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2016年12月

学歴による社会の分断

BuzzFeedJapanに「『学歴』で分断される日本のリアル」という興味深い記事があった。ここで紹介されている大阪大学教授・吉川徹(計量社会学)の次の言葉が印象的である。

日本社会をケーキで例えると、下半分はスポンジケーキで、その上にミルフィーユがのっているんですよ。
下は非大卒で、上は大卒ですね。大卒の人たちは細かい階層にわかれていて、どこの大学を卒業したかを学歴だと思っているんですね。
それは『学校歴』であり、学歴ではありません。大きな勘違いです

つまり、「どこの大学を卒業したかで差がつく」とか「学歴は出世に関係ないかどうか」などという類の言説は、ミルフィーユのように細かい層に分かれた大卒の世界の中の議論でしかなく、そのミルフィーユの下にはスポンジケーキのような別な隔絶された世界が存在していて、それが「高卒の世界」なのだという。

そして日本社会では、大卒の世界と高卒の世界とが分断されていて、学歴は世代間で再生産されるようになっているとも述べる。

そういえば、私が大学を卒業して大手電機メーカーに勤務していた頃は、工場の製造現場の技能職はもちろん高卒(稀に中卒)の世界であったが、事務職や技術職も、ある程度、高卒が採用されることがあった。
管理部門である総務や経理でも高卒が一定程度採用されており、その中では、事業所レベルで課長や部長にまで昇進する人も現にいた。
実際問題、私が入社後の研修を終えた後に最初に赴任した地方工場の部署の直属の上司の課長は、高卒であり、その人は最後は子会社の取締役になった。
バブル時代には、事務職や技能職の高卒新人の採用も企業間の人材の奪い合いとなっていて、私もいくつかの高校を訪問して、就職指導担当の教員へのあいさつ回りをしたこともあった。

このように採用された高卒の要員は、主に工場で育成されて勤務し、社内での待遇に格差があるにしても、同じ企業共同体に所属するメンバーとして扱われていった。同じ福利厚生制度の適用を受け、同じ労働組合に所属し、同じ食堂で食事し、同じ社内行事に参加していた。

その後、時とともに状況は大きく変わっていった。国内の工場が次々に縮小されて技能職の需要が縮小し、さらにいわゆる一般事務職(特に高卒女子を配属するような補助的な事務職)の採用も絞り込まれて、派遣社員に置き換えられていったのである。

大手メーカー各社は、戦後の日本社会での高卒新人の重要な就職先であり、高卒が大卒と同じ共同体のメンバーとして迎え入れられて育てられる場だったのだが、これが大きく変質してきたことが、社会の学歴分断を推し進める要因になっているのだろう。

安倍首相の真珠湾訪問に関する公開質問状あれこれ

 戦争犠牲者追悼のための安倍首相の真珠湾訪問について、日米などの研究者や文化人が、「真珠湾だけでなく中国その他にも追悼のための訪問をするか」と問いかける公開質問状を発表したという。
(下記のとおり「ハフィントンポスト」で全文が報道されている。)

http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/25/story_n_13854564.html

 ここでは、公開質問状の内容についてあまり論評するつもりはないが、末尾に次のような部分があるのが印象に残った。

 「首相としてあなたは、憲法9条を再解釈あるいは改定して自衛隊に海外のどこでも戦争ができるようにすることを推進してきました。これがアジア太平洋戦争において日本に被害を受けた国々にどのような合図として映るのか、考えてみてください。」

 これは、いうまでもなくいわゆる安保法制について触れているのだが、要するに「戦争で日本に被害を受けた国々が安保法制をどう思っているのか考えろ」という主張である。
 一般に、安保法制について反対の主張をする場合の論理としては、「自衛隊員を危険な目にあわせるな」とか「日本が戦争やテロに巻き込まれる恐れがある」などいう言い方がされるのが主眼であるが、この公開質問状では「日本に被害を受けた国はよく思わない(脅威に感じる)」という視点になっている。

 最近は後者のような視点の主張はあまりマスコミに出てこなくなったので、少々新鮮な感じがするが、今から20年とか30年くらい前までは、このように「日本に被害を受けた国々は、日本の防衛力強化や安保政策に不快や脅威を感じている」という論法が普通だったのである。
 (なお、この「日本に被害を受けた国々」が、漠然と「アジア」という言葉で言い表されることも多かった。「アジアは日本の〇〇に反発を感じている」という紋切り型の表現がメディアに用いられていた。
  これに対して、ネット上で、おおむね2000年頃以降「実際にはアジアとはいってもいろいろな国があり、別に日本に反発を感じていない国も多いではないか」という疑問が提起されて、「日本に反発しているのは中国・韓国・北朝鮮くらいだろう」という主張がなされ、「特定アジア」というネットスラングが広がっていったと記憶している。
 ただし実際には、かつてはインドネシアやフィリピンなどでも、中国や韓国ほどではないにしても、戦争中のことについて様々な問題提起があったのであり(今もないわけではないだろう)、すべてのことを中国・韓国・北朝鮮だけに還元すれば良いというわけでもないのだが、ここではこれ以上立ち入らないでおく。たとえば「マラリ事件」で検索してみると参考になるかも知れない。)

 さて少々話は変わるが、この公開質問状に連なっている名前で、懐かしい名前を拝見した。東京外国語大学名誉教示の中野敏男氏という人である。
 特につきあいがあるわけではないが、学生時代、マックス・ウェーバーの専門家の折原浩教授のゼミで半年か1年ほどご一緒したことがあった。もちろん私のことは覚えていないだろう。
 中野氏は当時現役の学部生だった私よりもずっと年上で、いったん社会に出た後、研究者の道を志して大学院に入った立場だったと記憶している。そのゼミでは、ウェーバーの「経済と社会」(Wirtschaft und Gesellschaft)をドイツ語原文でひたすら読んでいくというものだったが、残念ながら私の頭の中にはほとんど何も残っていない。ただ折原先生か中野氏かどちらかが、「知り合いのドイツ人にウェーバーの文章を見てもらったら、『こんなのはドイツ語じゃない』と言われた」というエピソードを紹介されて、皆で笑ったことを覚えている。

「貧困女子高生」は「貧乏女子高生」と言い換えるべきだった件

今年の話題の一つとして、NHKが取り上げた「貧困女子高生」の炎上問題が挙げられる。

貧困な女子高生として取り上げられた人の部屋の映像に、大量のアニメのグッズやイラスト用の高価なペンなどがあり、「それでも本当に“貧困”といえるのか」という疑問が広がる形でネットで炎上したのであった。

これについては、「貧困」概念も一律なものではなく、生存自体が困難な「絶対的貧困」と、所得が中央値の半分以下である「相対的貧困」とがあるのだ・・・という反論というか説明がなされることもあったが、この意味での「相対的貧困」は、あくまで所得の相対的な少なさに着目した概念であって、その相対的に少ない所得で実際の生活上のニーズがどの程度充足困難になっているかを直接示すわけではないから、なかなか直感的にわかりにくいきらいがある。

この点、私は、相対的な貧困層の困難さを直感的に示す用語としては、「貧困」ではなく「貧乏」が良いのではないかと思う。(「下層」でも良いが。)

「貧困」も「貧乏」も、一見同じように見えるが、実は言葉の喚起するイメージはかなり違う。

「貧困」というと、どうしても日本語の響きとしては、絶対的貧困のようなイメージを想起させて、餓死寸前か、そこまでではなくてもホームレスやそれに近い窮状を思わせる。
これに対して「貧乏」というと、むしろ「相対的に経済面で恵まれない、下層の生活をしている人」というイメージであって、とりあえずは生活はできているが低所得という感覚になる。

「貧困」は、「貧しくて困っている(=困窮、生存が追い詰められている)」ということだが、「貧乏」は、「貧しくて乏しい(=少ない、所得が小さい)」ということになる。

わかりやすく例をあげよう。一般的にいって、「貧困会社」という言葉は存在しない。「貧困」は生存不可能というイメージと結びついている以上、そんな会社など成り立ちえないと思われるからである。
これに対して、「貧乏会社」という言葉は存在する。相対的に収益が少ない会社という意味で、実際に使う人は多いはずだ。

また、「貧乏生活」というと、貧しいながらなんとか切り盛りしているという感じだが、「貧困生活」というと、「生活ができないのが貧困ではないのか」と思ってしまわないだろうか。

さらに、「貧乏だけどささやかな楽しみがある」という言い方にはそれほど違和感はないが、「貧困だけどささやかな楽しみがある」というと、どこか違和感を感じるのではないか。

結論としていえば、「貧困女子高生」ではなく、「貧乏女子高生」だったら、部屋に絵を描く趣味の道具や映画のチケットがあったとしても、それほど騒ぎにはならず炎上しなかったのではないかと思う。

人外の怪物としての「IS」(イスラム国)

