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2016年10月

二重国籍を完全になくすのは不可能である件

蓮舫氏の騒動で、二重国籍の問題について世間で広く知られるようになったところだが、ここで日本における二重国籍というものの位置づけについて、制度的なポイントを改めて整理しておきたい。

(★なお蓮舫氏の場合は、当時の国籍法改正との関連で、以下の記述とは異なる点があることにご留意いただきたい。)

日本では、原則として二重国籍は認めていない。しかしながら、この原則を完全に貫くことはほぼ不可能であることも理解しておかなければならない。

まず、少なくとも一時的に二重国籍が発生することがありうる。

わかりやすい例でいえば、まず、日本人と(一定の)外国人の間で出生した子どもの場合である。
日本は国籍について血統主義を採用しており、単純化していえば、父か母かいずれかの片方が日本国民であれば、その子は日本国籍を有する(国籍法第2条)。

ところで、血統主義を採る国は日本以外にもあるから、その国の国民が日本国民と結婚した場合は、父母それぞれの国の血統主義が適用されるので、特別な規定が他にない限り、父母両方の国籍をその子は取得することになる。
たとえばイタリアは血統主義なので、日本人の男性とイタリア人の女性の間の子は、出生した時点で、日本とイタリアの二重国籍となる。

次の例として、日本国民同士の子であっても、出生地主義をとる他国で子が生まれた場合は、日本国籍とその国の国籍の両方を有することになる。

たとえばアメリカ合衆国は、自国領土で生まれた子どもは原則として米国籍を取得することとしている。従って、日本人夫婦がアメリカで出産すれば、その子は、日本国籍と米国籍の二重国籍ということになる。

このような二重国籍の日本国民は、原則として22歳までに、いずれかの国籍を選択しなければならず(国籍法14条1項)、日本の国籍を選択する場合は、そのことに加えて、さらに外国の国籍を放棄することを“宣言”しなければならない(同14条2項)。

この規定に従って、二重国籍だった人が、日本の国籍を選択し外国の国籍を放棄する宣言を行えば、そこですべて問題は解決し、二重国籍は解消されるのだろうか?

そういうわけではない。というのは、「日本の国籍を選択し外国の国籍を放棄する宣言」は、あくまで日本国に対して行う手続であって、もう一方の外国は何も関知していないからである。

そこで、外国の国籍を実際に離脱する手続を、別途、その外国に対して行わなければならない。国籍法第16条は、「(上記の)選択の宣言をした日本国民は、外国の国籍の離脱に努めなければならない。」と定めている。

しかしここで一つ問題が出てくる。外国の国籍を離脱できるかどうかは、その外国の法制度や政府が決めることであって、日本の法制度や政府が決めることはできない。たとえば日米の二重国籍の人が、「日本国籍を選択して、アメリカ国籍を放棄する」と判断したところで、アメリカ政府が認めなければ、まったく意味はない。アメリカ国籍をどうするかは、アメリカ政府が決めることだからである。
それでは、個人の意思では自由に国籍を放棄することを認めていない国と日本との二重国籍の場合は、どうすれば良いのだろうか。

この場合、手続として不可能なことを求めるわけにはいかないので、その外国が国籍の放棄を一切認めないのであれば、どうしようもない。だからこそ、国籍法16条は、「外国の国籍を離脱しなければならない」ではなく、「外国の国籍の離脱に努めなければならない」としているのである。

このような場合、外国政府の方が国籍を喪失させることを認めてくれない限り、二重国籍を解消することはできないということになる。

このように考えると、国際結婚や外国での出産も行われている現在、二重国籍を完全に無くすことはそもそも(ほぼ)不可能であるということを、まず理解しておかなければならないだろう。(「ほぼ不可能」と書いたのは、たとえば国際結婚で生まれた人には日本国籍は与えないとか、日本人夫婦がアメリカで出産した場合は日本国籍は認めないとか、かなり非現実的で極端な(非人道的なことになりかねない)制度にすれば、形のうえでは、二重国籍を根絶することは一応100%不可能というわけではないからである。)

なお蓮舫氏の場合は、報道されている情報を見た限りでは、二重国籍の善し悪しの問題ではなく、それ以前のレベルで、行うべき手続(国籍の選択)を行っていなかったことが問題とされている。
もっとも現実の法律では、国籍の選択を怠った場合、先日の記事でも書いたとおり、罰則としては、戸籍法135条に定める「5万円以下の過料」でしかなく、これは刑法上の刑罰ではないので、いわゆる前科にもならない。

真実を知りたいという願いをかなえるのは難しい件(大川小学校の判決について)

津波で多数の犠牲を出した石巻市大上小学校の生徒の遺族が市および県を相手取って損害賠償請求を求めた訴訟で、仙台地裁は原告側勝訴の判決 を言い渡したところだが、これについて石巻市が控訴することとしたという。

何かの事件や事故で多数の被害が出た場合、被害者や遺族が「何があったのか、真実を知るため」という目的で、損害賠償請求訴訟を起こすことがあるが、残念ながらその「真実を知りたい」という目的は、訴訟ではなかなか思うように達成できないことが多い。

法律上の細かい説明は省くが、大川小学校の訴訟としての争点は、①教員らが大津波の襲来による死亡という結果を予見できたかどうか、②教員らがその結果を回避することが可能だったかどうか、の2点ということになる。
そしてこの2点が認められれば(他の点では大きな争点はなかったと思われる)、被告(市、県)には損害賠償責任が認められる。

逆にいえば、この2点が認められるかどうかの判断に必要な範囲でしか裁判所は審理を行わないし、この2点について判断ができれば、それ以上は裁判所は踏み込まないのである。
報道によれば、①の点は、広報車が来て津波の襲来と避難についての呼びかけを行った時点で、予見が可能だったとされている。
次に②の点では、裏山に避難すれば助かったはずで、その避難が可能だったにもかかわらず、生徒を避難させなかった(別な高台に避難しようとして、津波に襲われた)とされている。

つまりこの①②が認められれば、「市と県は損害賠償の義務を負う」という結論を出すことができるから、それ以上は裁判所は踏み込まないということになる。
もっと遺族が知りたいであろう事情、たとえば「なぜ、裏山に行かず別な高台に行くことを選んだのか、誰がどんな意思決定をしたのか」とか、「行動を開始するまでの間の数十分、教員たちは何をやっていたのか」とか、「最後にどんな状況で津波が襲いかかってきたのか」などという点は、特に解明できなくても結論には影響しないから、裁判所は取り上げないわけである。(★注)

(津波襲来前の数十分間、校庭で教員たちが論争していたのだろうと、ただ単にぼんやりしていたのだろうと、裏山への避難を怠ったという点には変わりはない。「裏山への避難をすれば助かったのに、避難をしなかった」という点だけが確認できれば、それ以上のことには裁判所は踏み込まないのである。裏山に避難をしなかった理由とか、歩き出すまで何をしていたのかの解明は行わない。)

このように、損害賠償を求める訴訟では、損害賠償の義務を被告が負うかどうかの結論を出すのに必要な範囲での事実しか裁判所は取り上げない。

実際の当事者が本当に知りたいのは、「なぜこんな惨事が起こったのか」「関係者はなぜやるべきことをやらなかったのか」「その場で何が行われていたか」ということなのだが、「真実を明らかにすることを求める裁判」という制度は存在しないので、結局は「損害賠償を求める裁判」という形式を取るしかない。
しかし「損害賠償を求める裁判」では、既に述べたように、「損害賠償の義務を被告が負うかどうか」の結論を出すために必要な事実しか取り上げてもらえない。
ここにジレンマがあり、「真実を知りたい」という当事者の願いは訴訟ではなかなか充たされないことが多いのである。

(★注:たとえば「裏山に行くことも考えたが、地面がひび割れしたり危険物が落ちていたりして行くのが無理だったので、行かないことにした」ということであれば、市や県が損害賠償をするべきかどうかの結論に影響は出てくる。ただしこれは、前提となる②の部分の判断が変わってくるからである。)

市民団体代表ら、蓮舫を東京地検に告発へ(法律面での検討)

 民進党の蓮舫代表の二重国籍の問題で、市民団体「愛国女性のつどい花時計」の岡真樹子代表らが28日、国籍を選択する義務を怠り、参院選で虚偽の事実を公表したとして、国籍法違反と公職選挙法違反の罪で蓮舫氏に対する告発状を東京地検に提出したという。

 産経新聞の記事 によれば、「告発状によると、蓮舫氏は17歳だった昭和60年(1985年)1月に日本国籍を取得。国籍法に基づき、22歳になった平成元年11月28日までに日本国籍か台湾籍のいずれかを選択する義務があったにもかかわらず、今月7日に選択の宣言をするまで義務を怠った。また2016年7月の参院選(東京選挙区)に立候補する際、国籍選択の義務を果たしていないにもかかわらず、選挙公報に「1985年、台湾籍から帰化」と記載して虚偽の事実を公表したとしている。」とのことである。

 なお、ネット上の各種情報を仮に信用するならば、「1985年、台湾籍から帰化」と記載されていたのは、2004年の参議院選挙の選挙公報であり、今年の選挙公報には特にその点は何も触れていなかったようである。(その間の2010年の選挙公報については不明。)

 さてここで、二重国籍の是非とか、政治家の国籍がどうあるべきかとかの議論は一切ぬきにして、この告発について純粋に法律面で検討してみよう。

 実際の告発状が公開されていないようなので、この記事しか判断材料がないが、申告されている犯罪事実としては、「国籍法違反」「公職選挙法違反」とされている。

 まず国籍法違反については、22歳に達するまでに日本国籍を選択しなければならないにもかかわらず(国籍法14条1項)、それを怠ったということである。
この国籍法第14条1項に違反した場合の罰則はない。ただしこれを踏まえた第14条2項によれば、国籍の選択は戸籍法の定めるところによって行うこととされている。
そして戸籍法第104条の2第1項では、「国籍法第14条第2項 の規定による日本の国籍の選択の宣言は、その宣言をしようとする者が、その旨を届け出ることによつて、これをしなければならない」とされているので、国籍法14条1項に違反するということは、すなわち戸籍法第104条2第1項に違反するということになる。

 この戸籍法第104条2項第1項に違反した場合は罰則があって、戸籍法第135条で「正当な理由がなくて期間内にすべき届出又は申請をしない者は、5万円以下の過料に処する。」とされているので、結局のところ蓮舫は、国籍法第14条違反→戸籍法第104条の2第1項違反→戸籍法第135条という段取りで、5万円以下の過料を科される可能性があるということになろう。

 次に公職選挙法違反については、公職選挙法第235条第1項で「当選を得または得させる目的をもって・・・身分、職業もしくは経歴・・・に関し虚偽の事項を公にした者は、2年以下の禁固または30万円以下の罰金に処する。」とされている。
 そこで、蓮舫が、昭和60年1月に台湾籍を残したまま日本国籍を取得したことについて(この前提が事実なのかどうかわからないが、いちおう記事に従っておく)、「1985年、台湾籍から帰化」と選挙公報に記載したことが「虚偽の事項を公にした」といえるのかどうかが問題となる。

 国籍法でいう「帰化」とは、法務大臣の許可を受けて国籍を取得することであり、原則として「日本の国籍の取得によってその国籍(=もとの国籍)を失うべきこと」が要件とされている(国籍法第5条1項)。

 蓮舫の場合、法務大臣の許可を受けて日本国籍を取得したのではなく、法務大臣への届け出(国籍法附則(昭和59年5月25日)第5条)により日本国籍を取得したのだから、厳密には「帰化」ではなく「1985年、届け出により日本国籍を取得」とするべきだったのだろうが、これを「台湾籍から帰化」と書いたのが「虚偽の事項」とまで言えるかどうかは、なかなか難しいのではないだろうか。まあ「台湾籍から帰化」とすると、台湾籍はその時点で失ったような印象であるが、「台湾籍を放棄」と書いたわけでもないので、これをもって「虚偽の事項」とまで断定するのは少々難しいような気もする。

