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2016年8月

民進党とその支持者

ご存じのとおり、民進党は政治路線としては寄り合い所帯の政党であって、議員の出身母体も、自民党、旧社会党、旧みんなの党など多様である。

そこで民進党の支持者の中でも“左寄り”の人の中には、「民進党の中の保守勢力は、第二自民党みたいな連中だから、自民党と一緒になればいい」などという人もいる。

もちろんそんなことをすれば、自民党は今以上に膨れあがり、民進党は実質的に旧社会党となって、社民党と別な党でいる理由はなくなるだろう。

今の社民党は泡沫といって良いほどの弱小政党だが、これは、旧社会党が自然にそのまま縮小したわけではなく、旧民主党発足の時に流れ込んだ分が消えたからであって、今の民進党の中の旧社会党系のグループと合併すれば、ある程度の勢力にはなるだろう。暇な方がいたら試算してみて下さい。

ただ、民進党が実質的に旧社会党になるとすれば、政権を取れる可能性は絶無となるだろう。万年野党に徹して、自民党へのブレーキ役になるほかない。ただしブレーキといえる規模を確保できるかどうかはわからない。何よりも自民党ないし「改憲勢力」は今以上に大きくなるだろう。

民進党支持者の中の左寄りの人々が時々叫ぶ「党内保守派の連中は自民党にいってくれ」という事態が本当に起こったら、一番喜ぶのは自民党である。

芸能人の謝罪会見

不倫などの不祥事を起こした芸能人が公の場で謝罪をすることは普通に行われることで、今年もベッキーや乙武氏などのことが記憶に新しい。

一方、これに対しては

「本当に謝罪しなければならないのは、不倫で被害を受けた相手(例:自分や不倫相手の配偶者、等々)であって、マスコミや視聴者相手に謝罪する必要はない」

「どうして大衆は、自分と関係ない不倫のことについて芸能人に謝罪を求めるのか」

などの疑問の意見もあるが、どう考えるべきだろうか。

ここで考えなければならないのは、芸能人は人気商売であって、自分が「商品」だということである。商品にはそれぞれイメージがついており、そのイメージのために買ってくれる人がいる。清楚で明るいイメージのタレントも、家族を大切にしているイメージの俳優も、そのイメージで売れているわけだ。そういう芸能人たちが不倫をしてしまったら、イメージぶちこわしであり、商品としての価値を自ら落とすことになる。

こういう芸能人が視聴者に向けて謝罪会見をしているのは、不倫の「罪」を謝っているのではない(視聴者に対して不倫をしたわけではないから、当然である)。買ってもらっている商品のイメージを損なってしまったこと、または期待と違う商品だったことを謝罪しているのである。「機能が欠落した商品を売ってしまって申し訳ありませんでした」と言っているのと同じに考えれば良い。

そして、謝罪をすることによって、「どうかこの商品を嫌いにならないで下さい、今後も見捨てないで買って下さい」と言っているのと同じなのである。

だから、不倫をしてもイメージが変わらないような芸能人であれば、誰も謝罪を求めないだろう。ベッキーも乙武氏も、最初から不倫をしそうなキャラのイメージで売っていたのであれば、特に謝罪をする必要はなかったはずである。

なお、最近の高畑淳子の謝罪は、不倫ではなく息子の犯罪に関するものだが、また機会を改めて論じてみたい。

反戦運動の今と昔

七尾旅人がはっきりと語る「反戦」 最初に死ぬ自衛隊員をイメージできるか

上記の記事を見てふと思ったことを書いてみたい。

最近の自衛隊や安保条約体制の強化や拡大、9条改憲などに反対する運動は「自衛隊員を戦死させるな」というニュアンスを出すものが多いようである。
しかし自分の感覚でいうと、この種の運動(一応「反戦運動」と呼んでおく)が「自衛隊員を戦場に送るな」「隊員を死なせるな」というスローガンを前面に打ち出すようになったのは、割と最近の現象である。

