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2017年9月

「解雇ルールの明確化」なんて本当にできるの?

 「解雇に対する規制が厳しいおかげで日本企業は解雇が難しい」という類いの主張がウソであることは繰り返し述べた。いろいろな意味で解雇が「難しい」のは事実だろうが、それは「解雇規制」のせいではなく、企業自身がめったに解雇しない前提で雇用をしてきたからにすぎない。
 単純化していえば、よほどのことがない限り解雇しない前提の労働契約をしているのだから、よほどのことがない限り解雇できない(裁判で解雇が認められない)のは、ごくごく当たり前のことである。

 ところで、「解雇規制緩和」のかわりに「解雇ルールの明確化」という言い方をする論者もいる。

 「どのような場合に解雇ができるのか、現在ははっきりしない。国が解雇ルールを明確にするべきだ」というわけだが、この主張は「現状では解雇しにくい。だから解雇ルールを明確にして解雇しやすくしてほしい」という意図が前提になっている。
(その逆に「現状ではいい加減な解雇が横行しているので、解雇できる場合をルールで制限してほしい」といっているわけではないことに注意。)

 解雇ルールといえば、労働契約法16条の「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。 」という定めが重要だが、「この条文だけでは、『合理的な理由があって、社会通念上相当であると認められる解雇』はどういうケースなのか、よくわからない。明確にしてほしい」というわけだ。

 ここでは、個人の職務遂行能力が不足していることを理由にして解雇する場合を例として考えてみよう。

 まず、現在でも職務遂行能力の不足を理由にした解雇が認められた裁判例はある。従って、仮に国がおおざっぱに「職務遂行能力の不足を理由にした解雇は認められる」というガイドラインなり法令なりを制定したところで、それだけでは何も解雇ルールが明確になったことにはならない。裁判例を後追いで整理したものでしかない。

 そもそも世の中一般に、職務遂行能力が「十分」な従業員などあまり多いわけでもないだろう。「職務遂行能力が不足している」というだけではあまりにも漠然としてつかみ所がない。
 問題は、具体的にどの程度まで職務遂行能力が足りなければ解雇が認められるのか、である。

 もちろんそんな細かいことを国がいちいちガイドラインや法令で決められるわけがない。「営業担当者が連続6ヶ月間目標達成できなかったときに解雇する場合は、その解雇は合理的で社会的に相当である」などと国が個々に決めるわけにもいかないだろう。

 そうなってくると、結局のところ、個々に企業が自分で決めるしかなくなってくる。「解雇ルール」を明確にしなければならないのは、実は国というよりも、企業自身なのだ

 たとえば企業が「職務遂行能力が不足している」ことを理由に解雇するならば、その「職務」とはそもそも何なのか、何をやるべきなのか、どこまで達成できれば良いのかも明確にしなければならない。

「解雇ルールを明確にする」ということは、職務の内容や達成目標も個々に明確にしなければならないことになる。やや極端な言い方をすれば、解雇ルールを明確にするためには、仕事に関するすべてのことを明確にしなければならなくなるのだ

 すべてを明確化すれば、確かに解雇ルールも明確になっていくのかも知れない。

 問題は、一般的な日本企業は、そういう厳格な明確化になじむのかということである。物事をあまり明確にしすぎない、いろいろな意味での曖昧さや柔軟さが日本企業の強みと言われてきた(今も言われている)のではなかったか

 そして、職務範囲を明確にするということは、その範囲以外のことはやらなくても良いということを意味する。たとえば「こいつは決められたことしかやらないからクビ」というわけにはいかない。それこそ解雇ルールの明確化の発想とは真っ向から矛盾してしまう。やるべき仕事の範囲をはっきり線引きしたうえで限定しなければ、「明確化」とはいえないからである。

 とはいえ「従業員は、決められた職務の範囲や達成目標に限定しないで、もっと幅広くがんばってもらいたい」というのが多くの経営者の願いというかホンネだろう。だが、解雇ルールを明確にして解雇しやすくなることを目指すような企業で、そういうことが期待できるのだろうか。企業は、いろいろと強みになってきた曖昧さや柔軟さを捨ててまで、そういうことをやりたいというのだろうか。

