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経済・政治・国際

LINE上級執行役員の「憲法って、ただの紙の上に書かれた文章」発言

 LINEの上級執行役員の田端信太郎という人が、ツィッターである人と議論していて、

納税している人は納税していない人と比べて社会の存続を考えるうえで比較すれば、有用であるということ。そして納税していない人が、公的な再分配を受け取る程度は、納税している人を含めた民主的な政治決定の結果をはみ出ることはできない、ということに合意されるということですね。”

と述べると、それについて相手側が

それには合意できないです。憲法では、全ての個人に生存権が保証されているので。”

と答えた。

 そこでさらに田端は、

 “憲法って、ただの紙の上に書かれた文章ですよね。。。実際に餓死しそうな人がいるときに、「憲法」がアンパンを恵んでくれたりするのですか? 誰か、生身の人間が、お金を出してアンパン買うところから始まりますよね?

 とコメントしたのだが、これがネット上で賛否両論を巻き起こし、また勤務先の会社から厳重注意を受けたそうである。

 (ITmediaの記事参照) 

 私なりの感想をいうならば、田端は、「憲法は紙切れにすぎないから無視して良い」とか「憲法には価値がない」とかいうレベルの主張をしているのではなく、憲法それ自体が直接的に人間の生存を保証する給付を与えてくれる機能を持っているわけではない(=憲法に「生存権」の条項を書き入れても、現実には公的財源の裏付けがなければどうにもならない)という意味のことを言おうとしているのだと思われる。

 憲法は25条で「生存権」を保障している。これは、国や自治体が、国民に対して最低限の生活ができるための一定の給付を与えることを憲法によって義務づけられているということである。生活保護が代表的なものだが、食料や住居を現物支給するという制度も理屈としては考えられるだろう。

 とばいえ、憲法に生存権が規定されていれば、それだけで生活保護費等が自動的にどこかからわき出てくるわけではなく、そのための財源がなければならない。その財源は税収によってまかなわれる。

 つまり田端は、憲法それ自体に生活保護を直接給付できる機能があるわけではなくて、誰かが納税して国が生活保護の財源を確保することによって初めて生存権が保障される、という当たり前のことを、いささか挑発的に述べたのではないか

 憲法の教科書を学んだ人なら誰でもわかると思うが、この「生存権」は、同じ憲法で保障された他の権利、たとえば「信教の自由」(20条)などと違う、際だった特徴がある。

 たとえばカトリックや浄土真宗を信仰する人の信教の自由は、政府=公権力がカトリックや浄土真宗を弾圧したり、違う宗教を信じるように押しつけたりしなければ、守られる。
 ここでは政府は何もしなければ良いのであり、憲法は、公権力を制限して、個人の自由を守る働きをする。政府が個人の自由を侵害すれば、憲法違反となる。(このような権利を「消極的自由権」ともいう。)

 これに対して「生存権」は、政府が何もしなければ、どうすることもできない。政府が積極的に動いて、生活困難な人に対して何らかの金銭や物品を給付することで、初めて「生存権」が保障されることになるからである。
 
 この場合、いくつかの問題が出てくる。まず、政府は、どの程度の給付を支給すれば、憲法の「生存権」に違反しないのだろうか。たとえば生活保護を支給するとして、いくらであれば、憲法違反にならずに済むのだろうか。
 さらに、上記の問題がクリアできて、一応の生活保護として支給すべき水準がある程度は基準として決めることができるとしても、実際の財源がどうしても足りない場合は、どうすれば良いのだろうか。

 このように、「生存権」は憲法上の権利ではあるが、それをどのように実現するかについては、「信教の自由」などとは違う困難な問題があるわけである。

 さて、今回の田端の発言で本当に議論の対象とするべきなのは、「憲法がただの紙の上の文章」という部分ではなく、その前の「納税していない人が、公的な再分配を受け取る程度は、納税している人を含めた民主的な政治決定の結果をはみ出ることはできない」という部分である。

