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内閣総理大臣は「日本民族」の族長ではない件

 ここ数日で急にアクセス数というかPV数が激増したので驚いた。特別普段と変わったことをした覚えはないのだが、心当たりとしては、『ざわざわ森のがんこちゃん エピソード0』を取り上げたことくらいだろうか。

 さて今回も、例の朝日新聞の特集『我々はどこから来て、どこへ向かうのか』からまず話を始める。この特集の1月3日の記事は、「日本人って何だろう」と題するもので

 「様々なルーツを持つ日本人の活躍が、珍しくなくなった。「同質」を自分たちの特徴と考えてきた日本人。その自画像は、変わっていくのだろうか。」

という文章から始まるものだった。

 見てのとおり、この朝日の記事は「様々なルーツを持つ日本人」という言葉で始まっていて、外国から帰化した人物や外国人を親に持つ人物を取り上げているが、ここでいう「日本人」とは、いうまでもなく「日本国民」という意味である。

 一方NHKは、2016年4月に『サイエンスZERO』で、『日本人のルーツ発見!“核DNA解析”が解き明かす縄文人』という放送をしている。また、さらにさかのぼって2001年にも、『日本人 はるかな旅』という特集番組を放送しているが、ここでも「日本人のルーツ」という表現を使っている。
(私は後者の番組しか見ていないのだが、縄文人が遺伝的にシベリアのブリヤート人と近いといっていた。)

 こちらのNHKの番組でいう「日本人」という言葉は、朝日新聞の記事とは意味が違っている。
 まず「日本国民」という意味ではないことは明らかである。「日本国民」とは、法的に日本国籍を有する者という意味であって、その遺伝子がどこに由来するかとはまったく関係がない。「法的な日本国民のルーツはシベリアで…」などという記述をするのはおかしな話である。

 それでは「日本民族」という意味なのかといえば、それもしっくりこない。
 そもそも「民族」の概念自体がかなりあやふやであり、法律上の定めがあるわけでもないし、学問上も明確に定義されているわけでもない。最近は学問的な文脈では「民族」という概念を使用するのを避ける動きも有力となっていると聞く。
 それでもあえて「民族」という概念を考えてみると、一応は言語とか文化や伝統(これもかなり曖昧だが)の共通性がある集団を想定している言葉ではあるだろう。
 しかしこの意味での「日本民族」のルーツが遺伝子だかDNAの研究で明らかになったのかというと、それもおかしな話である。言語や伝統文化は、遺伝子やDNAによって伝わるものではないし、縄文時代の遺伝子の由来するどこかの地域の古代の人間が、日本の言語や伝統文化の祖になる要素を持っていたかどうかなどわからないのである。

 こう考えてみると、NHKは「日本人のルーツ」という表現を、かなりいい加減に使っていると言わざるを得ないのではないか。本来であれば、そのままずばり「縄文人のルーツ」と呼ぶか、または「日本列島住民のルーツ」とでもいうのが妥当だったと思う。

 なお現在でも「日本人の遺伝子には○○の性質があるが、韓国人の遺伝子にはそれがない」という類の主張をする人がときおり見受けられるが、均一な遺伝子を持つ人間の集団としての「日本人」「韓国人」というグループが存在するわけではない。「日本国民には○○の性質の遺伝子を持つ人が相当割合いるが…」という程度の言い方にとどめるべきだろう。

 日本国は、何かの均一な遺伝子を持つ人間の集団の国家ではないし、「日本民族」の国家として定められているわけでもない。日本国は「日本国民」の国家であって、それ以上でもそれ以下でもない

 どこかで聞いた表現を借りれば、内閣総理大臣は、「日本国民」の選挙で選ばれた国会議員の中から任命される行政府の長であって、「日本民族」の族長ではない

 (★付言すると、上記の朝日新聞の記事は、「移民に反対するのは単一民族の幻想を持つ人間だ」といわんばかりの論調である。しかしながら移民に賛成するか否かと、自国を単一民族と考えるかどうかとは、一応別の次元の問題であって、ここにも論理のすり替えがある。“単一民族”意識を持つ人の方が移民に反対する割合は高いのかも知れないが、その意識を持たない人が移民にすべて賛成しているというわけでもないだろう。)

『ざわざわ森のがんこちゃん エピソード0』になぜ道徳教育のテイストが乏しいのか?