 仮に「虚偽の事項」に該当し、公職選挙法235条第1項の罪を犯したとして、刑罰は2年以下の禁固であるから、公訴時効は3年である(刑事訴訟法第250条第2項6号)。
選挙公報で問題の「台湾籍から帰化」の記載をしていたのは、2004年(平成16年)であるから、既に公訴時効は成立している。(2010年の選挙公報だとしても同じである。)

 なお選挙公報とは別に、蓮舫が自分の公式サイトで2013年(平成25年)まで同様の記載をしていたという情報もネットで出回っているが、仮にそれが事実だとしても、単に告発しただけでなく、検察官が公訴を提起しないと、そのまま公訴時効は進行して2016年が終わってしまうので、公職選挙法違反については、結局時効が完成してしまうのではないか。

 そうなると、蓮舫について何か罰則に問われる可能性があるのは、戸籍法第104条2項違反での第135条の過料の問題だが、そもそも「過料」とは行政罰であって刑罰ではないから、刑事訴訟法は適用されない。

 すなわち国籍法第14条違反→戸籍法第104条の2第1項違反については、刑事訴訟法が適用されないのだから、刑事訴訟法で定める「告発」の規定も適用されないはずである。

 以上から、①公職選挙法違反については、かりに235条1項違反に該当するとしても、公訴時効が成立している(成立する)可能性が極めて高く、②国籍法違反については、そもそも検察官が扱う「犯罪」には含まれておらず、行政上の義務違反にしかならないことから、東京地検は今回の告発をうけて蓮舫氏について公訴を提起することはなさそうである。

(★実際の告発状を見ていないのだが、おそらく犯罪として記載されているのは①の公職選挙法違反の部分だけで、②の国籍法違反は、①の公職選挙法違反の構成要件である「虚偽の事項」の内容として引用しているだろう。もとの記事だと①も②も犯罪として告発したかのように読めるが、②は行政上の義務違反であり違法ではあるが、刑事訴訟法上告発できる「犯罪」ではない。)

安冨歩東大教授の琉球新報での発言について

安冨歩東大教授が琉球新報で、
「非暴力の闘争で最も大事なのは、どうすればこちらが暴力を使わずに、相手を挑発して暴力を使わせるか、ということ。今回、この線から近づくなと言う警察に対し、抗議する人々が金網を利用して挑発し、日本警察の本質を露呈させた。「土人」発言という暴力を振るったことで、警察は窮地に立たされている。沖縄が今考えるべきは、さらに挑発的な次のアクションをどう起こすかだ。」
と述べている。

沖縄の基地建設工事反対運動と安冨歩氏の関係がどのようなものなのか私は知らないのだが、以下で書くのは、安冨歩氏と反対運動との間で、一定の意思疎通がなされていて、安冨氏は単なる好意的な第三者や傍観者ではなく、ある意味当事者や支援者の立場であると一応仮定しての話である。

まずあらかじめ述べておくと、この記事では、反対運動そのもの、基地建設工事そのものについての賛否はここでは触れない。また、「挑発」すること自体の是非も述べない。あくまで純粋に、ある種の闘争や駆け引きや交渉の戦略とか戦術の中で、「挑発」というもののあり方についての興味からちょっと考えてみたことである。

「沖縄は挑発して暴言をうまく機動隊に言わせた。さらに挑発するべきだ」ということを、公のメディアで堂々と述べるのは、戦略とか兵法という意味では果たしてプラスになるのだろうか。

世の中一般の話として、およそ挑発行為というものは、挑発していることを自分では正式には認めないからこそ効果があるのではないか。

「悪いのは相手だ、向こうから先に手を出した。自分は先にはやってない」と第三者に向けてアピールするためにこっそりやるのが、挑発なのである。

だとすれば、自分から挑発していることを堂々と認めてしまって良いのだろうか。それは、種を明かしてしまった手品師と同じではないのだろうか。

「機動隊の暴言は、自分たちが狙って挑発して引き起こさせたものだ」というなら、それはそれで(反対運動の立場として)構わない。ただし、そのことを堂々と認めるのは得策なのだろうか。この種の発言は、同志とか仲間うちの秘密の会合のような場で言うべきことではないのか。新聞のように、不特定多数が読むことができる公のメディアで言うのは愚かなことだと思う。

新聞のような公のメディアは、どのような思想・立場の人間も読むことができるものである。反対運動について批判的な立場の人も当然読んでいるはずである。
(琉球新報は、反対派しか読まないわけではない。)
たとえば産経新聞や保守的な論者は、「機動隊の土人発言は、反対派の過激な暴言や挑発によって引き起こされたものだ。反対派の挑発的な言動も問題にするべきだ」と主張しているのだが、そのような人々も、琉球新報について目を通しているだろう。

そういう状況下で、
実はあれはこちらが挑発して、そういう発言をするようにやらせたんですよ
などと言うのは、少なくとも反対運動自身の立場にとって、プラスには働かないように思われる。保守的なメディアや論者から見れば、「ほら、自分たちでそう言っているではないか。挑発したからあんな発言が出たのだ。挑発する方が悪い」というふうに議論を持っていくであろう。

要約すると、反対派が“挑発”をするのは、反対運動の自由…というかそれなりの作戦として筋が通っているのだろうが、反対派が自分から“挑発”していることを公の場で堂々と自ら認めてしまうのは、その作戦に自分で水を差すのに等しいのではないか、ということである。

たとえば外交や戦争などを考えてみると、挑発とは、どんなに明々白々であっても、自分では「自分たちは挑発をしているのだ」ということを第三者に対しては認めないものである。

なお安冨教授が、当事者や支援者ではなく、単なる“好意的な第三者”“応援する外野”のような立場で、上記の発言をしているとすれば、なおさら余計な発言ではなかろうか。当事者が挑発のつもりでやっているとしても、それを「あれは挑発だ、どんどんやれ」と第三者が公の場で言っているようなものである。

仕事の速い人間が早く帰れるとは限らない件

残業のことが世間で改めていろいろ話題になっているので、また思い出話を一つ。

20年ほど前のことになるが、私が前に勤務していた会社で、課長クラスの一つ下の階層の従業員(世間一般の呼び方としては、いわゆる「係長」とか「主任」のクラス)に対して、残業代20時間分の「手当」を固定的に支給することになった。この制度はおそらく現在も続いているだろう。

各事業所の人事・労務担当者を集めた本社の会議で、制度の説明が行われた。会社としては、「残業代を20時間分しか払わない」という趣旨ではなく、実際の残業が20時間を超えたら、この手当とは別に、通常の残業代も払うということであった。(実際、給与計算システムはそのような設定になっていた。)

さらにこの20時間分の手当の導入と同時並行で、この手当を受ける「係長」「主任」クラスの従業員は、出退勤の時刻の管理を、タイムカードやIDカードで機械的・客観的に記録するのではなく、パソコンの専用アプリに自分で入力することとされた。
会社の本音としては、極力、20時間を超える残業時間の申告が出ないようにして、残業代の抑制をさせようとしていることは、誰の目にも明らかだった。

本社の人事部門のスタッフは、次のようなことを言っていた。

「普通に残業代を支給する方法だと、仕事を速く済ませられる人は早く帰れるので、あまり残業代の支給がない。これに対して、仕事の遅い人は、残業時間が長くかかるので、残業代を多く支給される。これは不合理だ。そこで、早く帰れる人にも、一定の手当が付くようにした。また、残業をする人も、出来るだけ20時間内で仕事を効率的に済ませられるように努力するようにさせたい。」

一応これはそれなりに筋の通った理屈のように思われたが、よくよく考えてみるとそうでもないと思えてくる。
優秀で仕事を速く済ませることができて、やるべき業務を17時かそれ以前に終わらせてしまうような人がいたとして、会社はその人をそのままにしておくだろうか。毎日17時で帰らせておくだろうか。
そうではないだろう。17時以前に仕事が終わってしまう優秀な従業員がいたら、上司はその従業員に対してさらに仕事を増やしていくだろう。

逆に、非効率で、他の人間なら17時に終わらせられる仕事を、夜遅くまでかかってやり遂げるような人がいたら、いつかは仕事を召し上げられて別な人間に回され、その人はもっと重要度や負荷の低い仕事を与えられるのではないだろうか。

(以上は、従業員を簡単には解雇することがなく、ある程度人員が豊富な、一般的な日本の大企業を前提とした話である。私のいた会社はそういうところだった。中小企業やベンチャー企業などはまた違ってくるだろう。)

ともあれ、このような思惑を会社が抱えながらも、20時間の手当+勤務時間自己入力の制度が開始した。

しばらくして、上司から残業時間を実態より少なく入力するように指導されて不満をもった誰かが、労働基準監督署に通報したのだと思うが、監督署から一部の事業所に調査が入り、労働時間の管理を従業員の自己入力に任せるのは望ましくないとか、実労働時間をちゃんと把握して20時間を超えた部分については残業代を適切に支給するように、という指導がなされた。

それはともかくとして、世間でよくいわれる「優秀で仕事の速い人は、すぐ仕事を完成させるから、早く帰れるはずだ」という理屈は、多くの会社の実態には合わないのではないかと今でも私は考えている。仕事がすぐ済むような人間には、新たな仕事を会社はどんどん与えて使おうとするものである。

沖縄基地問題での「土人」発言

例の沖縄のヘリパッド移設工事で、大阪府警から派遣された機動隊員が「土人」発言をした問題について、金田法務大臣は、「土人」という言葉は差別用語にあたるという認識を示したとのことである。

(以下の記事参照)
「土人」は差別用語、法相が認識示す 参院法務委

沖縄の米軍基地の建設の是非の問題はさておき、「土人」という用語が使われたことの意味について、ここで簡単に私なりの考えを述べておきたい。

「土人」という言葉は、一般的にいえば、南の方の国や地域の原住民で、自分よりも文化的・経済的・技術的に遅れた社会の住民であることを示すニュアンスで使われる言葉だと言えるのではないだろうか。
(ただしアイヌについて北海道旧土人保護法という言葉が使われたように、北方の地域の住民に「土人」という用語が使われた例がないわけではないが、一般には南方に使われることが多いだろう。)

「土人」を差別的でない意味で用いた例もあるにはあるのかも知れないが、少なくとも本件では、差別的・侮蔑的意味合いがあったことを否定するのは無理である。

なおインターネットで「沖縄 土人」という言葉で今回の事件よりも前の期間を対象としてgoogle検索をかけてみると、いろいろな例が出てくる。今回の機動隊員の発言がその流れの影響を受けているかどうかは知らないが、この種の文脈で平気で「土人」という用語をインターネット上で書く者が常にいるということである。

機動隊員が、「バカ」と呼んだのに対して「うるせぇ、バーカ」とか「だまっとれアホ」とか言い返したのであれば、それはそれで公務員の発言として批判はありえただろうが、ここまでの問題にはならなかっただろう。バカとかアホとかいうのは、あくまでもその相手個人を罵倒する言葉だからである。
これに対して「土人」というのは、その一定範囲の土地の住民の集団の存在をまず想定して、その集団に属する人物に対して向ける言葉である。機動隊員が直接罵倒したのは特定の1名かも知れないが、その背後に住民の集団が存在し、その集団全体について「土人」という属性があてはまることが前提になっている。
(特定の誰かだけが土人であるわけではない。)

ある特定の地域の住民の1人を公務員が「土人」呼ばわりするというのは、その地域の住民に対する差別というか蔑視であるということをまず認識しなければならないのは当然なのだが、それとはまた別次元の問題として、この発言は、まさしく日本国の統合を心理的なところから危うくするものだということもできる。特定地域の住民が、公権力を背負った公務員によって、文化的・経済的・技術的に遅れた社会の住民を意味する「土人」という用語で呼ばれてしまったからである。

