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経済・政治・国際

待機児童問題は、保育料の値上げで「解決」すれば良い?

本日の日経新聞の「経済教室」は、「待機児童解消できるか (上)」というタイトルである。
 経済学者の宇南山卓(一橋大学准教授)が、保育所の待機児童問題の“現実的”な解決策として「保育料引き上げ」を提唱している。

宇南山によれば、そもそも待機児童とは、保護者が希望しても保育所に入所できない児童のことであり、保育所への需要が供給を超過している状態のことである
 つまり需要過多といっても良いし、供給不足といっても良い。

 この解決策としては、まず保育所の供給を増やすことが考えられるが、費用がかかりすぎで限界があり、あまり現実的ではない。無理に増やそうとすれば、質の悪い保育所が乱造される危険もある。

 そこでこの筆者は、逆に需要を減らすことによって待機児童問題を解決する策を提唱する。どのように減らすかといえば、保育料を引き上げることである。

 経済学的にいえば、商品やサービスの価格が高ければ、それに対する需要は減少する。その考えをそのまま適用して、保育所を使うための保育料を引き上げていくべきというのである。
 保育料が高くなれば、それに応じて、保育所を利用しようという保護者は減っていく。
つまり、保育料が引き上げられて、保育所に入所を希望する保護者が減れば、待機児童問題は「解決」する、という主張である。

 (宇南山が言わんとしていることを、私なりに比喩を使って言うならば、あるラーメン屋に人気がありすぎて、客が殺到し、店に入りきらない客が路上にあふれている状態をイメージすれば良い。この状態を解決するにはラーメンの値上げをするべきだ、というのがこの筆者の主張である。ラーメンが高くなれば、そこに来る客は減って混雑は緩和され、みんな店に収容することができるから、ということだ。

  また別な比喩でいうと、有料指定席の通勤電車を思い浮かべてもいいだろう。京急のウィング号や小田急ロマンスカーなどは、指定席料金を払うことで、通勤ラッシュに悩まされず、ゆったり座って通勤することができる。この種の電車の指定席料金を払える人たちにとっては、通勤ラッシュは「解決」されている。

 宇南山自身が保育所をラーメン屋や有料指定席通勤電車に喩えているわけではないが、言っていることは、これとまったく同じ理屈だろう。)

 正確にいえば、保育所に子どもを入所させたい者が絶対的な意味で減るわけではなく、“高くなった保育料を払ってでも”保育所に入所させたい者が減るだけである。
 ただ、“高くなった”保育料を払えない保護者は、保育所に子どもを預けること自体を諦めるので、そもそもその子は待機児童にはカウントされなくなり、待機児童問題は「解決」することになる。

 そうなると、高い保育料を払える者しか子どもを保育所に預けることができなくなってしまうが、これについては、宇南山は望ましいことだと考えている。
「女性の活躍や人的資本の有効活用の観点からは、賃金水準が高く、就業継続の意欲が強い保護者を優先的に入所させるべきだ」というのである。
 つまり平たく言えば、カネをたっぷり稼いで高い保育料を払える親が優先的に保育所に子どもを入れられるのは、経済的効率の観点から望ましい、というのが宇南山の考え方である。

 (とはいえ、母子家庭などの社会福祉的側面にも配慮が必要であることを否定してはいない。その場合の対策としては、現金給付で対応するということを宇南山は提唱している。つまり経済的困難などで子どもを保育所に預けて働かなければならない人たちへの対策としては、保育所への優先入所ではなく、現金を直接給付して、保育料を払えるようにしてやれば良いということのようである。)

 もっとも、ここまで言い切ってしまうなら、保育所への公的支援など必要なく、すべて民間企業任せにして、純粋に市場競争の原理で保育料を決めれば良いことになってしまうのではないかと思うのだが、宇南山はそこまでは徹底せず、「もちろん保育に対する公的負担自体は合理的だ。保育所は、女性の就労支援、幼児教育、子育て負担軽減など多くの役割を果たしており、結果として少子化解消策や女性活用など私的便益を上回る社会的メリットを産み出すからだ。」と述べている。
 ただしそういう部分と、「経済効率からいえば、高く稼げる親が優先されるのが望ましい」と主張する部分とがどういうふうに矛盾なくつながっているのか、この記事だけではよくわからない。