昨日のエントリで少しだけ補足。

 『ざわざわ森のがんこちゃん エピソード0』を見て違和感というか驚きを若干感じたのだが、それは、人類滅亡の怖さが描かれているからというわけではない。
 昨日も触れた通り、『がんこちゃん』は、子どもの道徳教育用の番組ということになっている。
 公式サイトを見てみると、普段のエピソードの内容を道徳教育に活用することを前提として、様々な教師向けの解説や、副次的なコンテンツ・資料が提供されているのがわかるだろう。
 この番組を学校で教師が子どもに見せて、「善悪の判断」とか「正直・誠実」とかの様々な道徳的なテーマについて考えさせるようになっているわけである。

http://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?das_id=D0005130185_00000

 だから、今回の年末スペシャル『エピソード0』で人類滅亡を描くにしても、「人間たちは廃棄物を捨てて環境を汚したので滅びました」とか「戦争で文明が崩壊しました」というふうな説明があって、「このようなことにならないように地球の環境や平和を守りましょう」という類いの教訓を視聴者(子ども)に示すような形に持っていくのだろうと私は予想していたのだが、その予想が裏切られたので、少々驚いたわけである。

 世界が砂漠になってしまった理由についても、なぜ人間が砂になって死んでしまうのかということについても、何の合理的な説明もない。(ネットでは深読みしていろいろな説が取りざたされているが、ここでは省略する。)

 せっかく「人類滅亡」というシビアなエピソードを描くのだから、それこそ道徳教育としてのテーマ性をいくらでも盛り込めそうなのに、なぜ道徳的な観点がほとんどない単なる終末SFのような描き方になってしまったのだろうか。

 調べて見ると、もともとの『がんこちゃん』は、末吉暁子という児童文学者が原作と脚本を担当していたのだが、2015年に押川理佐という人に交代し、末吉暁子は2016年5月に亡くなったということである。
 さらに今回の『エピソード0』の脚本はまた別で、赤尾でこという人だった。
この名前にはどこか見覚えがあったので確認して見ると、アニメの脚本を多くてがけている人で、アニメソング等の歌手でもあるという(歌手・三重野瞳の別名が「赤尾でこ」ということらしい)。

 このような事情があって、道徳教育の色彩のない、ディストピアを扱うSFドラマのような『エピソード0』が作られたということなのかも知れない。

(★追加)
 赤尾でこが脚本を書いたアニメ作品はいろいろあるようだが、今回の件との関連で、興味深いものを見つけた。
 『フレッシュプリキュア!』第47話を赤尾でこが担当しているのだが、そこでは、コンピュータに支配されたパラレルワールドの管理社会で、無表情・無気力な少女が、ドーナツを食べて笑顔になる・・という場面がある。
 実はこれに似た場面が今回の『がんこちゃん エピソード0』にもあって、感情を抑えている少女にがんこちゃんが“サボテンの天ぷら”を食べさせると、その少女は楽しげな感情を見せるのである。
 つまり『フレッシュプリキュア!』第47話で使った場面が、今回の作品にも反映されたということなのかも知れない。

ざわざわ森のがんこちゃん エピソード0

12月31日、Eテレ(NHK教育テレビ)で『ざわざわ森のがんこちゃん エピソード0』という番組をやっていた。

『ざわざわ森のがんこちゃん』というのは、恐竜の女の子(がんこちゃん)を主人公とした人形劇番組で、がんこちゃん以外にもいろいろな動物キャラが登場する。何回かの放送をこれまで見てきたが、話の内容は基本的に、道徳的な教訓を子どもに感じさせるようなエピソードである。今回は放送20周年スペシャルということであった。

これまでもいくつかのエピソードを子どもと一緒に見たことがあったが、物語の基本設定としては、「人類滅亡後の世界」ということになっている(私が見た回数は限られているので、放送の中でそのことが説明されるのを見たことはないが、インターネットでいろいろ調べてみて知っていた)。