特に沖縄という地域は、江戸時代以前は、天皇をいただく朝廷の支配体系に組み込まれていなかったこと(たとえば「甲斐国」とか「讃岐国」のような地域区分には琉球は含まれていないし、琉球国王が天皇から「大納言」や「従二位」ような官位を与えられていたわけでもない)、明治になって始めて明確に「日本国」の一部とされたこと、さらに第二次大戦の地上戦の惨禍や米軍基地の大きな負担もあるのであって、そのような背景をもつ地域の住民に「土人」という蔑称を、本土から来た公務員が堂々と用いた場合、その住民の人々がどういう気持ちになるか、また社会的にどういうインパクトを及ぼすか、想像力に欠ける人が多いように思われる。

大阪府警が「土人」発言をした機動隊員に対して戒告処分をしたり、法務大臣が「土人は差別用語」と述べたのも、政府や警察の立場としては当然の対応であるとしか言いようがない。

なお、機動隊員に対して、家族に具体的に危害を加えるかのような脅迫的言辞をぶつける反対派がいたという意見もあるが、仮にそれが事実だとすれば、脅迫罪や公務執行妨害罪などで取り締まるべき問題であって、機動隊員が「土人」呼ばわりすることを正当化するものではない。

電通の夜10時一斉消灯は無意味である

報道によれば、電通は、女子社員の自殺事件を受けて、夜10時以降、全館一斉消灯を始めたという。

電通、夜10時に全館一斉消灯…過労自殺受け

今回の電通に限らず、このような施策をする会社が時々見受けられるが、少なくとも電通の場合は、こういう外形的な部分で従業員を早く会社(の建物)から出て行かせるようにしむける施策をやっても、過労死や自殺を防止するための対策という点では、ほとんど意味がないと思う。

というのは、「夜10時に電灯が消されるから、もっと早く仕事を済ませて帰ろう」という判断をして、自分で業務時間の調整ができるような立場の人は、もともと過労死などする可能性は低いからである。逆にいえば過労死する人は、自分で調整できないほどの仕事量を抱えていたり、時間を問わず指示されたことをしなければならない立場にあったりすることが多い。

「時刻を決めて一斉に消灯をしないと、仕事がダラダラして居残ってしまう」という発想があるのだとは思うが、ダラダラ仕事して結果的に時間が延びているというだけであれば、そうそう過労死や自殺はしないものである。

そもそも電通の場合、クライアントとの打合せは会社の建物の外(クライアント側の事務所とか、その他の場所)でもできるだろうし、資料作りは家で出来るものもあるだろう。絶対的な仕事量が変わらない限り、夜10時以後、そのまま会社の建物の外部に仕事を持ち出すか、従来より朝早く出勤して仕事をするか、いずれかになるだけではないのだろうか。

私自身が企業に勤めて人事・労務関係の仕事についていた時の経験でいえば、本当に従業員の残業や過労を何とかしようと思うのであれば、仕事の内容や進め方そのものを見直す必要がある。どのようなタイミングにどのような量の仕事がどこからやってくるのか、それをどう割り振るのか、等々について取り組まなければ解決はできないし、実際にこれらの要素を見直すのは極めて困難である。

なお問題となった女性の自殺は、物理的な労働時間が長すぎたからというより、人間関係やパワハラ、セクハラなどの問題の方が大きかったのではないかと私は考えているが、こういう部分は客観的な“形”“証拠”には残らないので、表にはなかなか出てこない。わかりやすい「労働時間の長さ」の問題だけがクローズアップされている状態である。

今こそ労働時間の記録を法律上の義務にしよう

電通の女子社員の自殺についての報道の印象がまだ生々しい中であるが、今度は、高浜原発の審査の対応をしていた関西電力の管理職の自殺(本年4月20日)について労災認定がなされていたというニュースが報道された 。4月の残業時間は150時間ほどとされているようである。
報道を見る限り、電通の事件の場合は単なる労働時間の長さにとどまらずパワハラ的なものもあったのではないかと疑いたくなるところがあるが、関西電力の場合は、まさしく長時間労働による過重な心身の負荷が主な問題のように思われる。

ところで過去の記事でも何度も触れてきたが、現在の労働基準法の中では、使用者がタイムカード等で労働者の労働時間を記録しなければならないということを明確に直接定めた条文はないということを、ここで改めて思い出しておきたい。

正確にいえば、厚生労働省の通達では、使用者がタイムカード等で労働者の出勤や退勤の時刻を記録するべきこととはされているが、これはあくまで行政の解釈であって、労働基準法という法律の中に、直接「使用者は労働時間を記録しなければならない」という規定の条文があるわけではないし、記録しなかったとしても、そのこと自体についての罰則は存在しない。
(ただし、法律上の制限を超えて残業をさせたり、残業代が支給されなかったりしたら、その場合はもちろん「違法」となる。このような場合は、労働時間の記録もまともに行われていないことが普通だろう。ただし、労働時間を記録しなかったという事実それ自体が単独で労働基準法違反になるというわけではない。)

過労死の問題に対する対策としては様々な課題があるだろうが、具体的な方策はさておき、まず何よりも、働く人間の現状を会社が把握していなければ話にならない。その意味で、行政の解釈のレベルではなく、労働基準法という「法律」のレベルで、労働時間の記録義務をはっきり法律上規定して、記録を怠ったり事実と異なる記録をさせるなどの行為には罰則もつけるべきである。
私がここで労働時間の記録を法律で義務付けよといっている目的は、時給や残業代を計算することではなく、何よりも働く者の健康管理のためである。従って一般の労働者だけでなく、残業時間の規制を受けず残業代も支給されないいわゆる管理監督者についても、一切区別せずに導入するべきである。

残業代支給についての議論は別にして、また労働時間の上限を厳格に設けるかどうかという論点もおいて、まずは、労働時間記録義務をはっきり法律=労働基準法で決めるべきである。残業代の支給のあり方をどうしようと、労働時間の上限をどうしようと、とにかく、新入社員も部長や課長も、労働時間がすべて記録されるようにするのが先決である。

経済界も、このことに対しては反対できないだろう。内輪のないしょ話はともかくとして、公の場で「労働時間を記録されると困る」などと堂々と表立って主張できる企業は存在しないはずである。

電通の「血みどろ研修」と就職活動

電通に勤務していた入社1年目の女性が自殺した事件では、まずこの女性がやっていたとされる長時間の残業が問題とされた。もっともこの件は、単に物理的な労働時間の長さだけでなく、職場の体質というか人間関係や上下関係、さらにセクハラやパワハラという観点で検討する必要があるとも思われるのだが、物理的な労働時間以外の人間関係などの複雑なファクターはなかなか会社の外には出てこないものであり、本人が亡くなってしまっている現在、実際にどんなことがおこなわれていたのかを解明するのは難しそうである。

ともあれこの事件以降、電通の職場での仕事のあり方や雰囲気などが一気に世間に注目されるようになった。ビジネスジャーナルでは、4年前の「電通社員『新人は毎日朝まで伝統“血みどろ”研修in飲み屋』」 という記事が、最近ひんぱんに検索されたせいか、ランキングの上の方に上がってきている。

この記事では、新人は研修で毎日のように翌朝まで飲み会に引っ張り回されるとか、飲み過ぎて血を吐いた者もいるとか、帰宅は朝3~4時が普通だとか、上下関係が厳しいとか、なかなか凄まじい話が書かれている。

例の貧困女子高生問題で捏造事件を引き起こしたビジネスジャーナルなので、この記事もどこまで信用して良いかはわからないが、このところ見受ける他のメディアの記事でも、電通の厳しさが報道されており、いわゆる体育会系で凄まじい勢いのある職場であることは間違いなさそうだ。

私が就職活動をしていた頃は、インターネットなどなかった時代で、企業の社風や雰囲気などは、各種メディアと口コミによる情報しかなかったが、電通がおっとりした職場などではないことくらいは常識だった。
ただ学生の就職活動に使われるサイトや紙媒体では、昔も今も、こういう職場の内情は表に出て来ることはなく、どこの会社も似たように「人間を大切にする」とか「若い人を活かす」とか、きれいごとしか書いていないものである。

各種ウェブサイトや就職情報媒体で、「当社は上下関係を重んじる体育会系の会社です」とか「新人には最初の半年ほどは翌朝まで飲み会を繰り返させ、人間関係やマナーの感覚を身につけさせます」などと正直に公表する会社はいない。このように会社の実態を隠して学生を募集するというのは、詐欺行為に近いようにも思うのだが、こういうことはもう当たり前になっているので、誰も何とも思わなくなっている。
もちろん賢明な学生は、表に出てきた情報だけでは会社の雰囲気はなかなかわからないことはわかっているので、大学OBなどのコネを活かして、働いている者に直接接触して話を聞こうとする。さらに最近では、いろいろな会社に勤めている人間の本音をネット上のあちこちで見ることができるようになってきた。

話にまとまりがなくなってしまったが、手段や経路はどうであれ、いろいろな会社のきれいごと抜きの実情が、もっと世の中の学生に広く知れ渡るようになって欲しいと思う。わかったうえで入社するのとそうでないのとは大違いだから。

山本農水相の事務所と労働基準法と残業代

報道によれば、山本有二農水相の事務所では、秘書を雇い入れる時に雇用契約書を作成せず、さらに月給17万円で「全部込み」ということにして、残業代を支払っていなかったという。

労働基準法の原則を守るならば、月給が17万円だろうと50万円だろうと100万円だろうと、法定労働時間(たとえば週40時間)を超えて働いた場合は、その残業時間(法定時間外労働)に対して残業代(割増賃金)を支払わなければならない。

ただし、月給が17万円ならともかく、たとえば100万円の場合にまで残業代を支払わなければならないかどうかは問題である。月給が100万円だとすると、仮に月の平均所定労働時間を160時間とすれば、時間割の賃金の単価は、100万÷160=6,250円となる。

残業の割増率は原則25%だから、残業代は1時間あたり、6,250円×125%=7,812.5円。

そこで、仮に1ヶ月あたりの残業が20時間とすれば、毎月の残業代は、上記の20倍だからおよそ15万6千円ほどである。残業代を付けることにより、月100万円が115万6千円ほどになるのだが、このような高収入の場合にまで残業代を厳格に支給しなければならないかどうかは、検討の余地があるだろう。

山本大臣のように「月17万円で残業も全部込み」というのは、誰もが直観的におかしいと思うが、「月100万円で残業も全部込み」というのであれば、それほど不当ではないようにも思える。

なお一般の企業の実務では、固定残業代制というのが行われる場合があり、これはたとえば「基本給部分が月〇〇円、月30時間相当の残業代部分が××円、あわせて月△△万円」というふうに、計算の基本となる部分(基本給、「基準賃金など呼び方は様々)をまず決めて、次に固定された残業時間に対応する残業代部分を定め(当然、割増率も正確に適用しなければならない)、あわせて月△△万円になるように、あらかじめ決めておくものである。

ただしこの場合も、実際の労働時間があらかじめ決めた固定残業部分(上記の例でいえば30時間)を超えた場合は、その超過部分については改めて別枠で、実際の労働時間に応じて残業代を支給しなければならないこととされている。たとえば月35時間残業した場合は、△△万円に5時間分の残業代もプラスしなければならない。

私個人としては、年収900万円か1000万円以上であれば、残業代は一切なしで「すべて込み」で固定してしまっても良いのではないかと考えている。(今でも時々話題になる「ホワイトカラーエグゼンプション」の考え方である。)
ただし「すべて込み」とすると、「働かせ放題になって過労死が増えるのではないか」という反対意見も強い。