それでは、昔の反戦運動は、今とどう違っていたのだろうか。

結論からいうと、昭和時代の反戦運動は、基本的に「日本のアジア再侵略を許すな」というニュアンスのものが多かった。多くの反戦運動は、自衛隊員が紛争に巻き込まれて死ぬのを防ぐためではなく、「日本が再びアジアを侵略する戦争を起こす」のを阻止することを至上命題としていたのである。

1960年代から70年代にかけて、日本国内の米軍基地から米軍がベトナム戦争に出撃していったが、これは強硬な左翼陣営から見れば、「日本が米国のベトナム人民に対する侵略に加担していること」とされた。また、日本企業が海外進出していくのは、「日本の独占資本が途上国を経済的に侵略し、途上国の人民を搾取するもの」と受け取られていた。そして左翼の論者の多くは、日本を「帝国主義国家」として位置づけていて(「帝国主義」という用語の定義についてはここでは立ち入らない)、特に過激な者は「日本帝国主義」を革命闘争によって打倒すべき対象と考えていた。彼らにとって、「日本によるアジア侵略」は、第二次大戦時の評価の問題だけでなく、リアルタイムで進行中の問題だったのである。

もちろんすべての反戦運動がそうだったというわけではなく、様々なニュアンスのものがあったが、かつては革命志向的な反戦運動が有力に存在していたのである。

「日本が今もアジアを侵略している帝国主義国家である」という言説が、反戦運動の中でもほとんど見られなくなったのは、“アジア”の国々が大きな経済発展を遂げて、日本のメーカーを脅かすようになり始めてからのことだと記憶する。

憲法の「戦争放棄」の意味

現行の憲法の前文では「平和主義」が謳われ、第9条では、いわゆる「戦力放棄」が謳われているが、今更ながら、この「戦争放棄」はいったい何のために憲法に定められているのだろうか。

「9条はもともと日本を弱体化するために占領時に決められたものだ」というやや極端な主張をする人もいるが、それは別とすると、考え方はおおむね2つに分かれる。

 (1)戦争を放棄することで、平和を守り、国民の生命や財産、人権を守ることができるから。

 (2)戦争を行わないことそれ自体が、第二次大戦の惨禍を経験した日本の理想だから。(実際にそれによって国民の生命や財産、人権が守られることになるかどうかは別次元の問題。)

(1)は、あくまで平和を維持して国民の利益・人権を保護する手段として効果的だから、戦争を放棄する、という考え方だが、(2)は、戦争の放棄それ自体が憲法の目指す重要な理想であって、それによって国民の利益・人権にプラスになるかどうかはまったく別という考え方である。

要するに、(1)の立場は、戦争放棄を単なる手段と考えるが、(2)の立場は、戦争放棄それ自体が目的だと考えるわけだ。

仮定の話として、戦争を放棄することによって逆に国民の利益や人権が脅かされるような事態が起こるとしたら、どう対応するのか。

(1)の立場では、戦争放棄は単なる手段に過ぎないのだから、逆に国民の利益や人権が脅かされるのであれば、(憲法改正は必要だとしても)戦争放棄をやめる、という発想につながる。

「憲法9条があれば、アメリカからの防衛力強化や戦略的協力の要求をかわす口実にすることができる」という主張も、この(1)の立場の変種とみることができるだろう。

もちろん(2)の立場も、国民の利益・人権がどうなっても良いと考えているわけではないだろうが、戦力放棄はその問題とは別であって、国民にとって利益だろうと不利益だろうと、理想は理想として守らねばならない、ということになる。

たとえば「たとえ侵略されても、戦うよりは殺される方がましである」という発想は、この(2)の立場の一種だろう(実際に、かつて朝日新聞の「声」欄でそういう趣旨の投書を見たことがある。)

憲法9条を守ることを主張する場合、上記のどちらの意味で言っているのか、立場を明らかにするべきだろう。

憲法では9条が一番大切なのか?他は二の次か?

