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百田尚樹『今こそ、韓国に謝ろう』

 百田尚樹の著書『今こそ、韓国に謝ろう』(飛鳥新社)が売れているようだ。

 百田の真意は、もちろん本気で韓国に謝ろうと言っているわけではなく、「日本は発展途上だった朝鮮を併合して社会を近代化させた」ということを前提にして、「勝手にに社会を近代的に発展させてしまってごめんなさい」ということで、皮肉のつもりである。
 
 ここで百田は、日本が韓国を併合したうえで発展させた例として、近代的な教育制度の確立、身分制度の廃棄などを挙げている。

 (さすがに百田は、日本が善意で韓国を併合して近代化したなどとは言っておらず、教育の近代化も「日本は使える労働者を育成するためにやった」「いずれは日本中の工場や会社で回収できると考えたに違いありません」「要するに自国のことだけを考えてやっただけのことなのです。」と述べている。)

 私は細かい事実関係について検証できる立場ではないが、この著書で百田が挙げている例には、おそらく、真実も誤りも混ざっているのだろう。

 たとえば百田は、1905年時点で朝鮮半島全土に小学校が40校しかなく、その5年後の1910年の韓国併合時にも60校増えて100校程度しかなかった、という。
 1910年時点で小学校が100校というのは、どうやら事実のようだが、だからといって併合前の朝鮮にほとんど子どもの学校がなかったというわけではなく、私が調べてみた限りでは、1908年頃には、外国人宣教師などの経営する私立学校が全土で2,200校、さらに伝統的な「書堂」と呼ばれる塾(寺子屋類似だろうか)が全国に1万以上あったようだが、そのような事情については百田は触れていない。

 また百田は、日本が併合して小学校の義務教育を全土に広めたかのような書き方をしているが、実際は、併合当初に日本が作ったのは、小学校ではなく4年制の「普通学校」であり、しかも義務教育ではなかった。義務教育の導入を計画したのは第二次世界大戦中のようだが、実現前に日本は敗戦で撤退することになった。義務教育を始めなかった理由はわからないが、機会があれば調べてみたい。

(出典を細かく紹介する余裕はないが、たとえば
 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29085/1/22_P19-92.pdf
を参考にしてみた。なおこの論文は、一昔前のマルクス主義の独特な用語法や糾弾口調が充ち満ちているので、若い世代の読者の方にとっては古語のようで非常に読みづらいかも知れないが、その点はご承知おき願いたい。あくまでデータ的な部分だけ読めば良い。)

 ともあれ、百田のこの本はそれなりに売れているようなので、まず書かれている事実やデータのレベルで、どこが正しくてどこが誤っているのか、専門家(歴史学者等)が何らかの検証・批評をすることが望ましいと思うのだが、そういうことにいちいちつきあう専門家はいないのだろうか。
 学者たちはこの本を見ても「右派の作家の書いた安っぽい嫌韓本(?)なんか、気にしていられるか」と思っているだけで、黙殺するつもりなのかも知れない。

 しかし、右か左かの問題ではなく、そもそもこの百田の本で挙げられている内容がどこまで正確なのか(間違っているのか)だけでもある程度検証して世間に説明しておかないと、この本はそのまますべてが真実であるかのように受け取られてしまうのではなかろうか。

 なお韓国の知識人にの間でも、当時の大韓帝国が改革を怠ったため、民心を失い、民衆はむしろ日本の支配による改革に期待をかけた面があったことを指摘する見解もあるようである。たとえば中央日報の次の記事参照。

失敗した大韓帝国の改革政策、日帝強制占領のきっかけに

 ところで、日本による併合支配が、その目的や程度はさておき韓国の近代化に何かしら寄与したのは真実だとしても、そこからさらに一歩進めて考えてみる必要がある。

 日本と韓国が逆の立場だったら、どうだったろうか

 仮に、朝鮮が日本より先に開国・近代化して富国強兵を推進し、まだ遅れていた日本に軍隊を派遣して、「日本統監府」「日本総督府」のような機関を設置し、朝廷や幕府を解体し、寺子屋を解散させて、朝鮮式の学校教育を日本人に与え、「磔や獄門はいけない」といって近代的な刑罰制度を行い、日本の皇族を李王家に準ずる身分として扱うなどしていたら、日本人は韓国に感謝しただろうか。

