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LINE上級執行役員の「憲法って、ただの紙の上に書かれた文章」発言

 LINEの上級執行役員の田端信太郎という人が、ツィッターである人と議論していて、

納税している人は納税していない人と比べて社会の存続を考えるうえで比較すれば、有用であるということ。そして納税していない人が、公的な再分配を受け取る程度は、納税している人を含めた民主的な政治決定の結果をはみ出ることはできない、ということに合意されるということですね。”

と述べると、それについて相手側が

それには合意できないです。憲法では、全ての個人に生存権が保証されているので。”

と答えた。

 そこでさらに田端は、

 “憲法って、ただの紙の上に書かれた文章ですよね。。。実際に餓死しそうな人がいるときに、「憲法」がアンパンを恵んでくれたりするのですか? 誰か、生身の人間が、お金を出してアンパン買うところから始まりますよね?

 とコメントしたのだが、これがネット上で賛否両論を巻き起こし、また勤務先の会社から厳重注意を受けたそうである。

 (ITmediaの記事参照) 

 私なりの感想をいうならば、田端は、「憲法は紙切れにすぎないから無視して良い」とか「憲法には価値がない」とかいうレベルの主張をしているのではなく、憲法それ自体が直接的に人間の生存を保証する給付を与えてくれる機能を持っているわけではない(=憲法に「生存権」の条項を書き入れても、現実には公的財源の裏付けがなければどうにもならない)という意味のことを言おうとしているのだと思われる。

 憲法は25条で「生存権」を保障している。これは、国や自治体が、国民に対して最低限の生活ができるための一定の給付を与えることを憲法によって義務づけられているということである。生活保護が代表的なものだが、食料や住居を現物支給するという制度も理屈としては考えられるだろう。

 とばいえ、憲法に生存権が規定されていれば、それだけで生活保護費等が自動的にどこかからわき出てくるわけではなく、そのための財源がなければならない。その財源は税収によってまかなわれる。

 つまり田端は、憲法それ自体に生活保護を直接給付できる機能があるわけではなくて、誰かが納税して国が生活保護の財源を確保することによって初めて生存権が保障される、という当たり前のことを、いささか挑発的に述べたのではないか

 憲法の教科書を学んだ人なら誰でもわかると思うが、この「生存権」は、同じ憲法で保障された他の権利、たとえば「信教の自由」(20条)などと違う、際だった特徴がある。

 たとえばカトリックや浄土真宗を信仰する人の信教の自由は、政府=公権力がカトリックや浄土真宗を弾圧したり、違う宗教を信じるように押しつけたりしなければ、守られる。
 ここでは政府は何もしなければ良いのであり、憲法は、公権力を制限して、個人の自由を守る働きをする。政府が個人の自由を侵害すれば、憲法違反となる。(このような権利を「消極的自由権」ともいう。)

 これに対して「生存権」は、政府が何もしなければ、どうすることもできない。政府が積極的に動いて、生活困難な人に対して何らかの金銭や物品を給付することで、初めて「生存権」が保障されることになるからである。
 
 この場合、いくつかの問題が出てくる。まず、政府は、どの程度の給付を支給すれば、憲法の「生存権」に違反しないのだろうか。たとえば生活保護を支給するとして、いくらであれば、憲法違反にならずに済むのだろうか。
 さらに、上記の問題がクリアできて、一応の生活保護として支給すべき水準がある程度は基準として決めることができるとしても、実際の財源がどうしても足りない場合は、どうすれば良いのだろうか。

 このように、「生存権」は憲法上の権利ではあるが、それをどのように実現するかについては、「信教の自由」などとは違う困難な問題があるわけである。

 さて、今回の田端の発言で本当に議論の対象とするべきなのは、「憲法がただの紙の上の文章」という部分ではなく、その前の「納税していない人が、公的な再分配を受け取る程度は、納税している人を含めた民主的な政治決定の結果をはみ出ることはできない」という部分である。

