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2014年5月

共産圏を知らない子どもたち

 1989年頃から、ベルリンの壁の崩壊に象徴されるように、東ヨーロッパの旧共産圏諸国が次々に体制変革を経ていった。この動きの末に1991年にはソビエト連邦解体にまで至っている。現在でもキューバや北朝鮮のような国はあるものの、いわゆる「共産圏」は1991年頃までに消滅したわけで、共産圏というものをまったく知らない世代が既に23歳になっているということになる。「戦争を知らない子どもたち」ならぬ「共産圏を知らない子どもたち」である。

 共産圏が存在した時代を知らない世代にとってみれば、中華人民共和国は共産主義国家というより「共産党という党が強権政治をしつつ経済成長著しい資本主義国家」であり、北朝鮮は金一族が独裁政治をしている閉鎖的で腐敗した国であり、キューバは何だかよくわからない存在でしかないだろう。

 共産圏とか社会主義諸国についてのイメージ(最近は「表象」と呼ぶのが人文社会の研究者たちの間のならわしらしいが)は、ずっと変動してきた。資本主義諸国の労働者にとっての憧れの国であったり、アメリカに対する対抗馬であったり、「本来の理想の社会主義とは違う国」であったり、官僚的で不自由な国であったり、時期や立場によって様々であったが、いずれにしても「日本や欧米の資本主義とは違う体制の国々の世界」がそこに存在しており、どのように評価するにしても、とにかくその存在を前提とした上で世界を見るしかなかった。 

 上に書いたとおり現在23歳以下の世代は、そもそも生まれた時点で共産圏が既に存在しなかった世代だが、さらにいえば、現在30歳の人は、物心ついた頃に共産圏の消滅が始まった世代であり、現在40歳の人は、中学に進学して少したってから共産圏の消滅が始まった世代ということになる。

 共産圏の存在を前提として世界(と日本のあり方)を考える経験があった世代と、そのような経験がそもそもない世代とでは、いろいろな面で、大きな感覚のギャップがあるように思われる。

 

 

 

犯罪予防に役立たないなら刑罰は不要なのか?

 刑法の教科書を見ると、どれも「刑罰制度の目的は犯罪予防である」等と書かれている。このような考え方を「目的刑論」と呼び、現在では主流の考え方である。犯罪予防には「一般予防」と「特別予防」があるとされる。 論者によってニュアンスの違いはあるが、刑罰制度によって社会一般の人間が犯罪を犯すのを(できるだけ)抑止することが「一般予防」であり、犯罪を既に犯した人間が再犯するのを(できるだけ)抑止することが「特別予防」である。  

 ところで、犯罪予防が刑罰の目的だとすれば、犯罪予防に効果が無い刑罰は科するべきではないのだろうか。 ここで純粋な思考実験として、以下の仮定をおいてみよう。

①すべての人間は、一生の間に犯罪を二回以上は決して行わない。犯罪をする回数は、ゼロ回か一回のいずれかである。

②ある人間が何らかの犯罪を犯すかどうかと、刑罰制度とは、一切関係がない。

①は特別予防が成り立たないという仮定であり、②は一般予防が成り立たないという仮定である。 目的刑論の立場に立つならば、上記の仮定が成り立つような社会では、刑罰は犯罪予防に役立たないのだから、刑罰に存在意義はなく、どのような凶悪・重大な犯罪を犯した人間に対しても、一切刑罰を科するべきではないということになる。通行人100人を惨殺した人間にも、鉄道やビルを爆破した人間にも、いかなる刑罰も加えてはならず、死刑だけでなく、懲役刑も罰金刑も科するべきではないということである。

 刑罰を科しても科さなくても犯罪予防の効果に何の違いもないのなら、いっさい刑罰なしで問題ないではないかと言われれば、反論するのは難しいように思えるが、果たしてそれで良いのかどうか。感情的には納得しがたいようにも思えるが、それは単なる感情論でしかないのだろうか。いずれ機会を改めてまた考えてみたい。

配偶者控除廃止は「働きたくない女性を働かせる」政策

 配偶者控除を廃止すれば、良し悪しはともかくとして、全体の傾向としては、女性が従来よりも「働く」ようになることは間違いないだろう。年収80万や100万で抑えていた女性は、そのままでいたら世帯全体の手取りが減ってしまうから、従来よりも働いて収入を上げるしかなくなる。専業主婦も、世帯全体の手取り減をカバーするために、同様に新たに働きに出る場合が多々出てくるだろう。(ただし保育所の不足などの理由で、働きたくても働けないケースがある。)

