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2017年7月

学生の就職先として人気が高いのは「公務員」

 リスクモンスター株式会社が7月26日に発表した「大学1,2年生が就職したいと思う企業・業種ランキング」という調査の結果によれば、1位は「地方公務員」、2位が「国家公務員」だったという。

(なおキャリコネニュースの記事も参照。)

 今回発表されたものに限らず、この種の意識調査は、昔から似たようなものがいくつも出ていて、公務員が就職先として学生の人気が高いというのは、もうお馴染みの話になっていたと思う。(今手元に資料はないので正確なことはいえないが、公務員人気が低かったのは、バブル時代くらいではないだろうか。)
 そして若者が「将来は公務員になりたい」というと、年上の人間から「公務員になりたがるなんて、夢がない」という反応が返ってくるというのも、昔からある程度お約束のパターンになっており、今でもその名残がある。

 しかし「公務員=夢がない」とか「安定志向なんて夢がなさすぎる」などと考えるのは、少なくとも今時はいささか見当違いだろう。

 「夢」とは、「現実にはなかなか得られない、高い価値がある(と思われる)もの」だろう。そうだとすれば、「仕事(生活)の安定」こそは、まさに「夢」なのである。

 現実には仕事や生活は不安定だという意識が広がっており、だからこそ、なかなか手に入らない「仕事や生活の安定」が夢になっている。
 そんな「夢」を求めて、若者は公務員に憧れるのだ。

 もちろん、イメージの世界ではなく現実世界の公務員が「安定」しているのかどうかはまた別問題である。

「残業代ゼロ」・「脱時間給」・「成果型賃金」・・・どの名称がお好きですか?

秋の臨時国会に政府が提出を予定している労働基準法の改正案について、連合(の執行部)が、一定の修正を条件として容認の姿勢を見せていたが、傘下の産別労組などが強く反発し、容認を実質的に撤回することとなった。

ここでは細かく立ち入らないが、各新聞の見出しを比べて見ると、なかなか面白い。

(1)朝日新聞

「残業代ゼロ」容認、連合見送りへ 批判受け方針再転換

専門職で年収の高い人を労働時間規制から外す「高度プロフェッショナル制度(高プロ)」を条件付きで容認する方針転換をめぐって混乱していた連合の執行部が、高プロの政府案の修正に関する「政労使合意」を見送る方針を固めたことが、関係者への取材でわかった。(・・・)

(2)日経新聞

連合、「脱時間給」容認を撤回 政労使合意は見送り
 
連合は25日、労働基準法改正案に盛る「脱時間給」制度を巡る政府、経団連との修正案の政労使合意を見送る方針を固めた。連合執行部が現行案の修正を政府に要請したことに、傘下の産業別労働組合などが強く反発。組織をまとめきれないと判断し、撤回することになった。(・・・)

(3)産経新聞

「成果型賃金」容認を撤回へ 連合、政労使での合意見送り 労基法改正案

高収入の一部専門職を残業代支払いなどの労働時間規制から外し、成果に応じて賃金を決める「高度プロフェッショナル制度」を含む労働基準法改正案の修正をめぐり、連合が政労使での合意を見送る方針を固めたことが25日、関係者への取材で分かった。(・・・)

こうしてみると、朝日は「残業代ゼロ」、日経は「脱時間給」、産経は「成果型賃金」である。記事本文そのものはそれほど大きく違っているわけではないが、こういう見出しの書き方の違いはいろいろと考えさせられる。

朝日の「残業代ゼロ」というのは、明らかに非難というか否定的なニュアンスがこめられているが、実際に残業代(時間外割増賃金)は支給されなくなるのだから、間違いではない。

日経の「脱時間給」というのはやや微妙である。労働時間が長くなっても、それに応じた残業代が支給されなくなるという意味では、「脱時間給」というのも間違いではない。ただし、今でもいわゆる「月給制」(=遅刻や早退をしたり、所定労働時間より短く勤務しても、賃金が減額されない扱い)の労働者は、既に存在している。(ただしそういう「月給制」の労働者も、原則として残業代は支給しなければならないのが労働基準法の規定である。)こういう「月給制」の人は、今でもすでに(ある程度)「脱時間給」といえるのではないだろうか。

