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2014年7月

女子高生の殺人事件で「佐世保」を特別扱いするのはおかしい

昨日も書いたことだが、女子高生の同級生殺人事件について、佐世保を特別扱いするのは不当である。(私自身は佐世保出身でもないし、佐世保に何の義理も利害関係もない。念のため。)

産経新聞は「10年に2度の惨事 『なぜ佐世保ばかりで…』」という思い切り扇情的なタイトルの記事を載せているが、前回の小学校6年生の女子による事件は10年前なのだから、正確には「10年に1度」というべきだろう。また、日本全国見てみれば、他にも未成年による重大な犯罪はいくらでもあるわけで、佐世保を特別扱いする意味はない。

なお、「命の教育は届かなかったのか」という類いのコメントもあちこちで見られるが、現時点での情報から判断すると、この被疑者とされる女子高生の性格が特殊すぎるので、「命の教育」の効果の問題ではないように思われる。

「また長崎」「また佐世保」という言い方はおかしい

 佐世保市の女子高生の同級生殺害事件について。
 佐世保市では2004年にも、小学校6年生の女子が同級生をナイフで殺害する事件が起こっているが、これについてメディアの記事で
 「また長崎(または佐世保)で事件が繰り返された」
 「命の教育はムダだったのか」
 「前回の教訓を生かせなかったのか」
などという書き方がされている。

  しかし、前回の殺人事件は上記のとおり2004年であって、そこから10年が経過している。今回の事件を軽く見て良いはずはないが、少なくとも長崎や佐世保で毎年この種の事件が起こっているというわけではなく、まるで長崎や佐世保が特殊な犯罪の多い地域であるかのように書くのは不当である。

辞めたくても辞められないブラックアルバイト

NHKの「おはよう日本」で、学生アルバイトの最近の問題を取り上げていた。

“辞めたくても辞められない”

長時間労働や過重な責任を強いられて、辞めるにも辞められず、授業にも差支える事例まで出ているという。そういう世の中の傾向を反映してか、この番組の中では使っていないが、「ブラック企業」ならぬ「ブラックアルバイト」という言葉まで最近は流行り始めている。

このNHKの番組によれば、たとえばある小売店では、店舗が複数あって、正社員はその複数の店舗を受け持つ「店長」1人だけであり、実際の個々の店の責任者は学生バイトが任されていて、大学での授業等の時間中にも、他のパートやアルバイトから仕事の指示を仰ぐ電話が頻繁にかかってきたりするという例があるという。

そして、他のアルバイトに迷惑がかかるのを恐れて、学生アルバイトたちは辞めるに辞められない心境に追い込まれているというのである。

なぜこのような事態になるかといえば、上記の番組の記事の中でも触れているように、安売りのためコスト削減を進めすぎて、正社員を極限まで減らしたため、店の責任者まで学生アルバイトにやらせざるを得なくなっているということだろう。

アルバイトなのに責任が重すぎるとか労働条件が悪いとかの会社を「ブラックアルバイト」という言い方で揶揄するのもよいが、問題の根源は、正社員がほとんどいない状況で会社を運営しているということである。(念のため断っておくと、一般的な法律論だけでいえば、会社に「取締役」は必ず必要だが、それ以外の者はいわゆる「アルバイト」だけでも会社が成り立たないわけではない。)

従来のアルバイトが「ブラック」と思われていなかったのは、正社員が厳然と存在していて、組織の管理等の業務はその正社員が行うのが当然とされ、アルバイト、特に学生アルバイトは、あくまでも正社員の補助的な仕事しかしないものとされていたからである。

「アルバイト」というのは、厳密な定義はないが、一般にはいわゆる「非正社員」で、しかも「補助的」な仕事をするものだという了解事項があったと思われる。しかしNHKの例で挙がっているような会社では、学生アルバイトが任されるのは、少なくとも「補助的」な仕事ではない。もはや「中核的な仕事を任される非正社員」とでもいうべきであろう。さらにいえば、会社は低賃金で雇えるアルバイトをあてにしているわけなので、「中核的な仕事を任される低賃金の非正社員」ということになる。