 なお、解雇ルールが明確になったからといって、解雇をめぐる訴訟がなくなるわけではない。その解雇ルールの解釈について争いが起こる可能性は常に残るからである。
 たとえば「〇〇の場合には解雇できる」という明確なルールがあって、それに従って会社が従業員を解雇したとしても、そもそもその「〇〇の場合」にあたると言えるのかどうかについて見解が合わなければ、最終的には訴訟で決着をつけるしかない。

「解雇規制で正社員の既得権が守られている」というのは、半分はウソですよ

 しつこいようだが、「『解雇規制』って、本当に存在するの?」から始まる一連の「解雇規制」論批判シリーズの続きである。

 「解雇規制は、正社員の既得権を保護しているだけだ。現在雇用されている者を保護してはいるが、現在失業している者のチャンスを奪っている。
という主張もよくなされることがある。たとえば、経済学者の大竹文雄教授のような論者が挙げられる。

 この主張は、半分は正しく、半分は間違っていると思う。ここでも一応はまだまだ終身雇用・長期雇用が維持されている大企業を前提として考えてみよう。

 かなり単純化して考えた場合の話であるが、たとえばある会社で現在雇用されている1人の正社員が、定年まで 解雇されることなく勤続が保証されているとすれば、そのせいで、失業している別の誰かがその会社に就職できないでいる…と言えなくはない。

 その意味では、確かに「現在雇用されている者が保護されていることは、失業者のチャンスを奪っていることになる」という主張は一理ある。

 しかしこれは、解雇規制のせいでそうなっているのではなく、もともと企業が、原則として定年まで解雇しない(暗黙の)契約(終身雇用、長期雇用)を締結しているからにすぎない。

 企業は、解雇規制があるために嫌々ながら「定年まで解雇しない契約」を締結しているのではなく、自分からそのような契約を選んでいるのではないか。

 上に挙げた解雇規制緩和論者である大竹文雄教授自身も、『労働経済学入門』(日経文庫)の中で次のように述べている。(*注)
 「終身雇用という言葉は、誤解を与えやすいものです。文字どおり死ぬまでの雇用を保証するような雇用契約ではないことは、明らかです。定年までできる限り長期間雇用を保証しようという暗黙の契約というのが、より正しい解釈でしょう。」(同書98頁)

 このように、原則として定年まで解雇しない契約なのだとすれば、原則として定年まで解雇できないのは当然の帰結である。解雇しようとして裁判になっても、裁判所は、その原則を覆すだけの根拠がなければ解雇を認めないだろう。大竹教授のいうように「できるだけ長期間雇用を保証する契約」なら、まず会社としては解雇を避けるために「できるだけ」の努力をしなければならないことになる。それをしないで解雇するならば、労働契約法16条で定めるように、合理性・相当性を欠き、解雇権の濫用として無効ということになる。

 これは、わざわざ「解雇規制」と呼ぶほどのことだろうか?

 たとえば「家賃を払う限り60歳まで貸家に居住できる賃貸借契約」を締結したら、貸主が途中で勝手に解約して借主を追い出すことなどできるわけがない。(借地借家法のことはここでは度外視する。)その間、他の人間は貸家を借りることはできないが、それは当然のことである。
 これらは「規制」のせいでそうなっているのではなく、もともとそういう契約を貸主が選択したからである。もちろん家賃の支払いを怠ったり、家を荒らしたりすればまた話は別である。

 この「60歳まで貸家に居住できる権利」は、「既得権」なのだろうか。
 そう呼ぶのは勝手だが、それをいうなら、契約上の権利はすべて「既得権」ということになる

 たとえばある建物について5年間の賃貸借契約を結べば、5年間は他の人間は入居できない。それを「5年間の既得権」と呼ぶ意味があるのだろうか。
 ある知的財産について10年間の独占的ライセンス契約を締結すれば、10年間は他の者はそれを利用できない。それを「10年間も既得権が保証される。けしからん」という人がいるだろうか。

