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東芝が自社株購入呼びかけ

共同通信の記事によると、東芝が社員に「持株会」で、自社株の購入を呼びかけたという。

記事によれば

経営再建中の東芝が、東京証券取引所による「監理銘柄」の指定で上場廃止の恐れが指摘される中、社員向けに自社株購入を呼び掛けていたことが21日、分かった。自社株を保有する社員の多くは、系列の米原発会社の経営破綻などを背景に株価低下で含み損が出ており「会社のモラルを疑う」と反発している。

 東芝関係者によると「東芝持株会2017年度4月定例募集に関する件」と題した文書で全社員に周知された。4月3日から募集を始め、監査法人からの適正意見を得ずに決算発表するなど混乱が続く中で21日に締め切った。

・・・ということである。

記事をなんとなく読むと、経営危機に陥って株価が低迷しているので、株価を維持するために無理矢理社員に買うように呼びかけているかのような印象を受けるが、そうではないだろう。

社員(東芝では、「従業員」と呼ぶのが正式である)に配布された文書が「東芝持株会2017年度4月定例募集に関する件」と題されていることからもわかるように、これは、あくまで定期的な持株会の募集のルーチンの通知にすぎない。

たまたまこういう時期だからマスコミに取り上げられて騒がれているだけであって、経営危機であろうとなかろうと、東芝が持株会制度を備えている限り、定期的に従業員に配られる通知である。

もちろん、従業員に配られた通知に「危機の今こそ、持株会に入って、会社の株を支えましょう」とでもいう社長名義の文章があったら話は別だが、そんな文章があれば、マスコミに漏れてもっと騒がれているはずである。

今村復興相と山本地方創世相の「失言」は同列に扱うことはできない!

 今村雅弘復興担当相山本幸三地方創世相の発言が、相次いで「失言」「暴言」として取り上げられている。
 しかしこの2人の大臣の発言は、まったく位置づけというか意味合いが違うので、同列に扱うことはできない。

 まず今村復興相の発言は、基本的には政府の方針に沿っているものであって、「被災者の感情を大臣が踏みにじったかどうか」を独立して議論しても仕方ないものである。

 例の発言の経緯としては、福島県が自主避難者への住宅の無償提供が3月末で打ち切ったことが話題として取り上げられて、そのうえで復興相は「(帰るか避難を続けるかは)基本的に本人が判断すること」と述べ、さらにまだ帰還できない(自主避難の)人については、「本人の責任、本人の判断」と述べている。

 (なお、避難したこと自体が自己責任、という意味ではなく、今なお帰らないのは自己責任、という意味だろう。)

 これは、善し悪しはともかくとして、政府の現在の基本的な方針を反映したものであって、復興相個人が適任かどうかとか失言とかいう問題ではない。復興相は政府の方針に沿った発言をしたに過ぎない。
 (政府全体としては自主避難者について「本人の責任、本人の判断」と考えていないのに、復興相が勝手にそういう発言をしたというなら、もちろん話は別であるが。)
 復興相が辞任したり発言を撤回したたところで、この政府の政策が変わるわけではない。

 もちろん政府として公に「自己責任論」という露骨な言い方をしているわけではないが、基本的方向性はそういうことであって、それがいけないとすれば、復興担当大臣を替えることによってではなく、政府の政策全体を議論して変更することによって解決するしかないだろう。

 つまり議論すべきは、今村大臣の発言の善し悪しではなく、自主避難者への支援をどこまで政策として行うかということなのである。
 
 一方、山本幸三地方創世大臣の方はどうかといえば、「学芸員はガンだ、一掃すべき」というのは、表現自体の善し悪しもさることながら、まさか政府が、公的な制度である「学芸員」を、地方創世にとって有害な存在だと考えて一掃するような政策方針で動いているわけではないから、暴言以外の何者でもなく、このような勝手な発言をする者が大臣にふさわしいかどうかを正面から議論すべきである。

 今村大臣は(言い方の善し悪しは別として)政府の方針に沿った発言をしたが、山本大臣は、政府の方針とは何の関わりもない暴言を吐いた。これが両者の違いである。

香山リカがチャンネル桜および出演者に対して訴訟を提起

 香山リカの3月30日付のブログ記事によれば、チャンネル桜のインターネット番組『沖縄の声』に出演した人物3名と、株式会社日本文化チャンネル桜を相手として、東京地裁に訴えを提起したという。