この点、私自身は、健康管理の問題は、労働時間の記録を使用者の法律上の義務として明確化し(現在は労働基準法で「時間記録義務」を直接規定した条文はない。これは以前の記事でも書いた 。)、改ざんには罰則を設けるくらいにして、あまりにも長時間の労働が行われる場合はそれが記録として明確になるようにさせ、さらに使用者の健康管理上の責任(特に長時間の勤務者について)を重くすることで対応するべきと考えている。

ホワイトカラーエグゼンプションと労働時間の記録義務と健康管理義務の三者をあわせて同時的に制度として導入するのも一案だと思う。
企業の現場では、残業代の支給が増加するのを抑制するため、時間記録を曖昧にごまかしたりして「サービス残業」をさせるなどのケースも多々あるが、すべて残業代込みで給料が固定されているのであれば、企業が時間記録をごまかすインセンティブは大幅に減るはずであり(ごまかそうとごまかすまいと、給料支給額は増えないから)、逆に労働時間の正確な把握、ひいては健康管理の厳格化につながるといえないだろうか。

集英社「学習まんが 日本の歴史」新シリーズ刊行

高校時代のとある同窓生(執筆に関与している)から情報をいただいたので、宣伝というのでもないが、ここでご紹介しておきたい。

集英社から「学習まんが 日本の歴史」全20巻の新シリーズ が10月28日に刊行されるそうである。

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ご存じの方も多いと思うが、この集英社は、昭和時代から、「日本の歴史」の学習漫画のシリーズを何度も刊行して更新を繰り返してきており、現在売られているのが3代目で、今度刊行されるのは4代目となる。

初代は、監修・和歌森太郎、漫画・カゴ直利ほか(全18巻)で、昭和43年。

2代目は、監修・笠原一男、漫画・久松文雄ほか(全18巻)で、昭和57年。

3代目は、監修・岡村道雄、漫画・岩井渓ほか(全20巻)で、平成10年。

初代は私が小学生の頃に買ってもらって、何度も何度も読みふけったものである。第1巻ではヤマトタケルや神武天皇が詳しく取り上げられてたり(もちろん神話としてである)、南北朝時代を扱った巻では南朝方の日野資朝の息子が父の仇を討つエピソード(現在はともかく戦前は道徳教科書で取り上げられたらしい)がやけに詳しく描かれていたかと思うと、最後の昭和戦後の巻では、朝鮮戦争を仕掛けたのは米国側だとされていたり(現在ではもちろん否定されている)、今の時点とかなり視点が違う叙述が多くみられるが、絵に勢いがあり、読み物としての面白さはバツグンである。

2代目は中古で買いそろえたが、初代に比べるとだいぶ大人しく薄味になってしまっている。久松文雄が絵を担当した部分はそれなりに絵に味わいがあるが、他の部分は人によりけりである。

現行の3代目は、本屋で時々立ち読みをしたことがある程度だが、絵の担当者が従来よりも多く分散してバラバラな印象を受ける。ただし学問的には最新の状況を反映しているのだろう。

今度出る4代目はどのようなものか、なかなか楽しみである。

山崎雅弘「日本会議 戦前会議への情念」(集英社新書)

山崎雅弘『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書) について。

第1章では、第三次安倍内閣の閣僚のうち日本会議(+神道政治連盟)のメンバーがかなりの比率を占めていること、慰安婦問題や南京大虐殺問題についての日本会議の言動、さらに中国の脅威を日本会議が強調していることなどを説明している。

第2章は、日本会議の形成に至る歴史的な流れ、その組織や人脈が説明されている。

第3章は、「日本会議の『精神』」と題されているが、実際は、安倍首相、日本会議の個々の関係者、神社界関係者などの断片的な発言を無造作に混ぜて並べて書いているという感じである。
さらに、この章で突然、戦前に文部省が国民の思想教育のために作成した冊子『国体の本義』と『臣民の道』を取り上げて、その内容を紹介しておいて、日本会議の設立宣言や公式目標などの記述が、この『国体の本義』『臣民の道』に類似していると主張している。
(しかし、日本会議が、『国体の本義』『臣民の道』を推奨しているという具体的な事実についての説明は、特に本書からは見受けられない。後に述べるとおり、日本会議関係者の個々の発言と、戦前の教科書である『国体の本義』『臣民の道』の主張に一定の共通する要素があるとしても、だからといって、この『国体の本義』『臣民の道』の内容そのものがそのまま日本会議の思想と同じだと言って良いのかどうかは別問題のはずなのだが…。)

第4章では、教育問題、家族問題、歴史問題、靖国神社問題などについて、安倍首相や日本会議(の個々の関係者)の発言を取り上げ、そこに前掲の『国体の本義』『臣民の道』の内容についての説明を交えているのだが、これらの書籍を安倍首相や日本会議が信奉して実践しているのかということについては、具体的な論証がない。
このため、安倍首相の思想と、日本会議(の個々の関係者)の思想と、『国体の本義』『臣民の道』の思想が、いつのまにかなし崩し的にごっちゃにされており、読者を困惑させる。

第5章は、安倍首相と日本会議の改憲に対する志向や改憲運動が取り上げられて、日本国憲法の基本的人権などの価値観が挑戦を受けているとしている。
ここでも、前掲の『国体の本義』『臣民の道』などが突然引用されて、それが日本会議や安倍首相の主張とそのまま同じものであるかのように記述が進んでいく。

全体的にいうと本書では、日本会議の論者たちのおおまかな政治的傾向は一応わかるのだが、著者は日本会議の関係者に直接取材をした痕跡はなく、基本的には各種の報道や刊行物や講演の引用を中心として成り立っている。
それで足りない部分(特に日本会議の思想の「中核」?を示したいような部分)では、突然論証ぬきで、戦前の『国体の本義』『臣民の道』の説明を脈絡なく持ち出して、それが日本会議の思想とまったくイコールであるかのような記述がなされている。
しかし、日本会議の言動に戦前のこれらの書物と類似する部分があったとしても、日本会議が直接言っていないことまで『国体の本義』『臣民の道』を持ち出して説明するというのは、話のすり替えではないのだろうか。
日本会議の思想と、『国体の本義』『臣民の道』の思想は100%同じなのかどうかが問題となるはずだが、その点についての肝心の説明がない。

著者は、安倍首相は日本会議と一体となって戦前回帰の思想に基づいた政策を行っていると言いたいようなのだが、安倍内閣の施策が基本的にすべてそういう観点で説明できるのかどうかの分析をしているわけでもない。

全体的にはかなり手を抜いて急いで適当な引用を集めて書いた本という印象が強く(しかも上述のとおり、直接現在の日本会議と関係があるとは言えない『国体の本義』『臣民の道』についての批評を混ぜて内容を水増ししている印象がぬぐえない)、日本会議についてどういう立場を取るにしても、あまり読む価値はないように思われる。

島薗進氏と内田樹氏が推薦しているというが、本当に中身を読んで推薦しているのかどうか疑いたくなる。
最近たくさん出てきた日本会議関係本で私が読むのは、これが最初なのだが、少なくとも本書は、どうも単なるブーム便乗で急いで適当に断片をつなぎ合わせて書き上げた本という感じである。

日本の転職市場と終身雇用

「日本には転職市場がない」という言い方は今でもよく聞かれるが、一昔前ならともかく、現在は、かなりのところ転職者が職探しをする仕組が形成されてきているのではないかと思う。各種の転職斡旋の会社の広告も新聞雑誌やネットや電車内でおなじみになった。
NIKKEI STYLEの記事「会社を辞めた40代課長3000人の『転職のリアル』」 の中で、ミドル世代専門転職コンサルタントの黒田真行氏は、「数字の上ではバブル期を超えたといわれる転職市場の活況は今も続いています。」という言い方をしている。

ただ欧米と少し違うのは、日本ではまだまだ大企業では終身雇用(または長期雇用)制度が崩れず残っているということだろう。欧米、特に米国では簡単に解雇されて簡単に転職先をまた見つけるというイメージがあるが、日本の場合は、解雇ではなく、自己都合の退職や退職勧奨で会社を離れて転職するのがまだ主体なのだろう。

その意味で、おそらく欧米の規模には及ばないのだろうが、自己都合で辞めることに従来以上に心理的抵抗が少なくなって退職が増えていけば、転職市場もそれなりに形成されていく。逆に転職市場が形成されれば、それが自己都合での退職への心理的ハードルをさらに下げていくともいうことができるだろう。

また日本の大企業は、不況や経営難で人件費を削減する際には、中高年を標的として(ストレートな解雇ではなく)退職勧奨などを行うと共に、新卒の採用削減も行うのが普通だが、そのため一定の年齢層が足りないという現象が起こるわけで、景気や業績が回復してくると中途採用で不足分を埋める需要が出てくることがある。

終身雇用を前提にしても、それなりに転職市場は育ってくるものだろう。その意味で「終身雇用を潰さなければ転職市場ができない」というような単純化した主張には賛成できない。ただし転職市場がさらに育ってくると、長い目で見て、終身雇用の維持に対する執着のようなものが社会全体で徐々に弱まっていくということはあるかも知れない。

また、そもそも新卒を惹きつける力が弱い中小企業では、もともと新卒一括採用などできないので、中途採用を中心にせざるを得ないところも多い。たとえば私が勤務していた某大手メーカーは、もちろん典型的な日本的終身雇用が基本だったのだが、その子会社や孫会社になると、かなり活発に中途採用を行っていた。そういう現場を見ていると「日本企業が新卒採用中心というのはごく一部だけではないか」と感じてしまうのである。

濱口桂一郎「若者と労働」

濱口桂一郞「若者と労働」(中公新書ラクレ) について。

「新しい雇用社会」「日本の雇用と労働法」でも示した認識を踏まえて、本書は日本のメンバーシップ型の雇用システムの中で特に「若者」がどのような位置づけにあり、それがどのように変容してきたかを、雇用政策の変遷も含めて論じている。

近年、終身雇用を批判する論者たちの中で、①「終身雇用制があるから若者の就職難が起こる」とか②「中高年の人件費が高いから若者世代にしわ寄せが及ぶ」・・・という類いの大雑把な主張をする人が時々見受けられるが、本書はこのような短絡的な主張を批判する。
まず上記①の論点についていうと、仮に欧米のように、終身雇用ではなくゆるやかな解雇+欠員採用のシステムを前提とした場合、むしろ何らのジョブスキルもない新卒者こそ(必要な職務の欠員に充当できないから)就業がいっそう困難となるはずである。
また、②についていうと、日本企業では人件費が高いからこそむしろ中高年が優先的にリストラの対象となり(日本の場合は「解雇」よりは「希望退職」「退職勧奨」やもっと陰惨な形を取ることがあろう)、若い従業員はリストラ対象となる順位は極めて低くなっている。ただしそのようなリストラを要する事態になった場合、企業は新卒採用も絞り込むだろうから、新卒の求職者にしわ寄せが来ることは事実である。つまり同じ“若者”でも、既に企業のメンバーシップの内部に運良く入り込めている者と、そうでない就職活動中の者との間で、大きな隔絶が生じることになる。この意味で割りを食ったのがたとえば“就職氷河期”の世代であり、この世代は新卒で就職できなかった者が多く発生しているが、その世代がそのまま中年を迎えている危機的状況についても本書は着目している。

また、教育訓練などを含めた雇用支援政策について、「新しい雇用社会」「日本の雇用と労働法」でも多少は触れられていたが、本書ではこれらの施策について、その歴史的推移や今後の課題を含めて、かなり詳しく紹介されている。(この部分でも紹介されている制度の一環だが、1990年代に「ホワイトカラーの職務について社会一般に通用する認定をめざす」等の言い方で、ビジネスキャリア制度の試験が始まり、当時会社員だった私自身、「法務2級」の検定試験を受けて合格したことがあるが、特に会社ではそれを顧慮するような仕組はなかったし、私も十分それは承知していた。ただ現在はまた状況が違ってきているかも知れない。)いずれにしても定職につけずスキルを身につけられないまま放り出されている人に対しては、まずは教育訓練をして労働市場内で何とかやっていけるようにするところから始めなければならないということになる。

