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経済・政治・国際

「選択的夫婦別姓」=「選択的夫婦同姓」である件

 サイボウズの青野社長が、選択的夫婦別姓を国が認めないことについて訴訟を提起するとのことである。毎日新聞の記事によれば:

日本人と外国人との結婚では同姓か別姓かを選べるのに、日本人同士の結婚だと選択できないのは「法の下の平等」を定めた憲法に反するとして、東証1部上場のソフトウエア開発会社「サイボウズ」(東京都中央区)の青野慶久社長(46)ら2人が、国に計220万円の損害賠償を求め、来春にも東京地裁に提訴する方針を固めた。”

毎日新聞の記事リンク先

 一般に、選択的夫婦別姓の議論で問題になっているのは「夫婦同姓か、夫婦別姓か」ではなく「夫婦同姓を強制するか(現状)、夫婦別姓も選びたい人は選べるようにするか」である。選択的夫婦別姓賛成派も、夫婦同姓を自分たちの意思で選ぶことを否定しているわけではない。

 言い換えれば、「選択的夫婦別姓」は、「選択的夫婦同姓」でもあるのだ。

 従って、「強制的夫婦同姓か、選択的夫婦同姓か」と言い換えることができるのである。

 そう、賛否は別として、現状の制度は「強制的夫婦同姓」なのである。もちろん自分の意思で喜んで同じ姓にする人は大勢いるのだろうが、制度としては他に選択の余地がないのだから、「強制」なのだ。

 良しとするかどうかにかかわらず、現状は、同姓にしなければならない以上は、「強制」があるということは改めて自覚しておくべきだろう。そのうえで現状を良しとするかどうかは、また別な判断である。

 「強制的夫婦同姓か、選択的夫婦同姓か」と言い換えれば、もう少し冷静に議論ができるようになるのではないだろうか。

日本で「二大政党制」など無理である件

日本の政治で自民党一強の状況を憂慮して、「二大政党制を目指すべきだ」と主張する声は昔からあった。

だが少なくとも当面のところ、日本の状況では二大政党制など所詮は机上の空論にすぎ ない。

まず「保守二大政党制」はどうかといえば、大きな「保守」がわざわざ2つ存在する理由などないというのがっ根本的理由になるだろう。

 よく言われるのが「大きな政府/小さな政府」の二大政党という主張で、三浦瑠璃あたりが言うのだが、これは米国の二大政党制の図式をそのまま直輸入したものである。

 米国の場合、アンチ連邦政府、自助努力重視という伝統が草の根レベルで昔からあるので、「小さな政府」の主張に大衆的な支持を得ることができる。

 日本ではそんな伝統はどこにもないのであって、むしろ行政と企業と社会がいろいろ密着して調整するという発想こそが「伝統」というべきである。社会福祉も公共事業もほとんどやらない「小さな政府」論など、一部の企業経営者や資産家や思想家以外には支持する人間はいないどころか、むしろ大衆から激しい反発を喰らうのではないか。
 大衆が支持しない路線の政党が「二大政党」の一翼を担うことなどできるわけがない。

 「大きな政府/小さな政府」以外では「保守」同士の対立軸など見つかりそうもないので、こう考えると保守二大政党論など実現性がない、絵に描いた餅であることがわかる。

 一方「左右二大政党」はどうかといえば、これは何をもって「左」とするかにもよるが、仮に社会福祉重視とか労働者保護重視ということになると、これも自民党がまったく無視しているわけでもないので、「自民党よりは相対的に福祉や労働者保護を重視する」というくらいになり、あまり大きな違いを出すことはできないのではないか。

