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2014年6月

AERAの奇妙な記事:「ワーママ」と残業代ゼロ問題

雑誌「AERA」で奇妙な記事を見つけた。

企業のスタープレーヤーのための制度? 「WE」とは

「ワーママや介護世代の労働者に、自由な働き方の選択肢を示す、との考えで、安倍政権が成長戦略第2弾に盛り込むのが「ホワイトカラー・エグゼンプション」(WE)。しかしそこには、賛否両論があるようだ。」

・・・としているのだが、そもそも現在進められているWE=残業代不支給の制度は、企業として残業代の支給義務がなくなるということであって、それによって別に働き方そのものが自由になるわけではない。1日10時間働けば従来は2時間分の残業代が出ていたのに、それが出なくなるというだけである。働き方の内容は職場が決める話で、今回の制度改正とは何の関係もない。

さらに、上記で引用したweb版のAERA記事では省略されているのだが、実際の雑誌の紙面を見ると、実はこの記事には前フリがある。あるワーママ=ワーキングマザーが、育児等の関係で残業はできないものの、会社で定時間内に仕事は問題なく済ませているという。それにもかかわらず、残業しないで帰っているために評価が低く、上司は残業もしてくれるよう求めている・・・というエピソードがあって、そのワーママは「残業しなくても成果は出しているのだから評価して欲しい」という不満を述べているというのである。
これはこれで一つの問題提起としてわかるのだが、WE制度とは何の関係もないことである。どうしてこのエピソードが上記の記事の前フリになるのかが理解に苦しむ。
8時間内で成果を出せる人を評価したいのなら、そのように評価すれば良いだけである。今の労働基準法は「1日8時間以内しか働かない者は評価してはならない」などと決めているわけではない。WEなど関係ないのである。

このワーママが願っているのは、「8時間(以内)しか働かなくても(成果があれば)評価してもらえるような制度」である。
繰り返すが、これは今の法制度でも何も問題なく実現できる。企業が勝手にやれば良いだけである。

これに対して、現在進められているWEはただ単に「8時間を超えて働いても(成果があろうとあるまいと)残業代がもらえない制度」というだけである。
AERAの記事のワーママが願っている制度とはまったく違う。「似て非なる制度」ではない。似ても似つかない、まったく無関係な別の制度である。

この記事の筆者は一体何を考えているのだろうか。

保育所への企業の参入と社会福祉法人

時事通信の記事から。

企業の参入障壁撤廃を=保育所運営で提言―公取委

公正取引委員会は25日、保育所の運営実態に関する報告書をまとめ、競争政策の観点から「多様な事業者の参入を認めることが必要だ」とし、一部自治体が設けている企業への参入障壁を撤廃するよう求めた。新規参入を活性化させて保育所の数を増やし、喫緊の政策課題である待機児童の解消につなげる狙い。

保育所の事業への会社(営利企業)の参入には賛否両論がある。
営利を目的としない社会福祉法人が保育所を運営する方が、営利を追求する企業による運営よりも、子どものためになる保育が出来るという考え方もあるし、逆に企業に任せた方が効率が良くサービスが向上するという意見もあるだろう。

ここではあまり詳しく触れる余裕はないが、社会福祉法人が「非営利」だといっても、損益計算で支出が収入を上回り赤字でも気にせずに事業をやっていくという意味ではない。いくら非営利の社会福祉法人でも、赤字で継続してやっていくのは無理である。

ここでいう「非営利」とは、「構成員の間で利益を分配することを目的としない」という意味である。社会福祉法人としても利益は出る(少なくとも損失は出ない)ように運営するものだが、その利益を構成員の間で分配しないということである。社会福祉法人そのものが利益を出さないように(出血サービスで?)運営していくということではない。

少なくとも赤字垂れ流しや支出超過ではいつまでも運営していくことはできないという点では、社会福祉法人だろうと会社だろうと変わりはない。

「安全」と「供給」のトレードオフ

読売新聞の記事より。

学校プール開放「無理」…監視強化へ費用かさむ

 「夏休みに小中学校などで一般開放するプールを減らす自治体が相次いでいる。
 きっかけは、警察庁が2年前に出したプール監視強化の通知。事故を防ぐため警備業者による監視を求めたが、業者への委託料が高騰し、予算不足から開放を断念するケースが多い。本格的なプールシーズンを前に、現場の職員は「子供の遊ぶ機会を奪うようで申し訳ないが、予算は大きくは増やせない」と頭を痛めている。」