著者が大学教育の現状に厳しい目を向けていることも、本書の際だった特徴である。たとえば文学研究者や哲学の教授が、日本企業の終身雇用や年功序列の世界を低俗なものとして否定したり、就職活動に追われる学生を非難するような発言をすることが無くもないが、これは本書の視点からいえば、天に唾する自殺行為ということになるだろう。日本企業の終身雇用・年功序列の世界があるからこそ、特に職業向けの勉強をしたわけでもない“非実学”系の学部を出た学生も(そこそこ有名な大学であれば)企業に就職できているのであって、そうでなかったら“非実学”系の学部や学科にはそもそも学生が来なくなると考えられるからである。

なお若者の雇用が主題であることから、いわゆるブラック企業問題についてもかなり詳しく触れている。
余談ながら、ブラック企業について「メンバーシップ型とジョブ型との悪いとこ取りだ」と評する人もいるが、私自身は、ブラック企業も基本的にはメンバーシップ型企業であって、それでいて様々な点が劣化していたり、メンバーシップ型であれば通常期待されるような長所が欠落しているのだと思っている。(ムラ社会が劣化して人間関係が悪化しても、都市型の市民社会の要素を取り込んだことになるわけではないのと同じである。)
なお、時代が違っていれば(いちおう良い意味で)典型的な日本企業になれたかも知れないのに、諸般の事情でなり損ねた企業(比喩的にいえば、環境変化のため、毛虫が蝶になり損なって、毛虫のまま大きくなってしまったようなもの)も多く存在するような気もするが、それはまた別なところで具体的に考えてみたい。

配偶者控除廃止論の混乱

配偶者控除の見直し問題は、まだまだ続きそうである。

そもそも配偶者控除の廃止論は、複数の異なった目的というか観点が混在しており、それが混乱を招いていると言えるだろう。

整理すると、配偶者控除廃止論の目的(または期待される効果)としていちおう考えられるのは

(1)税収の確保(増税)

(2)一定程度以上働く女性とそうでない女性との不公平感の解消

(3)女性の社会進出の障害の解消

の3つであろう。(制度としては、配偶者控除は男性でも女性でも受けられるのだが、ここではいちおう例によって、夫がメインで働いている状況を前提とする。)

このうち(1)は言うまでもなく明らかである。増税の是非はともかくとして、実際問題として、現に配偶者控除を廃止すれば税収が増えるのは当然のことである。

(2)も理解できる。最初からフルで働いている妻が何の控除も受けられないのに、そうでない妻が控除を受けられるのは不公平だ、という考えはスジが通ってはいる。

 一般に、利益の有無で不公平が発生している場合、その不公平を解消する手段としては、①恵まれていない者にも利益を与えて底上げする方法と、②恵まれている者の利益を剥奪して引きずり降ろす方法と、2種類あるのだが、配偶者控除廃止論は、②の方法を主張していることになる。ただ、これとは別に、世帯の収入の多寡にかかわらず“夫婦控除”を導入するという案もあるが、これは①の方法である。①のほうが誰も現状より悪くならないという意味では望ましいとは思うが、実際問題として財源をどうするのかという困難に直面する。

一方、(3)はどうか。「配偶者控除は女性の社会進出(労働)の障害になっている」という主張は、比喩的にいえば、次のような状況を考えてみると良い。

2つの隣り合った部屋があり、片方には暖房がついていて、もう片方には暖房がなく寒い。暖房のある部屋に人が大勢こもっていて、隣の寒い部屋に行こうとしない。しかし政策としては、寒い部屋に移る人を増やしたい。どうすれば良いか。
一つの方法は、寒い部屋にも暖房を入れることである。そうなれば、隣のその部屋に移る人が出てくるだろう。
もう一つの方法は、暖房のついた部屋の暖房を切って、隣と同じ程度に寒くすることである。そうなれば、どちらの部屋に行っても寒いのだから、隣の部屋に移る人がやはり出てくるだろう。

この例でいうと、暖かい部屋から寒い部屋に人が移動するのを妨げているのは、片方の部屋が寒いからだとも言えるし、もう片方の部屋が暖かいからだとも言える。しかし、どちらかというと「妨げ」「障害」という言葉を使う場合は、不利益とか不快な要素などがある場合に用いるのが普通だろう。そうなると、「片方の部屋が暖かいこと」ではなく「もう片方の部屋が寒いこと」の方が、「障害」と呼ぶにふさわしいのではないだろうか。

だが、「配偶者控除廃止によって女性の社会進出の障害が取り除かれる」という主張は、この後者の、暖房のある方の部屋の暖房スイッチを切って寒くして、隣の部屋に移らせろということである。

問題はもう一つある。女性の就労を妨げているのは、配偶者控除の有無がメインの要因なのだろうか。

以前の記事で何度も書いたことをここで繰り返すが、たとえば - 年収が増えると不利になるという、いわゆる「年収の壁」を、ここで130万円だと仮定した場合 - 130万円以内の収入の就労しかしていない女性は、配偶者控除の恩恵を失いたくないことがメインの理由なのだろうか。配偶者控除が仮になかったら、年収500万円とか600万円とか、さらにはそれ以上バリバリ働くようになるのだろうか。

おそらくほとんどの場合は、そういうことではないだろう。年収130万円以下に抑えている妻は、子育てや家事やその他の客観的な制約要因があるために十分働くことができず、労働時間も短くして、さらにそのうえで配偶者控除の恩恵も受けられるように調整しているのである。配偶者控除「だけ」が無くなったとしても、それ以外の制約要因が変わらない限り、年収130万円以下が、せいぜい140万円とか160万円になる程度だろう。

そう考えると、配偶者控除廃止論の3つの目的のうち、(3)は説得力があるとは言えないのである。配偶者控除廃止論を主張するならば、(3)は引っ込めて、(1)(2)の部分を前面に出すべきであろう。「税収を増やす必要があるため配偶者控除を廃止しよう」「働く妻と専業主婦の間で不公平があるから、(恩恵を受けている専業主婦の方を引きずり降ろす形で)その不公平を解消するため、配偶者控除を廃止しよう」と主張するべきである。

三浦瑠璃「日本に絶望している人のための政治入門」

三浦瑠璃「日本に絶望している人のための政治入門」(文春文庫)

本書の前半では、国内における政治勢力の分類と対立の現状についての評価、また各種の政策的論点について触れており、後半では、外交や安全保障について論じている。

前半は特に目新しい知見というものはなく、著者なりの観点で「保守」「リベラル」とされるそれぞれの立場の主張がある程度整理され、それについて著者なりのコメントというかアドバイス?のようなものが呈示されている。

総じて著者は基本的に自民党政権、さらにいえば安倍政権に対して親和的である。著者が安倍政権に好意的な理由は、もちろん安倍政権のやることは何でも良いという意味ではなく、また安倍政権が“伝統的”もしくは“復古的”だからということでもなく、安倍政権がグローバル経済を踏まえてアベノミクスを進め、「開かれた保守」を目指す路線だから、ということのようである。
(「アベノミクス」がなぜ日本にとって望ましいのか、その長所と短所の兼ね合いはどうなのか等については、著者は具体的な論証は特にないまま、これを支持する態度を示している。この点は読者がアベノミクス自体は支持することを自明の前提にしているかのようである。)

前半は全体に、ページ数の制限もあり、またブログから起こした著作ということもあるのだろうが、全体的にどこか総花的で、右も左もいろいろな立場の勢力をほどほどに持ち上げつつ、広く浅く批評して済ませているという感じで、不完全燃焼という印象を受ける。

細かい部分を挙げていく余裕はないが、気になった点を一つ。

「日本のフェミニズム運動は相対的に富裕で、文化・教養層に多い専業主婦の権利を重視する形で進展します。これは、フェミニズム運動を幅広い層に受け入れやすいものとする効果があった一方で、運動の求心力を削ぐことになりました。フェミニズム運動が内部に路線対立を抱えた結果として、労働参加や、指導的な立場の女性比率などの死票で国際的に劣後する状況が続きます。」(本書148頁)

私の理解では、いわゆるフェミニズム運動(思想)は、そもそも「専業主婦」のようなカテゴリーの存在自体を批判的に検討するものだと思っていたのだが、ここで著者がいう「フェミニズム運動」とはまったくそれとは違うもののようである。おそらく著者のいう「専業主婦重視のフェミニズム運動」とは、たとえば主婦連合会のようなものを指しているのではないだろうか。そうだとすれば、「フェミニズム運動」ではなく「女性の運動」とでもいう言い方にするべきであろう。

 後半部分は、前半のどこか総花的で歯切れが悪いところから一転して、かなり明確に著者の主張が伝わってくるばかりでなく、随所で、断片的ながら切り口の鋭い説明も見られる。
 たとえば「米政府の外交・安全保障政策は、日常業務を管理する専門家と、中長期的な戦略を主導する政治的基盤を有する素人という二層構造によって担われています。」(本書227頁)という箇所。これは、外交や安保の日々の業務は、官僚や専門家が担当しているが、中長期の戦略について決定するのは要するに選挙で選ばれた政治家=素人(大統領や国務長官)ということであって、普段から米国の外交を見る際に意識するべき点かも知れない。

 以下おおざっぱに紹介すると、集団的自衛権について論じた部分では、基本的に集団的自衛権の行使は「当然可能」であるというのが著者の立場である。そのうえで憲法解釈の問題については、これまで「精巧なガラス細工のような法解釈」によって、現実と憲法の理念の矛盾をごまかしてきたということを前提に、そのごまかしを憲法改正によって正面から解決するのではなく、解釈を変更して新たなグレーゾーンを作り出すことで切り抜けることを提唱している。(「憲法改正すべき論」は、むしろ「立憲主義を方便とした現状維持であるのがみえみえ」だからということで、著者は賛同していない。要は「憲法改正をしようとしても、どうせ実現困難だし国民投票で否決されるから」ということであろう。)この点は、安倍政権の便宜的な解釈変更路線の追認ということが言えるだろう。

 また、クリミア問題等に関してロシアに強硬姿勢で望もうとするのには反対し、日韓関係ではリベラル勢力とのパイプを(日本の政官界が、ということだろう)強めるべきだと提唱する。興味深いのは沖縄問題についての発言で、将来的には米軍撤退をみすえてアジア諸国の連合的な組織の「首都」(欧州でいうブリュッセルやストラスブールのような)を目指すべきだとしている。

 オバマ政権に対しては「レトリック重視で成果がない」として非常に厳しい評価を下している点が興味深い。

 本書は、日本の進むべき道を示す本というよりも、安倍政権ないし自民党を支持する人々の中にはこういう傾向を持つ人も多くいるのだろうなという認識を深めるのに役立つ本である。いわゆるリベラルとか野党支持派の人々は「安倍政権=復古だから阻止せよ」というような言説に依存しているが、安倍政権が高い支持率を誇っているのは、「復古」的でない人々も数多く支持しているからである。安倍政権を好ましく思わない人こそ本書を読み、「こういう傾向の人々も安倍政権を支持しているのだ」ということをまずは認識するべきではないだろうか。
 この著者が優れた主張をしているかどうかはとりあえず措いておいて、この著者のような認識を持つ人々も数多く自民党を支持しているのであって、その現実をまず見なければならないのである。

 また、自民党や安倍政権を支持する人々の中で、この著者は「復古」(日本会議的なもの?)の傾向に内部から(柔らかく)ブレーキをかける意図が(主観的には)あるのかも知れない。外部から批判するよりは内部から発言した方がまだしも効果的だからである。・・・と書いたら誉めすぎであろうか。

「日本語特殊論」の嘘

日本語の会話や文章では、主語を省略することが頻繁に行われる。この点に注目して、「日本語は主語が省略できる特殊な言語だ」という主張をする人が昔からいた。日本語特殊論というわけだが、これはいわゆる日本特殊論の一種でもある。