 このように考えると、いずれにしても二大政党というものを日本で実現させることができる可能性はほとんど無いのではないだろうか。

 根本的には、自民党の守備範囲が広すぎ、曖昧で雑然としているので、何をやっても自民党とある程度は重複してしまい、吸い取られてしまうからである。

 自民党が自発的に分裂でもしない限り二大政党は無理だろう。そして自民党が仮に分裂したとしても、そのうちにまたくっつく可能性は高い。

 敢えて付け加えると、昭和の末期や平成の初期くらいは、まだ保守二大政党論に多少のリアリティは感じられた。小沢一郎あたりが強く主張していたことである。

 当時はなぜリアリティがあったかというと、自民党は今よりも各地域の農業その他各種業界との結びつきが強く、「古い利権構造」に立脚した政党とされていた。

 このため、より規制緩和・市場競争を推進し大都市圏住民の利害を強く反映させた政党を要望する声が強かったのだが、当時は自民党以外の選択肢は、実質的に社会党くらいしかなかった。そこで、資本主義を前提とする点は自民党と同じだが、より都市型、市場重視型の別な大型政党が必要だという声が広がって、それが保守二大政党論になり、また日本新党や新進党などの新党ブームにつながっていったのである。

 この流れが立ちきられたのは小泉政権時代であり、この時から自民党は、大都市圏を重視した政策も取り入れるようになっていった。

 保守二大政党論は、このように自民党が農業などを重視していた時代の名残にすぎない。またさらにいえば、左右二大政党論は、マルクス主義や社会主義に抵抗感がなかったもっと古い時代の名残だろう。

経済学者たちは終身雇用をどう説明してきたか

 日本の終身雇用についての経済学者の二冊の本をここで紹介しよう。

 一つは荒井一博『終身雇用制と日本文化 ゲーム論的アプローチ』(中央公論社)。 
 もう一つは大竹文雄『労働経済学入門』(日本経済新聞社)。  
 荒井『終身雇用制と日本文化』は1997年、大竹『労働経済学入門』は1998年に出ており、それぞれ似たような時期に書かれた著作ということになるが、読み比べてみるとその違いはなかなか興味深い。

 荒井本は、終身雇用制が試練にさらされて維持が困難になっていること、また多くの欠点があることを認めつつも、ゲーム理論や文化論の切り口から合理性があることを説き、手直ししながらも維持していくべきことを主張している。

 荒井は言う。
 “終身雇用制は、企業がそう簡単には解雇しないという期待を労働者に抱かせ、彼らの協力行動や組織忠誠心を引き出す制度である。したがって、もし企業がそれを突如として廃止して安易な解雇を行えば、暗黙の「契約」に違反することになる。”  
 このあたりは、私がこのブログで何度も述べてきたことに通じるものがある。
 ちなみにこの荒井本では「解雇規制」という言葉は使われていない。

 一方の大竹本は、後年ほど「解雇を自由化すべし」論を前面に打ち出しているわけではなく、比較的抑制された(と同時に突き放した)感じで現状を分析しているのだが、「解雇制限法は現在雇用されていない労働者の雇用機会を減らす」など、後の“解雇規制”緩和論の萌芽が既に見受けられる。日本企業が長期雇用をしている背景としては、大竹は様々な合理的要因とあわせて「解雇権濫用法理といわれる解雇不自由の法的状態」を挙げている。

 いずれにしても、経済学者たちは、かつては「日本企業は合理的な理由があって終身雇用をしている」と主張していたのに、いつのまにか時が経つにつれて、「日本企業は解雇規制で苦しめられて、やむなく終身雇用を強いられている」と主張するようになっていったわけだ。

 そして「企業が解雇規制で苦しめられている論」を全面的に押し出した本として有名なのが、上記の大竹文雄教授も参加している『脱格差社会と雇用法制』(日本評論社、2006年)であるが、これについては改めて述べたい。

ミクロ経済学が想定する労働の世界はクラウドワークだった!

専門外の経済学の話なので誤解があればご指摘いただきたいのだが、教科書的なミクロ経済学の世界で「労働市場」について考えてみると、概ね次の通りだろう。

 ここでは、労働者も企業も、賃金の金額だけを判断基準として行動し、いくらでも自由に労働力が移動することが前提となっている。(つまり賃金以外の他の条件は考慮しないという仮定に立つ。) どの程度の労働者が雇用されて、その時にどのような賃金の水準になるかは、労働力の需要と供給が一致するところで決まる。