「マイルドヤンキー」を異常と思う東京圏こそが異常である

先日のエントリー「『マイルドヤンキー』はアメリカ先住民ではなく英国人である」で、最近流行のマイルドヤンキー論について触れたが、さらに考えてみると、これは日本社会の分断、東京圏の孤立を象徴する傾向ともいえる。

日本社会が分断されているといっても、「マイルドヤンキーが出てきたということは、日本社会が分断されたということである」という意味ではなくて、「もともと存在していた一定のライフスタイルを今更『再発見』して『マイルドヤンキー』と呼んで珍しがるほど、東京圏のライフスタイルは特殊なものになっている」という意味である。

マイルドヤンキー論を唱える者に言わせると、たとえば以下の特色は「異常」なことなのである。

  • ・生まれ育った地元指向が非常に強いこと
  • ・郊外や地方都市に在住し、車を利用して生活すること
  • ・内向的で、上昇指向が低いこと
  • ・低学歴で低収入であること
  • ・ITへの関心やスキルが低い
  • ・遠出を嫌い、生活も遊びも地元で済ませること
  • ・イオンSCでいろいろな買い物をすること
  • ・小中学時代からの友人たちと変わらずつきあっていること
  • ・できちゃった結婚で子どもにキラキラネームをつけること
  • ・飲酒、喫煙をすること
  • この特徴のうちで比較的新しい傾向といえば、子どものキラキラネームくらいであって、それ以外は昔からどこにでもあったライフスタイルのはずである。このように昔から一定の割合で存在したライフスタイルなのに、それが「コロンブスのアメリカ先住民発見」のように、「最近まで未知だったものを初めて見つけた」かのように騒いでいるのが、博報堂などで仕事をしている東京圏のマーケティング関係者ということになる。

    なんのことはない。逆に東京圏の人間こそ、生まれ育った地元で暮らし、小学校時代からの友人と付き合い続けることが、理解不能な異常行為としか思えないような生活状況になっているということであろう。今までは異常ではなかったことが異常に思えるようになってきたからこそ、(東京圏の)メディアで取り上げるようになったのである。

    マイルドヤンキー論が照らし出しているのは、異常ではない生活を異常と感じるようになってしまった東京圏の異常さである。

    年取った親に頼って生活している人はどれくらいいるのか?

     「高齢者はお金を持っている」という言い方をよく見かける。もちろん中には貧しい高齢者もいるのだが、高度成長期に発展したそこそこの企業に勤めて定年して老後を迎えたような高齢者は、過去の貯蓄や年金で、それなりに経済的な余裕がある人も多いだろう。商品のマーケティングで、“金のありそうな高齢者をターゲットにして宣伝し売り込む”という言い方もよく聞かれるようになって久しい。

     これとは違って、後ろ向きな話になるが、弁護士の仕事をしていると、失業や多重債務や病気などで生活苦になった人が、高齢の親や親戚から経済的に援助をしてもらうケースを見ることがよくある。これも「高齢者がお金を持っている」ということの一つのあらわれではある。 

     ただ、(失礼ながら)高齢者の寿命はかなり先が限られているので、高齢者からの援助に頼った生活は、いずれはそう遠くない将来に終わりがくる。

     様々な理由で働くことができないでいる人のうち、生活保護や失業保険に頼っている人は多いが、それらを受給せず、高齢の親族からの仕送りに依存している人も多いはずである。生活保護や失業保険と違って、そういう仕送り頼りの人の数は、なかなか表に出てこない。
     ここで気になることは、その仕送りに依存していた人たちは、親や親族が亡くなった後は、(働くことが出来ない事情があるとすれば)そのまま生活の手段を失い、生活保護を受けることになる可能性がかなり高いということである。

     今現在、表にあらわれていない「年取った親・親族に頼って生活している人」は、全国でどのくらいいるのだろうか。政策的な課題として、そのような人たちの人数、将来必要となる生活保護等の財政支出の必要性などを国は把握しておくべきなのではないだろうか。

     

    「マイルドヤンキー」はアメリカ先住民ではなく英国人である

    「マイルドヤンキー」という言葉をマスコミでしばしば見かけるようになったが、今日見つけた「現代ビジネス」の記事でも、藤野英人という人がこれに触れている。

    「マイルドヤンキー」を支えている、地方で増殖している「ヤンキーの虎」に注目を!