日本特殊論は、「日本は特殊ですぐれた文化を持っている」というパターンと、「日本は特殊で劣った文化を持っている」というパターンと、両方のパターンがある。「日本語は主語を省略することができるから、集団が簡単に一体化して協力しあうことができる」というのが前者の例であり、「日本語は主語を省略するから、曖昧になり、何事も無責任になりやすい」というのが後者の例である。

しかし主語を省略できるという特徴は、韓国語も同じであって、日本語と同じ程度に主語をはぶいた会話や文章が通用する。韓国も日本と同じような集団一体化の強みや無責任の風土を持っているということになるのだろうか。

さらに日本語には敬語があり、これが世界でも独特なものだという主張もある。しかしこれまた韓国語にも日本語に似た敬語表現がある。

また別な例をあげると、「象は鼻が長い」という言い回しが日本語にあり、主語が2つあるように見える構造だが、このような構造の表現は世界の中で日本語にしか存在しない…という主張をする人もいる。ところがこれまた韓国語にもあるし、さらに中国語でも、このような構文は頻繁に使われているのである。

巷にあふれる「日本文化特殊論」「日本語特殊論」にはいい加減なものが結構見受けられるので、充分吟味することが必要である。もちろん世界のどの国や文化にも、独特なものが何かしらあるから、日本文化や日本語に「特殊」な部分があるのは否定できないが、怪しい主張には惑わされないようにしなければならない。

小池和男「『非正規労働』を考える」(名古屋大学出版会)

小池和男「『非正規労働』を考える 戦後労働史の視角から」についての感想。

まず、「はしがき」に書かれている著者の問題意識というか執筆の動機を見てみよう。

「なぜこの本を書いたか。それも文字通り老い先短い身があえて書いた理由は、当今の非正規労働の議論への懸念である。あまりに市場での競争力 - ひとびとの雇用とくらしを支える力を無視しているのではないか、との心配にある。・・・いうまでもなく、非正規労働には弊害もある。だからといって、非正規労働をなくせば、それですむ、というものではない。そこに経済合理性がある分、競争力を失い、苦しい失業が増えすぎるだろう。合理性を活かしつつ、弊害をすくなくする、そうした方策をさぐるほかあるまい。では、どうしたらよいか。それは本文をお読みいただきたい。老人の知恵をしぼって考えた結果である。」

このように、著者の基本的スタンスは、昨今の非正規労働に対する批判を意識しつつ、それに合理性があることを論証しながら弊害の対策も考える、ということである。

著者によれば、非正規労働が有している具体的な「合理性」というか「機能」は、①人材選別機能、②雇用調整機能、③低技能分野担当機能の3つだという。

①は、たとえば正社員を採用するのに、いきなり面接などで採用するよりも、非正社員で採用しておいて仕事を経験させ、その働きをみて能力のある者を正社員に登用するということである。
②は、解雇により削減しやすい等である。(いうまでもなく「季節従業員」とか「期間工」という呼称自体が、短期的スパンでの雇用量の調整を前提としているだろう。)
③は、熟練性が低い・技能向上の見込の乏しい仕事を担当させるということである。私なりに解釈すると、「“付加価値”が低い仕事は派遣や外注にやらせるべきだ」などと企業で言われることがあるが、そのようなケースだろう。

ただ、これらは非正規労働の「機能」というよりも、むしろ、使用者が非正規労働を利用する「目的」「動機」と言った方が適切なのではないかと思う。著者も「ユーザーにとっての機能」(本書175頁)という言い方をしているが、まさに「ユーザー」=文字通りの意味で「使用者」である。

いずれにしても、これらの①②③の機能なり目的が何かしら非正規労働に関して存在しているということ自体は、それほど一般に異論はないのではないかと思う。というより、それほど目新しい話ではないのではないだろうか。
(厳密にいうと、①の選別機能には、最初から正社員選別のためにまず非正規で雇用する場合と、結果的に非正規の中の認められた者が正社員に登用された場合と、両方あるだろう。)

さて、これら①②③に加えて、非正規労働というものには、企業が人件費等を削減するという④低コスト機能もあるのではないか、という疑問が出てきそうである。厳密に考えると①との区別が微妙になってきそうだが、賃金だけでなく福利厚生や退職金等や採用・解雇のコストも含めた意味で、正社員より低コストで同じ仕事をさせられるという意味の低コスト機能があるのではないかと考えたくなってくる。

ところが著者は、この④の低コスト機能については、なぜか断固として否定するのである。

著者によれば、同じ仕事で非正規労働の方が低コストをもたらすならば、市場競争のもとでは正社員は消滅し、全員を非正規とした企業が生き残るはずだ、という。しかしながら正社員は依然として消滅していない。よって④の低コスト機能は存在しない(or無視して良い)・・・というのである。この主張は全編にわたって何度も繰り返されて、④の低コスト機能が否定されるべきことを再三強調している。
(ただし著者は、「だから非正規労働は低コストではない」と言いたいのか、「非正規労働が低コストだとしても、その機能を使用者は重視していない」と言いたいのか、本書を見た限りでは判然としない。)

しかし私見では、ここまで極端なことを言わなくても、特定の分野だけでみれば、現に④の低コスト機能が働き、正社員の減少や消滅は見受けられると思う。端的な例が高卒・短大卒の「一般職」の女子事務職である。多くの企業では、一般職女子の採用をやめて、派遣社員によって代替している。これこそは、低コスト化を企業が求めた結果として、特定分野限定の部分的なレベルで、まさしく著者のいう「正社員の消滅」「(一定分野の)全員の非正規化」が実現した例ではないのか。

もう一ついうと(④はとりあえず措くとして)、「非正規労働は上記①②③の機能を持っている」というよりも、「①②③それぞれに対応する非正規労働の様々なパターン」が存在する、というほうが正確なのではないだろうか。「非正規労働」という単一・同種の集団が存在して、それが①②③の機能を持っているわけではない。①②③それぞれに応じて、様々な非正規労働が利用されるというだけなのである。

(身も蓋もない言い方をすれば、たとえば、解雇しやすさ(②)前提で雇用された非正社員に対して「お前の契約には①の人材選別機能もあるのだ」などと言っても意味がないし、言うわけもないだろう。というより、造船業や自動車製造業での正社員登用前提の「準社員」「期間工」と、不安定な日雇い派遣やアルバイトをひとくくりにして「非正規労働の機能は何か?」と包括的に論じる意味がどこまであるかという問題にもなってくるが。)

なお本書の終章で提案されているのは「a 非正規労働者の正規への昇格制の整備」「b いいかえれば、上記の条件つきで非正規労働者制の存続」であるが、具体性に乏しく、また非正規労働者を正規に昇格させる意思のある企業はもともとそのようにしているはずであって、あまり実益があるようには思えなかった。

「100周年を迎える『1日8時間労働』」について

あるブログで「100周年を迎える『1日8時間労働』」 という記事を見た。
「100周年」というのは、旧ソ連で1917年に世界で初めて1日8時間労働が法制化されて100周年ということを意味している。

詳しい内容は省くが、基本的にブログの記事の論調は、長時間労働の是正を支持する方向であり、そこは良いのだが、終わり近いところで、

> なにやら社会主義的な感じがして違和感もあるのだが、「1日8時間労働」が確立されて
>から、来年で100年を迎える。時代は大きく変わり、人間の代わりに人工知能ロボットが
>仕事をするという時代に突入しようとしている現代において、いつまでも「8時間労働」に
>縛られるのは不自然だとも思える。
>

> 1817年 「8時間労働」のスローガン
> 1917年 「8時間労働」の実現
> 2017年 「8時間労働」からの脱却 ←目標

としていて、この部分だけどうも論調がおかしいと思ったら、どうやら「8時間」の意味を逆にとらえているようである。

100周年を迎える「1日8時間労働」とは、「労働は原則1日8時間を超えては労働させない」という趣旨のはずだが、このブログの筆者は、反対に「1日最低8時間は労働を義務付ける制度」として解釈し、「今の時代、8時間も労働に縛られる必要はないだろう」という方向で主張しているらしいのである。

(もっとも、旧ソ連のことなので、「働かざる者食うべからず」「怠惰は許さない」の精神なのだろうと思われて、「1日8時間は労働せよ」という制度であったと解釈されてしまったのかも知れない。)

濱口桂一郞「働く女子の運命」

 濱口桂一郞「働く女子の運命」(文春新書) を読んだが、これについて感想を書く前にまず、私が今から20年ほど前、サラリーマン時代(とある会社の人事労務の担当の末端にいた)に経験したエピソードをご紹介しておこう。その会社は、首都圏に本社を有し、各地に事業所をかかえている大企業である。 

 ・・・ある事業所のある部署で、勤務時間“外”に、いわゆる「QCサークル」の活動を行うこととなった。その部署のメンバーには、事業所の受付の女子も含まれていた。その当時、QCサークル活動は「勤務外」の自主的活動という位置づけになっていたので、所定労働時間の終了後(17時以降)に行われて、残業代の支給対象外とされていたが、実質的には強制参加に等しかった。
 その受付女子は、部署の部長に対して「これも強制的に参加するのだから、残業代が支給されないのはおかしいんじゃないでしょうか?」と不満を述べ、結局、その女子に対してだけ残業扱いを認めることになった。
 「なぜあの子だけ残業代を与えるのか」と他の男子社員たちから不満が出たが、その部長は、「男は、これからずっと長い間働いてもらって長い目で見てもらえばモトが取れるから我慢しろって言えるんだけど、女の子はそうもいかないからなあ」と言ってなだめた。
 なおこの受付女子は、会社のいわゆる正社員ではなく派遣社員であり、しかもその派遣会社は、その会社の子会社で、実質的に社内の一事業部門といっても良い位置づけであった。
 この事業所の受付女子は、もともとは代々正社員であったが、この時点では派遣社員になっていた。(この事業所の受付は、かつては地元の高校ないし短大を卒業した女性が正社員として採用されて配属されていた。しかし近年、全社的に正社員の採用を絞り込む傾向が強まり、この事業所でも、高卒ないし短大卒の一般事務職の女性を正社員として採用することがほぼなくなって、受付が退職した後任の補充を正社員として採用することが、社内の諸般の事情によりできなくなっていたのである。)・・・

 なぜ「働く女子の運命」の話をする前に、私自身の思い出話を突然始めたのかといえば、本書を読んでこのちょっとしたエピソードを思い出したからである。

 このエピソードは、雇用システムという観点で、いくつもの検討に値するポイントを含んでいる。
 ①QCサークル活動が原則として「自主的な活動」とされており、残業代の支給対象とされていないこと
 ②会社の受付が「女性」であることが当然とされていること
 ③男性社員は、残業代が支払われなくても「長い目で見ればモトが取れる(だから我慢すべき)」と考えられていたこと
 ④女性社員は③と反対に考えられていたこと
 ⑤受付女性を「正社員」として採用するのではなく、派遣社員(それも子会社)をあてるようになっていること

 これらのポイントのうち②は、現在でもあまり状況は変わらないのだが、女子が「職場の花」とされていた時代からの名残だろうか(本書56頁参照)。③と④は、本書の随所で触れているような、日本的な雇用における(旧来的な)男女の役割分担を典型的に示している。男は長期雇用の中で、将来的に昇進・昇給を続けて行くことが想定されており、今現在サービス残業をさせられたとしても、「長い目」で見ればモトが取れるとされている。これに対して女は、比較的短期間で退職するか、そうでなくても昇進・昇給が頭打ちになることが想定されている(いた)わけで、現時点での残業代の受給を我慢したところで、それによって将来なにかが報われて「モトが取れる」ようなアテは何もないのである。⑤は、一般事務(一般職)の女性の採用が激減し、派遣社員などの形で外部化されていったことを示している(本書202-203頁参照)。