 何事も逆の立場で考えてみることは重要だろう。

松尾陽ほか『アーキテクチャと法 法学のアーキテクチュアルな展開?』

松尾陽・編『アーキテクチャと法 法学のアーキテクチュアルな展開?』(弘文堂)

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アーキテクチャ。本来、建築や建築物を意味するこの言葉は、いまや物理的な技術一般、物事を構成する枠組みや構造一般のことを指すようになった。・・・これらの物理的な技術や構造を設計することで、人々が行為する物理的な環境を構成し、人々の行動を一定の方向へ誘導する手法として、アーキテクチャという言葉が注目されることにもなった。」(はしがき)

 法律により人間の行動を規制することは一般的に行われているが、それとは別次元で、道路や施設の構造、インターネットのシステムなどの客観的な要素によって人間の行動を規制・誘導するという状況が、今、改めて「法」「自由」「人権」などとの関係で、注目・検討されている。

第1章「法とアーキテクチャ」研究のインターフェース(松尾陽)
第2章「アーキテクチャの設計と自由の再構築」(成原慧)

この2章は、アーキテクチャと法の関連について、全体的な思想・研究状況の紹介や概論の役割を果たしている。
特に先駆的な研究として、米国の研究者(法律実務家でもある)のローレンス・レッシグとキャス・サンスティーンがたびたび取り上げられており、この2名はこの後の章でも頻出なので、私としても読まねばという気になった。

第3章「個人化される環境」(山本龍彦)では、情報環境が極度に個々人向けに“カスタマイズ”される状況が、逆に個人の尊重・尊厳を蝕んでいくという“逆説”が取り上げられている。たとえばある人が閲覧するポータルサイト等の画面に、その人の好みや過去の履歴に応じたニュース記事や商品広告ばかりが選ばれて表示されるようになると、「個人化」された環境といいながら、実は特定の傾向に個人を押し込めて、それ以外の選択の可能性が奪われていくのではないか、ということである。それが「超個人化」が「個人主義」を崩していくという意味で“逆説”とされているのだが、こういう状況は「(超)個人化」というより、「孤立化」とでも言い換えた方が良いのではないか。

第4章「技術の道徳化と刑事法規制」(稲谷龍彦)では、リスクのある技術開発に刑事制裁を課することの可否と社会的な利益等について、完全自動運転車の事故などの例を挙げて検討している。

第5章「アーキテクチャによる法の私物化と権利の限界」(栗田昌裕)では、著作権(特にドイツ)とコピーガードの問題を中心に、アーキテクチャ(ここではコピーガード)が人間の自由(ここでは複製の自由)を侵害するかどうかという問題を中心に検討している。取り上げているのは、著作権法の中の特定の論点であり、かなり特殊な分野ではあるが、その問題提起としてはかなり普遍性を持っており、本書の中でも異彩を放っている。

第6章「貨幣空間の法とアーキテクチャ」(片桐直人)は、いわゆる仮想通貨と法の問題について論じているが、まだ発展途上で激しく変動する分野の問題だけあって、なかなか深く語るのは難しい感じである。

第7章「憲法のアーキテクチャ」(横大道聡)は、技術や物理的施設ではなく、憲法そのものを「アーキテクチャ」として捉えているので、他の論者とは切り口が根本的に異なるのだが、それはそれで面白い。特に「日本では『何かを建設しようとする構築の意思を持つことは危険であるとするのが、憲法学の初動的な反応』で、『憲法学は何かをつくり上げる学問ではなく、抵抗し、批判する学問であるという自己規定が強い』ため、建築学で用いられる概念を憲法学で用いるのは『大抵評判が悪い』とされる。」という指摘は、実に鋭いと思った。

第8章は座談会で、本書の各著者に加えて、大屋雄裕がゲストとして参加している。私自身、「アーキテクチャ」の概念が法学などで使われていることを初めて知ったのは、大屋雄裕の『自由とは何か』(ちくま新書)が最初だった。