 報道によれば、ベルリンのクリスマス市にトラックが突入し12人が死亡した事件について、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」系の通信社は20日、ISの「兵士」による犯行だったと主張する声明を出し、「イスラム国の兵士が、有志連合の参加国の市民を狙えとの呼び掛けに応じ、ベルリンでの作戦を実行した」と主張したという。

 第二次大戦後に限ってみても、先進国でテロを行った組織は、ISが初めてではない。過去には、マルクス主義の過激な極左組織(日本赤軍、ドイツ赤軍、赤い旅団等)や、パレスチナ解放運動などによるテロも存在した。

 ただ、これらの過去の組織に対しては、テロ攻撃が行われる対象の先進国のメディアや“リベラル”な知識人が、ある程度支持や称賛を示すこともあった。それは、これらの過去の組織は、どちらかといえば政府機関や企業などに対するテロが中心で、一般大衆を狙ったテロはさほど起こさなかったこともあり、また、その主張や理念には「労働者の解放」とか「パレスチナの解放」など、必ずしも否定できない部分も一応含まれていたこともあるだろう。
 「手段は暴力的で肯定できないが、その目的や理念をすべて無視・否定するのも妥当ではない」とか「彼らの主張にも一応は耳を傾けるべきだ」という言説が、それなりに成り立っていたといえるだろう。

 これらの過去のテロ組織と比べてみると、言論の世界でのISの位置づけは、根本的に異なっている。リベラルな知識層やメディアの言論人からみても、ISの主張に共鳴や共感の余地はまったく無く、「相手の言うことにも一理ある」という言い方すら許容されなくなっており、その意味である意味ナチスに近い位置づけになっていると言えるだろう。

 ISが出現したことで、先進国の言説空間には、久しぶりに、社会の基本的な原理から見てまったく異質であり対話不可能な、他者・異物としての「敵」が存在するようになったといえるだろう。

 仮定の問題として、ISと先進国が交渉をすること自体が絶対に不可能というわけではないだろう。たとえば「ISを正統な国家として認める」ということを条件として交渉を持ち掛ければ、IS側もそれなりに何らかの肯定的な交換条件を提示してくると思われる。
 ただし実際の政治の動きとしては、そのような行動を先進国側が取るのは不可能だろう。またISが自ら行っていることを喧伝している行為を見るならば、リベラルな知識人やメディアがISとの交渉やISへの支持を呼びかけるのも不可能である(というか、自殺行為になる)。

 ISは、先進国の言説空間の中では、ナチス以来、久しぶりに出現した、「退治するしかない怪物」「一切の共感や支持を表明することが許されない、人外のような存在」となったのである。

朝日新聞のオピニオン&フォーラム欄より(小熊英二と井手英策の論考)

 12月22日の朝日新聞朝刊の「オピニオン」欄(12版、15頁)には、興味深い2つの論考が載っていた。

 一つは小熊英二の論壇時評である。
 テーマはいわゆるポピュリズムであるが、小熊が様々なメディアの記事から引き出した結論は、「欧米では移民が担当している低賃金労働は、日本では低賃金で残業もいとわない非正規労働者たちがやっている。」ということである。

 そして、欧米で移民を排撃する層は、中間層かそれ以上の層であり、それは日本でも同様で(ここで小熊は、橋下徹の支持者に管理職や正社員が多いことを挙げる)、中間層は、旧来の生活様式を維持できなくなることへの恐怖があって、右派ポピュリズムに走っているという。

 様々な論説や調査を引用しながら、小熊は、ネットで右翼的な書き込みなどをしているのは「年収が多い」「子どもがいる」「男性」が多く、いわゆる「正社員のお父さん」だとする。この層は、「昭和の生活様式」の達成しようとあがきながらも、負担の大きさや長時間労働などでそれが危うくなって、不満や危機感に陥って、攻撃的になっているとしている。

 小熊のいうとおり、中間層(没落しつつある中間層、と呼んでもいいかも知れない)の不安感や危機感が、欧米や日本で高まっているのは事実だろう。

 ただし小熊は途中で論理をすりかえて、橋下徹の支持層と、夫婦別姓固執派と、外国人実習生推進層とがあたかもほぼ同一であるかのようなレトリックを使う。そして最後に、日本の伝統的風景ともいうべき農林水産業が、過酷な労働条件の外国人実習生によって支えられていること(それはもちろん大きな問題である)を指摘して、

 「過去への愛着は理解できる。だが人権侵害が指摘される制度を使ってまで『日本の風景』を維持するべきだろうか。
 …右派ポピュリズムの支持者は誰か。それは古い様式に固執し、その維持のためには人権など二の次と考える人である
。」

と結論づける。

 いうまでもなく、日本で「右派」的なものを支持する中間層が存在するとしても、その層は、外国人実習生の制度を(それこそ“ポピュリズム”=大衆熱狂的に)支持したり推進させようとしたりしているわけではない。
 (★むしろ小熊のいう、ネットで右翼的な書き込みをしそうな中間層は、それこそ、経済的に合理的かどうかは別として、外国人労働者の導入に否定的な意見の人が多いはずだろう。また欧州で難民や移民受け入れに反対している人たちは、文化的なものもあるが、治安面での不安も大きいと感じているはずである(その治安面の不安に合理的な根拠があるかどうかは、また別な議論である。)。)

 もう一つの論考は「あすを探る 財政・経済」というもので、筆者は慶応大教授の井手英策である。

 井手は、日本では、この20年で中間層の多くが低所得層に加わり、平均所得以下の人が6割を占めているにもかかわらず、意識調査では全体の9割が自分を「中流」と考えていることを指摘し、このように所得が高くないにもかかわらず自らを中間層と意識している、いわゆる「中の下」の人々は、「格差是正」への訴えを聴かされて、逆に低所得層・貧困層に対する反発を強めるのではないかと述べている。

 井手によれば、日米英の3国は、「財源が限られ、給付に所得制限がつき、財政が低所得層の利益で固められている」という点で類似しており、中間層の不満が高まっているという。そこで米英などでは「中の下層」が下流や移民に対する反感を煽られて、ポピュリズムに向かっているというのである。
 「中の下層」は、生活が楽ではないにもかかわらず、なまじ貧困層よりは上であるために、公的な給付も受けられない・・ということで不満がうっ積しているという指摘だが、注目に値する。

蓮舫と外患誘致罪と法律事務所の広告

またまた民進党の蓮舫代表に対する「告発」について。

(ここでも繰り返しになるが、これは、蓮舫の言動についての是非とか政治的な評価とか価値判断はここでは一切立ち入らず、法律面での興味だけに基づいて書く記事である。)

 ネットで何となく見ていたら、蓮舫議員について「国籍法・公職選挙法違反」と「公正証書原本不実記載等」の他に、「外患誘致」で告発した人もいるようで、これはいささか驚いている。
 外患誘致についての「告発状」もネットで公開されている(これが東京地検に実際に提出された告発状の内容と同じかどうかはわからない。)
 「国籍法・公職選挙法違反」と「公正証書原本不実記載等」については一部の新聞で報道されたが、「外患誘致」についてはどこのメディアも黙殺しているようである。

 さて、まず結論からいうと、外患誘致罪にはまったく該当しない

 外患誘致罪が成り立たないのはあまりにも明らかなので、わざわざ真面目に否定的なコメントや説明をする人すらいないのかも知れないが、この件に興味のある人のため、一応簡単に説明しておきたい。

 なぜ蓮舫の行為が外患誘致罪に該当しないかというと、単純に外患誘致罪が成立するための要件(構成要件)を満たしていないからであり、それに尽きる。

 といっても、これだけではトートロジーのようになってしまうので、具体的に説明すると、ある人間の行為について外患誘致罪が成立するには、

(1)その者が、日本国に対する武力行使について、外国政府と通謀したこと
(2)上記の通謀の結果として、日本国への武力の行使がなされたこと

この2つの要件が充たされなければならない。
ここでいう「通謀」とは、意思を連絡し合って、合意が成立することまでが必要とされる。外国政府の関係者との雑談で何となく話題に出した、という程度では足りない。

また、外国政府との通謀とは関係なく、外国政府が一方的に武力行使を決めて攻撃してきた場合も、上記の(2)の部分だけが存在して(1)は欠けていることになるから、外患誘致罪は成立しない。 

たとえば、

(1)平成〇年〇月頃、A国の外務大臣と、北海道への攻撃について話し合い、合意に達した。
(2)上記の通謀に基づいて、A国政府は、北海道を攻撃する決定を下し、平成〇年〇月〇日午前〇時、同国空軍は、北海道××地域に対して空対地ミサイルによる攻撃を行った