 さて話を戻すと、本書は内容に即して言えば「日本的雇用システムの歴史と女性の地位の変遷」とでもいうタイトルがふさわしいところだが、それでは埋もれてしまうので、「働く女子の運命」というキャッチーなタイトルにしたのだろうか。

 紆余曲折はあったものの、生活給的発想による年功型賃金のシステムが日本企業で確立され、その中で女子は補助的職務が原則とされたうえで結婚その他で早期に退職することが明示的もしくは黙示的に期待されていたこと。やがて男女雇用機会均等法の施行以降、総合職の女性も男性並みに会社に人生を捧げて無限定な勤務を受け入れる機会が与えられる一方、従来的な高卒・短大卒の一般職の女性の需要は急速に消滅し派遣社員に置き換わっていったこと。しかしながら出産や育児とのかねあいで女性は苦闘し続けていること。・・・等々が、豊富な歴史的経緯の資料を踏まえて説明されている。

 このうち、派遣社員による一般職女子の代替について、ここでまた私自身の経験に即していうと、バブル崩壊以降、全社的に新卒採用の人員数が削減される中で、とりわけ高卒・短大卒の一般事務女子の採用が極めて絞り込まれていったことが思い出される。これには、OA化の進展の中で、補助的事務に必要とされる人員それ自体が減っていったことも関係があっただろう(たとえばソロバンが不要となり、大型電算機用のキーパンチャーも消滅していった)。
 限りあるリソースの中で、新卒採用は、大卒(大学院卒)技術系が最優先とされ、高卒・短大卒の一般事務女子は、採用の優先度としては最も下とされたのである。しかし現実には補助的な一般事務を行う人員も必要であり、この需要を満たすために、まず全社的施策としてではなく、各事業所や部署ごとの個別判断が先行する形で、勃興しつつあった派遣社員の女子の受入がなし崩し的に進行していった。派遣会社に支払う費用は業務委託費や外注費の形で計上されており、全社共通の給与計算・人員管理のシステムにも乗ってこないため、全社的な「人件費」の統制・管理から漏れており、そのままニーズに応じて拡大していったのである。そしていつの間にか、会社が擁している福利厚生サービス業務の子会社それ自体が、一般事務の女子を派遣するようになっていったのであった。

 ★なお、本書は、女子云々の部分を仮に一切度外視したとしても、日本の戦前から戦後に至る賃金を中心とした処遇制度(およびその思想)の変遷についての概観をさらっと示してくれるという点が大きな特徴であり、実は「働く女子の運命」より「賃金・処遇制度の運命」に関心がある読者にとってもお勧めである。
 この面で私にとって非常に印象的だったのは、本書185頁の次の叙述であった。
  「生活給の必要性ゆえに一律に年功序列的に昇進させるという人事政策をとっているにもかかわらず、それを客観的に測定不可能な『能力』に比例した処遇であると説明することによってその経済的合理性を弁証する・・・」
 これは私の会社員時代の経験でいえば、まさに「資格制度」がこれに当たっており、たとえば「〇〇三級」「××二級」などという「資格」が共通であれば、技術者だろうと事務員だろうと運転手だろうとすべて同水準の「能力」があり、それによって同水準の賃率や各種処遇が正当化されるのだというロジックで説明がなされていたのであった。これについてはまた別な機会に触れてみたいと思う。

憲法9条についての私の考え:自衛隊の問題は「憲法第104条」新設で対応せよ!

安保法制が憲法9条に違反するかどうかという議論はいまだに記憶に新しいが、そもそも自衛隊は憲法9条違反だという議論が、自衛隊(というよりその前身の保安隊の、そのまた前身の警察予備隊)の創設時から今日まで続いていることを、まず忘れてはいけない。

特に憲法学者の世界では、自衛隊違憲説(憲法9条違反説)が通説というか多数説である。もっとも最近は若手の憲法学者の間で自衛隊合憲説も徐々に増えてきているようで(一例として木村草太・首都大学東京教授)、あと10年や20年もすればかなり憲法学界は様変わりしているかも知れない。世代が変われば法解釈の考え方も変わっていく。戦前戦中に育った世代、戦後間もない頃に成長した世代、さらに自衛隊や安保条約が存在して当たり前という状況で育った世代、憲法学者の中でもそれぞれ違いがあって当然である。

それはさておき、自衛隊が憲法9条違反だという前提に立った場合、それでは具体的にどうすれば良いのかという問題が出てくる。上記の通り、今のところ憲法学者の多数派は自衛隊違憲説だが、様々な憲法の基本書を見ても、「具体的にどうするべきか」まで踏み込んだ記述をしているものは少ないようで、「自衛隊は違憲である」というところでとどまってしまっているものが多い。

「自衛隊は憲法違反だというなら、9条を改正すべきだ」という主張が当然ありうるのだが、これに対しては、「現実に合わないからといって理想を取り下げるべきではない。現実を理想に合わせるように努力すべきだ」という反論がなされることがある。
しかし問題は、単に「現実」と「理想」の相違だけで済む話ではない。一般に「理想と現実」というと、「現実は理想通りにならないものだ」というふうに、もともと両者の間に違いがあって当然というニュアンスがあるが、9条に限らず、憲法の条文は、そのような意味での「理想」なのだろうか。
たとえば憲法18条は「何人(なんびと)も、いかなる奴隷的拘束も受けない」と定めているが、これは「理想」なのだろうか。仮に奴隷制を認める法令があって、奴隷状態の人がいた場合、「現実を理想に合わせるように努力するべき」で済むのだろうか。

ここで憲法98条1項を見てみると、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定めている。つまり「現実を憲法の理想に合わせるように努力すべきだ」ということではなく、憲法に違反する現実(法律、命令、詔勅、国務に関する行為)はそもそも「無効」なのである。つまり奴隷制の例でいえば、「理想(18条)に現実(奴隷制)を合わせるように“努力”すべきだ」というだけでなく、「18条に違反する法律、命令(・・・)その他の行為は無効だ」ということになる。奴隷制をなくすように理想に向けて努力しろというレベルの問題ではなく、奴隷制を認める法令は「無効」である。
憲法9条も同じように考えるならば、自衛隊法や防衛省設置法も、「理想に反する」「理想に向けて努力すべき」では済まず、「無効」だということになる。

この点の問題は、憲法の基本書でいえば、たとえば高橋和之「立憲主義と日本国憲法」(第3版) で端的に触れられている。

「(9条の)改正に反対の人も、自衛隊は違憲であり直ちに廃止すべきだなどとは主張しないであろう。時間をかけて9条の規範内容を実現していくべきだと考えていると思われる。では、その間の憲法規範と現実との矛盾はどう説明するのであろうか。その矛盾が確認さえされていれば、矛盾が長期にわたって継続してもよいと考えるのであろうか。それでは、憲法を遵守すべきだという立憲主義の精神は、ご都合主義的なものとして後退せざるをえないのではなかろうか。」(同書63頁)

上記の「現実に合わないからといって理想(9条)を取り下げるべきではない。現実を理想に合わせるように努力すべきだ」という主張は、この点でいえば、「自衛隊がいつか廃止されるまでは(20年後?50年後?100年後?)、憲法9条違反の状態が継続しても良い」と言っているに等しいのである。

自衛隊合憲論の立場に立つならば、このような問題は生じないことになるが、自衛隊違憲論の立場を採る場合、この「現実に自衛隊をすぐに(永久に?)廃止することはできない以上、自衛隊が存在している間の状態をどう位置づけるか」という問題を避けて通ることはできない。(「違憲なら違憲で、控えめに自衛隊を運用すれば良い」という主張をする論者もいるようだが、これも「違憲(=無効)の制度でも(控えめに)運用すれば、存在して良い」と言っているのと同じであるから、立憲主義という意味では自滅行為である。

以下、この点についての私の考えを述べる。

自衛隊合憲論に立ってしまえば話は楽なのだが、憲法9条の文言を見るならば、やはり自衛隊がこれに違反しているのではないかという疑いを断ち切ることは難しい。自衛隊を廃止するなど(少なくとも10年や20年のタイムスパンでは)無理であり、それどころか永久に無理かも知れず、いずれにしても自衛隊が存在する限り、自衛隊と憲法の整合性が取れるようにしておかなければならない。
かといって9条の戦争放棄についての文言を捨ててしまうのが惜しいという気持ちもある。

そこで、憲法9条はそのままにしたうえで、これとは別に、憲法の末尾に、自衛隊の存在を認める新たな条文を追加するのである。
憲法の条文を実際に読んでもらうとわかるが、憲法は103条まで存在している。このうち国家の基本的構成や国民の権利など本質的部分を定めているのは1条から99条までであって、100条から103条までは、「第11章 補則」という章にまとめられている。この100条ないし103条は、憲法が施行された時の経過措置を定めたもので、1条から99条までの条文とは性質がまったく異なるものなのだが、そこに、自衛隊に関する条文を新たに追加するというわけである。

具体的には、新たに「第104条」を設けて、たとえば「第9条の定めにかかわらず、当面の間、自衛のための最小限の防衛力として自衛隊を保持することを妨げない。」としてはどうだろうか。

このアイデアはどうだろうか。憲法について「9条護持」でも「9条改正」でもなく、「104条追加」運動というのをやってみては・・・?

濱口桂一郞「日本の雇用と労働法」

濱口桂一郞「日本の雇用と労働法」(日経文庫) を読んだので、その感想と、ついでのコメント。

さきに読んだ同じ著者の「新しい雇用社会」と共通する部分もあるが(特に日本の雇用システムの基本構造に関する部分)、そちらは執筆時点で話題となっていた問題を取り上げて一応の処方箋を示すことに重点が置かれていたのに対して、本書は、歴史的経緯や政策決定過程も踏まえつつ(前掲書でも触れているが、こちらの方が詳しい)、日本の労働法制と現場の実際の雇用システムのあり方との関係を論じている。労働法についての書籍はいくらでもあるし、逆に雇用システムについての書籍も数多く出ているが、その両者の関係を論じたものは珍しい。

本書が着目しているのは、①労働法制が契約法理に基づいた雇用契約(「ジョブ型」)を前提にしている一方で、②実際の企業の雇用の現場では、団体加入の発想に基づく雇用契約(「メンバーシップ型」)が行われており、そこにギャップがあるのを踏まえて③判例ではメンバーシップ型を踏まえた解釈論により労働法制を変容させている、ということである。(①の部分をもう少し細かくいえば、労働法制は、契約法理に基づいた雇用契約に対して、労働者保護の観点から修正を加えるものということになる。)

(なお私なりの勝手な余談ではあるが、実際の紛争になった場合の当事者の法的主張という観点から見ると、ケースに応じて、ジョブ型的契約法理を主張した方が有利な場合と、メンバーシップ的な団体の発想に基づいた主張をした方が有利な場合がある。たとえば私生活の非行を理由として解雇された労働者が解雇無効・雇用契約上の地位確認を求めて訴訟を提起する場合は、契約法理を徹底させる方が有利であり、会社側はまさにその反対ということになる。整理解雇について労働者が争う場合は、まさにその逆で、メンバーシップ的な観点を全面に出すということになるのだろう。)

基本的には労働法の簡単な知識があることを前提にしており、薄い労働法の入門書でも一読してから読むべき書籍である。(「新しい雇用社会」はその必要はない。)

また、やや細かい点になるが、「新しい雇用社会」の序章では、「企業規模が小さくなるほどメンバーシップ型からジョブ型に近づく」という意味のことが述べられていて、そこは違うのではないかと思っていたのだけれど、この点は本書では修正されていて、「中小企業になればなるほど、大企業のようなメンバーシップ性は希薄になるのですが、とはいえジョブ型に近づくというものでもないのです。」(186頁)とされており、納得できた。
実際問題として、中小企業では少人数で様々なことをこなさなければならないから、むしろ職務の無限定性は大企業より広がるはずであって、「ジョブ型」とは言えないだろう。「小規模なメンバーシップ」とか「縮小されたメンバーシップ」とでも呼ぶのが妥当ではないだろうか。メンバーシップを保持する力が弱いからといって、ジョブ型になるとは限らないということである。

