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経済・政治・国際

石川健治と自衛隊正統性否認論・つづき

 季節柄ということもあるのかも知れないが、憲法学者の石川健治がネットでいろいろと話題になっているようである。
 以前のエントリでも触れたことの繰り返しになるが、石川健治は、おおむね次のようなことを言っている。

憲法9条により、自衛隊には正統性が与えられず、権力統制が行われている。
 正統性に疑いがある自衛隊は、世間から後ろ指を指されないように、常に身を慎むことになる。
 憲法9条は、自衛隊から正統性を剥奪することで、コントロールしているのである
。」

石川は「自衛隊は違憲」ということをまず前提にしたうえで、「違憲=正統性を与えないことによってコントロールできている」というロジックに立脚している。
「違憲とすることによって廃止(排除)する」というのではない。

 だが、「違憲とすることによってコントロールする」というロジックが通用するなら、他の違憲(の疑いがあるとされている)制度や組織等にも、そのロジックは同じように適用できることになるだろう。

 たとえば、集団的自衛権にかかわる例の安保法制の成立について、石川健治は、「クーデターで立憲主義を破壊した」といって非難していたのだが、集団的自衛権についても、結局同じ論理が通用することになる。

 あと何年かしたら、石川健治かその弟子は、次のように言っていることだろう。

 「憲法9条により、集団的自衛権行使には正統性が与えられず、権力統制が行われている。
  正統性に疑いがある集団的自衛権の行使は、世間から後ろ指を指されないように、常に身を慎むことになる。
  憲法9条は、集団的自衛権行使から正統性を剥奪することで、集団的自衛権行使をコントロールしているのである
。」

 なお、以前のエントリで、「立憲主義を主張するなら、『憲法に違反したものを違憲論で統制して使えば良い』というのは、おかしいのではないか?」と疑問を呈したことがあったが、それについて、ある人から、「石川教授は、自衛隊を『良い』と是認したわけではない。存在を前提として考えることと、存在を是認することは違う」という意見をいただいた。

「良い」とか「是認」という用語のニュアンスにもよるが、少なくとも毎年毎年予算をつけて、人員や装備を更新させて、演習を行わせて、緊急時には出動して戦闘行為もさせることを前提として考えるのであれば、「是認したわけではない」などと言い張るのは無理ではないだろうか

「緊急時には戦闘機のスクランブル発進をさせているが、存在を是認したわけではない」とか「自衛隊の存在は認めないが、毎年装備予算をつけさせている」と言い張るのであれば、いささか理解できない発想である。

(「自衛隊は認めない。新たな予算や人員はつけるべきではない。廃止に向けて具体的な動きをするべきなのに、政府がそれをしないのはけしからん」なら、賛否はともかく論理的にはまったく筋がとおっているのだが。)

・・・と、ここまでは前回書いたこととあまり変わらない内容なのだが、さらに考えてみると、「自衛隊に正統性を与えないことで統制できれば良い」とする考え方のもっと大きな問題点は、自衛隊に正面から向き合ってそのあり方を考える思考を阻害するということだろう。

 正統性がないから、単に抑制すれば良いという発想にしかならないので、リスク込みで、具体的にどのように組織体制を作って、どのように運営すれば良いのかを真剣に考えるという発想はそこからは生まれてこないのである。 

 「正統性がない(疑わしい)から、自衛隊は世間から後ろ指を指されないように身を慎む」と石川はいうが、そこには、自衛隊のあり方を究極的に決めて、利益も不利益も身に受け、最終的に責任を負わねばならないのは「世間」自身だという自覚が致命的に欠けているといえよう
 石川の考え方では、「世間」と分離されたところに「自衛隊」がポツンと存在していて、それが正統性を認められず身を慎んでいる(慎ませる)という発想にしかならない。