先月のことだが、このような記事があった:「岡田代表 改憲論議、条件付きで容認も 9条以外で」。民進党の岡田は、憲法改正については、9条以外の条文についての改正であれば議論に応じるという。

蓮舫もこれと似たようなニュアンスのことを言っていたが、どうやら民進党の幹部たちは、憲法では9条が最も重要な条文で、他は二の次だと考えているようである。

それでは、たとえば13条(個人の尊重)、14条(平等原則)、18条(奴隷禁止)、21条(表現の自由)、36条(拷問禁止)などは、9条よりも重要度が劣るから、改正の協議に応じても良いということだろうか?

まともに考えてみれば、戦力の保持禁止についての改正よりも、奴隷禁止や拷問禁止の条項を改正する方がよほど問題であり恐ろしいことである。軍隊はないが奴隷制や拷問がある国よりは、軍隊はあるが奴隷制や拷問がない国の方がはるかに恐ろしいことは、常識的に考えればすぐわかるはずではないのか。

憲法9条至上主義とでもいうのか、「憲法では9条こそが最も大切で守らなければならない条文であり、他はそれよりは重要度が劣る」というような感覚は、おそらく民進党幹部だけでなく、多くの(いわゆる改憲派でない)人々が共有しているのかも知れない。

これは、「憲法といえば9条」という意識が蔓延していて、憲法改正論議も9条のことばかりを議論してきたという日本社会の風潮に原因があるのだろう。

憲法と反米と親米

ちょうどネット上で、米国のバイデン副大統領が、「日本の憲法は我々が作った」と発言したことが話題になったが、それにちなんで少し。

時々ネット上で

「サヨクやリベラルは反米なのに、どうして米国の作った憲法を守ろうとするのか?」

というような書き込みを見かけることがある。

ただ、これは逆に言えば

「ウヨクや保守は親米なのに、どうして米国の作った憲法を変えようとするのか?」

・・・という命題も成り立ってしまう。

実際は、“サヨク”“リベラル”は、米国のすべてに反発するような意味での「反米」ではないだろうし、もちろん“ウヨク”“保守”も、逆に米国のすべてを受け入れて追随するというわけでもないだろう。

その意味で、「反米なのにどうして憲法を守るのか」(またはその逆)という主張は、実りのある議論にはつながらない。

SEALDs再考

SEALDsが残した「成果」はどのようなものだったか。これはいろいろな評価があるだろうが、参議院選挙や都知事選挙の結果と照らし合わせた場合、どうだろうか。

SEALDsやそれに触発された人々が盛んに運動をしたにもかかわらず、参院選は"改憲勢力"が2/3を占めた、とみるべきだろうか。それとも、SEALDsなどが野党共闘を促して安倍自民に対抗しようとしたからこそ、この程度で済んだので、仮にその運動がなかったら、"改憲勢力"は3/4とか4/5くらいにまで到達していたということだろうか。

都知事選挙も同様に考えるべきだろうか。SEALDs(の流れをくむ人々)が頑張ったにもかかわらず、鳥越は勝てなかったということか。あるいは、鳥越はSEALDsの流れがあったからこそ、鳥越は小池+増田の1/3くらいもの票が取れたということであって、仮にSEALDsが存在しなかったら、もっと悲惨な状態だったということだろうか。

「リベラル」の悲鳴など誰にも聞こえない・・・(3)

「小池百合子は右派だ!」といったところで、もともと右派で何が悪いと思っている人間にとっては、何にも効果はない。

「小池百合子は極右だ!」といったところで、もともとある程度右寄りの人間にとっては(相対的に)極右とはいえないわけで、何にも効果はない。

「小池百合子は核ミサイル配備の検討を否定していない!」といったところで、「検討するぐらいあってもいいんじゃないの」と思っている人間にとっては、何にも効果はない。

それがこの結果である。

選挙に限った話ではない。たとえば憲法問題で、護憲を訴える本を出したところで、護憲派が買って読むだけである。護憲を主張する講演会を開いても、護憲派が集まって参加するだけだ。