 憲法の規範レベルの問題でいえば、公的な再配分=生活保護等は、民主的な政治決定のプロセスで定めさえすれば、どのようにでも変えて良いというわけではない。
 たとえば、“民主的な政治決定”の結果として、一切の生活保護は月5千円の給付だけとすることは、さすがに(現在の物価水準を前提として)憲法違反だろう。かなり稀なケースを除いて、月5千円ではまず生活できないからである。
 いかに民主的な意思決定の結果として、生活保護を月5千円と決めたのだとしても、それは生存権を侵害するものであり、憲法違反と評価されるだろう。つまりどのように民主的な意思決定の結果であっても、憲法に違反することはできないのである。その意味では、田端の議論相手の人物の「憲法では、すべての個人に生存権が保障されている。」という反論は正しい。

 しかし次の段階として、現実の経済的制約の問題が出てくる。どのように財源を探しても、増税しても何をしても、財政上の制約があって、生活保護を1人あたり月5千円しか支給できない場合は、いくら憲法違反だと言ったところでどうしようもないではないか、という問題である。ここは、田端の表現を借りれば「有用」な存在である「納税者」を確保し、その活動を促進して税収を維持するような施策をするしかないということになるだろう。

神社本庁の「日本人でよかった」のポスターの中国人モデルに帰化してもらおう!

神社本庁が2011年に「私 日本人でよかった」というキャッチコピーを付けた女性の写真を使ったポスターを製作し、6万枚作成して全国の神社に配布していた。これは日の丸掲揚を提唱する趣旨のポスターだという。

ところがこの写真のモデルの女性は、なんと中国人だったということで、ネットで話題になっている。
いろいろな写真の画像ファイルを有償でダウンロードして利用できるサービスの会社「ゲッティ・イメージズ」の女性モデル画像を業者が使ったのだが、それは中国人女性だったのだ。

(参考)
ハフィントンポストの記事


神社本庁は今のところ、特に問題とするつもりはないようだが、そうは言ってもせっかく「日本人でよかった」というポスターを作ったのに、モデルが中国人女性というのではガッカリで、“国旗掲揚”の啓発のポスターの効果に水を差されたような気分になるのではないだろうか。
しかし物は考えようである。発想を逆転して、この中国人女性を探し出して(上記のハフィントンポストの記事によれば、撮影したカメラマンには特定して接触できているから、女性を探すのも不可能ではなさそうだ)、日本に帰化してもらってはどうだろうか

この女性が日本に帰化すれば、「日本人でよかった」のポスターのモデルは「日本人」だということになるから、何の問題もなくなる。
ただし帰化するためには様々な要件をみたして、法務大臣の許可を得ることが必要だから、必ず実現できるとは限らない。
帰化のための具体的な要件は、国籍法第5条第1項に定めがあり、「引き続き5年以上日本に住所を有すること」「自己又は生計を一にする配偶者その他の親族の資産又は技能によつて生計を営むことができること」など、なかなか面倒だ。
しかも、この第5条第1項の要件を充たしても、必ず法務大臣が帰化を許可しなければならないわけではない。帰化を許可することが「できる」というだけである。
いずれにしても、この女性が現在中国に在住しているとすれば、「5年以上日本に住所を有すること」という要件を充たしていないことになり、少なくとも今の時点では帰化できないことになってしまう。
しかし別な手がないわけではない。
国籍法の第9条を見てみると、「日本に特別の功労のある外国人については、法務大臣は、第5条第1項の規定にかかわらず、国会の承認を得て、その帰化を許可することができる。」と規定されており、「特別の功労」がある外国人なら、さきほどの第5条1項の面倒な要件を充たさなくても、帰化の許可を受ける道があるのだ。

この中国人女性は、国旗掲揚の啓発ポスターのモデルになってくれたのだから、「日本に特別の功労のある外国人」といえるのではないか。あとは法務大臣と国会次第で、この女性に日本人になってもらえるのだ。
この女性が本当に「日本人になれてよかった」と言ってくれるなら、なかなか素晴らしいことだろう。

(以上、もちろん冗談です。というかご本人の意思を何にも考えていませんが。)

安倍首相「憲法は9条改正を優先」に憲法学者はどう答える?