 まず企業の行動(=労働力の需要)を考えてみると、賃金が上昇すれば、企業の中には雇えないところもでてくるので、労働力に対する需要が減り、下落すればその反対となる。

 次に労働者の行動(=労働力の供給)はどうかといえば、賃金が上昇すれば、働きたい人間が増えるので、労働力の供給は増え、下落すれば減少する。  

 このような労働力の需要と供給が一致するところが完全雇用の状態であり、これに応じた賃金が完全雇用をもたらす賃金ということになる。

 (ただしここでいう「完全雇用」というのは、およそ世の中の働きたい人間がすべて雇用された状態をいうのではなく、「その賃金で働きたい人間がすべて雇用される状態」を意味する点に注意。
  たとえば世の中に労働者が100万人いるとして、「賃金時給1000円、70万人」が労働の需要と供給の一致する点だとしよう。この場合、時給1000円以下で働く気のある人間は全員雇用されているので、「完全雇用」である。ただし時給1001円以上で働きたい人間(30万人)は雇用されることなく、あぶれる。逆に言えば企業の側も、時給999円以下でだけ雇用したいという企業は、誰も採用することができない。労働者が来なくなるからである。1000円以上で雇用できる企業は、すべて労働者を採用できる。)  

 これが経済学でいう最適な労働市場の状態なのであって、政府の介入は有害だというのが、純粋な経済学上の帰結である。
 たとえば政府が強制的に最低賃金が時給1500円になるように規制すると、999円以下でしか雇用できない企業に加えて、1000円~1499円までの範囲でしか雇用できない企業も、採用できなくなる。このため、雇用は70万人よりも減少してしまうというわけである。

 あくまでこれは様々な仮定を設定したうえでの理論上の世界であって、実際の雇用の世界と違うということは誰でもわかるところである。

 ところが近年、このミクロ経済学の想定する労働市場の世界に近い状況が生まれてきた。それが、いわゆるクラウドワークの世界である。

 クラウドワークでは、依頼者は、仲介企業の運営するウェブサイト経由で、一定の報酬を提示して仕事をしてくれる人を募集し、それに対して無数の人間が応募して、契約者が決まり、仕事をしてもらって報酬を支払う。 仮に提示した報酬が少なすぎて人が集まらないなら金額を上げるだろうし、その逆も成り立つ。そして1つ1つの仕事が終わればお払い箱となる。 クラウドワークで募集される仕事の内容は、自動車運転から記事執筆までいろいろである。

 いわゆる終身雇用が労働市場を硬直化させて資源の適切な配分を阻害する、という一部の経済学者の非難も、こういう世界を想定して初めて感覚的に理解できる。 クラウドワークの世界で、一部の人間だけが何十年も継続的な契約を保証されたら、確かにいろいろとおかしなことになる。

 解雇の徹底した自由化を主張する学者(たとえば福井秀夫教授や八田達夫教授)から見れば、終身雇用を原則とする日本企業は、一部の人間だけ終身契約をしている、歪んだクラウドワークのように映っているのであろう。

 もちろんここでは、今後すべての企業の職場がクラウドワークに近づいて行くべきだなどと主張する意図は一切ないので念のため。

野党候補統一論って、実は有権者をバカにした発想では?

 選挙関係の考察の続きである。

 「野党候補が一本化すれば自民に勝てるはずだ」という主張は、実はある面でいえば、有権者をバカにした発想と言えなくもない。
  たとえばA党、B党、C党という野党があるとすれば、それぞれ理念や政策方針は違うわけで、だからこそそれぞれの理念や政策方針に賛同した有権者は、その中から支持する党を選んで投票する。それなのに野党を「一本化」するということは、このような党ごとの特色を見て選ぼうとする有権者の選択権を奪う行為である。
 ある選挙区で野党がA党候補で一本化した場合、B党支持者とC党支持者は、自分の本来支持する党・候補に投票する権利を奪われるのだ。

  さらにいえば、「野党候補を一本化して自民に勝て!」というのは、野党各党やその支持者を、自民候補を倒すだけのために存在している部品のように扱うことでもある。B党支持者とC党支持者は、本来ならB党やC党の独自の施策や理念のために投票したかったのに、それをすべてなげうって、自民候補に勝つためにA党しか選べなくなるからである。
 ここには「有権者は、つべこべ言わずに、自民党を倒すための野党統一候補に入れさえすれればいいんだ」という発想がある。