百田尚樹と漢文教育否定論と加地伸行

 雑誌SAPIOの5月号に、「禁断の日本再生論」という特集があり、いろいろな(このような立場の雑誌ではおなじみの?)論者が参加しているが、その中で、百田尚樹が「対中政策の秘策 中国を偉大な国と勘違いさせる「漢文」の授業は廃止せよ」という記事を書いていた。

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 実際に読んでみると、漢文うんぬんは少し触れているだけで、主眼というわけではなく、中国の軍事的脅威がメインの内容だった。
 漢文教育は、役にも立たず、警戒すべき相手である中国に対して無用のあこがれを起こす勉強だから無益だという趣旨のようである。

 ただ気になったのは、「史記や三国志に日本人はあこがれているが、とんでもない。中国は凄まじい、恐ろしい国だ」という趣旨のことを述べていたことである。
 三国志はともかくとして、史記は、中国の歴史のなかなかエグい側面も描いているのではないだろうか。

 平凡な結論になってしまうが、単に理想化するのでもなく、否定的にだけ見るのでもなく、肯定的・否定的な様々な側面から中国の歴史文化を学んでいくことは有益だと思うし、そのための教養として「漢文」を学ぶのも悪くはないと思う。

 それにしても百田といえば日本会議。そして日本会議といえば、中国思想研究者の加地伸行もメンバーのはずだが、加地はこの百田の発言をどう思っているのだろうか。

 加地伸行といえば、かつて「二畳庵主人」というペンネームで、通信教育のZ会で「漢文法基礎」という面白い参考書を出版していて、私も大学受験の頃にお世話になった。(これは長らく廃刊になっていたものの、数年前に講談社学術文庫から再刊されたが、当初のZ会版にいろいろ載っていた興味深い例文がカットされているので、本来の魅力がだいぶ削がれてしまっている。)

 百田には、是非とも日本会議の会合で、加地伸行に向かって「漢文教育なんか中国に対する憧れや幻想をばらまくだけで、有害無益です。やめるべきですよね」と問題提起をしてもらいたい。(なお加地伸行は、中国に対する「あこがれ」「幻想」などは持っていないと思うが。)

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小谷野敦『芥川賞の偏差値』

 小谷野敦『芥川賞の偏差値』(二見書房を著者ご自身からお送りいただいたので、紹介する。

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 第1回(1935年上半期)から第156回(2016年下半期)までの芥川賞受賞作の合計164作品を取り上げて、その作品についての著者としての評価を偏差値方式で表現し、コメントを付けている。

 著者から最も高い評価を受けているのが、村田沙耶香『コンビニ人間』(2016年上)、李良枝『由煕』(1988年下)、高橋揆一郎『伸予』(1978年上)の3作で偏差値72、最も低いのが楊逸『時が滲む朝』(2008年上)である。

 ここに挙げられた164作品のうち私が読んだことがあるのは、小島信夫『アメリカン・スクール』、庄野潤三『プールサイド小景』、多和田葉子『犬婿入り』、辻仁成『海峡の光』くらいである。あと、池澤夏樹『スティル・ライフ』も読んだような気がするが、今ひとつ記憶に自信がなく、いずれにしてもこれらの作品の内容はほとんど頭に残っていない。従って、本書での164作品の評価の内容については私はほとんど何も言えないのだが、ただ著者自身が「あとがき」で皮肉っぽく言っているように、芥川賞をとる秘訣は「退屈であること」「ただし、いかにもうまいという風に書いて、かつ退屈であること」のようなので、これらの作品を読んでもあまり記憶に残らないのも仕方ないのかも知れない。