 香山リカ自身のブログおよびツィッターでは、「東京地裁に訴えを提起しました」という言い方しかしていないが、事案の内容を見る限りでは、名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟ということだろう。

 (ここで政治的・思想的な次元の議論には触れるつもりはないが)問題となったチャンネル桜の番組を私は見ていないので、香山リカ自身のブログ記事での説明をとりあえず紹介すると:

 チャンネル桜の2016年10月27日の 「【沖縄の声】ヘリパッド反対派を初起訴、香山リカのツイートが法に触れる可能性あり」というタイトルのコンテンツで、まず、キャスターの栗秋琢磨という人が、香山リカについて、「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」を自らのツィッター投稿により犯していると主張し、さらに、「香山リカの勤務先の診療所に医師法の違反が疑われて監査が入った」「千代田の保健所から監査が入った」等という趣旨のことを述べ、それについて、平原伸泰および鉢嶺元治という出演者が相づちを打つなどした、ということのようである。

 まず、香山リカのツィッターでの一定の言動が「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」にあたるかどうかは、問題となっている特定の言動が具体的にどのようなものだったのか、そしてそれをどのように法的に評価するかの問題であるが、ここでは立ち入らない。

 一方、「保健所から監査が入った」と述べた点については、一定の事実についての主張であるが、監査が実際におこなわれていたかどうかにかかわらず、まず、それは香山リカの社会的評価を低下させる発言として、名誉毀損にあたると評価される可能性がある。名誉毀損は、真実であったとしても成立しうる。
 (ただし、以下に述べるとおり、一般論としては、一定の要件をみたす場合に、主張した内容が真実であるか、真実だと誤信したことに相当の理由があった場合に、違法性が阻却されて、名誉毀損が成立しなくなる場合もある。)

 この件で、栗秋が反論するとすれば、名誉毀損について、違法性阻却の事由があることを主張するのが定石だろう。
 具体的には、①自分が香山リカについて述べたことは、公共の利害に関する事実にかかるもので、②目的がもっぱら公益を図ることであり、③真実である(または真実でなかったとしても、真実だと誤信するのに相当の理由があった)、と主張すると思われる。もちろんこの主張が裁判所で認められるかどうかは、やってみなければわからない。

 なお、ブログでの説明を見る限りでは、平原および鉢嶺という人は、ただ単に相づちを打つに近い発言だったようにも見える。ただ単に相づちを打っただけでも名誉毀損にあたるのかどうかという点は、興味深い論点になる可能性があるだろう。(実際の番組では、もっと踏み込んだ発言をしていたのかも知れないが、そこは見ていないのでわからない。)

東京メトロ売店の正社員と契約社員の「差別」問題

 東京メトロの売店を運営する子会社に雇用された契約社員(非正規)が、同じく売店にもっぱら従事している正社員との間で、賃金などの処遇に違いがあるのは、労働契約法20条に違反した差別だとして、会社側を訴えた訴訟が東京地裁に係属していたが、3月23日にその判決があった。

 (いろいろな報道があるが、BuzzFeedのこの記事が比較的詳しい。) 

 本ブログの以前のエントリでもこの事件について触れたことがあるが、これまでの報道で見た限りでは、経緯はおおむね次の通りである。

 東京メトロ子会社には、正社員と契約社員の両方が雇用されていて、①正社員の中には、売店業務しか従事しない者も、そうでない者もいるが、②契約社員は、売店業務しか従事していない。
 そして契約社員が、「売店業務しか従事しない正社員」と比較して、担当する業務はまったく同じであるにもかかわらず、賃金その他で劣った扱いを受けるのは差別だとして訴訟を提起したのである。

 これについて東京地裁は、「売店業務しか従事しない正社員」ではなく「すべての正社員」と契約社員の労働条件を比較して、その差異には合理性があり、不当な差別ではない、と判断したということのようである。(正社員には、配置転換、職種変更や昇進の可能性があるが、契約社員にはそれがない、等々)

 これに対して原告側は、契約社員と比較すべきなのは、「すべての正社員」ではなく「売店業務しか従事しない正社員」だ、と主張している。
 「売店業務しか従事しない正社員」と「契約社員」は、どちらも仕事は同じ売店の業務で、しかもそれ以外の仕事に就くことはないのに、なぜ扱いが違うのか、というわけだ。

