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社会一般

若者の死因1位は「自殺」だが、自殺する確率が中高年より高いわけではない

最近公表された厚生労働省の2017年版「自殺対策白書」によれば、

我が国における若い世代の自殺は深刻な状況にある。年代別の死因順位をみると、15~39歳の各年代の死因の第1位は自殺となっており、男女別にみると、男性では10~44歳という、学生や社会人として社会を牽引する世代において死因順位の第1位が自殺となっており、女性でも15~34歳の若い世代で死因の第1位が自殺となっている。”

とされていて、若い世代の死因の第1位が「自殺」であることが強調され、大きな反響を呼んでいるようだ。

この「自殺対策白書」は、下記のリンク先で読むことができる。

http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16/

ただし、若者の死因の第1が「自殺」であることと、若者が中高年よりも確率的に自殺することが多いかどうかは、まったく別問題である

具体的に見てみよう。白書の年齢別の統計は以下の部分に掲載されている。

http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16/dl/1-03.pdf

たとえば20~24歳の年齢層について、死因別の死亡率(10万人あたりの死亡者数。「%」ではないことに注意)を比べてみると、死因で1位の「自殺」は19.7、2位の「不慮の事故」が6.4、3位の「悪性新生物」(いわゆる癌などだろう)が2.9である。

これだけ見ると、なるほど若者の自殺による死亡率が非常に高いと思わされる。
以下、39歳まで5年刻みの層を見てみても、やはり最初に書いたとおり、自殺が死因の1位を占めており、死亡率はおおむね20程度である。

では、これに対して中高年はどうだろうか。

まず50~54歳の年齢層をみてみると、死因の1位は「悪性新生物」で死亡率は100.9、2位は「心疾患」で33.3で、「自殺」は3位どまりだが、死亡率はなんと26.2である。若者よりも自殺による死亡率は若干高いのだ。

このような傾向は他の年齢層でも似たようなものである。40歳~44歳と45歳~50歳までの層もそれぞれ見てみると、自殺は死因としては2位か3位にとどまるが、死亡率は20を超えていて、若者層とおおむね同じか、若干上である。

要するに、若者が中高年よりも自殺する確率が高いわけではない。自殺する確率としては、若者も中高年もおおむね同じで、敢えて言えば後者が少し上回っている。

正確にいえば、若者は、自殺以外の原因では死亡しにくい(=中高年は、自殺以外の原因で死亡しやすい)ということなのである。

中高年の死因は、「悪性新生物」や「心疾患」が上位に入ってくるので、「自殺」の順位が下がっているだけなのだ。若者が「悪性新生物」や「心疾患」になる確率が低いのは、ある意味当然だろう。だからこそ、「自殺」が上位になっているだけなのだ。

もちろん自殺対策は必要だし、さらにここでは触れる余裕はないが、国際的に比較してみると、日本人の自殺率は高い部類に入るようだ。
ただし「若者は中高年より自殺しやすい」と考える人がいたとしたら、それは誤解である。若者も中高年も自殺による死亡率に大きな違いはないということは、理解しておかなければならない

神社本庁の「日本人でよかった」のポスターの中国人モデルに帰化してもらおう!

神社本庁が2011年に「私 日本人でよかった」というキャッチコピーを付けた女性の写真を使ったポスターを製作し、6万枚作成して全国の神社に配布していた。これは日の丸掲揚を提唱する趣旨のポスターだという。

ところがこの写真のモデルの女性は、なんと中国人だったということで、ネットで話題になっている。
いろいろな写真の画像ファイルを有償でダウンロードして利用できるサービスの会社「ゲッティ・イメージズ」の女性モデル画像を業者が使ったのだが、それは中国人女性だったのだ。

(参考)
ハフィントンポストの記事


神社本庁は今のところ、特に問題とするつもりはないようだが、そうは言ってもせっかく「日本人でよかった」というポスターを作ったのに、モデルが中国人女性というのではガッカリで、“国旗掲揚”の啓発のポスターの効果に水を差されたような気分になるのではないだろうか。
しかし物は考えようである。発想を逆転して、この中国人女性を探し出して(上記のハフィントンポストの記事によれば、撮影したカメラマンには特定して接触できているから、女性を探すのも不可能ではなさそうだ)、日本に帰化してもらってはどうだろうか