  「でも、野党がバラバラでは票割れして、結局自民候補に勝てない」と反論されるかも知れない。しかし「野党が票割れしたので自民が勝った」という発想は、実は本末転倒であって、物事の本質を見誤っているのだ。
 A党、B党、C党の候補がそれぞれ立って、自民の候補が最終的に当選したとすれば、それは野党が「票割れ」したからだろうか。そうではない。「票割れ」というのは、本来一体であるべきものが分裂する場合に使う言葉である。A党もB党もC党も、もともと別な政党なのだから、何も分裂など起こっていない。
 A党の支持者がA党に投票し、B党の支持者がB党に投票するのは当たり前のことであって、それを「票割れ」などと呼ぶのはおかしな話ではないか。

  野党候補が3人と自民候補が1人の選挙で、自民候補が勝つとすれば、それは票割れが理由なのではなく、ただ単に自民候補が最も多数の票を集めたからに過ぎない。   A党、B党、C党の本来あるべき姿としては、それぞれの党が有権者の支持を自民よりも集められるように努力するしかないのだ。 支持を集められないのなら、その理由を考えるべきである。

 野党統一論にとらわれすぎると、本来は各党それぞれの候補者が、自分なりに、最大限の支持を集められるように努力しなければならない、という基本的な原理を忘れてしまうことにつながると言えるだろう。

「全国が単一の比例代表区だったら」等の議論にあまり意味がない件

 「仮に全国が単一の比例代表区だったら、自民の議席はもっと少なかったはずだ」とか「野党が一本化していれば、自民はもっと議席を減らしていたのに」という類いの議論がメディアなどで見受けられる。

参考1:ヒマなので全国が1区で完全比例代表制だったら各党の議席数が何議席になるか調べてみたら…

参考2:野党一本化なら63選挙区で勝敗逆転 得票合算の試算

 しかしこの種の議論は、前提となるデータとして、実際の選挙の得票をそのまま使ったのでは、意味がないように思われる。

 たとえば「全国を単一の比例代表区として得票数を分配しなおしてみると、自民の議席はもっと少なくなる」という主張は、有権者の投票行動が同じであることを前提にしているわけで、ここで既に現実離れしているといえるだろう。

 現在の野党の得票の中には、「選挙区は自民に入れたが、バランスを考えて、比例では一応野党に入れた」というものもかなり含まれていると思われる。(その反対に「選挙区は野党に入れたが、比例では自民」という人は、極めて例外的にしか存在しないのではないか。)

 仮に全国が単一の比例区になったとしたら、1人1票ということになるだろうから、こういう「比例だけでも野党」の分の票がごっそり無くなることになり、逆に自民の得票数は上がると考えられる。

 一方、「野党が一本化していれば、自民はもっと議席を減らしていた」というのは、当たっている選挙区もあるだろうが、たとえば共産党と希望が一本化するなどというのは非現実的であり、また一本化した結果として逆に逃げる票というのも当然あるわけで、単純な足し算にはならない。
 また選挙区によっては、希望の候補が仮に存在しなかったとしたら、その候補に来たはずの票の一部が自民党候補にも流れる可能性があったはずである。

常見陽平ブログに思う:「政権選択」ではなく「不満の代弁者選択」の投票ではダメなの?

常見陽平氏が9月29日のブログ
私は見ての通りの左派で、反安倍で、反自民だ。親子三代にわたって自民党に入れたことがない。”
と書いていた。

 ここでいう「左派」の定義はともかくとして、今時は、こういう文章を見ると、すぐにいろいろな人から「自民党がダメなら、どこの党が政権を担当できると考えているか?」という反応が返って来そうではある。

 だがおそらく常見氏が「自民党に投票したことがない」というのは、「自民党以外の〇〇党に政権を運営してもらいたい」とか「××党に政権を委ねて、政策を実施して欲しい」という意味ではないだろう。(もし違っていたらご容赦いただきたいが)

 常見氏の深い考えはもちろんわからないが、私なりに勝手に推測させてもらうと、政権を選択する意図で投票するのではなく、政権に不満を意思表示する意図で投票するということではないか。