 安倍首相は、憲法改正について、9条を改正して自衛隊を憲法に明確に位置づけることを優先する、と述べている。

 政府の解釈論というか公式見解としては、自衛隊も、さらには安保法制も合憲とされているので、それならば逆に、9条を改正する必要などないという話になってしまうと思っていたのだが、この点について安倍首相は、「残念ながら憲法学者の多くが違憲と言っている。そういう状況を変えるのは私たちの責任だ」と国会答弁で説明したようである。
時事通信の記事参照

 憲法学者の中では、時代とともに自衛隊合憲論が次第に増えてきてはいるように思うが、主流は依然として自衛隊違憲論なのではないだろうか。(以前のエントリでも触れた

 いずれにしても憲法学者に対して「政府は自衛隊は合憲だと思うが、お前たち学者の多数派が違憲論を主張しているので、改正せざるを得ない」というふうに首相からボールをストレートに投げつけた格好になった。

 これに対して憲法学者の世界から、何らかの反応や問題提起が出てくれば面白いと思うのだが、どうだろうか。

 ここで思考の実験をしてみようと思う。仮に私が憲法学者で、自衛隊違憲論者で、しかも9条改正反対派だとする。そのうえで、自衛隊を廃止して非武装中立国家になるというのは非現実的なので(なんらかの程度は)自衛隊の存在を是認せざるを得ない・・・と考えているとしたら、この安倍首相の問題提起に対してどう答えるだろうか。

 とりあえず、説明の仕方としては、2つのパターンが考えられる。

(1)自衛隊は違憲であるから、解散すべきである。しかしすぐには解散できない。従って、いずれ自衛隊が解散して非武装中立の国家になれるように、政府は真剣に平和外交その他の施策に取り組まなければならない。いつの日か、非武装中立が可能な時代が来るまで、何十年、何百年かかかるかわからないが、その不断の努力の過程の中で、あくまでもやむを得ない暫定的な途中経過の状態としてであれば、自衛隊の存在は認められる。
 自衛隊は違憲だが、その違憲状態を長い時間をかけて解消していくプロセスの中にあると考えて、当面はやむを得ない範囲で維持しつつも、努力をしていかなければならない。

(2)自分は自衛隊は違憲だと考えているが、合憲だという解釈論も説として一応は成り立たないわけではない。つまり違憲説と合憲説の両方が存在する。もちろん政府は、自衛隊を現に運用している立場であるから、合憲だと主張している。しかし違憲説が有力に存在しているということは、現に安倍首相が認めている。
 つまり、憲法9条がある限り、政府も一応、自衛隊違憲説が存在することを、頭の中で意識しないわけにはいかない。これが9条の価値である。
 違憲説が存在する以上は、政府も、どこかで、自衛隊の運用に慎重になり、暴走しないようになるはずである。9条が改正されて、違憲説がまったく存在しなくなってしまったら、政府は安易に軍備拡張や軍事行動に走ってしまう危険があるのではないか。

・・・いかがなものだろうか?
 ただしこの2つの説明に難点がないわけではない。
 (1)は、「非武装中立が可能な時代」がいつまでも来なければ、結局はなし崩しの現状追認と同じであるし、(2)は、自分は違憲論だといっておきながら、政府が合憲論を根拠に自衛隊を保持・運用することを最初から認めて織り込んでしまっているのと同じなのである。
 とりわけ、自分で考えておいて否定的なことを言うのも妙だが、(2)の主張は、正確には「自衛隊違憲論」というより、「自衛隊違憲論が存在することがプラスになっている論」というべきだろう。

護憲派が「天皇」を持ち出すということについて

 一昔前はあまり考えられなかったのだが、いわゆる護憲派や“リベラル”の論者・メディアが、護憲を訴える際に「天皇」を持ち出すという手法が見受けられるようになっている。

 まず、現行憲法下で即位し、憲法尊重を表明している今上天皇の個別の言動を持ち出すやり方は、今ではすっかりおなじみとなり、今上天皇が今や「護憲のシンボル」であるかのような言説も頻繁に見受けられる。

 また直近の例でいえば、5月3日の朝日新聞の記事(ハフィントンポストで全文を読むことができる)では、昭和天皇が、戦争直後の1946年に、GHQの憲法草案について積極的に受け入れるよう発言したというエピソード(を示す資料)が紹介されていた。

