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2016年11月

百田尚樹と津田大介(いったん打ち止め)

 百田尚樹がtwitterで津田大介について(名前を明示をしてはいないが)「ゴーストフォロワーを沢山買っているのではないか」という意味のことをつぶやくと、それに対して津田が

言い掛かりです。僕はフォロワーが多いのでツイッターのオススメに出る(ので始めたばかりの卵アイコンが目立つ)のと、スパム業者が勝手にフォローするので自動的に増えていくのです。
 どの位スパム業者がいるかはこのサイトで調べられます

と答え、そこで百田が

あなたのお名前は出していませんが、あなたのことと受け取られるツイートをしたのは事実です。
あなたの100万フォロワーに関しては、私の勘違いでしたら、謝ります。

わざわざ調べる気はありませんが、あなたの言うことは信じます。”

と応じていた。

 もう疲れてどうでも良くなってきたので、この話題はとりあえず打ち切るが、先日も書いたとおり、津田は、そんなつまらない会話をするよりも、一言、百田に対して

 「どうして在日外国人だと、千葉県警は氏名を公表できないんでしょうか?そう考えた理由をお聞かせください。千葉県警は外国人に支配されていると言いたいのでしょうか。」

とでも問いかければ良かったのである。

 たぶん百田は無視するか、適当に話をはぐらかすだけかも知れないが、多少は何かの議論の材料にはなったかも知れないではないか。

 百田尚樹という人物は、津田大介から見れば普通に論争する相手ではなく、ヘイトや偏向意見をまき散らす人物で無視すべき(できればアカウント削除すべき)相手でしかないということなのかも知れないが、ネット以外の世界も含めれば、それなりの影響力はある存在である。
 『海賊と呼ばれた男』や『永遠の0』や『カエルの楽園』を買った人々が、何でもかんでも百田の意見にすべて賛同しているというわけでもないだろうが、特に(いわゆる)“ネトウヨ”やら“在特会”の類いでないような人たちの間でも知られて結構人気があるわけで、そういう人物に挑んでやり込める機会があれば、積極的にチャレンジした方が良かったのではないか。

 ちょっと話は飛ぶが、小谷野敦は、今年の6月22日のブログで、週刊朝日の書評欄に触れて、斎藤美奈子は憲法の本が売れているとか言って騒いでいて、樋口陽一&小林節の憲法の本が6万部売れたといっているが、百田尚樹の『カエルの楽園』は20万部を超えている、という趣旨のことを述べていた。

 要は、百田を喜んで読むような人の方が世間ではずっと多数派なわけで、いわゆる“リベラル”の側の人間こそ、積極的にそういう多数派の目に触れるところに出て行って、同じ土俵に出来るだけ乗っかって挑戦してアピールするようにした方が良いのではないだろうか。世間の大多数の人間 - 百田を普通に読むような人々も多数含まれる - に声を聴いてもらうように努力しなければならないのは、“リベラル”の側の方なのである。

津田大介の百田尚樹に対する対応が愚かだった件

 千葉大医学部の事件についての百田尚樹のツィッター発言から始まった、一連の騒動についてさらに書くのだが、まず、百田尚樹の発言を特に擁護する目的ではないことを、あらかじめ断っておく。
 また、この記事のタイトルで津田大介が「愚か」だというのは、バカとか知能が低いという意味ではなく、「打つ手がまずかった」とか「対応がおろそかだった」という意味である。

 さて、あの後の百田尚樹と津田大介のツィッターをそれぞれ見てみたが、議論が特に発展した形跡はない。

 おさらいになるが、百田は、「千葉大医学部の事件の犯人(被疑者)の氏名を県警が公表しない理由は、彼らが在日外国人だからではないか」と推測していた

 私自身は(そしておそらくは多くの読者にとっても)、なぜ在日外国人だと警察が氏名を公表しないのか、その百田の推論の過程がまったく理解できなかった。百田のツィッターで賛同意見を書いている人たちは、どうやら言われなくても理由がわかるらしいのだが、私にはまったくわからない。

 ともあれ、ここで一番重要なのは、百田が一体どうして「犯人が外国人であれば、警察が氏名を公表しない」と考えたか、その理由である。この理由がわからなければ、それ以上議論のしようもなく、単なる訳のわからない百田のたわごとで終わってしまう。

 だからこそ、津田大介は、真っ先に百田に対して、「県警が氏名を公表しない理由として『在日外国人だから』と思った理由は何か。それを説明せよ」と迫るべきだったのである

 たとえば百田が「千葉県警には外国人の圧力がかかっていて、実名を公表できない立場に追い込まれている」という具体的な証拠を何か握ったうえで、あのように言ったのだとすれば、百田の発言は「ヘイト」とは言えないだろう。(そんな証拠はないとは思うが、決めつけるのもよろしくない。)

 そこで、言論人である津田が真っ先にやらねばならなかったことは、百田の主張をまずいったん受け止めて(「受け入れて」ではない)、どのような「事実」があるのか(と百田が主張しているのか)を明らかにさせて、議論の俎上に載せることだったはずである。

 百田が何らかの根拠を示したら(または、根拠を示すことができなかったら)そこから新たな議論が始まる。ひょっとしたら、我々の思いも及ばないような根拠を出してくるかも知れないではないか。いや、何も根拠が出てこないかも知れないが、百田ほどの有名な文化人が、まさかそんないい加減な発言をするわけがないだろう。(何の根拠もなく「千葉県警は外国人に圧力をかけられていて公表できない」などというとすれば、文化人として致命傷、失格だろう。)

 いずれにしても、ツィッター社がアカウントを削除するべきかとか、ヘイトにあたるかどうかとか、そういう議論は、百田が何らかの根拠を提示した(または提示できないことが明らかになった)後に議論するべき問題である。

 津田は、本来なら踏まなければならない上記のような手順をすべてすっ飛ばして、いきなり「ヘイトだ、アカウント削除を」という結論に飛びついてしまっているが、これこそが愚かだったのである。
 あの対応のおかげで、この議論がそれ以上発展できなくなってしまった。

 津田がまず取り組まなければならないのは、「事実」であり「根拠」であった。どのような「事実」を根拠に百田があのような発言をしたのか、それについて徹底的に食い下がるべきだったのだ。メディアでの「事実」の重要さを津田は常々力説してきたではないか。
 そして、百田がまともな根拠を示すことができないのなら、そこで初めてヘイトにあたるかどうかとか、そういう議論に入れば良かったのである。

百田尚樹と津田大介とヘイトスピーチ問題

 先日のエントリーでも触れたが、千葉大医学部の事件についての、例の百田尚樹のツィッターをめぐる論争が、多少報道として広がってきているようである。ただし今ひとつ盛り上がりに欠けるような気がするが、これはやはり百田があちこちの媒体で本を出して映像化もされていることから、報道各社も気兼ねしているのだろうか。

津田大介が

この人この種の発言懲りずに何度も繰り返してるし、単にツイッターの利用規約違反 https://support.twitter.com/articles/253501  なので、ツイッター社は然るべき警告した上で
それでもやめないようなら、この人のアカウント停止すればいいんじゃないかな。pic.twitter.com/Fiv74c84hz

と述べ、それに対して百田は

“「千葉大の集団レイプの犯人が公表されない理由について、「犯人が在日外国人だからではないか」と呟いたら、多くの人から「ヘイトスピーチ」「差別主義者」と言われた。
 私は犯人が公表されない理由の一つを推論したにすぎない。
 しかも民族も特定していない。こんな言論さえヘイトスピーチなのか
。”

と反論している。

 私に言わせると、津田大介の上記の反応は、いささか軽率かつ短絡的である。
 津田がまずやるべきことは、百田のアカウント削除を主張することではなく、「在日外国人だと考えた理由を説明してみろ」「在日外国人だったら、なぜ警察は発表しないのか、根拠をいえ」と百田に迫ることだったのではないか。