 これはどう考えるべきなのか。

 報道から見る限りでは、「売店業務しか従事しない正社員」も、それ以外の正社員も、すべて同じ就業規則の体系の中で勤務している。つまり、正社員はすべて、最近流行の言い方でいえば「ジョブ無限定正社員」ということになる。

 会社の扱いとしては、売店業限定だろうと、管理職候補だろうと、とにかく「正社員」は一種類しかなく、明文の区別は何もないようである。売店業務しか従事しない正社員も、「売店限定の正社員」として採用されているわけではなく、単なる「ジョブ無限定正社員」に違いはないのであって、そのうえで、“結果として”売店業務だけを行ってきただけだ、ということなのだろう。(もちろん正社員同士の間でも、賃金や資格などの違いはあるだろう。それは同じ賃金や処遇の体系の中での違いである。)

 このような中で、「売店業務しか担当していない正社員」と「契約社員」を比較して差別を論じるロジックは、実はなかなか困難な面がある。
 会社の理屈では、「正社員」には「ジョブ無限定の正社員」ただ一種類しか存在しない。「売店業務しか担当しない正社員」などというのは、制度上は存在しないのである。もちろん現実には、売店業務しか担当していない正社員もいるのだが、それは、ジョブ無限定の正社員が、“たまたま”“結果的に”そうなっているというだけということになる。従って、「ジョブ無限定の正社員全般」と「(売店しか担当しない)契約社員」とを比較すべきだということになる。そして東京地裁の判決も、この会社側の理屈に沿ったようである。

 ただし、これはタテマエの世界の話であって、ホンネはもちろん違うだろう。

 ホンネレベルでいえば、おそらく一定の正社員(学歴や性別や入社時の本人の希望などで区別しているはず)については、売店業務しか担当させないという不文律の扱いがあるはずである。ただし、それは決して契約や就業規則のような明示的な形で表に出てくることはないだろう。

 日本の多くの大企業では、将来の管理職候補と目される大卒も、売店や工場勤務を前提として採用された者も、労働契約書や就業規則でその職務を明確に限定・区別されているわけではない。
 もちろん入社時点の学歴その他の要素で、初任給に違いはあるだろうし、担当する業務に応じた賃金の違いが多かれ少なかれあるだろうし、様々な要因で資格や役職や昇給に違いは当然出てくるが、どれも同じ一つの「正社員」の処遇の体系の中の位置づけの違いにすぎないのである。

 本社の幹部要員だろうと、工場や売店の担当者だろうと、「同じ正社員」というタテマエの中で守られているのだ。(実際、一般的な大企業では、工場や売店に勤務することを期待される正社員の大半は、工場や売店だけでその会社生活を終えるのだろうが、中には違う職種に移動するケースもなくはない。)

 さて、実際問題としてどう考えるべきなのだろうか。
 会社や裁判所のように、
 「正社員の中には職務の区別はない。売店だけを担当している者は、たまたまそうなっているだけだ。だから正社員全般と契約社員を比較して、不当な差別かどうかを判断すべきだ。」と考えるのが妥当なのか。
 それとも原告側のように
 「正社員の中には、売店だけを担当する者もいる。その者だけと契約社員を比較すべきだ。」
 と考えるべきか。

 後者の原告の理屈を推し進めると、実は別な問題が出てくる。

 つまり「売店しか担当しない正社員がいるなら、逆に、その賃金が高すぎるのではないか。本当はもっと低くして、契約社員に合わせるべきではないか。なぜ契約社員よりも高い賃金を払っているのか」という議論が出てくる可能性があるのだ。

 というより、会社の本当の奥深いところにあるホンネは、それなのではないかと私は疑っている。会社は、売店の契約社員の賃金を正社員よりも低く抑えておきたいのではなく、逆に、売店担当の正社員の賃金を低く下げたいと考えているのではないだろうか。ただ、正社員の賃金を下げるのが極めて困難(法的論点にはここでは立ち入らないが、労働条件の不利益変更の問題である)であるため、それができないでいるだけなのではないだろうか。

