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2016年9月

若者の与党びいき?

本日の朝日新聞の「耕論 」コーナーで、若い層の与党支持の傾向について取り上げている。

なぜ若い世代が従来よりも与党・自民党を支持する傾向になったか、その理由について論者が分析しているのだが、そこで挙げられているのは、たとえば①自民党のことばかり報道される、②今の若者が物心ついた頃に覚えている政権は、人気のあった小泉内閣だった、③民主党政権には、大震災や原発事故など、当時の政府の責任とはいえないものも含めてマイナスイメージがある、④現状にいちおう満足しているので現状維持のため与党支持になっている、などであった。

これらはいずれも間違ってはいないと思うが、物事は表と裏の両方の側から見ることができるのであって、反対に「なぜ中高年は若者よりも野党支持率が高いのか?」と問い直すこともできるだろう。そこをじっくり分析した記事があれば良いのだが。

世代的にいうと、1960年代や1970年代に若者だった世代は、そもそも「管理社会」というものが否定的なイメージで捉えられる環境で育った世代だと言えるだろう。反体制、管理社会からの脱出のような言説がメディアにあふれていたのである。
それに対して現在の若者は、「管理社会」以外の社会はおよそ想像がつかないのであって、むしろ「管理されない(してもらえない)ことの恐ろしさ」の方が身にしみるのではないだろうか。就職難や自然災害などで、「しっかり管理して守ってもらいたい」という意識がむしろ強いのだと思われる。

野党共闘は単純な足し算にはならない

9月4日の記事になるが、東京新聞の試算によれば、次期衆議院選挙で野党4党が共闘して小選挙区で候補を統一すれば、議席が2倍になるという。

野党共闘、特に民進党と共産党の共闘や候補一本化が選挙に与える影響は、どのようなものだろうか。上記の東京新聞の記事のように、過去の総選挙のデータなどから、一本化すれば多くの選挙区で勝てるという試算もあるが、話はあまり単純ではないようにも思われる。

過去の選挙での共産党と民進党の得票の実績を足せば大体予想できそうにも感じられるが、共産党に比べて民進党の支持層は複雑かつ不安定であって、単純な足し算というわけにはいかないのではないだろうか。

民進党に投票する(投票した)層は、自民党に投票してもおかしくない層や、そこまでいかなくても共産党を嫌う層がかなり混ざっていると考えられる。このような層は、自民党と大きく違わない土俵での細かい政策議論を期待しているのであり、共産党との連携に対して拒絶反応を当然起こすだろう。さらにこの層には、いわゆる市民運動的なものに生理的に嫌悪感を抱く人もかなり混ざっていると思われ、そのような人たちは、市民運動団体が野党共闘を呼びかけることに反発するかも知れない。

このように考えてみると、民進党と共産党が連携した場合、上記のような層は逆に離反して、自民に投票とまではいかないまでも、行き場を失って棄権することも考えられる。野党共闘は、単純な足し算では済まず、逆に引き算になる可能性もあるということである。

隣人訴訟~他人の子どもは預からないということ

およそ40年前、三重県で行われた「隣人訴訟」というのが日本中を騒がせるニュースになったことがあり、これは今でも法学の教科書などで取り上げられることがある。

ある住宅地に住んでいる家庭の子どもが、ため池に入り込んで溺死した。その子の母は、ちょうど買い物に出かけていた。その母は、買い物に出かける際に、隣近所の別な夫婦に対して、その子どものことを「よろしく頼む」と告げていたのだが、その隣近所の夫婦が自分の家で別な用事に忙殺されている間に、その事故が起こったのである。(ただし隣近所の夫婦が子どもを「預かった」と言えるかどうか等、事実関係レベルで争いがある。)そして死亡した子の両親は、その隣近所の夫婦に対して、損害賠償請求の訴訟を提起したのだった。

