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パウル・ツェランと「敵の言葉」(?)

 20年ほど前のことになるが、パウル・ツェランの詩をいくつも読んだことがあり、ドイツ語の原書と訳書を揃えたり、雑誌「ユリイカ」のツェラン特集を買ったりした。

 ツェランを解説する文章で時々気になるのが、「ツェランは『敵の言葉』で詩を作った」という類いの言い方である。

 ツェランはユダヤ系で、戦争中ナチ・ドイツに迫害されて、自分も両親も強制収容所に送られた。自らは辛うじて生きのびたものの、両親は死亡している。その後、ツェランはドイツ語で詩を書いて世に知られるようになったそうだが、それを評してツェランにとってドイツ語が「敵の言葉」「殺人者の言葉」であったとして、そこに苦悩や逆説的なものを読み取る解説が時々目につくのである。

 たとえば最近では、中央大学教授の北彰という人が、

「母語がドイツ語であったツェランは、結果的にいわば「敵」の言葉で「詩」を書き、それを「敵」の言葉を読む者たちに届けることになったのである。何という逆説、何という矛盾だろうか。」

と述べている。(下記リンク先参照)

http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20140421.html

 ツェラン自身の苦悩や内面は知る由も無いが、ツェラン自身がドイツ語で生まれ育ち、ドイツ語で思考し生活する人だったことは間違いない。(上記の北教授もそれを前提に述べている。)そうだとすれば、ツェランがドイツ語を使って詩を作ることは当たり前のことであって「敵の言語で詩を作った」などという言い方で、特別な意味を読み込む必要はないように思う。

 迫害を生きのびつつドイツ語で作品や研究成果を残したドイツ系ユダヤ人はいくらでもいるわけで、そういう人たちについて、いちいち「敵の言語で著作をした」などと評して、それを特別視する意味があるのだろうか。たとえばホルクハイマーやアドルノについて、「敵の言語で論文を書いた」などという意味があるのか。さらにいえば、たとえばツェランがドイツ語でレストランで注文したら、「敵の言語で注文した」ということになるのか。

 このように、物事に過剰な意味づけを持ち込む解説というのは、いかがなものかと思う。

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