 そのうえで、その百田の示した根拠が不当で偏見や差別に基づいたものであれば(または何の根拠もないのであれば)、また別な議論をすれば良いのである。

 ちなみにツィッター社の利用規約の該当箇所を見ると

特定の人種、性別、宗教などに対するヘイト行為: 人種、民族、出身地、信仰している宗教、性的指向、性別、性同一性、年齢、障碍、疾患を理由とした他者への暴力行為、直接的な攻撃、脅迫の助長を禁じます。
 また、以上のような属性を理由とした他者への攻撃を扇動することを主な目的として、アカウントを利用することも禁じます
。」

とされている。

 一方、問題となっている百田の論旨は、要約すると「犯人の名前を警察が公表しない理由は、在日外国人だからではないかと自分は思う」ということであるが、これだけで上記の規約の「他者への暴力行為、直接的な攻撃、脅迫の助長」にあたると解釈するのは、少々無理がある。

 ただし仮に百田が「この事件の犯人は在日外国人であり、在日外国人は一般に犯罪をする危険があるから排除すべきだ」とまで書いていたら、規約違反だろう。

(なお「民族を特定しない」ことと規約違反かどうかは別問題である。「他者への暴力行為、攻撃、脅迫の助長」をするのであれば、その対象が一つの“民族”だろうと、日本国民以外のすべてをひっくるめた“在日外国人”だろうと、規約違反であろう。)

 さらに、ツィッター社の規約に違反するかどうかとは別に、津田の発言が、いわゆるヘイトスピーチ対策法でいうところの

 「日本以外の国・地域の出「日本以外の国・地域の出身者かその子孫」で国内に住む人に対して、差別意識を助長・誘発する目的で、生命や財産に危害を加えるように告げ、地域社会からの排除をあおる言動身者かその子孫」で国内に住む人に対して、差別意識を助長・誘発する目的で、生命や財産に危害を加えるように告げ、地域社会からの排除をあおる言動

 ・・・にあたるかどうかも問題となるが、上記の発言だけでは「生命や財産に危害を加えるように告げ、地域社会からの排除をあおる言動」とまでは言えないだろう。

 それでは百田の発言には何の問題もないのかというと、そういうことではない

 ツィッター社の利用規約やヘイトスピーチ対策法は別としても、そもそも百田の発言は、「警察が氏名が公表しない犯罪は、在日外国人のものだと疑うべきである」ということを何の根拠の説明もなく前提としており、このような発言は、偏見や蔑視や誤解を流布するからである

 ヘイトスピーチにあたるかどうかに関係なく、百田の発言は - 「在日外国人犯罪であれば警察が氏名を公表しない」と考える納得のいく理由を百田が説明できない限り - 批判されるべきである。

「ヘイトスピーチ」というのは一定の限定された概念であって、その概念にあてはまるかどうかよりも、ここで重要なのは、「〇〇はヘイトスピーチにあたる(かどうか)」という点ばかりに議論が集中することの落とし穴というかマイナス面は2つあり

(1)正当な言論まで「ヘイト」だとして萎縮させてしまう恐れがないか
(2)逆に「悪い行為はヘイトだけである」「ヘイトにあたらないのなら、何も問題はない」という本末転倒な発想を助長することにならないか

 ということである。ここでは後者が問題となるだろう。

 ヘイトの定義に当てはまらなくても、偏見、蔑視、誤解等をばらまく言論は、規制するかどうかは別として、批判されるべきなのである。

百田尚樹のツィッターでの「在日外国人」についての発言

作家の百田尚樹が、千葉大学医学部の「集団レイプ事件」について、以下のような発言をツィッターで行った。

 “千葉大医学部の学生の「集団レイプ事件」の犯人たちの名前を、県警が公表せず。
犯人の学生たちは大物政治家の息子か、警察幹部の息子か、などと言われているが、私は在日外国人たちではないかという気がする。
 いずれにしても、凄腕の週刊誌記者たちなら、実名を暴くに違いないと思う
。”

 ネット上ではそれなりの反響(批判)を呼んでいるようだが、一般のメディアではこの発言が取り上げられたのは今のところ私は見ていない。

 この発言がいわゆる「ヘイト」にあたるのか、またツィッターの利用規約に抵触するのかどうかはとりあえず置いておくが、百田尚樹は、まずは犯人が「在日外国人」だと考えた理由を説明する責任があるだろう。

 犯人が政治家や警察幹部の息子ではないかと推測した人の場合は、その推測の理由は一応理解できる。警察が名前を発表せず、マスコミに出てこないので、それなりに警察やマスコミに圧力をかけられる人物である可能性を考えた人々がそれなりにいるということだろう。 

 では、百田が「犯人=在日外国人」ではないかと考えた理由は何なのだろうか。

 たとえば、犯人が本当に千葉大学医学部の学生だとして、千葉大学医学部の男子学生の70%とか80%とかが外国籍の学生だというなら、それは理解できる。犯人が外国人である可能性も70%や80%だといって良いからだ。それは単なる確率の問題である。

 しかし百田が言いたいのはそういうことではあるまい。

 百田の後のツィッターでの発言を見ると、「犯人の氏名が公表されないのは、外国人だからではないかと思った」ということらしい。
 それでは、どうして外国人の医学生だと氏名が公表されない(=日本人であれば氏名が公表される)と言えるのか、その点について、百田は自分の見解の根拠を説明するべきである。
 たとえば、千葉県警の上層部は外国人で占められているということなのだろうか(外国籍であれば警察官になれないはずだが・・・)あるいは、千葉県警に対して外国人のグループや外国政府が金銭などを供与して、氏名を公表しないよう働きかけているということだろうか。

 いずれにしても説得力がある理由は私には思いつかないが、百田には一般人の理解を超えたすばらしい根拠があるのかも知れないから、それを説明していただきたいものである。

 なお津田大介は、ツィッターが百田のアカウントを停止するべきだと主張しているようだが、それは - 津田の主観的意思がどうあれ - 臭い物に蓋をするような結果になるのであって、むしろ百田がそのように考えた理由について徹底的に説明を求め、議論の俎上にのせる方が妥当ではないだろうか。  

★実際には千葉県警は、他にも犯人がいて捜査情報が漏れるのを警戒しているとか、被害者の名誉にかかわることなどを理由に、公表していないと説明しているようだ。
 なお、そもそも被疑者段階でマスコミで氏名を公表して良いかどうかはまた別な議論である。

かつての日本企業には不祥事が少なかったのか?

プレジデントオンラインで、慶応大の清水勝彦教授が「『不祥事を起こさない会社』はどんな会社か?」という記事で、次のようなことを述べている。

 「日本企業の組織コントロールの傾向を見ると、かつては「価値観」が非常に強かったといえます。終身雇用や年功序列といった日本型経営が重視され、「会社は人生」「同僚は家族」という空気が社内にありました。
  そうした強い「価値観」の下では、社員の会社への忠誠心は高く、仲間を裏切るような不正行為は起きにくかったと思います
。」

どうやら清水教授は、「家族的団結や価値観の共有が強かったかつての日本企業は、不祥事が起こりにくかった。そういう部分が崩れたために不祥事が多発するようになった。」と考えているようだが、そういうものではないと思う。

一口に企業の不祥事といっても様々な類型があり、

 ①私利私欲のため会社や顧客の財産を横領・窃取するなどのパターン

 ②会社の目標やノルマを達成する(ように見せかける)ため業績や数値を偽るパターン

 ③会社の利益のために、違法な行為(談合、贈収賄、総会屋との取引等)を行うパターン

・・・のように分類することができる。

まともな統計があるわけではないので、データによる比較はできないが、まず①のパターンの不正は、団結や忠誠心の強い(旧来の)価値観共有型で、なおかつ労働条件も良好な日本企業であれば、比較的少なさそうに思われる。なんといっても①のような行為は、組織や仲間に対する裏切りだからである。