 おわかりだろうか。

 「解雇規制で、正社員は長期間の雇用が保護されている」のではない。もともと正社員とは、長期間の雇用契約なのだ。
 解雇規制があろうとなかろうと、契約が保護されるのは当然の結果なのである。

  (実をいうと、ここでは法律論としてはちょっと乱暴で突っ走った議論をしている。最高裁判例では、「終身雇用の暗黙の契約を締結した」ということを正面から認めるのではなく、「終身雇用の期待の下に期間の定めのない労働契約を締結している」という、より慎重で間接的な表現を使っている。法律上の概念としての「期間の定めのない労働契約」とは、「終身雇用」とイコールというわけではない。最高裁は、そこに「終身雇用の期待」という微妙な表現をプラスしているのだ。
 これに対して、むしろ経営学者や経済学者の方が、法学者や法曹よりもストレートな形で、「終身雇用(長期雇用)の暗黙の契約」が締結されているということを正面から堂々と強調してきた観があるのだが、今となっては感慨深いものがある。)

  なお念のため断っておくと、私は、何がなんでも正社員を解雇してはならないとか、解雇しやすい世の中になってはならない、とまで言い張るつもりはない。「解雇しにくいのは解雇規制のせいだ」「解雇規制で既得権が守られている」という類いの不正確な主張を批判しているだけである。

  「とにかく正社員の保護を縮小させた方が、失業者や非正社員にも新たな雇用のチャンスを与えることになるから、格差の是正につながる」という議論は、賛否はともかくとして一応検討に値するとは思うが、これは解雇規制というより、企業自身がどのような労働契約を締結して働かせるかという観点で考えるべきである。解雇しにくい労働契約ならば裁判で解雇は認められにくい。解雇しやすい労働契約ならば解雇は認められやすい。当たり前の話ではないか。

 それでは、解雇しやすくするためにどうすれば良いか。ここでも乱暴で大雑把な言い方をしてしまえば、企業が、定年までの雇用を保証しないことを明確にした契約を締結すれば良いのである。(これは必ずしも半年や1年の短期の契約という意味ではない。)

 まず企業が、新卒採用向けの説明会で、学生に向かって「定年までの雇用を保証するものではありません」「働きが悪ければ解雇されることがあります」「働きが良くても事業の都合により整理解雇される場合があります」ということを説明し、納得してもらい、定年まで保証するものではないことがはっきりわかるような労働契約を締結するようにするべきである。

 (もっとも、ここまではっきりした方針を示すような企業であれば、新卒の大量採用をするかどうかは怪しい。中途採用でかなり用が足りるからである。さらに「定年までの雇用を保証するものではない」ということなら、そもそも「定年」さえ必要なくなるだろう。定年とは、継続的な雇用が保証される最終的な年齢の限度のことだからである。)

 このようにしたとしても、たとえば企業が「働きが悪い」従業員を解雇した場合に、「本当に働きが悪かったのかどうか」が裁判で争いになる可能性はある。しかしそれは「解雇規制」の問題ではないだろう。

 また、解雇しやすい企業になることができたとしても、それは現在の日本企業の持つ様々な「強み」とされている要素も失うことを意味すると思うが、それはまた改めて検討したい。

(*注)この大竹文雄教授の『労働経済学入門』は、1998年4月に刊行されているが、興味深いことに、「解雇規制」という用語はこの著書の中で一度も使われていない。そのかわりに、「解雇不自由の法的状態」という言い方をしている。少なくとも「解雇規制」よりはよほどマシな用語法である。と同時に、「解雇規制」という用語が(30日前の解雇予告や労災休業中の解雇禁止などの限られた意味ではなく)一般的に使われるようになったのが、かなり最近の現象であることを示唆しているのではないだろうか。

「解雇規制」などという言葉を使わない『ゼミナール経営学入門』

 「解雇規制」論について、さらに付け加えてみる。

 ここで一冊の本をちょっと見てみよう。伊丹敬之&加護野忠男著『ゼミナール経営学入門』(日本経済新聞出版社)である。
初版は1989年で、2003年に改定されて現在も販売されている。今手元にあるのは2003年版である。