というところまで具体的にいって、はじめて外患誘致罪が成立するわけである。

 従って、蓮舫を外患誘致で告発したいのであれば、

(1)日本国に対する武力行使について、どこの国と、どのように通謀したのか
(2)その結果として、日本国に、その国が、どのように武力行使をしたのか

について説明する必要があるのだが、もちろんそんなことは無理である。
((1)の部分は、たとえば「中国政府の要人といろいろな話題について仲良く話し合った」というだけではもちろん該当しない。「中国政府の要人と、日本に対する武力攻撃について話し合った」というところまで踏み込むことができなければならない。)

 あまり良い喩えではないが、本件で「外患誘致罪」の成立を主張するのは、比喩的にいえば、誰が殺されたという肝心な部分の説明がないのに、殺人罪の成立を主張するようなものである。(氏名不詳でもかまわないが、殺されたのは特定の人間でなければならない。)

なお、外患誘致には、「未遂」と「予備・陰謀」がある。
未遂が成立するためには、少なくとも、日本への武力攻撃について外国と話し合いをするところまでいかなければならない。
予備・陰謀の場合は、日本への武力攻撃についての外国との話し合いの準備行為や謀議をする場合であり、「武力攻撃についての話し合いの準備行為」を具体的に説明できなければならない。
従って、外患誘致の未遂や予備・陰謀についても告発するのは無理だろう。

 ところでこの話題が広がったのは、高島章弁護士という人が、9月にtwitterで次のようにつぶやいて話題を呼んだことが一因なのではないかと思う。https://twitter.com/BarlKarth/status/775894492276662272

 高島弁護士とは面識はないが、刑事事件を多く手がけておられる方のようで、上記のtwitterをよく読んでみると、蓮舫をネタにしているのではなく、むしろアトム法律事務所というところをネタにしてブラックジョークを飛ばしていることがわかる。蓮舫は二次的な材料に過ぎない。

 アトム法律事務所というのは(高島弁護士とは別な事務所)、刑事事件専門として手広く広告をしている東京の弁護士の事務所だが、その公式サイトで、「外患誘致罪で逮捕されたら・・・」などという記事があったので、それを見て高島弁護士が面白おかしく触れたのだろう。

http://www.atombengo.com/news/keijibengopost12620.html#breadcrumb

 刑事事件専門の弁護士の広告で「窃盗で逮捕されたら当事務所にご相談ください」とか「強制わいせつで逮捕されたら弁護はおまかせを」というならわかるが、「外患誘致罪で逮捕されたら・・・」というのは、いささか非現実的で面白い。アトム法律事務所の先生方は、受け狙いでやったのだろうか。普通は経験しないようなそんな罪名をわざわざ広告に書いたので、同業界の高島弁護士からネタにされたというわけである。

 (★さらに見てみると、アトム法律事務所の公式サイトには「内乱罪で逮捕されたら・・・」とか「私戦予備罪で逮捕されたら・・・」などというのもあった。)

 そこまでは良いとして、上記の高島弁護士のtwitterに対するネットでのいろいろな反応を観察してみると、どうも、蓮舫について外患誘致罪が成り立つ可能性が一応ある(or処罰までいくかどうかは別として、一応まじめに議論してみる価値はある)・・・と、ジョークではなく本気で思い込んでしまった人が一定の程度いたように思われる。

蓮舫に対する公正証書原本不実記載等についての告発

 蓮舫の国籍問題に関して「国籍法・公職選挙法違反」についての告発が既におこなわれていたが、12月13日に今度は「公正証書不実記載等罪(の未遂)」での告発が新たに加わった。

告発状は以下のサイトで公開されている。
http://r4kokuhatsu.wixsite.com/jouhouteikyou

ここでは、政治的な価値判断ではなく、純粋に法律的な観点からこの告発について検討してみたい。

まず前提知識として、二重国籍の人が日本国籍を選択するには、国籍法14条により:
 (A)外国の国籍を“離脱”するか
 (B)日本国籍を選択し外国籍を放棄する“宣言”をするか
いずれかの手続を要することとされており、この手続が戸籍法106条に定められているということは押さえておきたい。

 そして役所の実務としては、(A)については「外国国籍喪失届」、(B)については「国籍選択届」という書式を提出することになっている。

さて、本件の時系列の主な部分を整理すると、

(1)9月6日、蓮舫の説明によれば、台湾国籍の「放棄」の申請を台湾当局に対して行った。http://www.news24.jp/articles/2016/09/23/04341782.html

  ★正確には台湾では「国籍喪失許可申請」というようである。

(2)9月23日、蓮舫の説明によれば、台湾当局から、手続が完了したという報告と証明書を受け取り、戸籍法106条前段(★正確には第1項)にのっとって、区役所に対して外国の国籍の離脱の届出を行った。(つまり上記(A))

(3)10月15日の会見での蓮舫の説明によれば、都内の区役所に提出した台湾籍の離脱証明書が受理されず(上記(A)の手続ができなかったということである)、行政指導により、戸籍法に基づき日本国籍の選択宣言をした。(つまり上記(B)のパターンに切りかえた。ただし実際に「宣言」をした日付は不明。9月23日~10月15日の間ということになろう。)http://www.sankei.com/politics/news/161015/plt1610150010-n1.html

・・・ということになるが、このうち上記(2)の時点で、区役所に外国国籍喪失届(戸籍法106条第1項の届け出)を提出するためには、同条第2項により、外国の国籍の喪失を証明する書面を添付しなければならない。

蓮舫がどのような書面を添付したのかはわからないが、(2)の9月23日の報道によれば「私の台湾籍の離脱手続に関しまして、先ほど台湾当局から、手続が完了したという報告と証明書をいただきました」と述べていたところから、当時は、台湾籍を喪失した証明書なのかと思われていた。

 ところで、台湾の国籍に関する手続は、手続をする本人だけでなく誰もがインターネットで検索できるようになっており(このこと自体が驚きだが)、これによると、蓮舫は、国籍喪失の手続については、10月17日時点で台湾の内政部の審査が終わり、外交部に文書が送られた段階だったということである。

つまり、蓮舫が10月17日より一定期間前のどこかの時点で、台湾に対して国籍離脱の許可の申請を行ったことは事実だったようだが、9月23日の時点ではまだ国籍を喪失しておらず、10月17日時点でまだ審査中だということである。

となると、上記(2)の9月23日の時点では、区役所に対してまだ「外国の国籍の喪失を証明する書面」などまだ存在していないから提出できないはずであり、それでは一体何を提出したのかが問題となってくる。

そこで上記の告発者は、

  ・9月23日の時点では、まだ台湾籍を喪失していないから、国籍喪失の証明書などあるはずもない。しかし一応、区役所でいったんは受け付けられているからには、国籍喪失の証明書に似たような何かの別な書類を添付して、区役所の担当者(戸籍吏員)をだまそうとしたと思われる。
  まだ台湾籍を喪失していないにもかかわらず、喪失したように戸籍に記載させようとしたのだから、公正証書原本不実記載等(の未遂)の罪にあたる

と主張しているわけである。

 さて、蓮舫が9月23日の時点で、区役所に対して一体何を提出したのかについては今のところ報道がないので、現時点ではわからない。一つの推測としては、台湾当局に対して、国籍離脱許可の申請書を出して審査してもらう時に、その受領印のついた申請書副本とか、受理書のようなものは受け取った可能性が考えられる。
 つまり、「国籍喪失の証明書」はまだ発行されていないが、「国籍喪失の申請を出したことの証明書」になりうるものが発行されていたのかも知れない。

 仮にそうだとした場合、これを外国国籍喪失届に添えて区役所に提出することが、「公正証書原本不実記載等」の実行行為にあたるかどうかが問題である。

 本件で公正証書原本不実記載の罪が成立するためには、公務員に対して、真実に反する申立(届出)を行って、戸籍簿に、客観的真実に反する記載をさせることが必要である(ただし本件では未遂の問題)。さらに、上記のことを認識したうえで(=故意に)届出を行ったのでなければならない。

 蓮舫(またはその代わりに区役所に行った人物)が、区役所窓口で実際にどのようなやりとりをしたのかはわからない。
 ただ、真実はどうあれ、
「台湾当局に国籍離脱の許可の申請を行った時点で、まだ正式な離脱の許可が出ていなくても、国籍法14条の“離脱”にあたるから外国国籍喪失の届を出して良いのだとうっかり思い込んでいました。」
とか
「とりあえず提出はしておいて、区役所の担当の方に指導してもらいながら、正式に国籍の喪失の許可が出たら、その時点で証明書を出そうと思っていました」
などと蓮舫が主張したら、少なくとも公正証書原本不実記載等の「故意」(=犯罪を犯す意思)を立証するのが難しくなり、刑事責任を問うところまで持っていくのも非常に困難になると思われる。
 (もちろんその場合、刑法上の罪に問うのが困難だというだけであって、届出についての実際の経緯をまともに蓮舫が説明しなかったという別な問題は残る。)

