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2017年1月

「訂正でんでん」でバカ騒ぎするのは、安倍首相ではなく有権者に対する侮辱である

 安倍首相が「訂正云々」を「訂正でんでん」と読み間違えたことについて、多少ネットやメディアで話題になっていたが、

民進党の大西健介衆院議員(‏@oniken0024)が:

“でんでん虫、虫、安倍ソーリ”

https://twitter.com/oniken0024/status/824241095143997440

とtwitterで揶揄し、さらに東京新聞特別報道部の佐藤圭という人(‏@tokyo_satokei)が、   

“驕り高ぶる権力者の失敗は嘲笑の的にして当然だ。”

https://twitter.com/tokyo_satokei/status/824408688710479873

・・・とつぶやいている。

 さて、この種の政治家の読み間違いなどを野党やメディアが揶揄する場合、その目的はいったい何なのだろうか。

 まさか、政治家に漢字の読み方について注意を促すためではないだろうし、世間一般の国語力を向上させるためでもあるまい。
 いうまでもなく今回の件で「でんでん」を揶揄したり騒ぎ立てる目的は、安倍内閣を風刺というか攻撃し、その支持率を低くして、野党(民進党でも他の党でも)の支持率を高めることが目的だろう。

 私は別に安倍内閣に思い入れはないので、この目的そのものについて何のケチもつけるつもりはない。「でんでん」を攻撃して安倍内閣の支持率を下げ、野党の支持率が高まる効果があるというのなら、大いにやれば良いと思っている。

 ただ問題は、大西議員が「でんでん虫、虫、安倍ソーリ」とtwitterでつぶやいて、それが拡散されたとして(現に拡散されているのだろうが)、それによって印象が悪化してダメージを受けるのは、安倍内閣や自民党なのか、それとも大西議員や民進党の方なのか、ということである。

 大西議員にしても、東京新聞の佐藤氏にしても、「為政者を揶揄・風刺すれば民衆が喜んでくれる」という、ある意味非常に素朴な考え方というか大衆観に立っているようである。

 しかし有権者は、メディアや野党にそんなものを求めているのだろうか。むしろ、政策に対する分析批判や提言を求めているのではないか。つまり有権者はレベルの高い分析や提言を求めているのに、それに対する野党やメディアの答えが「でんでん」というのが、大西議員や佐藤氏ということになる。

 そもそも「でんでん虫、虫、安倍ソーリ」などで内閣の支持率が下がって民進党を支持してもらえると思っているのなら、それは、(安倍内閣に対してではなく)有権者に対する侮辱ではないだろうか。

 たとえていえば、賢い小中学生が普通の小説を読みたいといっているのに、3歳児向けの絵本を与えてご機嫌を取ろうとする大人がいたら、それはバカな大人だろう。このバカな大人こそが、野党やメディアの姿である。

 果たして「でんでん虫、虫、安倍ソーリ」というtwitterによってバカにされて失笑を買うのは、安倍首相ではなく、むしろ大西議員の方ではないだろうか。

 有権者からみれば、具体的な政策議論に結びつかない、漢字の読み間違え等のレベルの揶揄にかまけている野党は、政策論ができない無能者だと思われても仕方がないだろう。

なお、安倍政権に明確に批判的な立場からも、「訂正でんでん」の揶揄で騒ぐ民進党議員などに対する苦言を呈する論者の記事があるので、最後にご紹介しておく。

安倍総理の「訂正でんでん」から考える 嘲笑しても政治は動かない (猪野 亨弁護士)

犯罪者は合理的に行動するのか?(荘司雅彦弁護士の記事を読んで)

 アゴラに、「刑法の目的と社会の安全を達成するには?」という荘司雅彦弁護士のブログ記事が掲載されていて、犯罪防止と刑罰の関係について述べている。

 荘司弁護士は次のようにいう。

どのような手段を用いれば、できるだけ多くの人を「犯罪は割に合わない」と考えるように仕向けることができるでしょうか?

 この点については、「刑罰の重さ」に「刑罰の執行確率」を乗じた「期待刑罰」が意味を持ちます。
例えば、死刑という刑罰が50%の割合で執行されるとしたら、ほとんどの人は「犯罪は割に合わない」と思うでしょう。仮に10万円の罰金刑でも80%の割合で執行されるしたら期待刑罰は8万円。それで1万円を盗むのは絶対に割が合いませんよね。

刑罰の重さは刑法を改正するだけで実現できます。極端な話、どのような犯罪でも(こまわり君のように)「死刑!」と規定してしまえばいいので、さほどコストはかかりません。」

 この荘司弁護士の説明は、「犯罪が割に合わないと考えた場合は、人間は犯罪を実行しない」という命題が大前提となっていることに注意が必要である。
 これは「法と経済学」という学問分野の考え方によるものだが、この考え方は、ミクロ経済学のように、個々人が経済的合理性に基づいて行動するという仮定に基づいていると思われる。

 この荘司弁護士の記事に対して、特に批判とか賛同とかいうわけではないのだが、私なりにコメントをしておきたい。

 まず犯罪といっても様々な類型があり、合理的に行動するといえるのは、あくまでそのうちの一部分だといえる。

 最もわかりやすいのは、大企業の社員による業務上横領と、公務員による収賄である
これらは、犯罪を犯すことによって得られる利益と、刑罰によって失う利益とを比較して行動するといえるだろう。メガバンクの行員や国家公務員のキャリア組が、横領や収賄をすれば、失うものも大きいはずである。
 まさに荘司弁護士がいうように、「割に合わない」場合には実行されにくい犯罪といえるだろう。

 一方、性犯罪、薬物犯罪、ストーカー犯罪や怨恨による殺傷などは、感情や欲望や衝動によって行うものであって、かならずしも合理的な判断に基づいて行動するわけではないから(というより、合理的に判断する人間であれば、そもそもこれらの犯罪は犯さない)、上記の命題の妥当性はかなり限られてくるといえるだろう。

 また実際問題としては、犯罪に対する刑罰を重くすれば重くするほど、犯罪抑止効果がそのまま上がるというわけでもない。

 たとえば100円盗んでも死刑になる場合、たまたま何らかの理由で100円を盗んでしまった者は、どう行動するだろうか。死刑という不利益があるのに、得られる利益が100円というのは、確かに割が合わない。
 そこで、どうせ死刑ならということで、もっと犯罪を重ねて、コストを回収しようとするわけである。100円盗んで死刑にされるのは割りに合わないが、どうせ死刑に処せられるならば、さらに強盗や殺人や窃盗を繰り返して、財産を家族や友人に与えてやるくらいすれば、「割に合う」ということになってしまう。
 荘司弁護士の言い方を借りれば、「期待刑罰」の不利益をカバーするため、それを上回る利益を犯罪で得ようとして、さらに犯罪を重ねるわけである。
 (黒澤明の映画『用心棒』の中にも、「1人殺そうと、何人殺そうと、死刑にされるのは一度だけだ」という意味のセリフがある。)

 さらに、「割に合わないかどうか」とは別な視点になるが、刑務所への収容が長すぎると、出所後の社会復帰が困難となり、さらに再犯を重ねる人もいるということも考える必要があるだろう。

対馬から盗まれて韓国に持ち込まれた仏像の問題・続き

 対馬から盗まれて韓国に持ち込まれた高麗時代の仏像の問題について、さらに調べてみた。

 韓国の地方裁判所としては

(1)この仏像は、高麗時代(1330年)に作られて「浮石寺」に納められた
(2)対馬の観音寺は、倭寇集団の頭目が1526年に創建した
(3)仏像が制作された1330年以降5回にわたり倭寇がその地域に侵入した記録がある
(4)この仏像の腹蔵記録には、高麗から日本に正常な形で移されたことを示す記載はない
(5)この仏像には、本来あるべき宝冠等がなく、焼け焦げた跡がある