 私自身の記憶からいうと、ちょっと昔(具体的には小選挙区制導入前?小泉政権より前?または民主党政権成立前?)は、自民党に入れる人はともかくとして、野党に投票する人は、ほとんどが「政権選択」などという意識はなかったはずである。

それではどういうつもりで野党(たとえば旧社会党)に投票していたのかといえば、「お上に対して、自分の不満を代弁してぶつけてくれる者を選ぶ」という意識が大きかったと思う。

 比喩的にいえば、会社の経営者を選ぶのではなく、労働組合の委員長を選ぶような感覚である。

 労組の委員長は、会社の経営者にはならない。あくまで経営者に文句や不満や意見をぶつけるだけである。もちろん前向きな提案をすることもある。いっしょに会議をすることもある。ただし自分が今の社長を追い出して経営者になることまでは意図していない。

 そんな労組委員長に投票するような感覚で、野党に投票する人がいっぱいいたのだ。
(中選挙区制という制度は、そういう感覚と結びついていた。)

 それが今は、何でもかんでも政権選択ということになり、野党もそれに便乗するものだから、逆にいうと「政策を具体的に提示できない政党に投票するのはおかしい」とか、もっといえば「現在の政権に不満があっても、他に政権を取れる党がない限りは、現在の与党に投票すべきだ」という言説が普通に見られるようになってしまった。

 与党を明確に支持する場合は、もちろん問題はない。一方、与党に不満があって、どうしようかと思っている人の場合は…

 …「政権を選ぶ」ために投票するのではなく、「政権に対して不満をぶつける代弁者を選ぶ」ために投票するという考えではいけないのだろうか?

「リベラル」概念の混乱についての追記

 「リベラル」という用語の問題については先日の記事で触れたが、この「リベラル」概念については、欧州と米国の意味合いの違いがいろいろな専門家によって指摘されている。
 
 たとえば仲正昌樹『集中講義!アメリカ現代思想』の「アメリカ的な『リベラル』とは何か」の項を見ると(70ページ以下)

  ・米国は、もともと諸個人の政治的・経済的な自由を国家の基本原理としており、「自由主義者」であることをことさらに強調する必要もなかったので、ファシズムや復古主義や社会主義や共産主義との対比での意味で「自由主義者=リベラル」という呼称を使うことはなかった 

  ・しかし、1933年にローズヴェルトの大統領就任後、経済的弱者に対する福祉や、大規模な財政政策による雇用対策を通じての「欠乏からの自由」を重視する観点で、新しい「自由」観を主張する意味で「リベラル」と名乗るようになった。 

  ・よって、米国では、弱者に優しい「福祉国家・大きな政府」を志向し、社会主義あるいは社会民主主義に“より近い”考え方が「リベラル」と呼ばれる傾向が生まれた。

…という具合にまとめていて、これを「特殊アメリカ的な意味での狭義のリベラル」とも呼んでいる。

 また濱口桂一郞氏hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)でも、欧州と米国の「リベラル」概念の違いをかねてから強調しているところである。

 実際、たまにフランスなどの新聞を見てみると、Neoliberalismという言葉が、日本で言う「新自由主義」「市場原理主義」の意味で普通に使われている。

 たとえば少々古いが1998年、ピエール・ブルデューは、Le Monde Diplomatique紙に、L'essence du néolibéralisme(「ネオリベラリズムの本質」)という論考を寄せて、

“Qu’est-ce que le néolibéralisme ? Un programme de destruction des structures collectives capables de faire obstacle à la logique du marché pur.”
(ネオリベラリズムとは何か?純粋な市場の論理に対する障害となりうる集合的な構造を破壊するプログラムである)

とまとめている。

いずれにしても現代日本の「リベラル」概念は、米国の「リベラル」概念の系譜にあるということは間違いなさそうである。
 (ただし戦後の日本で「リベラル」が当初はそれほど広くは使われていなかったという点については、佐々木俊尚氏のブログ記事「日本の左派はいつから『リベラル』になったのか?が指摘しており、興味深い。)