今でこそ近所の人間を相手にした訴訟というのはそれほど珍しいものではないが、当時としてはかなりセンセーショナルに報道されて、まず原告、ついで被告に対して、世間から非難の電話や手紙が殺到し、原告・被告いずれも疲弊してしまい、結局その訴訟は、高等裁判所まで至った後に、取り下げで終了した。

この事件を紹介する法学の教科書は、このような世間の反応を日本社会の後進性の象徴のようにとらえて、「個人がもっと自律的にならなければならない」というような解説を加えるものもあれば、また、近代社会の「法化」現象の一つの現れとして位置づけて、従来の地域社会の人間の関係が変質していく過程に着目するものもある。

この事件そのものは、訴えが取り下げられてしまったため、訴訟で解決には至らなかったのだが、日本社会全体としては「解決」は既に見いだされている。

それは、「隣人の子どもは預からない」ということである。

この事件に対する世間の反響に「日本社会の後進性」を見て、「個人が自律して権利・義務をしっかり踏まえて解決するようにするべき」と説く観点を否定するつもりはないのだが、それは、「同じ共同体の中の仲間だから面倒を見てあげよう」と気軽に引き受ける発想を否定することになり、他人の子どもを預かる前に厳密な権利義務を定めた契約を締結するか、または一切預からないようにする、という形に行き着くしかないだろう。前者は非現実的であるから、結局は「隣人の子どもは預からない」という決着しかないのである。

(★子どもを預かってもほぼ間違いなく安全が確信できる場合は、もちろん別である。)

女性の社会進出を妨げるのは「配偶者控除」ではなく「配偶者控除の限度」だ

配偶者控除の廃止や見直しがまたもや検討されている。この問題は以前もこのブログで触れたことがあるが、「配偶者控除は、女性の社会進出を妨げている」などという言い方もかなりおなじみになってきた。

ここでは夫がメインで働いている家庭の妻を念頭におくが、妻がパートなどの仕事をしたとしても、その収入が103万円を超えると、夫が配偶者控除を受けられなくなり、結果として税負担が上がって、手取りが減ってしまうとされる。だから妻はあまり勤務できない(ただし、さらに勤務を増やして収入が増えていけば、いずれまた手取りは増えるわけだが、それは別として)。よって、配偶者控除は、女性の社会進出を妨げている「壁」であり廃止すべきだ、というわけである。しかし、このような言い方は果たして妥当だろうか。

一般的な言葉遣いとしては、「妨げる」というのは「邪魔する」ということであり、さらにいえば「それ以上進むことを妨害する」ということである。人間の行動を妨げる方法は何かというと、物理的に押さえつけるのが無理であれば、不利益を与えることによってである。

それでは、配偶者控除は、上記の意味で、女性の社会進出(就労による活躍)の「妨げ」になっているのだろうか。配偶者控除そのものは、上で書いたとおり、妻の所得が一定以下の場合に夫が控除を受けられるというだけのことであって、利益を与えるものであり、それ自体には何も不利益はない。不利益を与えないものを「妨げ」と呼ぶのはおかしな話である。

実際は、「配偶者控除が受けられなくなると税負担が増えるので、妻が一定限度以上働かない」ということである。つまり、女性の社会進出の「妨げ」になっているのは、「配偶者控除」ではなく、「配偶者控除の限度」(=配偶者控除を受けられる所得の限度)なのである。

従って、女性の社会進出の「妨げ」を取り除きたいのであれば、配偶者控除を廃止するのではなく、「配偶者控除の限度」を廃止するのでなければおかしいということになる。

配偶者控除があるから働けないのではなく、配偶者控除を受けられなくなるのが困るから働けないのである。

たとえば、ある家の中に、暖房の効いた暖かい部屋Aがあり、さらにその隣に寒い部屋Bがあるとしよう。部屋Aにいる人間は当然、寒い部屋Bには行きたがらない。部屋Aにいる人間が部屋Bに行くのを「妨げ」ているのは、何だろうか。部屋Aが暖かいことだろうか。それとも部屋Bが寒いことだろうか。常識的な言葉遣いで考えれば、部屋Bに行くのを「妨げ」ているのは、部屋Bが寒いことであって、部屋Aが暖かいことではないだろう。人を部屋Bに行かせたいのであれば、部屋Bを暖かくするべきであって、部屋Aの暖房を切るべきではない。配偶者控除廃止論者は、部屋Bを暖めることによってではなく、部屋Aの暖房を切って冷やすことによって人を無理に移動させようとしているのである。

日本会議ブーム?