Zemi

(2003年は、日本的経営に対する疑問が既に強くなっていた時期で、日本的経営の強みを述べる著者の言葉も、どこか歯切れの悪さが感じられる。おそらく1989年版はかなり違った感じなのではないかと思うので、いずれ手に入れてみたい。)

 さて、伊丹敬三教授や加護野忠男教授といえば、日本的経営の強みを強調してきた経営学者として知られているが、この著書では、「解雇規制」についてどのように述べているだろうか。
 「解雇規制を緩和すべきだ」などとは言っていないだろうということは、読む前から想像できる。それでは逆に、「解雇規制が日本企業の強みを作ってきた」とでも主張しているのだろうか。

 そうではない。

 この本の中には、「解雇規制」という言葉は一度も出てこない。
 2003年時点では、「解雇規制」という言葉が経営論の文脈で使われること自体、まだあまり無かったのかも知れない。
(もちろん一般的な用語として「解雇規制」という言葉が世の中で使われることはあっただろうが、おそらくこの頃は「労災休業中の解雇は規制される」とか「解雇するには30日前に予告しなければならない」などの個別の規制が主に意識されていたのかも知れない。)

 この『ゼミナール経営学入門』の227頁を見てみると、こんな一節がある。

日本企業は…雇用構造の選択を、実際にはどのように行ってきたのだろうか。
…一般的に、日本的経営の三種の神器といわれるものがある。終身雇用、年功序列、企業別労働組合、の三つである。
…終身雇用とは、正規の従業員として採用された場合に、経営上の大きな困難や従業員の大きな不手際がないかぎり、厳密に言えば定年まで雇用されるという暗黙の契約である。
…こうした雇用構造を選択すると、さまざまな労働市場との対応の特徴が生まれる
。」

おわかりだろうか。この著書によれば、終身雇用(長期雇用)とは、日本企業が「選択」したものなのである。

企業が自分の意思で「経営上の大きな困難や従業員の大きな不手際がない限り…定年まで雇用されるという暗黙の契約」を、従業員と締結したと考えているのだ。

そうだとすれば、「よほどのことがない限り、定年まで雇用されるという契約」があるのなら、「よほどのことがない限り、裁判になっても、解雇が認められない」というのも当然のことである。

要は、政府が勝手に「解雇規制」をしているわけではなく、企業が自分で「終身雇用」「めったに解雇することがない契約」を「選択」してきたということである。

 この『ゼミナール経営学入門』の分析が的確かどうかはさておき、2003年時点では、「国が解雇規制をしているので企業が困っている」という類いの論法は、一般には広まっていなかったということがわかる。それどころか、おそらく「解雇規制」という言葉すらあまり使われていなかったのだ。
 それは当然のことである。日本企業は、めったに「解雇」しないという雇用構造を自分の意思で「選択」し、その強みを利用してきたというのが、こういう経営学の観点だったのだ。「企業が解雇規制を押しつけられている」などという発想が出てくるはずがない。

 ただ驚きなのは、少し前まで、そういう経営学の著作が(妥当な観点かどうかはさておき)広く世間で読まれていたのに、もうそういう時代を忘れ去ったかのように、「解雇規制で日本企業が困っている」という論調が普通に通用しているということである。

正社員の「解雇規制」なんて存在するの?

 さきのエントリの続きで、今度は整理解雇を念頭において考えてみよう。
 企業が無能(?)なX氏を解雇するケースではなく、経営上の理由で労務を調整するために整理解雇をしようとするケースである。有能だろうと無能だろうと、一定の従業員を解雇して人減らしをしたいと考えているとしよう。 これはなかなか裁判で合理性が認められにくいのは事実である。

 深くは立ち入らないが、裁判例では、整理解雇の4要件というのが一般に知られている。
 ①人員削減の必要性があること、②人員削減の手段として整理解雇を選択する必要性があること、③解雇対象者の選び方が妥当であること、④手続(労使の協議や労働者への説明など)が妥当であること、である。これらの4つの要件(4要素という言い方をする論者もいる)に基づき、整理解雇が有効かどうかを裁判所が判断してきた。