 私としては、ここでは宇南山の主張を別に否定も肯定もするつもりはないが、「希望者全員が保育所に子どもを入れられるわけではない」という状況の中で、どのように保育所への入所枠を配分するかという問題への一つの答えではある。宇南山のような考えに賛同できない人も当然いるだろうし、そういう人は別な解決策を考えているのだろう。

日本企業の社内行事と社内成人式

 ご存じのとおり、日本企業の社内行事にはいろいろなものがある。会社の運動会や社員旅行については、次第に敬遠されて廃れているとか、逆に最近では見直す動きが出てきたなどの話をよく聞く。
  たとえば西日本新聞のこの記事は、社員旅行の新しい形の例を紹介している。
  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170620-00010002-nishinpc-soci

 それでは、「社内成人式」については聞いたことがあるだろうか。

 社内運動会や社員旅行に比べると、社内成人式はあまり話題にならない。これは、対象者が、会社に勤務する立場で20歳を迎える人だけに限られるということがあるのだろう。つまり実質的には、中学卒か高校卒で採用された人だけなのである。

 私自身の経験でいうと、大手メーカー勤務時代、社内成人式を行う側の仕事をしたことがあった。総務とか人事の担当者の役目である。

 社内成人式は全社一括ではなく事業所ごとに実施することになっていて、大規模な工場では、バブル時代に1年で数十人もの高卒新人を、事務部門でも製造部門でもひっくるめて採用したことがあり、そんな若者たちが採用から2年後になると成人式の対象となるわけである。

 成人式は労使共催の形で行った。工場の食堂を飾り付けて飲食を準備し、工場長と労働組合の支部委員長がそれぞれ祝辞を述べ、さらにパーティーやビンゴゲームなどをしたりするのだった。ゲームの企画は、労組の青年部に頼んでいた。

 イベントを企画するというのは私は性格的に苦手で、毎年、この季節が迫ってくると、胃袋に穴があきそうになるほど緊張したものである。とはいえ、若い人たちが盛り上がるのを見るのは楽しかった。

 このように社内で成人式を行うという発想は、ただ単に18歳で就職して20歳を迎えるというだけでなく、高校を出て社会に出た若者に、マナーや社会常識を教育するという機能までも会社が持っていたことのあらわれだろう。
 高校を卒業した新人にとって、会社は、別な意味での「上級学校」の役割を果たしていたのである。

 その後、日本の大手メーカーの一般的な趨勢には逆らえず、この会社も、全国にあった工場は次々に閉鎖されて減り、残された工場の中でも製造部門が減って開発設計の比率が高くなっていった。
 さらに製造部門でも事務部門でも、正社員から請負や派遣に置き換えが進んで、高卒新人の採用はどんどん減らされていった。

 今でもその会社が社内成人式をそれぞれの事業所で行っているのかどうかは知らない。

「時間ではなく成果に応じた報酬」の働き方を望む人は、アニメーターとブラック不動産営業がおすすめです!

最近、アニメーターの過酷な労働条件がNHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられた。

以前のエントリの「アニメーターの過酷な労働現場は、働き方改革から見れば理想の職場?」でも書いたことの繰り返しになるが、重要なことなので、改めてここで紹介しておきたい。

「クローズアップ現代」によれば、

30分の作品には3,000枚以上の絵が必要だといいます。このスタジオではこうしたアニメのもととなる絵の制作を請け負っています。アニメーターに支払われるのは1枚当たりおよそ200円。一方で、年々、作品には繊細さが要求されるようになり、1枚にかかる作業時間は増えています。

作業の早いアニメーターでも1日20枚ほどが限界です。月収は10万円前後にとどまっています。”

ということであり、さらに

業界で働いている人の4割近くが最低賃金の保障もないフリーランス。正社員は僅か15%でした。”

とされている。

絵を1枚仕上げるごとに200円ということは、10枚なら2000円、100枚なら2万円ということであり、まさに完全に「成果」に応じた報酬である。

労働時間を何百時間かけようと、絵が仕上がらない限り1円も支払われない。支払われる報酬は、枚数に比例する。

これこそ、「時間ではなく成果に応じた報酬をもらう働き方」である。
また、85%は非正社員ということだから、「会社に縛られない、正社員であることにとらわれない働き方」ということでもある。

「労働時間ではなく成果に応じた報酬」を提唱し、「会社に縛られず、正社員にこだわらない働き方」を広げるよう主張する人々にとっては、このアニメーターの働き方こそは、まさに理想ということになる。

