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2017年8月

石川健治と自衛隊正統性否認論・つづき

 季節柄ということもあるのかも知れないが、憲法学者の石川健治がネットでいろいろと話題になっているようである。
 以前のエントリでも触れたことの繰り返しになるが、石川健治は、おおむね次のようなことを言っている。

憲法9条により、自衛隊には正統性が与えられず、権力統制が行われている。
 正統性に疑いがある自衛隊は、世間から後ろ指を指されないように、常に身を慎むことになる。
 憲法9条は、自衛隊から正統性を剥奪することで、コントロールしているのである
。」

石川は「自衛隊は違憲」ということをまず前提にしたうえで、「違憲=正統性を与えないことによってコントロールできている」というロジックに立脚している。
「違憲とすることによって廃止(排除)する」というのではない。

 だが、「違憲とすることによってコントロールする」というロジックが通用するなら、他の違憲(の疑いがあるとされている)制度や組織等にも、そのロジックは同じように適用できることになるだろう。

 たとえば、集団的自衛権にかかわる例の安保法制の成立について、石川健治は、「クーデターで立憲主義を破壊した」といって非難していたのだが、集団的自衛権についても、結局同じ論理が通用することになる。

 あと何年かしたら、石川健治かその弟子は、次のように言っていることだろう。

 「憲法9条により、集団的自衛権行使には正統性が与えられず、権力統制が行われている。
  正統性に疑いがある集団的自衛権の行使は、世間から後ろ指を指されないように、常に身を慎むことになる。
  憲法9条は、集団的自衛権行使から正統性を剥奪することで、集団的自衛権行使をコントロールしているのである
。」

 なお、以前のエントリで、「立憲主義を主張するなら、『憲法に違反したものを違憲論で統制して使えば良い』というのは、おかしいのではないか?」と疑問を呈したことがあったが、それについて、ある人から、「石川教授は、自衛隊を『良い』と是認したわけではない。存在を前提として考えることと、存在を是認することは違う」という意見をいただいた。

「良い」とか「是認」という用語のニュアンスにもよるが、少なくとも毎年毎年予算をつけて、人員や装備を更新させて、演習を行わせて、緊急時には出動して戦闘行為もさせることを前提として考えるのであれば、「是認したわけではない」などと言い張るのは無理ではないだろうか

「緊急時には戦闘機のスクランブル発進をさせているが、存在を是認したわけではない」とか「自衛隊の存在は認めないが、毎年装備予算をつけさせている」と言い張るのであれば、いささか理解できない発想である。

(「自衛隊は認めない。新たな予算や人員はつけるべきではない。廃止に向けて具体的な動きをするべきなのに、政府がそれをしないのはけしからん」なら、賛否はともかく論理的にはまったく筋がとおっているのだが。)

・・・と、ここまでは前回書いたこととあまり変わらない内容なのだが、さらに考えてみると、「自衛隊に正統性を与えないことで統制できれば良い」とする考え方のもっと大きな問題点は、自衛隊に正面から向き合ってそのあり方を考える思考を阻害するということだろう。

 正統性がないから、単に抑制すれば良いという発想にしかならないので、リスク込みで、具体的にどのように組織体制を作って、どのように運営すれば良いのかを真剣に考えるという発想はそこからは生まれてこないのである。 

 「正統性がない(疑わしい)から、自衛隊は世間から後ろ指を指されないように身を慎む」と石川はいうが、そこには、自衛隊のあり方を究極的に決めて、利益も不利益も身に受け、最終的に責任を負わねばならないのは「世間」自身だという自覚が致命的に欠けているといえよう
 石川の考え方では、「世間」と分離されたところに「自衛隊」がポツンと存在していて、それが正統性を認められず身を慎んでいる(慎ませる)という発想にしかならない。

 これは、「どうやって現在の問題を解決するか」よりも「どうやって『戦前』に戻らないようにするか」を優先して考える思考方法のあらわれの一つといえるだろうか。

日本人にとって「戦後」はもう一つの元号だった(2)

さきのエントリの続き。

「戦後」とは、「悲惨な太平洋戦争が終わって(そこから解放されて)何年・・・」という発想をあらわす「元号」でもある。

さて、「戦後」という概念があるからには、その反対概念としての「戦前」も当然、存在する。

「今の政権は、戦前回帰を志向している」とか「戦前のような時代がまたやってくる恐れがある」という表現も、メディアで頻繁に見かける。安保法制や共謀罪問題での議論を思い出して見れば良いだろう(今の安倍政権への評価はここでは立ち入らない)。

