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2017年2月

スーツが嫌なら、作業服を着ればいいじゃない(スーツ恐怖症について)

 2月22日のキャリコネニュースで、はてな匿名ダイアリーの“スーツが怖い”という人の書き込みが紹介されていた。

 はてな匿名ダイアリーに書き込んだ人は、

>スーツを着た大勢の人間がいる空間を見たり、その集団に近づくと
>本当に泣きそうになる。
>怖くて、気持ち悪い。
>その空間にいることもままならない。
>
>数週間後に自分はその現場にいなければいけないらしい。
>卒業式なら欠席すりゃいいんだけど、そういうわけにもいかない。
>しかも、結構真面目な場。

などと述べている。
(自分自身の説明によれば、この人は工業系の学生だそうである。なお正確にいうと、この人は、スーツそれ自体が嫌というよりも、「真面目にならなきゃいけない雰囲気」が苦手という感覚のようだ。)

 匿名なので、この人自身のことはよくわからないのだが、一般的にいって、スーツが嫌だとか拒否反応を覚えるとかいう人は、メーカーの工場での作業労働(いわゆる技能職やブルーカラー)の職に就き、作業服を着用するのが良いのではないだろうか。

 工場への通勤時は基本的に自由であって普段着もOKであり、工場の更衣室で作業服に着替えるだけである。
 会社によっては、普段着の上にそのまま白い防塵服のようなものを着れば済む場合もあるだろう。
 (私自身、会社員時代は工場勤務経験が長かった。担当する仕事は、基本的に工場の総務や人事系統のスタッフだったが、やはり作業服で仕事をしていた。なおそれとは別に、製造現場で3交代勤務を半年ほどやったこともある。)

 また、工場というものは一般に、東京や大阪のような大都市圏の中心部には無いので、丸の内や新宿や梅田のようなところで大勢のスーツ姿に囲まれて通勤するという事態を避けられる可能性が高い。
 特に大都市圏ではない地方の工場に勤務できれば、職住近接で、通勤ラッシュそのものを経験せずに済むだろう。(その代わり自転車やバイクや車通勤になるかも知れない。)

 メーカー以外でいえば、たとえば建設現場の作業も、作業服である。

 どうですか?スーツ恐怖症の方は、作業服を使う仕事に就くことを考えてみては・・・。

アンケート実施!あなたはいくつ「YES」がありますか?(世代毎の政治的体験の傾向)

 「日本は保守化している」とか「若者は右傾化している」という主張がメディアに出てくることがある。
 この主張が正しいかどうかは置いておいて、一般的にいって、政治的な考え方の傾向には、個人間の差だけでなく世代ごとの差もあるだろう。
 「考え方」の違いだけでなく「感じ方」の違いというものもある。
 「考え方」の違いは、論理的に話し合えば、少なくとも何が違うのかについては理解できるのだが、「感じ方」の違いというのは、言葉に言い表されにくいので、なかなか自覚できず、表に出てこない事が多い。(たとえば「日の丸は美しくて日本の国旗にふさわしい」とか「国旗として違和感を感じる」とかいうのは、「感じ方」の問題である。)しかし「感じ方が違う」ということ自体が自覚できていないと、お互いに話をしても噛み合わないことが多いものである。

 このように世代ごとに「感じ方」「考え方」が違うのは、時代ごとの共通の体験が違うことが大きな要因だと思う。

 そこで、政治的な考え方・感じ方に影響を与えているのではないかと私が勝手に考えた時代の特徴のようなものをピックアップして、アンケート風の質問形式にしてみた。

 このブログを読む皆さんは、お暇だったら、以下の質問に対して自分なりに「YES/NO」で答えてみて欲しい。(もちろんその回答の結果をどこかにインプットとか送付してくれというのではない。)

 念のため申し上げておくと、これらの質問は、政治的な意見を尋ねるものではなく、政治的な意見に影響を与えていそうな過去の体験等の有無について尋ねるものである。

 仮に統計を取って世代毎の傾向を調べて見た場合、年上の世代ほど「YES」が多くなるだろう。若い世代が右傾化や保守化しているかどうかはともかくとして、そのような違いが、世代ごとの政治的な考え方の違いに対応しているのではないだろうか。

以下、質問項目:

1.共産圏(社会主義諸国)というものがあった時期を経験しているか?