 憲法の規範レベルの問題でいえば、公的な再配分=生活保護等は、民主的な政治決定のプロセスで定めさえすれば、どのようにでも変えて良いというわけではない。
 たとえば、“民主的な政治決定”の結果として、一切の生活保護は月5千円の給付だけとすることは、さすがに(現在の物価水準を前提として)憲法違反だろう。かなり稀なケースを除いて、月5千円ではまず生活できないからである。
 いかに民主的な意思決定の結果として、生活保護を月5千円と決めたのだとしても、それは生存権を侵害するものであり、憲法違反と評価されるだろう。つまりどのように民主的な意思決定の結果であっても、憲法に違反することはできないのである。その意味では、田端の議論相手の人物の「憲法では、すべての個人に生存権が保障されている。」という反論は正しい。

 しかし次の段階として、現実の経済的制約の問題が出てくる。どのように財源を探しても、増税しても何をしても、財政上の制約があって、生活保護を1人あたり月5千円しか支給できない場合は、いくら憲法違反だと言ったところでどうしようもないではないか、という問題である。ここは、田端の表現を借りれば「有用」な存在である「納税者」を確保し、その活動を促進して税収を維持するような施策をするしかないということになるだろう。

フランス大統領選についての2つの対照的な考察(東浩紀と大野舞)

今般のフランスの大統領選挙の結果については、いろいろな考察が発表されているが、『AERA』の東浩紀の巻頭エッセイと、BLOGOSに掲載された大野舞(パリ在住の人)のブログ記事が、好対照をなしていて印象に残ったので、ここでご紹介する。

 まず東浩紀は、現代世界の主要な政治的対立軸は、もはや右と左ではなく、グローバリズムへの賛否なのだという。

 “ルペンは右と言われるが、弱者にやさしい(ように見える)。マクロンは左派に近いと言われるが、実態は金融エリートだ。決選投票では、左右のイデオロギーではなく、グローバリズムへの賛否こそが問われたのである。
  この構図は米大統領選と酷似している。トランプは右だが弱者の支持を集めたし、クリントンはリベラルだが金融街と結びついていた。・・・ナショナリズムとグローバリズムが主要な対立軸を構成し、そこに古い左派の理想が名目的な第三勢力として関わるというこの構図は、おそらくは今後、先進国共通のものになっていくのではないか
。”

 ここでいう「右」「左」の意味は必ずしも定かではないが、それはさておき、東はさらに日本の状況に目を向けて、

 “日本の問題はじつは、右傾化や保守化にではなく、まさに上記の構図自体を作れていないことにあることがわかる。安倍政権は経済的にはグローバリズム寄りだが、イデオロギーは守旧的で排外主義的である。他方で野党はみなグローバリズム批判であり、マクロンに相当する勢力は存在しない。・・・日本にいま必要なのは真のブルジョア政党かもしれない。”

ともいう。

 (安倍政権が経済的にグローバリズム寄りだというのは良いとして、イデオロギー的に「守旧的」「排外主義的」と言えるのだろうか。たとえば外国人材の受入を進めている安倍内閣は「排外主義イデオロギー」に動かされているなのだろうか。
 もちろん安倍首相の個人的信念や傾向については、日本会議との関係とか、その価値観について、「右寄り」「復古的」などと言えるのだろうが、東は、この安倍晋三という一個人の傾向・信念と、安倍内閣全体のイデオロギーとを混同しているといえよう。内閣は、様々な利害調整の中で動いているのであって、首相一人の信念のままに動いているわけではないし、内閣として統一された「イデオロギー」を持っているわけではない。)

 一方の大野舞の記事は、マクロンとルペンの対立の中で、その対立軸そのものが排除してしまっている視点を拾い上げている。決選投票で棄権者が多く出たということは、「グローバリズム(ネオリベ)か排外主義か」の二者択一しかないことへの反発、嫌悪を感じる層が根強く存在しているということである