 この件の経緯についての私の推測は、以前の記事でも触れたとおりだが、

 (1)売店業務を担当するのは、もともとはすべて正社員だけだった
 (2)しかし会社は、売店業務は、いずれすべて契約社員に置き換えて、正社員ゼロにすることを考えている
 (3)そこで、売店業務に契約社員だけを採用して配属するようにして、新たな正社員の配属はやめた
 (4)現在売店に勤務している正社員については、定年で退職するのを待っている状態。
 (5)従って現時点では、売店に正社員と契約社員の両方が混在する状態になっており、「同じ仕事なのに労働条件が違う」という問題が起こっている。
 (6)しかしいずれ正社員は定年でゼロになり、売店業務を担当するのはすべて契約社員だけになるから、その時点で差別という問題が「解決」することを会社は期待している

・・・ということではないかということである。

呪いのわら人形と脅迫罪

 朝日新聞の記事によれば、群馬県で、ゲームセンター経営者の女性の名前を書いた“呪いのわら人形”に釘を刺して、その女性が使っている駐車場に置いておいた男が、脅迫罪の疑いで逮捕されたという。

 法学を学んだ人なら知っていると思うが、刑法の教科書によく出てくる論点として、「わら人形に釘を刺して誰かを呪い殺そうとしたら(=“丑の刻参り”)殺人未遂になるか?」というのがある。
 もちろんわら人形で呪っても人を殺すことはできない(と現代の科学では考えられている)ので、結論としては殺人未遂にはならないのだが、この記事の事案では「殺人罪(の未遂)」ではなく、「脅迫罪」で逮捕されている。

 脅迫罪は、相手の生命、身体、自由、名誉または財産に対して害を加えるということを告知して脅した場合に成立する。

 この記事の事件は裁判にはまだ至っていないのだが、脅迫罪にあたると警察が判断した理由は、いうまでもなく呪いに危険なパワーがあるからではなく、呪いのわら人形に釘を刺して相手に見せつける行為は、今後(単なる呪いにとどまらず)現実に危害を加える意思があることを示したことにもなると考えられたからだろう。
 一般的にいって、釘の刺されたわら人形を見て恐怖を感じるとすれば、それは呪いのパワーが恐ろしいからではなく、本当に刺されたりするのではないかと思うからである。

 ただ実際には、脅迫といえるかどうかの線引きが微妙な事案は多いと思われる。
 たとえば「お前を殺してやる」といえば、実際に殺す意思はなかったとしても、相手に「殺されるのではないか」と思わせて脅す意思はあったことになるから、脅迫罪が成立しうる。
 しかし「お前は神の怒りに触れて落雷により死ぬだろう」と言ったとしても、神の怒りや落雷を自分でコントロールできるとは普通は考えられていないから、脅迫罪にはあたらないというのが、一般的な刑法の文献での説明である。
 ただし、脅迫する側の人間には神の怒りや落雷をコントロールできる能力がある、と相手側が信じている場合は、脅迫罪が成立するとされる。(たとえば、神通力があると称している宗教の教祖が、その信者を脅すような場合である。)

 なお脅迫罪は、さきほど述べたように、相手側に「告知」しなければ成立しない罪である。従って、相手に知らせることなく、こっそり丑の刻参りをしてわら人形に釘を刺しても、それだけでは脅迫罪は成立しない。相手の聞いてないところで「お前を殺してやる」と言ったところで脅迫罪には当然あたらないのと同じことである。

「訂正でんでん」でバカ騒ぎするのは、安倍首相ではなく有権者に対する侮辱である

 安倍首相が「訂正云々」を「訂正でんでん」と読み間違えたことについて、多少ネットやメディアで話題になっていたが、

民進党の大西健介衆院議員(‏@oniken0024)が:

“でんでん虫、虫、安倍ソーリ”

https://twitter.com/oniken0024/status/824241095143997440

とtwitterで揶揄し、さらに東京新聞特別報道部の佐藤圭という人(‏@tokyo_satokei)が、   

“驕り高ぶる権力者の失敗は嘲笑の的にして当然だ。”

https://twitter.com/tokyo_satokei/status/824408688710479873

・・・とつぶやいている。

 さて、この種の政治家の読み間違いなどを野党やメディアが揶揄する場合、その目的はいったい何なのだろうか。

 まさか、政治家に漢字の読み方について注意を促すためではないだろうし、世間一般の国語力を向上させるためでもあるまい。
 いうまでもなく今回の件で「でんでん」を揶揄したり騒ぎ立てる目的は、安倍内閣を風刺というか攻撃し、その支持率を低くして、野党(民進党でも他の党でも)の支持率を高めることが目的だろう。