このように「●●は戦前回帰を志向している」のような言い方をする場合、「戦前」とは、恐ろしい時代、悲惨の時代として位置づけられている。「戦前」という言葉を持ち出せば、何の論証も説明も抜きで、相手がすぐ納得して否定的な反応をしてくれることが当然の前提になっている。
ここでは「戦前」「戦後」の概念は、単なる時代区分の話ではない。「戦前」は、戻ってはならない時代とされているのだ。

(逆にいえば「戦前」を「江戸時代」とか「明治時代」とか「元禄時代」のように、単なる歴史上の一区分としか考えない人にとっては、「戦前回帰」という言葉を聞いても、ピンと来ないだろう。「江戸時代」や「明治時代」という用語には、「戻ってはならない時代」というニュアンスでの用法はない。)

一般的にいえば、メディアや学問の世界など、政治や社会に関していろいろな議論や主張をする場では、「戦前のようにならないこと」「戦前に戻らないこと」を重要な判断基準とした言説が、現在に至るまで数多く産み出されてきた。

「戦前に戻らないようにするには、どうするべきか?」というのが重要な価値判断の基準とか思考の出発点となって、その基準にのっとって様々な判断を行うという思考の枠組が形成されているのだ。

これは、「どのようにしたら現在の問題について解決・対処できるか」よりも、「どのようにしたら『戦前』に戻らないようにできるか」を第一番に考えるという傾向につながるとも言えるだろう

これは日本の言論の世界(とりわけ防衛問題についての言論)に強く根付いてきた思考のパターンだが、世代交代に伴って、次第に色あせてきてもいると思う。

学問の世界でいえば、この思考の枠組を非常に強く持っているのは、恐らく憲法学だろう。これは(現代日本の)憲法学が本質的に持ってきた性質のためである。

現代日本の憲法学は、日本国憲法の解釈学である。明治憲法の本質的部分が否定されて日本国憲法が成立し(「占領憲法」と評するかどうかは別問題)、その日本国憲法の基本となる理念や価値を前提としたうえで解釈をするというのが憲法学の主流なのである。このような性質からすれば、「どのようにしたら『戦前』のようになるのを防ぐか」という思考が組み込まれてきたのだ。

以前紹介した書籍『アーキテクチャと法』の中の横大道聡の論文「憲法のアーキテクチャ」で、駒村圭吾や高橋和之を引用する形で、横大道は次のように述べている。

 “日本では、『何かを建設しようとする構築の意志を持つことは危険であるとするのが、憲法学の初動的な反応』で、『憲法学は何かをつくり上げる学問ではなく、抵抗し、批判する学問であるという自己規定が強い』・・・”(同書200頁)

とはいえ、憲法学の世界も世代交代と共に次第に傾向が変わってはいくだろう。

どうもまとまりが無くなったが、とりあえずこの辺にしておく。

日本人にとって「戦後」はもう一つの元号だった(1)

この季節にふさわしい話題をひとつ。

「戦争」という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。

何よりもまず反射的に、「太平洋戦争」(もちろん「第二次世界大戦」や「大東亜戦争」でも良い)を思い浮かべるかどうか。

「戦争」という単語で、反射的に太平洋戦争をすぐ想起する人の数は、今、日本にどの程度いるだろうか。
ちゃんと調べたわけではないが、年配になるほど「戦争=太平洋戦争」という反応になるのではないだろうか。

逆に、若い世代ほど「戦争」と言われると、一般的な戦争(現在でいえばシリアやイラクあたりの戦争)が頭に浮かんでくるのではないかと思う。

太平洋戦争が終わって長い間、日本社会では、「戦争」といえば、何よりもまず「太平洋戦争」だった。本来的にいえば、戦争とは時と場所によっていろいろなパターンがあるはずで、太平洋戦争も、あくまで特定の社会や国家がかかわった、特定の一つの戦争のはずなのだが、日本人にとっては「戦争=太平洋戦争」という思考が支配的だったのである

戦争体験の「風化」という言い方もおなじみになっているが、戦争体験が風化するということは、説明ぬきでいきなり「戦争」といわれればすぐ「太平洋戦争のことだな!」という反応をする人がどんどん減っていくということでもあるだろう。

「戦後72年」という言い方にも、それはあらわれている。
「太平洋戦争終結後●●年」ではなく、修飾語抜きで「戦後●●年」という言い方が、当たり前のように通用してきた。
そして、現在の日本の位置づけは、「戦後●●年」という時間軸の基準で認識されてきたのである。

1945年以降の日本には、「平成」(+「昭和」)とは別に、「戦後」という元号が実質的に存在していたといえるのだ。

たとえば、大阪万国博で盛り上がった1970年は、「昭和45年」であると同時に、「戦後25年」でもあった。(厳密に考えると、終戦の年もカウントに入れると「戦後26年」だろうが、そこはあまり細かく気にしないことにする。)
今年、2017年は、「平成29年」であると同時に、「戦後72年」なのである。