「労働生産性」という言葉にだまされないようにしよう

 NHKの報道によれば、日本の1時間あたりの労働生産性は、OECD加盟国35ヶ国の昨年の実績で比較すると20位であり、G7(主要7ヶ国)の中で比べれば最下位とのことである。

 このNHKの報道では、そもそも労働生産性とは「従業員が一定の労働時間のどのくらいのモノやサービスを生み出すか」を示すものであり、日本は「小売やサービス業の分野で効率化が進んでいない」とされている。

 ということは、日本のサービス業、たとえば床屋は、米国やドイツやフランスの床屋に比べて“効率”が悪く、髪を切って客をさばく速度が遅いのだろうか。
 また日本のレストランは、米国やドイツやフランスのレストランに比べて、客に料理を出す速度が遅く、客の回転数も遅いのだろうか。
 さらに日本の小売店は、米国やドイツやフランスの小売店よりも、1時間あたりの商品の販売数が少ないのだろうか。
 そういうことではない。

 NHKの言い方は、間違いとはいわないが、誤解を招くものである。
 労働生産性とは、「付加価値」を、就業者数、または就業者数×労働時間で割った数値である。
 「付加価値÷就業者数」が1人あたり労働生産性、「付加価値÷(就業者数×労働時間)」が1時間あたり労働生産性ということになる。
 ここでいう「付加価値」とは、様々な定義があるが、個々の企業経営レベルでいえば、単純化していうと、売上から仕入を引いたもので、おおむね利益+人件費(+間接税その他)ということができるだろう。これを一国レベルで集計すれば、GDP(国内総生産)と同視して良い。

 したがって、日本のサービス業の1時間あたりの労働生産性が外国より低いということは、おおざっぱにいえば、たとえば「サービス業の利益+人件費」を「サービス業の就業者数×労働時間」で割った金額が、外国より低いということである。「利益+人件費」は、結局のところお客に払ってもらうお金(売上)から仕入れを引いたものであるから、大雑把にいえば「粗利」と言い換えても良いかも知れない。
 日本の床屋の方が散髪の速度が遅いとか、日本のレストランの方が調理をゆっくりやって客を待たせているとかいうことではない。散髪や調理の速度が同じでも、客から多くのカネを取れるかどうかという点で差がつくのである。

 おそらく「労働生産性」という言葉のおかげで、妙な誤解が生まれるのかも知れない。「労働」は美徳だという意識が世の中にあるのは否定できないし、「生産」というと、具体的なモノを一所懸命に生み出すというイメージがある。「労働生産性」というと、何か倫理的な響きすらつきまとってきて、労働生産性が低いのは怠けていて悪いことのような雰囲気につきまとわれるような気がしてくる。

 実際には「労働生産性」は、1人あたり、または労働1時間あたりの「稼ぎ」「粗利」のようなものであって、勤勉かどうかを示す指標ではない。
 NHKの定義の仕方を若干修正するならば、労働生産性とは、「従業員が一定の労働時間のどのくらいのモノやサービスを生み出すか」というより、「従業員が一定の労働時間で生み出したモノやサービスで、どのくらいのカネを客からとっているか」というべきだろう。 

 短い労働時間で高い価格の販売をする事業者がいれば、その事業者の労働生産性は高くなるし、あくせく勤勉に働いても安売りしかできない事業者の労働生産性は低くなる。

 たとえばぼったくりバーは、極めて労働生産性の高い商売ということになる。短い時間で高い付加価値(利益+人件費)を稼ぎ出すからである。
 ちなみにOECD加盟国の中での労働生産性がトップに位置するのはルクセンブルグだが、同国は、グローバル企業を多く誘致しており、また鉄鋼業、金融業、不動産業の比率が高いということである。

安倍・プーチン首脳会談

先日終了した安倍首相とプーチン大統領の首脳会談について、メディアでよくみられる論評としては:

①もともと経済制裁等で困っているロシアに日本として接近

②経済協力と見返りに二島返還(または引渡)を決め、さらに対中国や北朝鮮の関係でも日本に有利な要素となることを期待していた

③しかし親ロシア(プーチン)のトランプが次期大統領となったため、ロシアは日本に接近する必要を(あまり)感じなくなった

④その結果として、二島返還の見込はなくなり、成果につながらなかった

というものである。

詳しく論じている余裕はないが、ちょうど同じ時期に欧州(英仏独)のメディアのWebサイトをさらっと見てみた限りでは、ロシアについては、①ウクライナ問題の関係で制裁を強化したこと、②ロシアが支援している関係で、シリア情勢がますます悪化していること、③ロシアによる米大統領選関与疑惑、等が取り上げられていて、何一つ良いことがない。

一方、折も折、この時期に日露首脳会談を行ったことについては、日本に対して「制裁破り」「ロシアを利する」というふうに非難の論調の記事があふれているかというとそういうわけでもなく、ほぼ無視されているか小さな扱いで、「北方領土問題で得るものはなかった」という感じであっさり処理されており、欧州から見た日露首脳会談についての関心は小さいようである。

この後になってから何らかの詳しい論考が出てくる可能性もあるので、もうしばらくは欧州のメディアをチェックしてみようと思う。

「日本死ね」と「俺を殺せ。日本」

流行語大賞やその後の論争で盛り上がった、例の「保育園落ちた日本死ね」という言葉だが、ふと思い出したのは、2ちゃんねるで昔よく見かけたコピペ文である。

550 :名無しさん@5周年:2005/06/05(日) 22:49:37 ID:K9L7ano6

俺は一生童貞だし、この国がどーなろうがしったこっちゃないよ。
愛国心?ばっかじゃね~の?むしろ俺は日本という国に恨みを
持ってるね。みんな好き勝手やってるのに、俺は悲惨な人生だ。

どんどん壊れていったらいいよ。しるもんか。
おまえらが俺のことなんてしらないようにね。

所詮日本は利権構造だ。コネさえあればたいして努力しないで
大金が稼げる。公務員夫婦の世帯年収は40歳平均で2000万円。
マスコミ・銀行・その他、利権構造下にあるものは全部そう。
こいつら普通に50代で2~3000万稼いどる。大して仕事してないし。
親族経営会社で利益を親族に手当てして税金払ってない所も山ほど。

そんななかで手取り2~30万、年収で3~400万円程度で
この利権構造体を存続させるために働け、ってか?

利権構造下にないのに労働してる奴らって、馬鹿だろ。おまえ。
おまえよりも馬鹿でロクデナシがロクに働きもせずに
大金を稼ぎ、佳い女(男)を抱いてるんだぜ。

馬鹿らしさに気づいた奴らは働かねーよ。俺とかな。
財産食いつぶして、金が無くなれば自殺するさね。

どうせ俺はキモくて生命としても次世代を遺せないわけだし、
この社会体がどーなろうが知ったこっちゃねーよ。

あぁわかってるよ。俺が一番馬鹿だってことぐらい。
俺は生まれてはいけなかったんだよ。さぁ俺を殺せ。日本。

これも既に改変を受けた形らしく、最初の文章の形がどんなものだったのかは知る由もないが、この時点で2005年ということは、もう10年以上たっているわけだ。

最後の「俺を殺せ。日本」という部分がやけに印象的だったので、微妙に似ている「日本死ね」の騒動で思い出したというわけである。

「日本死ね」の方は、子どもを育てている母親が書いた(という形になっている)ということもあって、怒りながらも前向きに進んでいく雰囲気が感じ取れるが、この「俺を殺せ。日本」の方は、絶望してあきらめ、虚脱している。
「俺を殺せ」と言い切れるのは、自分が養わなければならない子どもがいなくて、独り身の身軽さがあるからともいえるだろう。(実際にこのコピペでは「俺は一生童貞」とか「次世代を遺せない」とも言っている。)

保育園に落ちた文章の方も、「保育園落ちた、日本よ私を殺せ」とか「保育園落ちた、死ぬ」なら、もっと絶望感が伝わってきたかも知れないし、日本を貶めているとかいないとかいう変な方向の議論も呼ばなかっただろう。
ただし小さな子どもを育てていかなければならない母親である以上、「私を殺せ」とか「死ぬ」などとは言っていられず、怒りながらも前に進んでいかなければならないのが「日本死ね」の方なのである。

フランスの政教分離と街中のクリスマスツリーの飾りつけ

 NHKのBSプレミアムで、「ハイビジョンスペシャル パリのクリスマス~美しい夜の物語~」(初回放送:2003年)という番組をやっていた。
番組の全部をちゃんと見たわけではないが、クリスマス時期のパリの風景をいろいろ見せてくれる。
 パリでは、消防士が街中にクリスマスツリーを飾り付ける仕事をしているのだという。