 これは、「働きたい女性を後押しする」政策なのだろうか。もちろん違う。バリバリ働きたい女性は今でも既に十分働いていて、配偶者控除の対象外になっているからである。(繰り返すが、働きたくても働けない事情がある場合はここでは省略。)

 配偶者控除の廃止は、「働きたくない女性を無理に働かせる」政策というべきである。無理に働きたくないのに、控除が廃止されて増税され手取りが減ってしまうので、それを補うためにやむなく働くようになる。ただそれだけのことである。 

 

 

成熟分野から成長分野への人材の「流動化」

 「余剰人員があふれている“成熟分野”から、人手不足になっている“成長分野”に、人材を移動させるべきだ」「人材流動化を促進すべきだ」ということを経済学者や経済ジャーナリストがよく口にする。

 人手不足になっている“成長分野”とは何かといえば、いろいろな見解があるだろうが、急ピッチで出店を増やしてきた「すき家」などは、まさに成長分野の企業の一つであると言わなければならないだろう。

 その「すき家」の店舗が人手不足で次々に閉店に追い込まれているということである。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK14035_U4A510C1000000/?dg=1

http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/business/20140515k0000m020084000c.html

  ここで、たとえば大企業で余剰人員となっているようなホワイトカラーとか中間管理職とかがリストラされて失業し、再就職して「すき家」の店員になるとすれば、それはまさに経済学者などが推奨するような「成熟分野から成長分野への人材の流動化」ということになる。

これは別に皮肉や批判で言っているわけではなく、盛んに叫ばれている「人材の流動化」というのは、まさしくそういうことだというだけであって、何の綺麗事でもないのである。

今こそ護憲派は、国民投票を要求して戦うべき

 いわゆる護憲派は、集団的自衛権の行使を「憲法解釈の変更」だけで行うという手法を批判している。

 まず問題とされているのは、集団的自衛権の行使そのものの善し悪しというよりも、「憲法解釈の変更」だけで集団的自衛権を行使できるかということである。

 そうだとすれば、護憲派は、まず、「憲法を改正しなければ集団的自衛権の行使はできない」ということを、もっと全面に打ち出さなければならない。 

 一般に、政府が重大な政策の変更を行う時は、解散や総選挙で民意を問うことが要求される。まして、集団的自衛権を行使するというのは、きわめて重大な政策変更であるばかりか、現行の憲法で認められるかどうかについても重大な争いがある問題である。

  そうだとすれば、まずは民意を問わなければならないはずである。それも、単なる選挙ではなく、憲法改正の是非を問わなければならない。

  護憲派は、政府に要求すべきである。

 「集団的自衛権を行使したいのなら、憲法改正手続が必要だ。憲法改正の是非を問うて解散、総選挙を行え。そして衆参両院で2/3以上の議席を獲得したなら、国民投票にかけよ。もちろんわれわれ護憲派が憲法改正を阻止してみせる」と。 

 しかしなぜそのように堂々と主張する護憲派がいないのであろうか。パンドラの箱を開けてしまうことを恐れているのか。「ひょっとしたら本当に憲法が改正されてしまうかも知れない。下手なことを言うとヤブヘビになる。」と思っているのだろうか。

 

 

 

 

 

集団的自衛権と憲法(4)

 政府の憲法解釈を変更することで、集団的自衛権を行使できるようにするということは、いわゆる解釈改憲であるが、逆にいえば、憲法9条の条文そのものは改正されずに残るということである。

 安倍政権の公式見解としては、「憲法9条に違反して集団的自衛権を行使しても良い」と言っているわけではなく、「集団的自衛権を行使しても(一定の前提条件つきで?)憲法9条に反しない」ということであろう。

 そのような憲法解釈の変更はおかしいという立場からすれば、「どうしても集団的自衛権を行使したいのであれば、ちゃんとした議論と手続をふんで、憲法を改正するのが筋だ」ということになる。 

 しかし、ここでシニカルな言い方をすれば、いわゆる護憲派の立場からみても、「仮に、どう転んでも政府の集団的自衛権行使を阻止できないのだとすれば、憲法9条が改正されずに残るぶんだけ、解釈改憲の方が、本当の改憲よりもマシだ」という考え方がありうるかも知れない。9条が残っていれば、一応は何らかの歯止めにはなりうるからである。(私自身の9条改正の是非についての考え方は、また別な機会に説明したい。)