    これによれば、「マイルドヤンキー」という言葉の意味は、おおむね

    ・生まれ育った地元指向が非常に強い(パラサイト率も高い)
    ・郊外や地方都市に在住(車社会)
    ・内向的で、上昇指向が低い(非常に保守的)
    ・低学歴で低収入
    ・ITへの関心やスキルが低い
    ・遠出を嫌い、生活も遊びも地元で済ませたい
    ・近くにあって、なんでも揃うイオンSCは夢の国
    ・小中学時代からの友人たちと「永遠に続く日常」を夢見る
    ・できちゃった結婚比率も高く、子供にキラキラネームをつける傾向
    ・ 喫煙率や飲酒率が高い

    ・・・ということらしい。

    このうちイオン云々はおくとしても、これにあてはまるような人は、地方のそれなりの規模には昔からいくらでもいたと思うし、藤野氏自身も、マイルドヤンキーと称される人々が「前からいる人たち」であることを認めている。

    ただ藤野氏は、ここで妙なことを言い出すのである。

    「・・・私の感覚ではこのことはコロンブスの新大陸の「発見」に近いということです。
    というのもアメリカを「発見」したといってもそれは欧州の人からの視点であり、それは先住民からすると「あった」ものなので発見もくそもありません。しかし、当時欧州に住んでいた人たちには「なかった」ものなので、コロンブスが「発見」をしたことで、欧州の人からすればはじめて「あった」ものになったのです。
    同様に、マイルドヤンキーも東京の人が言葉をつけることで「見えた」世界であると思います。実際、多くの都市に住んでいる人にはマイルドヤンキーが見えませんでした。」

    藤野氏が比喩として持ち出す「欧州とアメリカ先住民」の関係でいえば、コロンブスより前には欧州の人間とアメリカ先住民には何の接点もなかったのだから、コロンブスの発見で初めて欧州人にとってアメリカ先住民が存在するようになったのと同じだというのは当たっている。

    これに対して、マイルドヤンキーと呼ばれているような地方在住者はどうだろうか?これらの人々は、東京圏の人間と昔から何の接点もなかったのだろうか?まさかそうではないだろう。その意味で、「東京圏の人間=欧州人」「マイルドヤンキー=アメリカ先住民」という比喩は、あまり適切な表現とは言えない。

    私の考えでは、地方で昔から一般に見られていたような生活スタイルが今さら「マイルドヤンキー」などと呼ばれるようになったのは、東京圏の側の方が地方から切り離されて異質なものになってきたからである。

    もっと言えば、東京圏の人間にとって、自分たちの祖父や父が出てきたはずの地方の生活が、もはや異世界のようなものに見えるようになってきたということだろう。

    その意味で、「欧州人とアメリカ先住民」を比喩として使うのは、見当違いである。
    それではどういう比喩が良いかと言えば、「アメリカ人と英国人」とでもいうべきところだろう。

    英国から独立したアメリカの人間は、当初は、英国の社会や生活スタイルについてもある程度直接的な体験があり、理解できていた。それが代を重ねるにつれて、アメリカ独自の社会や生活スタイルが確立してしまい、英国とは全くかけ離れたものになっていった。東京圏の人間と地方のマイルドヤンキーの関係も、これと同じである。

    東京圏のメディアが今頃になって、昔からあったような地方のライフスタイルを「マイルドヤンキー」と呼んで珍しがっているのは、現代のアメリカ人が英国の生活様式をみて、珍しいものを新発見したかのように騒いでいるのと同じことである。

    半分冗談でいうならば、マイルドヤンキーは「アメリカ先住民」ではなく「英国人」である。

    日本企業は本当に「ゼネラリスト」志向なのか?