もちろん「成果に応じた報酬」が行われているのは、アニメーターに限らない。一般的な会社員の中にも、既にそういう例がある。

たとえば、不動産営業で、物件の売買をまとめない限りは賃金が支払われないという会社の話を稀に聞くことがある。売買の成果が出ない限りは何時間働いても賃金が一切支払われないのであれば、実際はもちろん労働基準法違反なので、ブラック企業と呼ばれても仕方ないのだが、それは別として、まさしく「成果(不動産売買)に応じた報酬」なのだから、これまた働き方改革の理想に合った会社ということになるはずである

逆に、売買の成果に関係なく一定の賃金を支払い、残業すれば法定の割増賃金を支給する不動産会社があるとすれば、労働基準法をしっかり守っているホワイト企業ということになるが、働き方改革の精神からいえば、成果ではなく時間で報酬を支払っているのだから、古い考え方の会社であり、批判されるべきということになる。(そうですよね?城繁幸さん)

仕上げた絵の枚数に応じて報酬が支払われるアニメーターと、売買の成約実績だけに応じて賃金が支払われるブラック不動産会社の営業マンは、「労働時間ではなく、成果に応じた報酬」を提唱する人々にふさわしい職場というわけである

若者の死因1位は「自殺」だが、自殺する確率が中高年より高いわけではない

最近公表された厚生労働省の2017年版「自殺対策白書」によれば、

我が国における若い世代の自殺は深刻な状況にある。年代別の死因順位をみると、15~39歳の各年代の死因の第1位は自殺となっており、男女別にみると、男性では10~44歳という、学生や社会人として社会を牽引する世代において死因順位の第1位が自殺となっており、女性でも15~34歳の若い世代で死因の第1位が自殺となっている。”

とされていて、若い世代の死因の第1位が「自殺」であることが強調され、大きな反響を呼んでいるようだ。

この「自殺対策白書」は、下記のリンク先で読むことができる。

http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16/

ただし、若者の死因の第1が「自殺」であることと、若者が中高年よりも確率的に自殺することが多いかどうかは、まったく別問題である

具体的に見てみよう。白書の年齢別の統計は以下の部分に掲載されている。

http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16/dl/1-03.pdf

たとえば20~24歳の年齢層について、死因別の死亡率(10万人あたりの死亡者数。「%」ではないことに注意)を比べてみると、死因で1位の「自殺」は19.7、2位の「不慮の事故」が6.4、3位の「悪性新生物」(いわゆる癌などだろう)が2.9である。

これだけ見ると、なるほど若者の自殺による死亡率が非常に高いと思わされる。
以下、39歳まで5年刻みの層を見てみても、やはり最初に書いたとおり、自殺が死因の1位を占めており、死亡率はおおむね20程度である。

では、これに対して中高年はどうだろうか。

まず50~54歳の年齢層をみてみると、死因の1位は「悪性新生物」で死亡率は100.9、2位は「心疾患」で33.3で、「自殺」は3位どまりだが、死亡率はなんと26.2である。若者よりも自殺による死亡率は若干高いのだ。

このような傾向は他の年齢層でも似たようなものである。40歳~44歳と45歳~50歳までの層もそれぞれ見てみると、自殺は死因としては2位か3位にとどまるが、死亡率は20を超えていて、若者層とおおむね同じか、若干上である。

要するに、若者が中高年よりも自殺する確率が高いわけではない。自殺する確率としては、若者も中高年もおおむね同じで、敢えて言えば後者が少し上回っている。

正確にいえば、若者は、自殺以外の原因では死亡しにくい(=中高年は、自殺以外の原因で死亡しやすい)ということなのである。

中高年の死因は、「悪性新生物」や「心疾患」が上位に入ってくるので、「自殺」の順位が下がっているだけなのだ。若者が「悪性新生物」や「心疾患」になる確率が低いのは、ある意味当然だろう。だからこそ、「自殺」が上位になっているだけなのだ。

もちろん自殺対策は必要だし、さらにここでは触れる余裕はないが、国際的に比較してみると、日本人の自殺率は高い部類に入るようだ。
ただし「若者は中高年より自殺しやすい」と考える人がいたとしたら、それは誤解である。若者も中高年も自殺による死亡率に大きな違いはないということは、理解しておかなければならない