・・・等を根拠として、この仏像は、倭寇によって略奪された後、対馬に運び込まれて、観音寺に置かれることになったと推認したようである。
(以上の(1)~(5)が事実なのかどうかは、もちろん私にはわからない。
ただ、韓国の裁判所は、この(1)~(5)の事実が存在することを認めたうえで、そこから、結論を導いている。)

 このあたりは、以下の韓国メディアの記事が比較的詳しい。

ハンギョレ新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170127-00026356-hankyoreh-kr
中央日報
http://japanese.joins.com/article/129/225129.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|article|ichioshi

 次の疑問として、仮に上記のとおり、この仏像が倭寇によって奪われて対馬に運び込まれたものだとしても、既に観音寺の所有物になっているのではないか、ということである。

 近代より前の時代の所有権の考え方をどう見るかは難しいところなので、ここでは触れないでおくが、とりあえず近代の民法が施行された後の段階だけで考えてみても、「取得時効」という概念があるはずである。
 仮に盗まれたものであることがわかっていたとしても、平穏かつ公然と20年以上占有していれば、所有権を取得するのである。
 観音寺(の宗教法人)は、当然ながら20年以上、この仏像を占有していたわけであるから、日本の民法を前提とするならば、既に観音寺の所有物になっているといえる。

 この点、韓国の民法はどうかといえば、やはり「取得時効」の概念はあるので、日本と大差はないようである。
 (★なお、1910年以降の日韓併合の時代、「朝鮮民事令」という法令により、基本的に朝鮮半島でも日本の民法に拠ることとされていた。私に細かい知識はないので、機会があればもう少し調べてみたいと思う。)

 このように「時効によって取得している」という議論が、裁判でどのように扱われたのかは、定かではない。

 (もっとも、時効によって取得したことを主張できるのは、観音寺であって、韓国政府ではないということかも知れない。
 今回の裁判は、日本への返還を考える韓国政府と、所有権を主張する浮石寺との間の争いであって、観音寺は当事者ではないことに注意。)

対馬で盗まれた仏像について、韓国の裁判所が韓国の寺に所有権を認めた件

 2012年、長崎県対馬市の観音寺から、県指定文化財の仏像「観世音菩薩坐像」が韓国人窃盗団に盗み出され、韓国に運び込まれた後、韓国当局に押収されていた。

 韓国政府はこの仏像を返還する意向を示していたのだが、ある韓国の寺が、この仏像について、「かつて所蔵していたが、中世に日本の倭寇によって略奪された」と主張して、韓国政府を相手取り、仏像を引き渡すよう求めて訴訟を提起していた。

 この訴訟について、韓国の大田地方裁判所は26日、韓国の寺の所有権を認め、仏像を引き渡すよう命じる判決を下したという。

 (たとえば下記リンク参照)

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170126/k10010853511000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_001

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170126-00000037-jij-kr

 

 感情的な話はさておき、この件では2点の疑問を感じた。

(1)仮にこの韓国の寺が中世の時代に本当にこの仏像を所蔵していて、それが倭寇に略奪されて対馬の寺におさまったのだとしても、現在において、この韓国の寺は、現代の法体系での「所有権」をこの仏像について主張できるものなのだろうか。

   韓国の民法は知らないが、日本の民法の場合は、たとえ盗品であることがわかっていたとしても、所有の意思をもって、平穏かつ公然と占有していれば、20年間で時効により所有権を取得できることとされている。

(2)そもそも論として、倭寇が仏像を盗み出して日本の寺に譲ったりするものなのだろうか。当時の日本の寺が、金で買い取ったか、無償で受け取ったかは知らないが、倭寇からその仏像を手に入れたということだろうか。

  倭寇が食料品や金銀財宝や家畜を盗み出すというのは理解出来るが、仏像を盗み出して日本に持ち込んだ例は、実際問題としてあるのだろうか。

 私は報道でしかこの事件のことを知らないので、ふと思い浮かんだ疑問を書いてみた次第である。韓国の裁判所の判決を見てみれば、具体的に説得力ある説明が何か書いてあるのかも知れないが・・・

★上記の(1)の点について若干補足。

まず、中世(高麗時代)のこの寺と、現在の寺(を経営する宗教法人?)との間に、法的な連続性があるといえるのかどうか。

また、1910年に韓国併合が行われて、朝鮮半島でも日本の民法が施行されていたはずであるが、どんなに遅く見てもその時期には、日本列島・朝鮮半島両方を含めた領域において、同一の民法の秩序のもとで、その仏像の所有権を日本の寺が有していることは、確定していたと言えるだろう。

初詣ベビーカー論争と東浩紀と「権利」と「迷惑」

『AERA』で、東浩紀が「初詣ベビーカー論争に見る『迷惑』と『権利』の混同」という記事を書いている。

 ここで東浩紀は、初詣の場でベビーカーを使うと大勢の迷惑になるからやめるべきだという主張に対して、「迷惑」と「権利」を分けて考えるべきだと述べている。

 東はいう。
迷惑はやめろ、というのは厄介な命令である。それは規則を破るなという客観的な意味とともに、他人を不快にするなという主観的な意味をもっている。
 この厄介さは欧米由来の「権利」にはない。けれど日本人の多くは、迷惑の話と権利の話を混同している。
 だから論争が空転する。(・・・)これはベビーカー論争以外でも見られる構図である
。」

そして
私見では、この問題は、迷惑の話と権利の話を切り分けることでしか解決しない。
 権利の主張はときに他人の不快につながる。しかしそれでいいし、権利とはそもそもそういうものだと理解するべきなのだ。
 ベビーカーを使うと周囲が困惑するかもしれない。それでも使いたければ使えばいい。 
有休を取ると同僚が嫌な顔をするかもしれない。それでも取りたければ取ればいい。
 それが権利というものの本質ではないだろうか
。」
と結んでいる。

 一般論として、初詣の際にベビーカーを使うことの是非についてはここでは触れないが、ただ東の論理の進め方には、若干の混乱が見受けられるので、ここで整理しておきたい。

 そもそも初詣でベビーカーを使用する行為は、労働者が有休休暇を取得するのが「権利」であるのと同じような意味で、「権利」なのだろうか?

 ある行為をすることが「権利」だというからには、それを妨げないように求めることができなければならないし、侵害された場合はその侵害に対して、原則として何らかの救済を求めることができなければならない。

 たとえば有給休暇や育児休業を取得したい場合は、雇用主(会社)に対してそれを認めるように請求することができる。
 それは、たとえ同僚に「迷惑」がかかるとしても、法的に保障・保護された「権利」なのである。
 理屈のうえでは、雇用主が有給休暇を与えない場合は、訴訟で認めさせることもできる。 (いちいちそこまでやるかどうかは別だが、休暇を認めるかどうかについて争いになった裁判例は、現実に存在する)
 その意味で、東の言っている「他人に迷惑がかかるとしても、権利は行使して良いのだ」という命題は、有休休暇については正しい。

 さて、神社や寺に初詣をする際にベビーカーを使用することは、この有給休暇と同じような意味で「権利」なのだろうか?権利だとしたら、寺院や寺に対して、それを妨げないように求めることは可能なのだろうか?