 

「女性の躍進」とは、女性の低賃金労働者が増えること

【経済裏読み】「配偶者控除廃止」議論の薄っぺらさ 「女性躍進」で得るもの、失うもの

http://www.iza.ne.jp/kiji/economy/news/140418/ecn14041808000002-n1.html

 先月の記事になるが、例の配偶者控除の廃止案については、 「女性の躍進」というスローガンがやたら使われているようである。3月に開かれた政府の経済財政諮問会議と産業競争力会議の第一回合同会議によれば、

 ・・・「安倍政権発足以降、女性の活躍推進についての大きなムーブメントが起きていることは誰もが実感している。まずは女性を代表して感謝申し上げたい」。女性起業家のパイオニアとして知られる民間議員の秋山咲恵・サキコーポレーション社長は会議でこう謝意を表明。「『女性の敵は女性』といわれたような女性の働き方にかんする価値観論争に終止符を打てるような強いメッセージを伴う政策が必要だ」と訴え、配偶者控除のほか、3号被保険者制度の抜本的な見直しを求めた。・・・

 ・・・元総務相の竹中平蔵・慶応大教授は「女性の躍進には、配偶者控除、3号被保険者制度の問題を解決しないと先に進めない」と援護射撃。・・・

 ということのようである。

 しかし、以前書いたことの繰り返しになるが、配偶者控除を廃止して働くようになる女性がつく仕事は、従来から言われていた「年収103万円の壁」を多少超えるレベルの仕事でしかない。社会保険や夫の会社の家族手当等も考慮して、「年収130万円の壁」「141万円の壁」などという見方もあるようだが、いずれにしても大差ない。

 年収104万円や131万円の仕事といえば、低賃金労働であり、パートやアルバイトである。

 要するに、「女性の躍進」とは、女性の低賃金労働者が増えることであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 つまり配偶者控除の廃止を求めて「女性の躍進」を実現したいと言っている人たちは、女性にどんどん低賃金で働いてもらいたいと言っているのである。

 このことは強く主張しておきたい。  

少年犯罪と「厳罰化」

 このたびの少年法改正で、少年に対して科される有期刑の上限が20年にまで引き上げられた。

(参考) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140509-00000003-wordleaf-soci&p=1

 これを「厳罰化」と呼ぶか「適正化」と呼ぶかはともかくとして、この背景にあるのは、いうまでもなく、重大な犯罪を犯した少年にはそれに見合った重い刑を科するべきだという考え方である。 

 しかしここで注意しなければならないのは、「少年の人権を尊重すべき」とか「厳罰で犯罪は防げない」とか「処罰よりも健全な育成こそが重要」とかいう抽象的な反論ではなく、もっと直接的な問題として、凶悪犯罪を行った少年も、死刑や無期刑になる場合を除き、いつかは必ず社会に戻ってくるということである。 

 たとえば17歳や18歳の少年が、その成長期に、(仮釈放がないとして)15年や20年の間、刑務所でずっと過ごすとしたら、果たしてどのような人間に育つであろうか。そして、そのような人間が刑期を終えたあと、社会に戻ってくるのである。

 このような長期間の刑罰によって社会が受けるリスクというものも考えて制度を設計すべきであろう。

残業代ゼロ提案・城繁幸氏の大間違い

 産業競争力会議で示された、例の「残業代ゼロ提案」の規制緩和問題について、城繁幸氏が見当違いなことを書いている。

 残業チキンレースにそろそろサヨナラしよう!  http://bylines.news.yahoo.co.jp/joshigeyuki/20140425-00034778/

 この中で城氏は、「そもそも労働時間で給料を決めること自体が時代遅れ」と言っているが、現在の労働基準法の時間外割増賃金は“労働時間で給料を決める”制度ではない。労働時間で給料を決めるのは、いわゆる時給制であって、コンビニやファストフードの店員によく見られる制度である。
 現在問題にしているのはホワイトカラーであるが、ほとんどのホワイトカラーは時給制ではなく、労働時間そのもので給料が決まっているわけではない。

 残業代とは、労働時間で給料を決める制度ではなく、一定の法定労働時間(一般的には1日8時間)を超えた場合に、使用者に対するペナルティとして割増賃金を払わせる制度にすぎない。