このところ、「日本会議」に関する書籍が次々に出ている。「日本会議の研究」(菅野完)、「日本会議の正体」(青木理)、「日本会議 戦前回帰への情念」(山崎雅弘)などなどで、出版界はちょっとした日本会議ブームということだろうか。

私はどの本もまだ読んでいないし、「日本会議」というと、“伝統的保守”の強い傾向のある各界の人物が集まって、あとは、信念というより単に義理やおつきあいで参加したような政治家等が大勢加わった集団ではないかという程度の認識しかないので(現にそういう義理で名前だけ載せているような地方政治家の方を存じ上げている)、現時点では立ち入ったことは何も言えないのだが、今後、少しずつこの種の本を読んで研究してみようとは思う。

ただ一般論としていうと、結婚できない若者が増えて少子化が進み、その一方では、高齢化に伴って、介護問題がシャレにならないレベルに至り、もはや家族が介護で崩壊するのではないかという危機意識が広く共有されてきている現在では、大家族、親孝行、敬老・・・などをモットーとしてきたような「伝統保守」的な価値観を本気で貫徹させようとする政治家は、むしろ少なくなってきているのではないだろうか。

そう考えると、「日本会議」が“伝統回帰”的なスローガンを掲げて気勢を上げていたとしても、それがどこまで現実の政策に影響力を及ぼせるかどうかは疑問である。

あまりよく調べていない現段階で即断はできないが、現在の「日本会議」本ブーム(基本的に批判的なスタンスのものばかりだろう)は、かつては強かったが年老いて足腰の弱った相手を、年下の相手がボコボコ叩いているような感じなのではないかという気がしないでもない。
(以上は、まだこの種の本を読まない段階での抽象的な意見なので、今後、変わる可能性あり。)

なお日本会議に批判的な論者は、先の参院選や都知事選の結果をどう見ているのだろうか。日本会議の活動や謀略によって自民党などの“改憲勢力”が圧勝したと考えているのだろうか(特に小池百合子が日本会議の役職についていることを、都知事選の時に非常に問題視している人たちがいた。その問題意識は今はどうなっているのだろうか。まさに都政が日本会議に乗っ取られて戦前回帰をしようとしているというのだろうか。)

いずれにしても日本会議、そして日本における「保守思想」の行方については、じっくり腰を据えて論じてみるつもりである。

豊洲市場問題について

豊洲市場への移転について、地下空間の問題が連日マスコミをにぎわせているが、この問題は、

(1)安全性(建築工学および環境汚染対策)

(2)「盛り土」から「地下空間」に設計が変更された意思決定のプロセス

(3)設計・発注において関係者が不当・不法な利益を意図したかどうか

…と、それぞれ次元を分けて議論しなければならない。

最優先で考えなければならないのは、(1)であって、これを徹底的に分析・議論しなければならない。安全性に問題があるなら、延期でも中止でもやむを得ないので、必要十分な対策を講じるしかないだろう。そしてこの安全性は、将来長期間にわたって利用することを前提にして考えなければならない。

ただし安全性に問題がないことが判明した場合は、直ちに移転の作業を再開するべきである。既に移転前提で市場関係の業者は予定を組んでしまっており、移転が遅れれば無用の損害が生じるからだ。

(2)と(3)の問題は、移転を延期させる理由にはならない。移転作業を進めながらでも、事実関係の究明や不当なことをした者の責任追及、業務改善などはできるからである。

現在は、この3つの次元の議論が混同されていると思う。

三田寛子の謝罪会見(2)