この女性が日本に帰化すれば、「日本人でよかった」のポスターのモデルは「日本人」だということになるから、何の問題もなくなる。
ただし帰化するためには様々な要件をみたして、法務大臣の許可を得ることが必要だから、必ず実現できるとは限らない。
帰化のための具体的な要件は、国籍法第5条第1項に定めがあり、「引き続き5年以上日本に住所を有すること」「自己又は生計を一にする配偶者その他の親族の資産又は技能によつて生計を営むことができること」など、なかなか面倒だ。
しかも、この第5条第1項の要件を充たしても、必ず法務大臣が帰化を許可しなければならないわけではない。帰化を許可することが「できる」というだけである。
いずれにしても、この女性が現在中国に在住しているとすれば、「5年以上日本に住所を有すること」という要件を充たしていないことになり、少なくとも今の時点では帰化できないことになってしまう。
しかし別な手がないわけではない。
国籍法の第9条を見てみると、「日本に特別の功労のある外国人については、法務大臣は、第5条第1項の規定にかかわらず、国会の承認を得て、その帰化を許可することができる。」と規定されており、「特別の功労」がある外国人なら、さきほどの第5条1項の面倒な要件を充たさなくても、帰化の許可を受ける道があるのだ。

この中国人女性は、国旗掲揚の啓発ポスターのモデルになってくれたのだから、「日本に特別の功労のある外国人」といえるのではないか。あとは法務大臣と国会次第で、この女性に日本人になってもらえるのだ。
この女性が本当に「日本人になれてよかった」と言ってくれるなら、なかなか素晴らしいことだろう。

(以上、もちろん冗談です。というかご本人の意思を何にも考えていませんが。)

スーツが嫌なら、作業服を着ればいいじゃない(スーツ恐怖症について)

 2月22日のキャリコネニュースで、はてな匿名ダイアリーの“スーツが怖い”という人の書き込みが紹介されていた。

 はてな匿名ダイアリーに書き込んだ人は、

>スーツを着た大勢の人間がいる空間を見たり、その集団に近づくと
>本当に泣きそうになる。
>怖くて、気持ち悪い。
>その空間にいることもままならない。
>
>数週間後に自分はその現場にいなければいけないらしい。
>卒業式なら欠席すりゃいいんだけど、そういうわけにもいかない。
>しかも、結構真面目な場。

などと述べている。
(自分自身の説明によれば、この人は工業系の学生だそうである。なお正確にいうと、この人は、スーツそれ自体が嫌というよりも、「真面目にならなきゃいけない雰囲気」が苦手という感覚のようだ。)

 匿名なので、この人自身のことはよくわからないのだが、一般的にいって、スーツが嫌だとか拒否反応を覚えるとかいう人は、メーカーの工場での作業労働(いわゆる技能職やブルーカラー)の職に就き、作業服を着用するのが良いのではないだろうか。

 工場への通勤時は基本的に自由であって普段着もOKであり、工場の更衣室で作業服に着替えるだけである。
 会社によっては、普段着の上にそのまま白い防塵服のようなものを着れば済む場合もあるだろう。
 (私自身、会社員時代は工場勤務経験が長かった。担当する仕事は、基本的に工場の総務や人事系統のスタッフだったが、やはり作業服で仕事をしていた。なおそれとは別に、製造現場で3交代勤務を半年ほどやったこともある。)

 また、工場というものは一般に、東京や大阪のような大都市圏の中心部には無いので、丸の内や新宿や梅田のようなところで大勢のスーツ姿に囲まれて通勤するという事態を避けられる可能性が高い。
 特に大都市圏ではない地方の工場に勤務できれば、職住近接で、通勤ラッシュそのものを経験せずに済むだろう。(その代わり自転車やバイクや車通勤になるかも知れない。)

 メーカー以外でいえば、たとえば建設現場の作業も、作業服である。

 どうですか?スーツ恐怖症の方は、作業服を使う仕事に就くことを考えてみては・・・。

犯罪者は合理的に行動するのか?(荘司雅彦弁護士の記事を読んで)

 アゴラに、「刑法の目的と社会の安全を達成するには?」という荘司雅彦弁護士のブログ記事が掲載されていて、犯罪防止と刑罰の関係について述べている。

 荘司弁護士は次のようにいう。

どのような手段を用いれば、できるだけ多くの人を「犯罪は割に合わない」と考えるように仕向けることができるでしょうか?