 会社に対して「権利として有給休暇を取得させるように」と請求するのと同じように、参拝客は寺院に対して「権利としてベビーカー同伴で初詣をさせるように」という請求をすることができるのだろうか。
 たとえば、有給休暇を与えない雇用主を労働者が訴えて請求することができるのと同じような意味で、ベビーカー使用を認めない寺院に対して、訴訟で、使用を認めるよう求めることができるのだろうか。

 さらにいえば、有給休暇の場合は、労働者にそれを取得する「権利」があるということは、雇用主がそれを付与する「義務」を負うということでもあるわけだが、ベビーカー使用の場合は、寺院はその使用を認める「義務」を負っているのだろうか。

 思うに、寺院の境内は寺院の所有地であって、大勢の参拝客が来る中でどのように管理を行うかは、寺院の判断に委ねられており、それこそ寺院の「権利」である。
 その中で、参拝客相互の「迷惑」をどこまで許容するかも、寺院は考慮に入れなければならない。
 参拝客はそのような寺院の管理権の中で参拝を認められているのであって、参拝にベビーカーを使用することが「権利」とまで言えるかどうかはまた別問題である。

 その意味で、「迷惑のことは考えなくても良い、権利だけ考えれば良い」という東の主張は、有休休暇や育児休業の場合には、一応は当たっているが、初詣のベビーカー使用の場合は当てはまらないのである。

(★ただし、このAERAの記事の中で、東は「迷惑」というコトバを、「他人の主観的な不快感」という程度の軽い意味でしか使っていないことに注意を要する。)

 もちろん最終的な結論として、ベビーカーの使用を認めないのが妥当かどうかは、また別問題であって、個々の状況に応じて判断するべきことである。

何のための「労働時間削減」なのか

 電通で若い女性社員の高橋まつりさんが自殺した事件が大きく報道されて以降、「残業抑制」「労働時間削減」が社会全体で、従来以上に強く叫ばれるようになった。

 ここでは、この労働時間削減について思いついたことを二三点、書き留めておきたい。

1.「労働時間の削減」は、生産性向上のためなのか?

 時々、「労働時間を削減すれば、生産性が向上します。」という言い方をする論者がメディアに見受けられる。このこと自体は間違いではない。(もう少し正確にいえば、企業レベルで売上その他の条件を変えないまま労働時間を削減すれば、時間あたりの労働生産性は向上する。)

 ただ、ここで疑問を感じる。生産性向上のために、労働時間の削減をするということなのだろうか?一番重要な目的は、生産性向上なのか?労働時間の削減は、生産性向上のための手段にすぎないのだろうか?
 そうだとすれば、仮に労働時間を長くした方が生産性が向上するのであれば、労働時間を逆に長くするべきだというのだろうか?

 そういう問題ではないだろう。労働時間の削減は、働く人間の健康や家庭生活のためであって、生産性向上のために行うものではないだろう。

 逆ならば、理解できる。「生産性を向上させれば(=短い時間で同じ売上や利益等が維持できるような仕事の仕組みにできるなら)、労働時間を削減できる」ということである。

2.電通の事件の本質は「長時間労働」だったのか?

 電通の自殺事件では、女性社員が長時間労働をしていたことが明らかとなっている。過剰な残業と自殺とに因果関係はあるのだろうが、問題の本質はそこなのだろうか。残業時間がもう少し短ければ自殺しなかったのだろうか。むしろ組織での立ち位置とか、上司の指示や対応の仕方とか、全体的な雰囲気とか、いわゆるパワハラやセクハラとか、そのような要因がかなり影響していたのではないかとも思うのだが、どうだろう。
 ただ、労働時間は何らかのデータとして表に現れやすいのに対して、組織とか人間関係のような要素は外部からはわかりにくく、内部の人間も口を閉ざしているのでは、解明は難しいのかも知れない。

3.「労働時間の削減」は労働の強化をもたらすこともある

 労働基準法の考え方でいえば、1日の労働時間が短くなることは望ましいことである(たまに勘違いしている人もいるが、労基法で1日8時間が原則とされているからといって、8時間働かせなければならないということではない。労基法は、1日の労働を8時間より短くすることを禁止しているわけではない)。1日12時間働かせるよりは、10時間、さらに8時間のほうが好ましいことになる。

 ただ、従来10時間でやっていたことを8時間で済ませろということであれば、労働者にとってみれば労働の強化、つまり仕事の強度とか負荷がより高くなることにもつながりうる。このことは念頭におくべきだろう。(労働者数を増やして対応するなら別だが、現実には困難であることが多いだろう。)

「解雇しにくい社会」は、日本企業が自分から産み出したものだ!

 「日本は解雇規制が厳しい。これを何とか緩和すべきだ」という主張は、世間でどこまで賛同されているかどうかは別としても、いまやメディアでは珍しくなくなった。

 解雇といってもいろいろなパターンがあるわけだが、大きく分けると、まず、①特定の労働者個人についての理由に基づいた解雇がある。たとえば、ある社員に仕事を遂行する能力がない(=職務遂行能力が乏しい)ということを理由とした解雇がこの例である。
次に、②会社経営の危機を人員削減で打開するために行う解雇(整理解雇)もある。
 
 日本は解雇規制が厳しいといわれるが、それでは具体的にこれらの解雇はどのように「規制」されているのだろうか。
 (★細かい点でいえば、解雇の予告とか、産休中や労災休業中の場合は解雇が制限されるなどの規定が労働基準法にあるが、一般にはこれらが主な論点になっているわけではないので、省略する。)

 たとえば、仕事ができない者を解雇したくなったら、山のように書類を作って、事前に役所(労基署とか?)にお伺いを立てて、許認可をもらわないと解雇できないのだろうか。そういう意味での「解雇規制」があるのだろうか。そういうことではない。

 労働契約法16条には、「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。」という定めがある。

 この条文が意味するのは、使用者(会社)には、労働者を解雇する権利があるにはあるのだが、客観的に合理的な理由がなく、社会通念上相当でないような解雇を行った場合、その権利を濫用したものとして、解雇が無効となるということである。

 つまり、解雇が裁判での争いになった場合、その解雇に「合理性」「相当性」が認められなければ、解雇は無効とされるということになる。

 (ただし会社から解雇を言い渡された人が、それについて何も異議や不満を述べず、裁判に訴えて「解雇は無効である」などと主張することもしないまま転職してしまえば、それまでの話である。あくまでも問題は、裁判で解雇を争うようになった場合にどうなるかということである。)

 まず①の例でいうと、仕事ができない人間を会社が解雇して裁判で争いとなった場合、会社としては、その人間を解雇したことに「合理性」「相当性」があることを主張・立証しなければならないことになる。

 そこで、会社としては、まず「その人間がどのように仕事ができないか」を証明することになる。
 そんなのは当たり前だといわれるかも知れないが、実はこれは必ずしも簡単ではない。というのは、多くの日本の企業では、それぞれの社員の担当する職務は、必ずしも明確に書面で定義され限定されて項目毎にブレイクダウンされているわけではないからである。
 もちろんどんな企業でも、実際に社員が担当する職務は何らかの範囲で決まっている。ただ、日本企業の場合、書面でその職務内容をあらかじめきめ細かく限定しておくことは避けて、むしろ大雑把で曖昧にしておき、柔軟で融通がきくようにしておくことが普通である。一つの部署の中でも仕事の分担は割と大雑把で、お互いに助け合うこともあるし、場合に応じて仕事の範囲を広げることもあるし、異なった部門や職務の間で配置転換されることもある。
 (職務を明確に限定するということは、「限定されたその仕事以外のことはしない(させない)」ということにつながるが、そうなると融通がきかなくなるので、多くの日本企業はそれを嫌うわけである。)
 最近はあまり聞かないかも知れないが、かつては「社員達が融通をきかせて協力しあう柔軟なチームワークこそが、欧米企業と違う日本企業の強みだ」などとよく言われていたのだ。
 
 このように、担当する職務の内容の決め方が大雑把で曖昧になっているということは、融通をきかせて柔軟に働かせやすいということであり、組織としての強みになると一応言えるだろう。
 しかし逆にいえば、いざ仕事ができない人間を解雇したくなった時に「その人間がどのように仕事ができなかったのか」を具体的・分析的に説明するのが結構難しくなるということでもある。「どんな仕事をするのか」を書面で明確にしておかないため、「どんな仕事ができなかったのか」を説明するのも厄介になるわけだ。

 もちろん現場で実際に見ている上司から見れば、仕事のできない人間がどのようにダメなのかは、直観的にわかるだろう。しかしいざ裁判となった時に、誰でも(=裁判官にも)わかるような形でそれを証明するとなると、なかなか難しいのである。
 