これに対して③のタイプの不祥事は、むしろ旧来型の家族意識とか価値観共有の度合いの強い日本企業の得意技(?)ではないだろうか。ただし近年、会社が従業員に対して距離を置くようになり、浪花節的・家族主義的な自己犠牲の要求が通用しなくなってきているから、従来に比べてこの種のタイプの問題は発生しにくくなってきたかも知れない。

いっぽう②は、いつの時代でも、業績が思わしくなくて焦っている企業では起こりうることだろう。東芝の不正会計や三菱自動車の性能偽装は、この類型にあたる。

ただ、コンプライアンス意識が高まり、また情報開示による外部(特に株主というか証券市場)からの監視が厳しくなった近年は、この種の不正(不正報告)が従来より発覚しやすくなったので、多くなったように見えるだけではないだろうか。

日鉄住金物産の早朝勤務を深夜残業扱いにする試み

ニュースイッチ(日刊工業新聞)の記事より:

早朝勤務を深夜残業扱いに。日鉄住金物産の「働き方改革」の成果

日鉄住金物産が早出残業奨励制度や勤務管理システムを導入し、夜間の長時間残業の削減に取り組んでいる。
 深夜残業の扱いとする時間帯を従来の5時から8時30分に延長し、早朝勤務を奨励するほか、第2・第3水曜日を“ノー残業デー”に指定した。
 パソコンの起動時間で個人の勤務開始から退勤までを自動的に記録するシステムにより、過剰な残業へ注意喚起を行い、早期に是正措置を取るなどして成果を上げている。
 」

 若干わかりづらいが、まず前提知識として、労働基準法の深夜残業についての規定について触れておく必要がある。労働基準法では、深夜(夜22時から翌朝5時)の時間帯の勤務については、通常の割増賃金(25%)に加えて、さらに25%の割増賃金を支給することとされている。いわゆる深夜割増である。
 (なお、この25%という割増率は法律上の原則的な最低限の基準であって、個々の企業ではこれよりさらに高い割増率(たとえば30%)を決めている場合もあるが、ここではその問題は省略する。)
 結局、残業が夜22時から翌朝5時に及んだ場合、残業代の割増率は50%(25%+25%)ということになる。

 日鉄住金物産がやっているのは、この割増率(50%)が適用される時間帯を、朝5時までにとどめず、朝8時30分まで拡張するということだろう。
 たとえば仕事を片付けるために朝7時に出社した場合は、7時から8時30分までの1時間30分については、150%(本来の賃金の時間割+割増50%)の賃金が支給されるということである。

 労働基準法で決められた残業の割増賃金というのは、もともと残業を奨励するために存在するのではなく、むしろ法定労働時間を超えて労働者を働かせた企業に対するペナルティとして設けられたものである。(この発想は本来は、自分では労働時間を決めることができない工場労働者のイメージが出発点であった。)

 今回の日鉄住金の取り組みは、割増賃金を、社員が自発的に、夜遅くではなく早朝に仕事を片付けるインセンティブとして利用しているということであり、なかなか興味深い。

潮匡人氏の「朝ドラ暗黒史観」批判について

 評論家の潮匡人氏が、iRONNAの「『べっぴんさん』もそうだった! NHK朝ドラ暗黒史観に油断は禁物」という記事で、NHKの朝ドラが戦前・戦中の生活を暗く苦しいものとして描くことが多いといって批判している。

たとえば現在放送中の「べっぴんさん」について、NHKの公式サイトのあらすじの紹介の

 「紀夫に召集令状が届き、お腹の子供を託されたすみれは、夫不在の中、娘のさくらを出産する。
 戦況が厳しくなり、近江の坂東本家に疎開するすみれとゆりだったが、おじの長太郎一家の態度は冷たい。
 そんな中、神戸で大きな空襲があったと五十八からの知らせが入る。
 昭和20年8月、終戦の日を迎えたすみれは、様子を確認するため、神戸に戻る。
 そこで目にしたのは、焼け野原になった街と、焼け崩れた屋敷の姿だった」

という表現をとりあげて、暗く重苦しい雰囲気が「あらすじ」からも伝わってくると言って批判している。

ただ、範囲の広い「戦前」はともかくとして(太平洋戦争でいえば1941年より前、日中戦争でいえば1937年より前が「戦前」であり、どこまで遡るかは問題である)、「戦中」は、成人男子が多数徴兵されたり、空襲で全国の都市が攻撃を受けて焼け野原になって膨大な犠牲者をだしたり、食料品を始めとする物資が不自由であったりと、国民にとって非常に悲惨な経験であったのは事実であり、しかも戦時体制ということで国民に対する公権力により規制・統制も非常に厳しかったわけで、それをドラマとして描くとすれば、何かしら「暗さ」「苦しさ」が出てくるのは避けられないだろう。
 それを「暗くて重苦しいのはけしからん」と潮氏に言われても、どうしろというのだろうか、作り手は困ってしまうのではないか。

 せっかく批判しているからには、潮氏は、
 「戦争中は実は楽しいことも沢山あった」
とか
 「それほど悲惨な暮らしではなく、国民は戦争に勝利すればやってくるはずの明るい未来を信じて前向きに生きていた」
とでもいう具体的な例を何か挙げて、朝ドラの描くべき方向性について説明してくれるのかと期待して読んだのだが、具体的な反証とか対案のようなものは何もなく、ただ単に
「せっかく朝8時から放送される、名実ともの「朝ドラ」なのだ。せめて、もう少し明るく描けないものか。戦前戦中を描いた朝ドラをみるたび、そう思う。」

と抽象的なことをいって記事は結ばれていく。

 しかしこんな漠然とした感想では、具体的にどのようにして欲しいのか、どこを変えれば(潮氏の基準で)善くなるのか、まったくわからない。朝ドラが戦争中を暗黒時代のように描いていてけしからんというのなら、暗黒時代でない描き方というのはどういうものなのか、それを具体的に示すのが評論家の仕事なのではないだろうか。

 ただ私なりに敢えていえば、朝ドラなどの戦争中の場面で「軍人」が登場する場合(登場するのは戦場ではなく“銃後”の国内の社会生活の場である)、とかく愚かで無能なくせに不必要に威張っているように描かれがちかなとは思う。実際は軍人にも様々な人物がいて、その立場の中でいろいろな言動をしていたはずで、有能な人物も無能な人物もいたのだろうとは思う。類型的に「軍人=愚か、無能、高圧的、国民の敵」というふうに決めつけて描くのではなく、個別的に描いてほしいと思うことはある。

天皇の地位と皇室典範と国会

 先日のエントリ「『天皇の地位は日本書紀の神勅に由来する』という安藤議員の主張」は、PVが普段に比べて異常に多くなって正直驚いている。皇室についての話題は大きな関心を集めやすいということだろうか?
 安藤議員の発言は、朝日新聞でしか取り上げておらず、他のメディアは一切無視しているので、それほど世間の話題になっているわけでもないし、当ブログでもそれほど大したことは書いていないつもりなのだが…。

 念のため補足しておくと、例の記事を読んだ限りでは、安藤議員の主張の主眼は、「天皇の地位は日本書紀の神勅に由来する」という部分ではなく、「皇室典範は、旧憲法の時代のように、国会が定めるのではなく、国会と無関係に皇室が決めるようにするべきだ」(そのように憲法を改めるべきだ)ということのようである。要は天皇の退位(譲位)とか継承のあり方などの問題は、皇族内部で自律的に決定するべきで、国会(さらには政府も?)が介入するべきではないということだろう。

 (具体的にいうと、現在の日本国憲法は、第2条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」と定めており、皇室典範の内容は国会が定めることになっている。従って現在の憲法を前提とする限り、国会の権限が及ばないような皇室典範を作ることは不可能である。)