先日のエントリーでも触れた三田寛子の会見について、週刊女性の記事で倉田真由美が疑問を示している。

 橋之助と三田寛子の会見に倉田真由美「普通の感覚では想像できない気持ちの悪い世界」

一般的な夫婦で夫が不倫した場合に、その妻が自分を責めるような発言をしたり謝罪したりするなら、今の時代、きわめて「気持悪い」ことということになるだろう。倉田真由美はその意味では正しい。

ただし既に書いたように、三田寛子が謝罪したのは、単なる夫婦の片一方の立場ではなく、会社の総務部長とかマネージャーが社長の不祥事について謝罪したようなものなのである。もちろんこれは普通の夫婦で通用する話ではない。

もっとわかりやすくいえば、橋之助が、不倫ではなく、泥酔して電車やタクシーで暴れて警察に通報されたのだとしても、三田寛子は同じような形で謝罪会見をして、「神対応」などと言われていたことだろう。

メディア関係者等が三田寛子の記者会見を誉める意味があるとすれば、それは「総務部長」や「マネージャー」の機能を果たしたという点である。本来、妻として夫の不倫を許す許さないは自由であって、許したことについて「神対応」「100点満点」などと第三者から誉められるいわれはない。

家庭が会社のような事業体になっていて、妻も総務部長的立場になっている「歌舞伎役者」だからこそ意味があるわけであって、一般的な家庭で夫の不倫を許す妻を「神対応」とか「100点満点」というとしたら、それは単なる男の勝手だろう。
(一部、「夫の妻も太っ腹で許して対外的な体裁を取り繕うのが良い妻だ」みたいな勘違いをしている向きがあるようだが・・。)

「生きづらい」という言葉、やめませんか

「生きづらい」という言葉が最近メディアで頻繁に見受けられるが、論者によってその意味はかなり異なる。経済的に困窮して生活苦に陥っている状態を意味する場合もあれば、仕事上のストレスがたまることを意味することもある。マスコミやネットで何かの事象について非難が集中することを指す場合もあり、さらには人間関係の構築がうまくいかないことを意味する例もある。

このように「生きづらい」という言葉は、人によって使い方が大きく違っていて、統一的な意味はないばかりか、厳密に検討するにはあまりに曖昧である。たとえば「現代は生きづらい時代だ」という言い方をする人は、室町時代や戦国時代、いや明治時代に比べても現代が生きづらいと言いたいのだろうか。

「生きづらい」という概念は、いろいろな意味や切り口が混在しすぎて、まともに検討できる概念ではない。むしろいろいろな問題がごっちゃになって、おまけに情緒的すぎて、分析的に問題を考える邪魔になっているとさえいえるだろう。

「経済的に貧困で生活が困難」「人間関係をうまく構築できない」「多忙・長時間労働で疲れてしまう」「様々な制約で子育てが大変」・・・これだけの別々の問題を、「生きづらい」というあいまいで情緒的な言葉でくくるべきではない。また、現代は過去の様々な時代に比べれば、生活面では遥かに恵まれているのであって、「現代は生きづらい(=現代以外はもっと生きやすかった)」などという捉え方自体に疑問がある。

個別の問題は、もっときめ細かく考えて議論しましょう。

いい加減、「生きづらい」という曖昧で漠然とした言葉を使うのは、やめませんか?

三田寛子の謝罪会見

歌舞伎俳優の中村橋之助の不倫報道について、妻の三田寛子が謝罪会見を開いた。

サンケイスポーツの記事 によれば、この謝罪会見には、各テレビ番組でも「名会見」「100点満点」「非の打ち所がない。気配りもして」などと称賛する声が相次いでいるという。

三田寛子は不倫の被害者なのに、なぜ謝罪会見までしなければならないのか(しかも「気配り」まで)という疑問が出てくるだろう。

ただ、これは“梨園の妻”という特殊な立場ゆえのことだろう。歌舞伎役者の妻は、政治家の妻と似たようなもので、会社の共同経営者とか総務部長のようなものである。マスコミや関係各界の人の対応も妻がやらなければならない。