前文部科学事務次官の出会い系バー通いについて

 加計学園問題で官邸からの圧力について証言した前川喜平・前文部科学事務次官の「出会い系バー通い」が、ちょっとした話題になっている。

 しかし前川氏が出会い系バーに通おうと、キャバクラに通おうと、また、その動機が女性の貧困調査だろうと別な目的だろうと、前川氏の発言の信憑性には何の関係もないだろう。

 だいぶ前に旧大蔵省の証券局長が、銀行からの接待でノーパンしゃぶしゃぶ(?)に通っていたことが明るみになって退職に追い込まれたことがあったが、この証券局長は官僚として仕事が出来る人だという評判であり、特に発言が信用できない人だったとか嘘つきだったという話はどこからも聞かない。

 その意味で、「前川氏は出会い系バーに通うようないかがわしい人物だから、その発言は信用できない」という論法は成り立たない。

 様々な報道を見る限りでは、前川氏は在職中から、教育行政の観点から貧困問題について本当に関心を持っていたのは事実のようで、出会い系バーに行った時も、「女性の貧困」という観点が何らかの程度あったのは本当なのかも知れない。

 (しかしついでにいうと、出会い系バー通いをしていた官僚が、逆の立場の人だったらどうだろうか。

 たとえば官邸の首相秘書官が出会い系バーに通っていたことが発覚したとしたらどうだったろうか?
 主流派の自民党議員が出会い系バーに通っていたとしたらどうか?
首相秘書官や自民党議員が、前川氏と同じ程度に「女性の貧困問題について知る」という目的をもってバーに通っていたとして、どのように報道されるだろうか。「女性の貧困問題を知るためにバーに行った」と主張したとしても、信用されるだろうか。

 現在、安倍政権に批判的な立場の論者やメディアが、前川氏を擁護する主張をするケースが見受けられるが、逆の立場の官僚や議員が同じことをしたら、どう反応しただろうか。)

 それはそれとして、前川氏の主張が事実だとして、それが安倍政権にとってどの程度マイナスなのかどうかは、また別問題である。本当の論点はこの部分だろう。

政権交代しようにも「安倍以外」の選択肢がないことについて(東浩紀のエッセイから)

東浩紀がAERAのエッセイ

 “安倍首相は戦後まれに見る長期政権を維持している。なにが成果かと言われればピンと来ないし、問題も多い。それでも支持率が高いのは、政権交代可能な現実的野党はなく、自民党内にポスト安倍の候補もいないからだ。・・・しかしこの状況はデモやワイドショーでは変えられない。「安倍以外」の選択肢が出ないことには絶対に変わらないのだ。”

と述べている。

 さて、安倍内閣の支持率が高いのは、「他に適任そうな人がいないから」だけだろうか。
 本当に「他にいない」とだけ考えているなら、普通は、支持でも不支持でもない中間的な反応をするのではないか。

 私の見るところでは、安倍内閣への支持率の高さは、「他にいないから」というのも間違ってはいないのだが、あと一歩踏み込む必要がある。現状は経済面を中心にそこそこうまくいっており、おそらく国民には「変な奴に現状を壊されたくないから」という思いがあるのだ。
 民主党政権の経験もあるだろうが、訳のわからん政策素人みたいな連中に政権をとられてかき乱されてはたまらない、と考える人が多いのではないか。

 そもそも民進党は、民主党時代から、どこか幼稚で素人臭い印象がぬぐえない。
 民進党などの安倍政権に対する批判の仕方が稚拙であればあるほど、安倍政権が相対的に「まとも」に見えてくるのである。「民進党がダメだから安倍内閣で仕方ない」というより、「民進党がダメだから、相対的に、安倍内閣が良く見えてしまう」といった方が良いだろう。

 いわゆる「市民連合」だの「野党連合」だのの構想は、「安倍以外の選択肢」にはなりえない。
 これらの「市民連合」「野党連合」は、「安保法制」「共謀罪」などの論点である程度一致しているだけであって、具体的な政策ですりあわせができているわけではない。

 そもそも「市民連合」「野党連合」を提唱する人々は、安倍政権との対決を基本的に「善と悪」の戦いと考えていて、悪を倒して善が置き換わるという発想である。
 しかし大半の人々は、別に「安倍内閣が悪だから、善なる者に交代してもらいたい」と考えているわけではなく、安倍内閣とは大きく変わらない路線で、ただ個々に変えた方が良い点もあるだろうから、誰か良い人がいれば変わってもらいたいと考えているだけなのである