 この点については、「刑罰の重さ」に「刑罰の執行確率」を乗じた「期待刑罰」が意味を持ちます。
例えば、死刑という刑罰が50%の割合で執行されるとしたら、ほとんどの人は「犯罪は割に合わない」と思うでしょう。仮に10万円の罰金刑でも80%の割合で執行されるしたら期待刑罰は8万円。それで1万円を盗むのは絶対に割が合いませんよね。

刑罰の重さは刑法を改正するだけで実現できます。極端な話、どのような犯罪でも(こまわり君のように)「死刑!」と規定してしまえばいいので、さほどコストはかかりません。」

 この荘司弁護士の説明は、「犯罪が割に合わないと考えた場合は、人間は犯罪を実行しない」という命題が大前提となっていることに注意が必要である。
 これは「法と経済学」という学問分野の考え方によるものだが、この考え方は、ミクロ経済学のように、個々人が経済的合理性に基づいて行動するという仮定に基づいていると思われる。

 この荘司弁護士の記事に対して、特に批判とか賛同とかいうわけではないのだが、私なりにコメントをしておきたい。

 まず犯罪といっても様々な類型があり、合理的に行動するといえるのは、あくまでそのうちの一部分だといえる。

 最もわかりやすいのは、大企業の社員による業務上横領と、公務員による収賄である
これらは、犯罪を犯すことによって得られる利益と、刑罰によって失う利益とを比較して行動するといえるだろう。メガバンクの行員や国家公務員のキャリア組が、横領や収賄をすれば、失うものも大きいはずである。
 まさに荘司弁護士がいうように、「割に合わない」場合には実行されにくい犯罪といえるだろう。

 一方、性犯罪、薬物犯罪、ストーカー犯罪や怨恨による殺傷などは、感情や欲望や衝動によって行うものであって、かならずしも合理的な判断に基づいて行動するわけではないから(というより、合理的に判断する人間であれば、そもそもこれらの犯罪は犯さない)、上記の命題の妥当性はかなり限られてくるといえるだろう。

 また実際問題としては、犯罪に対する刑罰を重くすれば重くするほど、犯罪抑止効果がそのまま上がるというわけでもない。

 たとえば100円盗んでも死刑になる場合、たまたま何らかの理由で100円を盗んでしまった者は、どう行動するだろうか。死刑という不利益があるのに、得られる利益が100円というのは、確かに割が合わない。
 そこで、どうせ死刑ならということで、もっと犯罪を重ねて、コストを回収しようとするわけである。100円盗んで死刑にされるのは割りに合わないが、どうせ死刑に処せられるならば、さらに強盗や殺人や窃盗を繰り返して、財産を家族や友人に与えてやるくらいすれば、「割に合う」ということになってしまう。
 荘司弁護士の言い方を借りれば、「期待刑罰」の不利益をカバーするため、それを上回る利益を犯罪で得ようとして、さらに犯罪を重ねるわけである。
 (黒澤明の映画『用心棒』の中にも、「1人殺そうと、何人殺そうと、死刑にされるのは一度だけだ」という意味のセリフがある。)

 さらに、「割に合わないかどうか」とは別な視点になるが、刑務所への収容が長すぎると、出所後の社会復帰が困難となり、さらに再犯を重ねる人もいるということも考える必要があるだろう。

初詣ベビーカー論争と東浩紀と「権利」と「迷惑」

『AERA』で、東浩紀が「初詣ベビーカー論争に見る『迷惑』と『権利』の混同」という記事を書いている。

 ここで東浩紀は、初詣の場でベビーカーを使うと大勢の迷惑になるからやめるべきだという主張に対して、「迷惑」と「権利」を分けて考えるべきだと述べている。

 東はいう。
迷惑はやめろ、というのは厄介な命令である。それは規則を破るなという客観的な意味とともに、他人を不快にするなという主観的な意味をもっている。
 この厄介さは欧米由来の「権利」にはない。けれど日本人の多くは、迷惑の話と権利の話を混同している。
 だから論争が空転する。(・・・)これはベビーカー論争以外でも見られる構図である
。」