 さて、上に挙げた私が読んだ作品の中で比較的印象に残っているのは、辻の『海峡の光』である。確か、学校のいじめられっ子が刑務所の刑務官になり、かつてのいじめっ子が服役者として収容されてくる・・・という話だったと思う。
 辻仁成については、有名なので名前はよく知っているが、作品で私が読んだのは、この『海峡の光』と『クラウディ』だけである。『クラウディ』は、それなりに面白い青春小説(?)だと思っていたが、その後、『海峡の光』を読んで、同じ作家の手によるものだとは思えず、しかも一人称の割に文章が堅苦しく不自然だと思って不思議に感じたものである。
 本書の著者によれば「芥川賞狙いで書いたからかぎくしゃくしている」ということで、賞の審査を意図してわざわざ堅苦しい文体にしたということだろうか。

 なお本書で挙げた164作のうち、偏差値50(つまり平均レベル)を超えていると著者が考える作品は41作しかなく、なかなかシビアである。
それでは、どんな作品なら著者は良いと考えているのか?という疑問を読む者は感じるところだろうが、その点は著者は巻末の「では名作はどこに」というコーナーで答えている。ここでは谷崎潤一郎や川端康成から、柳美里や西村賢太まで、芥川賞とは別な41作品が列挙されている。
 (柳美里や西村賢太は、芥川賞受賞作はどちらも偏差値44とされているが、それとは別にすぐれた作品を書いている、ということである。実際、芥川賞は本来新人賞なのだから、何もおかしなことではないだろう。著者も『芥川賞受賞作などというのは別に名作群ではない』と述べている。)

『東洋経済』のイタリアの労働法改革の記事

安西法律事務所の倉重公太朗弁護士が『東洋経済』の記事で、イタリアの労働法改革について紹介している。第一東京弁護士会の労働法制委員会で、イタリアに現地調査に行ってきたのだそうである。

倉重弁護士によれば、

 「イタリアは、電車やバスがよくストライキをすることで知られるように、労働組合の活動が活発で欧州の中でも労働法が厳しい、労働者に有利な国でした。
 しかし、2016年の1月からイタリアでは労働法改革が行われました。少子高齢化や経済の低迷など、イタリアと日本の置かれた状況には共通点が多く、イタリアの労働法改革は日本にとっても有益な示唆に富んでいます。
 もともとイタリアの労働法は、日本と同様に厳しい解雇規制が存在しました
。」

…ということだったのだが、

昨年より、一部の差別的解雇を除き、原則として解雇は金銭で解決できるようになりました。」

ということである。

 イタリアの労働法の分野については、私は何も知らないので、それほど立入ったことは言えないのだが、気になって、下記リンク先の労働政策研修・研究機構のイタリア労働法改革についての報告を読んで調べてみた。

http://www.jil.go.jp/foreign/report/2015/pdf/0615_03-2-italy.pdf

 そのうえで若干のコメントをしてみる。

 まず上記の倉重弁護士の記事の書き方では、イタリアでは金銭さえ払えば自由に解雇できる制度になったかのように誤解する読者がいるかも知れない。しかし労働政策研修・研究機能の報告を見た限りでは、実際は、あくまでも解雇が違法とされた場合に、一定の場合について金銭解決を裁判所が命じるという制度である。

 また、要件に応じて、現職復帰による場合と、金銭解決(補償金)による場合と、それぞれの定めがある。別に金銭解決の方が「原則」(現職復帰が例外)とされているいうわけでもないように思える。

 なお倉重弁護士は、「イタリアと日本の状況には共通性がある」ということを強調しているのだが、記事を読んだ限りでは、共通点としては解雇が行いにくいこと(この表現も実は考えものだと思うのだが、とりあえずそれはおいておく)くらいではないだろうか。
 それ以外は、イタリアの状況は、政党等と結びついた大規模かつ強力な(企業別でない)労働組合が存在することとか、ストライキが頻繁に行われるとか、若年層の失業率が40%台だとか、日本とはかなり違う。

 そもそもイタリアはともかく、日本の労働市場は「硬直的」なのだろうか。それは一面の真実なのかも知れないが、物事の半分しか見ていないように思われる。もう少し正確にいうと、日本の雇用システムは、企業を超えた労働市場全体で見れば「硬直的」なのだろうが、企業の内部での取扱という意味では、イタリアよりはるかに柔軟と言うべきでないだろうか(残業、転勤などを考えてみれば良いだろう)。