これらに対して、産経の「成果型賃金」というのは、ミスリードを招くものだろう。成果に応じようと応じまいと、とにかく一定の高度に専門的な職務の労働者には残業代を支給しない、というのが労働基準法の改正案なのである。
使用者には、残業代を支給する義務がなくなるだけであって、成果に応じた賃金を支給する義務が発生するわけではない。

逆にいえば、今でも、成果に応じた賃金を支給できないわけではない。成果の上がっている者の賃金を高く、上がっていない者の賃金を低く設定するような労働契約を締結するのも自由である。ただしそれとは別に、法定労働時間を超えたら、原則として残業代を支給しなければならないというだけのことである。

なお、過去の記事で何度も書いているが、描き上げた絵の枚数に応じてお金をもらうアニメーターとか、ヤクルトの販売数に応じて報酬をもらうヤクルトレディとか、売上に応じてカネをもらうタクシー運転手などは、立派な「成果に応じた報酬」である。(必ずしも「労働契約」ではないが)

以上のとおり、「残業代ゼロ」は間違いではないが非難のニュアンスに傾きすぎ、「脱時間給」はややズレており、「成果型賃金」は、違う次元の問題を混同している。もう少し別な言い方はないだろうか。

個人的には、単純に「固定賃金制度」とか「定額賃金制度」で良いのではないかと思う。

厚生年金の事業主負担分も本人が負担しているのか?(城繁幸氏の説について)

 「みんなの介護」という介護系メディアのサイトで、人事コンサルタントの城繁幸は最近、次のように言っている。

厚生年金に関して知っておくべき話がひとつあります。厚生年金は現在、約19%で、そのうち半分は会社が負担してくれるということになっています。しかし会社側から見れば、事業主負担も実質的には本人負担だということです。”

 城の主張をさらに読んでみると、具体的にはこういうことである。

 まずある企業のAという労働者が、額面で50万円の給料を支給されているとする。厚生年金の保険料率が仮に20%とすると、Aの場合は(単純化していえば)10万円である。

 厚生年金保険料は、事業主と被保険者が折半で負担することになっている。
そこでこの10万円を企業とA本人が折半で5万円ずつ負担することになるから、A自身の手取りは、50万-5万=45万円である(ここでは所得税その他の徴収は無視しておく)。

 しかし城繁幸によれば、事業主負担も、実際には本人が負担させられているのだという。

 企業側からみれば、給料50万円+厚生年金保険料事業主負担分5万円=55万円がAの人件費である。つまりAは「本来55万円をもらえるはずだった」という。

 そのうえで企業側は、上記の5万円を事業主負担分として納付しているから、実際にはAは、“自分がもらうべき”55万円から、事業主負担分5万円と本人負担分5万円の両方の合計10万円を負担して、45万円を手取りとして受け取っていることになる。

 つまり城によれば、厚生年金保険料は、事業主負担分も本人負担分も、どちらも結局は労働者本人の負担でしかないのだという。

 城繁幸のこの議論は、「Aは本来、50万円ではなく55万円をもらえるはずだった」という仮定に基づいている
 仮に厚生年金制度が存在しなければ、Aの給料は50万円ではなく55万円になっていたはずだという主張である。

 だが、本当にそういえるのだろうか。仮に厚生年金のない世界であれば、会社の負担するAに関する人件費が月55万円から50万円に下がるだけではないのか。

 Aは、支給される給料が額面月50万円という前提で会社に雇用されている。月50万円で働いてくれる者に、わざわざ月55万円を支払う会社はないだろう。
 厚生年金がなければ、会社は余計な5万円などわざわざ負担する必要はないし、そしてAは50万円という条件で納得して働くのだから、Aの支給される給料は50万円のままなのではないか。

 なお「事業主負担分」があるのは、厚生年金だけではない。健康保険にも労働保険(雇用保険と労災保険)にも事業主負担分はある。とりわけ労災保険には、本人負担は存在せず、100%事業主負担だが、城繁幸の理屈では、この労災保険も、「労働者が本来もらえるはずだった人件費の中から、すべて自分で支出しているのだ」ということになるのだろうか。

 さらに城繁幸の理屈でいえば、会社が支出する各種福利厚生費(これも人件費の一部といえるだろう。たとえば会社独自の福利厚生制度とか、社内食堂の会社負担分とか、社内運動会とか)も、「本来なら労働者が全額もらえるはずだった人件費に含まれる」ということになる。
 つまり城繁幸の説では、人事や福利厚生にかかわる諸費用は、一見「会社負担」のように見えても、実際はすべて労働者本人が負担しているものでしかなく、実質的には「会社負担」のものなど存在しない、ということになるのだろうか

「強すぎない安倍政権」という選択肢はないのか?