 こういう状況について「日本の正社員は解雇規制が厳しくて整理解雇が難しく、契約社員に比べて保護されている(ので規制緩和すべきである)」という評論家やエコノミストの論調をよくみかけるが、これは原因と結果を逆にした勘違いではないだろうか。

 主要な日本企業(規模の大きな企業)は長年、職務も勤務場所も(そして実質的に労働時間も)無限定で長期雇用を前提とした年功的賃金体系の雇用を行ってきたことは周知のとおりである。
 ある程度の大企業に勤務した経験がある人なら、思い出してみてほしい。就職活動をしていた時に、「不況になったら人員調整で整理解雇することもあるけど、いいね」と学生たちに説明して、納得のうえで労働契約をする大企業などあっただろうか。どこもかしこも、長期的に勤務する前提の話しかしてこなかったではないか。
 年功賃金の体系はだいぶ崩れてきているとはいえ、まだまだ多くの主要企業の賃金や退職金や福利厚生は、いつ解雇されても変わらないような水準ではなく、長期勤続してはじめて上がっていく前提のシステムである。
 要するに主要な企業は、滅多なことでは解雇せず、長期的に働いてもらう前提で人を雇用して、そういう従業員を「正社員」と勝手に呼んでいるだけのことである。
 おわかりだろうか。政府が「正社員」を守るために「解雇規制」をしているわけではない。企業が、「滅多なことでは解雇しない条件の従業員」を自分で勝手に採用して、それを「正社員」と呼んでいるだけなのだ。

 そうだとすれば、いざ「正社員」を解雇しようとして訴訟になった時に、裁判所になかなか「解雇の合理性」を認めてもらえないのは当然のことだろう。
 もともと滅多なことで解雇しない前提で(労働時間や担当職務も柔軟に対応することを含んで)雇用したのだから、滅多なことで解雇が認められないのはごくごく当たり前の帰結である。

 少々単純化していえば、「整理解雇」の要件が非常に厳しいのは、根本的にはこれが理由といえる。裁判所が、さきに紹介した「整理解雇の4要件」に照らして整理解雇の有効性を慎重に判断するのも、別に勝手な思いつきでやっているわけではない。
 
 「日本では、企業が倒産の危機にでもならないと、裁判所が整理解雇を認めてくれない」とか「採算の悪い事業を切り捨てて大胆に事業再編しようとしても、整理解雇が難しい」というのも、何も不思議ではない現象なのだ。

 どこの企業が、新卒説明会で「事業の採算が悪い場合は、あなたの働きの良し悪しにかかわらず、整理解雇します」と学生たちに説明しているのだろうか。それこそ倒産の危機に出もならない限り首にされることはないという前提の話しかしていないのではないか。

 また「A事業の採算が悪くなって切り捨てたくても、整理解雇が難しい」というのも当然である。採用する時に「A事業(の●●の職務)だけを担当する」という契約で採用したのだろうか。そうではないだろう。だいたいの正社員は「なんでもやらせる」(職務無限定)という前提で採用しているのだ。「なんでもやる」従業員として採用したのなら、「A事業がつぶれても他の事業をやらせれば良いから、解雇までする必要はないではないか」と言われると反論できないのである。  

 これに対して、最初から「一定の契約期間だけ雇用する」という前提で雇用するのが「契約社員」である(契約期間の更新はありうるとして)。
 契約社員は正社員より解雇規制が緩やかだというよりも、もともと短期の契約期間を区切って雇用しているから(いわゆる「期間の定めのある労働契約」)、その契約期間を更新しなければ原則としてそこで終わりとなる。(近年の労働契約法の改正については、ここでは触れないでおく。)

 「正社員の方が規制により保護されている」とか「正社員の解雇規制は厳しいので、切り捨てやすい契約社員で労務を調整する」というのは、正確な言い方ではない。
 企業が最初から「滅多に解雇しないつもりの従業員」と「短期契約だけでおわりにできる従業員」の二種類に分けて採用して、前者を正社員、後者を契約社員と呼んでいるだけのことなのだ。

 (追記:ここまで述べたら、あとはいわゆる「解雇の金銭解決」の問題についても触れた方が良いと思うが、これは機会を改めてのことにしたい。)

「解雇規制」って、本当に存在するの?