“ 憲法草案に「いいじゃないか」 昭和天皇の発言、メモに

 「これでいいじゃないか」――。日本国憲法起草のもとになった連合国軍総司令部(GHQ)草案の受け入れをめぐり、1946年2月22日に昭和天皇が幣原(しではら)喜重郎首相(当時)と面談した際の天皇の発言を示すメモが、憲法学者の故宮沢俊義・東大教授のノートに記されていたことがわかった。「安心して、これで行くことに腹をきめた」という幣原氏の心情も記載されている。 ”

 この記事は、様々な視点からの分析が可能だろうが、わざわざ昭和天皇が憲法草案について「いいじゃないか」と言ったということを強調しているということは、「今の憲法は、昭和天皇が積極的に受け入れることに同意したのだから、右派の人間が今の憲法を叩くのはおかしい」とでもいいたいニュアンスを読み取ることができるだろう。

 このように、護憲派が護憲の主張のために天皇を持ち出すのは、「改憲派は尊王右翼だから、逆に天皇が現行の憲法を尊重している話をを持ち出せば、へこませることができるだろう」という計算に基づいているのだろう。

 実際、改憲運動で目立つのが、日本会議のように、尊王的・復古的な流れを汲むグループの人々であることは事実だろう。

 しかし、世論の中で改憲を支持するのは、そのような“復古派”ばかりではない。
むしろ天皇に特別な思い入れのない、また復古主義的でも何でも無い人々の間に、「今の9条では安全保障上問題があるのではないか」「自衛隊を明確に位置づけるべきではないか」などと考える人が着実に増えてきており、おそらく世論の「改憲肯定」派の多数を占めていると思われる

 「改憲派は、復古派・尊王派だから、天皇を持ち出して反撃してやろう」というスタンスのメディアは、特に復古的でも尊王的でもない大衆の間で、改憲に肯定的な傾向が広がっていることをどう見ているのだろうか。

 参考:共同通信の憲法についてのアンケート(東京新聞より)

 

今村復興相、「東北で良かった」発言で辞任

 今村復興相は、25日、所属する自民党二階派のパーティーでの講演で、東日本大震災の被害に関して「まだ東北で、あっちの方だったから良かった。首都圏に近かったりすると、莫大(ばくだい)な、甚大な額になった」などと発言して非難を浴びていたが、早くも辞任の意向を固めたという。

参照:産経新聞の記事

 私は先日のエントリーで、今村復興相と山本地方創世相のそれぞれの「失言」を比較したばかりである。今村復興相の自主避難に関するあの発言は、あくまで政策の妥当性の問題であって、大臣個人の失言とか暴言と考えるべきではないと今でも考えている。自主避難については、若干の表現の仕方はさておき、今村復興相は、政府全体の方針に則って発言していただけだからである。(ただし山本地方創世相の「学芸員はガン」発言はそうではない。政府の方針とは何にも関係はない、まさに「失言」である。)

 これに対して今回の今村復興相の発言は、「失言」「暴言」と非難されてもやむをえないだろう。厳密にいうと、非難されるべきは、前半の「東北だから良かった」の部分であって、後半の「首都圏に近かったらもっと損害が大きかっただろう」という部分ではない。

 なお、この発言について、「ホンネはともかく、実際にそう思ってても言ってはいけない」という評価の仕方をする人もいる。間違いではないが、少々ピントがずれていると思う。
 「東北だから良かった」というのは、「あいつを本当はぶん殴ってみたい」とか「他人の不幸が面白い」というほどではないにしても、やはり劣悪な発想である。
 もちろん人間というものは完全な存在ではないから、大臣でも一般人でも、私でも誰でも、いろいろ劣悪な発想を心の中で思い浮かべることはある。心の中で思い浮かべるだけなら、いちいち非難する必要はない。
 しかし、いちいち「他人を殴ってみたいと心で思っていても、口に出してはいけない」などと注意する意味はあるのだろうか。そのようなことは、わざわざ言われなければわからないのだろうか。
 そもそも一般人が思いつきでいった発言ではなく、政治家、それも東北の復興を仕事とする大臣の発言なのである。「復興大臣は、東北を復興するのが仕事なのだから、『東北でなくて良かった』ということを、心では思っていても、実際には口に出してはいけない」などとわざわざ注意してあげなければわからないのだろうか。そういう問題ではあるまい。