 政権交代を「善が悪を倒すための戦い」と考えるか、「同じ土俵の中で多少違う人に変わってもらうための戦い」と考えるかは、全然違うのである。

 それでは、仮に野党の立場だったら、どうすれば良いのだろうか。私だったら、次の選挙では、恥を忍んで、こういうスローガンを出す。

「安倍政権でもいいかも知れない。
 自民党政権、いいでしょう。
 でも、強すぎるのは良くないと思いませんか?
 自民の議席を減らして、安倍政権に大人しくなってもらいましょう。」

 いわゆる市民運動をやっている層からみればまったく盛り上がらないかも知れないが、大都市の浮動層や、あまり強固でない安倍内閣支持層には、かなりアピールできるのではないか。

 そして選挙で自民の票が減れば、自民党内での政局の動きにより、反安倍の動きが強まり、政権交代の可能性が高まるだろう。

 今、野党にできることは、自分が政権を取ることではなく、自民党内での政権交代の触媒のような役割を果たすことくらいである。

1985年生まれ世代のあたりで政治的感覚に大きな断絶がある件

政治的なものの考え方・感じ方が、世代毎に大きく異なるのではないかということについて、何度かブログで述べたことがある。

共産圏を知らない子どもたち
アンケート実施!あなたはいくつ「YES」がありますか?(世代毎の政治的体験の傾向)

ここで改めて考えてみると、比較的若い世代の中でいえば、1985年生まれあたりが、一つの大きな分岐点なのではないかという気がする。

もちろんアンケートでの意識調査などしたことはないのだが、以下、大雑把な印象で述べる。

おおむね1985年以降に生まれた世代は、次の3つの特徴が挙げられるだろう。

(1)ソビエト連邦などの「共産圏」「社会主義国家」「東側諸国」をリアルタイムで知らない

(2)昭和天皇をリアルタイムで知らない

(3)中華人民共和国に対する、左右を問わない圧倒的な称賛ムードを経験していない

まず(1)については、ベルリンの壁が崩壊したのが1989年、ソビエト連邦が消滅したのが1991年であり、1985年頃に生まれた人は、当然、これらの出来事をほぼ記憶していないといえるだろう。

次に(2)については、昭和天皇が崩御したのは1989年だから、1985年生まれの人は、昭和天皇が「天皇」である次代の雰囲気を覚えていないはずである。

最後に(3)は、いわゆる天安門事件が起こったのがこれまた1989年であり、中国の共産党政権が学生や市民運動を弾圧したことがメディアを問わず大々的に報道されたのは、これが初めてであった。それより前は、日本のメディアや政財界は、一部の例外を除き、左右問わず日中友好ムードが圧倒的だったのだが、それが急に変わっていたきっかけが、この天安門事件なのである。1985年生まれなら、物心ついた頃には、中国に対して突き放した感じの論評が増えてきていたはずである。

そして(1)は、「資本主義がいずれ革命や平和的移行により社会主義に変わっていく」という主張に(同意するか否定するかは別として)リアルタイムでは接した経験がないということであり、それどころか「資本主義諸国と社会主義諸国が競争している」という状況すら知らないことも意味する。物心ついた頃から、資本主義国家しか知らないということである。(1990年代以降は、中国も経済面では「資本主義国家」と呼ぶべきだろう。)

また(2)は、リアルタイムでは今上天皇しか知らないということであり、それは、憲法擁護や戦争への慰霊を強調する天皇しか知らないということでもある。第二次世界大戦の責任と結びつけられて語られる天皇、かつて軍を統帥する大元帥だったことがある天皇という存在を、リアルタイムでは経験したことがないのである。

さらに(3)は、中華人民共和国という国について、最初から多かれ少なかれ違和感や距離感をもって育ったということであり、1970年代の日中友好ムードとか、毛沢東や文化大革命の賛美などの風潮の影響を受けていないということである。

このブログを読んでいる人の中で、1985年生まれ以降の世代がいたら、周囲の年上の人に質問してみると面白いかも知れない。

「ソビエト連邦があった時代は、世界はどのように見えていたのか」とか「昭和天皇について世間の人々はどう思っていたか」とか「中国との友好ムードが強調された時代は、どんな雰囲気だったのか」など。