 これは、「どうやって現在の問題を解決するか」よりも「どうやって『戦前』に戻らないようにするか」を優先して考える思考方法のあらわれの一つといえるだろうか。

日本人にとって「戦後」はもう一つの元号だった(2)

さきのエントリの続き。

「戦後」とは、「悲惨な太平洋戦争が終わって(そこから解放されて)何年・・・」という発想をあらわす「元号」でもある。

さて、「戦後」という概念があるからには、その反対概念としての「戦前」も当然、存在する。

「今の政権は、戦前回帰を志向している」とか「戦前のような時代がまたやってくる恐れがある」という表現も、メディアで頻繁に見かける。安保法制や共謀罪問題での議論を思い出して見れば良いだろう(今の安倍政権への評価はここでは立ち入らない)。

このように「●●は戦前回帰を志向している」のような言い方をする場合、「戦前」とは、恐ろしい時代、悲惨の時代として位置づけられている。「戦前」という言葉を持ち出せば、何の論証も説明も抜きで、相手がすぐ納得して否定的な反応をしてくれることが当然の前提になっている。
ここでは「戦前」「戦後」の概念は、単なる時代区分の話ではない。「戦前」は、戻ってはならない時代とされているのだ。

(逆にいえば「戦前」を「江戸時代」とか「明治時代」とか「元禄時代」のように、単なる歴史上の一区分としか考えない人にとっては、「戦前回帰」という言葉を聞いても、ピンと来ないだろう。「江戸時代」や「明治時代」という用語には、「戻ってはならない時代」というニュアンスでの用法はない。)

一般的にいえば、メディアや学問の世界など、政治や社会に関していろいろな議論や主張をする場では、「戦前のようにならないこと」「戦前に戻らないこと」を重要な判断基準とした言説が、現在に至るまで数多く産み出されてきた。

「戦前に戻らないようにするには、どうするべきか?」というのが重要な価値判断の基準とか思考の出発点となって、その基準にのっとって様々な判断を行うという思考の枠組が形成されているのだ。

これは、「どのようにしたら現在の問題について解決・対処できるか」よりも、「どのようにしたら『戦前』に戻らないようにできるか」を第一番に考えるという傾向につながるとも言えるだろう

これは日本の言論の世界(とりわけ防衛問題についての言論)に強く根付いてきた思考のパターンだが、世代交代に伴って、次第に色あせてきてもいると思う。

学問の世界でいえば、この思考の枠組を非常に強く持っているのは、恐らく憲法学だろう。これは(現代日本の)憲法学が本質的に持ってきた性質のためである。

現代日本の憲法学は、日本国憲法の解釈学である。明治憲法の本質的部分が否定されて日本国憲法が成立し(「占領憲法」と評するかどうかは別問題)、その日本国憲法の基本となる理念や価値を前提としたうえで解釈をするというのが憲法学の主流なのである。このような性質からすれば、「どのようにしたら『戦前』のようになるのを防ぐか」という思考が組み込まれてきたのだ。

以前紹介した書籍『アーキテクチャと法』の中の横大道聡の論文「憲法のアーキテクチャ」で、駒村圭吾や高橋和之を引用する形で、横大道は次のように述べている。

 “日本では、『何かを建設しようとする構築の意志を持つことは危険であるとするのが、憲法学の初動的な反応』で、『憲法学は何かをつくり上げる学問ではなく、抵抗し、批判する学問であるという自己規定が強い』・・・”(同書200頁)

とはいえ、憲法学の世界も世代交代と共に次第に傾向が変わってはいくだろう。

どうもまとまりが無くなったが、とりあえずこの辺にしておく。

日本人にとって「戦後」はもう一つの元号だった(1)

この季節にふさわしい話題をひとつ。

「戦争」という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。

何よりもまず反射的に、「太平洋戦争」(もちろん「第二次世界大戦」や「大東亜戦争」でも良い)を思い浮かべるかどうか。

「戦争」という単語で、反射的に太平洋戦争をすぐ想起する人の数は、今、日本にどの程度いるだろうか。
ちゃんと調べたわけではないが、年配になるほど「戦争=太平洋戦争」という反応になるのではないだろうか。