2.下記のような主張をする文章を読んだ(または発言を聞いた)ことがあるか?

 ①「社会主義諸国は資本主義諸国より優れている」

 ②「発展途上国の人々は先進国に抑圧されている。これを解放しなければならない」

 ③「中国(中華人民共和国。以下同じ)の方が台湾よりも政治・経済面で優れている」

 ④「中国は、資本主義とは違う新しい経済・社会・文化を作り上げることができる国家だ」

 ⑤「北朝鮮の方が、韓国より優れた政治体制の国家だ」

3.以下の用語を何かの機会に見た(または聞いた)ことがあるか?

 「第三世界」「アメリカ帝国主義」「植民地主義」「自力更生」「造反有理」「民族自決」「金権政治」

4.中国と(旧)ソ連が激しく対立していて、中国が日本に対して友好的な態度を取っていた時期があったことを知っているか?

5.「自衛隊は存在すること自体がおかしい。廃止すべきだ」という意見を持つ人(自分自身でも可)が身近にいたことがあるか?

6.「保守」の反対語として、「革新」(注:「リベラル」ではない)という言葉を聞いたことがあるか?

7.「自民党政権は派閥のバランスで成り立っており、特に“田中派”の力が強い」と言われているのを聞いたことがあるか?

8.台湾がかつて国民党の一党独裁政権に統治されていた時期を知っているか?

9.韓国がかつて軍人出身の独裁政権に統治されていた時期を知っているか?

10.「天皇」という言葉を聞くと、すぐに、昭和天皇や第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)を連想するか?

11.日の丸が掲揚されたり君が代が歌われているのを見聞きすると、違和感を感じたり、第二次世界大戦を連想するか?

「ポスト真実」と「オルタナティヴファクト」と「フェイクニュース」のどれを使う?

 既に以下の各記事でも書いてきたが、このブログでは、メディアや研究者が「ポスト真実」という用語を使うことについては、どちらかといえば否定的な目で見ている。

「ポスト真実」という言葉をわざわざ使う意味あるの?

「ポスト真実」などという言葉を使ってて恥ずかしくないの?

「ポスト真実」のかわりに「ニワカ真実」にしたらどうか?

この考えは今でも変わらない。

 そもそも政治家が事実と異なることを意図的にしゃべりまくるようなケースについては、ただ単に「嘘」「デマ」と呼べば良いだけである。「ポスト真実」などという言葉を使うと、あまりネガティブなニュアンスが感じられない。それどころか、「嘘」や「デマ」とは別に、もっと何か高級な「ポスト真実」というものが存在するようなイメージすら出てしまう。

 ここで一例として、研究者の日比嘉高(名古屋大学准教授)は、昨年11月10日の時点のブログ記事では、「ポスト真実」(ポスト事実)という概念を積極的に持ち出し、「ポスト事実の時代」「ポスト事実の政治」などという表現を使っていたのだが、最近の政治状況について論じた2月12日の記事では、「ポスト真実」という言葉はおさらい的に少し触れるだけで、全体的にみるとほとんど「嘘」という言葉を中心に使っている。
 これも、「ポスト真実」などというと「嘘」よりは良いものであるかのように感じられてしまうのを避けようと考えたからかも知れない。

 これとは別に「オルタナティヴファクト」という概念も一部で使われるようになった。
 これは「もう一つの事実」「異なった事実」という感じだが、「本来の事実とは違う、でっち上げた事実」というニュアンスで使うこともでき、何だかよくわからない「ポスト真実」よりはマシだと思う。
 (手前味噌だが、以前私がこのブログで書いた「ニワカ真実」という言葉に近いような気がしないでもない。さらにいえば「エセ真実」というのが適切だろうか。)ただ「オルタナティヴファクト」は長ったらしいので、語呂が悪く、あまり定着しないと思う。

 一方、「フェイクニュース」という言葉も最近広がっているが、これは「嘘ニュース」「偽ニュース」ということで、意味が明確で語呂も良いので、それなりに日本で定着しそうな気がする。
 この言葉は、たとえばトランプのような人が報道機関に対して攻撃の意味で投げつけることもあるが、逆に、報道機関がネットや政治家の流す嘘に対してこの言葉を使って非難することもできる。