 そして、日本の企業の内部での扱いの柔軟性と、日本企業が終身雇用を原則としていることとは表裏一体の関係にある。つまり「内側の柔軟さ」と「外側での硬直性」(?)とが密接に結びついているのであって、すべてにおいて日本の雇用システムが硬直的だというわけではないと思う。

ヘイトスピーチの判断基準とモンテスキューの『ペルシア人の手紙』

神奈川新聞の記事より
 ヘイトスピーチ解消法で許されないものとされる「不当な差別的言動」ついて法務省が昨年末にまとめた基本的な考え方の詳細が9日、分かった。
 どのような言動が該当するかは背景や文脈、趣旨を「総合的に考慮して判断」する必要があるとした上で典型例を挙げている。
 ヘイトデモ・街宣が多発している川崎市や東京都中央区、大阪市など全国13自治体に示した。

(中略)
 解消法が定義している差別的言動を①危害の告知など脅迫的言動②著しい侮辱③地域社会からの排除をあおる言動―の3類型に分け、典型例を示した。
(以下略)

 さてここで、このヘイトスピーチ問題とは関係ないように見えるかも知れないが、いったん別な話をしようと思う。モンテスキューという人の著作の話である。
 ご存じの人も多いと思うが、モンテスキューとは、18世紀前半のフランスで活躍した思想家である。三権分立を主張したとされる著書『法の精神』で有名だが、ここでは『法の精神』の話をしようというのではない。モンテスキューは他にもいろいろな著作をあらわしており、その中に『ペルシア人の手紙』(Lettres persanes)というのがある。

 これは、当時のフランスを訪問したペルシア人が、ヨーロッパの社会を観察して、いろいろ新鮮な発見をするという想定で書かれた書簡体小説で、社会風刺の著作として知られている。
 日本では岩波文庫で昔出ていたようだが、私は15年くらい前、フランス語の勉強のため、フランスのラルース社から出ているフランスの学生向けの版(全部ではなく一部を抜粋して編集し解説も加えてある)版で読んでみたことがある。

 その中で、フランスに滞在するペルシア人が、とあるカトリックの聖職者と対話するシーンがある。
 一体どんな仕事をしているのかとペルシア人が尋ねると、聖職者はこんなふうに答える(若干うろ覚えである)。

・・・人間の犯す罪には2種類ある。天国に行けなくなるような大罪と、神様を怒らせはするが地獄行きになるほどではない罪だ。この2つを区別することが重要である。
自分の仕事は、この2つの区別を教えてやることだ。
 ほとんどの人間は死後に天国に行きたいと考えている。しかし天国に行くにしても、最善の行いをして入場する必要はない。善すぎず悪すぎず、ちょうどぎりぎりのレベルで天国に行きたいと思う人間はたくさんいる。天国を買うならできるだけ安く買いたいと思うものだ。そういう人間のため、最低限これだけの罪を犯さなければ良く、後は自由にして良いという基準を教えてやるのが自分たちの役割なのだ
。・・・

 冒頭の記事の話題に戻すと、法務省が作成したヘイトスピーチ規制の判断基準も、喩えていえば、この「どの程度までだったら地獄行きにならずに済むか」を教えてやる聖職者のようなものだろう。
 (「どこまでのヘイトスピーチだったら許されるか」という意味ではない。「どこまでの表現だったらヘイトスピーチにあたらないか」ということである。)

 「ヘイトスピーチにはあたらないと思っていろいろな主張をしていたのに、ヘイトスピーチだとして規制された」ということになるのでは困るから、どこまでなら大丈夫なのかを明確にしておく必要があるということである。
 「天国に行けなくなるほどではないと思って自由きままに行動していたのに、地獄行きということになったのでは困る」というのと同じことだ。