そろそろ「リベラル」は、別なやり方を考えたらどうか。

同一労働同一賃金について

非正規賃金、正社員の8割に=働き方改革、月内にも始動―政府

リンク先は時事通信の記事。同一労働同一賃金が政策的課題とされるようになってきたが、そもそもなぜ正社員と非正規社員との間で、同じ賃金であっても賃金の格差が生まれるのか。以下に書くのは、労働経済学的な分析でもなければ、労働法とか倫理観に基づくあるべき論というほどのものでもない、大雑把な感覚的文章であるが・・

「同一労働同一賃金」が貫かれるようにした場合、正社員と非正規社員の賃金格差を正当化するのが困難になるのはいうまでもない。
これについて「うちの職場では正社員の方が責任は重いのだから、同一労働であっても、正社員の賃金の方が高いのは当たり前だ」という人がいるかも知れない。しかし本当にその指摘が正しいのであれば、責任の内容が違うのだから、そもそも「同一労働」ではないということになる。責任の重い仕事をする者の方が賃金が高くなるのは、別におかしいことではないし、「同一労働同一賃金」に反するわけでもない。

問題は、責任も含めて職務の内容が同じ場合に、賃金に格差があるのはおかしいではないか、ということである。

別な視点に立ってみよう。正社員と非正規社員とでは、会社で働くことが期待される期間(年数)の長さに違いがあるということで、賃金の格差を正当化できるだろうか。
つまり「正社員の方が長期間会社で働くことが期待されるのだから、賃金が高くて良いはずだ」と考えることはできるだろうか。(ここでは、非正規社員は、半年とか1年の期間限定の労働契約であることを一応の前提とする。)

しかし、正社員は長期間雇用されることが前提になっているというのなら、むしろ、後先の雇用の保障がない非正規社員の方の賃金の方が高くなければバランスが取れないというか、スジが通らないのではないだろうか。

これには恐らく社会学的・経済学的観点からいろいろな説明ができるのだろうが、とりあえず今回はここまでにしておく。

SEALDsと広報戦略

SEALDsの解散があちこちで報道されている。

さて突然だがここで、約半年前の朝日新聞に掲載された、瀬戸内寂聴とSEALDsの女性メンバーとの対談記事「青春は恋と革命だ!」を見てみよう。

http://www.asahi.com/articles/ASJ1V4DBHJ1VUPQJ002.html

(人によって評価はいろいろだろうが)女性メンバーはそこそこのルックスである。SEALDsのメンバーといっても実際にはいろいろな外見の人がいるはずだろうから、この記事の取材のために一定のメンバーを選んで登場させたのだろうか。

もちろん人の外見より中身が重要なのはいうまでもないが、まずは読者や観客や聴衆がつかなければどうしようもないから、一つの広報戦略として、写真写りの良い女性を選んで世間の目を引く(実際に反応するのは大半が男性ということになるだろうが)というのは、まあ、ありだろう。身も蓋もないが、「あ、そこそこ可愛い女の子がソフトな笑顔で何か主張してる。ちょっと見てみよう」と思わせるところから、広報活動は始まる。

なぜ「女性」のことばかりここで言うのかといえば、もともと上記で引用した朝日新聞の対談に登場するのが女性メンバーばかりだからであって、他意はない。

本当は、どんな外見のどんな性別年齢の人であろうと、その主張を先入観なしで聞いてもらえるのが望ましいのだが、そんなことを言っていてはなかなか世の中に注目してもらえないのだろう。他の政治活動団体も、このSEALDsの手法は学ぶ価値がある・・・かも知れない。

と思っていたら、今年の1月に、「SAPIO」にSEALDsを批判する人のインタビュー記事が掲載されていた。オピニオンサイト『iRONNA』特別編集長の女子大生だそうである。女性には女性を、ということだろうか。

http://news.livedoor.com/article/detail/10915002/

「リベラル」の悲鳴など誰にも聞こえない・・・(2)

都知事選挙のとき、小池百合子について、「日本会議」に属しているだの、軍備増強に肯定的だのという批判がネットで出回っていた。
(リテラの記事参照。http://lite-ra.com/2016/07/post-2438.html
しかし身も蓋もない言い方になるが、おそらく有権者の多くは、そんなことはどうでもいいとしか思っていなかったのだろう。
「日本会議」と聞いても、多くの人間はそもそも知らないか、知っていても「ああ、右寄りの政治家や文化人の集まりね」くらいの反応だろうし、「軍備増強」も「そういう考えもあっていいんじゃないの」くらいしか感じないのではないか。
「小池百合子は右派だ、右寄りだ」といったところで、みんな「それがどうかしたのか?」としか思わないであろう。