 次に②の整理解雇の場合はどうだろうか。会社のある事業部門の業績が悪化して人員を縮小しなければならなくなった場合、仕事そのものが減少または消滅するのだから、それに応じて解雇するのは「合理性」「相当性」があるようにも思える。
 しかし、日本企業では、職務や事業所を限定せずに社内で幅広く人員を動かすことも比較的普通に行われている。そうだとすれば、ある部門の人員を縮小する場合、他の部門で余った人員を受け入れられるのなら、なぜ解雇しなければならないのか?という話になってくる。

 普段から勤務先の事業所や担当職務をガチガチに固めて採用・配属しておいて、職務変更も転勤も行わないような会社なら、話は別かも知れない。しかし会社が普段から転勤や職務変更を頻繁に行っているのなら、ある事業部門が危機に陥った時も、同じように転勤や職務変更をまず行って対応すれば、わざわざ解雇しなくても良いではないか・・・ということになる。

 そうなると、裁判になっても、なかなか整理解雇を認めさせるのは難しいということになる。
 (整理解雇が認められる要件として、裁判実務では、①人員削減の必要性、②人員削減の手段として整理解雇を選択する必要性、③被解雇者選定の妥当性、④手続の妥当性、が求められているが、ここでは詳しい話は省略する。)

 さらに全体的な問題として、戦後の日本企業は、「人材を新卒から抱え込んで、長期的に育成・活用する」というタテマエで、人事制度、賃金体系、そして福利厚生制度を備えてきたということを忘れてはならない。このような仕組みの日本企業では、解雇されることの不利益は非常に大きいと言えるだろう。そのような状況も、裁判となった場合に当然考慮される。  

 このように考えると、日本は「解雇規制が厳しい社会」というよりも、「解雇が認められにくい状況を企業が自分から作りだしてきた社会」という方が正しいだろう。政府が勝手に解雇を厳しく規制して、企業に一方的に押しつけたわけではない。 

 解雇がしにくい社会は、日本企業が自ら作りだしてきたものなのだ。
 日本企業の「強み」と呼ばれていたもの=社内で人を柔軟に動かしやすい等ということと引き換えに。

 ただしその解雇がしにくい社会のしわ寄せが、別なところで現れてきているのも、また事実である。たとえば「いざとなったら人員を削減できるように、短期契約の非正社員を一定数抱えておき、不況の時は非正社員の契約を打ち切る」というようなケースは、今やお馴染みといえるだろう。

 (★以上のような前提が通用しないのであれば、日本の企業であっても“解雇しやすい”ケースはある。職務が厳格に限定されていて、ずっと長期的に勤務し続けることを必ずしも想定していないような企業としては、たとえばプロ野球チームを考えてみると良い。)

文部科学省の天下りあっせん

 文部科学省の元高等教育局長が退職後に早稲田大学教授に就任した件で、文部科学省が「あっせん」を行っていたことが問題となり、事務次官が引責辞任をすることとなった。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170119/k10010844641000.html

 平成19年に改正された現行の国家公務員法では、再就職を目的として、現職の職員が営利企業や利害関係のある団体に対して、職員やOBの情報を提供したり、就職などを依頼したりすることをすべて禁止しているのだが、文部科学省は人事課や数名の幹部が“組織的”に、このような再就職あっせんを行っていたという。

 報道によれば、この点について、公務員の天下りの問題に詳しい神戸学院大学の中野雅至教授は
 「国家公務員の天下りは法改正などの対策が取られ、この10年ほど、相当厳しい目が注がれてきた。
 そうした中、大学に対する予算や権限を持つ文部科学省の人事課が組織的に関与していたとされる今回のケースは、最近ではめずらしく露骨な『典型的な天下り』と見られ、非常に驚いた
と話しているという。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170118/k10010844321000.html

 他の省庁の例で言えば一般的にいえば、財務省の幹部が金融機関に再就職したり、国土交通省の幹部が道路や空港の会社に転じたりすることは、よく知られていることである。

 ただこれらの財務省や国交省のようなケースが「天下りあっせん」として問題になっていないのは、組織的に関与をしても表沙汰にならないようにしている可能性もあるが、それ以上に、わざわざ官庁が組織的な関与(あっせん)をしなくても天下りが出来るような、暗黙の仕組みのようなものが昔からしっかりできあがっているからではないだろうか

 悪い言い方をすれば、財務省や国交省のような場合は、わざわざ組織的・個別的に天下りをあっせんしなくても、あっさり再就職先を民間企業や団体が用意してくれるほどまで、民間に対する影響力が強いということなのだとも考えられるのである。

 勝手な想像だが、文部科学省は、財務省や国交省に比べると、民間企業や民間団体に対するつながりが若干弱く、そのぶん、表沙汰になるほど組織的に露骨な関与をしなければ天下り先がなかなか確保できないということだったのではないか

「ポスト真実」のかわりに「ニワカ真実」にしたらどうか?

 世間の多くのブロガーと同じように、私も、このブログへのアクセス状況を時々チェックしており、まああまり人が来ないのだろうなとは思っているが、最近、昨年12月に書いた「『ポスト真実』という言葉をわざわざ使う意味あるの?」というエントリのPV数が異様に上昇しており、非常に驚いている。

 特に世間に注目されることを書いたわけでもないので、心当たりがあるとすれば、googleなどで「ポスト真実」(post-truth)という単語が検索されることが多く、その中でたまたまこのブログのエントリも見つけて、ついでに立ち寄る人も増えたということかも知れない。

 既に書いたとおり、私の意見としては、政治で真実を軽視したりデマを流したり、怪しい情報に大衆が踊らされたりする現象は、昔からもともと存在していたことであり、特に目新しいわけではないので、この「ポスト真実」などという言葉をわざわざ使う必要はないのではないかということである。

 とはいうものの、インターネット、特にSNSの発達によって、デマや怪情報の拡散が従来に比べてはるかに簡単で大規模になったということは言えるだろう。

 その意味で、「従来よりもデマ等の発生・拡散がはるかに激しくなった」という点に着目して、何かしら新しい用語を使いたいというのであれば、それは確かに理解できないわけではない。

 しかし「ポスト真実」という用語では、そのニュアンスがうまく伝わるようには思えない。
(「ポスト」という接頭語を付けると、「ポストモダン」「ポスト構造主義」のように何か高級なイメージの漂う、ある種の研究者がいじくり回すための概念のような味わいがあるが、そういう閉鎖された世界だけの用語で終わってしまうのではつまらない。)

 そこで一案だが、「ポスト真実」のかわりに「ニワカ真実」という言い方にしてみたらどうだろうか。

 「ニワカ」は「ポスト」に対応する言葉ではないので、post-truthの忠実な訳語とはいえないが、“急に作り上げたニセモノ”というニュアンスはこれで伝わるのではないだろうか。

 (たとえばインターネット上の言い回しとして、何かの番組や連載漫画や芸能人について掲示板等で論じているところに、最近知ったばかりの人が参入してきて的外れなことを言うと、『おまえ、ニワカか?』などと侮蔑的に言われることがある。
  このように『ニワカ』とは『急に作り上げられたニセモノ』という意味合いがあるので、『ニワカ真実』といえば、『急にSNS等で作られてばらまかれた、真実ではない偽の情報』という雰囲気を出すことができると思う。)

 とはいっても、ここで私がこんなことを書いたところで「ニワカ真実」という言葉が新たに流行することはないだろうが・・・。

2019年元日から新しい元号になる?