 私は別に安倍内閣に思い入れはないので、この目的そのものについて何のケチもつけるつもりはない。「でんでん」を攻撃して安倍内閣の支持率を下げ、野党の支持率が高まる効果があるというのなら、大いにやれば良いと思っている。

 ただ問題は、大西議員が「でんでん虫、虫、安倍ソーリ」とtwitterでつぶやいて、それが拡散されたとして(現に拡散されているのだろうが)、それによって印象が悪化してダメージを受けるのは、安倍内閣や自民党なのか、それとも大西議員や民進党の方なのか、ということである。

 大西議員にしても、東京新聞の佐藤氏にしても、「為政者を揶揄・風刺すれば民衆が喜んでくれる」という、ある意味非常に素朴な考え方というか大衆観に立っているようである。

 しかし有権者は、メディアや野党にそんなものを求めているのだろうか。むしろ、政策に対する分析批判や提言を求めているのではないか。つまり有権者はレベルの高い分析や提言を求めているのに、それに対する野党やメディアの答えが「でんでん」というのが、大西議員や佐藤氏ということになる。

 そもそも「でんでん虫、虫、安倍ソーリ」などで内閣の支持率が下がって民進党を支持してもらえると思っているのなら、それは、(安倍内閣に対してではなく)有権者に対する侮辱ではないだろうか。

 たとえていえば、賢い小中学生が普通の小説を読みたいといっているのに、3歳児向けの絵本を与えてご機嫌を取ろうとする大人がいたら、それはバカな大人だろう。このバカな大人こそが、野党やメディアの姿である。

 果たして「でんでん虫、虫、安倍ソーリ」というtwitterによってバカにされて失笑を買うのは、安倍首相ではなく、むしろ大西議員の方ではないだろうか。

 有権者からみれば、具体的な政策議論に結びつかない、漢字の読み間違え等のレベルの揶揄にかまけている野党は、政策論ができない無能者だと思われても仕方がないだろう。

なお、安倍政権に明確に批判的な立場からも、「訂正でんでん」の揶揄で騒ぐ民進党議員などに対する苦言を呈する論者の記事があるので、最後にご紹介しておく。

安倍総理の「訂正でんでん」から考える 嘲笑しても政治は動かない (猪野 亨弁護士)

対馬から盗まれて韓国に持ち込まれた仏像の問題・続き

 対馬から盗まれて韓国に持ち込まれた高麗時代の仏像の問題について、さらに調べてみた。

 韓国の地方裁判所としては

(1)この仏像は、高麗時代(1330年)に作られて「浮石寺」に納められた
(2)対馬の観音寺は、倭寇集団の頭目が1526年に創建した
(3)仏像が制作された1330年以降5回にわたり倭寇がその地域に侵入した記録がある
(4)この仏像の腹蔵記録には、高麗から日本に正常な形で移されたことを示す記載はない
(5)この仏像には、本来あるべき宝冠等がなく、焼け焦げた跡がある

・・・等を根拠として、この仏像は、倭寇によって略奪された後、対馬に運び込まれて、観音寺に置かれることになったと推認したようである。
(以上の(1)~(5)が事実なのかどうかは、もちろん私にはわからない。
ただ、韓国の裁判所は、この(1)~(5)の事実が存在することを認めたうえで、そこから、結論を導いている。)

 このあたりは、以下の韓国メディアの記事が比較的詳しい。

ハンギョレ新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170127-00026356-hankyoreh-kr
中央日報
http://japanese.joins.com/article/129/225129.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|article|ichioshi

 次の疑問として、仮に上記のとおり、この仏像が倭寇によって奪われて対馬に運び込まれたものだとしても、既に観音寺の所有物になっているのではないか、ということである。

 近代より前の時代の所有権の考え方をどう見るかは難しいところなので、ここでは触れないでおくが、とりあえず近代の民法が施行された後の段階だけで考えてみても、「取得時効」という概念があるはずである。
 仮に盗まれたものであることがわかっていたとしても、平穏かつ公然と20年以上占有していれば、所有権を取得するのである。
 観音寺(の宗教法人)は、当然ながら20年以上、この仏像を占有していたわけであるから、日本の民法を前提とするならば、既に観音寺の所有物になっているといえる。