石川健治教授の自衛隊と憲法についての主張の考察・続き

昨日のエントリであれこれ書いたことの続き。
結局のところ、石川健治(東大教授)の主張の中核部分というかホンネ部分は、「自衛隊違憲論」ではなく「自衛隊違憲論があった方がいい論」だろう。

自衛隊違憲論があるからこそ、「自衛隊は違憲ではないか」という問いかけが常に生まれ続け、政府も自衛隊を統制して控えめな運用をせざるをえなくなる。
改憲によって自衛隊が完全に合憲になってしまうと、違憲論は消滅してしまうから、違憲論を使った歯止めがなくなり、自衛隊を統制できなくなる。
そこで石川は改憲に反対しているわけだ。

これは「違憲の自衛隊を“統制”するというのは、背理ではないか」とか「自衛隊が違憲なら、統制ではなく廃止しかなのではないか」という根本的な疑問から逃げることによって成り立つ主張である
(私自身は「自衛隊を廃止すべきだ」と考えているわけではない。)

つまり石川教授は、違憲の自衛隊の存在に反対しているのではなく、自衛隊を違憲だと言えなくなることに反対しているという点に注意を要する

これは「違憲の自衛隊は、存在しても良いが、違憲論を利用してこれを統制しなければならない。」ということである。
「自衛隊が存在しても良いなどとは言ってない」というかも知れないが、「自衛隊が存在してはならない」というのなら、廃止するしかないはずである。
自衛隊を存在させたうえで、これを違憲論で統制するというのは、「自衛隊は違憲だが、存在しても良い」といっているのとイコールである。

つまり「違憲の組織・制度でも存在して良い。ただし違憲論を使って統制すべきだ」ということである。

ここで、自衛隊に限らず、集団的自衛権を導く安保法制の違憲論についても同じことが言えるのではないかという疑問が生まれてくる。

あと10年くらいたったら、石川教授かその流れをくむ憲法学者は、
「安保法制は違憲だが、違憲論によって安保法制の運用が統制されている」
とか
「集団的自衛権の違憲論があるからこそ、集団的自衛権を抑制して運用できている」
などと言っている可能性がないとは言えない。

さらにそのうち
「日本は核兵器を持っているが、核兵器は違憲である。核兵器違憲論があるからこそ、日本は核兵器をむやみに使わないようにして、うまく核兵器を統制・運用できている」
などという時代がやって来るかも知れない。

極論はここらへんにして自衛隊に話を戻すと、「そもそも違憲の自衛隊が存在して良いのか」という根本的な疑問から逃げているという点を別にすれば、国家機構の統制システムの議論としては、「自衛隊を違憲論で統制すれば良い」というのは、一応成り立ちうる理屈ではある。

しかし、自衛隊を違憲だと考えるにもかかわらず、その自衛隊を存在させて運用し、違憲論によってそれを統制すれば良いという考え方が、(上述のとおり、統制システム論としては理解できるとしても)「立憲主義」の観点から筋が通っているといえるのかどうかまでは、私にはわからない。

「憲法に違反するものは、存在を許さない」というのが、立憲主義なのではないだろうか。「憲法に違反したものを違憲論で統制して使えば良い」というのも、立憲主義のうちに含まれるのだろうか。

★蛇足ながら若干の補足。「自衛隊は合憲だ(と思う)が、自衛隊違憲論があった方が、うまく抑制できる」とか「自衛隊は合憲であり、今後も違憲にならないような規模に抑えるべき」というなら、矛盾はない。だが私が見た限り、石川はそういう立場ではないようである。

石川健治の「自衛隊明記」論批判と大屋雄裕のつぶやき

何となく、ネットでいろいろな人のツィッターやらブログやらあちこちを見ていたら・・

 先日のエントリでちょっと名前を出した大屋雄裕(慶応大教授・法哲学)のツィッター(5月21日)で、

 “まあ職務に相応する正統性を付与しないというような刑吏に対する差別というのは洋の東西を通じて存在し、石出帯刀に御目見は許されないし山田浅右衛門は浪人だったわけですが、我が国の場合にそれがどういう問題に繋がっているかということも考えずにああいうことを書かれるわけですか。”

という一言があった。

 はて、これは何のことを言っているのだろう。「♯何かを見た」というタグも付いているが、これを付けた人たちのつぶやきにも統一性があるわけではない。「正統性を付与」とは、何についての「正統性」の話なのだろう。やけに気になってしまうではないか。