東芝が自社株購入呼びかけ

共同通信の記事によると、東芝が社員に「持株会」で、自社株の購入を呼びかけたという。

記事によれば

経営再建中の東芝が、東京証券取引所による「監理銘柄」の指定で上場廃止の恐れが指摘される中、社員向けに自社株購入を呼び掛けていたことが21日、分かった。自社株を保有する社員の多くは、系列の米原発会社の経営破綻などを背景に株価低下で含み損が出ており「会社のモラルを疑う」と反発している。

 東芝関係者によると「東芝持株会2017年度4月定例募集に関する件」と題した文書で全社員に周知された。4月3日から募集を始め、監査法人からの適正意見を得ずに決算発表するなど混乱が続く中で21日に締め切った。

・・・ということである。

記事をなんとなく読むと、経営危機に陥って株価が低迷しているので、株価を維持するために無理矢理社員に買うように呼びかけているかのような印象を受けるが、そうではないだろう。

社員(東芝では、「従業員」と呼ぶのが正式である)に配布された文書が「東芝持株会2017年度4月定例募集に関する件」と題されていることからもわかるように、これは、あくまで定期的な持株会の募集のルーチンの通知にすぎない。

たまたまこういう時期だからマスコミに取り上げられて騒がれているだけであって、経営危機であろうとなかろうと、東芝が持株会制度を備えている限り、定期的に従業員に配られる通知である。

もちろん、従業員に配られた通知に「危機の今こそ、持株会に入って、会社の株を支えましょう」とでもいう社長名義の文章があったら話は別だが、そんな文章があれば、マスコミに漏れてもっと騒がれているはずである。

今村復興相と山本地方創世相の「失言」は同列に扱うことはできない!

 今村雅弘復興担当相山本幸三地方創世相の発言が、相次いで「失言」「暴言」として取り上げられている。
 しかしこの2人の大臣の発言は、まったく位置づけというか意味合いが違うので、同列に扱うことはできない。

 まず今村復興相の発言は、基本的には政府の方針に沿っているものであって、「被災者の感情を大臣が踏みにじったかどうか」を独立して議論しても仕方ないものである。

 例の発言の経緯としては、福島県が自主避難者への住宅の無償提供が3月末で打ち切ったことが話題として取り上げられて、そのうえで復興相は「(帰るか避難を続けるかは)基本的に本人が判断すること」と述べ、さらにまだ帰還できない(自主避難の)人については、「本人の責任、本人の判断」と述べている。

 (なお、避難したこと自体が自己責任、という意味ではなく、今なお帰らないのは自己責任、という意味だろう。)

 これは、善し悪しはともかくとして、政府の現在の基本的な方針を反映したものであって、復興相個人が適任かどうかとか失言とかいう問題ではない。復興相は政府の方針に沿った発言をしたに過ぎない。
 (政府全体としては自主避難者について「本人の責任、本人の判断」と考えていないのに、復興相が勝手にそういう発言をしたというなら、もちろん話は別であるが。)
 復興相が辞任したり発言を撤回したたところで、この政府の政策が変わるわけではない。

 もちろん政府として公に「自己責任論」という露骨な言い方をしているわけではないが、基本的方向性はそういうことであって、それがいけないとすれば、復興担当大臣を替えることによってではなく、政府の政策全体を議論して変更することによって解決するしかないだろう。

 つまり議論すべきは、今村大臣の発言の善し悪しではなく、自主避難者への支援をどこまで政策として行うかということなのである。
 
 一方、山本幸三地方創世大臣の方はどうかといえば、「学芸員はガンだ、一掃すべき」というのは、表現自体の善し悪しもさることながら、まさか政府が、公的な制度である「学芸員」を、地方創世にとって有害な存在だと考えて一掃するような政策方針で動いているわけではないから、暴言以外の何者でもなく、このような勝手な発言をする者が大臣にふさわしいかどうかを正面から議論すべきである。