・・とのこと。 

 最近もプールで溺れて亡くなった小学生の事故がニュースになったばかりだが(これは一般開放ではない授業中の事故だったが)、いずれにしても、社会に対する商品やサービスの供給と安全性とは、ある意味矛盾というかトレードオフの関係にあることは事実である。

 安全とはタダではない。安全を維持するために基準を厳格にすればするほど、費用や手間がかかり、場合によっては商品やサービスの供給を抑えることにつながるのである。

 安全のためにかかった費用を価格に転嫁しても売れるとか、安全のための費用をうまく技術開発で低減できるような場合は、安全性を高める措置を取っても、物やサービスの供給が減ることにはならない。安全性の高い自動車の販売がその恒例である。

 これに対して、費用を価格に転嫁できなかったり、技術開発で安全の費用を下げるのが困難な分野の場合は、安全性を高めようとすると、供給を少なくすることにつながりかねない。

 医療、介護、保育などの公共サービスがその例である。これらは公的財政や社会保険によってまかなわれ、価格も決められていることが多いので、費用を価格に転嫁することがなかなかできず、結果として事業者の負担が大きくなる。技術開発でも費用を下げるのが困難である。

 冒頭のプールの無料開放も似た構造だろう。

今でも「成果に応じた賃金」は既に行われている

 「労働時間ではなく成果で評価を」というけれども、今でも仕事の成果に応じた評価に基づいた賃金制度にすることは可能だし、現にほとんどの企業はそのようにしているはずである。

  “成果”が高い社員については、それを“評価”して、それに応じて基本給や賞与を高くすれば良い(もちろん“成果”が低い場合は逆にすれば良い)のであって、別に法改正など必要はない。

  わかりやすい例として、同じ仕事量を5時間で済ませる社員Aと、10時間かかる社員Bがいたとする。1日の法定労働時間は8時間。ここで単純化していえば、社員Bは1日2時間の残業代(時間外割増賃金)を受け取ることになる。そうなると「効率が悪くて成果の低い社員の方が収入が高いのはおかしい」ということになるのかも知れないが、そもそも社員Aは、基本給や賞与を社員Bよりも高く評価して設定すれば良いだけである。(逆に社員Bを低くするのでも同じことである。)これこそ「成果に応じた賃金」であって、今の法制度でも問題なくやれる。

  なお、社員Aは5時間で仕事が済んでしまうので、そこで帰ってしまうと1日の労働時間8時間に足りないことになるが、ここで賃金を3時間分カットしなければならない義務が会社にあるわけではなく、会社が社員Aに1日分の賃金を支給するのは自由である。ただし実際には、社員Aは5時間で帰れるわけではなく、さらに新たな仕事を任されるだけのことだろう。

  一方、社員Bは、確かに2時間分の残業代を支給されるが、これは労働時間を評価しているわけではなく、1日8時間を超えて労働させたから会社がペナルティとして支払っているというだけである。効率が悪いのがいけないというのであれば、社員Bの仕事量は減らすべきであり、賃金もそれなりに基本給レベルで低く設定すれば良いことになる。

  まともな民間企業であれば、入社数年以内という場合などを別にして、社員Aと社員Bの基本給や賞与は同じではないだろう。社員Aの方が高いはずであって、それこそ「成果に応じた賃金」「成果で評価される制度」である。

「成果のみ応じた賃金」なら「残業代ゼロ」どころか「賃金ゼロ」にも?

 例の「残業代ゼロ」の案についての記事を一つみたが(毎日新聞)、どうも概念が混乱しているようである。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140611-00000109-mai-pol

「労働基準法は労働時間を「1日8時間、週40時間」と定めている。管理監督者を除き、これを超えて残業をした人には残業代を払うよう義務付けている。だが、菅義偉官房長官、田村憲久厚生労働相、甘利明経済再生担当相らは11日、「柔軟な働き方を広げる」として、成果のみに応じて賃金を払う制度の創設で一致した。」 

 ということだが、この記事の書き方では、①「1日8時間・週40時間を超えても割増賃金(残業代)を払わないようにする」ことと、②「成果のみに応じて賃金を払うようにする」こととがごっちゃになっているのである。