 そして大野は、マクロンを強く支持する動きは、極右でも極左でもなく「極中」(Extrême Centre)というべきだという論評も紹介する。現在の主流のグローバル資本主義の経済システムを強く推進し、平均的な「中道」こそが正義であるとして、そこから外れた者に対して極めて不寛容なのが「極中」だというのである。
 つまりアイロニカルな表現ではあるが、極左・極右を排除して、自分たちこそが主流だとする「極中」という立場が存在するわけである。

 さらに、このようなグローバルな資本主義を推進し、その恩恵を享受している層(大野が引用する論者の表現を借りれば「社会の中級かそれ以上の階級に属し、生活に何不自由ない人々で、海外に留学したり仕事で飛び回るなどしている人たち」である)は、正義の味方づらをして、極右のルペンとの対決を呼びかけていたけれども、むしろそのような層こそが、社会の格差を広げて、排除された人々を産み出して、ルペンや国民戦線を支持するように追い込んで言ったのだという。

 前述の東の「グローバリズム対反グローバリズムの図式を作るべきだ」という主張と比べてみると、大野が(いろいろな論者を紹介する形で)述べているのは、そのような図式から排除されてしまう問題があるということ、そしてグローバリズムこそが、恩恵を受けられない人々を産み出して、反グローバリズムや極右排外主義を育てたのだということである。

 「マクロン対ルペン」のような図式を、これからのあるべき対立軸の典型のようにとらえる東と、その対立軸そのものに異議を提示する見解を紹介する大野を対比してみると、その違いは非常に興味深い。

(なお東は、日本でも、フランスや米国のような「グローバリズム対反グローバリズム」の「構図」を作るべきだと主張し、「真のブルジョワ政党」が必要だというのだが、そのような構図が日本でなかなか成り立たないとすれば、それなりの理由があるはずである。
ここではあまり深く考察する余裕はないが、たとえばまず、日本は、外国人の労働力をだいぶ受け入れるようになっているとはいえ、フランスや米国のような移民・難民の受入規模には到底及ばないということが挙げられるだろう。EUの中心であるフランス、移民国家でメキシコと国境を接しているある米国とはまったく立場が違うのである。
 さらに自民党という政党は、グローバリズム寄りの施策をいろいろ推進しているとはいえ、伝統的に大都市圏以外の支持基盤も強く、そのグローバリズム志向を徹底することはできないということもあるだろう。
 もっといえば、東のいう「真のブルジョワ政党」、つまりグローバル資本主義を推進する党が出来たとして、それを支持する層=グローバル化の徹底で恩恵を受ける層がどれくらいいるかという問題でもある。)

安倍首相「憲法は9条改正を優先」に憲法学者はどう答える?

 安倍首相は、憲法改正について、9条を改正して自衛隊を憲法に明確に位置づけることを優先する、と述べている。

 政府の解釈論というか公式見解としては、自衛隊も、さらには安保法制も合憲とされているので、それならば逆に、9条を改正する必要などないという話になってしまうと思っていたのだが、この点について安倍首相は、「残念ながら憲法学者の多くが違憲と言っている。そういう状況を変えるのは私たちの責任だ」と国会答弁で説明したようである。
時事通信の記事参照

 憲法学者の中では、時代とともに自衛隊合憲論が次第に増えてきてはいるように思うが、主流は依然として自衛隊違憲論なのではないだろうか。(以前のエントリでも触れた

 いずれにしても憲法学者に対して「政府は自衛隊は合憲だと思うが、お前たち学者の多数派が違憲論を主張しているので、改正せざるを得ない」というふうに首相からボールをストレートに投げつけた格好になった。

 これに対して憲法学者の世界から、何らかの反応や問題提起が出てくれば面白いと思うのだが、どうだろうか。

 ここで思考の実験をしてみようと思う。仮に私が憲法学者で、自衛隊違憲論者で、しかも9条改正反対派だとする。そのうえで、自衛隊を廃止して非武装中立国家になるというのは非現実的なので(なんらかの程度は)自衛隊の存在を是認せざるを得ない・・・と考えているとしたら、この安倍首相の問題提起に対してどう答えるだろうか。