 ここでふと気になったのが、フランスは政教分離を徹底している国であって、公共の場では宗教色を排除するようにしているのではなかったかということである。

 日本では、まさにクリスチャンでない限り、クリスマスツリーを飾る時にキリスト教の意義を感じる人はほとんどおらず、門松と同じ程度の感覚で見られていると言ってよいだろうが(ただし門松も元々は神を迎える意味があったというが)、フランスの場合はまさかそういうことはないだろう。

 番組の映像を見た感じでは、公共の道路に、公務員である消防士がクリスマスツリーを飾り付けているのだが、これはフランスでは政教分離との抵触の問題として議論されることはないのだろうか。
 たとえば公立学校に女生徒がスカーフを付けてくることさえ、イスラム教のシンボルを公共空間に持ち込むということで、政教分離の議論になるのがフランスである。
公共の道路での公務員によるクリスマスツリー飾りつけは問題にならないのだろうか。

考えられる可能性としては…

①フランスでも、クリスマスツリーにはキリスト教の意義がもはやあまり感じられず単なる飾りつけとしか思われなくなっていて、政教分離の問題とは考えられていない

②現実問題として、政教分離の原則はイスラム教に対しては厳しく適用されるが、多数派であるキリスト教にはあまり厳格に適用されておらず議論になっていない(なし崩しで差別的扱いがされている)

③少なくとも道路という場では、宗教的なシンボルを飾ることは問題にされていない(仮に公の道路にイスラム教関係のシンボルの飾りつけを何か行ったとしても、政教分離の問題になるとは考えられていない)。ただし公立学校であれば、クリスマスツリーを飾ることは問題視される。

④私が知らないだけで、実際には論議を呼んでいる

のいずれかということになるだろうか。

フランスの政教分離の論点は、かつての革命期のカトリックの影響力の排除から、現代のイスラム系市民の包摂や差別の問題に至るまで、いろいろな面で考える必要があり、なかなか奥が深い問題だと思うが、このクリスマスツリーの件はどうなのだろう?

東京メトロの売店の正社員と非正社員の待遇格差問題について

 少し前の記事になるが、地下鉄(東京メトロ。旧営団地下鉄)の売店で非正社員として働く女性が、正社員との待遇の格差は労働契約法20条違反だとして、会社側(東京メトロの子会社)を訴え、2014年から東京地裁で争っている。(朝日新聞の記事参照

 問題となっている労働契約法20条は、有期労働契約の労働者(ここでは「非正社員」「契約社員」と考えて良い)と、期間の定めのない労働契約の労働者(「正社員」と考えて良い)との労働条件の違いが、
 ①職務の内容
 ②職務の内容と配置の変更の範囲
 ③その他の事情
を考慮して、不合理と認められるものであってはならないとしている。

 この事案について、いろいろな記事を見た限りでは、原告(非正社員の女性)は4名で、2004年~2006年に採用されたそうであり、売店では正社員も非正社員も同じ仕事をしているにもかかわらず、後者は賃金がかなり低く退職金等もなくと、また訴訟を提起した2014年時点では売店の店員は全部で114名で、そのうち正社員は19名だけだということだが、それ以上詳しいことはあまりわからない。

 なお社民党の福島みずほの国会での発言 によれば、正社員も非正社員も、売店での仕事の権限・責任は同じで、他部署への異動がほとんどない点も同じだそうである。

 ということは、この売店の正社員は、将来他部署を経験したりして本社の管理職に昇進する候補というわけでもなく、正社員だろうと契約社員だろうと、とにかくいわゆる「売り子」「店員」に専念する前提で採用され勤務しているということだろうか。

 さて、今このエントリで考えてみたいのは、この事案をどう判断・解決すべきかということではなく、何よりもまず、売店でまったく同じ仕事を続けることが想定されているのだとすれば、なぜ正社員と契約社員の両方の区分の社員をわざわざ採用したのかということである。

 「すべて正社員」または「すべて契約社員」というなら理解できる。また、正社員をメインとして、臨時の補助として契約社員を雇用して補充するというのも理解できる。しかし本件はそのどれでもなく、売店の114名中正社員は19名だけという体制で長期間続けているのである。その理由は何だろうか。

 とりあえず現時点での私の勝手な推測というか仮説をいうと、次のとおりである。

 まず前提知識として、①東京メトロ(東京地下鉄株式会社)は、2004年までは、公法人の帝都高速度交通営団だったこと、また②その売店を扱う子会社は「地下鉄トラベルサービス」という会社だったこと、③2004年に民営化されて東京メトロとなり、子会社もメトロコマースという会社に変わったこと、について触れておく。

 そのうえでの私の推測は:

1. 民営化前の公法人である帝都高速度交通営団の子会社の時代は、売店の店員も全員が正社員だった 

2.民営化(2004年)の時に、売店業務については、基幹業務ではないので正社員にやらせるまでもないと考え、また人件費削減の方針もあって、今後新たに採用するのは契約社員(非正規)だけにすることにした 

3.ただし、民営化の前の昔から継続して雇用されていた売店の店員は、解雇するわけにはいかず、一方的に労働条件を不利益に変更することもできないので、そのまま正社員の(良好な)労働条件のまま勤務し続けて年齢を重ね、現在に至っている
 会社は、この人たちが定年で全員退職するのを待っている(=いずれ売店勤務は全員が非正社員に置き換わる予定ということになる)
 

4.上記2の、民営化後に非正規で採用された売店店員たちが、3の正社員(の残り)の人たちと比べて、同じ仕事なのに賃金等の待遇が低すぎるとして、今回、訴訟になった

・・・ということではないかということである。

 つまり、今回の原告の契約社員の人々は、ひらたく言えば「正社員並みにしてほしい」として訴訟を起こしている一方で、会社側のホンネとしては「正社員はいずれ定年で売店からいなくなり、すべて非正社員に置き換わる」という方針でいるのではないかというのが、私の仮説である。会社は「正社員」「契約社員」の両方を毎回採用し続けているわけではなく、前者は民営化前に採用された人たちが残っているだけで、いずれ後者だけになる予定ということではないか。

 今回の原告4名のうち最も早く採用されたのが2004年(=民営化の年)という事実も、上記の推測を裏付けているように思われる。

 以上はあくまで推測なので、違っていたらご容赦いただきたい。
 いずれにしても判決が出たら分析してみたい事案である。

少年犯罪と少年法と厳罰化

 Yahoo!ニュースに「『少年法』厳罰化に効果はあるか」という記事があり、河合幹雄(桐蔭横浜大学法学部法律学科教授)、岡田尊司(精神科医)、藤井誠二(ノンフィクションライター)、中澤照子(保護司)の4名の論者がそれぞれの見解を述べている。

 この記事の内容はリンク先を読めば良いのでここでは紹介しないが、ともあれ少年による凶悪な犯罪が起こるたびに、「少年法は機能していない」とか「厳罰化すべき」という声が聴かれがちで、極端な場合、「少年法を廃止して厳罰化せよ」という意見すらある。

 それではまず、仮に少年法を「廃止」するとどうなるかといえば、犯罪を犯した少年に対しては、少年法ではなく刑法が適用されることになるから、少年院で教育することをやめて、刑罰を科するということになる。まずここでは、少年院は刑罰施設ではなく、強制的な教育のための施設であることを覚えておこう。この意味で刑務所とはまったく機能が違う。
 (少年院の概要については、法務省のサイトで見ることができる。)

 刑罰には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料および没収があるが、実質的に問題になるのはほとんどの場合が、死刑から罰金までの4種類だろう。死刑はとりあえずおいておいて、少年法を廃止した場合、現行制度であれば少年院に収容されるようなケースであっても、刑務所に収容される場合が当然多く出てくる。
 (ただし逆に、罰金を科されるだけで終わる場合も出てくるだろう。つまりどこにも収容されず、何の教育も受けず、金を払うだけで終わるケースも出てくるということである。)

 一方、「厳罰化」というのは、もう少し具体的にいえば、死刑や無期刑が適用される範囲を拡大すること、また有期刑の刑期を広げるということになるだろう。
 この「厳罰化」については、犯罪予防に効果がないと言われることがある。
 しかし正確にいえば、少なくともただ一点、「社会からの隔離による本人の再犯予防」という意味では「厳罰化」は効果がある。
 死刑や無期の場合は、ほぼ完全に再犯の可能性が根絶されるし、有期刑の場合も、たとえば従来懲役3年だった事案を5年にするならば、再犯ができない期間がそれだけ伸びることになるから、その意味では犯罪予防が強化されることになる。(正確に言えば、仮釈放の制度があるので、刑期そのまま服役するとは限らないが。)

 ただし、ここで考えなければならないのは、死刑や無期刑でない限り、いつかは社会に戻ってくるということである。
 懲役3年なら遅くとも3年後、懲役7年なら7年後に、その少年は社会に復帰する。