そして
私見では、この問題は、迷惑の話と権利の話を切り分けることでしか解決しない。
 権利の主張はときに他人の不快につながる。しかしそれでいいし、権利とはそもそもそういうものだと理解するべきなのだ。
 ベビーカーを使うと周囲が困惑するかもしれない。それでも使いたければ使えばいい。 
有休を取ると同僚が嫌な顔をするかもしれない。それでも取りたければ取ればいい。
 それが権利というものの本質ではないだろうか
。」
と結んでいる。

 一般論として、初詣の際にベビーカーを使うことの是非についてはここでは触れないが、ただ東の論理の進め方には、若干の混乱が見受けられるので、ここで整理しておきたい。

 そもそも初詣でベビーカーを使用する行為は、労働者が有休休暇を取得するのが「権利」であるのと同じような意味で、「権利」なのだろうか?

 ある行為をすることが「権利」だというからには、それを妨げないように求めることができなければならないし、侵害された場合はその侵害に対して、原則として何らかの救済を求めることができなければならない。

 たとえば有給休暇や育児休業を取得したい場合は、雇用主(会社)に対してそれを認めるように請求することができる。
 それは、たとえ同僚に「迷惑」がかかるとしても、法的に保障・保護された「権利」なのである。
 理屈のうえでは、雇用主が有給休暇を与えない場合は、訴訟で認めさせることもできる。 (いちいちそこまでやるかどうかは別だが、休暇を認めるかどうかについて争いになった裁判例は、現実に存在する)
 その意味で、東の言っている「他人に迷惑がかかるとしても、権利は行使して良いのだ」という命題は、有休休暇については正しい。

 さて、神社や寺に初詣をする際にベビーカーを使用することは、この有給休暇と同じような意味で「権利」なのだろうか?権利だとしたら、寺院や寺に対して、それを妨げないように求めることは可能なのだろうか?

 会社に対して「権利として有給休暇を取得させるように」と請求するのと同じように、参拝客は寺院に対して「権利としてベビーカー同伴で初詣をさせるように」という請求をすることができるのだろうか。
 たとえば、有給休暇を与えない雇用主を労働者が訴えて請求することができるのと同じような意味で、ベビーカー使用を認めない寺院に対して、訴訟で、使用を認めるよう求めることができるのだろうか。

 さらにいえば、有給休暇の場合は、労働者にそれを取得する「権利」があるということは、雇用主がそれを付与する「義務」を負うということでもあるわけだが、ベビーカー使用の場合は、寺院はその使用を認める「義務」を負っているのだろうか。

 思うに、寺院の境内は寺院の所有地であって、大勢の参拝客が来る中でどのように管理を行うかは、寺院の判断に委ねられており、それこそ寺院の「権利」である。
 その中で、参拝客相互の「迷惑」をどこまで許容するかも、寺院は考慮に入れなければならない。
 参拝客はそのような寺院の管理権の中で参拝を認められているのであって、参拝にベビーカーを使用することが「権利」とまで言えるかどうかはまた別問題である。

 その意味で、「迷惑のことは考えなくても良い、権利だけ考えれば良い」という東の主張は、有休休暇や育児休業の場合には、一応は当たっているが、初詣のベビーカー使用の場合は当てはまらないのである。

(★ただし、このAERAの記事の中で、東は「迷惑」というコトバを、「他人の主観的な不快感」という程度の軽い意味でしか使っていないことに注意を要する。)

 もちろん最終的な結論として、ベビーカーの使用を認めないのが妥当かどうかは、また別問題であって、個々の状況に応じて判断するべきことである。

「ポスト真実」のかわりに「ニワカ真実」にしたらどうか?