 今村大臣は(言い方の善し悪しは別として)政府の方針に沿った発言をしたが、山本大臣は、政府の方針とは何の関わりもない暴言を吐いた。これが両者の違いである。

香山リカがチャンネル桜および出演者に対して訴訟を提起

 香山リカの3月30日付のブログ記事によれば、チャンネル桜のインターネット番組『沖縄の声』に出演した人物3名と、株式会社日本文化チャンネル桜を相手として、東京地裁に訴えを提起したという。

 香山リカ自身のブログおよびツィッターでは、「東京地裁に訴えを提起しました」という言い方しかしていないが、事案の内容を見る限りでは、名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟ということだろう。

 (ここで政治的・思想的な次元の議論には触れるつもりはないが)問題となったチャンネル桜の番組を私は見ていないので、香山リカ自身のブログ記事での説明をとりあえず紹介すると:

 チャンネル桜の2016年10月27日の 「【沖縄の声】ヘリパッド反対派を初起訴、香山リカのツイートが法に触れる可能性あり」というタイトルのコンテンツで、まず、キャスターの栗秋琢磨という人が、香山リカについて、「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」を自らのツィッター投稿により犯していると主張し、さらに、「香山リカの勤務先の診療所に医師法の違反が疑われて監査が入った」「千代田の保健所から監査が入った」等という趣旨のことを述べ、それについて、平原伸泰および鉢嶺元治という出演者が相づちを打つなどした、ということのようである。

 まず、香山リカのツィッターでの一定の言動が「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」にあたるかどうかは、問題となっている特定の言動が具体的にどのようなものだったのか、そしてそれをどのように法的に評価するかの問題であるが、ここでは立ち入らない。

 一方、「保健所から監査が入った」と述べた点については、一定の事実についての主張であるが、監査が実際におこなわれていたかどうかにかかわらず、まず、それは香山リカの社会的評価を低下させる発言として、名誉毀損にあたると評価される可能性がある。名誉毀損は、真実であったとしても成立しうる。
 (ただし、以下に述べるとおり、一般論としては、一定の要件をみたす場合に、主張した内容が真実であるか、真実だと誤信したことに相当の理由があった場合に、違法性が阻却されて、名誉毀損が成立しなくなる場合もある。)

 この件で、栗秋が反論するとすれば、名誉毀損について、違法性阻却の事由があることを主張するのが定石だろう。
 具体的には、①自分が香山リカについて述べたことは、公共の利害に関する事実にかかるもので、②目的がもっぱら公益を図ることであり、③真実である(または真実でなかったとしても、真実だと誤信するのに相当の理由があった)、と主張すると思われる。もちろんこの主張が裁判所で認められるかどうかは、やってみなければわからない。

 なお、ブログでの説明を見る限りでは、平原および鉢嶺という人は、ただ単に相づちを打つに近い発言だったようにも見える。ただ単に相づちを打っただけでも名誉毀損にあたるのかどうかという点は、興味深い論点になる可能性があるだろう。(実際の番組では、もっと踏み込んだ発言をしていたのかも知れないが、そこは見ていないのでわからない。)

東京メトロ売店の正社員と契約社員の「差別」問題

 東京メトロの売店を運営する子会社に雇用された契約社員(非正規)が、同じく売店にもっぱら従事している正社員との間で、賃金などの処遇に違いがあるのは、労働契約法20条に違反した差別だとして、会社側を訴えた訴訟が東京地裁に係属していたが、3月23日にその判決があった。

 (いろいろな報道があるが、BuzzFeedのこの記事が比較的詳しい。) 

 本ブログの以前のエントリでもこの事件について触れたことがあるが、これまでの報道で見た限りでは、経緯はおおむね次の通りである。

 東京メトロ子会社には、正社員と契約社員の両方が雇用されていて、①正社員の中には、売店業務しか従事しない者も、そうでない者もいるが、②契約社員は、売店業務しか従事していない。
 そして契約社員が、「売店業務しか従事しない正社員」と比較して、担当する業務はまったく同じであるにもかかわらず、賃金その他で劣った扱いを受けるのは差別だとして訴訟を提起したのである。