     企業の人材の育成や活用の仕方について、「日本企業はゼネラリスト志向で,欧米の企業はスペシャリスト志向だ」という説明がよく見られるが、これは事実に合っているのだろうか。(技術系はここでは除く。)

     日本企業といってもピンからキリまであるが、ある程度の規模の企業の場合、「ゼネラリスト」志向の人事、つまり特定の業務分野に特化しない形で幅広い人事異動が社内で行われていると言えるのだろうか。
     

     たとえば去年、営業を担当して客先訪問をこなしていた人間が、今年、経理担当になって原価計算や決算を担当したりすることがあるのだろうか。

     私の企業勤務経験としては、ある大手電機メーカー(子会社含む)しかないが、基本的に技術系だけでなく事務系の従業員であっても、基本的には業務の分野は大きくは変わらないのが普通であった。スタッフ的部門でいえば、経理、総務、人事、資材、生産管理に配属された新人は、事業所が変わることはあっても、担当する業務の分野はずっとそのままである。営業も、担当する商品分野はおおむね決まっており、たとえばコンピュータを担当していた営業が突然家電の営業に回るということはない。

     もちろん例外はあって、たとえばある部門や職種がリストラされて減員されて配置転換するとか、本人の強い希望があるとか、どうしてもある職種で使い物にならなかった等の特殊な要因があれば、上記の分野を超えた異動が行われる場合はあるが、あくまでも一般的に行われるものではない。
     
     

     念のためにいえば、一般的な従業員は完全に職種別に限定されて採用されているわけではないので、例外的に他の職種に回る潜在的な可能性は常にある、という程度のことは言えるだろう。ある職種で人員が不要になったからといって、その職種の人間が直ちに解雇されて放り出されるというわけではない。

      なお、比較的規模や業態の近い他の電機メーカーの人事部門の人たちと話をする機会を持ったことがあったが、どこも似たような感じであった。

      このように考えると、「日本企業はスペシャリスト志向ではなくゼネラリスト志向」という説明がどこまで妥当なのか疑問を感じるのだが、これはあくまでも私の経験の範囲での話なので、中には、経理がいきなり営業になったり、その逆が起こったりするような企業があるのかも知れない。そのような事例があれば話を聞いてみたいものである。

    なぜ「反戦」を言う人は太平洋戦争ばかりを思い浮かべるのか?

     集団的自衛権の論議が進むにつれて、新聞などで、これに反対する意見も多く見かけるようになった。このような、いわゆる「反戦・平和」の傾向をもつ文章の特徴としては、何をおいてもまずは太平洋戦争中の実態について語り、そのような事態が再び起こる恐れがあることを警告する・・・というパターンがある。

     たとえば「東京大空襲の悲劇を繰り返してはならない」とか「戦争中は軍国主義の世の中で、・・・のような不自由な怖い社会だった」とかいう類いである。

     しかし終戦から相当の年数が経過して、戦争を知らない世代どころか、太平洋戦争中の出来事も日露戦争中の出来事も同じレベルでしか感じ取れない世代が増えてきている。このような中で、「太平洋戦争での事態」を持ち出して反戦平和を訴える論法は、次第に通用しなくなってきていると言えるだろう。

     そもそもの話、集団的自衛権の行使の問題を議論するにあたって(賛否はともかくとして)、まず想定しなければならない事態は何かといえば、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアのような国レベルになるということである。これらの国が紛争に関与して死傷者が出るようなケースをまず考えるべきであって、太平洋戦争中の空襲下の日本を想定することはあまり意味がない。

     それにしても、これまで反戦や平和を語るときに、今の世界情勢の中で今の日本がどうなるかを具体的にシミュレートして考えて議論する人はあまり見当たらず、何かと言えば太平洋戦争の悲惨さを持ち出す人ばかりだったなのはどういうわけだろうか。

      ここは逆説的になるが、日本は太平洋戦争の後、戦争には直接的・公式的には関与してこなかったので、多くの日本人は、将来日本が戦争に巻き込まれる事態を想像するとしても、太平洋戦争を思い起こすことしかできなくなってしまったのかも知れない。

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