 世間の多くのブロガーと同じように、私も、このブログへのアクセス状況を時々チェックしており、まああまり人が来ないのだろうなとは思っているが、最近、昨年12月に書いた「『ポスト真実』という言葉をわざわざ使う意味あるの?」というエントリのPV数が異様に上昇しており、非常に驚いている。

 特に世間に注目されることを書いたわけでもないので、心当たりがあるとすれば、googleなどで「ポスト真実」(post-truth)という単語が検索されることが多く、その中でたまたまこのブログのエントリも見つけて、ついでに立ち寄る人も増えたということかも知れない。

 既に書いたとおり、私の意見としては、政治で真実を軽視したりデマを流したり、怪しい情報に大衆が踊らされたりする現象は、昔からもともと存在していたことであり、特に目新しいわけではないので、この「ポスト真実」などという言葉をわざわざ使う必要はないのではないかということである。

 とはいうものの、インターネット、特にSNSの発達によって、デマや怪情報の拡散が従来に比べてはるかに簡単で大規模になったということは言えるだろう。

 その意味で、「従来よりもデマ等の発生・拡散がはるかに激しくなった」という点に着目して、何かしら新しい用語を使いたいというのであれば、それは確かに理解できないわけではない。

 しかし「ポスト真実」という用語では、そのニュアンスがうまく伝わるようには思えない。
(「ポスト」という接頭語を付けると、「ポストモダン」「ポスト構造主義」のように何か高級なイメージの漂う、ある種の研究者がいじくり回すための概念のような味わいがあるが、そういう閉鎖された世界だけの用語で終わってしまうのではつまらない。)

 そこで一案だが、「ポスト真実」のかわりに「ニワカ真実」という言い方にしてみたらどうだろうか。

 「ニワカ」は「ポスト」に対応する言葉ではないので、post-truthの忠実な訳語とはいえないが、“急に作り上げたニセモノ”というニュアンスはこれで伝わるのではないだろうか。

 (たとえばインターネット上の言い回しとして、何かの番組や連載漫画や芸能人について掲示板等で論じているところに、最近知ったばかりの人が参入してきて的外れなことを言うと、『おまえ、ニワカか?』などと侮蔑的に言われることがある。
  このように『ニワカ』とは『急に作り上げられたニセモノ』という意味合いがあるので、『ニワカ真実』といえば、『急にSNS等で作られてばらまかれた、真実ではない偽の情報』という雰囲気を出すことができると思う。)

 とはいっても、ここで私がこんなことを書いたところで「ニワカ真実」という言葉が新たに流行することはないだろうが・・・。

「ポスト真実」などという言葉を使ってて恥ずかしくないの?

 以前も「『ポスト真実』という言葉をわざわざ使う意味あるの?」というエントリを書いたが、再び「ポスト真実」という言葉に関して考えたことを少しばかり書いておきたい。

 津田大介が『週刊朝日』で、「2016年を象徴する言葉といえば「ポスト真実」だが、それを地で行く恐ろしい事件が発生した。」として、ピザ店襲撃事件(「ピザゲート事件」)について紹介している
 既に報道されているので知っている人も多いと思うが、昨年12月、ワシントンD.C.郊外のとあるピザ店で、「クリントンやその関係者が関与して、児童虐待や人身売買が行われている」というデマがネットで拡散し、それを真に受けた男がその店を襲撃して発砲し逮捕されたという事件である。

 これについて津田は
ピザゲート騒動」は、2016年、そして「ポスト真実」を象徴する出来事と言えよう。ディストピアを描いた出来の悪いSF小説のような「現実」を我々は生きている。」
 と結んでいるのだが、そもそもこの事件について「ポスト真実」という言葉を敢えて使う必要はあるのだろうか

 事件そのものは恐ろしいものだが(店を襲って発砲したのだから、恐ろしいに決まっている)、デマに踊らされて騒動を起こす人間などというのは昔からいくらでもいたのであり、それがネットで情報が拡散される時代になったために、昔よりも拡散の速度や程度が激しくなったに過ぎない。それは政治の世界でも同じことである。

 これに対して、「ポスト真実の時代の特徴は、嘘を真実だと信じることではなく、真実のことなどどうでも良くなることだ。」という論者もいる。
たとえばこの記事の渡辺敦子による解説参照

 しかし、津田が挙げているピザゲート事件の犯人は、クリントンやピザ店が児童虐待に関与しているという噂があくまでも「真実」なのだと信じて襲撃したのである。
 「クリントンやピザ店が本当に児童虐待に関与しているかどうかはどうでもいい。とにかくピザ店を襲撃しよう」と欲して行動したわけではない。