逆に、若い世代ほど「戦争」と言われると、一般的な戦争(現在でいえばシリアやイラクあたりの戦争)が頭に浮かんでくるのではないかと思う。

太平洋戦争が終わって長い間、日本社会では、「戦争」といえば、何よりもまず「太平洋戦争」だった。本来的にいえば、戦争とは時と場所によっていろいろなパターンがあるはずで、太平洋戦争も、あくまで特定の社会や国家がかかわった、特定の一つの戦争のはずなのだが、日本人にとっては「戦争=太平洋戦争」という思考が支配的だったのである

戦争体験の「風化」という言い方もおなじみになっているが、戦争体験が風化するということは、説明ぬきでいきなり「戦争」といわれればすぐ「太平洋戦争のことだな!」という反応をする人がどんどん減っていくということでもあるだろう。

「戦後72年」という言い方にも、それはあらわれている。
「太平洋戦争終結後●●年」ではなく、修飾語抜きで「戦後●●年」という言い方が、当たり前のように通用してきた。
そして、現在の日本の位置づけは、「戦後●●年」という時間軸の基準で認識されてきたのである。

1945年以降の日本には、「平成」(+「昭和」)とは別に、「戦後」という元号が実質的に存在していたといえるのだ。

たとえば、大阪万国博で盛り上がった1970年は、「昭和45年」であると同時に、「戦後25年」でもあった。(厳密に考えると、終戦の年もカウントに入れると「戦後26年」だろうが、そこはあまり細かく気にしないことにする。)
今年、2017年は、「平成29年」であると同時に、「戦後72年」なのである。

ただし若い世代になればなるほど、当然、「戦後」という意識は薄れてきているだろう。
自分が戦争を体験していないどころか、親世代も、さらに祖父母世代さえも戦争を体験していない人が増えてきている。

そういう若い人にとっては、「戦後●●年」というのは、もはや「日露戦争から××年」というのと同じで、遠くて実感がわかなくなってくるだろう。

(つづく)

「ノー残業、楽勝!予算達成しなくていいならね。」

地下鉄の霞ヶ関駅に、このような広告ポスターが貼られていた。

「ノー残業、楽勝!予算達成しなくていいならね。」

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従業員に業務の負荷がかかっている現状を放置して、単に「残業を減らせ、早く帰れ」と叫んだところで何の意味もない、ということで、端的にホンネというか実態を述べているコピーである。

肝心の広告対象の商品についての紹介は、下の方に「ルールだけでなく、ツールで新しい働き方を  キントーン」と書いてあるので、事務処理を効率化するシステムについての宣伝なのだろうということは見当がついたが、「キントーン」とは何のことかわからず、調べて見たら、どうやらサイボウズ株式会社の商品らしく、「ビジネスアプリ作成プラットフォーム」ということらしい。

 それはそうと、私自身、某大手メーカーの人事・労務部門にいた頃の「ノー残業デー」のことを思い出した。会社は毎週水曜日を「ノー残業デー」と決めていて、やむを得ず残業する部署は、「残業申請書」を人事・労務部門に提出する。(人事・労務部門としては、この「残業申請書」を労組にも見せる。)
 ところが、ノー残業デーなどお構いなしに客先への対応業務は頻繁に発生するから、結局のところ、各部署から出てくるこの「残業申請書」はかなりの量になる。さらに急に残業せざるを得なくなる者も常にいて、そういう場合は事後提出せざるを得ない。
 そんなこんなで、「残業申請書」の作成提出自体が、各部署にとっては結構時間をとられる作業になっていたのである。