 とりあえず、説明の仕方としては、2つのパターンが考えられる。

(1)自衛隊は違憲であるから、解散すべきである。しかしすぐには解散できない。従って、いずれ自衛隊が解散して非武装中立の国家になれるように、政府は真剣に平和外交その他の施策に取り組まなければならない。いつの日か、非武装中立が可能な時代が来るまで、何十年、何百年かかかるかわからないが、その不断の努力の過程の中で、あくまでもやむを得ない暫定的な途中経過の状態としてであれば、自衛隊の存在は認められる。
 自衛隊は違憲だが、その違憲状態を長い時間をかけて解消していくプロセスの中にあると考えて、当面はやむを得ない範囲で維持しつつも、努力をしていかなければならない。

(2)自分は自衛隊は違憲だと考えているが、合憲だという解釈論も説として一応は成り立たないわけではない。つまり違憲説と合憲説の両方が存在する。もちろん政府は、自衛隊を現に運用している立場であるから、合憲だと主張している。しかし違憲説が有力に存在しているということは、現に安倍首相が認めている。
 つまり、憲法9条がある限り、政府も一応、自衛隊違憲説が存在することを、頭の中で意識しないわけにはいかない。これが9条の価値である。
 違憲説が存在する以上は、政府も、どこかで、自衛隊の運用に慎重になり、暴走しないようになるはずである。9条が改正されて、違憲説がまったく存在しなくなってしまったら、政府は安易に軍備拡張や軍事行動に走ってしまう危険があるのではないか。

・・・いかがなものだろうか?
 ただしこの2つの説明に難点がないわけではない。
 (1)は、「非武装中立が可能な時代」がいつまでも来なければ、結局はなし崩しの現状追認と同じであるし、(2)は、自分は違憲論だといっておきながら、政府が合憲論を根拠に自衛隊を保持・運用することを最初から認めて織り込んでしまっているのと同じなのである。
 とりわけ、自分で考えておいて否定的なことを言うのも妙だが、(2)の主張は、正確には「自衛隊違憲論」というより、「自衛隊違憲論が存在することがプラスになっている論」というべきだろう。

護憲派が「天皇」を持ち出すということについて

 一昔前はあまり考えられなかったのだが、いわゆる護憲派や“リベラル”の論者・メディアが、護憲を訴える際に「天皇」を持ち出すという手法が見受けられるようになっている。

 まず、現行憲法下で即位し、憲法尊重を表明している今上天皇の個別の言動を持ち出すやり方は、今ではすっかりおなじみとなり、今上天皇が今や「護憲のシンボル」であるかのような言説も頻繁に見受けられる。

 また直近の例でいえば、5月3日の朝日新聞の記事(ハフィントンポストで全文を読むことができる)では、昭和天皇が、戦争直後の1946年に、GHQの憲法草案について積極的に受け入れるよう発言したというエピソード(を示す資料)が紹介されていた。

“ 憲法草案に「いいじゃないか」 昭和天皇の発言、メモに

 「これでいいじゃないか」――。日本国憲法起草のもとになった連合国軍総司令部(GHQ)草案の受け入れをめぐり、1946年2月22日に昭和天皇が幣原(しではら)喜重郎首相(当時)と面談した際の天皇の発言を示すメモが、憲法学者の故宮沢俊義・東大教授のノートに記されていたことがわかった。「安心して、これで行くことに腹をきめた」という幣原氏の心情も記載されている。 ”

 この記事は、様々な視点からの分析が可能だろうが、わざわざ昭和天皇が憲法草案について「いいじゃないか」と言ったということを強調しているということは、「今の憲法は、昭和天皇が積極的に受け入れることに同意したのだから、右派の人間が今の憲法を叩くのはおかしい」とでもいいたいニュアンスを読み取ることができるだろう。

 このように、護憲派が護憲の主張のために天皇を持ち出すのは、「改憲派は尊王右翼だから、逆に天皇が現行の憲法を尊重している話をを持ち出せば、へこませることができるだろう」という計算に基づいているのだろう。