今回の「エピソード0」は、そのタイトルで予想された通り、がんこちゃんが過去の世界にタイプスリップして、人間に出会うというものであった。

(以下、ネタバレ注意)

がんこちゃんがタイプスリップした過去の世界では、地球はほぼ全体が砂漠と化しており、人類のほとんどは死に絶えていて、ある子どもの兄妹とその父親しか残っておらず、彼らはロボットに世話をしてもらって、孤独な生活を送っている。母親はどこかに行ってしまったとだけ説明される。
父は水を探しに出かけて、オアシスと周辺の小さな森林(後の時代にがんこちゃんたちの住む森となるらしい)を見つけるが、力尽きて死ぬ。
家で父を待ち続けている兄妹は、未来からやってきたがんこちゃんと仲良くなって交流するのだが、がんこちゃんと妹が出かけている間に、兄は身体が砂と化して死んでしまう(がんこちゃんと妹が家に戻ってきたときに、兄の姿はなく、砂だけが残っている。兄が砂になって死んだことは視聴者には明らかなのだが、2人はそのことを認識できず、どこかに行ってしまったとしか思わない)。
詳しい理由は説明されないが、他の人類も砂になって死滅してしまったわけだ(ちなみに兄妹の母も同じ運命をたどったことが視聴者にはわかるようになっている。)。
そして人類最後の1人となった妹に向かって、がんこちゃんは、何も知らないまま無邪気に再会を約して、未来(物語中の現在)に戻っていく。

このように物語の内容は非常に後味が悪いものであり、番組を見てショックを受けた人が大勢いたようで、twitterやブログを検索してみると、その感想をいろいろと読むことができる。特にこの番組の物語世界の設定が人類滅亡後だという予備知識すらない人が見れば、相当驚いただろうことは想像できる。

私はというと、まあ青少年時代(70年代ないし80年代)に、核戦争や環境汚染で人類が滅亡するとか、わずかに生存した人間が悲惨な状況に陥るとかいう類のペシミスティックなSF小説や映像作品や漫画にさんざん触れてきた世代だし、そもそも人類滅亡後という『がんこちゃん』の基本設定はもともと知っていたので、それほどショックは受けなかった。

ただ、もともと私は、「エピソード0」と銘打つからには、この作品世界の基本設定になっている人類滅亡の理由や、がんこちゃん達のような文明を持つ動物キャラが出現した経緯などの事情を、もっと具体的かつ道徳物語的に説明してくれるのかと思っていた。
 たとえば、「身勝手な人類が地球を汚したから滅びた」とか「人間は命をもてあそんで勝手に生き物を作りだした」とかいう叙述があるのかと考えていたのである。
 ところが実際は、肝心な事情を曖昧にして(なぜ身体が砂になるのかについても何の説明もなく、視聴者が想像するしかない)最後の人類の悲哀に力点を置いたような展開で、この点がちょっと予想外だった。

最後に、NHKが公式サイトで『がんこちゃん』について紹介している文章を見てみよう。

“「ざわざわ森のがんこちゃん」は幼稚園、保育所の園児から、小学校低学年の児童が楽しんで道徳を学べる番組です。
 あいさつや友達づきあいなど、低学年の児童に大切な道徳を、人形劇形式でわかりやすくお伝えしています。

 1996年に放送が始まり、多くの小学校で道徳の授業教材として視聴され続けています。”

フランスの政教分離と街中のクリスマスツリーの飾りつけ

 NHKのBSプレミアムで、「ハイビジョンスペシャル パリのクリスマス~美しい夜の物語~」(初回放送:2003年)という番組をやっていた。
番組の全部をちゃんと見たわけではないが、クリスマス時期のパリの風景をいろいろ見せてくれる。
 パリでは、消防士が街中にクリスマスツリーを飾り付ける仕事をしているのだという。

 ここでふと気になったのが、フランスは政教分離を徹底している国であって、公共の場では宗教色を排除するようにしているのではなかったかということである。

 日本では、まさにクリスチャンでない限り、クリスマスツリーを飾る時にキリスト教の意義を感じる人はほとんどおらず、門松と同じ程度の感覚で見られていると言ってよいだろうが(ただし門松も元々は神を迎える意味があったというが)、フランスの場合はまさかそういうことはないだろう。