(追記)念のため調べてみたら、このサイボウズの広告は、既に3ヶ月ほど前に品川駅の電子看板で掲示されて、ネットなどでも話題になっていたようである。滅多に品川には行かないので気づかなかった。地下鉄の霞ヶ関駅にポスターとして貼り出されたのは、比較的最近なのかも知れない。

学生の就職先として人気が高いのは「公務員」

 リスクモンスター株式会社が7月26日に発表した「大学1,2年生が就職したいと思う企業・業種ランキング」という調査の結果によれば、1位は「地方公務員」、2位が「国家公務員」だったという。

(なおキャリコネニュースの記事も参照。)

 今回発表されたものに限らず、この種の意識調査は、昔から似たようなものがいくつも出ていて、公務員が就職先として学生の人気が高いというのは、もうお馴染みの話になっていたと思う。(今手元に資料はないので正確なことはいえないが、公務員人気が低かったのは、バブル時代くらいではないだろうか。)
 そして若者が「将来は公務員になりたい」というと、年上の人間から「公務員になりたがるなんて、夢がない」という反応が返ってくるというのも、昔からある程度お約束のパターンになっており、今でもその名残がある。

 しかし「公務員=夢がない」とか「安定志向なんて夢がなさすぎる」などと考えるのは、少なくとも今時はいささか見当違いだろう。

 「夢」とは、「現実にはなかなか得られない、高い価値がある(と思われる)もの」だろう。そうだとすれば、「仕事(生活)の安定」こそは、まさに「夢」なのである。

 現実には仕事や生活は不安定だという意識が広がっており、だからこそ、なかなか手に入らない「仕事や生活の安定」が夢になっている。
 そんな「夢」を求めて、若者は公務員に憧れるのだ。

 もちろん、イメージの世界ではなく現実世界の公務員が「安定」しているのかどうかはまた別問題である。

「残業代ゼロ」・「脱時間給」・「成果型賃金」・・・どの名称がお好きですか?

秋の臨時国会に政府が提出を予定している労働基準法の改正案について、連合(の執行部)が、一定の修正を条件として容認の姿勢を見せていたが、傘下の産別労組などが強く反発し、容認を実質的に撤回することとなった。

ここでは細かく立ち入らないが、各新聞の見出しを比べて見ると、なかなか面白い。

(1)朝日新聞

「残業代ゼロ」容認、連合見送りへ 批判受け方針再転換

専門職で年収の高い人を労働時間規制から外す「高度プロフェッショナル制度(高プロ)」を条件付きで容認する方針転換をめぐって混乱していた連合の執行部が、高プロの政府案の修正に関する「政労使合意」を見送る方針を固めたことが、関係者への取材でわかった。(・・・)

(2)日経新聞

連合、「脱時間給」容認を撤回 政労使合意は見送り
 
連合は25日、労働基準法改正案に盛る「脱時間給」制度を巡る政府、経団連との修正案の政労使合意を見送る方針を固めた。連合執行部が現行案の修正を政府に要請したことに、傘下の産業別労働組合などが強く反発。組織をまとめきれないと判断し、撤回することになった。(・・・)

(3)産経新聞

「成果型賃金」容認を撤回へ 連合、政労使での合意見送り 労基法改正案

高収入の一部専門職を残業代支払いなどの労働時間規制から外し、成果に応じて賃金を決める「高度プロフェッショナル制度」を含む労働基準法改正案の修正をめぐり、連合が政労使での合意を見送る方針を固めたことが25日、関係者への取材で分かった。(・・・)

こうしてみると、朝日は「残業代ゼロ」、日経は「脱時間給」、産経は「成果型賃金」である。記事本文そのものはそれほど大きく違っているわけではないが、こういう見出しの書き方の違いはいろいろと考えさせられる。

朝日の「残業代ゼロ」というのは、明らかに非難というか否定的なニュアンスがこめられているが、実際に残業代(時間外割増賃金)は支給されなくなるのだから、間違いではない。