 実際、改憲運動で目立つのが、日本会議のように、尊王的・復古的な流れを汲むグループの人々であることは事実だろう。

 しかし、世論の中で改憲を支持するのは、そのような“復古派”ばかりではない。
むしろ天皇に特別な思い入れのない、また復古主義的でも何でも無い人々の間に、「今の9条では安全保障上問題があるのではないか」「自衛隊を明確に位置づけるべきではないか」などと考える人が着実に増えてきており、おそらく世論の「改憲肯定」派の多数を占めていると思われる

 「改憲派は、復古派・尊王派だから、天皇を持ち出して反撃してやろう」というスタンスのメディアは、特に復古的でも尊王的でもない大衆の間で、改憲に肯定的な傾向が広がっていることをどう見ているのだろうか。

 参考:共同通信の憲法についてのアンケート(東京新聞より)

 

今村復興相、「東北で良かった」発言で辞任

 今村復興相は、25日、所属する自民党二階派のパーティーでの講演で、東日本大震災の被害に関して「まだ東北で、あっちの方だったから良かった。首都圏に近かったりすると、莫大(ばくだい)な、甚大な額になった」などと発言して非難を浴びていたが、早くも辞任の意向を固めたという。

参照:産経新聞の記事

 私は先日のエントリーで、今村復興相と山本地方創世相のそれぞれの「失言」を比較したばかりである。今村復興相の自主避難に関するあの発言は、あくまで政策の妥当性の問題であって、大臣個人の失言とか暴言と考えるべきではないと今でも考えている。自主避難については、若干の表現の仕方はさておき、今村復興相は、政府全体の方針に則って発言していただけだからである。(ただし山本地方創世相の「学芸員はガン」発言はそうではない。政府の方針とは何にも関係はない、まさに「失言」である。)

 これに対して今回の今村復興相の発言は、「失言」「暴言」と非難されてもやむをえないだろう。厳密にいうと、非難されるべきは、前半の「東北だから良かった」の部分であって、後半の「首都圏に近かったらもっと損害が大きかっただろう」という部分ではない。

 なお、この発言について、「ホンネはともかく、実際にそう思ってても言ってはいけない」という評価の仕方をする人もいる。間違いではないが、少々ピントがずれていると思う。
 「東北だから良かった」というのは、「あいつを本当はぶん殴ってみたい」とか「他人の不幸が面白い」というほどではないにしても、やはり劣悪な発想である。
 もちろん人間というものは完全な存在ではないから、大臣でも一般人でも、私でも誰でも、いろいろ劣悪な発想を心の中で思い浮かべることはある。心の中で思い浮かべるだけなら、いちいち非難する必要はない。
 しかし、いちいち「他人を殴ってみたいと心で思っていても、口に出してはいけない」などと注意する意味はあるのだろうか。そのようなことは、わざわざ言われなければわからないのだろうか。
 そもそも一般人が思いつきでいった発言ではなく、政治家、それも東北の復興を仕事とする大臣の発言なのである。「復興大臣は、東北を復興するのが仕事なのだから、『東北でなくて良かった』ということを、心では思っていても、実際には口に出してはいけない」などとわざわざ注意してあげなければわからないのだろうか。そういう問題ではあるまい。

東芝が自社株購入呼びかけ

共同通信の記事によると、東芝が社員に「持株会」で、自社株の購入を呼びかけたという。

記事によれば

経営再建中の東芝が、東京証券取引所による「監理銘柄」の指定で上場廃止の恐れが指摘される中、社員向けに自社株購入を呼び掛けていたことが21日、分かった。自社株を保有する社員の多くは、系列の米原発会社の経営破綻などを背景に株価低下で含み損が出ており「会社のモラルを疑う」と反発している。

 東芝関係者によると「東芝持株会2017年度4月定例募集に関する件」と題した文書で全社員に周知された。4月3日から募集を始め、監査法人からの適正意見を得ずに決算発表するなど混乱が続く中で21日に締め切った。

・・・ということである。

記事をなんとなく読むと、経営危機に陥って株価が低迷しているので、株価を維持するために無理矢理社員に買うように呼びかけているかのような印象を受けるが、そうではないだろう。