 なぜこのようなペナルティがあるかといえば、労働者の健康や生活のため、法定労働時間を定めて上限を規制し(例外というか抜け道はある)、それを超えた場合のペナルティとして、割増賃金の支払いを使用者に義務づけているのである。

 城氏は、
  「おそらく、多少手取りが減ったにしても、エンドレスな残業チキンレースはやめて定時で帰れればそれでいいという人の方が多いのではないか。 みんなが「労働時間=賃金」という発想を捨てれば、無駄な残業時間は間違いなく減るはずだから、時間当たりの賃金は上がることになる。その上で、各自が時間ではなくホワイトカラーとしての実のある成果に注力することが、日本人の低迷する生産性を引き上げる鍵だろう。」
 というのだが、これは今の法制度でも十分可能である。仕事の効率が良くて1日8時間未満で仕事が済んで成果を上げられる人がいるなら、そういう人をそれぞれの会社がそれなりに給料で不利にならないように(あるいは有利になるように)評価する制度にすれば良いのであって、これは法改正など必要ない。「仕事が8時間未満で完了して退社する場合でも賃金が減らないようにする」というのは、各企業が自由にやれるのである。

 今問題となっている規制緩和は、これとはまったく別次元の問題であって、仕事が多くて1日8時間で終わらず、10時間や15時間働いた場合でも、一切残業代を出さないという制度を導入しようとしている。

 このように、異なった次元の問題を(意図的に?)混同しているのが城繁幸氏の主張にしばしばみられる特色である。読者はくれぐれも騙されないようにしなければならない。

憲法9条の議論の中で戦争のイメージが噛み合わないということ

 朝日新聞に掲載された社会学者古市憲寿の憲法9条に関する発言。

http://www.asahi.com/articles/ASG4X7676G4XUTIL067.html?iref=comtop_list_nat_f02

 短い記事で特に深いことを述べているわけではないが、なるほどと思ったのは、憲法9条を議論する時の戦争のイメージに関する「ずれ」についての指摘である。

 いわゆる9条護憲派は、「9条改正は戦争への道だ」と主張し、その「戦争」の悲惨さのイメージとして、第二次世界大戦の空襲や原爆を持ち出すことが多い。「戦争を語り継がなければ」というのも、第二次世界大戦の体験を語り継ぐということである。

 これに対して9条改憲派は、現代の世界のあちこちで行われている比較的小規模な武力紛争への対処を念頭に置いていることが多い。

 国際情勢の中で日本が武力紛争に外交・軍事でどう対応すべきかを持ち出して9条改正を求めるのが改憲派で、これに対して護憲派は、空襲で焼夷弾の中を逃げ回った民衆の惨禍の話で答える。

 これでは議論が確かに噛み合わないであろう。

「ブラック企業」という概念のあやふささ

 就職支援会社「ディスコ」が、就職活動中の学生と主要企業の採用担当者を対象に、「部ダック企業についての考え」に関するアンケート調査を行って公表した。

http://www.disc.co.jp/pressrelease/detail/bk2014-1794.htm

  この中で、「ブラック企業だと思う条件」についても、「残業代が支払われない」「労働条件が過酷である」「離職率が高い」「給与金額が低すぎる」等の多くの選択肢を提示して選ばせている。

 私にいわせるなら、「ブラック企業」という客観的な性質や集団が存在しているわけではなく、本来は劣悪で違法jな労働環境・労働条件で労働者がこき使われるような企業を揶揄・非難する言葉だったはずだが、「労働時間が〇〇時間以上になればブラック企業」というような明解な定義や境界線があるわけでもない。ブラック企業という用語が一般に使われるようになればなるほど、その範囲もあやふやになっていく。

 しかも「ブラック」という言い方は、あたかもこの世に白い色と黒い色が存在するように、「ホワイトがあるならブラックがあっても良い(やむを得ない)」といわんばかりに、まるで存在自体は一応容認するようなニュアンスもかもしだす。

 本当に重大な問題のある企業は、「ブラック企業」ではなく「違法労働企業」「過酷労働環境企業」とでもいうように、基本的に否定的な用語で呼ぶべきであろう。

 

 

 

 

 

 