 「どのような表現をヘイトスピーチとして規制すべきか」という議論は、「どのような表現ならヘイトスピーチにあたらないか」という議論と表裏一体なのである。

いわゆる識者が書いた本を読むのはその賛同者だけである件

 姜尚中と森巣博が2002年に出した対談の『ナショナリズムの克服』(集英社新書)という本がある。
 この本の腰帯には「上野千鶴子氏絶賛!」と書かれていて、さらに「『治ってしまえばあれはビョーキだったとわかる、爽快なナショナリズム論』」という上野千鶴子の賛辞らしきものが並んでいる。
 (当時読んだ私の記憶では、この腰帯のキャッチフレーズの上野千鶴子には若干違うバージョンがあって、「これを読めばナショナリズムはハシカのようなものだったとわかる」と書いてあったような気がするのだが、記憶違いかもしれない。今手元にないので確認できない。)

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 この腰帯の上野千鶴子の推薦の言葉を読んでいると、少しおかしなことに気がつく。主張がおかしいという意味ではなく、どういう層に向けて上野千鶴子は語りかけているのかという点である。
 だいたいこの本は、一体どういう読者にむけて書かれたものなのだろうか?
 ナショナリズムに囚われて偏見に満ちた人間に読んでもらって、ナショナリズムという“ビョーキ”を“克服”してもらうために書いたのか?
 正論やWiLLあたりを愛読している人に読ませたいのだろうか?

 そもそも正論やWiLLの読者は、「上野千鶴子氏絶賛」という腰帯を見たところで、買う気を起こすわけがないばかりか、逆に、自分が読むべきではない本だと考えるだろう。
 (2002年時点の上野千鶴子は、『おひとりさまの老後』(2007年)をまだ書いておらず、今よりも一般の読者にはなじみが薄かったはずである。というよりいわゆるフェミニズムに関心を持つ人ばかりが上野千鶴子を読んでいたと思う。)

 この本を上野千鶴子が「治ってしまえば、ナショナリズムはビョーキだったとわかる」といって推薦したところで、上野千鶴子の推薦文を見て読んでみる気になるような人間は、もともとナショナリズムという“ビョーキ”にはかかっていないのである。

 そう考えると、『ナショナリズムの克服』を買って読む人間は、実質的には、既にナショナリズムを“克服”している(つもりの)人間だけということになるだろう。

 もう一つ例を挙げてみよう。樋口陽一が『いま、憲法は「時代遅れ」か - <主権>と<人権>のための弁明(アポロギア)』という本を出しているが(私は未読)、まず樋口陽一のこの本を買うのは「日本国憲法は時代遅れだ」などともともと思っていない人間ばかりだろう。この本のタイトルの「アポロギア」という言葉は、「ソクラテスの弁明」のイメージを下敷きにしたものだろうが、日本国憲法は時代遅れだからすぐ変えろ、と決めてかかっているような人たちは、そんなちょっとしたタイトルの工夫に興味など持たないだろう。 
 (もちろん例外がいても不思議はない。たとえば往年の田中美知太郎や福田恒存のような保守の論客だったら、このタイトルを見てなにがしか感じて手に取ってくれるかも知れない。そういう人を想定して書いたのだろうか。)

 もともと何かを論じる著作というのは、すべてこういう運命なのだと言ってしまえばそれまでなのかも知れない。Aという立場で何かを論じた本は、Aに賛同する人間しか読まない。Bという立場の本も同じ。そういうことだろうか。そうなると何も広がっていかないということになるだろう。

 あまり良い例ではないかも知れないが、たとえば香山リカの本を読む人間は、香山リカにもともと好感を持っている人間だけで、百田尚樹の本を読むのも、百田のファンのような人間だけということになる(ちなみに私はどちらのファンでもないが。)。
 問題は、おそらく百田を読む人間の方が香山リカを読む人間よりかなり多そうで、現状のままだったら後者が不利だということである。現状で良いと考えている人はそれで構わないのだが、現状を変えたい人は、果たしてそれで良いのだろうか。

雑誌「プレジデント」の今と昔

 ご存知、「プレジデント」というビジネス雑誌がある。
 この雑誌は、30年くらい前、私が学生とか就職したての頃は、戦国時代や太平洋戦争などを題材にして”●●での決断““組織作り”“人材の活用”のような記事が多く、表紙も戦国大名や海軍大将の絵をやたらと乗せていた(ちなみに陸軍の将官はあまり表紙に出ていなかったような気がする。華々しいイメージがあまり無かったせいだろうか)。