 これについて東京地裁は、「売店業務しか従事しない正社員」ではなく「すべての正社員」と契約社員の労働条件を比較して、その差異には合理性があり、不当な差別ではない、と判断したということのようである。(正社員には、配置転換、職種変更や昇進の可能性があるが、契約社員にはそれがない、等々)

 これに対して原告側は、契約社員と比較すべきなのは、「すべての正社員」ではなく「売店業務しか従事しない正社員」だ、と主張している。
 「売店業務しか従事しない正社員」と「契約社員」は、どちらも仕事は同じ売店の業務で、しかもそれ以外の仕事に就くことはないのに、なぜ扱いが違うのか、というわけだ。

 これはどう考えるべきなのか。

 報道から見る限りでは、「売店業務しか従事しない正社員」も、それ以外の正社員も、すべて同じ就業規則の体系の中で勤務している。つまり、正社員はすべて、最近流行の言い方でいえば「ジョブ無限定正社員」ということになる。

 会社の扱いとしては、売店業限定だろうと、管理職候補だろうと、とにかく「正社員」は一種類しかなく、明文の区別は何もないようである。売店業務しか従事しない正社員も、「売店限定の正社員」として採用されているわけではなく、単なる「ジョブ無限定正社員」に違いはないのであって、そのうえで、“結果として”売店業務だけを行ってきただけだ、ということなのだろう。(もちろん正社員同士の間でも、賃金や資格などの違いはあるだろう。それは同じ賃金や処遇の体系の中での違いである。)

 このような中で、「売店業務しか担当していない正社員」と「契約社員」を比較して差別を論じるロジックは、実はなかなか困難な面がある。
 会社の理屈では、「正社員」には「ジョブ無限定の正社員」ただ一種類しか存在しない。「売店業務しか担当しない正社員」などというのは、制度上は存在しないのである。もちろん現実には、売店業務しか担当していない正社員もいるのだが、それは、ジョブ無限定の正社員が、“たまたま”“結果的に”そうなっているというだけということになる。従って、「ジョブ無限定の正社員全般」と「(売店しか担当しない)契約社員」とを比較すべきだということになる。そして東京地裁の判決も、この会社側の理屈に沿ったようである。

 ただし、これはタテマエの世界の話であって、ホンネはもちろん違うだろう。

 ホンネレベルでいえば、おそらく一定の正社員(学歴や性別や入社時の本人の希望などで区別しているはず)については、売店業務しか担当させないという不文律の扱いがあるはずである。ただし、それは決して契約や就業規則のような明示的な形で表に出てくることはないだろう。

 日本の多くの大企業では、将来の管理職候補と目される大卒も、売店や工場勤務を前提として採用された者も、労働契約書や就業規則でその職務を明確に限定・区別されているわけではない。
 もちろん入社時点の学歴その他の要素で、初任給に違いはあるだろうし、担当する業務に応じた賃金の違いが多かれ少なかれあるだろうし、様々な要因で資格や役職や昇給に違いは当然出てくるが、どれも同じ一つの「正社員」の処遇の体系の中の位置づけの違いにすぎないのである。

 本社の幹部要員だろうと、工場や売店の担当者だろうと、「同じ正社員」というタテマエの中で守られているのだ。(実際、一般的な大企業では、工場や売店に勤務することを期待される正社員の大半は、工場や売店だけでその会社生活を終えるのだろうが、中には違う職種に移動するケースもなくはない。)

 さて、実際問題としてどう考えるべきなのだろうか。
 会社や裁判所のように、
 「正社員の中には職務の区別はない。売店だけを担当している者は、たまたまそうなっているだけだ。だから正社員全般と契約社員を比較して、不当な差別かどうかを判断すべきだ。」と考えるのが妥当なのか。
 それとも原告側のように
 「正社員の中には、売店だけを担当する者もいる。その者だけと契約社員を比較すべきだ。」
 と考えるべきか。

