(配偶者控除など受けなくても良いので)それだけ働いていて、①の層に入っているからである。
結局のところ、今まで103万円でやっていた人が160万円分働くとか、今まで年50万分働いていた人が年90万円分になるとか、そういうレベルの変化しかないだろうと推測できる。つまり身も蓋もない言い方をするならば、低賃金労働の供給が増えるというだけのことである。

③現在は働いていない層
 この層は、何もしないでいれば、配偶者控除の廃止によって世帯の手取り収入が従来より明らかに減ってしまう。そこで、収入を維持するためには働きに出なければならない。それでどのようなレベルの収入の仕事につくかが問題だが、単純に考えると、「配偶者控除の廃止による手取り減を補う程度だけ働く」というのが最も合理的ということになるだろう。つまり働く程度は非常にわずかということになる。その気になれば年収600万円や800万円を得られる能力がある専業主婦も中にはいるだろうが、そういう人は今現在でも既に働いているのが大半だろう。

 こうして見てみると、配偶者控除廃止が「女性の社会進出を促す」というのは、正確には「低賃金・定収入で働く(働かざるを得ない)女性を増やす」ということでしかないように思われる。もちろん政府として本当に目指しているのは、女性の社会進出ではなく単に税収を増やすということであろう。税収を増やすのが目的というのならば、配偶者控除の廃止はもちろん“正しい”政策である。

集団的自衛権と憲法(2)

政府は、憲法解釈を変更して、集団的自衛権の行使を可能にしようとしている。
これはいわゆる「解釈改憲」であって、憲法の条文を改正しないまま、解釈を変えるだけで、実質的には改正したのと同じような効果を得ようとするものである。

これに対する批判として、
「憲法の解釈を政府の都合でむやみに変更するのは立憲主義を損なうものだ」
という主張がなされているのも周知の通りである。

憲法は基本的人権を保障する最高法規であって、法律よりも強い効力を持つ。
憲法に反する法律や行政行為等は無効とされるのだが、それにもかかわらず、その憲法の解釈が政府の都合で安易に変更されたのでは、憲法が最高法規として機能しなくなってしまうからである。

だからこそ、「集団的自衛権を行使できるようにしたいからといって、憲法解釈を変更してはならない」という主張がなされている。
それは当然、「今の憲法では集団的自衛権の行使は不可能である」ということが前提になっている。

しかし、話はそこでは終わらない。
「なるほど、憲法の解釈を安易に変更してはいけない。しかし集団的自衛権の行使を可能にする必要があると思う。それではどうすればよいのか。」と質問されたらどう答えるか。

解釈改憲が許されないということは、集団的自衛権の行使をしたいのなら、憲法改正の手続を取らなければできないということである。
「解釈改憲はダメだ」と主張することは、「やりたいなら憲法改正の手続をしろ」ということに他ならない。
(「実際に憲法を改正しろ」ではなく「憲法改正の手続をとれ(最終的には国民投票で国民の意向を問う)」ということである。)

問題は、解釈改憲に反対している人のほとんどは、おそらく憲法改正(9条の改正)にも反対だろうということで、そこにジレンマがある。
解釈改憲に反対すれば反対するほど、憲法改正手続の必要性を図らずも国民にアピールすることになりかねないからである。
(もちろん憲法改正の手続をとったからといって、その結果として実際に憲法が改正されるとは限らないが。)

集団的自衛権と憲法

ご存じのとおり、安倍首相のもとで政府は、集団的自衛権を行使できるようにするために従来の憲法解釈を変更しようとしている。これについて様々な賛否の議論が持ち上がっているが、反対論の一つの形としては、「集団的自衛権の行使は憲法違反だ」という主張がある。

それでは、仮に集団的自衛権の行使が憲法違反だとした場合、現在の自衛隊のあり方(つまり個別的自衛権の行使を前提とする)は、逆に合憲なのだろうか。

ここで簡単に整理してみよう。

①まず、「個別的自衛権の行使ならば合憲だが、集団的自衛権の行使は違憲だ」という立場がある。これはこれでわかりやすい。

②次に、「個別的自衛権の行使は違憲であり、集団的自衛権の行使も違憲だ」と主張する立場もある。いわゆる自衛隊違憲論の立場である。

これは、集団的自衛権を行使さえしなければ良いというのではなく、現在の自衛隊のあり方も憲法違反だという主張であり、最近はほとんど目立たなくなってしまったが、かつて(昭和時代や平成初期頃?)は割とマスコミでも日常的によく見られた主張であった。

ところで、自衛隊の存在が違憲だというのなら、その自衛隊を使って集団的自衛権を行使するとしても、もともと違憲であることに何も変わりはない。違憲であることは今に始まった話ではないからである。

つまり、自衛隊違憲論の立場からいえば、集団的自衛権を行使しようがしまいが、前から違憲だったのだから、今さら「違憲だ」と主張することにどのような意味があるのかということになる。

(ただし念のため断っておくと、憲法論ではなく政治的な議論として「集団的自衛権行使は危険だ」というのなら、それはそれで意味がある。「どちらも違憲であることには違いはないが、リスクの度合いが違う」という主張が成り立ちうるからである。)

この集団的自衛権と憲法の関係については、もう少し考えてみたい。

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