小池都知事を誕生させた大衆と、いわゆるリベラル派との間の絶望的?なギャップがここにある。

リベラル派は「右寄りだ」と叫ぶことによって相手に対するマイナスイメージを大衆に与えることができると思っているのだが、おそらく大衆自身はそうは考えていないだろう。要するに「右寄り」という言葉に対して抵抗感をあまり感じなくなっているのだ。
リベラル派の人々もそれがまったく理解できていないわけはないのだろうが、その「右寄りの大衆」が思ったより遙かに多かったということなのだろう。

リベラル派が、ただ単に思想信条を主張したいだけなら、大衆が右だろうと左だろうと意に介する必要はない。
「愚かな大衆には理解できていないのだ」と思えばそれで済む話である。

しかし選挙の場合はそうはいかない。リベラル派が国会の多数派なり都知事の職なりを狙うのであれば、ある程度以上の規模の大衆の支持をとりつけて浮動票を集めなければならないのであって、これはなかなか難題である。その大衆は、思ったよりも「右寄り」になっているのだから。

さて、リベラル派はどうすればいいのだろうか。
これはもちろんリベラル派の人々が自分で解決するべき課題であるが、敢えて私が言うならば、不本意かも知れないけれど「自分たちのどこが気にいらないのか」を教えてくれるように大衆に呼びかけてはどうだろうか。
レストランなどのサービス産業は、満足度や不満足度のアンケートを客に書いてもらうことがあるではないか。

もちろん大衆の判断が絶対に正しいとか、大衆の言うことを何でも聞くべきだというのではない。
「大衆が愚かだからこうなるのだ」と言いたい人もいるだろう。しかしまずは、愚かか賢いかは別として、大衆に教えを請うべきなのである。
レストランが顧客の不満足アンケートをやってみても、中には理不尽な要求や苦情を書く客も多々いるだろう。だが、まずは客が何を考えているのかを教えてもらわなければ、話は始まらないのである。

今、頭を下げなければならないのは、リベラル派の方なのだ。
まず大衆に頭を下げて、「なぜ自分たちを嫌うのですか、教えて下さい」と声をかけるべきではないか。
嫌われる理由を具体的に知って考えるところから、すべてが始まる。

「リベラル」の悲鳴など誰にも聞こえない・・・

しばらく放置してしまったが、久しぶりの記事。とある漫画のキャッチフレーズを真似たタイトルなのはご容赦を。

さて、曖昧に使われがちな「リベラル」という用語をあまり使いたくないのだが、便宜上ここでは、一般にマスコミで使われるように、「どちらかといえば政府与党に批判的な立場」「今年の選挙で野党連合を支持したような立場」を、とりあえず「リベラル」と一応呼んでおく。

7月の参議院選挙でも都知事選挙でも、「リベラル」は惨敗というべきであった。参院選では「改憲勢力」が2/3を占め、いっぽう都知事選では、鳥越の得票数は小池と増田の合計の1/3を下回った。

「リベラル」が今やらなければならないことは、まず自分たちが「少数派」であることを認めるべきである。

誤解を避けるため言っておくと、少数派だからダメだとか、少数派は無視して良いなどと言いたいわけではない(逆に応援しているわけでもないけど)。
ここで言いたいのは、まず自分たちが少数派であることを自覚したうえで対応策を考えろ、ということである。

少数派から何とかして多数派になることを目指すのか、それとも少数派として一定の固定的な支持層を固めていわばニッチ産業のような戦略でいくのか、選択肢はいくつかあるだろうが、いずれにしても少数派には少数派なりの取るべき戦略というものがあるわけで、まずは、現状では自分たちが少数派であることを認識しなければ話が始まらない。

(つづく・・・予定)

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