 後者の原告の理屈を推し進めると、実は別な問題が出てくる。

 つまり「売店しか担当しない正社員がいるなら、逆に、その賃金が高すぎるのではないか。本当はもっと低くして、契約社員に合わせるべきではないか。なぜ契約社員よりも高い賃金を払っているのか」という議論が出てくる可能性があるのだ。

 というより、会社の本当の奥深いところにあるホンネは、それなのではないかと私は疑っている。会社は、売店の契約社員の賃金を正社員よりも低く抑えておきたいのではなく、逆に、売店担当の正社員の賃金を低く下げたいと考えているのではないだろうか。ただ、正社員の賃金を下げるのが極めて困難(法的論点にはここでは立ち入らないが、労働条件の不利益変更の問題である)であるため、それができないでいるだけなのではないだろうか。

 この件の経緯についての私の推測は、以前の記事でも触れたとおりだが、

 (1)売店業務を担当するのは、もともとはすべて正社員だけだった
 (2)しかし会社は、売店業務は、いずれすべて契約社員に置き換えて、正社員ゼロにすることを考えている
 (3)そこで、売店業務に契約社員だけを採用して配属するようにして、新たな正社員の配属はやめた
 (4)現在売店に勤務している正社員については、定年で退職するのを待っている状態。
 (5)従って現時点では、売店に正社員と契約社員の両方が混在する状態になっており、「同じ仕事なのに労働条件が違う」という問題が起こっている。
 (6)しかしいずれ正社員は定年でゼロになり、売店業務を担当するのはすべて契約社員だけになるから、その時点で差別という問題が「解決」することを会社は期待している

・・・ということではないかということである。

呪いのわら人形と脅迫罪

 朝日新聞の記事によれば、群馬県で、ゲームセンター経営者の女性の名前を書いた“呪いのわら人形”に釘を刺して、その女性が使っている駐車場に置いておいた男が、脅迫罪の疑いで逮捕されたという。

 法学を学んだ人なら知っていると思うが、刑法の教科書によく出てくる論点として、「わら人形に釘を刺して誰かを呪い殺そうとしたら(=“丑の刻参り”)殺人未遂になるか?」というのがある。
 もちろんわら人形で呪っても人を殺すことはできない(と現代の科学では考えられている)ので、結論としては殺人未遂にはならないのだが、この記事の事案では「殺人罪(の未遂)」ではなく、「脅迫罪」で逮捕されている。

 脅迫罪は、相手の生命、身体、自由、名誉または財産に対して害を加えるということを告知して脅した場合に成立する。

 この記事の事件は裁判にはまだ至っていないのだが、脅迫罪にあたると警察が判断した理由は、いうまでもなく呪いに危険なパワーがあるからではなく、呪いのわら人形に釘を刺して相手に見せつける行為は、今後(単なる呪いにとどまらず)現実に危害を加える意思があることを示したことにもなると考えられたからだろう。
 一般的にいって、釘の刺されたわら人形を見て恐怖を感じるとすれば、それは呪いのパワーが恐ろしいからではなく、本当に刺されたりするのではないかと思うからである。

 ただ実際には、脅迫といえるかどうかの線引きが微妙な事案は多いと思われる。
 たとえば「お前を殺してやる」といえば、実際に殺す意思はなかったとしても、相手に「殺されるのではないか」と思わせて脅す意思はあったことになるから、脅迫罪が成立しうる。
 しかし「お前は神の怒りに触れて落雷により死ぬだろう」と言ったとしても、神の怒りや落雷を自分でコントロールできるとは普通は考えられていないから、脅迫罪にはあたらないというのが、一般的な刑法の文献での説明である。
 ただし、脅迫する側の人間には神の怒りや落雷をコントロールできる能力がある、と相手側が信じている場合は、脅迫罪が成立するとされる。(たとえば、神通力があると称している宗教の教祖が、その信者を脅すような場合である。)

 なお脅迫罪は、さきほど述べたように、相手側に「告知」しなければ成立しない罪である。従って、相手に知らせることなく、こっそり丑の刻参りをしてわら人形に釘を刺しても、それだけでは脅迫罪は成立しない。相手の聞いてないところで「お前を殺してやる」と言ったところで脅迫罪には当然あたらないのと同じことである。

より以前の記事一覧

2017年5月
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