 このように考えると、主に政治の分野とはいえ、大衆世論がデマに踊らされたり、ろくに事実も確認せずに騒ぐ現象のことを、何か新しい出来事のように「ポスト真実」と呼ぶ必要などないといえるだろう。「デマゴギーを利用した政治」とか「政治家がいい加減なことを言って有権者を惑わす」などという現象も、いつの時代にもあることであって、最近になってネットやSNSが道具として加わったにすぎない。

 何か新しいテーマの記事や論文を書きたがっているメディアや研究者が、「ポスト真実」という言葉に飛びつくのは理解できるが、他の人はそれにつきあう必要など感じないだろう

 ちなみに雑誌『世界』1月号で、三島憲一(大阪大学名誉教授)は、『ポスト真理の政治』というエッセイを書いているが、この中で
 「『ポスト真理』や『ポスト事実』という表現は、日本でよく使われる『反知性主義』と同じに、またしても大学内部での『恵まれた人々』が、外の頑迷な人々を馬鹿にする優越願望と結びつきかねない。」
 と語っている。
 (ただし三島教授は「ポスト真理(真実)」等という言葉の有用性を、留保つきながら一応は認めている感じで、「ごまかし、大言壮語、言い逃れ、幻想、しゃぼん玉などを総括した表現と思えば便利な符牒である。」とも述べている。)

 「ポスト真実」という言葉が、メディアとか研究者の世界で流行するという現象は、むしろ、メディアや研究者の世界と、外の大衆の世界との断絶を象徴しているように思える。
 外の世界から断絶していたメディアや研究者は、英国のEU離脱やトランプ当選の時になって意表をつかれて、大慌てして騒いだのだが。

「貧困女子高生」は「貧乏女子高生」と言い換えるべきだった件

今年の話題の一つとして、NHKが取り上げた「貧困女子高生」の炎上問題が挙げられる。

貧困な女子高生として取り上げられた人の部屋の映像に、大量のアニメのグッズやイラスト用の高価なペンなどがあり、「それでも本当に“貧困”といえるのか」という疑問が広がる形でネットで炎上したのであった。

これについては、「貧困」概念も一律なものではなく、生存自体が困難な「絶対的貧困」と、所得が中央値の半分以下である「相対的貧困」とがあるのだ・・・という反論というか説明がなされることもあったが、この意味での「相対的貧困」は、あくまで所得の相対的な少なさに着目した概念であって、その相対的に少ない所得で実際の生活上のニーズがどの程度充足困難になっているかを直接示すわけではないから、なかなか直感的にわかりにくいきらいがある。

この点、私は、相対的な貧困層の困難さを直感的に示す用語としては、「貧困」ではなく「貧乏」が良いのではないかと思う。(「下層」でも良いが。)

「貧困」も「貧乏」も、一見同じように見えるが、実は言葉の喚起するイメージはかなり違う。

「貧困」というと、どうしても日本語の響きとしては、絶対的貧困のようなイメージを想起させて、餓死寸前か、そこまでではなくてもホームレスやそれに近い窮状を思わせる。
これに対して「貧乏」というと、むしろ「相対的に経済面で恵まれない、下層の生活をしている人」というイメージであって、とりあえずは生活はできているが低所得という感覚になる。

「貧困」は、「貧しくて困っている(=困窮、生存が追い詰められている)」ということだが、「貧乏」は、「貧しくて乏しい(=少ない、所得が小さい)」ということになる。

わかりやすく例をあげよう。一般的にいって、「貧困会社」という言葉は存在しない。「貧困」は生存不可能というイメージと結びついている以上、そんな会社など成り立ちえないと思われるからである。
これに対して、「貧乏会社」という言葉は存在する。相対的に収益が少ない会社という意味で、実際に使う人は多いはずだ。

また、「貧乏生活」というと、貧しいながらなんとか切り盛りしているという感じだが、「貧困生活」というと、「生活ができないのが貧困ではないのか」と思ってしまわないだろうか。

さらに、「貧乏だけどささやかな楽しみがある」という言い方にはそれほど違和感はないが、「貧困だけどささやかな楽しみがある」というと、どこか違和感を感じるのではないか。