 もちろんこれは少年犯罪者に限らず、どんな犯罪者であっても同じことだが、特に少年の場合は、人格・精神の成長期だということを考えなければならない
 14歳や15歳の多感な時期の少年を、学校や少年院(どちらも教育施設である)ではなく刑務所に入れて、何年間もそこで生活させ、再び社会に戻す場合、どのようなことになるだろうか。
 刑務所は教育施設ではなく、自由を奪って監禁し、場合によっては強制労働(懲役)をさせることが目的の場所である。そこには「育成」の観点はないし、むしろ性格形成に悪影響を与えることすらある。

 刑期を長くすればするほど、その間は社会から隔離されて再犯が阻止されるが、逆にそのぶんだけ、刑期を終えた後の社会復帰は困難になるといえる。下手をすれば、刑務所に長く閉じ込めることが成長期の人格形成をゆがめて、なおさら悪化させ、再犯の可能性をむしろ高める危険すらある。たとえば14歳の少年を、少年院ではなく刑務所に入れて、10年後に社会に戻すとしたら、どのような人間になって出てくるだろうか、少しでも想像してみると良いだろう。

 この問題は単純に答えが出るものではないし、法制度だけで少年犯罪を減らせるというものでもない。逆に刑罰が軽ければ軽いほど良いなどというつもりもない。また被害者の救済はこれとは別次元で考えなければならないことである。
 重要なことは、どんな犯罪を犯した少年だろうと、死刑や無期刑になるケースを除いて、ほとんどはいつか必ず社会に戻ってくるということである。少年法を廃止しようとしまいと、厳罰化しようとしまいと、その点は変わらない。そこまで考えて制度を設計しなければならない。

NHK朝ドラの高視聴率

 日刊ゲンダイによれば、今年のテレビドラマ視聴率のトップ5は、1位が「あさが来た」で27.0%、2位が「とと姉ちゃん」の25.9%、3位「ドクターX」、4位が「べっぴんさん」、5位が「真田丸」で、5本中3本が朝ドラということである。

 朝ドラが高視聴率である理由について、このゲンダイの記事によれば、作家の松野大介のコメントとして、“物作り”を扱っていることが好評の理由ではないかという。「とと姉ちゃん」は雑誌(モデルは『暮らしの手帖』)作り、「べっぴんさん」は子ども服(『ファミリア』がモデル)作りで、さらに「あさが来た」もいろいろな事業を起こしているから広い意味では物作りと言えなくもない。

 ただ、朝ドラはもともと習慣的に視聴する人が多いので、ある程度は視聴率は相対的に高くて当たり前とはいえる。

 視聴率の話はともかくとして、「あさが来た」以降、朝ドラは3代続けて非現代ものというか、明治から昭和戦後まで時代はそれぞれ異なるが、過去の時代に仕事で活躍した実在の女性を扱った作品が続いている。

 戦前戦中とか明治とか、過去の時代を朝ドラで扱うのは、それなりのメリットがあると思う。何といっても日本の近現代史という大きな流れがあるので、ドラマ的にイベントを作りやすい。太平洋戦争とか、戦後の復興とか、それだけで一定の劇的な状況になるから、話を盛り上げやすいわけだ。今後もNHKがネタに困ったら、過去の時代に事業で活躍した女性を取り上げれば、それなりに見られる内容のものが作れてしまうのかも知れない。

 ところで朝ドラと言えば、私もいろいろな作品を見た思い出があるが、ここでは一つ、小学生の頃に放送していた「鳩子の海」という作品について触れておく。

 NHKアーカイブスのサイトでは:

 “広島原爆のショックで記憶を失い、美しい瀬戸内の港町に紛れ込んだ戦災孤児の少女が、さまざまな困難にもめげずに出生の証しを求め、明るく生きる姿を描く。
 人間の寄辺とするもの、故郷とは何なのかを考えさせた。
 おかっぱ頭の無邪気な鳩子の少女時代を演じた斎藤こず恵がお茶の間の人気者になった。
 鳩子の出生の秘密が明かされる終盤では視聴率が50%を超えた
。”

と、あらすじがまとめられている。
 放送は1974年~1975年、主人公の幼年時代を演じたのは斎藤こずえ、成人後は藤田美保子だった。
 作品の内容全体を覚えているわけではないが、印象に残っているのは、まず戦争末期から終戦直後を生き抜く鳩子の幼年時代の姿だった。そしてもう一つ記憶に残っている部分は、鳩子が大人になった後、1960年の岸内閣の時期の安保条約改定反対運動を劇中で取り上げていて、反対運動の実際の映像を使ったり、劇中でデモ隊の参加者が警官に追いまくられる描写があったりしたことである。話の流れや細かい点は覚えていないが、鳩子の周囲に安保反対運動に参加する人物たちがいたのだと思う。おそらく今だったらこういう描写はできないだろう。

「ポスト真実」という言葉をわざわざ使う意味あるの?

 先月の話になるが、英オックスフォード大学出版局は、「ポスト真実」(post-truth)という言葉を「今年注目を浴びた言葉」として選んだという
「真実や事実よりも個人の感情や信念が重視される米英の政治文化」に注目した言葉だとされている。

  「ポスト真実」という言葉を使う場合、米国の大統領選挙や英国の国民投票を意識していることが多いようで、たとえば選挙運動中にデマが流されてSNSで拡散される現象があったのは記憶に新しいところだ。

 ただ、デマを流すというのはいつの時代でもあることで、またデマを信じ込む人々がいるというのも太古の昔からみられる現象であり、それだけなら「ポスト真実」などという言葉をわざわざ作らなくても、「デマ」とか「虚偽宣伝」などと呼べば済む話のようにも思える
 たとえばある選挙でA派とB派が争っていて、A派がB派について事実に反する中傷をばらまいたとする。それをいちいち「ポスト真実」などと呼ぶ必要があるのだろうか。インターネット時代でデマの拡散の勢いが凄まじいものになっているのは間違いないが、それだけで新しい言葉をわざわざつける必要があるだろうか。

 あえて「ポスト真実」という言葉が強調されるようになった理由をいくつか考えてみる。

 まずは、身も蓋もないが、学者や評論家の仕事の都合ということになるだろうか。新しい(ように見える)概念を作るとそれを切り口にして著作や論文や記事を書きやすくなるので、商売がやりやすいということはあるだろう。「デマに踊らされる大衆」よりは「ポスト真実時代の大衆」の方が、何か目新しい(ように見える)論文が書けそうではある。

 次に、「ポスト」という接頭語を何かの言葉に付けて新しい用語を作るのが、既に世の中の慣習になってしまっているということもあるだろう。「ポスト構造主義」とか「ポスト資本主義」とか「ポストコロニアリズム」とかいう例が現にある。

 ただし「ポスト」という言葉も無内容なわけではなく、それなりの独自のニュアンスはあると思う。「ポスト〇〇」というと、単に時間的に後というだけではなく、また何かを単純に否定するのでもなく、何かが変質して、そこから徐々に連続的に離脱していく・・・というイメージがある(だから「アンチ〇〇」というのとも違う感じになる)。「ポスト真実」の場合、積極的に真実を否定するというよりも、「真実はどうでもいい」とか「真実を放置して別なものに向かっていく」という感じになる。このイメージが、時代のある種の特徴をとらえていると感じる人は確かにいるのだろう。
 (「X派の主張は真実なのかも知れない。しかしそれは感情的に気にいらない。だからY派を支持する」というのが「ポスト真実」の一例ということだろうか。もっとも、こういう現象も昔からあったことで、別に今に始まったことではないという気がするが・・・)

 また、「嘘」とか「デマ」ではなく「ポスト真実」という言葉を使う人は、単に相手が嘘をついているとか嘘を信じていると言いたいだけではなく、「真実はこっち側にあるのに、お前らはそれを見ようとしない」という主張を暗に前提にしているのかも知れない。
 たとえばある論者が、「大衆は嘘を信じている」といっている場合は、その論者自身の側の主張が真実であるかどうかまではわからない。しかし「大衆はポスト真実の状況に陥っている」というと、「オレたちのいうことが真実なのに、大衆はそこから目をそむけて踊らされている」というニュアンスが隠されているように思われる。さらにいえば「大衆がバカでなかったら、真実を知って俺たちを支持するはずなのに、その真実から逸脱している」という意味合いも感じられる。
 今年、トランプ当選やBREXITの文脈で「ポスト真実」という概念を使った論者は、「真実を認識しているなら、トランプに投票するはずがない」とか「真実がわかってないからBREXITが勝ったのだ」という流れで論じているといえるだろう。(そういう主張が正当なのかどうかは私はわからない。)

 日本で「ポスト真実」という言葉が流行するのかどうかはわからないが、いずれにしても「ポスト真実」という言葉を使う人は、「大衆はデマに操られ、感情のトリコになっている。オレは真実をわかっているのに。」という考えでいるのは間違いないだろう。

「8時間労働」という宗教?