天皇の譲位(生前退位)に関する特例法の議論の中で、政府は、2019年元日に今上天皇から皇太子への譲位が行われるようにする方向で検討しているとのことで、各メディアも報道している。
国民生活への影響を小さくするため、新元号は事前に公表したうえで、2019年元日から開始する構想だという。

(たとえば次の記事参照:http://toyokeizai.net/articles/-/153151

 ちなみに元号は「元号法」という法律で定められており、この法律は2つの項目だけから成り立っている。

「1   元号は、政令で定める。
  2   元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。 」

 皇位が生前に継承されるようになっても、新たな元号が行われるのが皇位継承の時だけであるということに変わりはないから、譲位が行われるようになったとしても、元号法は改正する必要はない。

 この元号法は、「昭和54年6月12日法律第43号」とされている。つまり昭和54年(1979年)6月12日に公布・施行された法律であって、それより前には元号について定めた法律は存在しなかったのである。
 もう少し正確にいうと、戦前の旧皇室典範の第12条では「践祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」とあり、皇位継承に伴って新たな元号を定めることが明記されていたが、戦後の皇室典範ではこの規定がなくなったまま、元号についての法律上の規定が何もない状態が昭和54年まで続いていたということである。
 つまり戦後の現行憲法の時代になってからは、この昭和54年の元号法施行までは、法律上の規定が何もないまま、ただ単に慣習として「昭和」という元号が使われ続けていたというわけだ。

 さて、実際問題として今日では、実務上、元号表記を使用するというのは、各種システムの対応を考えてみてもかなり煩雑である。
このため、元号を廃止して西暦で統一すべきだという意見もそれなりに多いようである。

 実は、さきほど紹介した昭和54年の元号法制定の時も反対意見がそれなりにあり、国会では旧社会党や共産党が反対していた。
 反対理由は、煩雑だからというよりも、「皇位に結び付いた元号制度は天皇への崇拝につながる」など、主として思想的な理由だった。

 今日でもそういう理由で元号廃止論を唱える人がいないわけではないが、むしろ思想的な理由ではなく、「面倒だから」「実務で不便だから」というのが主流だろう。

(たとえば池田信夫の次のコラム。http://agora-web.jp/archives/2023767.html

 さて、どう考えるべきだろうか。

 合理性からいえば元号廃止論の方が筋が通っているが、せっかくこれまで続いてきたのだからという意見も捨てがたい。

 そこで、実務的な使用からは元号を切り離し、元号は一定の儀礼・文化的な面での使用だけに限定するようにしてはどうだろうか。

たとえば

(1)官公庁に提出する書類は、すべて西暦表記だけに統一する
(2)官公庁が発行する書類も、原則として西暦表記とするが、場合により元号を「(  )」等で併記するのは差し支えない
(3)皇室が関係する儀式・式典等に関連する文書等は、原則として元号表記とするが、場合により(2)と同様にすることも差し支えない

・・というふうにしてはどうか。
(このようにすれば、民間の一般的なビジネス上の使用は自然にほぼ西暦だけになっていくだろう。)

 元号は、たとえていえば特殊な儀式だけの時に着る礼服や和服のようなものとして位置づけ、普段の生活で着る服は西暦とするわけである。

『東洋経済』のイタリアの労働法改革の記事

安西法律事務所の倉重公太朗弁護士が『東洋経済』の記事で、イタリアの労働法改革について紹介している。第一東京弁護士会の労働法制委員会で、イタリアに現地調査に行ってきたのだそうである。

倉重弁護士によれば、

 「イタリアは、電車やバスがよくストライキをすることで知られるように、労働組合の活動が活発で欧州の中でも労働法が厳しい、労働者に有利な国でした。
 しかし、2016年の1月からイタリアでは労働法改革が行われました。少子高齢化や経済の低迷など、イタリアと日本の置かれた状況には共通点が多く、イタリアの労働法改革は日本にとっても有益な示唆に富んでいます。
 もともとイタリアの労働法は、日本と同様に厳しい解雇規制が存在しました
。」

…ということだったのだが、

昨年より、一部の差別的解雇を除き、原則として解雇は金銭で解決できるようになりました。」

ということである。

 イタリアの労働法の分野については、私は何も知らないので、それほど立入ったことは言えないのだが、気になって、下記リンク先の労働政策研修・研究機構のイタリア労働法改革についての報告を読んで調べてみた。

http://www.jil.go.jp/foreign/report/2015/pdf/0615_03-2-italy.pdf

 そのうえで若干のコメントをしてみる。

 まず上記の倉重弁護士の記事の書き方では、イタリアでは金銭さえ払えば自由に解雇できる制度になったかのように誤解する読者がいるかも知れない。しかし労働政策研修・研究機能の報告を見た限りでは、実際は、あくまでも解雇が違法とされた場合に、一定の場合について金銭解決を裁判所が命じるという制度である。

 また、要件に応じて、現職復帰による場合と、金銭解決(補償金)による場合と、それぞれの定めがある。別に金銭解決の方が「原則」(現職復帰が例外)とされているいうわけでもないように思える。

 なお倉重弁護士は、「イタリアと日本の状況には共通性がある」ということを強調しているのだが、記事を読んだ限りでは、共通点としては解雇が行いにくいこと(この表現も実は考えものだと思うのだが、とりあえずそれはおいておく)くらいではないだろうか。
 それ以外は、イタリアの状況は、政党等と結びついた大規模かつ強力な(企業別でない)労働組合が存在することとか、ストライキが頻繁に行われるとか、若年層の失業率が40%台だとか、日本とはかなり違う。

 そもそもイタリアはともかく、日本の労働市場は「硬直的」なのだろうか。それは一面の真実なのかも知れないが、物事の半分しか見ていないように思われる。もう少し正確にいうと、日本の雇用システムは、企業を超えた労働市場全体で見れば「硬直的」なのだろうが、企業の内部での取扱という意味では、イタリアよりはるかに柔軟と言うべきでないだろうか(残業、転勤などを考えてみれば良いだろう)。

 そして、日本の企業の内部での扱いの柔軟性と、日本企業が終身雇用を原則としていることとは表裏一体の関係にある。つまり「内側の柔軟さ」と「外側での硬直性」(?)とが密接に結びついているのであって、すべてにおいて日本の雇用システムが硬直的だというわけではないと思う。

「ポスト真実」などという言葉を使ってて恥ずかしくないの?

 以前も「『ポスト真実』という言葉をわざわざ使う意味あるの?」というエントリを書いたが、再び「ポスト真実」という言葉に関して考えたことを少しばかり書いておきたい。

 津田大介が『週刊朝日』で、「2016年を象徴する言葉といえば「ポスト真実」だが、それを地で行く恐ろしい事件が発生した。」として、ピザ店襲撃事件(「ピザゲート事件」)について紹介している
 既に報道されているので知っている人も多いと思うが、昨年12月、ワシントンD.C.郊外のとあるピザ店で、「クリントンやその関係者が関与して、児童虐待や人身売買が行われている」というデマがネットで拡散し、それを真に受けた男がその店を襲撃して発砲し逮捕されたという事件である。

 これについて津田は
ピザゲート騒動」は、2016年、そして「ポスト真実」を象徴する出来事と言えよう。ディストピアを描いた出来の悪いSF小説のような「現実」を我々は生きている。」
 と結んでいるのだが、そもそもこの事件について「ポスト真実」という言葉を敢えて使う必要はあるのだろうか

 事件そのものは恐ろしいものだが(店を襲って発砲したのだから、恐ろしいに決まっている)、デマに踊らされて騒動を起こす人間などというのは昔からいくらでもいたのであり、それがネットで情報が拡散される時代になったために、昔よりも拡散の速度や程度が激しくなったに過ぎない。それは政治の世界でも同じことである。

 これに対して、「ポスト真実の時代の特徴は、嘘を真実だと信じることではなく、真実のことなどどうでも良くなることだ。」という論者もいる。
たとえばこの記事の渡辺敦子による解説参照

 しかし、津田が挙げているピザゲート事件の犯人は、クリントンやピザ店が児童虐待に関与しているという噂があくまでも「真実」なのだと信じて襲撃したのである。
 「クリントンやピザ店が本当に児童虐待に関与しているかどうかはどうでもいい。とにかくピザ店を襲撃しよう」と欲して行動したわけではない。