結論としていえば、「貧困女子高生」ではなく、「貧乏女子高生」だったら、部屋に絵を描く趣味の道具や映画のチケットがあったとしても、それほど騒ぎにはならず炎上しなかったのではないかと思う。

朝日新聞のオピニオン&フォーラム欄より(小熊英二と井手英策の論考)

 12月22日の朝日新聞朝刊の「オピニオン」欄(12版、15頁)には、興味深い2つの論考が載っていた。

 一つは小熊英二の論壇時評である。
 テーマはいわゆるポピュリズムであるが、小熊が様々なメディアの記事から引き出した結論は、「欧米では移民が担当している低賃金労働は、日本では低賃金で残業もいとわない非正規労働者たちがやっている。」ということである。

 そして、欧米で移民を排撃する層は、中間層かそれ以上の層であり、それは日本でも同様で(ここで小熊は、橋下徹の支持者に管理職や正社員が多いことを挙げる)、中間層は、旧来の生活様式を維持できなくなることへの恐怖があって、右派ポピュリズムに走っているという。

 様々な論説や調査を引用しながら、小熊は、ネットで右翼的な書き込みなどをしているのは「年収が多い」「子どもがいる」「男性」が多く、いわゆる「正社員のお父さん」だとする。この層は、「昭和の生活様式」の達成しようとあがきながらも、負担の大きさや長時間労働などでそれが危うくなって、不満や危機感に陥って、攻撃的になっているとしている。

 小熊のいうとおり、中間層(没落しつつある中間層、と呼んでもいいかも知れない)の不安感や危機感が、欧米や日本で高まっているのは事実だろう。

 ただし小熊は途中で論理をすりかえて、橋下徹の支持層と、夫婦別姓固執派と、外国人実習生推進層とがあたかもほぼ同一であるかのようなレトリックを使う。そして最後に、日本の伝統的風景ともいうべき農林水産業が、過酷な労働条件の外国人実習生によって支えられていること(それはもちろん大きな問題である)を指摘して、

 「過去への愛着は理解できる。だが人権侵害が指摘される制度を使ってまで『日本の風景』を維持するべきだろうか。
 …右派ポピュリズムの支持者は誰か。それは古い様式に固執し、その維持のためには人権など二の次と考える人である
。」

と結論づける。

 いうまでもなく、日本で「右派」的なものを支持する中間層が存在するとしても、その層は、外国人実習生の制度を(それこそ“ポピュリズム”=大衆熱狂的に)支持したり推進させようとしたりしているわけではない。
 (★むしろ小熊のいう、ネットで右翼的な書き込みをしそうな中間層は、それこそ、経済的に合理的かどうかは別として、外国人労働者の導入に否定的な意見の人が多いはずだろう。また欧州で難民や移民受け入れに反対している人たちは、文化的なものもあるが、治安面での不安も大きいと感じているはずである(その治安面の不安に合理的な根拠があるかどうかは、また別な議論である。)。)

 もう一つの論考は「あすを探る 財政・経済」というもので、筆者は慶応大教授の井手英策である。

 井手は、日本では、この20年で中間層の多くが低所得層に加わり、平均所得以下の人が6割を占めているにもかかわらず、意識調査では全体の9割が自分を「中流」と考えていることを指摘し、このように所得が高くないにもかかわらず自らを中間層と意識している、いわゆる「中の下」の人々は、「格差是正」への訴えを聴かされて、逆に低所得層・貧困層に対する反発を強めるのではないかと述べている。

 井手によれば、日米英の3国は、「財源が限られ、給付に所得制限がつき、財政が低所得層の利益で固められている」という点で類似しており、中間層の不満が高まっているという。そこで米英などでは「中の下層」が下流や移民に対する反感を煽られて、ポピュリズムに向かっているというのである。
 「中の下層」は、生活が楽ではないにもかかわらず、なまじ貧困層よりは上であるために、公的な給付も受けられない・・ということで不満がうっ積しているという指摘だが、注目に値する。

東京メトロの売店の正社員と非正社員の待遇格差問題について

 少し前の記事になるが、地下鉄(東京メトロ。旧営団地下鉄)の売店で非正社員として働く女性が、正社員との待遇の格差は労働契約法20条違反だとして、会社側(東京メトロの子会社)を訴え、2014年から東京地裁で争っている。(朝日新聞の記事参照