 「ポスト真実」は、カバーする範囲は広く、時代精神とか風潮のようなものにもかかわる概念だが、「フェイクニュース」はもっと狭い。
 ただいずれにしても、一部の研究者やジャーナリストの自己満足や飯の種でしかないような「ポスト真実」という曖昧な言葉よりは、「フェイクニュース」の方が100倍マシで、なかなか使い勝手が良い言葉であり、かなり定着するのではないかと思う。

小谷野敦『芥川賞の偏差値』

 小谷野敦『芥川賞の偏差値』(二見書房を著者ご自身からお送りいただいたので、紹介する。

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 第1回(1935年上半期)から第156回(2016年下半期)までの芥川賞受賞作の合計164作品を取り上げて、その作品についての著者としての評価を偏差値方式で表現し、コメントを付けている。

 著者から最も高い評価を受けているのが、村田沙耶香『コンビニ人間』(2016年上)、李良枝『由煕』(1988年下)、高橋揆一郎『伸予』(1978年上)の3作で偏差値72、最も低いのが楊逸『時が滲む朝』(2008年上)である。

 ここに挙げられた164作品のうち私が読んだことがあるのは、小島信夫『アメリカン・スクール』、庄野潤三『プールサイド小景』、多和田葉子『犬婿入り』、辻仁成『海峡の光』くらいである。あと、池澤夏樹『スティル・ライフ』も読んだような気がするが、今ひとつ記憶に自信がなく、いずれにしてもこれらの作品の内容はほとんど頭に残っていない。従って、本書での164作品の評価の内容については私はほとんど何も言えないのだが、ただ著者自身が「あとがき」で皮肉っぽく言っているように、芥川賞をとる秘訣は「退屈であること」「ただし、いかにもうまいという風に書いて、かつ退屈であること」のようなので、これらの作品を読んでもあまり記憶に残らないのも仕方ないのかも知れない。

 さて、上に挙げた私が読んだ作品の中で比較的印象に残っているのは、辻の『海峡の光』である。確か、学校のいじめられっ子が刑務所の刑務官になり、かつてのいじめっ子が服役者として収容されてくる・・・という話だったと思う。
 辻仁成については、有名なので名前はよく知っているが、作品で私が読んだのは、この『海峡の光』と『クラウディ』だけである。『クラウディ』は、それなりに面白い青春小説(?)だと思っていたが、その後、『海峡の光』を読んで、同じ作家の手によるものだとは思えず、しかも一人称の割に文章が堅苦しく不自然だと思って不思議に感じたものである。
 本書の著者によれば「芥川賞狙いで書いたからかぎくしゃくしている」ということで、賞の審査を意図してわざわざ堅苦しい文体にしたということだろうか。

 なお本書で挙げた164作のうち、偏差値50(つまり平均レベル)を超えていると著者が考える作品は41作しかなく、なかなかシビアである。
それでは、どんな作品なら著者は良いと考えているのか?という疑問を読む者は感じるところだろうが、その点は著者は巻末の「では名作はどこに」というコーナーで答えている。ここでは谷崎潤一郎や川端康成から、柳美里や西村賢太まで、芥川賞とは別な41作品が列挙されている。
 (柳美里や西村賢太は、芥川賞受賞作はどちらも偏差値44とされているが、それとは別にすぐれた作品を書いている、ということである。実際、芥川賞は本来新人賞なのだから、何もおかしなことではないだろう。著者も『芥川賞受賞作などというのは別に名作群ではない』と述べている。)

上野千鶴子の「平等に貧しくなろう」論について:感情的反発は無意味である

 東京新聞が建国記念日にちなんで、「この国のかたち」のあり方について3人の論者にインタビューをしたが、そのうち上野千鶴子の発言「平等に貧しくなろう」が反響を呼んでいるようだ。

 上野千鶴子の論旨は次のとおりである:

 (1)出生による人口の自然増は期待できない

 (2)移民受入による人口の社会増も、日本では無理だろう

 (3)人口減少による衰退、貧困化は避けられない

 (4)どうせ衰退・貧困化するならば、(放置するのではなく)再分配により平等に貧しくなる道を探るべきである

このインタビューはネットなどで拡散されて大きな反響を呼んだようである。
たとえば:

・上野千鶴子の“平等に貧困”に呆れ(いいんちょ)
http://blogos.com/article/209925/

・「平等に貧しくなろう」は不可能。船は下から沈むし、人は希望があるから生きていける (おときた駿・都議会議員)
http://blogos.com/article/209949/

 私があちこちの反応を見た限りでは、「上野千鶴子は恵まれた世代・地位の人物であり、自分が経済的にも安定した立場でありながら、後の世代を見捨てるような発言をするのは無責任でけしからん」という類いの感情的な反応か、あるいは「希望を失わせるようなことを言うのはおかしい」という精神論的な反応が目立つ。

 ただしここで考えなければいけないのは、日本が将来どうなるか(どうすべきか)であって、上野千鶴子の人物像や態度をどう評価するかではない。
 つまり重要なのは、日本が現実に衰退するかどうか、将来どうすべきかであって、上野千鶴子という一学者が恵まれた世代なのかどうかとか、身勝手で無責任なのかどうかではないのである。

 日本の将来像において上野千鶴子が示している前提条件は、上記のとおり、(1)出生率は上がらない、(2)移民も無理、という2点であって、そこから(3)の衰退不可避という結論が導き出されている。

 そのうえで、どうせ衰退するなら、再分配によって平等に痛みを分かち合い貧しくなろう、ということである。

 そこで、上野千鶴子の主張が気にいらないというのであれば、この問題提起に答える形で反論すべきであって、

 (1)出生率を上げる方法がある

 (2)移民を受け入れるべきである

 (3)出生率向上や移民受入がなくても、人口を維持増加させる手段がある(例:クローン人間)

 (3)'人口が減少しても、経済発展を維持させる手段がある(例:AIやロボットによる労働力代替の推進)

等々の形の主張を組み立てなければならない。

 反論するならこのように論旨に沿った形でやるべきであって、いたずらに感情的・短絡的に上野千鶴子に反論したところで何の意味もないのである。

 特に「上野千鶴子は、自分自身では恵まれている立場なのに、なんでこんなことを言うのか」という人は、個人的なやっかみでしかない。個人的やっかみがダメだというのではないが、問題の中身に踏み込んだ議論にはつながらない。
 たとえば氷河期世代の論者がこのインタビューとまったく同じ「平等に貧しくなろう」論を語ったとしたら、「さすが苦労した氷河期世代だ、よくわかってる、支持すべきだ」ということになるのだろうか。そういう問題ではないだろう。

天皇の基本的人権と皇族の「ご結婚」問題

 天皇の生前退位(または譲位)についての議論にも関係するが、天皇(と皇族)に基本的人権があるのかどうかというのは、法学的にも一つの論点である。

 憲法学の世界では、「天皇には基本的人権はない」という学説と、「基本的人権はあるが制限を受けている」という学説の両方が存在する。

 ここでいう「基本的人権がない」という言葉の意味は、人として生きる価値がどうでもいいとかいう“不敬”な意味ではもちろんなく、憲法で定められている基本的人権の保障(たとえば表現の自由とか、職業選択の自由)が及ばない、ということである。

 「天皇に基本的人権はない」という説は、基本的人権とは、歴史的に、フランス革命などの時代に個人を絶対王権や封建領主などに対して守るために作られた概念であって、個人を国家に対して守る働きをするものだと考えている。そして国民には基本的人権が認められるようになり、その内容や対象範囲が拡大されていって、最後に「国民」に含まれないまま残ったのが、日本の場合でいえば「天皇」(と皇族)だと考える。天皇という地位は、いわば近代以前の身分制の中で最後に残った「飛び地」のようなものであって、その外側に基本的人権を保障された均質な国民がいる、というイメージである。
(憲法学者では、たとえば樋口陽一、長谷部恭男)

 これに対して「基本的人権はあるが制限されている」という説は、まず現時点で、国家の中に均質な個人が集合している状態をイメージする。すべての個人には、本来的には基本的人権が存在している。まずその状態から出発するのである。そのうえで、天皇・皇族という一部の人にだけは、特殊な事情から、その、もともと持っている基本的人権に特殊な「制限」を加えられている。これが天皇ということである。
(憲法学者では、たとえば芦部信義、戸波江二)