 さて、現在の日本の状況を見ると、「リベラル」概念はさらに拡散しており、マスメディアでは、共産党までも「リベラル」に含める用法が広がっているようだ。

今回の選挙を控えた時点でメディアが使っている「リベラル」概念は、「9条護憲」「安保・自衛隊消極主義」を中核としたうえで、「消費税反対」「反原発」を混ぜて、安倍政権に反対する政治的立場を漠然と指す言葉のようになってしまっているように思われる。

(なお日本共産党と「リベラル」概念の関係については、余裕があればちゃんと調べてみたいところである。日本共産党は、少なくとも党の公式見解としては、自らを「リベラル」には含めないのではないか。
 むしろ歴史的には日本共産党は、「リベラル」という概念を、日和見主義とかブルジョワ自由主義、さらには「科学的社会主義を認める段階まではまだ到達できていない半端者」のような意味合いで考えてきたのではなかろうか。
 とはいえ、今の30代から下くらいの世代の人になると、「日和見主義」「ブルジョワ自由主義」などという用語自体が、訳の分からない古語としか感じられないかも知れない。 )

結局、「リベラル」の定義って何なの?

 民進党から希望の党への合流にあたって、小池百合子が「リベラルは排除する」という方針を取ったことがきっかけとなって、メディアやネット上では「そもそもリベラルの定義って、何なの?」という話題があちこちで広がっているようだ。

 「リベラル」の本来的な意味はとりあえずここでは置いておいて、今の日本のメディアというか政治的言論の世界でいえば、「リベラル」は、20年ほど前まで使われていた「革新」という言葉とほぼ同じといっていいだろう。

 ここでいう「革新」は、「保革対決」の「革」であって、自民党=保守が「古い」というイメージを前提としている。今の民進党=民主党ができる前は、社会党、共産党、民社党、時に公明党が「革新」の中に含まれていた。

 なぜ「革新」という言葉が使われなくなったかといえば、おそらく小泉政権の時代に、自民党の方が「(構造)改革」を強く打ち出すようになり、もはや自民党が必ずしも「古い」イメージではなくなってきたためだろう。

 ところで「革新」といっても、社会党や共産党などがメインであれば、実際は「左翼」という方が当たっているように見える。そこで「左翼」の定義は何かといえば、これも細かいことを言えば難しくなるが、社会主義革命をめざすか、そこまでいかないにしても資本主義経済の行き過ぎを抑制して再分配などを推進する立場、と言うことができるだろう。

 実際に昭和の時代は、「革新」の勢力が、政権は取れないにしても自治体の首長になることは結構あったのであり、その長所短所はいろいろあるとしても、公害対策や社会福祉などで特徴を発揮していた。

 ただ自民党政権も手をこまねいていたのではなく、公害対策や社会福祉について取り組まなかったわけではないので、次第に「保守」と「革新」の違いははっきりしなくなっていた。

 さて現在の時点でみると、現在の日本の政治の文脈の中で「リベラル」と呼ばれる人々の定義は何なのかといえば、おそらく「憲法9条の改正に反対する」「安保法制に反対する」というのが最大の共通点なのではないかと思われる。

昨日(29日)の朝日新聞朝刊で、松下秀雄編集委員は
 “民進党は何をめざす政党なのか。保守だ、リベラルだと言葉は飛び交うが、リベラルの定義も定かではなく、党内では「護憲派」に近い意味合いで使われていた。
  本来リベラルとは個人の尊厳や自由を大切にする考え方だ
。”
と述べていた。

 定義も定かでない「リベラル」という言葉を乱発していたのは、ほかならぬ朝日新聞ではないかと思うのだが、それはともかく、民進党内に限らず全体的に、今では「(9条の)護憲派」に近い意味で「リベラル」という言葉が使われているのは事実である。

 ところで、「個人の尊厳や自由を大切にする」ということと、「憲法9条を改正して、自衛のための戦力を持つこと」は、別に論理的に矛盾することではない。

 現に欧米では、自衛のための戦力を持ち、集団的自衛権を前提としながら、個人の尊厳や自由を大切にすることを理念とする政党など、左右を問わずいくらでもあり、現にそういう政権が普通に存在しているのだ。