 この①と②とは別次元の問題であって、混同してはならない。正確にいえば、①は②を含むが、①のすべてが②であるわけではない。 

 ②の方は、「成果のみに応じて賃金を払う」ということであるから、「成果がなければ賃金を払わない」ということであって、極論すれば、1ヶ月200時間働こうと400時間働こうと、成果が認められなければ賃金ゼロでも良いということになる。成果がなければ、いくら働いても残業代ゼロどころか賃金ゼロである。 

 まさかいくらなんでもそんな制度を目指しているわけではあるまい。「成果のみに応じた賃金」という表現は不適切だろう。記事が不正確なのか、関係者がいい加減な説明をしているのかはわからないが・・・

 

 

 

 

 

AERAという雑誌

 朝日新聞社が出しているAERAという雑誌は、高学歴女性を対象としており、そういう女性の興味や不満や夢想や幻滅を代弁する内容に尽きる。最近出ている以下の2つの記事も、いかにもこの雑誌の路線を象徴したものである。

高学歴親が子どもを追い詰める

・キャリア女性が注目するハウスワイフ2.0とは

 ところで読者層の高学歴の女性のかなりの部分はいわゆるキャリアウーマンであって、企業などで活躍しているか、または活躍したいと思っている人たちである。そのため、AERAは、相当程度「体制寄り」にならざるを得ない部分がある。

 もう少し具体的に言えば、企業とか資本主義の経済社会の中で“うまくやっていく”ことを志向する女性の視点にならざるを得ないということである。(別にそれがいけないとか否定的な意味で言っているわけではない。) 

 

労働基準法には、使用者側が労働時間を記録する義務は書かれていない!

 労働者が出勤・退勤した時刻を使用者はタイムカードや何らかのシステムで記録するのが一般的だが、実際には何の記録もさせていない企業も多々存在する。

 では、労働基準法の条文には、使用者が労働時間を記録しなければならないということが定められているのだろうか。

 答えは否である。労働基準法には、労働者の労働時間を使用者が記録する義務は直接的には規定されていない。

 これについて厚生労働省の見解としては、直接の条文では定めがないものの、「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関する基準」の中で、

「労働基準法においては、労働時間、休日、深夜業等について規定を設けていることから、使用者は、労働時間を適正に把握するなど労働時間を適切に管理する責務を有していることは明らかである。」

 と述べている。つまり、労働基準法の条文の中には、直接的に出退勤時刻を記録するような定めは記載されていないけれども、労働時間などについての規定はあるから、そこから解釈すれば、明らかに使用者には労働時間を「適切に把握・管理」する責務がある、と言っているのである。

 しかし、「労働時間を適切に把握」することと、「労働時間を(客観的に)記録」することとは必ずしも同じではない。また、使用者が実際に労働時間を記録しなかった場合に、そのことだけで直接的に使用者にペナルティが科されるわけでもない。(ただ単に労働時間を記録しなかったというだけでは、労働基準法違反にならないからである。労働時間に応じた賃金が支払われなかったり、労使協定を結んでいないのに残業をさせたりした場合に、初めて労働基準法違反の問題になる。)

 行き過ぎた長時間労働や残業代不払い等の問題が生じたときに、労働時間が客観的に記録されていない場合、労働者としては労働時間の立証ができず、非常な困難をこうむることがある。このような場合に不当な結果になるのを防ぐため、労働基準法で直接的に使用者が労働時間を記録する義務を規定して、その義務を使用者が果たしていない場合、労働時間についての立証責任を使用者に科する(たとえば労働者が一定の残業をしたことを主張していて、労使間で見解が違う場合、使用者の側がそうでないことを立証しなければならない)という扱いをするべきではないだろうか。

「管理社会」という言葉

 かつては「管理社会」という言葉があり、メディアや書籍の中で否定的なニュアンスで使われていたが、最近はこの言葉はほとんど見かけなくなった。

 それは、世の中の管理が薄くなったからではなく、管理されるのが当たり前という感覚が浸透したからであろう。 

 さらにいえば、貧困、経済的格差や東日本大震災などを経て、「管理してもらえないことの恐ろしさ」を多くの人が感じるようになったからでもあると思われる。社会は本質的に脆弱で不安を抱えており、政府なり自治体なり企業なりの管理を受けていなければ、いつ社会が崩壊して自分の生活が破滅してもおかしくないという感覚が広がっているのである。たとえて言えば、病院で生命維持装置にパイプでつながれた状態の患者のようなイメージで現代の人間は社会を見ており、管理がなくなるということは、そのパイプを断ち切られるということなのである。

「自由な働き方」というのはウソ。「自由な働かせ方」と呼べ!