 この点、韓国の民法はどうかといえば、やはり「取得時効」の概念はあるので、日本と大差はないようである。
 (★なお、1910年以降の日韓併合の時代、「朝鮮民事令」という法令により、基本的に朝鮮半島でも日本の民法に拠ることとされていた。私に細かい知識はないので、機会があればもう少し調べてみたいと思う。)

 このように「時効によって取得している」という議論が、裁判でどのように扱われたのかは、定かではない。

 (もっとも、時効によって取得したことを主張できるのは、観音寺であって、韓国政府ではないということかも知れない。
 今回の裁判は、日本への返還を考える韓国政府と、所有権を主張する浮石寺との間の争いであって、観音寺は当事者ではないことに注意。)

対馬で盗まれた仏像について、韓国の裁判所が韓国の寺に所有権を認めた件

 2012年、長崎県対馬市の観音寺から、県指定文化財の仏像「観世音菩薩坐像」が韓国人窃盗団に盗み出され、韓国に運び込まれた後、韓国当局に押収されていた。

 韓国政府はこの仏像を返還する意向を示していたのだが、ある韓国の寺が、この仏像について、「かつて所蔵していたが、中世に日本の倭寇によって略奪された」と主張して、韓国政府を相手取り、仏像を引き渡すよう求めて訴訟を提起していた。

 この訴訟について、韓国の大田地方裁判所は26日、韓国の寺の所有権を認め、仏像を引き渡すよう命じる判決を下したという。

 (たとえば下記リンク参照)

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170126/k10010853511000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_001

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170126-00000037-jij-kr

 

 感情的な話はさておき、この件では2点の疑問を感じた。

(1)仮にこの韓国の寺が中世の時代に本当にこの仏像を所蔵していて、それが倭寇に略奪されて対馬の寺におさまったのだとしても、現在において、この韓国の寺は、現代の法体系での「所有権」をこの仏像について主張できるものなのだろうか。

   韓国の民法は知らないが、日本の民法の場合は、たとえ盗品であることがわかっていたとしても、所有の意思をもって、平穏かつ公然と占有していれば、20年間で時効により所有権を取得できることとされている。

(2)そもそも論として、倭寇が仏像を盗み出して日本の寺に譲ったりするものなのだろうか。当時の日本の寺が、金で買い取ったか、無償で受け取ったかは知らないが、倭寇からその仏像を手に入れたということだろうか。

  倭寇が食料品や金銀財宝や家畜を盗み出すというのは理解出来るが、仏像を盗み出して日本に持ち込んだ例は、実際問題としてあるのだろうか。

 私は報道でしかこの事件のことを知らないので、ふと思い浮かんだ疑問を書いてみた次第である。韓国の裁判所の判決を見てみれば、具体的に説得力ある説明が何か書いてあるのかも知れないが・・・

★上記の(1)の点について若干補足。

まず、中世(高麗時代)のこの寺と、現在の寺(を経営する宗教法人?)との間に、法的な連続性があるといえるのかどうか。

また、1910年に韓国併合が行われて、朝鮮半島でも日本の民法が施行されていたはずであるが、どんなに遅く見てもその時期には、日本列島・朝鮮半島両方を含めた領域において、同一の民法の秩序のもとで、その仏像の所有権を日本の寺が有していることは、確定していたと言えるだろう。

文部科学省の天下りあっせん

 文部科学省の元高等教育局長が退職後に早稲田大学教授に就任した件で、文部科学省が「あっせん」を行っていたことが問題となり、事務次官が引責辞任をすることとなった。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170119/k10010844641000.html

 平成19年に改正された現行の国家公務員法では、再就職を目的として、現職の職員が営利企業や利害関係のある団体に対して、職員やOBの情報を提供したり、就職などを依頼したりすることをすべて禁止しているのだが、文部科学省は人事課や数名の幹部が“組織的”に、このような再就職あっせんを行っていたという。

 報道によれば、この点について、公務員の天下りの問題に詳しい神戸学院大学の中野雅至教授は
 「国家公務員の天下りは法改正などの対策が取られ、この10年ほど、相当厳しい目が注がれてきた。
 そうした中、大学に対する予算や権限を持つ文部科学省の人事課が組織的に関与していたとされる今回のケースは、最近ではめずらしく露骨な『典型的な天下り』と見られ、非常に驚いた
と話しているという。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170118/k10010844321000.html