日本でジョブ型の契約といえば、最もわかりやすい例としては、プロスポーツだろう。さらにいえば、ある種の運送業や建設業、さらにタクシー業にもその傾向がある程度見られるだろうか。

さらにまたついでの話でいうと、本書では、いわゆる労働三法や労働契約法のみならず、雇用調整や教育訓練についての政策立法(ほとんどは労働保険に関する諸制度の法令ということになるだろうか?)についても触れて、前者が「ジョブ型」の観点(契約法理と+その社会法的修正)に基づいているのに対して、後者の各種政策立法は「メンバーシップ型」の雇用システムを前提としていることについても述べている。
このように、市民法的な原則と実態とのギャップを政策立法が補完するというのは、実は社会保障法制でも見られることなのではないかと思われる。民法は、基本的に家族を個々人の権利義務の関係として位置づけており、基礎的な単位はあくまで個人だという建前に立っている。ところが各種社会保障法制では、「家族」(世帯)を基礎単位とした前提の扱いが取り入れられているのである。
この点で、労働関係の政策立法と、社会保障の政策立法とは、個々人の関係を基礎とした市民法の建前ではこぼれおちてしまう日本的な実情を汲み上げているという点で、パラレルな関係にあるということができるのかも知れない。

濱口桂一郞「新しい労働社会」(続き)

昨日の記事の続きで、濱口桂一郎「新しい労働社会」についての簡単な紹介およびコメント(というほどのものでもないが)を少々。

序章 「問題の根源はどこにあるか」
昨日の記事で触れたとおり、日本の雇用システムの基本的構造の説明であり、以下の各章で取り上げる問題分析の前提となる要素を論じている。

第1章 「働きすぎの正社員にワークライフバランスを」
以前、いわゆるホワイトカラーエグゼンプションの導入が議論になった際に、労働時間それ自体の規制ではなく残業代支払の有無の問題ばかりがクローズアップされた状況に苦言を呈し、無限定の残業などが当然のようにされている“正社員”の勤務のあり方を見直して、“今までの女子正社員”に想定されている勤務を基本型(デフォルト)にしたうえで、それ以上の勤務の負担を受け入れることを明示的に選択(オプトアウト)した者のみ、長時間の残業などの負担を課せられる制度への移行を提唱している。
単に抽象的に「ワークライフバランスを重視せよ」と言っているのではなく(その程度の発言なら他にいくらでもする人はいる)、具体的に「今までの女子正社員の働き方をデフォルトにせよ」という表現を用いているところにユニークさがあるのだが、この提案は世の中にあまり広く認知されていないように思われる(賛同されていないというのではなく、そもそもこういう提案があること自体、あまり知られていないのかも知れない。)
なぜ“今までの”女子社員の勤務が一つのデフォルトになるかといえば、女子正社員は「家庭との両立」を前提として勤務することがモデルとされている(されてきた)からであろう。つまり「“今までの”女子正社員をデフォルトにせよ」というのは、より端的にいえば「家庭と両立できる勤務をデフォルトにせよ」ということである。

なお余談ながら、私が企業で労務管理の仕事に携わっていた時に常々思っていたのは、「残業代の支払と、健康のための時間管理を、分けて考えられないか」ということであった。一定水準以上の賃金を支給されている労働者については、残業代の支払いは免除する。その一方で、健康のための労働時間管理は(従来以上に)徹底して行う。そのような制度にするべきと考えていたのである。そのまた余談であるが、使用者が労働者の労働時間を記録・把握するべき義務については、労働基準法上はそれを正面から規定した直接的な明文はなく、あくまで解釈上のものである。使用者の労働時間記録義務を労働基準法で明示するべきであろう。

第2章 「非正規労働者の本当の問題は何か?」
ここでは、本書執筆当時(の少し前)に偽装請負が大きな問題となったことを踏まえた議論がなされている。しかし筆者が指摘しているように、重要なのは、請負か派遣かの区分それ自体ではなく、労働者の雇用、社会保険、安全衛生上の責任をどのように明確化し管理するかなのである。
なお個人的には、請負か派遣かを問わず、「間接雇用」のような概念を労働法制に導入して、受入先事業主と派遣(送出し)元事業主のそれぞれの責任を明確化するべきだと思う。

第3章 「賃金と社会保障のベストミックス」
男女の性別の役割分担が明確であることを前提として、男性正社員(中心)の長期雇用の観点で作られてきた生活給に基づく年功的賃金のシステムが形成されてきた。かつては非正社員=パート・アルバイトは、この男性正社員に養われる「妻」や「子」が主として担っていたのであり、非正社員が家計を自ら支えることはほとんど想定されておらず、非正規社員のワーキングプア問題というのは極めて稀なものでしかなかった。しかし近年、大学卒業後に正社員になれないまま年を重ねる者や、中高年でリストラされる者が増加し、ワーキングプアが目に見える形で問題化してきたことが指摘されている。
また、(紆余曲折はあったものの、結果として)外部労働市場の整備や労働市場にいる求職者の(再)就職の促進よりも、現在企業内部に雇用されている労働者の雇用維持を優先してきた労働政策の限界や、職業訓練に対して冷淡な大学界・教育界の態度も指摘している。
従来的な生活給の基準による年功的賃金の維持が困難だとすれば、そのかわりに社会保障給付の拡充が求められることになる。また長期雇用が崩れてきている現在、失業者支援や職業訓練の充実も急務である。
これらは、第1章でいう「女子正社員」の働き方をデフォルトとした勤務管理の構築とも連動する課題であり、著者の言い方を借りれば「連立方程式」である。

第4章 「職場からの産業民主主義の構築」
前章までが個々の問題点と解決の方向性の提案だとすれば、この章は(それ自体が問題解決の提案ではあるが)、問題に取り組み解決を検討するべき労使関係の新たな仕組みについての提案である。非正社員が相当な割合を占めるようになってきた現状を踏まえて、非正社員も包括した労働者代表組織を設け、労使協議を行うようにさせることを提唱している。注目すべきは、現在の日本の主要な企業別組合がユニオンショップ制となっている現状に着目して(ただし「ユニオンショップ」という単語自体は本書では登場しない)、企業別組合がそのまま非正規労働者も包括した全労働者の代表機関の役割を果たすようになることを期待している点である。

なお、リストラのような状況では、正社員と非正社員の利害が対立する局面もあることから、正社員中心の労組は積極的に非正社員を組み入れたがらないと思われ、反対に非正社員の側も、労働契約の期間が比較的短く賃金も低い場合、組合費をわざわざ日常的に払って労組に加入するインセンティブが起こりにくい。そこで、法律的に強制された(非正社員も含めた)労使協議制を定めて、その中で非正社員が労働組合に包括されていくことを期待するということであろう。

濱口桂一郎「新しい労働社会」

*10月2日初稿、10月3日に一部記事補足

だいぶ前に買っておいた濱口桂一郎「新しい労働社会」(岩波新書) を読了。著者の考え方はブログで頻繁に拝読しているので、本書を読むより先にある程度おなじみになってしまっており、本書が自分にとって特に目新しい内容というわけではない。

序章「問題の根源はどこにあるか」で、日本型雇用システムの特色として、一般に指摘される要素である「長期雇用制度」「年功賃金制度」「企業別組合」について解説し、さらにこれらが「職務のない雇用契約」(正確には「職務の特定のない雇用契約」とか「職務無限定の雇用契約」というところか)からの論理的帰結であることが示される。この「職務のない雇用契約」は、より実態に即していうならば「メンバーシップ契約」(団体加入契約)というべきものとされており、これを前提として、日本企業特有の雇用管理、報酬管理、労使関係が成り立っていることが説明される。

この基本構造を前提として、第2章以下で、ワークライフバランス、非正規労働などの個別のトピックについて、歴史的背景や政策決定過程についての知見も加味しながら、問題点と解決の方向性を示している。

とりとめがないかも知れないが、まずは本書の内容そのものについてのコメントというより、本書を読んで勝手に思い浮かべたこと等を少々。

まず、著者が指摘するような日本の「メンバーシップ型」とされる労働契約の特性を、うまく実情に即して法律の中で位置付けるロジックが、肝心の現代の日本の法制度・法理論においては乏しいようである。日本の労働問題については、法理論・法制度が実態をうまく反映しておらず、それゆえに判例で個別事案を解決する際に苦心しているというべきだろうか。既に雇用関係が破綻してしまって紛争化した段階になってから持ち込まれる司法での判断と、雇用関係が一応維持されて運用されている段階についての分析と、建前として抽象的に存在している法制度・法理論とが、それぞれ異なってくるのはやむを得ないのかも知れない。
労働契約は、民法上の契約理論をまず出発点としたうえで、これに社会政策的見地から修正を加えた労働法制によって規律されていることになっている。しかしこのような労働法制と、「団体加入」「組織への取り込み」という側面を持つ日本の「メンバーシップ型」労働契約の実情とが必ずしもうまく対応しているとは言い難い。
日本の「メンバーシップ型」労働契約から発生する紛争について、司法界や労働法学者は、紛争の性質に応じて、ある時は「自律的な個人間の契約」という側面を強調し、また別な時は社会政策的な修正の必要性を強調して、解決を図ってきたように思われるが、「メンバーシップ」的性質を正面から法制度としてとらえた立法的解決ができないものだろうかと思った。
いずれにしても、法理論・法制度と、現場での運用の実態(「生きた法」)との乖離については、著者は非常に強く意識しているものと思われる。(★注)

(★(10月3日追記:同じ著者の「日本の雇用と労働法 」(P36-42)に、上記の私の感想に噛み合うような記載があった。同書についても後日感想を書く予定。)

次に、最終章で著者が触れている「ステークホルダー民主主義」で触れていたフランスの(革命以降の)法制度における「中間集団」への敵対的な態度は、ちょうど最近読んでいた樋口陽一の憲法関係の文献でも強調されていた。フランス的な個人主義を理想形のように考える樋口陽一と、それに対して距離を置いている著者のスタンスの違いは(研究している分野は違うが)なかなか興味深い。

なお、日本企業のローテーション人事について触れた箇所で、労働者は「定期的に職務を変わっていくことが原則」となっていて「特定の職務についてのみ熟練するのではなく、企業内のさまざまな職務を経験し、熟練していく」と述べているので、この点について私自身の経験を少々。
私自身が大手電機メーカーで勤務・経験した範囲についていえば、ここは必ずしもあてはまらない。技術系は当然として、事務系の従業員は、営業であれば特定事業部門の営業のままであり、またスタッフであれば経理、人事、資材などそれぞれの職種は固定されており、ローテーションは、異職種間の異動ではなく、同一のまま異なる事業場間を異動するのが通常であった。たとえばA工場経理部→B支社経理部→本社経理部、等々のルートで次第に昇進・昇格していく。(ただ同じ「経理」でも、担当する業務には幅があり、次第に上位の管理的業務に移っていくので、「同一職務」ではなく「同一職種」という言い方にした。)

本書に限らず、「異なった職務間をローテーションするのが日本企業の原則だ」という言説はよく見受けるが、おそらくこれは銀行と、単一製品の製造業を主に想定しているのではないだろうか。

ただ私のいた会社では、同一職種のままのローテーションが原則であっても、場合によっては様々な理由(個人の適正、特定職種の縮小・廃止など)で、異なる職種に移ることがないわけではない。その意味では、紛れもなく「メンバーシップ契約」である。

脇道にそれてしまったが、具体的な本書の内容の紹介およびコメントは次の記事で。

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