 問題となっている労働契約法20条は、有期労働契約の労働者(ここでは「非正社員」「契約社員」と考えて良い)と、期間の定めのない労働契約の労働者(「正社員」と考えて良い)との労働条件の違いが、
 ①職務の内容
 ②職務の内容と配置の変更の範囲
 ③その他の事情
を考慮して、不合理と認められるものであってはならないとしている。

 この事案について、いろいろな記事を見た限りでは、原告(非正社員の女性)は4名で、2004年~2006年に採用されたそうであり、売店では正社員も非正社員も同じ仕事をしているにもかかわらず、後者は賃金がかなり低く退職金等もなくと、また訴訟を提起した2014年時点では売店の店員は全部で114名で、そのうち正社員は19名だけだということだが、それ以上詳しいことはあまりわからない。

 なお社民党の福島みずほの国会での発言 によれば、正社員も非正社員も、売店での仕事の権限・責任は同じで、他部署への異動がほとんどない点も同じだそうである。

 ということは、この売店の正社員は、将来他部署を経験したりして本社の管理職に昇進する候補というわけでもなく、正社員だろうと契約社員だろうと、とにかくいわゆる「売り子」「店員」に専念する前提で採用され勤務しているということだろうか。

 さて、今このエントリで考えてみたいのは、この事案をどう判断・解決すべきかということではなく、何よりもまず、売店でまったく同じ仕事を続けることが想定されているのだとすれば、なぜ正社員と契約社員の両方の区分の社員をわざわざ採用したのかということである。

 「すべて正社員」または「すべて契約社員」というなら理解できる。また、正社員をメインとして、臨時の補助として契約社員を雇用して補充するというのも理解できる。しかし本件はそのどれでもなく、売店の114名中正社員は19名だけという体制で長期間続けているのである。その理由は何だろうか。

 とりあえず現時点での私の勝手な推測というか仮説をいうと、次のとおりである。

 まず前提知識として、①東京メトロ(東京地下鉄株式会社)は、2004年までは、公法人の帝都高速度交通営団だったこと、また②その売店を扱う子会社は「地下鉄トラベルサービス」という会社だったこと、③2004年に民営化されて東京メトロとなり、子会社もメトロコマースという会社に変わったこと、について触れておく。

 そのうえでの私の推測は:

1. 民営化前の公法人である帝都高速度交通営団の子会社の時代は、売店の店員も全員が正社員だった 

2.民営化(2004年)の時に、売店業務については、基幹業務ではないので正社員にやらせるまでもないと考え、また人件費削減の方針もあって、今後新たに採用するのは契約社員(非正規)だけにすることにした 

3.ただし、民営化の前の昔から継続して雇用されていた売店の店員は、解雇するわけにはいかず、一方的に労働条件を不利益に変更することもできないので、そのまま正社員の(良好な)労働条件のまま勤務し続けて年齢を重ね、現在に至っている
 会社は、この人たちが定年で全員退職するのを待っている(=いずれ売店勤務は全員が非正社員に置き換わる予定ということになる)
 

4.上記2の、民営化後に非正規で採用された売店店員たちが、3の正社員(の残り)の人たちと比べて、同じ仕事なのに賃金等の待遇が低すぎるとして、今回、訴訟になった

・・・ということではないかということである。

 つまり、今回の原告の契約社員の人々は、ひらたく言えば「正社員並みにしてほしい」として訴訟を起こしている一方で、会社側のホンネとしては「正社員はいずれ定年で売店からいなくなり、すべて非正社員に置き換わる」という方針でいるのではないかというのが、私の仮説である。会社は「正社員」「契約社員」の両方を毎回採用し続けているわけではなく、前者は民営化前に採用された人たちが残っているだけで、いずれ後者だけになる予定ということではないか。

 今回の原告4名のうち最も早く採用されたのが2004年(=民営化の年)という事実も、上記の推測を裏付けているように思われる。

 以上はあくまで推測なので、違っていたらご容赦いただきたい。
 いずれにしても判決が出たら分析してみたい事案である。

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