社員(東芝では、「従業員」と呼ぶのが正式である)に配布された文書が「東芝持株会2017年度4月定例募集に関する件」と題されていることからもわかるように、これは、あくまで定期的な持株会の募集のルーチンの通知にすぎない。

たまたまこういう時期だからマスコミに取り上げられて騒がれているだけであって、経営危機であろうとなかろうと、東芝が持株会制度を備えている限り、定期的に従業員に配られる通知である。

もちろん、従業員に配られた通知に「危機の今こそ、持株会に入って、会社の株を支えましょう」とでもいう社長名義の文章があったら話は別だが、そんな文章があれば、マスコミに漏れてもっと騒がれているはずである。

今村復興相と山本地方創世相の「失言」は同列に扱うことはできない!

 今村雅弘復興担当相山本幸三地方創世相の発言が、相次いで「失言」「暴言」として取り上げられている。
 しかしこの2人の大臣の発言は、まったく位置づけというか意味合いが違うので、同列に扱うことはできない。

 まず今村復興相の発言は、基本的には政府の方針に沿っているものであって、「被災者の感情を大臣が踏みにじったかどうか」を独立して議論しても仕方ないものである。

 例の発言の経緯としては、福島県が自主避難者への住宅の無償提供が3月末で打ち切ったことが話題として取り上げられて、そのうえで復興相は「(帰るか避難を続けるかは)基本的に本人が判断すること」と述べ、さらにまだ帰還できない(自主避難の)人については、「本人の責任、本人の判断」と述べている。

 (なお、避難したこと自体が自己責任、という意味ではなく、今なお帰らないのは自己責任、という意味だろう。)

 これは、善し悪しはともかくとして、政府の現在の基本的な方針を反映したものであって、復興相個人が適任かどうかとか失言とかいう問題ではない。復興相は政府の方針に沿った発言をしたに過ぎない。
 (政府全体としては自主避難者について「本人の責任、本人の判断」と考えていないのに、復興相が勝手にそういう発言をしたというなら、もちろん話は別であるが。)
 復興相が辞任したり発言を撤回したたところで、この政府の政策が変わるわけではない。

 もちろん政府として公に「自己責任論」という露骨な言い方をしているわけではないが、基本的方向性はそういうことであって、それがいけないとすれば、復興担当大臣を替えることによってではなく、政府の政策全体を議論して変更することによって解決するしかないだろう。

 つまり議論すべきは、今村大臣の発言の善し悪しではなく、自主避難者への支援をどこまで政策として行うかということなのである。
 
 一方、山本幸三地方創世大臣の方はどうかといえば、「学芸員はガンだ、一掃すべき」というのは、表現自体の善し悪しもさることながら、まさか政府が、公的な制度である「学芸員」を、地方創世にとって有害な存在だと考えて一掃するような政策方針で動いているわけではないから、暴言以外の何者でもなく、このような勝手な発言をする者が大臣にふさわしいかどうかを正面から議論すべきである。

 今村大臣は(言い方の善し悪しは別として)政府の方針に沿った発言をしたが、山本大臣は、政府の方針とは何の関わりもない暴言を吐いた。これが両者の違いである。

香山リカがチャンネル桜および出演者に対して訴訟を提起

 香山リカの3月30日付のブログ記事によれば、チャンネル桜のインターネット番組『沖縄の声』に出演した人物3名と、株式会社日本文化チャンネル桜を相手として、東京地裁に訴えを提起したという。

 香山リカ自身のブログおよびツィッターでは、「東京地裁に訴えを提起しました」という言い方しかしていないが、事案の内容を見る限りでは、名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟ということだろう。

 (ここで政治的・思想的な次元の議論には触れるつもりはないが)問題となったチャンネル桜の番組を私は見ていないので、香山リカ自身のブログ記事での説明をとりあえず紹介すると:

 チャンネル桜の2016年10月27日の 「【沖縄の声】ヘリパッド反対派を初起訴、香山リカのツイートが法に触れる可能性あり」というタイトルのコンテンツで、まず、キャスターの栗秋琢磨という人が、香山リカについて、「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」を自らのツィッター投稿により犯していると主張し、さらに、「香山リカの勤務先の診療所に医師法の違反が疑われて監査が入った」「千代田の保健所から監査が入った」等という趣旨のことを述べ、それについて、平原伸泰および鉢嶺元治という出演者が相づちを打つなどした、ということのようである。

 まず、香山リカのツィッターでの一定の言動が「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」にあたるかどうかは、問題となっている特定の言動が具体的にどのようなものだったのか、そしてそれをどのように法的に評価するかの問題であるが、ここでは立ち入らない。

 一方、「保健所から監査が入った」と述べた点については、一定の事実についての主張であるが、監査が実際におこなわれていたかどうかにかかわらず、まず、それは香山リカの社会的評価を低下させる発言として、名誉毀損にあたると評価される可能性がある。名誉毀損は、真実であったとしても成立しうる。
 (ただし、以下に述べるとおり、一般論としては、一定の要件をみたす場合に、主張した内容が真実であるか、真実だと誤信したことに相当の理由があった場合に、違法性が阻却されて、名誉毀損が成立しなくなる場合もある。)

 この件で、栗秋が反論するとすれば、名誉毀損について、違法性阻却の事由があることを主張するのが定石だろう。
 具体的には、①自分が香山リカについて述べたことは、公共の利害に関する事実にかかるもので、②目的がもっぱら公益を図ることであり、③真実である(または真実でなかったとしても、真実だと誤信するのに相当の理由があった)、と主張すると思われる。もちろんこの主張が裁判所で認められるかどうかは、やってみなければわからない。

 なお、ブログでの説明を見る限りでは、平原および鉢嶺という人は、ただ単に相づちを打つに近い発言だったようにも見える。ただ単に相づちを打っただけでも名誉毀損にあたるのかどうかという点は、興味深い論点になる可能性があるだろう。(実際の番組では、もっと踏み込んだ発言をしていたのかも知れないが、そこは見ていないのでわからない。)

時間をかけなければ成果が出るわけがない!労働時間と成果には関係がある!

 またまた最近の「働き方改革」の文脈の議論について。

 「工場の製造労働は、労働時間に応じて成果が出てくる。しかしホワイトカラーやクリエイティブな仕事は、労働時間と成果は関係ない。」という類いの主張が最近、掃いて捨てるほど見られるようになってきた。

 だが、果たしてこの種の言説は正しいのだろうか。“クリエイティブ”な仕事は短時間でも完成するものなのだろうか。たとえば小説家、作曲家や画家の仕事は、労働時間には関係ないのだろうか。

 たとえばあのモーツァルトはごく短時間で次々に曲想がうかんで多くの曲を作ることができたらしいが、そういうのはあくまで例外中の例外である。極めて特殊な例外的天才を基準にすることはできない。

 小説執筆だろうと作曲だろうと絵画だろうと、何らかの芸術作品を作るには、必ず一定の作業時間が必要である。

 もちろん時間をかければ必ず良い作品が出来るというものではない。時間をかけても駄作だったとか、うまく発想がまとまらずに完成できなかったとかいうことはあるだろう。
だが、時間をかけなければ、どちらにしてもまともな作品は出来ないのだ。

 つまり、たっぷり時間をかけることは、クリエイティブな仕事をする者が“成果”をあげるための十分条件ではないけれど、必要条件なのである。

 芸術家はさておき、もう少し一般的な範囲でいうと、専門的な職種の代表としてよく挙げられる医師、弁護士や税理士の場合はどうだろうか。これらの仕事の場合でも、成果と時間は関係ないのだろうか。そうではない。

 医師が診察をしてじっくり症状を検討するのは、それなりに時間をかけないと良い成果を生み出せない。弁護士や税理士は、書類や資料の検討に時間をかける。書類や資料が多ければ、それだけ時間もかかることになる。