 安藤議員としては「天皇の地位は神勅に由来するから、国民は絶対的に服従すべきだ」といいたいのではなく、「天皇の地位は神勅に由来するから、その地位についての問題は国会の意向に左右されるべきではなく、皇族が自ら決めるべきだ(=そのように憲法を改正すべきだ)」ということだろう。

 神勅云々の部分は別として、皇位の継承や退位の問題は皇族が自律的に決めるべきだという考え方それ自体は、一理あるとは思う。ただしそうだとしても、それは皇室典範を国会が改正して、「皇族が自律的に決める」という趣旨の規定を定めれば良いだけである。皇室制度が、国の財政(国民の税金)によって維持されているものである限り、国会が一切介入できないというのはさすがにまずいだろう。

(皇室のあり方に国会が一切介入する余地のないようにするべきだというのなら、国民の税金を一切使わないようなあり方を考えるべきである。)

 なお安藤議員は「日本最高の権威(天皇)が国会の下に置かれている」とも述べたそうだが、権威の部分はともかく、「国会の下」という言い方はどうなのだろうか。皇位継承について定める皇室典範は国会が制定するし、皇室予算も国会の議決に基づくものとされている。その意味で国会の統制が及んでいるのだが、これをもって「天皇は国会の下」と呼ぶべきかどうかは別問題である。

 誤解を招かないように言っておくと、逆に「天皇は国会の上」と言いたいわけでもない。 たとえば一般国民は、国会の制定した法律に従わなければならないが、「国民は国会の下」と言うべきなのだろうか?国民は主権者であり、国会議員を選出する権利を持つのだから、国民が国会より格下というわけではないだろう。要は「上」「下」という概念を持ち込むから混乱するのであって、「天皇は国会の上か、下か」という議論は必要なく、ただ皇位継承や予算などで国会の議決に従うということである。

(なお国会は国権の最高機関とされるが(憲法第41条)、これは政治的美称であって、国会が内閣や最高裁判所の「上」に立つという意味ではないというのが通説である。)

「天皇の地位は日本書紀の神勅に由来する」という安藤議員の主張

朝日新聞の記事から:

「天皇の地位は日本書紀に由来」 退位巡り自民・安藤氏

 自民党の安藤裕衆院議員は17日の衆院憲法審査会で、天皇陛下の退位をめぐる皇室典範のあり方について「旧憲法(明治憲法)のように国会の議決を経ずに、皇室の方々でお決め頂き、国民はそれに従うという風に決めた方が日本の古来の知恵だ」と述べ、憲法改正を主張した。
 旧皇室典範は明治憲法と並ぶものと位置づけられ、制定や改正に帝国議会の関与はなかった。一方、現行憲法では天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」として、皇室典範は国会で定めるとしている。安藤氏は「天皇の地位は日本書紀における『天壌無窮の神勅(しんちょく)』に由来するものだ。日本最高の権威が国会の下に置かれている」と述べた。

 安藤議員の具体的な発言全体を読んだわけではないので、あくまでこの記事の範囲だけで感想を述べることとする。

 現在の日本国憲法では、記事にある通り、天皇の地位は「国民の総意」に基づくもので、 神の意志によるものとはされていない。

 ただし神道の考え方によれば、安藤議員のいうように、天照大神が孫であるニニギノミコトに向かって、その子孫(代々の天皇)が永遠に日本を治めることを述べたとされており、これが日本書紀の天壌無窮の神勅である。

 安藤議員が、天皇の地位は「国民の総意」ではなく「日本書紀の神勅」に由来すると考えているのであれば、それは神道、すなわち宗教的理念のレベルの問題ということになる。
(ただし、たとえばキリスト教徒や無神論者にとっては無関係ということになるだろう。)

 安藤議員がどのような憲法改正を考えているかはわからないが、日本の国家体制のあり方について、政教分離の原則を守るのであれば、憲法に「天皇は神勅に由来する」などと書くわけにはいかないはずである。(戦前の大日本帝国憲法とはその点が異なる。)
 それにもかかわらず「天皇の権威は神勅に由来するから、国会は介入するべきではない」という主張を徹底するのであれば、皇室を神道系の宗教法人にするしかなくなるのではないだろうか。ある宗教の理念に基づく権威を国家の制度に組み込むというのは、近代的な国家の憲法にはそぐわないからである。(★注)

 ところで神道の考え方の中では、天照大神は皇祖神であって、歴代の天皇の祖先とされ、伊勢神宮に祀られている。伊勢神宮をどのように運営するのかについて国会がコントロールするのは確かにおかしいわけで、現に国会が口出しできることではなく、宗教法人たる伊勢神宮(さらには包括宗教法人である神社本庁)が自ら決めている。
ただし伊勢神宮は国家の機関ではなく、憲法に規定されているわけではないし、国の税金で運営されているわけでもない。 

 安藤議員の主張どおり「天皇の権威は神勅に由来するから、国会が皇室に口を出すべきではない。」というならば、上述のとおり、皇室も、この伊勢神宮と同じような立ち位置になるのが望ましいということになろう。天皇は神により権威を与えられているから国会が口を出してはならないというのであれば、それはもはや国家機関の立場を超えた、宗教の領域の問題だからである。

 このような議論が問題になるのは、要するに「天皇」の地位が、「憲法上の近代国家の機関」という側面と、「神道における皇祖神の子孫」という側面と、2つの面を持っているからである。この点についてはまた機会を改めて論じてみようと思う。

(★注)もっとも、特定の宗教の権威を憲法に組み込んだ例は現代でもないわけではない。たとえばイラン・イスラム共和国やタイ王国の憲法が例として挙げられる。イランやタイのように、憲法に宗教の権威を明記するということだろうか。

電通の本当の問題は「鬼十則」ではない

 電通の社訓というか執務心得の「鬼十則」は、社員手帳にも掲載されているというが、最近の過労死事件に関係する報道の中ですっかり有名になってしまった。今さらだが、その内容は次のとおりである。

1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

日本テレビの報道によれば、電通は、これを社員手帳に掲載するのをやめることを検討しているという。

しかしこの十則は、それ自体で見れば、さほど悪いものではないのではないか。

 問題視される点があるとすれば、5の「殺されても放すな」という部分くらいだが、これも本当の意味で「殺されても(死んでも)・・・」という意味ではなく、課題にとことん食らいつけという意味だろう。ただ「殺されても」という表現がまずいというのであれば、そこは確かに変えた方が良いのかも知れない。

 それ以外の部分は、ビジネスマンの心得としては、別に電通に限らず、(絶対正しいとかいう意味ではないが)割と一般的なものではないだろうか。私がかつて勤務していた大手メーカーは、電通に比べれば殺伐とした感じはあまりしない、ただし官僚的・硬直的な組織構造の会社だったが、そこでこの鬼十則が提唱されていたとしても、それほど違和感はない。(ただしそのような実践ができているかどうかはまったく別であるが。)

 この鬼十則が過労死や自殺の元凶であるかのような報道もあるが、そのように短絡的に結びつけるのは、逆に真相から目を遠ざけることになるだろう。むしろ電通の社内風土の本当の問題は、この鬼十則とはまったく別次元の、異様なパワハラとか濃密で強圧的な上下関係などにあったのではないかと思う。
(たとえば電通の社員と身近に接してきたこの人のブログでは、残業や飲み会などの異常さが十分伝わってくる。「鬼十則」ならぬ「狂った七つの常識」というのがその病根だという。)

 この鬼十則それ自体からは、パワハラやセクハラを肯定するようなニュアンスがうかがえるわけではない。

 いずれにしても電通の本当の問題は、鬼十則とは別なところにあるので、鬼十則ばかりを問題にするのは、本質を見誤ることになる。

生活保護とパチンコ

 生活保護受給者が、生活費を浮かしてパチンコをすることについてよく論争になることがあり、最近でも元横浜市長の中田宏氏が意見を発信している。 
 この議論には、2つの異なったレベルの問題が混在しているので、整理しておく必要があるだろう。