 大屋教授が何のことを言っていたのかはわからないが、ここでふと思い出したのが、石川健治(東大教授・憲法学)の発言である。

 5月21日の中日新聞で、石川健治は、憲法を改正して自衛隊に「正統性」を付与することを危惧し批判していた。例の安倍首相の「憲法学者の中では自衛隊違憲論が有力だ」「憲法9条に3項を新設して、自衛隊を明記すべきだ」という見解を批判するインタビュー記事である。

 この記事での石川教授の主張の要点は次のとおりである。

①憲法9条は、軍隊を組織する権限を否定し、自衛隊に権限行使の正統性を奪っている。
②この9条のおかげで、自衛隊の憲法上の根拠は弱く、その正統性には弱点があり、自衛隊も「身を慎む」組織として統制されてきた。
③9条に3項を新設して自衛隊を明記してしまうと、正統性を付与されるから、自衛隊はあぐらを書いてしまい、憲法上は軍事力に対するコントロールがなくなってしまう。

この主張にとびつく人も結構いるようだが、ちょっとよく読んでみると、論理的におかしなことに気づかないだろうか?

①は、まさにいわゆる自衛隊違憲説であり、一つの有力な解釈である。これはこれでわかる。
それでは、②はどうだろうか。自衛隊違憲説の立場からは何も問題ないように思えるが、そうではない。

①は、 「自衛隊は憲法上は否定される」「自衛隊に正統性はない」ということである。
つまり、「自衛隊の憲法上の根拠は弱く、正統性に弱点がある」(②)のではなく、①の理屈でいうなら、「自衛隊の憲法上の根拠はなく、正統性はない」というべきである。

自衛隊という組織に根拠も正統性もないというのなら(それが石川の主張の①の部分)、そんな組織にコントロールもへったくれもないはずであって、政府は自衛隊を廃止するしかないはずである。

記事で見る限り、石川教授の主張は、①と②の間に論理の飛躍がある。もともとは「自衛隊には憲法上の根拠・正統性はない」(①)という話だったのに、それが「自衛隊には憲法上の根拠・正統性が弱い(=だから統制できている)」(②)という話にすり替わっているのだ。

正統性がない」というのと「正統性が弱い」というのは、大違いであって、つなげることはできない。

なお③の部分についても触れておくると、石川教授の「正統性を与えると、自衛隊は暴走してしまう。適切に権力組織を統制するためには、憲法上の正統性を与えないことだ」というロジックをおしすすめるならば、警察の権力乱用や暴走を防ぐためには、警察も憲法違反にして、正統性のない組織にすれば良いということになるのだろうか。

さて、どうしても上記の主張の論理矛盾を解消して、結論部分だけを生かしたいのであれば、②③の部分はそのままで、①の部分だけ、こんなふうに若干言い回しを変えれば良い。

①憲法9条は、軍隊を組織する権限を否定している可能性が高く、自衛隊の権限行使の正統性には疑いがある。ただしあくまでも「疑い」なので、自衛隊が憲法違反でない可能性も無いではない。私には明確な結論は出せない(or「明確な結論は出したくない」)。

(なお別な逃げ道として、「自衛隊は憲法9条違反だ(と思う)が、最高裁が違憲判決を下さない限り、当面は自衛隊が存続するのはやむをえない。しかし正統性に疑問があるから・・・」という切り口もある。)

どうでしょうか?石川先生。

★私自身としては、以前も書いたが、憲法の後ろの方に経過規定として「附則」のようなものを設けて、「当面の間、最低限の防衛力として自衛隊を保有することを妨げない」という形にするのが良いのではないかと考えている。

LINE上級執行役員の「憲法って、ただの紙の上に書かれた文章」発言

 LINEの上級執行役員の田端信太郎という人が、ツィッターである人と議論していて、

納税している人は納税していない人と比べて社会の存続を考えるうえで比較すれば、有用であるということ。そして納税していない人が、公的な再分配を受け取る程度は、納税している人を含めた民主的な政治決定の結果をはみ出ることはできない、ということに合意されるということですね。”

と述べると、それについて相手側が

それには合意できないです。憲法では、全ての個人に生存権が保証されているので。”

と答えた。

 そこでさらに田端は、

 “憲法って、ただの紙の上に書かれた文章ですよね。。。実際に餓死しそうな人がいるときに、「憲法」がアンパンを恵んでくれたりするのですか? 誰か、生身の人間が、お金を出してアンパン買うところから始まりますよね?