 ちょっと人目を引こうと思ってわざと極端なタイトルをつけてみたが、正確にいうと

 「日本では、いろいろと解雇が困難な(日本特有の)事情があるのは事実が、それを『解雇規制』と呼ぶのは妥当ではないんじゃないの?」

というニュアンスである。

解雇規制を緩和して、解雇しやすくしろ」という議論は今もあちらこちらで見かけるが、「解雇しにくい」のは、「解雇規制」のせいなのだろうか。風俗営業規制とか騒音規制のようなレベルで「解雇規制」があって、企業が解雇したくてもできないのだろうか。そうではなく、解雇が難しいとすれば、それはもっと別なことが理由ではないのか。
 (後で少し触れるが、法律上は、何でもかんでも解雇し放題なわけではなく、一定の「解雇規制」はもちろん存在する。ただし「正社員を解雇してはならない」とか「正社員を解雇するには労働基準監督署の許可を要する」などという法規制があるわけではない。)

以前のエントリ「解雇しにくい社会」は、日本企業が自分から産み出したものだ!」でも書いたことだが、改めて述べておきたい。

まず具体的な例を仮定して考えてみよう。

ある会社に、「仕事のできない」中高年従業員がいた。名前はX氏。このX氏は、職務遂行能力がない奴と判断されたり、人間関係でうまくいかなかったり、まぁいろいろな事情で、あっても無くても良いような雑用だけをやることになった。いわゆる窓際族である。

会社はいわゆる年功賃金制度であり、X氏もそれなりの賃金をもらっている。

ある日、とうとうシビレを切らした会社はこのX氏を解雇しようと考えた。ただ実際に解雇するとなると、確かにいろいろと面倒なことになるのは事実である。

まず30日前に予告して解雇する必要がある(労働基準法20条1項)。これは確かに解雇規制の一種ではあるが、別に難しいことではない。
ここでX氏がおとなしく解雇を受け入れたら、もちろんそれで万事解決である。

次に、X氏が労働基準監督署に駆け込んだら、どうなるか?

状況にもよるだろうが、会社としてはこの段階では、それほど心配はする必要はない。労基署は、賃金不払や労災など白黒の判断が簡単につく問題については割と動きやすいが、解雇のように複雑な事情や判断が必要な問題では非常に動きにくいのである。

では、X氏が「解雇は無効だ」といって、弁護士に相談して(または本人訴訟で)裁判所に訴訟や労働審判の申立を提起をしたらどうなるだろうか?

本当に「解雇の難しさ」が浮き彫りになるのはここから先なのである。
(ただしこの段階に来るまでに諦めて泣き寝入りしてしまう人も多い。なお他にあっせん手続というのもあるが、ここでは省略)

X氏が「解雇は無効だ」と主張して訴えを起こしたからには、会社としては当然「解雇は有効だ」と言って反論しなければならない。解雇が有効であることを会社は主張・立証する必要がある。
では、どうすれば解雇は「有効」だということになるのだろうか。

労働契約法16条には「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。」という定めがある。
つまり会社としては、解雇に合理的で、なおかつ社会通念上の相当性があることを主張・立証すれば良いのだ。ここでは一応簡潔にまとめて解雇の「合理性・相当性」と呼んでおこう。

さて、「仕事ができない人間を解雇するんだから、当然、合理性・相当性があるはずだ」と思った会社は、「X氏は仕事ができないので、使えません。だから解雇しました」等等と主張する。

これに対してX氏側弁護士(または裁判官)は何というだろうか。

「窓際族っていうけど、具体的に今、何の仕事を担当させているんですか?」
「ほとんど仕事をさせていないって?じゃあ仕事をさせればいいでしょ。仕事をさせるのは会社の役割ですよね。」
「使えない?具体的にどう使えないのか、証明できますか?記録あるの?仕事の成果はどうやって確認してるの?」
「雑用しかやらせてない?その雑用を一通りこなしているなら、ちゃんと職務を果たしたことになるんじゃないの?」
「お宅の会社には、他にもいろいろな職種があるでしょ。他の仕事をやらせたらいいんじゃないんですか」
「職種を変えるローテーションや転勤は、お宅の会社では普通にやっていますよね。だったら、この人も、職種を変えてみたらいいんじゃないですか。」
「賃金に見合った仕事をしてないって?中高年で賃金が高い?年功賃金にしたのはお宅の会社の勝手でしょ?仕事に見合った賃金体系にすれば良かったんじゃないの?」