このように考えると、夫の歌舞伎役者が不倫をした場合、妻の立場は、「被害者」というよりも、「社長が不祥事を起こした会社の総務部長」のようなものであることがわかる。

妻は、被害者なのに謝罪しているのではなく、会社幹部として社長の醜態について顧客(マスコミはまさにそういう立場といえる)に謝罪会見(広報活動)を行っているのである。

無届け介護ハウスの問題は解決困難

無届け介護ハウスの問題がNHKで報道されていた。

無届け介護ハウスの実態 自治体の半数が十分把握できず

介護施設、医療施設、保育園など、社会福祉関係の施設を設置して利用させる場合は、利用者の安全や健康を確保するため、手続、建物、人員などについて厳格な基準が設けられているのは言うまでもない。
無届けの介護ハウスは、この基準を満たしておらず、サービスの質や安全性などで多くの難点を抱えていながら、行政が把握できてないということである。

ただし問題は、このような無届け施設を規制して取り締まれば解決するというものではない。介護施設の供給の絶対量が足りていないため、高齢者が入居できずに困っている家族が多数存在するからである。
無届け施設を取り締まって運営を禁止すれば、入居者が行き場を失ってしまうだけである。

基準を厳格に満たした施設のサービスの供給が十分あって、社会の需要を満たすことができれば問題ないのだが、実際はそうはいかないため、基準を満たさない施設を利用せざるを得なくなる人が多く発生しているという実情がある。

これは介護施設だけでなく保育施設でも起こっている問題だが、サービスの供給の絶対量が足りない場合、結局利用者としては、「そもそも施設を利用できない」か「危険のある施設でもリスク覚悟でやむなく利用する」かの二者択一を迫られることになる。(ただし十分な金銭があれば「基準を満たして安全だが高額な施設を利用する」という選択肢もでてくる。)

この問題は、なにか劇的なコスト削減の手段が見つかるか、十分な公的財政支援が可能になって、基準を満たした施設を簡単に設置し提供できるようにならない限り、根本的解決は不可能と思われる。

橘玲は公的教育無用論者か?

まだ読んでいないが、作家の橘玲の「言ってはいけない 残酷すぎる真実 」という本が売れているという。

橘玲は、この本に限らずあちこちのコラム で、ある種の研究を取り上げて、教育の成果に格差が生じるのは、家庭の経済的な格差によるものではなく、知能の高低がおおむね遺伝で決まるからだという見解を出して、貧困層を念頭に置いた教育に対する公的な支援には意味がないかのような主張を導いている。

(上記の著作を読んでいないので、もし誤解があればご指摘いただきたい。)

しかしこの主張は、

 ①遺伝によって知能に有意な差が生じるかどうか

 ②およそ一般に、教育に効果があるかどうか

の2つの問題を混同しているだけだと思われる。

遺伝によって知能に統計上有意な差が生じるというのが仮に事実だとしても(①)、だからといって、教育(や、その支援政策)に効果がないということにはならない(②)。

知能の“高い”親の子でも、読み書きや四則計算をまともに勉強しなければ、まともに勉強した知能の“低い”子にかなうわけがない。また、他の条件が同じであれば、教材をまともに与えられた子の方が、そうでない場合よりも、成績は良くなるだろう。

(まさか橘玲は、「遺伝によって知能の高い子は、学校に行かなくても四則計算ができるようになる。」とか「遺伝によって知能の低い子は、学校に行っても何も頭にはいらない。」などと言っているわけではあるまい。なお、先天的な障害によってそもそも読み書きや四則計算を一切身につけることができない子もいるだろうが、ここで議論の対象になっているのは、そういうケースではないだろう。)

遺伝がどうだろうと、一般的には、学校教育で読み書きや四則計算を教わった子は、それを教わっていない子に比べれば、当然、それらの科目ができるようになる。また、参考書を買って読んだりする機会のある子は、それができない場合よりは、何らかの程度、成績はよくなるだろう。