 つまり、「天皇に基本的人権はない」説は、歴史的な流れの中で物事を見て、基本的人権という概念がなかった時代の最後の名残が天皇とか皇族だと考える。ここでは、天皇や皇族は、そもそも「国民」には含まれない。
 これに対して、「天皇に基本的人権はあるが制限されている」説は、まずは国家を構成するすべての国民に基本的人権がある状態から出発して、そこから例外扱いを絞り込んでいくという思考プロセスをたどるわけである。ここでは、天皇や皇族は、「国民の中の例外」ということになる。

 以上の話は、現在の憲法の解釈や説明の仕方の違いであって、結論としてはそれほど違ってくるわけではない。ただし、これから天皇・皇族がどうあるべきかというのは、また別の問題である。

 これからの国のあり方として、できるだけ天皇と皇族を一般人の扱いに近づけるべきだと考えるか、それとも、まったく違う存在として扱い続けるべきだろうか。
 (前者の究極の形が、いわゆる「天皇制の廃止」論ということになるが、それはまた別な機会に触れる。)

 いわゆる保守の立場の論者には、天皇や皇族と一般人との断絶、隔絶を強調し、生活様式も含めて可能な限り一般人とは断絶したものであるべきだ、というニュアンスの人が多い。

 ここで一つ考えなければならないのは、皇室は血筋で保たれているから、結婚して子孫が生まれなければ成り立たないということである。結婚相手がなければ皇室は絶えてしまう。

 ところが一方、天皇や皇族が一般人とは違うということを強調すればするほど、天皇や皇族の結婚は、難しくなるといえるだろう。
 なぜなら、皇族以外の国民はすべて「一般人」なのであって、基本的人権や自由を享受している。皇族と結婚して、基本的人権を失う(または制限される)ことを選ぶ人間は、時代とともに減りこそすれ、増えることはないだろう。

 つまり、皇族の特別扱い(=基本的人権がないor制限される、等々)を強調すればするほど、結婚が難しくなるというアイロニーがあるのである。

 この問題は、現実には男性皇族と一般女性の結婚の場合にだけ起こる。なぜなら、女性皇族は(現在の皇室典範では)一般男性と結婚すれば、皇籍を離脱して、皇族ではない一般国民となるからである。

 戦前は現在とは状況が違っていた。天皇・皇族の他に、かつての公家や大名の子孫である華族という身分の集団がいて、一般国民とは違った法的地位や生活様式を保ち、皇族の結婚相手の女性を輩出していたからである。

 いま、華族はもはや存在しない。天皇・皇族以外はすべて、基本的人権が備わり、自由なライフスタイルの味を覚え、普通に社会生活をしている国民しかいないのである。

 よく「皇位継承は、男系に限るべきか、女系も認めるべきか」という議論が行われることがあるが、男系だろうと女系だろうと、結婚相手が見つからなければどうにもならないのである。そして今の日本の体制は、個人の意思に反して「嫁にやる」ということは、法的には不可能である。

 逆に、天皇・皇族の立場が、一般国民に近づけば近づくほど、結婚へのハードルは低くなるだろう。ただその方向で進めていくということは、いずれ憲法改正をして、天皇の地位を変えるしかなくなるだろう。それがどのような姿になると考えられるのか、それは改めて考えることとしたい。

「新しい働き方」って、別に新しくないんじゃないの?

 政府は「働き方改革」に取り組んでいるようだが、メディアでも、「新しい働き方」というものを構想する文章をよく見かけるようになった。

 いろいろな論者が新聞・雑誌・ネットなどの場で「未来の新しい働き方」「これからの仕事のあり方」等というテーマを取り上げているが、こういう議論は大体パターンが決まっていて、

(1)これからは、個人が企業と対等な立場で契約を結ぶようになる
  (★もともと「労働契約」は、個人と企業が対等な立場で契約を締結するものなのだが・・・)

(2)これからは、企業に個人が雇われて抱えられるのではなく、自由な独立した立場で働くようになる

(3)これからは、労働時間ではなく成果に応じた報酬を受け取る。成果がなければ何ももらえない場合もある

(4)これからは、特定の1つの企業のためだけに働くのではなく、自分で複数の企業を相手に働くことができるようになる

(5)これからは、働く時間を指定されるのではなく、働きたい時に働ける

・・・等々という要素を挙げて、これらの要素を備えた“新しい働き方”の時代が来て、働く人々は“輝いて”“生き生きと”仕事をするようになるだろう・・・というふうに話を持っていくのである。