…等等の議論になるだろう。何となく「使えない」「能力がない」というだけでは、漠然としすぎており、まったく反論にならない。
上記のような議論に具体的に答えることができなければ、「解雇に合理性・相当性がある」ことは裁判所に認めてもらえないだろう。そこが難しいのだ。

一般的に言って、会社というものは(少なくとも日本の会社は)、必ずしも従業員の職務を具体的に細かく定義して、何が達成できたかをチェックできるようにしているわけではない。
特に窓際族のような立場となると、軽い仕事を担当させられることが多いが、そうなるとかえって「仕事ができない」ことの証明が難しいという逆説さえ生じる。
たとえば「仕事ができないから、掃除だけやらせています。」という理屈では、逆に「掃除という「職務」をちゃんと果たしているなら、なぜ解雇するのですか?」ということになりかねない。
(「掃除を命じたのに、紙飛行機を作って遊んでばかりです」なら話は別。)

また、「仕事ができない」ということが証明できたとしても、ローテーションや転勤を普通に行っている会社であれば、「この人にも、他の部署・職務を担当させてみたらどうか。そこまでやらなければ仕事の能力は判断できないのではないか」ということになってしまう。

おわかりいただけただろうか。

解雇が難しいケースは確かに多いが、その解雇の難しさ(正確には「解雇が合理的で相当性があることを裁判で証明することの難しさ」)の理由の大半は、実は日本企業が自分から作り出しきていたものなのだ。

政府が勝手に解雇規制をしたので、企業が抑圧されて解雇できなくなっている…というわけではない。タクシーの参入規制とか、大学の新設規制とか、薬品の通信販売規制などとはわけが違うのだ。

日本企業の仕事のさせ方では、いざ解雇したくなった時に、解雇の合理性・相当性が立証しにくいことが多い」というのが当たっているのではないだろうか。

(★ここまで読んで、「整理解雇の4要件の話はどうした?」という人がいるかも知れない。しかしここで述べたX氏のケースは、整理解雇ではない。単に特定の1人の従業員X氏を、仕事が出来ないことを理由として解雇しようとしているだけである。
  整理解雇はこれとはまったく違う。整理解雇とは、無能なX氏だろうと有能なY氏だろうと関係なく、経営上の労務調整の必要のため、やむなく人員を削減する目的で行う解雇のことである。混同してはいけないのだが、各種のブログや記事を読むと、時々ごっちゃにしている人がいる。整理解雇の問題は、また機会を改めて考えてみたい。)

百田尚樹『今こそ、韓国に謝ろう』

 百田尚樹の著書『今こそ、韓国に謝ろう』(飛鳥新社)が売れているようだ。

 百田の真意は、もちろん本気で韓国に謝ろうと言っているわけではなく、「日本は発展途上だった朝鮮を併合して社会を近代化させた」ということを前提にして、「勝手にに社会を近代的に発展させてしまってごめんなさい」ということで、皮肉のつもりである。
 
 ここで百田は、日本が韓国を併合したうえで発展させた例として、近代的な教育制度の確立、身分制度の廃棄などを挙げている。

 (さすがに百田は、日本が善意で韓国を併合して近代化したなどとは言っておらず、教育の近代化も「日本は使える労働者を育成するためにやった」「いずれは日本中の工場や会社で回収できると考えたに違いありません」「要するに自国のことだけを考えてやっただけのことなのです。」と述べている。)