日経の「脱時間給」というのはやや微妙である。労働時間が長くなっても、それに応じた残業代が支給されなくなるという意味では、「脱時間給」というのも間違いではない。ただし、今でもいわゆる「月給制」(=遅刻や早退をしたり、所定労働時間より短く勤務しても、賃金が減額されない扱い)の労働者は、既に存在している。(ただしそういう「月給制」の労働者も、原則として残業代は支給しなければならないのが労働基準法の規定である。)こういう「月給制」の人は、今でもすでに(ある程度)「脱時間給」といえるのではないだろうか。

これらに対して、産経の「成果型賃金」というのは、ミスリードを招くものだろう。成果に応じようと応じまいと、とにかく一定の高度に専門的な職務の労働者には残業代を支給しない、というのが労働基準法の改正案なのである。
使用者には、残業代を支給する義務がなくなるだけであって、成果に応じた賃金を支給する義務が発生するわけではない。

逆にいえば、今でも、成果に応じた賃金を支給できないわけではない。成果の上がっている者の賃金を高く、上がっていない者の賃金を低く設定するような労働契約を締結するのも自由である。ただしそれとは別に、法定労働時間を超えたら、原則として残業代を支給しなければならないというだけのことである。

なお、過去の記事で何度も書いているが、描き上げた絵の枚数に応じてお金をもらうアニメーターとか、ヤクルトの販売数に応じて報酬をもらうヤクルトレディとか、売上に応じてカネをもらうタクシー運転手などは、立派な「成果に応じた報酬」である。(必ずしも「労働契約」ではないが)

以上のとおり、「残業代ゼロ」は間違いではないが非難のニュアンスに傾きすぎ、「脱時間給」はややズレており、「成果型賃金」は、違う次元の問題を混同している。もう少し別な言い方はないだろうか。

個人的には、単純に「固定賃金制度」とか「定額賃金制度」で良いのではないかと思う。

厚生年金の事業主負担分も本人が負担しているのか?(城繁幸氏の説について)

 「みんなの介護」という介護系メディアのサイトで、人事コンサルタントの城繁幸は最近、次のように言っている。

厚生年金に関して知っておくべき話がひとつあります。厚生年金は現在、約19%で、そのうち半分は会社が負担してくれるということになっています。しかし会社側から見れば、事業主負担も実質的には本人負担だということです。”

 城の主張をさらに読んでみると、具体的にはこういうことである。

 まずある企業のAという労働者が、額面で50万円の給料を支給されているとする。厚生年金の保険料率が仮に20%とすると、Aの場合は(単純化していえば)10万円である。

 厚生年金保険料は、事業主と被保険者が折半で負担することになっている。
そこでこの10万円を企業とA本人が折半で5万円ずつ負担することになるから、A自身の手取りは、50万-5万=45万円である(ここでは所得税その他の徴収は無視しておく)。

 しかし城繁幸によれば、事業主負担も、実際には本人が負担させられているのだという。

 企業側からみれば、給料50万円+厚生年金保険料事業主負担分5万円=55万円がAの人件費である。つまりAは「本来55万円をもらえるはずだった」という。

 そのうえで企業側は、上記の5万円を事業主負担分として納付しているから、実際にはAは、“自分がもらうべき”55万円から、事業主負担分5万円と本人負担分5万円の両方の合計10万円を負担して、45万円を手取りとして受け取っていることになる。

 つまり城によれば、厚生年金保険料は、事業主負担分も本人負担分も、どちらも結局は労働者本人の負担でしかないのだという。

 城繁幸のこの議論は、「Aは本来、50万円ではなく55万円をもらえるはずだった」という仮定に基づいている
 仮に厚生年金制度が存在しなければ、Aの給料は50万円ではなく55万円になっていたはずだという主張である。