 とコメントしたのだが、これがネット上で賛否両論を巻き起こし、また勤務先の会社から厳重注意を受けたそうである。

 (ITmediaの記事参照) 

 私なりの感想をいうならば、田端は、「憲法は紙切れにすぎないから無視して良い」とか「憲法には価値がない」とかいうレベルの主張をしているのではなく、憲法それ自体が直接的に人間の生存を保証する給付を与えてくれる機能を持っているわけではない(=憲法に「生存権」の条項を書き入れても、現実には公的財源の裏付けがなければどうにもならない)という意味のことを言おうとしているのだと思われる。

 憲法は25条で「生存権」を保障している。これは、国や自治体が、国民に対して最低限の生活ができるための一定の給付を与えることを憲法によって義務づけられているということである。生活保護が代表的なものだが、食料や住居を現物支給するという制度も理屈としては考えられるだろう。

 とばいえ、憲法に生存権が規定されていれば、それだけで生活保護費等が自動的にどこかからわき出てくるわけではなく、そのための財源がなければならない。その財源は税収によってまかなわれる。

 つまり田端は、憲法それ自体に生活保護を直接給付できる機能があるわけではなくて、誰かが納税して国が生活保護の財源を確保することによって初めて生存権が保障される、という当たり前のことを、いささか挑発的に述べたのではないか

 憲法の教科書を学んだ人なら誰でもわかると思うが、この「生存権」は、同じ憲法で保障された他の権利、たとえば「信教の自由」(20条)などと違う、際だった特徴がある。

 たとえばカトリックや浄土真宗を信仰する人の信教の自由は、政府=公権力がカトリックや浄土真宗を弾圧したり、違う宗教を信じるように押しつけたりしなければ、守られる。
 ここでは政府は何もしなければ良いのであり、憲法は、公権力を制限して、個人の自由を守る働きをする。政府が個人の自由を侵害すれば、憲法違反となる。(このような権利を「消極的自由権」ともいう。)

 これに対して「生存権」は、政府が何もしなければ、どうすることもできない。政府が積極的に動いて、生活困難な人に対して何らかの金銭や物品を給付することで、初めて「生存権」が保障されることになるからである。
 
 この場合、いくつかの問題が出てくる。まず、政府は、どの程度の給付を支給すれば、憲法の「生存権」に違反しないのだろうか。たとえば生活保護を支給するとして、いくらであれば、憲法違反にならずに済むのだろうか。
 さらに、上記の問題がクリアできて、一応の生活保護として支給すべき水準がある程度は基準として決めることができるとしても、実際の財源がどうしても足りない場合は、どうすれば良いのだろうか。

 このように、「生存権」は憲法上の権利ではあるが、それをどのように実現するかについては、「信教の自由」などとは違う困難な問題があるわけである。

 さて、今回の田端の発言で本当に議論の対象とするべきなのは、「憲法がただの紙の上の文章」という部分ではなく、その前の「納税していない人が、公的な再分配を受け取る程度は、納税している人を含めた民主的な政治決定の結果をはみ出ることはできない」という部分である。

 憲法の規範レベルの問題でいえば、公的な再配分=生活保護等は、民主的な政治決定のプロセスで定めさえすれば、どのようにでも変えて良いというわけではない。
 たとえば、“民主的な政治決定”の結果として、一切の生活保護は月5千円の給付だけとすることは、さすがに(現在の物価水準を前提として)憲法違反だろう。かなり稀なケースを除いて、月5千円ではまず生活できないからである。
 いかに民主的な意思決定の結果として、生活保護を月5千円と決めたのだとしても、それは生存権を侵害するものであり、憲法違反と評価されるだろう。つまりどのように民主的な意思決定の結果であっても、憲法に違反することはできないのである。その意味では、田端の議論相手の人物の「憲法では、すべての個人に生存権が保障されている。」という反論は正しい。

 しかし次の段階として、現実の経済的制約の問題が出てくる。どのように財源を探しても、増税しても何をしても、財政上の制約があって、生活保護を1人あたり月5千円しか支給できない場合は、いくら憲法違反だと言ったところでどうしようもないではないか、という問題である。ここは、田端の表現を借りれば「有用」な存在である「納税者」を確保し、その活動を促進して税収を維持するような施策をするしかないということになるだろう。

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