「今年の新入生のタイプ」の無意味さ

 経営コンサルタントの横山信弘氏が、「いい加減やめてもらいたい『新入社員のタイプ』発表・・・今年は『自動ブレーキ型』」という記事を書いている。

 何のことかというと、日本生産性本部が毎年発表している「新入社員のタイプ」のことである。ご存じのとおり、日本生産性本部は、毎年の新入社員の特徴を何かに例えて「〇〇タイプ」として発表している。過去には「カーリング型」「エコバッグ型」「ロボット掃除機型」などというのがあったが、今年は「自動ブレーキ型」なのだそうで、「知識豊富で敏感。就職活動も手堅く進め、そこそこの内定を得ると、壁にぶつかる前に活動を終了。何事も安全運転の傾向がある。人を傷つけない安心感はあるが、どこか馬力不足との声も。どんな環境でも自在に運転できるようになるには、高感度センサーを活用した開発(指導、育成)が必要。」としている。

http://activity.jpc-net.jp/detail/lrw/activity001406.html

 これについて横山氏は、「その年に流行した商品や、時代を象徴するような事物を取り上げて「こじつけ」ているだけです。」「こんな偏った決めつけをして、何の意味があるのでしょう。 」と批判しているのだが、まったく同感である。

 時代と共に傾向の変化のようなものはあるだろうが、年度ごとにぶった切ってタイプ分けをすることに意味があるわけではない。実際にはそれぞれの企業で新入社員一人一人の性質を見て対応するしかないのである。「今年の新入社員は〇〇型だから、こうしよう」などという発想は有害無益である。

 めくじら立てず単なるお遊び・シャレだと思えば良いのかも知れないが、日本生産性本部は遊び心をもった私企業ではなく、公益財団法人である。公益財団法人が大まじめにやるような行為ではない。

「生きづらさ」?

 たまたま見た東京新聞のとある記事で「生きづらさ」という言葉が使われていた。記事の内容そのものについてはコメントしないが、「生きづらさ」という言葉にはどうも引っかかりを感じる。

 googleで「生きづらさ」という単語を検索してみると、520,000件がヒットし、最近の社会は生きづらい世の中だ、という類いの表現もよく見かける。最近の社会が生きづらくなったとされる元凶としては、だいたい「格差社会」「孤独」「競争」などが上げられる。

 しかし、最近の社会が生きづらいとすれば、過去の社会はそうではなかったのだろうか。昭和20年代とか30年代、いや戦争中や戦前、さらに明治とかそれより前はどうだったのか。生きづらくない世の中だったのか。(ただし、「バブル期」や「高度成長期」を生きづらいと考える人はおそらくそう多くはないだろう。)

 あるいは、生きづらいというのは、最近に始まった現象ではなく、いつの世の中にもある普遍的な現象なのだろうか。人間はだいたいいつも生きづらいのだろうか。社会は常に生きづらいということなのだろうか。

 このようにいろいろ考えてみると、「生きづらさ」という単語はあまりにも曖昧で具体性がなく、議論を発展させようがない概念のように思われる。このような単語を使う意味はどこにあるのだろうか。むしろ漠然とした不満や不安や嫌悪感を示すだけのための単語なのだろうか。

派遣労働問題ふたたび

 ヒューコムエンジニアリングの出井社長のブログ「雇用維新」によれば、山梨日日新聞に「派遣法改正見送り」という記事が掲載されたそうである。

http://ameblo.jp/monozukuri-service/entry-11837496907.html

 それはそうと、先日の続き。

 労働者派遣はあくまで例外的な現象であって、広がるのは望ましくなく、可能な限り限定するべきだという思想があった。そして、この限定が次第に崩れて派遣労働者が拡大してきたのが規制緩和の流れだった。

 しかし私としては、労働者派遣がもはや例外ではなくなってしまっている現状からすれば、むしろ派遣労働者に対して現状のままで直接保護を及ぼし、正社員と比べて可能な限り不利益のないような扱いにする制度をこそ検討すべきではないかと思うのである。

「派遣労働者は簡単にクビを斬られるから、派遣は例外的な場合だけに限定して、
可能な限り正社員として採用せよ。派遣労働者も長期間勤務した場合は正社員に転換せよ」
というのが、派遣労働者の保護を求める論者の主な傾向であった。

 しかし、この主張は、「派遣労働者は簡単にクビを斬られる」(=だからこそ「可能な限り避けるべきだ」ということでもあるのだが)ということを当然の前提にして容認しているかのような主張でもある。

「派遣労働者でも簡単にクビを斬られない制度」こそ真っ先に検討すべき課題なのではないか。

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