 以前も紹介したことがある「自由人」という人のブログで、「『8時間労働』という宗教」という記事があった。

 論旨としては、政府が働き方改革を提唱しているにもかかわらず、1日8時間労働の発想にとらわれていることを問題にして、①オートマ化により、人間のやるべき仕事の量は減少していること、また、②人によって仕事の速さに個人差があることから、

 “8時間の仕事を4時間でできる人は、4時間で仕事が完了しても帰ることができない。
  8時間分(通常の2倍)の仕事をやろうにも、そこまでの仕事が無い。
  加えて、2倍の仕事をしても給料が2倍になるわけでもない。
  そうなると、4時間でできる仕事をのんびりと8時間かけて行うことになる。
  これが、日本の企業の労働生産性が低い理由ではないかと思う。
  況して、上司の目を気にした無駄な残業などがあれば尚更だ

  言うなれば、「8時間労働教」という悪平等な宗教が蔓延っているようなものであり、このカルト教の洗脳を解かない限り、日本の労働者の大半は能力や努力が正当に報われない社会に生きることになる。”

と述べ、「時間に囚われない働き方」を推進すべきだと結論づけている。

 この筆者「自由人」氏の問題提起が、法制度レベルの話なのか、それとも各企業のあり方話をしているのか、どちらなのか必ずもはっきりしないのだが、

(1)まず、法制度レベルの話でいえば、最初から結論は出ている
  労働基準法の「1日8時間労働」というのは、「1日8時間は働かなければならない(働かせなければならない)」という意味ではなく、「1日8時間を超えて働かせてはならない」という意味であり(ただし実質的には36協定により残業可能)、4時間で帰らせようと3時間で帰らせようと、短いぶんには“法的”には何の問題もない。

(2)一方、企業の側のあり方という意味でいえば、

>8時間の仕事を4時間でできる人は、4時間で仕事が完了しても帰ることができない。

というが、おそらく多くの企業は、本当に8時間の仕事を4時間で完成させることができる人がいたら、残り4時間をぼんやり待機させるわけではなく、新たな仕事を与えるだろう

 この点について、「自由人」氏は、

>8時間分(通常の2倍)の仕事をやろうにも、そこまでの仕事が無い

というのだが、企業は常に売上や生産量(ひいては仕事量)を増やそうとして活動するものであって、仮に本当に仕事が増えず社員が暇をもてあましているなら、雇用量(労働者の人数)そのものを減らす方向に動くはずである。そうなれば、人数が減った分だけ、残った社員に割り当てられる仕事量は増えることになる。

 いずれにしても、4時間で仕事を済ませる労働者がいれば、残り4時間、さらにもっと多くの仕事をさせることができるのに、手をこまねいて見ている経営者などいないだろう。

 そうなると、結局、早く仕上げても新たな仕事を与えられることになるので、社員の反応としては、①(出世や昇給を期待して)新たに課せられた仕事をこなす、②これ以上負荷が増えるのはイヤだから、4時間で済む仕事も8時間かける、のどちらかということになるだろう。 

 なお、時間ではなく仕事の成果のみで評価される働き方は、現在でも存在している。それは、内職とか外注とか業務委託であって、契約でいえば、雇用(労働)契約ではなく、請負契約とか委任契約にあたる。
 外注や業務委託で働く場合、仕事の成果をあげられるならば、1日5時間労働だろうと3時間労働だろうと構わない。しかしその担当している仕事が必要なくなれば、直ちに契約を打ち切られる。
 このような形で働く人々は、仕事を時間ではなく成果で正当に評価してもらえるというよりも、そもそも成果がなければ何時間働いても金をもらえないのだ。これこそ「時間にとらわれない働き方」である。

天皇の公務負担軽減等に関する有識者会議の専門家

 天皇の公務負担軽減等に関する有識者会議で、16名の専門家に対するヒアリングが行われたという報道 が数日前にあった。

 この16名の名前を見てみると、有名な人ばかりで、私が著作を読んだことがある人もいるが、このうち2名だけはご本人に直接接した経験がある。

 まず園部逸夫・元最高裁判事は、かつて会社員時代、とある経済団体のようなものに出向していた時にお目にかかった。この団体は、大企業の経営者などが集まる場であり、私はそこの事務局の一員に加わっていたのだが、ある時に憲法問題について研究してみようということになって、専門家を多数招いてレクチャーを受けたことがあった。その専門家のなかに園部元判事も含まれていたのである。ただどういうお話だったか、今はもうほとんど忘れてしまった。

 もう1人は平川祐弘・東大名誉教授で、比較文化や比較文学の研究者だが、学生時代に授業を1科目1年間だけ受けたことがあった。能と西洋の詩の比較とか、白居易の漢詩とウェイリーの英訳だとか、そんな話がいろいろ出てきたことは覚えている。

 またせっかく授業を取ったからということで、平川教授の著作も学生時代に何冊か読んでみたものが、そのうちどの本だったかは覚えていないものの、漱石のロンドン留学について触れた著作があって、そこでは「魯迅の小説『藤野先生』は、夏目漱石の『クレイグ先生』という作品の影響を受けて書かれたものだ」という説を唱えていた。私は『藤野先生』は読んだことがあるものの『クレイグ先生』の方はまったく未読なので、この説については何とも判断しかねるのだが、文学史の世界では、この説は果たして認められているのだろうか。

 さて、この16名の専門家を見ると、憲法学者と、いわゆる保守論客的な人と、あとは皇室制度(天皇制)に詳しい論者たちというところだろうか。いわゆる左寄りの人は、皇室制度はどうでもいいだろうから、こういう場に呼ばれないのは仕方ないだろう。
 それ以外に、たとえば旧五摂家(近衛家など)とか冷泉家とか、そういう公家の子孫である堂上華族の人々は呼ばれないのかと思ったが、ここらの人々は、歴史的にみて家柄が皇室に近すぎて客観的な意見を述べる立場とは言えないということで「専門家」としては扱われなかったのだろうか。

DeNAとWELQについての雑感

まずいきなり漫画の話から。板垣恵介『バキ』 の中に、こんなセリフがある。

こんな時便利っスね死刑囚って 最悪殺しちゃってもモンダイなし

記憶に頼って書いているので、表記は少し不正確かもしれないが、ほぼこの通りのセリフがあったはず。読んだことがある人には説明不要だろう。一方読んだことがない人にはわざわざ勧めるほどのものでもない作品ではあるが、このセリフの意味について一応説明すると、とある格闘技に優れた死刑囚を、プロレスラー(アントニオ猪木がモデル)とその弟子がリンチしようとする場面があって、その弟子の男がガムを噛みながら言うセリフが上記のものなのである。
その男は死刑囚をこれからリンチするのを楽しみにしている様子なのだ。
(いうまでもなく実際には、死刑囚とはいえ、一般人が勝手にリンチして殺してしまったら殺人罪である。「死刑囚を殺してしまっても問題ない」というのは、あくまで『バキ』の作品世界の中の設定だ。
ただし物語の展開としては、そのレスラーたちは、死刑囚に逆に返り討ちにあってやられてしまうのだが。)

なぜこんなどうでもいい漫画のどうでもいいセリフを突然思い出したかというと、DeNAおよびWELQの叩かれぶりが、死刑囚をリンチするようなシチュエーションを連想させたからである。
WELQ問題で、DeNAは何も弁解や反論のしようがないし、擁護する人間も出てくるわけがないので、誰もが安心してDeNAを叩き嘲笑することができるし、どのようにでも罵倒することが許される。それはまさに『バキ』の作品世界の中で、自分が何かペナルティを受けることを気にすることなく、死刑囚をリンチする行為に通じる感じがする。実際にDeNAは、死刑宣告を既に受けたようなものかも知れないのだ。いうまでもなく死刑囚は、冤罪でもない限り、死刑に値する悪事をやった悪人である。

さて、WELQについては、「悪貨が良貨を駆逐する」という諺を持ち出して論評する人もいる。WELQがゴミのようなエセ医療情報を大量にばらまき、検索で上位にさせているために、本当に有益な情報が埋もれてしまうということだ。
ただ、WELQの場合、「肩の痛みや肩こりは幽霊のせいだ」とかいう迷信を書いてみたり、「平成9年には38年ぶりに結核の新規患者数が前年を上回り、現在も患者数の兆しは見えていません」などという日本語として崩壊した文章を載せてみたりして、あまりにも「悪貨」の度合いがひどすぎたために、とうとう自分の方が駆逐されてしまった。あまりに質の悪すぎる「悪貨」は、良貨を駆逐できないのである。「悪貨が良貨を駆逐する」というのは、一見、良貨と区別がつかない(しかも値段が安かったり入手しやすい)悪貨でなければ不可能である。見るからにボロくて崩壊している悪貨は、誰にも相手にされなくなる。
DeNAは、「医療専門家が監修していなかった」などと言っていたが、むしろ医療専門家以前に、日本語のできる常識的一般人による監修が必要なレベルだったといえる。