 だが、本当にそういえるのだろうか。仮に厚生年金のない世界であれば、会社の負担するAに関する人件費が月55万円から50万円に下がるだけではないのか。

 Aは、支給される給料が額面月50万円という前提で会社に雇用されている。月50万円で働いてくれる者に、わざわざ月55万円を支払う会社はないだろう。
 厚生年金がなければ、会社は余計な5万円などわざわざ負担する必要はないし、そしてAは50万円という条件で納得して働くのだから、Aの支給される給料は50万円のままなのではないか。

 なお「事業主負担分」があるのは、厚生年金だけではない。健康保険にも労働保険(雇用保険と労災保険)にも事業主負担分はある。とりわけ労災保険には、本人負担は存在せず、100%事業主負担だが、城繁幸の理屈では、この労災保険も、「労働者が本来もらえるはずだった人件費の中から、すべて自分で支出しているのだ」ということになるのだろうか。

 さらに城繁幸の理屈でいえば、会社が支出する各種福利厚生費(これも人件費の一部といえるだろう。たとえば会社独自の福利厚生制度とか、社内食堂の会社負担分とか、社内運動会とか)も、「本来なら労働者が全額もらえるはずだった人件費に含まれる」ということになる。
 つまり城繁幸の説では、人事や福利厚生にかかわる諸費用は、一見「会社負担」のように見えても、実際はすべて労働者本人が負担しているものでしかなく、実質的には「会社負担」のものなど存在しない、ということになるのだろうか

「強すぎない安倍政権」という選択肢はないのか?

都議選での自民党の大敗と、内閣支持率の低下を受けて、自民党内では「反安倍」の動きが始まったようである。

特に内閣支持率では、NHK・朝日・読売のいずれの調査でも30%台に落ち込んでおり、これまでの比較的高い支持率に比べてかなり急激な低下であって、自民党内でも危機感が強まるのはまあ当然である。

政局の動きについてはあまり立ち入りたくはないが、「強すぎない安倍政権」という選択肢はないのだろうか。

あまり自民党の議席が多すぎない程度で、国会では野党との協議や調整をきめ細かくやらなければならない状況になったうえで、政権は当面、安倍内閣にやってもらう・・・という選択肢があっても良いと思うのだが。

もっとも、次の国政選挙がいつになるかわからない今の段階で、こんなことを言ってもむなしいかも知れない。

実際は、安倍首相が自民党内で圧倒的な力をもって「安倍一強」と呼ばれるのは、選挙で強さを示して多数の議席を確保してきたからであって、それができないとなれば、「強すぎない安倍内閣」ではなく、「安倍降ろし」が自民党としての選択肢ということになるのだろう。

なぜ都議会選挙や都知事選挙は、国政選挙のような雰囲気になってしまうのか?

 東京都議会選挙は、都民ファーストの圧勝に終わった。

 都知事選挙や都議会選挙の場合、今回に限らず、多かれ少なかれ“国政の代理戦争、前哨戦”みたいな扱いで報道されて、実務的な政策論争になりにくく、有権者もその流れに乗って、国政についての意識をそのまま持ち込んだりムードに流されたりする傾向は、前々からある。
  (昭和の「革新都政」がもてはやされた時代もそうだった。)

 なぜこういう現象が起こるのだろうか?
 なぜ、東京都知事選挙や東京都議会選挙は、国政選挙のような感覚になってしまうのだろうか?
 「マスコミが煽っているからだ」というのは一つの答えだろうが、有権者がその煽りに反応するだけの理由の説明は一応必要だろう。

 たとえば静岡県や鹿児島県の県議会選挙で、マスコミが「この県議会選挙は、実質的には、安倍政権への国民の支持の度合いを測る意味のある選挙だ」と言ったところで、有権者は乗ってくるだろうか? 
 他の府県では成り立たないことが、どうして東京では成り立つのだろうか?