 むしろ、なぜ日本でだけその両者が矛盾するかのような思考が(良し悪しは別として)今なお根強く存在しているのかといえば、やはり憲法9条が存在してきたからだろう。

 憲法の教科書を見ると、憲法9条(厳密にいえば憲法前文も)は、「戦争は最大の人権侵害であって、個人の尊厳や自由を害する」という考え方に基づいている、というふうに説明されることが多い。(ただし憲法9条護持を主張する人が、必ずしも自衛隊や安保条約を違憲と判断しているわけではない。) 

 いずれにしても、今の日本の政治の文脈では、「リベラル」という言葉の定義は、「憲法9条改正反対派」、「集団的安全保障反対派」、「自衛隊消極派(完全否定派を含む)」などと考えるのが一番当たっているのではないだろうか。
 大雑把にいえば「リベラル」=「軍事力による国防に否定的・消極的な派」ということであって、あとはそこに「消費税増税反対」とか「反原発」を加えたという感じだろうか。

 欧米にも左翼政党や左翼政権はいくらでも存在するが、上記の、現代日本のメディアや政治的言論で使われる意味での「リベラル」にあたるような立場の政党は存在するのだろうか。

自民党VS改革(幻想)政党の対立軸がメインとなっている日本政治

 大西宏氏というマーケティング関係の専門家が、「保革(保守VS革新)の時代は終わった」と書いている。

   ブログ記事:国民と無縁な解散だが、「保革」の時代は終わる

 しかし私に言わせると、保革の時代というのは、とっくの昔に、というか20年ほど前に終わっているのだ。

 さらにいえば「革新」という用語そのものが実質的には死語と化していて、かつては革新と呼ばれていた人々自身が「革新」とは名乗らなくなり、かわりに「リベラル」という横文字を使っている状態である。

 現在の政治は、

(A)自民党
(B)自民党(またはそれに準ずる勢力)から出現して、自民党の「古さ」を攻撃し、「新しさ」「改革」(の幻想?)をアピールして大衆を扇動し、主に都市の無党派層をとりこむことを狙う党

の対立が主な構図となっているといえるだろう。
(正確には、そういう構図を、マスメディアや大衆が思い描いている、というべきだが。)

(B)にあたるのは、維新、かつての一時期の民主、みんなの党、そして最近の小池新党などということになるが、この流れの口火を切ったのは、小泉純一郎であり、この人は自民党の総裁でありながらこの動きを作ったという特殊な立ち位置にある。

 問題は、(B)にあたる勢力は、往々にして、官僚や規制を攻撃して市場競争を重視する立場と、社会福祉を重視する立場との寄せ集め・ごちゃ混ぜになっていて、そのすり合わせや調整ができているようには見えないということである。

 欧米では市場競争重視と社会福祉重視の政党が分かれているのが普通なのだろうが、、日本の場合、もともと自民党自体が寄せ集めなので、それに対抗しようとする側も結果として寄せ集めになって、共通点は「自民党(の現政権)の古さを攻撃して新しさをアピールする」というところだけになってしまうのだろう。

 また、中選挙区制の時代であれば、自民党内の派閥や政策集団として存在感を示すことができていたグループが、小選挙区制や比例代表制の関係で、それが難しくなって、新政党を作らざるを得なくなっているということもあるのかも知れない。 

以上(A)(B)の2つの対立がある一方で、さらに

(C)護憲、反安保などをアピールして、少数の左寄りの層や、上記の各党では利害をすくいあげられない層を狙う政党

があり、これが共産、社民などということになる。かつて「革新」と呼ばれていたのはこの勢力である(厳密にいうと、公明党や旧民社党も「革新」に加わることがあった)。

 かつて保革対立と呼ばれていた時代は、(A)と(C)の対立がメインで、しかも(C)は政権を取れる見込がないものの、中選挙区制のおかげもあって、それなりの議席を確保できていたのだが、現在は(A)の自民党と(B)の改革(幻想)政党の対立となって、(C)の勢力が添え物のようになっているというわけだ。

 なお、欧米の政治状況と日本のそれとを比較する議論はよくあるが、欧米では、そもそも「憲法9条」や「集団的安全保障」にあたる論点が存在しないことに注意が必要だろう。

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