仮に「親の知能が子に遺伝する」というのが真実だとしても、教育にはそれなりの効果がある。その教育の効果の現れ方にひょっとしたら遺伝で差があるのかも知れないが、それぞれの子について何らかの効果があるということには違いはない。

その意味で、公的教育やその支援の制度には、れっきとした存在意義があるということになる。

「知能は遺伝で決まるから、教育への公的支援はムダだ」という主張は、遺伝によって教育の効果に差があるかも知れないという問題と、教育そのものに効果があるかどうかという問題を、ごっちゃにしているに過ぎない。

民進党に“期待”する人の2つのタイプが違いすぎる

「民進党とその支持者」でもちょっと触れたが、民進党の立ち位置というか有権者との関係について、ここで整理してみよう。

民進党をまったく無視とか排除している人は別として、今の時点で民進党に何らかの役割を“期待”している人は、大きく見て2つに分けられる。

(これらの人は、必ずしも「民進党支持者」とイコールではない。民進党について支持とか投票はしないとしても、一定の役割を果たすことを期待している人たちが現にいるからである。また、民進党に一定の期待をしている人が、厳しく民進党の現状を批判することがあっても、それは別に矛盾ではない。)

タイプ1:民進党に、自民党とあまり変わらない範囲内で具体的な政策の代替案を期待する人

タイプ2:民進党に、自民党(安倍政権)を“阻止”する機能を期待する人

タイプ1の論評は、ビジネスマンのよく読む雑誌・新聞に見られる。例としては、たとえば「ダイヤモンド」に掲載された山崎元氏の次の記事があげられるだろう。

一方、タイプ2の論評は、朝日新聞など“左”“リベラル”系のメディアによく見受けられる。
たとえば次のコラム。

タイプ1の人は、民進党がそれほど自民党と違わなくても構わない。極論すれば、民進党が自民党とまったく同じ思想・政策でも構わないという人さえいて不思議ではない。
「全く同じだったら違う政党として存在する意味がないではないか」と言われるかも知れないが、政策が同じでも、政権につく組織や人間が交代する可能性があるということは、為政者の腐敗や怠惰や停滞を防ぐ意味で効果があるのである。
このタイプの人は、ビジネスマンなどが多いだろう。

これに対してタイプ2の人は、民進党に、いわばかつての旧社会党のような役割を期待する。自民党が“改憲”“自衛隊・安保拡充”などの政策をするのを阻止してくれることが、第一義的な民進党の役割だと考えているわけだ。
このタイプの人は、具体的な政策調整ではなく「自民党政権の横暴の阻止」が主眼なので、市民運動などで町に出る人も多いと思われる。

このように、民進党に“期待”するものが(仮にあるとして)人によって大きく食い違っている。旧民主党が結党された時から元々こういう難点があることは誰もがわかっていたことであり、ずっとついて回るのであろう。
 

「リベラル」の運動への支持が広がらない理由

反原発運動や反安保法制運動など、「リベラル」とされる勢力による運動は、それなりに盛り上がりを見せたりはしているが、幅広い有権者の共感・支持を集めるには至っていない。

原発に不安を感じたり、脱原発の必要性を認める人は、それほど少なくはないはずである。また、安保法制についても、必ずしも賛成しない人は相当数いるだろう。国会前の「反原発」「反安保」のデモなどにわざわざ来るのは限られた人だけだとしても、選挙などでもっと多くの大衆から広い支持を集められても良さそうなものだが、なぜそうならなかったのだろうか。

これは、思想が正しいかどうかとか、賛成反対とかという以前に、市民運動参加者と、多くの有権者との間で、認識の「枠組」のあり方に重大なギャップがあるからだと考えられる。一般の有権者から見れば、「原発をどうするか」「安保法制に賛成か反対か」というのは、あくまで政策的な手段の選択肢の問題である。