しかし、別に「未来」まで待たなくても、今現在でも既にこういう働き方をしている人たちはいくらでも存在する

 たとえば:

 ・家で内職をして手芸品や衣料品を作る人
 ・建設現場で道具や材料を自分で調達して下請として作業する外注の親方
  ・テレビ番組やアニメ作品の制作のある部分を外注で請け負う関係者
 ・個人事業主扱いの宅配便の下請業者

などである。(法律用語でいえば、一般的には「請負契約」である。)

 これらの人々は、「自由で独立」であり、「成果がなければ報酬をもらえない」立場で、一つの会社に抱えられることなく複数の会社から仕事を回してもらって働いているのが通常である。

 たとえば家で内職をする人は、いちいち通勤する必要がなく、成果に応じたカネを受け取り、また最終的な納期さえ守れば毎日どの時間に仕事をしようとしまいと自由であり(作る製品の量が少なければ、単に収入が減るだけのことである)、さらに一つの企業に束縛されず複数の企業から仕事を受けても構わない。
 まさに「新しい働き方」としてもてはやされる仕事の代表ということになるだろう。

 しかし、内職で製品を作るとか、住宅工事で職人が下請をするなどというのは、昔からあった仕事のスタイルにすぎない。
 こういう仕事のあり方は昔から存在していたのに、今さら「これからの働き方」「新しい仕事のあり方」などと呼ぶのも、おかしな話である。

呪いのわら人形と脅迫罪

 朝日新聞の記事によれば、群馬県で、ゲームセンター経営者の女性の名前を書いた“呪いのわら人形”に釘を刺して、その女性が使っている駐車場に置いておいた男が、脅迫罪の疑いで逮捕されたという。

 法学を学んだ人なら知っていると思うが、刑法の教科書によく出てくる論点として、「わら人形に釘を刺して誰かを呪い殺そうとしたら(=“丑の刻参り”)殺人未遂になるか?」というのがある。
 もちろんわら人形で呪っても人を殺すことはできない(と現代の科学では考えられている)ので、結論としては殺人未遂にはならないのだが、この記事の事案では「殺人罪(の未遂)」ではなく、「脅迫罪」で逮捕されている。

 脅迫罪は、相手の生命、身体、自由、名誉または財産に対して害を加えるということを告知して脅した場合に成立する。

 この記事の事件は裁判にはまだ至っていないのだが、脅迫罪にあたると警察が判断した理由は、いうまでもなく呪いに危険なパワーがあるからではなく、呪いのわら人形に釘を刺して相手に見せつける行為は、今後(単なる呪いにとどまらず)現実に危害を加える意思があることを示したことにもなると考えられたからだろう。
 一般的にいって、釘の刺されたわら人形を見て恐怖を感じるとすれば、それは呪いのパワーが恐ろしいからではなく、本当に刺されたりするのではないかと思うからである。

 ただ実際には、脅迫といえるかどうかの線引きが微妙な事案は多いと思われる。
 たとえば「お前を殺してやる」といえば、実際に殺す意思はなかったとしても、相手に「殺されるのではないか」と思わせて脅す意思はあったことになるから、脅迫罪が成立しうる。
 しかし「お前は神の怒りに触れて落雷により死ぬだろう」と言ったとしても、神の怒りや落雷を自分でコントロールできるとは普通は考えられていないから、脅迫罪にはあたらないというのが、一般的な刑法の文献での説明である。
 ただし、脅迫する側の人間には神の怒りや落雷をコントロールできる能力がある、と相手側が信じている場合は、脅迫罪が成立するとされる。(たとえば、神通力があると称している宗教の教祖が、その信者を脅すような場合である。)

 なお脅迫罪は、さきほど述べたように、相手側に「告知」しなければ成立しない罪である。従って、相手に知らせることなく、こっそり丑の刻参りをしてわら人形に釘を刺しても、それだけでは脅迫罪は成立しない。相手の聞いてないところで「お前を殺してやる」と言ったところで脅迫罪には当然あたらないのと同じことである。

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