 番組の映像を見た感じでは、公共の道路に、公務員である消防士がクリスマスツリーを飾り付けているのだが、これはフランスでは政教分離との抵触の問題として議論されることはないのだろうか。
 たとえば公立学校に女生徒がスカーフを付けてくることさえ、イスラム教のシンボルを公共空間に持ち込むということで、政教分離の議論になるのがフランスである。
公共の道路での公務員によるクリスマスツリー飾りつけは問題にならないのだろうか。

考えられる可能性としては…

①フランスでも、クリスマスツリーにはキリスト教の意義がもはやあまり感じられず単なる飾りつけとしか思われなくなっていて、政教分離の問題とは考えられていない

②現実問題として、政教分離の原則はイスラム教に対しては厳しく適用されるが、多数派であるキリスト教にはあまり厳格に適用されておらず議論になっていない(なし崩しで差別的扱いがされている)

③少なくとも道路という場では、宗教的なシンボルを飾ることは問題にされていない(仮に公の道路にイスラム教関係のシンボルの飾りつけを何か行ったとしても、政教分離の問題になるとは考えられていない)。ただし公立学校であれば、クリスマスツリーを飾ることは問題視される。

④私が知らないだけで、実際には論議を呼んでいる

のいずれかということになるだろうか。

フランスの政教分離の論点は、かつての革命期のカトリックの影響力の排除から、現代のイスラム系市民の包摂や差別の問題に至るまで、いろいろな面で考える必要があり、なかなか奥が深い問題だと思うが、このクリスマスツリーの件はどうなのだろう?

NHK朝ドラの高視聴率

 日刊ゲンダイによれば、今年のテレビドラマ視聴率のトップ5は、1位が「あさが来た」で27.0%、2位が「とと姉ちゃん」の25.9%、3位「ドクターX」、4位が「べっぴんさん」、5位が「真田丸」で、5本中3本が朝ドラということである。

 朝ドラが高視聴率である理由について、このゲンダイの記事によれば、作家の松野大介のコメントとして、“物作り”を扱っていることが好評の理由ではないかという。「とと姉ちゃん」は雑誌(モデルは『暮らしの手帖』)作り、「べっぴんさん」は子ども服(『ファミリア』がモデル)作りで、さらに「あさが来た」もいろいろな事業を起こしているから広い意味では物作りと言えなくもない。

 ただ、朝ドラはもともと習慣的に視聴する人が多いので、ある程度は視聴率は相対的に高くて当たり前とはいえる。

 視聴率の話はともかくとして、「あさが来た」以降、朝ドラは3代続けて非現代ものというか、明治から昭和戦後まで時代はそれぞれ異なるが、過去の時代に仕事で活躍した実在の女性を扱った作品が続いている。

 戦前戦中とか明治とか、過去の時代を朝ドラで扱うのは、それなりのメリットがあると思う。何といっても日本の近現代史という大きな流れがあるので、ドラマ的にイベントを作りやすい。太平洋戦争とか、戦後の復興とか、それだけで一定の劇的な状況になるから、話を盛り上げやすいわけだ。今後もNHKがネタに困ったら、過去の時代に事業で活躍した女性を取り上げれば、それなりに見られる内容のものが作れてしまうのかも知れない。

 ところで朝ドラと言えば、私もいろいろな作品を見た思い出があるが、ここでは一つ、小学生の頃に放送していた「鳩子の海」という作品について触れておく。

 NHKアーカイブスのサイトでは:

 “広島原爆のショックで記憶を失い、美しい瀬戸内の港町に紛れ込んだ戦災孤児の少女が、さまざまな困難にもめげずに出生の証しを求め、明るく生きる姿を描く。
 人間の寄辺とするもの、故郷とは何なのかを考えさせた。
 おかっぱ頭の無邪気な鳩子の少女時代を演じた斎藤こず恵がお茶の間の人気者になった。
 鳩子の出生の秘密が明かされる終盤では視聴率が50%を超えた
。”