 そんな「プレジデント」の表紙も記事も時代とともに代わっていき最近は「資料作り」「会社の数字」「相続」「老後」など、至って身のまわりの話題ばかりになってきた。このように長い間に雑誌の傾向が変わっていくことは別に珍しいことではないが、この変化の背景にある事情をいろいろ考察するのも面白いかも知れない。

 

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 ところで、「偏差値60強!超高学歴女子はなぜ生きづらいのか 」という記事が「プレジデントオンライン」に載っていた(筆者:日本総合研究所創発戦略センターESGアナリスト 小島明子)。
 内容は、有名大学卒で仕事に励む女性の仕事観、収入の実態、仕事と結婚・出産・育児の両立の悩みなどをデータを中心に紹介したものである。
(但しこの記事はプレジデントオンラインなので、紙媒体の雑誌の「プレジデント」の方にも掲載されたかどうかはわからない。)

 ところが「プレジデント」は、男女雇用機会均等法施行の年(1986年)には、この均等法に対して明確に否定的なニュアンスの特集「『女の時代』はどう恐ろしいか」というのを打ち出していた。
 1986年4月に出版されたこの号では、たとえば次のようなタイトルの記事が掲載されていたのである。

●「女の時代」はどう恐ろしいか――日本は弥生式文化の時代から女性上位なのである。この上、何が欲しいというのだ / 会田雄次 ; 諸井薫

●「女、男に似たるが故に尊からず――現代の女性は「女としてのプライド」を失っている。そこに重大な問題が / 渡部昇一

●「均等法」は企業の活力を削ぐ――法律を施行したぐらいで、女性社員は本当に働くようになるのか /

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000977074-00

 繰り返しになるが、時代と共に社会の意識も変わっていき、当然、雑誌も変わっていくわけである。

集英社「学習まんが 日本の歴史」新シリーズ刊行

高校時代のとある同窓生(執筆に関与している)から情報をいただいたので、宣伝というのでもないが、ここでご紹介しておきたい。

集英社から「学習まんが 日本の歴史」全20巻の新シリーズ が10月28日に刊行されるそうである。

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ご存じの方も多いと思うが、この集英社は、昭和時代から、「日本の歴史」の学習漫画のシリーズを何度も刊行して更新を繰り返してきており、現在売られているのが3代目で、今度刊行されるのは4代目となる。

初代は、監修・和歌森太郎、漫画・カゴ直利ほか(全18巻)で、昭和43年。

2代目は、監修・笠原一男、漫画・久松文雄ほか(全18巻)で、昭和57年。

3代目は、監修・岡村道雄、漫画・岩井渓ほか(全20巻)で、平成10年。

初代は私が小学生の頃に買ってもらって、何度も何度も読みふけったものである。第1巻ではヤマトタケルや神武天皇が詳しく取り上げられてたり(もちろん神話としてである)、南北朝時代を扱った巻では南朝方の日野資朝の息子が父の仇を討つエピソード(現在はともかく戦前は道徳教科書で取り上げられたらしい)がやけに詳しく描かれていたかと思うと、最後の昭和戦後の巻では、朝鮮戦争を仕掛けたのは米国側だとされていたり(現在ではもちろん否定されている)、今の時点とかなり視点が違う叙述が多くみられるが、絵に勢いがあり、読み物としての面白さはバツグンである。

2代目は中古で買いそろえたが、初代に比べるとだいぶ大人しく薄味になってしまっている。久松文雄が絵を担当した部分はそれなりに絵に味わいがあるが、他の部分は人によりけりである。

現行の3代目は、本屋で時々立ち読みをしたことがある程度だが、絵の担当者が従来よりも多く分散してバラバラな印象を受ける。ただし学問的には最新の状況を反映しているのだろう。

今度出る4代目はどのようなものか、なかなか楽しみである。

山崎雅弘「日本会議 戦前会議への情念」(集英社新書)