(1)(生活保護受給者に限らずおよそ一般論として)パチンコを法的にどう評価するのかという問題

(2)生活保護費の用途はどこまで自由かという問題

 まず(1)は、パチンコが、景品を換金するプロセスも含めて一体として見れば賭博であるというのであれば、端的に禁止するべきことであり、現在の行政の解釈(「パチンコと換金プロセスは別なもので、賭博ではない」等々)をはっきり変更するか、法改正で明確化するかしかないだろう。
 パチンコが禁止されるなら、生活保護を受けていようといまいと、金持ちだろうと低所得者であろうと、端的にパチンコをするのは違法というだけであって、それで話はおしまいである。

 ただし、パチンコが今のところは違法ではなく禁止されていないという現状を前提にすると、違法でない行為を生活保護受給者がやっては何故いけないのか?ということになり、(2)の議論に移っていく。

(なお中田氏のこの記事では、競馬や競艇やロトや宝くじを生活保護受給者がやるのはどうなのか、必ずしもはっきりしない。これらは合法的だから良いということであれば、パチンコも賭博ではなく合法的だというタテマエの解釈で運用されている以上、パチンコだけダメというのは困難だろう。生活保護受給者は競馬も競艇もロトも宝くじもダメだというなら、それはそれで一貫はしている。)

そこで(2)の論点について考えてみると、まず、生活保護の目的は「健康的で文化的な生活水準」を維持することだから、食費や光熱費や家賃などの直接的な衣食住の費用以外に、どこまで用途を認めるべきかという問題があり、要は娯楽・趣味・嗜好的なものをどこまで認めるのが妥当かということが問題となってくる。

 一切娯楽を認めるべきでないというのであれば、パチンコに限らず、映画も小説も漫画も認めるべきでないということになるだろうし、映画や漫画を認めるのであれば、それとパチンコはどこが違うのか、どこまでの娯楽や嗜好品を認めるのかということになってくる。

 娯楽は一切ダメだ、というのであれば、そこで議論は終わりであるが、それは極端ではないだろうか。「健康的で文化的な最低限の生活」は、娯楽もある程度は含むといえないだろうか。

 生活保護受給者が映画に行くのは良いがパチンコはダメだというのであれば、それは、そもそもパチンコは生活保護者に限らず本来禁止すべきではないかという(1)の論点が混ざっているのではないかと思う。
 生活保護受給者がパチンコをするのに違和感を感じるとすれば、それは、パチンコそのものが本来違法とされるべきものなのに何故かお目こぼしされていて不当だと感じているからであって、その不当感が、「生活保護受給者は税金で最低限の暮らしを保障されているのだが・・」という観点によって増幅されているからではないか。取り締まるべきは、生活保護ではなく、パチンコなのである。

トランプを安直に「ヒトラー」に喩えない方が良いのでは?

 トランプをヒトラーになぞらえる発言があちこちで相次いでいる。
たとえば想田和弘氏は、自分のfacebookで1922年のニューヨークタイムズは「ヒトラーは大勢の支持者を得るためのエサとして、反ユダヤ主義的主張を利用しているに過ぎない」と論評し、ヒトラーの危険性を軽視していた。現在のトランプをノーマライズする論理と似ていることに驚かされる。」と述べた。

 このように、トランプに対する比喩として「ヒトラー」を用いる場合、ヒトラーの持っていたどの要素に着目しているのか、つまり具体的にはヒトラーのどの部分とトランプが似ているのか、比喩を使う人間は整理する必要があるだろう。
少なくとも3つの要素が考えられる。

 (1)ヒトラーがユダヤ人差別や虐殺を行ったように、トランプも人種や民族等に着目した差別や虐殺を行うという意味なのか

 (2)ヒトラーが全権委任法によって独裁権を握ったように、トランプも独裁者として政治を行うという意味なのか

 (3)ヒトラーが第二次世界大戦を開始したように、トランプも大規模な戦争を開始するという意味なのか

 どの意味にしても、「ヒトラー」というのは、「人類として許せない、存在を認めてはいけない、おぞましい、世界を破滅に導くような、とうてい共存できない政治家」、さらにいえば「論証の必要もないほどの絶対悪」というものの代名詞のように使われているわけである。

 このように「ヒトラー」呼ばわりするということは、絶対悪ということだから、妥協や前向きな評価の余地はなく、排除、反対するしかないということになろう。
 そうなると、まずトランプ支持者との間では当然のことながら対話が成立しないことになるが、問題はそれだけにとどまらない。さらに、トランプを(必ずしも支持はしないにしても)絶対悪とは考えていない人との間でも話が通じなくなってくるのである。

 一方の立場の者にとっては、トランプ=ヒトラーであり、世界を滅ぼす大悪魔のような存在である。
 別な立場の者にとっては、トランプは、良い政策か悪い政策か、いずれにしても何らかの政策をする一政治家にすぎない。
 この2つの立場の人間の間で果たして対話は可能なのだろうか。

 今回の米国の選挙では、トランプ支持者と不支持者(必ずしもクリントン支持者ではない)との間で、大きな断絶が浮き彫りになったと言われている。
 今後は、いつまでもトランプが高い支持率を誇っていられるわけではないと思うが、それにしても、トランプの政策に対して是々非々、ケース毎の賛否で考えていきたいという人間と、トランプはヒトラーのような絶対悪だと考えている人間との間で、絶望的な断絶が生まれていくのではないだろうか。

 なお、「トランプ=ヒトラー、大悪魔」のような発想で考えている人にとっては、予想どおりトランプが世界を地獄に落とすようなことを何かやってくれれば顔が立つ(?)のだろうが、仮にそこまでいかず、ほどほどの政策の範囲内で収まってしまった場合、引っ込みがつかなくなってしまうのではないだろうか。

トランプの支持層が「見えていなかった」ということ

 米国大統領選挙でトランプが当選したことについては様々な分析ができると思うが、メディアがその支持層の強さを見落としていたということについては、既にいろいろな論者が触れている。細かいデータを検証する余裕はないが、その支持層は、米国の内陸部の州を中心とした、わりと没落の危機にさらされている保守的な白人の中間層ということができるのだろう。「白人の貧困層」という論者もいるが、貧困層に集中しているわけではないことは、データでも裏付けられているようである。

こういう保守的な白人中間層が存在していることを知らない者はいなかったのだろうが、主要なメディアは特に取り上げることはほとんど無かったのかも知れない。
米国では、黒人の存在はわかっていても白人に無視されるという意味で、「黒人は透明な人間だ」と比喩的にいっている論考をかつて読んだことがある。この言い方を借りれば、現在の米国では、内陸部に主として住んでいる没落しつつある白人中間層こそは、主要メディアにとって、まさに「透明な人間」となっていたといえる。

 「トランプもサンダースも貧困層にアピールした」という論説も見受けられるが、おそらくは、ヒスパニック系の移民や黒人などの貧困層は、基本的にサンダースを支持し、その後もヒラリーを支持したか、棄権したかは別として、トランプにはさほど流れなかったのではないか。
 ヒスパニックや黒人などの貧困層と、白人の没落中間層では、その意味合いがまったく違う。前者はおおむね最初から貧しかったが、後者はそこそこ豊かな生活だったのに貧困に落ち込む危機に見舞われているのである。
 一般的にいえば、最初から貧しい前者の層は、失うものはないので、社会に対して怒りを感じて変革に賭けるか、日々の仕事を通じた何らかの上昇を希望するか、いずれにしても何かを新たに手に入れる方向の意識になりやすいのではないだろうか。
 これに対して、後者の没落する中間層は、良かった状態から没落してきているわけだから、失われた過去や良き伝統への回帰とか現状の防衛のために躍起になる傾向があると言えそうである。