 このように考えると、主に政治の分野とはいえ、大衆世論がデマに踊らされたり、ろくに事実も確認せずに騒ぐ現象のことを、何か新しい出来事のように「ポスト真実」と呼ぶ必要などないといえるだろう。「デマゴギーを利用した政治」とか「政治家がいい加減なことを言って有権者を惑わす」などという現象も、いつの時代にもあることであって、最近になってネットやSNSが道具として加わったにすぎない。

 何か新しいテーマの記事や論文を書きたがっているメディアや研究者が、「ポスト真実」という言葉に飛びつくのは理解できるが、他の人はそれにつきあう必要など感じないだろう

 ちなみに雑誌『世界』1月号で、三島憲一(大阪大学名誉教授)は、『ポスト真理の政治』というエッセイを書いているが、この中で
 「『ポスト真理』や『ポスト事実』という表現は、日本でよく使われる『反知性主義』と同じに、またしても大学内部での『恵まれた人々』が、外の頑迷な人々を馬鹿にする優越願望と結びつきかねない。」
 と語っている。
 (ただし三島教授は「ポスト真理(真実)」等という言葉の有用性を、留保つきながら一応は認めている感じで、「ごまかし、大言壮語、言い逃れ、幻想、しゃぼん玉などを総括した表現と思えば便利な符牒である。」とも述べている。)

 「ポスト真実」という言葉が、メディアとか研究者の世界で流行するという現象は、むしろ、メディアや研究者の世界と、外の大衆の世界との断絶を象徴しているように思える。
 外の世界から断絶していたメディアや研究者は、英国のEU離脱やトランプ当選の時になって意表をつかれて、大慌てして騒いだのだが。

ヘイトスピーチの判断基準とモンテスキューの『ペルシア人の手紙』

神奈川新聞の記事より
 ヘイトスピーチ解消法で許されないものとされる「不当な差別的言動」ついて法務省が昨年末にまとめた基本的な考え方の詳細が9日、分かった。
 どのような言動が該当するかは背景や文脈、趣旨を「総合的に考慮して判断」する必要があるとした上で典型例を挙げている。
 ヘイトデモ・街宣が多発している川崎市や東京都中央区、大阪市など全国13自治体に示した。

(中略)
 解消法が定義している差別的言動を①危害の告知など脅迫的言動②著しい侮辱③地域社会からの排除をあおる言動―の3類型に分け、典型例を示した。
(以下略)

 さてここで、このヘイトスピーチ問題とは関係ないように見えるかも知れないが、いったん別な話をしようと思う。モンテスキューという人の著作の話である。
 ご存じの人も多いと思うが、モンテスキューとは、18世紀前半のフランスで活躍した思想家である。三権分立を主張したとされる著書『法の精神』で有名だが、ここでは『法の精神』の話をしようというのではない。モンテスキューは他にもいろいろな著作をあらわしており、その中に『ペルシア人の手紙』(Lettres persanes)というのがある。

 これは、当時のフランスを訪問したペルシア人が、ヨーロッパの社会を観察して、いろいろ新鮮な発見をするという想定で書かれた書簡体小説で、社会風刺の著作として知られている。
 日本では岩波文庫で昔出ていたようだが、私は15年くらい前、フランス語の勉強のため、フランスのラルース社から出ているフランスの学生向けの版(全部ではなく一部を抜粋して編集し解説も加えてある)版で読んでみたことがある。

 その中で、フランスに滞在するペルシア人が、とあるカトリックの聖職者と対話するシーンがある。
 一体どんな仕事をしているのかとペルシア人が尋ねると、聖職者はこんなふうに答える(若干うろ覚えである)。

・・・人間の犯す罪には2種類ある。天国に行けなくなるような大罪と、神様を怒らせはするが地獄行きになるほどではない罪だ。この2つを区別することが重要である。
自分の仕事は、この2つの区別を教えてやることだ。
 ほとんどの人間は死後に天国に行きたいと考えている。しかし天国に行くにしても、最善の行いをして入場する必要はない。善すぎず悪すぎず、ちょうどぎりぎりのレベルで天国に行きたいと思う人間はたくさんいる。天国を買うならできるだけ安く買いたいと思うものだ。そういう人間のため、最低限これだけの罪を犯さなければ良く、後は自由にして良いという基準を教えてやるのが自分たちの役割なのだ
。・・・

 冒頭の記事の話題に戻すと、法務省が作成したヘイトスピーチ規制の判断基準も、喩えていえば、この「どの程度までだったら地獄行きにならずに済むか」を教えてやる聖職者のようなものだろう。
 (「どこまでのヘイトスピーチだったら許されるか」という意味ではない。「どこまでの表現だったらヘイトスピーチにあたらないか」ということである。)

 「ヘイトスピーチにはあたらないと思っていろいろな主張をしていたのに、ヘイトスピーチだとして規制された」ということになるのでは困るから、どこまでなら大丈夫なのかを明確にしておく必要があるということである。
 「天国に行けなくなるほどではないと思って自由きままに行動していたのに、地獄行きということになったのでは困る」というのと同じことだ。

 「どのような表現をヘイトスピーチとして規制すべきか」という議論は、「どのような表現ならヘイトスピーチにあたらないか」という議論と表裏一体なのである。

内閣総理大臣は「日本民族」の族長ではない件

 ここ数日で急にアクセス数というかPV数が激増したので驚いた。特別普段と変わったことをした覚えはないのだが、心当たりとしては、『ざわざわ森のがんこちゃん エピソード0』を取り上げたことくらいだろうか。

 さて今回も、例の朝日新聞の特集『我々はどこから来て、どこへ向かうのか』からまず話を始める。この特集の1月3日の記事は、「日本人って何だろう」と題するもので

 「様々なルーツを持つ日本人の活躍が、珍しくなくなった。「同質」を自分たちの特徴と考えてきた日本人。その自画像は、変わっていくのだろうか。」

という文章から始まるものだった。

 見てのとおり、この朝日の記事は「様々なルーツを持つ日本人」という言葉で始まっていて、外国から帰化した人物や外国人を親に持つ人物を取り上げているが、ここでいう「日本人」とは、いうまでもなく「日本国民」という意味である。

 一方NHKは、2016年4月に『サイエンスZERO』で、『日本人のルーツ発見!“核DNA解析”が解き明かす縄文人』という放送をしている。また、さらにさかのぼって2001年にも、『日本人 はるかな旅』という特集番組を放送しているが、ここでも「日本人のルーツ」という表現を使っている。
(私は後者の番組しか見ていないのだが、縄文人が遺伝的にシベリアのブリヤート人と近いといっていた。)

 こちらのNHKの番組でいう「日本人」という言葉は、朝日新聞の記事とは意味が違っている。
 まず「日本国民」という意味ではないことは明らかである。「日本国民」とは、法的に日本国籍を有する者という意味であって、その遺伝子がどこに由来するかとはまったく関係がない。「法的な日本国民のルーツはシベリアで…」などという記述をするのはおかしな話である。

 それでは「日本民族」という意味なのかといえば、それもしっくりこない。
 そもそも「民族」の概念自体がかなりあやふやであり、法律上の定めがあるわけでもないし、学問上も明確に定義されているわけでもない。最近は学問的な文脈では「民族」という概念を使用するのを避ける動きも有力となっていると聞く。
 それでもあえて「民族」という概念を考えてみると、一応は言語とか文化や伝統(これもかなり曖昧だが)の共通性がある集団を想定している言葉ではあるだろう。
 しかしこの意味での「日本民族」のルーツが遺伝子だかDNAの研究で明らかになったのかというと、それもおかしな話である。言語や伝統文化は、遺伝子やDNAによって伝わるものではないし、縄文時代の遺伝子の由来するどこかの地域の古代の人間が、日本の言語や伝統文化の祖になる要素を持っていたかどうかなどわからないのである。

 こう考えてみると、NHKは「日本人のルーツ」という表現を、かなりいい加減に使っていると言わざるを得ないのではないか。本来であれば、そのままずばり「縄文人のルーツ」と呼ぶか、または「日本列島住民のルーツ」とでもいうのが妥当だったと思う。