と、あらすじがまとめられている。
 放送は1974年~1975年、主人公の幼年時代を演じたのは斎藤こずえ、成人後は藤田美保子だった。
 作品の内容全体を覚えているわけではないが、印象に残っているのは、まず戦争末期から終戦直後を生き抜く鳩子の幼年時代の姿だった。そしてもう一つ記憶に残っている部分は、鳩子が大人になった後、1960年の岸内閣の時期の安保条約改定反対運動を劇中で取り上げていて、反対運動の実際の映像を使ったり、劇中でデモ隊の参加者が警官に追いまくられる描写があったりしたことである。話の流れや細かい点は覚えていないが、鳩子の周囲に安保反対運動に参加する人物たちがいたのだと思う。おそらく今だったらこういう描写はできないだろう。

潮匡人氏の「朝ドラ暗黒史観」批判について

 評論家の潮匡人氏が、iRONNAの「『べっぴんさん』もそうだった! NHK朝ドラ暗黒史観に油断は禁物」という記事で、NHKの朝ドラが戦前・戦中の生活を暗く苦しいものとして描くことが多いといって批判している。

たとえば現在放送中の「べっぴんさん」について、NHKの公式サイトのあらすじの紹介の

 「紀夫に召集令状が届き、お腹の子供を託されたすみれは、夫不在の中、娘のさくらを出産する。
 戦況が厳しくなり、近江の坂東本家に疎開するすみれとゆりだったが、おじの長太郎一家の態度は冷たい。
 そんな中、神戸で大きな空襲があったと五十八からの知らせが入る。
 昭和20年8月、終戦の日を迎えたすみれは、様子を確認するため、神戸に戻る。
 そこで目にしたのは、焼け野原になった街と、焼け崩れた屋敷の姿だった」

という表現をとりあげて、暗く重苦しい雰囲気が「あらすじ」からも伝わってくると言って批判している。

ただ、範囲の広い「戦前」はともかくとして(太平洋戦争でいえば1941年より前、日中戦争でいえば1937年より前が「戦前」であり、どこまで遡るかは問題である)、「戦中」は、成人男子が多数徴兵されたり、空襲で全国の都市が攻撃を受けて焼け野原になって膨大な犠牲者をだしたり、食料品を始めとする物資が不自由であったりと、国民にとって非常に悲惨な経験であったのは事実であり、しかも戦時体制ということで国民に対する公権力により規制・統制も非常に厳しかったわけで、それをドラマとして描くとすれば、何かしら「暗さ」「苦しさ」が出てくるのは避けられないだろう。
 それを「暗くて重苦しいのはけしからん」と潮氏に言われても、どうしろというのだろうか、作り手は困ってしまうのではないか。

 せっかく批判しているからには、潮氏は、
 「戦争中は実は楽しいことも沢山あった」
とか
 「それほど悲惨な暮らしではなく、国民は戦争に勝利すればやってくるはずの明るい未来を信じて前向きに生きていた」
とでもいう具体的な例を何か挙げて、朝ドラの描くべき方向性について説明してくれるのかと期待して読んだのだが、具体的な反証とか対案のようなものは何もなく、ただ単に
「せっかく朝8時から放送される、名実ともの「朝ドラ」なのだ。せめて、もう少し明るく描けないものか。戦前戦中を描いた朝ドラをみるたび、そう思う。」

と抽象的なことをいって記事は結ばれていく。

 しかしこんな漠然とした感想では、具体的にどのようにして欲しいのか、どこを変えれば(潮氏の基準で)善くなるのか、まったくわからない。朝ドラが戦争中を暗黒時代のように描いていてけしからんというのなら、暗黒時代でない描き方というのはどういうものなのか、それを具体的に示すのが評論家の仕事なのではないだろうか。

 ただ私なりに敢えていえば、朝ドラなどの戦争中の場面で「軍人」が登場する場合(登場するのは戦場ではなく“銃後”の国内の社会生活の場である)、とかく愚かで無能なくせに不必要に威張っているように描かれがちかなとは思う。実際は軍人にも様々な人物がいて、その立場の中でいろいろな言動をしていたはずで、有能な人物も無能な人物もいたのだろうとは思う。類型的に「軍人=愚か、無能、高圧的、国民の敵」というふうに決めつけて描くのではなく、個別的に描いてほしいと思うことはある。

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