 また、いわゆる経済のグローバル化や市場競争激化という現象の中でも、移民の貧困層と、没落しつつある白人中間層とでは、意識は同じではないだろう。
 新たに米国にやってくる移民は、グローバル化の現象の一部であって、その利益の分け前を得ようとして必死になって働く存在である。
 これに対して、没落している中間層の白人は、グローバル化や市場競争激化によって、職を失ったり労働条件が悪化したり地域のコミュニティが解体されたりで、不利益をこうむっていると感じているのである。(ただし本当に不利益しか受けていないと言えるのかどうかは疑問の余地が大いにあるだろう。)

 グローバルな資本主義は、国籍にかかわらず利益を上げてくれる労働者や管理職を必要とするから、その意味では、白人などでなかった者にとっては、雇用や生活向上への「「チャンス」を与えてくれるという一面をもつ。マイノリティも大都市部の企業経営層もヒラリーを支持するという現象は、これで説明がつくだろう。

トランプは「差別主義者」ではなく「詐欺師」ではないのか

 米大統領に当選したトランプのことを「差別主義者」「排外主義者」「レイシスト」などと非難する論者は後を絶たない。
 日本でも“リベラル”の人たちが、トランプが人種や宗教による差別・弾圧政策をやるのではないかと予想したりしている。これはリベラルの人たちがトランプを恐れているというよりも、
 「自分たちリベラルは、トランプを差別主義者だとして糾弾してきた。結局、そのトランプが政権につくのだから、ちゃんと自分たちの予言どおり、差別主義的政策を行って、世界を地獄に落としてくれないと困る」
というような、意地というか信念というか、不幸な結果であってもとにかく自分の予言が当たってくれないと困る予言者のような心情があるのかも知れない。

 私は現地の情勢に特に詳しいわけでもなんでもないが、報道や論説だけ見た私なりの勝手な判断というか推測でいえば、これはかなり的外れの批判なのではないかという気がする。

 トランプ自身の内面には、たとえばイスラム教徒や不法移民に対する蔑視とか差別意識のようなものは確かにあるのだろう。
 しかしトランプ政権が、明確な主義主張や政策理念として、差別主義的なものを前面に打ち出せるかといえば、さすがに今の時代それは無理だと思うし、選挙中に話題になった、イスラム教徒の排除やメキシコとの国境での壁構築などの政策も、実際問題としては実行に移されることはないと思う。
 トランプにはそれなりの差別意識は確かにあるのだろうが、差別主義者というほどの明確な信念や方針を持っているわけではないのではないか。

 つまりトランプは、実際にはできもしないし、実施するつもりもないことを、選挙運動でのアピールとして行ってきただけなのではないか。

 結論としていえば、トランプ政権は当面、それほど変わった施策はしないし、できないのではないかと思う。トランプ1人ですべて決めるわけにはいかないし、むしろ政治のことには素人なのだから、専門的知識のある閣僚やスタッフの意見に依存する度合いが非常に大きくなるのではないか。共和党として“保守”的価値観に傾いた政策方針はそれなりに出てくるとは思うが、レーガン政権やブッシュ親子政権とそれほど変わらない線に落ち着くのではないかと私は勝手に考えている。

 そこで記事のタイトルのとおり、トランプは、差別主義者ではなく、詐欺師なのではないか、と思ったわけである。ここでいう詐欺師とは、出来もしないことを選挙で公言して票を集めるという意味である。実際はそれほど大それたことをするつもりもないのに、差別主義者であるかのようにふるまって、大衆(主として白人の中間層以下ということだろう)を煽り、大衆の差別意識を掘り起こし、差別主義的な人たちからも票を沢山集めた。本気で特定の人種や宗教を排除する政策をすることはないだろうが、それをやってくれると期待させておいて支持を集めて当選した。その意味で「詐欺師」なのである。

 ただ、トランプ自身がどうであっても、差別主義者に受けるような発言をばらまいて大衆心理に影響を与えてしまったのは事実であって、その結果として、たとえばヒスパニックやイスラム教徒に対する様々な暴言や暴力は、従来より激しくなるだろうし、実際すでにそういう報道が相次いでいる。マイノリティに暴言や暴力を浴びせるような人は、トランプが当選したことで、自分たちの言動が(ある程度)社会的に容認されたかのような心理になったのだと思う。いっぽうトランプに反発する人たちは、反トランプデモを各地で行い、中には暴徒化した者もいる。その結果として、「やはり“あいつら”は暴徒だ、取り締まらなければ」というリアクションが出てきて、さらに悪循環となるわけである。

トランプ大統領誕生とリベラルの泣き言

トランプが大統領に当選したことについて、香山リカがtwitterで

 “もう分析とか予測とかやめて信仰持ってるヒラリー支持者はみんな祈って、と言いたい気持ち”

 “昨日、アメリカ大統領選の結果は人類が残るか滅びるかの瀬戸際とツイートしたら、「そんなことより」などとせせら笑うリプしてきた人たち。今でもそう思ってますか?”

 “これから大学の演習。毎回「今週あったひどいこと」と題して社会的事件をあげて議論するんだけど、先週「来週はトランプ当選がテーマだったりして、まさかねアハハ」と笑い合った。そういう小さな油断いや良心や倫理への信頼が世界中で悪夢を招きつつある。もう人間は私たちが知ってる人間じゃないのか”

等とつぶやいている。

 トランプ大統領の出現によって米国や世界が混乱に陥る可能性はもちろん大いにあるのだが、香山リカのつぶやきを見ると、何か自分が悲劇のヒロインとか殉教者にでもなって自己陶酔しているかのようで、少し薄ら寒いものを感じてしまう。

 この種の人たちが一番恐れているのは、トランプの政権によって世界が混乱することではなく、トランプが政権についても人類が滅びずに普通に続いていくことの方なのではないだろうか・・・と疑いたくなる。トランプによって世界が滅びることよりも、トランプの統治する世界が存続することの方が恐ろしいと思っているのではないだろうか。

 (似たような反応は、東京都知事選の時もあった。いわゆるリベラルや野党支持の論者たちは、鳥越氏が落ちて小池氏が当選したら日本が核武装して戦争が起こるとでも言わんばかりの態度だったのである。)

 いっぽう沖縄の翁長知事は、トランプが在日米軍撤退論をぶちあげていたことを踏まえて、トランプに面会して辺野古移設反対の立場を伝えるため訪米する意向をしめしているという。実際問題として、成果を上げる可能性は低いのではないかとは思うが、少なくとも「使えそうなものは何でも使う」という前向きな態度をしている点は評価できると思う。トランプの当選に対して悲劇的な気分で泣き言をいっているだけの人たちよりは、ずっとまともだろう。

長時間労働の問題は「コンプライアンス意識」だけの議論では済まない

電通に対して、複数の社員に違法な長時間労働をさせていたとして、労働基準法違反の疑いで厚生労働省が強制捜査に入った。(たとえば毎日新聞の記事参照

一連の問題で、「電通にはコンプライアンス意識が欠けていた」という言い方がされている。もちろんこれは、まさにそのとおりなのだが、それは、「過搭載やスピード違反をする運転手やその運送会社には、道交法遵守の意識が欠けていた」などというのと同じレベルの話であって、かなり形式的・表層的な部分の問題の指摘にとどまるものであり、それだけではあまり実りのある議論にはならないと思う。

今回の捜査は、刑事責任の追及の観点から、あくまで「実際にどれだけの労働時間があったか」「どれだけ違法な残業や賃金不払があったか」を調べるためのものだろう。しかし本当に解明しなければならないのは、「業務や組織のあり方はどのようなものだったのか」「どのような業務・組織のあり方の結果として、このような長時間労働が行われるようになったのか」という点だろう。たとえば、クライアントからの仕事の発注の受け方、納期、その仕事を行うためにどのような作業が必要とされたか、等々の部分である(そこまで捜査が踏み込むかどうかは疑問だが)。