都議選での自民党の大敗と、内閣支持率の低下を受けて、自民党内では「反安倍」の動きが始まったようである。

特に内閣支持率では、NHK・朝日・読売のいずれの調査でも30%台に落ち込んでおり、これまでの比較的高い支持率に比べてかなり急激な低下であって、自民党内でも危機感が強まるのはまあ当然である。

政局の動きについてはあまり立ち入りたくはないが、「強すぎない安倍政権」という選択肢はないのだろうか。

あまり自民党の議席が多すぎない程度で、国会では野党との協議や調整をきめ細かくやらなければならない状況になったうえで、政権は当面、安倍内閣にやってもらう・・・という選択肢があっても良いと思うのだが。

もっとも、次の国政選挙がいつになるかわからない今の段階で、こんなことを言ってもむなしいかも知れない。

実際は、安倍首相が自民党内で圧倒的な力をもって「安倍一強」と呼ばれるのは、選挙で強さを示して多数の議席を確保してきたからであって、それができないとなれば、「強すぎない安倍内閣」ではなく、「安倍降ろし」が自民党としての選択肢ということになるのだろう。

なぜ都議会選挙や都知事選挙は、国政選挙のような雰囲気になってしまうのか?

 東京都議会選挙は、都民ファーストの圧勝に終わった。

 都知事選挙や都議会選挙の場合、今回に限らず、多かれ少なかれ“国政の代理戦争、前哨戦”みたいな扱いで報道されて、実務的な政策論争になりにくく、有権者もその流れに乗って、国政についての意識をそのまま持ち込んだりムードに流されたりする傾向は、前々からある。
  (昭和の「革新都政」がもてはやされた時代もそうだった。)

 なぜこういう現象が起こるのだろうか?
 なぜ、東京都知事選挙や東京都議会選挙は、国政選挙のような感覚になってしまうのだろうか?
 「マスコミが煽っているからだ」というのは一つの答えだろうが、有権者がその煽りに反応するだけの理由の説明は一応必要だろう。

 たとえば静岡県や鹿児島県の県議会選挙で、マスコミが「この県議会選挙は、実質的には、安倍政権への国民の支持の度合いを測る意味のある選挙だ」と言ったところで、有権者は乗ってくるだろうか? 
 他の府県では成り立たないことが、どうして東京では成り立つのだろうか?

 もちろんそれは、東京都民が他の府県民よりもバカとか変わり者だからというわけではない。
 答えは簡単で、東京都民の大半は、都政がどうなろうとあまり生活には実質的に影響を受けないような立ち位置の人間だからである(大企業のサラリーマンとその家族、第三次産業従事者、小学校から大学までの教員、メディア関係者、大学生、などなど)。

 他の府県の知事選挙ともなれば、全然話が違ってくるだろう。農林水産業、比較的小規模な商工業、土建業などに従事する人々の比率が高い府県では、どういう知事を選んでどういう行政をしてもらうかは、その地域住民にとっては死活問題である。

 東京にも農林水産業や小規模な商工業や土建業にかかわる人はいるし、築地・豊洲問題はここらへんの関係者にとっては重要な課題のはずだが、いかんせん、東京全体の有権者の中では少数派なのである。

 東京の有権者の大半は、都知事選挙や都議会選挙を、国政選挙の代用物のように考えて、大雑把な感覚で投票しているが、それは、そういうことができるだけの余裕がある社会層が東京都民の大半をしめているということであり、これがいわゆる浮動層なのだ。

 (付け加えると、市長選とか区長選になると、いくら東京でも、さすがにもう少し現場の実情を反映した状況になるかと思う。)

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