 政府が進めている「残業代ゼロ」の案について、「自由な働き方ができるようになる」などという謳い文句が見られるが、これは意図的なウソであろう。

 雇われた労働者であるサラリーマンは、ホワイトカラーであっても、基本的に「自由な働き方」などできないはずである。自分で自由に業務の内容や数量を選んで、自分で自由に処理することなど不可能であって、業務もその評価も基本的に使用者である会社が行うものでしかない。自由があるとすれば、それは個々の業務の順番とか時間配分などくらいである。

 この残業代ゼロの導入によって、本当に「自由で時間にとらわれない働き方」ができるのかどうか手っ取り早く確認したければ、今現在既に残業代が支払われない「管理監督職」の人々を見てみるのが良いだろう。世の会社の課長と呼ばれる人々は、「自由で時間にとらわれない働き方」をしているのだろうか。

 結局のところ、残業代ゼロの制度案がめざしているのは、「自由な働き方」などではない。あえていえば、「自由な働かせ方」なのである。

 労働時間の制約にとらわれずに会社が社員を自由に働かせたいというのが目的ならば、この制度案はまさしくその目的に合っているといえるだろう。1日8時間を超えてもペナルティとしての割増賃金(残業代)どころか時間刻みの追加の賃金も会社が払わなくても良くなるのだから、まさに「自由な働かせ方」ができる制度なのである。

 「自由に働きたい人」向けではなく「自由に働かせたい人」向けの制度なのだから、そのように報道して社会に広く知らせるべきだろう。 

 

 

 

不法残留の外国人の問題(大阪准看護師遺棄事件に関連して)

 移民や外国人労働者の導入の是非が最近盛んに議論されているが、外国人が日本に入国し在留する場合、一定の在留資格が必要なのは言うまでもない。この在留資格がない(またはなくなった)にもかかわらず日本にとどまり続けている外国人は、「不法残留者」と呼ばれる。

 この「不法残留者」について現状を確認してみよう。法務省の調査によれば、平成26年1月1日現在の不法残留者数は、5万9,061人ということである。

(法務省:本邦における不法残留者数について(平成26年1月1日現在))

  ここでとりあえず人権とか人道の観点は省略して、単純に「不法残留の外国人をさっさと全員退去させろ」というよく言われる主張が現実的かどうかを考えてみよう。600人や6,000人ならまだしも、約6万人という数字は、そうそう簡単に強制的に退去させることができるような規模でないことは確かである。

 この6万人は、どこかに集まって何もしないで静止しているわけではなく、生身の人間として日々の何らかの生活を日本社会のいろいろな場所で行っているのであり、また外国人同士だけでなく日本人とも何らかのかかわりを持って生きているのである。

 ごくごく即物的・機械的に考えても、この6万人を一斉に捕まえることができるようなマンパワーが、入国管理局や警察にあるとは思えないし、また捕まえたところで一斉に収容できる場所があるとも考えられない。実際問題としては、国は「仮放免」という状態で、毎月1回入国管理局に出頭させて、問題が起こっていないかを確認したり、帰国を説得したりすることしかできないことが大半である。

 そしてこの6万人の中には、日本で生まれて日本語で思考し日本の小中学校に通っている(通っていた)未成年も含まれているのであって、そういう人たちは日本社会以外で生活していくのはなかなか困難である。

 問題は、不法残留とされる人々は、このように退去させることが実際問題としてなかなかできない一方で、正規の在留資格がないために就職や転居もできず、宙ぶらりんの状態におかれているということである。これまた人権や人道という観点はいったん離れて、“日本社会の治安”という観点だけから見たとしても、このような不法残留とされる人々が不安定な立場で暮らし続けることは望ましくないのではないだろうか。「出ていけばいい」という意見があるのはもちろんとして、実際に「出ていかない」「出ていけない」「出ていかせるのも困難」であるなら、むしろ社会の秩序の中に組み込んでいく施策を考えたほうが現実的ではないかと思うのである。

 以上は、大阪の准看護師遺体遺棄事件に関与したとされる元同級生の日系ブラジル人女性についての報道を読んで、ふと思ったことである。

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