そして、業務や組織のあり方を徹底的に議論していくならば、たとえば
「仕事をたくさん取らなければ会社としてやっていけない。そのためには営業活動に労力を注がねばならない」
「納期が短い仕事を大量に受注せざるを得ない。そうなると膨大な労働時間が必要となる」
などという問題が当然でてくる。

それを踏まえたうえで、コンプライアンスを論じるとなると、
「それじゃあ、受注を減らして、売上を減少させても良いのか?」
「納期に余裕がある仕事しか受けないのなら、労働時間は少なくて済む。しかしそれでは売上が少なくなってしまう」
「残業を押さえつつ、なおかつ納期を守り、売上を維持するには、多忙な時だけ人間を雇って、それ以外の時は辞めてもらう体制にしなければならなくなるのでは」
「残業代を完全に支給するとすれば、そもそも基本給部分の設定を考え直した方が良いのではないか」
などの論点も(会社の視点でいえば)出てくるはずだろう。

本当は、そこまでホンネをいって、「コンプライアンスを徹底するとしたら、それと引き換えにどのような代償を会社(と社員)が払わなければならなくなるのか」についても検討して、初めて実りある議論になるのである。

なお、例の女子社員の自殺は、労働時間以外のパワハラとか風土の問題もあるはずだが、そちらは残念ながら解明されることはないと思う。単なる労働時間ではなく、具体的な人間関係や上司の管理・言動が問題となるのだが、そういう部分は表になかなか出てこないからである。

企業の「内部留保」批判には誤解によるものが多い

 企業が蓄えたもうけを示す「内部留保」が増え続けている。財務省の法人企業統計によると、2015年度は377兆8689億円と前年度から約23兆円増加し、4年連続で過去最高を更新した。アベノミクス効果をアピールしたい政府は、来年の春闘もにらんで賃上げなどに回すよう迫っているが、企業側は慎重だ。(以下略(毎日新聞の記事より))

 上記の記事にもあるとおり、「内部留保」というのは会計上の概念ではないので、厳密には「利益剰余金」とでも呼ぶべきところだが、要は、企業の税引後利益から 株主への配当を行ったあとの残りの額である。

 この内部留保を企業が増やしていることへの批判の論調は昔からよく見られたことで、私が就職したばかりの頃は、「日本企業はろくに株主に配当もせず、内部留保に回しすぎる」という主張があったものだが、最近は賃上げや投資に回すべきだという文脈での内部留保批判が目立つ。まるで企業が「内部留保」を何にも使わずに、ただ単に貯め込んで放置していると言わんばかりの批判も多い。

 しかし、簿記や会計をある程度学んだ人ならわかると思うが、ある企業のバランスシート上の内部留保(利益剰余金)が1,000億円だったとしても、だからといってそのまま1,000億円の現預金を貯め込んでいることを意味するわけではない。
 (そもそも毎年の売上や利益の額そのままの現預金が企業に入ってくるわけではない。たとえば売掛金の存在を考えてみれば良い。)
 その1,000億円は、バランスシートにあらわれた資産のうちの何らかの部分に対応するものではあるが、それは工場や機械設備などになっているかも知れないのである。

 話をやや単純化して、ある企業が1,000億円の利益剰余金を確保し、その1,000億円にあたる現預金があったとして、その1,000億円をそのまま設備投資に回すということは、理屈の上では可能である。その場合、1,000億円の利益剰余金(内部留保)が存在したままで、それに対応する1,000億円分の設備がバランスシートの資産として計上されることになる。つまり、内部留保と設備投資とは、両立するものであって、設備投資をしたらその分だけ内部留保が減少するというわけではない。 

 この意味で、「内部留保をためるのはやめて、設備投資に回すべきだ」という主張は、ある種の誤解にもとづいている。繰り返しになるが、内部留保が存在することと、その内部留保が設備投資に回っていることとは、両立するからである。1,000億円の内部留保が存在するとして、その1,000億円のうちの一部は、既に工場の設備になっているかも知れない。

 もちろん、設備投資を控えて現預金をそのまま貯め込む企業というのも存在する。その理由は、たとえば将来の支払予定やリスクに備えるなど、いろいろあるだろう。これは、内部留保を貯め込むことそれ自体の問題ではなく、現預金ばかり確保して設備投資をしないことの問題である。
 「内部留保が多いこと」の問題と、「預貯金を使って設備投資をするかどうか」の問題。この2つを混同してはならない。

 内部留保を批判する論者の多くは、「内部留保=使われないで貯め込まれた預貯金」だと思い込んでいるのではないだろうか。

 なお、内部留保というか、企業が営業活動から確保した預貯金が設備投資に使われず、そのまま銀行に預けられていたとしても、社会一般のために役に立っていないわけではない。銀行に預けられた金銭の大半は、そのまま眠っているわけではなく、他の企業に対する融資に使われて事業に活用されるか、政府の発行する国債の購入に用いられるからである。

憲法改正の国民投票を一度でもやれば「押しつけ憲法」論は消滅する

日本国憲法施行70周年を迎えたが、憲法改正について一言。

日本国憲法の成立過程については、改憲派の立場から、いわゆる「押しつけ憲法論」が根強く主張されている。どの程度まで日本国民の意向が内容に反映されていた(いなかった)と言えるのかについては様々な議論があるだろうが、いずれにしても、実際問題として、占領軍の意向を無視した憲法を成立させることができなかっただろうという点は今さら否定できない。

(もちろん「押しつけ憲法」でないとしても、改正が必要だという主張は論理としては成り立つが、「押しつけられた憲法だから改正すべき」という主張は、常に一定程度の説得力をもって存在してきた。)

 参議院選挙以後、憲法改正を目指す政治的な動きもいろいろと見えているところだが、仮に将来、国会で何らかの憲法改正の発議が行われ、国民投票を行ったにもかかわらず、改正に賛成する投票が投票総数の過半数に至らずに、承認されなかった場合、どうなるだろうか。
 もちろんその場合、国民の承認を得られなかったから憲法改正が行われないということになるのは当然だが、その政治的な意味としては、単に「憲法改正案が国民に承認されなかった」というだけでなく、「現行の憲法が国民によって信任された」ということにもなる。

 つまりその瞬間に「押しつけ憲法」論は成り立たなくなり、現在の日本国憲法は、国民が自分の意思で(消極的に・・・であっても)国民投票により選択した憲法となるわけである。改憲を主張する人々にとっては、国民投票で承認を得ることに失敗した場合、そのことは、単に改憲に失敗するというだけでなく、「押しつけ憲法」論が二度と使えなくなるという意味で、二重のダメージとなるだろう。

 さらにいえば、現在の日本国憲法は、形式上は、大日本帝国憲法を帝国議会の決議で「改正」することによって成立したという体裁を採っているのだが(★注)、国民投票で改正発議が承認されなかった場合、実質的には、国民が現在の日本国憲法を投票によって直接選んだということになる。つまり国民の意思によって日本国憲法が選択し直されたのであり、大日本帝国憲法との形式的なつながりすら断絶されるに等しいインパクトがあるということもできるだろう。

(★日本国憲法の前文の前には、昭和天皇の上諭が次のとおり記載されており、日本国憲法が、帝国議会の議決を経た大日本帝国憲法の改正の手続を経て成立したこととされている。

 「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」

 ただし、これは形式的には「改正」だが、実際は主権者が天皇から国民に変わったという点で、「改正」ではなく「革命」であり、新たな憲法の制定にあたる・・・というのが、憲法学の通説とされている。詳しい議論はここでは省くが、いずれにしても“形式上”は、大日本帝国憲法の「改正」手続を経て日本国憲法が成立したという体裁を取っている。)

 以上は憲法改正が承認されなかった場合の話だが、「押しつけ憲法論」が使えなくなるのは、憲法の一部の条文だけの改正が承認された場合にも、同じことである。(というより、「改正すれば押しつけ憲法でなくなる」というのが、改憲派のロジックだし、実際それ自体は何も間違いではない。)一部の改正があるとしても、日本国憲法が全体として国民に選ばれたことになるからである。

 極論をいえば、ただ単に「第○条の『××は』を『××が』に改正する」という類の、わずかな語句や文字レベルだけの改正案であっても、ひとたび国民投票を行えば、承認されようとされまいと、その時点で「押しつけ憲法」ではなくなる。

 つまり、国民投票を一度でもやるということは、どんな改正案であろうと、結果がどっちに転ぶのであろうと、「押しつけ憲法」論が二度と使い物にならなくなることを意味するわけで、「押しつけ憲法」論は、最初の国民投票が行われるまでしか存在できないということである。

「サザエさん」を理想とする日本会議は大丈夫か?