WELQが炎上して破綻したのは、法律やモラルに反していたからというより、「幽霊」とか「患者数の兆しは見えていません」とか、あまりに低レベルで無価値な記事を乱造したからだろう。法律やモラルに反しているかどうかと、炎上・崩壊するかどうかは、いちおう別問題である。法律やモラルに反したネットのコンテンツは、すべて炎上して消滅してくれるのが望ましいのだが、実際は必ずしもそうではない。

仮にWELQに「幽霊」などのひどすぎる記事が存在せず、文法的にも一応まともで、外見上もっともらしい記事(内容はパクリや真偽不明だとして)ばかりだったとしたらどうだろうか。いつまでも炎上せず生き残り続けて、それこそ悪貨が良貨を駆逐し続けていたのではないだろうか。

DeNAがやったことは、比喩的にいえば詐欺行為のようなものだろうが、詐欺師としては三流以下だった。詐欺師だったのが問題というより、詐欺師としてすらまともに仕事ができない無能だったのであり、だからこそ問題になって撤退したのである。DeNAがもう少し有能な詐欺師だったら、世の中にまだまだ害悪を流し続けていただろう。

つるの剛士と「日本死ね」と流行語

2016年のユーキャン新語・流行語大賞で「保育園落ちた日本死ね」がベスト10入りしたことについて、つるの剛士が

「『保育園落ちた日本死ね』が流行語。。しかもこんな汚い言葉に国会議員が満面の笑みで登壇、授与って。
 なんだか日本人としても親としても僕はとても悲しい気持ちになりました。
 きっともっと選ばれるべき言葉や、神ってる流行あったよね。。皆さんは如何ですか?」

とツィッターで述べたことについて、賛否両論の議論が起こっている。

つるのは、「日本死ね」という表現が気に入らなかっただけで、待機児童問題を軽んじるかのような意図は特に感じられない。ただ「日本死ねといわざるを得ないほど追い込まれていたのがわからないのか」という風な批判もある。

私自身はこの論争についてどうこう言うつもりはないが、この待機児童問題を提起したことを重視するという意味でいうと、「保育園落ちた日本死ね」ではなく、「保育園に落ちたの私だ」の方が、流行語として選定するのにふさわしかったと思う

「保育園に落ちたの私だ」は、保育園問題に限らず、様々なバリエーションが作られていろいろな人が真似ていったが、「保育園落ちた日本死ね」は、有名にはなったもののそれほど模倣されたわけではなかったと思う。いろいろな人がバリエーションを作って真似ていく、これこそ「流行語」である。

注目を浴びた言葉という意味では、「日本死ね」が話題になるのはおかしくないが、“流行”語という意味では、「保育園に落ちたの私だ」の方が良かったのではないか。

いわゆる識者が書いた本を読むのはその賛同者だけである件

 姜尚中と森巣博が2002年に出した対談の『ナショナリズムの克服』(集英社新書)という本がある。
 この本の腰帯には「上野千鶴子氏絶賛!」と書かれていて、さらに「『治ってしまえばあれはビョーキだったとわかる、爽快なナショナリズム論』」という上野千鶴子の賛辞らしきものが並んでいる。
 (当時読んだ私の記憶では、この腰帯のキャッチフレーズの上野千鶴子には若干違うバージョンがあって、「これを読めばナショナリズムはハシカのようなものだったとわかる」と書いてあったような気がするのだが、記憶違いかもしれない。今手元にないので確認できない。)

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 この腰帯の上野千鶴子の推薦の言葉を読んでいると、少しおかしなことに気がつく。主張がおかしいという意味ではなく、どういう層に向けて上野千鶴子は語りかけているのかという点である。
 だいたいこの本は、一体どういう読者にむけて書かれたものなのだろうか?
 ナショナリズムに囚われて偏見に満ちた人間に読んでもらって、ナショナリズムという“ビョーキ”を“克服”してもらうために書いたのか?
 正論やWiLLあたりを愛読している人に読ませたいのだろうか?

 そもそも正論やWiLLの読者は、「上野千鶴子氏絶賛」という腰帯を見たところで、買う気を起こすわけがないばかりか、逆に、自分が読むべきではない本だと考えるだろう。
 (2002年時点の上野千鶴子は、『おひとりさまの老後』(2007年)をまだ書いておらず、今よりも一般の読者にはなじみが薄かったはずである。というよりいわゆるフェミニズムに関心を持つ人ばかりが上野千鶴子を読んでいたと思う。)

 この本を上野千鶴子が「治ってしまえば、ナショナリズムはビョーキだったとわかる」といって推薦したところで、上野千鶴子の推薦文を見て読んでみる気になるような人間は、もともとナショナリズムという“ビョーキ”にはかかっていないのである。

 そう考えると、『ナショナリズムの克服』を買って読む人間は、実質的には、既にナショナリズムを“克服”している(つもりの)人間だけということになるだろう。

 もう一つ例を挙げてみよう。樋口陽一が『いま、憲法は「時代遅れ」か - <主権>と<人権>のための弁明(アポロギア)』という本を出しているが(私は未読)、まず樋口陽一のこの本を買うのは「日本国憲法は時代遅れだ」などともともと思っていない人間ばかりだろう。この本のタイトルの「アポロギア」という言葉は、「ソクラテスの弁明」のイメージを下敷きにしたものだろうが、日本国憲法は時代遅れだからすぐ変えろ、と決めてかかっているような人たちは、そんなちょっとしたタイトルの工夫に興味など持たないだろう。 
 (もちろん例外がいても不思議はない。たとえば往年の田中美知太郎や福田恒存のような保守の論客だったら、このタイトルを見てなにがしか感じて手に取ってくれるかも知れない。そういう人を想定して書いたのだろうか。)

 もともと何かを論じる著作というのは、すべてこういう運命なのだと言ってしまえばそれまでなのかも知れない。Aという立場で何かを論じた本は、Aに賛同する人間しか読まない。Bという立場の本も同じ。そういうことだろうか。そうなると何も広がっていかないということになるだろう。

 あまり良い例ではないかも知れないが、たとえば香山リカの本を読む人間は、香山リカにもともと好感を持っている人間だけで、百田尚樹の本を読むのも、百田のファンのような人間だけということになる(ちなみに私はどちらのファンでもないが。)。
 問題は、おそらく百田を読む人間の方が香山リカを読む人間よりかなり多そうで、現状のままだったら後者が不利だということである。現状で良いと考えている人はそれで構わないのだが、現状を変えたい人は、果たしてそれで良いのだろうか。

雑誌「プレジデント」の今と昔

 ご存知、「プレジデント」というビジネス雑誌がある。
 この雑誌は、30年くらい前、私が学生とか就職したての頃は、戦国時代や太平洋戦争などを題材にして”●●での決断““組織作り”“人材の活用”のような記事が多く、表紙も戦国大名や海軍大将の絵をやたらと乗せていた(ちなみに陸軍の将官はあまり表紙に出ていなかったような気がする。華々しいイメージがあまり無かったせいだろうか)。

 そんな「プレジデント」の表紙も記事も時代とともに代わっていき最近は「資料作り」「会社の数字」「相続」「老後」など、至って身のまわりの話題ばかりになってきた。このように長い間に雑誌の傾向が変わっていくことは別に珍しいことではないが、この変化の背景にある事情をいろいろ考察するのも面白いかも知れない。

 

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 ところで、「偏差値60強!超高学歴女子はなぜ生きづらいのか 」という記事が「プレジデントオンライン」に載っていた(筆者:日本総合研究所創発戦略センターESGアナリスト 小島明子)。
 内容は、有名大学卒で仕事に励む女性の仕事観、収入の実態、仕事と結婚・出産・育児の両立の悩みなどをデータを中心に紹介したものである。
(但しこの記事はプレジデントオンラインなので、紙媒体の雑誌の「プレジデント」の方にも掲載されたかどうかはわからない。)

 ところが「プレジデント」は、男女雇用機会均等法施行の年(1986年)には、この均等法に対して明確に否定的なニュアンスの特集「『女の時代』はどう恐ろしいか」というのを打ち出していた。
 1986年4月に出版されたこの号では、たとえば次のようなタイトルの記事が掲載されていたのである。

●「女の時代」はどう恐ろしいか――日本は弥生式文化の時代から女性上位なのである。この上、何が欲しいというのだ / 会田雄次 ; 諸井薫

●「女、男に似たるが故に尊からず――現代の女性は「女としてのプライド」を失っている。そこに重大な問題が / 渡部昇一

●「均等法」は企業の活力を削ぐ――法律を施行したぐらいで、女性社員は本当に働くようになるのか /

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000977074-00

 繰り返しになるが、時代と共に社会の意識も変わっていき、当然、雑誌も変わっていくわけである。

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