 もちろんそれは、東京都民が他の府県民よりもバカとか変わり者だからというわけではない。
 答えは簡単で、東京都民の大半は、都政がどうなろうとあまり生活には実質的に影響を受けないような立ち位置の人間だからである(大企業のサラリーマンとその家族、第三次産業従事者、小学校から大学までの教員、メディア関係者、大学生、などなど)。

 他の府県の知事選挙ともなれば、全然話が違ってくるだろう。農林水産業、比較的小規模な商工業、土建業などに従事する人々の比率が高い府県では、どういう知事を選んでどういう行政をしてもらうかは、その地域住民にとっては死活問題である。

 東京にも農林水産業や小規模な商工業や土建業にかかわる人はいるし、築地・豊洲問題はここらへんの関係者にとっては重要な課題のはずだが、いかんせん、東京全体の有権者の中では少数派なのである。

 東京の有権者の大半は、都知事選挙や都議会選挙を、国政選挙の代用物のように考えて、大雑把な感覚で投票しているが、それは、そういうことができるだけの余裕がある社会層が東京都民の大半をしめているということであり、これがいわゆる浮動層なのだ。

 (付け加えると、市長選とか区長選になると、いくら東京でも、さすがにもう少し現場の実情を反映した状況になるかと思う。)

稲田朋美防衛大臣の発言と自衛隊法と公職選挙法

都議会選挙で、自民党の候補について「自衛隊としても」応援をお願いしたという稲田朋美防衛大臣の発言が問題となっている。

具体的な法律に照らして検討してみよう。

まず自衛隊法61条1項で
隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。」
とある。

これだけを見ると、まず、政党などのための寄付金集めをしてはいけないのは何となくわかる。ただ、「政治的目的」と「政治的行為」とは具体的にどこまでの範囲を指しているのかよくわからないが、これは政令で定めることになっている。

この「政令」が、自衛隊法施行令である。
自衛隊施行令86条1号によれば、禁止される「政治的目的」の例として

衆議院議員、参議院議員、地方公共団体の長、地方公共団体の議会の議員・・・の選挙において、特定の候補者を支持し、又はこれに反対すること

があり、さらに87条1項8号によれば、禁止される「政治的行為」の例として

政治的目的をもつて、前条第一号に掲げる選挙・・・において、投票するように又はしないように勧誘運動をすること

とある。

すると、都議会選挙で「自民党候補に投票するように、自衛隊としてお願いするという稲田朋美の発言はそのまま自衛隊法違反ということになりそうだが、自衛隊法で政治的行為が禁じられているのは、「隊員」である。
「隊員」とは、自衛隊法2条5項によれば

防衛省の職員で、防衛大臣、防衛副大臣、防衛大臣政務官、防衛大臣補佐官、防衛大臣政策参与、防衛大臣秘書官、第一項の政令で定める合議制の機関の委員、同項の政令で定める部局に勤務する職員及び同項の政令で定める職にある職員以外のものをいう

とされているので、たとえば統幕議長や東部方面総監は「隊員」に含まれるが、防衛大臣は「隊員」ではないので、稲田自身が自衛隊法違反の罪そのものに直接問われるということにはならない。

(ちなみに自衛隊法61条1項に違反して「隊員」が政治的行為を行った場合、3年以下の懲役または禁固に処せられる(同法119条1項1号)。

ただし、防衛大臣が、防衛大臣の立場で、自衛隊が自衛隊法違反の行為をすることを前提とした発言を公に行ったということになるから、防衛大臣としては不適格ということになるだろう。

またこれとは別に、公職選挙法違反の問題がある。

詳細ははぶくが、公選法136条の2では、公務員(防衛大臣も含まれる)が、候補者を推薦し、支持する目的をもって、その地位を利用して、候補者の推薦に関与し、若しくは関与することを援助し、又は他人をしてこれらの行為をさせることを禁止している。

選挙について「防衛省として、自衛隊としてお願いしたい」という言い方をした稲田の発言は、ここでは、防衛大臣としての地位を利用した都議選の候補者支援活動ではないかということで、問題となるわけである。

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