 私は細かい事実関係について検証できる立場ではないが、この著書で百田が挙げている例には、おそらく、真実も誤りも混ざっているのだろう。

 たとえば百田は、1905年時点で朝鮮半島全土に小学校が40校しかなく、その5年後の1910年の韓国併合時にも60校増えて100校程度しかなかった、という。
 1910年時点で小学校が100校というのは、どうやら事実のようだが、だからといって併合前の朝鮮にほとんど子どもの学校がなかったというわけではなく、私が調べてみた限りでは、1908年頃には、外国人宣教師などの経営する私立学校が全土で2,200校、さらに伝統的な「書堂」と呼ばれる塾(寺子屋類似だろうか)が全国に1万以上あったようだが、そのような事情については百田は触れていない。

 また百田は、日本が併合して小学校の義務教育を全土に広めたかのような書き方をしているが、実際は、併合当初に日本が作ったのは、小学校ではなく4年制の「普通学校」であり、しかも義務教育ではなかった。義務教育の導入を計画したのは第二次世界大戦中のようだが、実現前に日本は敗戦で撤退することになった。義務教育を始めなかった理由はわからないが、機会があれば調べてみたい。

(出典を細かく紹介する余裕はないが、たとえば
 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29085/1/22_P19-92.pdf
を参考にしてみた。なおこの論文は、一昔前のマルクス主義の独特な用語法や糾弾口調が充ち満ちているので、若い世代の読者の方にとっては古語のようで非常に読みづらいかも知れないが、その点はご承知おき願いたい。あくまでデータ的な部分だけ読めば良い。)

 ともあれ、百田のこの本はそれなりに売れているようなので、まず書かれている事実やデータのレベルで、どこが正しくてどこが誤っているのか、専門家(歴史学者等)が何らかの検証・批評をすることが望ましいと思うのだが、そういうことにいちいちつきあう専門家はいないのだろうか。
 学者たちはこの本を見ても「右派の作家の書いた安っぽい嫌韓本(?)なんか、気にしていられるか」と思っているだけで、黙殺するつもりなのかも知れない。

 しかし、右か左かの問題ではなく、そもそもこの百田の本で挙げられている内容がどこまで正確なのか(間違っているのか)だけでもある程度検証して世間に説明しておかないと、この本はそのまますべてが真実であるかのように受け取られてしまうのではなかろうか。

 なお韓国の知識人にの間でも、当時の大韓帝国が改革を怠ったため、民心を失い、民衆はむしろ日本の支配による改革に期待をかけた面があったことを指摘する見解もあるようである。たとえば中央日報の次の記事参照。

失敗した大韓帝国の改革政策、日帝強制占領のきっかけに

 ところで、日本による併合支配が、その目的や程度はさておき韓国の近代化に何かしら寄与したのは真実だとしても、そこからさらに一歩進めて考えてみる必要がある。

 日本と韓国が逆の立場だったら、どうだったろうか

 仮に、朝鮮が日本より先に開国・近代化して富国強兵を推進し、まだ遅れていた日本に軍隊を派遣して、「日本統監府」「日本総督府」のような機関を設置し、朝廷や幕府を解体し、寺子屋を解散させて、朝鮮式の学校教育を日本人に与え、「磔や獄門はいけない」といって近代的な刑罰制度を行い、日本の皇族を李王家に準ずる身分として扱うなどしていたら、日本人は韓国に感謝しただろうか。

 何事も逆の立場で考えてみることは重要だろう。

日本は、のび太ではなくスネ夫である件

国際関係を漫画やアニメの登場人物に喩える場合、アメリカを「ドラえもん」のジャイアンの立ち位置にするのは、割と普通に見られるパターンである。

では、日本は?

この点で驚くのは、日本をのび太に喩える人が多いことである。

アメリカがジャイアンならば、日本は紛れもなくスネ夫である。
けっこう金があって、ジャイアンにはいろいろ要求されて逆らうことができず、ジャイアンを迷惑に思うことが多い。

しかしながら、ジャイアンに調子を合わせて、おこぼれをもらったり、ジャイアンの威を借りて他人に強気な態度を取ることも珍しくない。

まさに日本はスネ夫である。

日本がのび太だと思っている人は、上に述べた特徴の前半部分しか見ていないからである。

なお念のため断っておくと、スネ夫だったらダメだとか言いたいわけではない。
問題なのは、自分がスネ夫なのに、その自覚がなく、のび太だと思い込むことである。

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