ただし若い世代になればなるほど、当然、「戦後」という意識は薄れてきているだろう。
自分が戦争を体験していないどころか、親世代も、さらに祖父母世代さえも戦争を体験していない人が増えてきている。

そういう若い人にとっては、「戦後●●年」というのは、もはや「日露戦争から××年」というのと同じで、遠くて実感がわかなくなってくるだろう。

(つづく)

「ノー残業、楽勝!予算達成しなくていいならね。」

地下鉄の霞ヶ関駅に、このような広告ポスターが貼られていた。

「ノー残業、楽勝!予算達成しなくていいならね。」

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従業員に業務の負荷がかかっている現状を放置して、単に「残業を減らせ、早く帰れ」と叫んだところで何の意味もない、ということで、端的にホンネというか実態を述べているコピーである。

肝心の広告対象の商品についての紹介は、下の方に「ルールだけでなく、ツールで新しい働き方を  キントーン」と書いてあるので、事務処理を効率化するシステムについての宣伝なのだろうということは見当がついたが、「キントーン」とは何のことかわからず、調べて見たら、どうやらサイボウズ株式会社の商品らしく、「ビジネスアプリ作成プラットフォーム」ということらしい。

 それはそうと、私自身、某大手メーカーの人事・労務部門にいた頃の「ノー残業デー」のことを思い出した。会社は毎週水曜日を「ノー残業デー」と決めていて、やむを得ず残業する部署は、「残業申請書」を人事・労務部門に提出する。(人事・労務部門としては、この「残業申請書」を労組にも見せる。)
 ところが、ノー残業デーなどお構いなしに客先への対応業務は頻繁に発生するから、結局のところ、各部署から出てくるこの「残業申請書」はかなりの量になる。さらに急に残業せざるを得なくなる者も常にいて、そういう場合は事後提出せざるを得ない。
 そんなこんなで、「残業申請書」の作成提出自体が、各部署にとっては結構時間をとられる作業になっていたのである。

(追記)念のため調べてみたら、このサイボウズの広告は、既に3ヶ月ほど前に品川駅の電子看板で掲示されて、ネットなどでも話題になっていたようである。滅多に品川には行かないので気づかなかった。地下鉄の霞ヶ関駅にポスターとして貼り出されたのは、比較的最近なのかも知れない。

労働時間の把握が、ようやく使用者の義務として明文化される?

 6日の読売新聞の記事によれば、厚生労働省は、労働安全衛生法施行規則を改正して、従業員の労働時間の把握を企業の義務として明文化する方針を固めたとのことである。
 (読売新聞以外では今のところ報道されていないので、どこまでしっかりした裏付けがある記事なのか気になるところではあるが・・・)

 以前のエントリでも触れたとおり、労働時間(または出退勤時間)を使用者が記録・把握する義務は、これまでのところ、労働基準法でも、労働安全衛生法でも、法令に明文では定められていない。

労働基準法には、使用者側が労働時間を記録する義務は書かれていない!

今こそ労働時間の記録を法律上の義務にしよう

 現時点の厚生労働省の公式見解としては、あくまで“解釈上”「使用者には、労働時間を適正に把握するなど、労働時間を適切に管理する責務がある」としているだけである。ストレートに法令の条文で「使用者は労働者の労働時間を記録しなければならない」等の記載がされているわけではない。

 今回の読売新聞の報道が事実だとすれば、ようやく労働時間の把握義務が、法令の条文として明確に定められることになる(ただし「法律」ではなく、それより下位の「規則」(省令)であるが)。

 なお、これは労働基準法ではなく労働安全衛生法の施行規則として定めるとのことであり、事実だとすれば、労働時間の把握が健康管理のため重要であるという認識のあらわれだろう。
 報道によれば「管理監督者を含めたすべての労働者を対象とする」とのことだが、管理監督者であれば長時間労働で過労死しても良いなどという理屈はないから、これは当然のことである。そうだとすれば、現在政府が導入を検討している、いわゆる“高度プロフェッショナル”(=残業代が支給されない、一定の専門的職務の従事者)も、残業代の支給の有無とは無関係に、労働時間を把握するということになろう。

 (ちなみに、労働時間把握の義務を明文化しようという動きは、2016年に、野党4党から、労働基準法改正案の提出という形で出ていたようだが、これはそのままになってしまっている。)

 それにしても、健康管理という面でいえば、残業代が支給されるかどうかよりも、労働時間を使用者が把握・記録するかどうかの方がはるかに重要だと思うのだが、どうもメディアの関心が薄いようである。

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