 なお現在でも「日本人の遺伝子には○○の性質があるが、韓国人の遺伝子にはそれがない」という類の主張をする人がときおり見受けられるが、均一な遺伝子を持つ人間の集団としての「日本人」「韓国人」というグループが存在するわけではない。「日本国民には○○の性質の遺伝子を持つ人が相当割合いるが…」という程度の言い方にとどめるべきだろう。

 日本国は、何かの均一な遺伝子を持つ人間の集団の国家ではないし、「日本民族」の国家として定められているわけでもない。日本国は「日本国民」の国家であって、それ以上でもそれ以下でもない

 どこかで聞いた表現を借りれば、内閣総理大臣は、「日本国民」の選挙で選ばれた国会議員の中から任命される行政府の長であって、「日本民族」の族長ではない

 (★付言すると、上記の朝日新聞の記事は、「移民に反対するのは単一民族の幻想を持つ人間だ」といわんばかりの論調である。しかしながら移民に賛成するか否かと、自国を単一民族と考えるかどうかとは、一応別の次元の問題であって、ここにも論理のすり替えがある。“単一民族”意識を持つ人の方が移民に反対する割合は高いのかも知れないが、その意識を持たない人が移民にすべて賛成しているというわけでもないだろう。)

『ざわざわ森のがんこちゃん エピソード0』になぜ道徳教育のテイストが乏しいのか?

昨日のエントリで少しだけ補足。

 『ざわざわ森のがんこちゃん エピソード0』を見て違和感というか驚きを若干感じたのだが、それは、人類滅亡の怖さが描かれているからというわけではない。
 昨日も触れた通り、『がんこちゃん』は、子どもの道徳教育用の番組ということになっている。
 公式サイトを見てみると、普段のエピソードの内容を道徳教育に活用することを前提として、様々な教師向けの解説や、副次的なコンテンツ・資料が提供されているのがわかるだろう。
 この番組を学校で教師が子どもに見せて、「善悪の判断」とか「正直・誠実」とかの様々な道徳的なテーマについて考えさせるようになっているわけである。

http://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?das_id=D0005130185_00000

 だから、今回の年末スペシャル『エピソード0』で人類滅亡を描くにしても、「人間たちは廃棄物を捨てて環境を汚したので滅びました」とか「戦争で文明が崩壊しました」というふうな説明があって、「このようなことにならないように地球の環境や平和を守りましょう」という類いの教訓を視聴者(子ども)に示すような形に持っていくのだろうと私は予想していたのだが、その予想が裏切られたので、少々驚いたわけである。

 世界が砂漠になってしまった理由についても、なぜ人間が砂になって死んでしまうのかということについても、何の合理的な説明もない。(ネットでは深読みしていろいろな説が取りざたされているが、ここでは省略する。)

 せっかく「人類滅亡」というシビアなエピソードを描くのだから、それこそ道徳教育としてのテーマ性をいくらでも盛り込めそうなのに、なぜ道徳的な観点がほとんどない単なる終末SFのような描き方になってしまったのだろうか。

 調べて見ると、もともとの『がんこちゃん』は、末吉暁子という児童文学者が原作と脚本を担当していたのだが、2015年に押川理佐という人に交代し、末吉暁子は2016年5月に亡くなったということである。
 さらに今回の『エピソード0』の脚本はまた別で、赤尾でこという人だった。
この名前にはどこか見覚えがあったので確認して見ると、アニメの脚本を多くてがけている人で、アニメソング等の歌手でもあるという(歌手・三重野瞳の別名が「赤尾でこ」ということらしい)。

 このような事情があって、道徳教育の色彩のない、ディストピアを扱うSFドラマのような『エピソード0』が作られたということなのかも知れない。

(★追加)
 赤尾でこが脚本を書いたアニメ作品はいろいろあるようだが、今回の件との関連で、興味深いものを見つけた。
 『フレッシュプリキュア!』第47話を赤尾でこが担当しているのだが、そこでは、コンピュータに支配されたパラレルワールドの管理社会で、無表情・無気力な少女が、ドーナツを食べて笑顔になる・・という場面がある。
 実はこれに似た場面が今回の『がんこちゃん エピソード0』にもあって、感情を抑えている少女にがんこちゃんが“サボテンの天ぷら”を食べさせると、その少女は楽しげな感情を見せるのである。
 つまり『フレッシュプリキュア!』第47話で使った場面が、今回の作品にも反映されたということなのかも知れない。

ざわざわ森のがんこちゃん エピソード0

12月31日、Eテレ(NHK教育テレビ)で『ざわざわ森のがんこちゃん エピソード0』という番組をやっていた。

『ざわざわ森のがんこちゃん』というのは、恐竜の女の子(がんこちゃん)を主人公とした人形劇番組で、がんこちゃん以外にもいろいろな動物キャラが登場する。何回かの放送をこれまで見てきたが、話の内容は基本的に、道徳的な教訓を子どもに感じさせるようなエピソードである。今回は放送20周年スペシャルということであった。

これまでもいくつかのエピソードを子どもと一緒に見たことがあったが、物語の基本設定としては、「人類滅亡後の世界」ということになっている(私が見た回数は限られているので、放送の中でそのことが説明されるのを見たことはないが、インターネットでいろいろ調べてみて知っていた)。

今回の「エピソード0」は、そのタイトルで予想された通り、がんこちゃんが過去の世界にタイプスリップして、人間に出会うというものであった。

(以下、ネタバレ注意)

がんこちゃんがタイプスリップした過去の世界では、地球はほぼ全体が砂漠と化しており、人類のほとんどは死に絶えていて、ある子どもの兄妹とその父親しか残っておらず、彼らはロボットに世話をしてもらって、孤独な生活を送っている。母親はどこかに行ってしまったとだけ説明される。
父は水を探しに出かけて、オアシスと周辺の小さな森林(後の時代にがんこちゃんたちの住む森となるらしい)を見つけるが、力尽きて死ぬ。
家で父を待ち続けている兄妹は、未来からやってきたがんこちゃんと仲良くなって交流するのだが、がんこちゃんと妹が出かけている間に、兄は身体が砂と化して死んでしまう(がんこちゃんと妹が家に戻ってきたときに、兄の姿はなく、砂だけが残っている。兄が砂になって死んだことは視聴者には明らかなのだが、2人はそのことを認識できず、どこかに行ってしまったとしか思わない)。
詳しい理由は説明されないが、他の人類も砂になって死滅してしまったわけだ(ちなみに兄妹の母も同じ運命をたどったことが視聴者にはわかるようになっている。)。
そして人類最後の1人となった妹に向かって、がんこちゃんは、何も知らないまま無邪気に再会を約して、未来(物語中の現在)に戻っていく。

このように物語の内容は非常に後味が悪いものであり、番組を見てショックを受けた人が大勢いたようで、twitterやブログを検索してみると、その感想をいろいろと読むことができる。特にこの番組の物語世界の設定が人類滅亡後だという予備知識すらない人が見れば、相当驚いただろうことは想像できる。

私はというと、まあ青少年時代(70年代ないし80年代)に、核戦争や環境汚染で人類が滅亡するとか、わずかに生存した人間が悲惨な状況に陥るとかいう類のペシミスティックなSF小説や映像作品や漫画にさんざん触れてきた世代だし、そもそも人類滅亡後という『がんこちゃん』の基本設定はもともと知っていたので、それほどショックは受けなかった。

ただ、もともと私は、「エピソード0」と銘打つからには、この作品世界の基本設定になっている人類滅亡の理由や、がんこちゃん達のような文明を持つ動物キャラが出現した経緯などの事情を、もっと具体的かつ道徳物語的に説明してくれるのかと思っていた。
 たとえば、「身勝手な人類が地球を汚したから滅びた」とか「人間は命をもてあそんで勝手に生き物を作りだした」とかいう叙述があるのかと考えていたのである。
 ところが実際は、肝心な事情を曖昧にして(なぜ身体が砂になるのかについても何の説明もなく、視聴者が想像するしかない)最後の人類の悲哀に力点を置いたような展開で、この点がちょっと予想外だった。