 毎日新聞の記事 によれば、日本会議の関連団体が製作した啓発用DVDで、憲法24条(★注)により家族の解体が進んだ結果、様々な社会問題が起きているとして、3世代同居のサザエさん一家を理想として持ち上げているということである。

(★ 日本国憲法第24条は次のとおり。

  「  第1項 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
   第2項 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。 」

 詳細は省くが、平等な男女が個人として自由な意思により婚姻して成り立つ「夫婦」が家族の基本単位とされている。)

 このように、日本会議のようないわゆる"保守"系とされる論者には、2世代や3世代が同居する大家族を理想とする主張をする人が見受けられる。(このような大家族の形が、いつの時代から日本にあったのか等々の話になると、おそらく複雑な議論になってしまうと思うが、そこは省略する。)しかしこのような大家族が解体してきたのは、憲法24条や左翼(?)思想のせいではなく、大都市圏の発展や高度経済成長が進み、農林水産業や自営業が衰退してサラリーマン(賃金労働者)が多数を占めるようになったことなどが原因だろう。

 実際問題として、仮に3世代同居の大家族を作ろうと思ったら、それなりの大きな一戸建ての住宅が必要となるが、一体どこに建てれば良いのだろうか?予算、通勤や通学との兼ね合いなどでたちまち困難に陥ってしまう。(ただし農林水産業や自営業であれば、「通勤」は考慮に入れる必要はない。)

 また、企業なり役所なりに勤務している夫(場合によっては妻も)が転勤を命じられたら、どうするのか。子どもを地域の公立学校ではなく遠隔地にある進学校に行かせたい場合はどうするのか。
 さらに、こういう心配以前に、そもそも雇用も賃金も不安定で、家を建てるどころか、結婚も出産もおぼつかない者の場合は、どうすれば良いのか。

 このように、2世代や3世代同居の大家族を"復活"させるのが困難なのは、憲法の問題ではなく、現実問題として必要な条件を整えることができないことが原因なのである。

 折も折、皮肉なことに「サザエさん」の視聴率の低迷が話題になっている(たとえばこの記事参照 )。あまりに現実とのギャップが激しく、昭和時代にノスタルジーを感じない視聴者にとっては、ほとんど異世界の出来事としか思えないからであろう。
 東京都内で、広い庭を備えて1階で用が足りるほど広い一戸建てに住み、会社勤めの夫が夕方早く帰ってきて全員で夕食を食べる「サザエさん」の世界は、逆説的な意味では確かにある種の“理想”かも知れない。現実には決して得られないだろうという意味の“理想”である。

 安倍政権の支持率は高く、世論の中に比較的“保守”寄りの声も多いとは思うが、さすがに日本会議の唱える大家族志向にはついていけない人がほとんどだろう。

定年後の再雇用での賃金引下げと同一労働同一賃金

定年後再雇用、賃下げは「適法」 原告が逆転敗訴(朝日新聞記事)

上の報道にもあるとおり、ある運送会社の社員(トラック運転手)が、60歳の定年後に1年契約の嘱託として再雇用されたが、賃金は2割以上引き下げられたので、これを不満として、定年前と同じ賃金を支給するように勤務先の会社を相手として訴訟を起こし、東京地裁では勝訴判決を得ていたが、東京高裁では逆転、敗訴した。

世の中一般では、60歳を超えて定年後に再雇用する場合、従来よりも負担の軽い仕事に担当を変える例が多いのではないかと思うが、この事案では、トラック運転手という職務なので、特に仕事の内容は定年前と変わりはなかったようである。
(たとえば、50歳や55歳の時に比べて、60歳以降は運転する距離を短くしたとか、小型トラックの担当に変えたとか、そういうことではなさそうだ。)

高裁判決は、定年後に再雇用された者の賃金の減額について「社会的にも容認されている」と指摘し、60歳以上の高齢者の雇用確保が企業に義務づけられている中で、会社が賃金節約などのために、定年後の労働者と賃金を減額して契約を結んだことは、「不合理とは言えない」と理解を示したという。運転手側は最高裁に上告するというので、最高裁の判断が注目されるところである。

なお、報道によれば、この原告(控訴人)である運転手の代理人弁護士は、「『同一労働同一賃金』の議論が吹っ飛んでいる」といって、この高裁判決を批判したという。

「同一労働同一賃金」の原則をつらぬくなら、確かに「同じ労働なのに、60歳以降は賃金が下がるのはおかしい」ということになる。しかし物事には表と裏があるのであって、同一労働同一賃金の原則では、逆に、「同じ労働なのに、50歳が25歳より賃金が高いのはおかしい」という理屈にもなるはずである。

一般には、60歳以降の再雇用で賃金が下がるのは、年功・長期勤続の体系で、一定の年齢までは、賃金が年々上がっていく体系になっていることが前提になっているといえるだろう。
「同じ仕事なのに、60歳になると、なぜ賃金が下がるのか」ということを問題にするならば、「同じ仕事なのに、一定の年齢までは、なぜ賃金が年々上がるのか」ということも問い直さなければならない。同じ仕事なのに賃金が年々上がってきた人が、「同じ仕事なのに60歳以降賃金が下がるのはおかしい」と主張するのは、果たして論理的に筋がとおっているかどうか、である。
(ただし問題となっているこの事案の運送会社の場合、年功や勤続に応じて賃金が上がっていく体系になっていたかどうかは、報道ではわからない。ただ、毎年の昇給がほとんどないのに60歳で突然賃金が低い嘱託にされる、というのであれば、そのような扱いに合理性は認めにくいのではないか。)

一方、この「同一労働同一賃金」の考え方を徹底していくならば、究極的には「定年」制度の存在すらおかしいという議論にいずれ至るだろう。同じ労働ができるのなら、年齢を基準として強制的に退職させるのは不当だということになるからである。企業経営側の視点でいっても、同一労働同一賃金ならば、60歳近い人間の人件費負担が特に大きいというわけでもないから、定年制度について合理的な理由は乏しくなるだろう。しかし定年退職がないとすれば、新卒を定期的に採用するというあり方も崩れていく。

(なお細かい法律論でいうと、この訴訟で運転手側は、このように賃金を下げた取扱が「労働契約法20条違反」だという主張をしている。

ここで注意しなければならないのは、この労働契約法20条は、「高齢者の賃金引き下げ」を禁じているのではなく、「有期労働契約」の労働者と「期間の定めのない労働契約」の労働者の間の労働条件の差別を禁じているということである。

「有期労働契約」とは、一般的にいえば、いわゆる有期雇用とか契約社員などと呼ばれるもので、半年とか1年とか、期間を区切った労働契約である。この運転手は、60歳の定年後は1年契約の「嘱託」に変更されたので、これにあたる。
「期間の定めのない労働契約」は、特に契約の期間を限定しない労働者であり、一般的には、いわゆる終身雇用の正社員はこれにあたる。この運転手も、60歳まではこの正社員だった。

つまり、この裁判で運転手側が主張したのは、正確にいえば、「60歳を超えた者を賃金で差別するな」ではなく、「60歳を超えると1年契約の有期労働契約(嘱託)になるが、有期労働契約を賃金で差別するな」ということになる。)

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