 もちろん、かける時間が2倍になれば成果も単純に2倍になるというわけではないので、厳密な意味では時間と成果は「比例」はしない。 
 しかし、時間をある程度かけなければ成果は上がらないし、時間を長くかけた方が成果につながる可能性が高まる(ただし限度はある)という意味では、やはり「時間」と「成果」は関係があるのである。

 誤解されると困るので断っておくと、今回、このようなことをわざわざ書いた理由は、「成果を出すためには時間をかける必要があるから、労働時間規制は無理だ」とか「成果を上げるために、みんなもっと時間をかけて働くべきだ」などと言いたいからではない。
 とにかく「クリエイティブな仕事は、時間に関係なく成果を出せるはずだ」という妄想じみた言説はやめて、まずは「どんな仕事でも、成果を出すには時間がかかる(ただし時間をかけても成果が出るとは限らない)」ということを正面から認め、そのうえで、労働時間規制をどうするかについて議論するのが筋だと考えたからである。

 (なお「ホワイトカラーの仕事には、会議や問い合わせ対応など無駄な時間が多く、成果に結びつかない」という議論もあるが、これは、従事する仕事に無駄なものが含まれているかどうかの問題であって、労働時間と成果の関係の議論とはまったく別問題である。両者を混同してはならない。)

 最後にもう一度書いておこう。「クリエイティブな仕事の場合は、かけた時間と成果とは関係ない」などという妄言は、相手にしてはいけない。

竹内克志「残業問題への対応についての違和感」について

竹内克志氏が、「残業問題の対応についての違和感」と題したブログ記事で、

“長時間の残業による過労死の問題によって、残業に関する規制が強化されていることに関して、いろいろ考えさせられることがあります。

 まず、過剰な残業を強制されるような状況は、排除するという方向性には同意しています。しかしながら、それに対応する法律や企業の対応にすっきりしない感じを持っています。”

と述べ、残業規制問題について、おおむね次のように主張している(要約)。

 1 労働時間に応じて成果が決まる職種と、そうでない職種がある。後者についても労働時間の規制を及ぼすのは不当である。

 2 一部企業では、PCの使用記録をもって労働時間を記録するというやり方が行われている。これは、企業の側が違法な長時間労働をさせていないことの証明として行うのであれば、一応理解できる。しかし、管理職のように、労働時間に応じて成果が決まるわけではない従業員にとっては、このようなやり方は不利になるものである。

 3 スタートアップ企業(ベンチャー企業)には、経営者と従業員との区別が明らかでないケースもあり、そのような場合にも一律の労働時間の規制を及ぼすのは、経営の活力を損なう恐れがある。

 このうち1については、何か誤解をしているようだが、労働基準法の労働時間規制は、「成果」が上がるかどうかとは何の関係もない。成果が上がろうと上がるまいと、長時間労働は、働く者の健康を損なうものだから、規制を受けるにすぎない

(さらにいえば、「成果が労働時間に比例するわけではない」ということは、労働時間を規制しなくて良い理由にはならない。「成果が労働時間と関係ない」ということは、「成果を上げるまでは、どこまでも際限なく働かなければならず、健康を害する」ということにもなりかねないからである。逆に「短時間でも成果が上がる」のであれば、規制があろうとあるまいと影響はないはずである。)

2の点は、元の記事の意図が必ずしも明確ではないのだが、おそらく「単に労働時間だけで成果を評価しないでくれ」という趣旨と思われる。しかしここで問題となっているのは、健康管理のための労働時間である。PCの記録による労働時間の把握は、“少なくとも”これだけの時間は働いた(働かされた)ことの証明となるのだから、その限りでは、労働者にとって有利になるものだろう。それと、どの程度の報酬(賃金)を支払うかは、また別問題である。

3の点はなかなか難しい問題であるが、“ベンチャー”“スタートアップ”企業といっても、それこそ「すき家」のようなケースもあるので、労働者保護をおろそかにして良いかどうかは別問題である。もう少しきめ細かく具体的に検討してみる必要があるだろう。

より以前の記事一覧

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