山崎雅弘『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書) について。

第1章では、第三次安倍内閣の閣僚のうち日本会議(+神道政治連盟)のメンバーがかなりの比率を占めていること、慰安婦問題や南京大虐殺問題についての日本会議の言動、さらに中国の脅威を日本会議が強調していることなどを説明している。

第2章は、日本会議の形成に至る歴史的な流れ、その組織や人脈が説明されている。

第3章は、「日本会議の『精神』」と題されているが、実際は、安倍首相、日本会議の個々の関係者、神社界関係者などの断片的な発言を無造作に混ぜて並べて書いているという感じである。
さらに、この章で突然、戦前に文部省が国民の思想教育のために作成した冊子『国体の本義』と『臣民の道』を取り上げて、その内容を紹介しておいて、日本会議の設立宣言や公式目標などの記述が、この『国体の本義』『臣民の道』に類似していると主張している。
(しかし、日本会議が、『国体の本義』『臣民の道』を推奨しているという具体的な事実についての説明は、特に本書からは見受けられない。後に述べるとおり、日本会議関係者の個々の発言と、戦前の教科書である『国体の本義』『臣民の道』の主張に一定の共通する要素があるとしても、だからといって、この『国体の本義』『臣民の道』の内容そのものがそのまま日本会議の思想と同じだと言って良いのかどうかは別問題のはずなのだが…。)

第4章では、教育問題、家族問題、歴史問題、靖国神社問題などについて、安倍首相や日本会議(の個々の関係者)の発言を取り上げ、そこに前掲の『国体の本義』『臣民の道』の内容についての説明を交えているのだが、これらの書籍を安倍首相や日本会議が信奉して実践しているのかということについては、具体的な論証がない。
このため、安倍首相の思想と、日本会議(の個々の関係者)の思想と、『国体の本義』『臣民の道』の思想が、いつのまにかなし崩し的にごっちゃにされており、読者を困惑させる。

第5章は、安倍首相と日本会議の改憲に対する志向や改憲運動が取り上げられて、日本国憲法の基本的人権などの価値観が挑戦を受けているとしている。
ここでも、前掲の『国体の本義』『臣民の道』などが突然引用されて、それが日本会議や安倍首相の主張とそのまま同じものであるかのように記述が進んでいく。

全体的にいうと本書では、日本会議の論者たちのおおまかな政治的傾向は一応わかるのだが、著者は日本会議の関係者に直接取材をした痕跡はなく、基本的には各種の報道や刊行物や講演の引用を中心として成り立っている。
それで足りない部分(特に日本会議の思想の「中核」?を示したいような部分)では、突然論証ぬきで、戦前の『国体の本義』『臣民の道』の説明を脈絡なく持ち出して、それが日本会議の思想とまったくイコールであるかのような記述がなされている。
しかし、日本会議の言動に戦前のこれらの書物と類似する部分があったとしても、日本会議が直接言っていないことまで『国体の本義』『臣民の道』を持ち出して説明するというのは、話のすり替えではないのだろうか。
日本会議の思想と、『国体の本義』『臣民の道』の思想は100%同じなのかどうかが問題となるはずだが、その点についての肝心の説明がない。

著者は、安倍首相は日本会議と一体となって戦前回帰の思想に基づいた政策を行っていると言いたいようなのだが、安倍内閣の施策が基本的にすべてそういう観点で説明できるのかどうかの分析をしているわけでもない。

全体的にはかなり手を抜いて急いで適当な引用を集めて書いた本という印象が強く(しかも上述のとおり、直接現在の日本会議と関係があるとは言えない『国体の本義』『臣民の道』についての批評を混ぜて内容を水増ししている印象がぬぐえない)、日本会議についてどういう立場を取るにしても、あまり読む価値はないように思われる。

島薗進氏と内田樹氏が推薦しているというが、本当に中身を読んで推薦しているのかどうか疑いたくなる。
最近たくさん出てきた日本会議関係本で私が読むのは、これが最初なのだが、少なくとも本書は、どうも単なるブーム便乗で急いで適当に断片をつなぎ合わせて書き上げた本という感じである。

2017年11月
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