まず原発は、エネルギー供給の確保という目的のための手段の一つである。その手段の選択の中で、コスト、安全性などの要素を検討するわけだ。

いっぽう安保法制も、これまた、日本の安全保障をどうやって確保するかという目的のための手段の一つであって、その選択の問題である。

当たり前ではないかと思われるかも知れないが、ここで「リベラル」「市民運動」の人々との間で重大なギャップが出てくるのである。

反原発や反安保の運動をする人々にとっては、これは手段の選択の問題ではない。「善」と「悪」、「正義」と「邪悪」の対決の問題なのである。

複数の政策の手段の間には、善も悪もない。ただ、メリット・デメリットがあって、それを考慮してどう選ぶかという問題である。

しかし、反原発運動や反安保運動にとっては、そういう選択ではなく、あくまで「悪」である原発、「悪」である安保法制をどう阻止・廃止するかという観点の問題と考えられている。これが「認識」の枠組のギャップなのである。

一般の有権者、自民党支持者の中にも、原発に否定的もしくは慎重な人、安保法制に批判的な人は相当数いるだろう。だがその人たちは、政策選択の議論はしたいと思っていても、「善と悪の対決」という論法にはついていけないのである。

多数の有権者は政策の選択を考えたいと思っているのに、「リベラル」は、「善と悪の闘争」という枠組でしか対応することができていない。これこそが、「リベラル」の声が有権者になかなか届かない理由なのである。

日本企業の残業(長谷川豊氏のコラム)

本日の長谷川豊氏のコラムで、日本企業の残業の多さについて触れていた。長谷川氏によれば、日本企業で残業が多い理由としては

理由①=本当に仕事が多すぎて終わらないため
理由②=圧倒的に無駄なことをやり過ぎているため

という2つの要因があるという。

これは特に異論はないが、そのうち②への対策として、氏は次の提言をしている。原文のまま引用すると:

1、40・50代以上の会社員全員に「自分の資料は自分で作ること」を義務付けろ。あと、自分で飲むお茶は自分で用意させろ。

2、部長・局長たちは、自分の部署においてすべての部下が全員帰宅するまで、必ず会社から出るな。そして、朝は必ず誰よりも早く出社しろ。部長や局長が会社にいる間以外は部下は働かせるな。これを守らなければ罰則だ。

ということである。

このうち1は、一般論として異論はない。ただ、最近は多くの企業で、40代や50代の社員(多くが管理職)も自分の資料は自分で作ることが増えてきているのではなかろうか。長谷川氏によれば、40代や50代にはろくにExcelやパワポやWordを使いこなせない者が多いというが、果たしてどうだろうか。

パソコンが気軽に使えるようになって、職場への導入が爆発的に広がったのは、Windows95の登場がターニングポイントだったと記憶しているが、その時点で30歳前後までであれば、ExcelやWordにはかなりなじんでいるはずだろう。少なくとも「40代」は、そこまでパソコンが使えない人間は稀だと思われる。

逆に2の方は、逆効果ではないだろうか。「上司がいるから帰れない、帰りにくい」という雰囲気のある職場はいまだに多いだろう。むしろ上司はさっさといなくなってくれた方が、部下は帰りやすいと思われる。

ツィッターなどやるものではないことについて

香山リカはツィッターを公開していて、自分ではツィッターしない私も、時々見ることがある。

香山リカの主張や言動についてはここでは論じないが、この人は、いろいろな非難攻撃に対して、いちいち返事しているのである。

ツィッターは気軽に書き込めるだけに、それにいちいち反応するのは繁雑ではないだろうか。忙しいのに大変だろう。

自分で見ておきながらこんなことを書くのは矛盾するようだが、香山リカみたいな人は、ツィッターなどやるものではないと思う。有益な議論ができているとも思えない。もっと時間を大切にした方がいい。単なる意見発信ならブログなどでやればいい。

民進党の今後

民主党政権時代の失態のおかげで、この党には二度と任せられないという認識が国民に根強く残っている。
国民にとって最悪なのは、権力を乱用する政治家よりも、権力の使い方を知らない政治家である。
自民党政権の支持率が高いのも、民主党政権時代へのマイナスの記憶がかなり貢献していると思う。

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