 他の省庁の例で言えば一般的にいえば、財務省の幹部が金融機関に再就職したり、国土交通省の幹部が道路や空港の会社に転じたりすることは、よく知られていることである。

 ただこれらの財務省や国交省のようなケースが「天下りあっせん」として問題になっていないのは、組織的に関与をしても表沙汰にならないようにしている可能性もあるが、それ以上に、わざわざ官庁が組織的な関与(あっせん)をしなくても天下りが出来るような、暗黙の仕組みのようなものが昔からしっかりできあがっているからではないだろうか

 悪い言い方をすれば、財務省や国交省のような場合は、わざわざ組織的・個別的に天下りをあっせんしなくても、あっさり再就職先を民間企業や団体が用意してくれるほどまで、民間に対する影響力が強いということなのだとも考えられるのである。

 勝手な想像だが、文部科学省は、財務省や国交省に比べると、民間企業や民間団体に対するつながりが若干弱く、そのぶん、表沙汰になるほど組織的に露骨な関与をしなければ天下り先がなかなか確保できないということだったのではないか

2019年元日から新しい元号になる?

天皇の譲位(生前退位)に関する特例法の議論の中で、政府は、2019年元日に今上天皇から皇太子への譲位が行われるようにする方向で検討しているとのことで、各メディアも報道している。
国民生活への影響を小さくするため、新元号は事前に公表したうえで、2019年元日から開始する構想だという。

(たとえば次の記事参照:http://toyokeizai.net/articles/-/153151

 ちなみに元号は「元号法」という法律で定められており、この法律は2つの項目だけから成り立っている。

「1   元号は、政令で定める。
  2   元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。 」

 皇位が生前に継承されるようになっても、新たな元号が行われるのが皇位継承の時だけであるということに変わりはないから、譲位が行われるようになったとしても、元号法は改正する必要はない。

 この元号法は、「昭和54年6月12日法律第43号」とされている。つまり昭和54年(1979年)6月12日に公布・施行された法律であって、それより前には元号について定めた法律は存在しなかったのである。
 もう少し正確にいうと、戦前の旧皇室典範の第12条では「践祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」とあり、皇位継承に伴って新たな元号を定めることが明記されていたが、戦後の皇室典範ではこの規定がなくなったまま、元号についての法律上の規定が何もない状態が昭和54年まで続いていたということである。
 つまり戦後の現行憲法の時代になってからは、この昭和54年の元号法施行までは、法律上の規定が何もないまま、ただ単に慣習として「昭和」という元号が使われ続けていたというわけだ。

 さて、実際問題として今日では、実務上、元号表記を使用するというのは、各種システムの対応を考えてみてもかなり煩雑である。
このため、元号を廃止して西暦で統一すべきだという意見もそれなりに多いようである。

 実は、さきほど紹介した昭和54年の元号法制定の時も反対意見がそれなりにあり、国会では旧社会党や共産党が反対していた。
 反対理由は、煩雑だからというよりも、「皇位に結び付いた元号制度は天皇への崇拝につながる」など、主として思想的な理由だった。

 今日でもそういう理由で元号廃止論を唱える人がいないわけではないが、むしろ思想的な理由ではなく、「面倒だから」「実務で不便だから」というのが主流だろう。

(たとえば池田信夫の次のコラム。http://agora-web.jp/archives/2023767.html

 さて、どう考えるべきだろうか。

 合理性からいえば元号廃止論の方が筋が通っているが、せっかくこれまで続いてきたのだからという意見も捨てがたい。

 そこで、実務的な使用からは元号を切り離し、元号は一定の儀礼・文化的な面での使用だけに限定するようにしてはどうだろうか。

たとえば

(1)官公庁に提出する書類は、すべて西暦表記だけに統一する
(2)官公庁が発行する書類も、原則として西暦表記とするが、場合により元号を「(  )」等で併記するのは差し支えない
(3)皇室が関係する儀式・式典等に関連する文書等は、原則として元号表記とするが、場合により(2)と同様にすることも差し支えない

・・というふうにしてはどうか。
(このようにすれば、民間の一般的なビジネス上の使用は自然にほぼ西暦だけになっていくだろう。)

 元号は、たとえていえば特殊な儀式だけの時に着る礼服や和服のようなものとして位置づけ、普段の生活で着る服は西暦とするわけである。

より以前の記事一覧

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