最後に、NHKが公式サイトで『がんこちゃん』について紹介している文章を見てみよう。

“「ざわざわ森のがんこちゃん」は幼稚園、保育所の園児から、小学校低学年の児童が楽しんで道徳を学べる番組です。
 あいさつや友達づきあいなど、低学年の児童に大切な道徳を、人形劇形式でわかりやすくお伝えしています。

 1996年に放送が始まり、多くの小学校で道徳の授業教材として視聴され続けています。”

台湾と韓国の「反日」「親日」

第二次大戦終結まで日本が領土として統治していたことがあるという点で、台湾と韓国は共通点があるが、台湾は「親日」で韓国は「反日」だとよく言われる。
実際問題としてどうしてそのような違いが生じたのだろうか。

私は実際に訪れたことがあるのは台湾だけで、それも数日間であり、韓国については行った経験がなくてまったく机上の知識しかないのだが、その範囲の知識でいえば、おおむね次のようなことではないかと思う。

まず台湾は、日清戦争後、1895年の下関条約によって日本の統治下に入ることとなったのだが、それまでどのような状態だったかというと、清国(中国)の領土として「台湾府」「台湾省」などの行政機関は設置されていたとはいえ、台湾住民を清国政府がきめ細かく管理・統治していたわけではなかったようである。
また、民族というかエスニシティという面でも、台湾住民は、様々な原住民もいれば、福建省から移住してきた者の子孫もいるという状態であった。
このような状況で、日本の統治下に入った当時、台湾住民には「自分は清国の国民である」という意識はほとんど無かったのではないかと思われる。

そのような中で日本は学校制度を設けて教育をしていったので、台湾住民が最初に「国民」「国家に帰属する者」という意識を受け入れたのは、日本統治の下だったということになる。

戦後、日本が撤退した後、中国大陸の内戦を経て国民党が台湾に移って新たな統治者となったのだが、この時に大陸から移ってきた者は当然「中国人」(ただし国民党およびその支持者)という意識を持っていたのに対して、もともとの台湾住民は、つい最近までは「日本国民」の意識を持っていたわけで、ここに台湾人のアイデンティティの複雑さがあり、単純化していえば、これが「外省人」と「本省人」の対立ということにもつながるのだろう。

一方、韓国は、1910年の併合前に、おそらく既に相当程度の「国民」意識が形成されていたといえるだろう。1392年の朝鮮王朝成立以来、朝鮮王国(後の大韓帝国)は、朝鮮半島全土を統治しており、台湾とは比べ物にならないほど組織的な統治が行われていたのである。

既に国民意識が形成されていた韓国を併合したケースと、国民意識そのものが未形成でいわばバラバラの状態だった台湾を併合したケースとでは、統治者である日本に対する視点は、まったく違ってくるのも当然だろう。

大企業の手厚い福利厚生制度は世間の大半の人には縁がない件

読売新聞の記事によれば、トヨタ自動車は、発熱など急に病気になった子供を一時的に預かる、いわゆる「病児保育」を、従業員を対象に2018年4月から始める方針である。この会社の子育て支援の一環で、人材確保につなげるという。

病児保育は、子どもを育てながら働いている人(ほとんどは「母親」だろう)によっては本当に必要なものであり、これを事業として行っているNPO法人フローレンス(代表・駒崎弘樹)などは割と知られている。

トヨタが自前で病児保育のサービスを行うのはもちろん結構なことである。ただ、この読売の記事のように、「○○社は従業員のために保育所を開設した」とか「××社は従業員の健康のための△△制度を導入した」という類の、大企業の福利厚生を単に紹介しているだけの報道を見るたびに、一体何のために報道しているのかといつも考えてしまう。

トヨタが病児保育を導入したなら、日産もできないことはないように思われる。本田技研その他の同業他社もできるだろうか。しかしトヨタの下請やその他の中小企業はどうだろうか。

大企業の福利厚生制度は、大企業の従業員(それもほとんどの場合は正社員)にしか恩恵は及ばないものであって、その報道を見る世間の圧倒的多数の人間にとってはまったく縁がないものである。
特に病児保育をもっとも必要としているのは、低所得で生活が不安定な中小企業労働者とか非正規労働者の層だろう。トヨタの正社員の身分のあるシングルマザー(シングルファーザーでもよいが)であれば、仮に病児保育ができず、子どもが病気で会社を休む事態になっても、直ちに収入が激減したり職を失うことにはならないだろう。そうではない立場の人たちこそ病児保育が必要なのである。

せっかく報道するのなら、最後に「このような制度を受けられない中小企業の従業員などは、病児保育の問題に悩む人が多く、大企業の正社員でなくても誰もが利用できる施設・制度の充実が望まれている。」くらいの一言は付け加えたらどうなのだろうか。
そういう視点がないままに、ただ単に大企業の手厚い福利厚生制度を報道するだけの記事は、世間の圧倒的多数の人間にとっては、絶望を呼び起こすだけである。

朝日新聞の1月1日紙面『試される民主主義』

 1月1日付の朝日新聞の1面で『我々はどこから来てどこへ向かうのか』という連載が始まった。この表題はゴーギャンの有名な絵の題名からとったもので、この連載記事自身がそのことを説明している。
 特に必要もないのに過去の文学とか美術の作品に結びつけて気取るところがいかにも朝日新聞らしいというか、もう染みついた癖のようなものかも知れない。

 連載1日目の今回のサブタイトルは『試される民主主義』というもので、このサブタイトルを見ただけで、トランプ当選や英国のEU離脱に向かう民意の“暴走”(とされるもの)を取り上げる内容だろうということがすぐに推測できてしまう。

 記事の全体的な論調は、英国のEU離脱やトランプ当選のように、民主主義が憎悪や敵対感情によって社会の亀裂を煽るように思える現象が多発しているが、やはり民主主義に代わるものはないとして、
多数決がどれほど不可解な答えを出そうとも、この道具しか私たちの手には残されていない。
 
50年後も100年後も、言葉を通じて、お互いを理解し合う努力を続けるしかない。」
というふうに結んでいる。

 最後の「この道具(民主主義)しか私たちの手には残されていない」という部分は、異論のある人はほとんどいないだろう。民主主義以外の別な政体、たとえば少数独裁とか哲人政治のようなものを樹立するべきだという人はまずいないわけで、その意味で、間違ってはいないが極めて当たり前すぎて、新聞の紙面2ページ近くをえんえんと費やしてそれしか言うことがないのかと言いたくなる。

 それよりも気になるのは、この筆者は、トランプ当選も英国のEU離脱も、「不可解」なものでしかないという立場に立っているわけで、その立場から一歩も踏み出そうとはしていないことである。賛否はともかくとして、大衆が現状についてどのような不満を感じて、トランプを当選させたり英国のEU離脱を支持したりしたのかについては、「不可解」どころか、十分「認識」「了解」「理解」が可能なはずである。
 (たとえば、「今すぐ核戦争を始めるべきだ」とか「宇宙人と交流を行おう」などと主張する候補が当選したなら、まさに「不可解」という表現を使うべきところだろう。しかしトランプ当選やEU離脱論は、そういう意味で「不可解」なわけではない。)
 せっかくの特集記事を書くからには、その不満の分析と対策をまず論じなければならないのではないだろうか。

 記事の中で非常に皮肉だと思ったのは、5年前に反格差を打ち出した「オキュパイ・ウォール街運動」の流れをくむ市民グループの関係者が、「トランプは大衆扇動で票を集めた。私たちを代表しているとは思えない。」と述べているところである。「オキュパイ・ウォール街」、つまり「ウォール街を占拠せよ」というのは、まさに大衆扇動でなくて何なのだろうか。

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