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政府が検討しているのは、仕事の「成果」に給料を払う制度ではない!

以前何度か書いたこととも重複するが、けさの日経新聞を見て、一言。

日経新聞の記事によれば、

政府・与党は労働時間ではなく仕事の成果に給料を支払う「脱時間給制度」を盛り込んだ労働基準法改正案の今国会成立を見送る方針を固めた。
 7月の東京都議選を控え、与野党の対決が見込まれる同法案の審議は得策ではないと判断した。
 秋に予定する臨時国会で、残業時間の上限規制などを含む「働き方改革関連法案」と一体で審議し、成立をめざす戦略だ
。”

とされている。

この書き方だと、「これからは仕事の成果を評価してもらえる賃金制度になる!」というふうに錯覚する読者がいるのかも知れない。(だが、現在は、仕事の成果を評価できない賃金制度なのか?そうではないだろう。)

しかし政府・与党が検討している労働基準法改正案のキーポイントは、年収1075万円以上の専門職について、1日8時間・週40時間労働という原則や、時間外割増賃金等の支払義務を免除するというものである。

要は、ただ単に、労働時間の規制や、時間外割増賃金(残業代)の支払義務をなくすというだけであって、労働時間に関係なく、固定額の賃金が支払われる制度にすぎない。

くれぐれも誤解しないようにしなければならない。

労働基準法改正で目指そうとしているのは、「労働時間ではなく仕事の“成果”に給料を払う制度」ではなく、「労働時間に関係なく固定額の給料が払われる制度」である。その固定額の給料が「成果」にふさわしいものなのかどうかは、労働基準法の知ったことではない。個々に会社と労働者が判断するべきことである。

なお、本当の意味で「労働時間ではなく仕事の成果に給料を払う制度」としては、出来高払いのアニメーターや、売上に応じた賃金のタクシー運転手などが適切な例であるということも、このブログで、以前に述べたところである。

安倍昭恵は「右」なの?「左」なの?(プチ鹿島のコラムを読んで)

 文春オンラインに、プチ鹿島の「森友学園の『昭恵夫人』とは一体何者だったのか? ~スポニチ『アッキー 人ごとボヤッキー』が示すもの~」というコラムが掲載されている。

 首相夫人の安倍昭恵は、かねてから「家庭内野党」「旦那と違ってリベラルな人」などと言われていた。しかし今回の森友学園問題で、“極右”の塚本幼稚園を賛美するなどしていたことが取り上げられ、改めて立ち位置が議論されているわけだが、プチ鹿島は、「昭恵夫人が家庭内野党だというのは幻想だ」と断じて、次のように述べている。

“昭恵夫人は「籠池先生の教育に対する熱き想いに感銘を受け、このたび名誉校長に就任させていただきました。」とか「瑞穂の國記念小學院は、優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ、芯の通った子どもを育てます。」と、森友学園のHPでメッセージを寄せていた(現在は削除)。

 ここまで強烈に支持しているのだから、それはもう脇が甘いのではなく心からの賛同であり協力だ。思想は自由だからよいのだけど、今回私が痛感したのは次のことだ。

  今までメディアは昭恵夫人を「家庭内野党」だとか「リベラル」などと呼び、少なからぬ人々がそう思ってきた。

 でも、今回の森友学園の件で、それは幻想っぽいことがわかったのではないか。昭恵夫人のなんとなくのイメージだけが先行していたのだ。

 安倍首相は「印象操作しないで」とよく批判するが、ご自分の奥さんが結果的に最も印象操作に成功していたとも言える。”

 つまりプチ鹿島が言いたいことは、「安倍昭恵夫人は、安倍晋三と同じく“極右”だ。その理由は、森友学園の教育を賛美する言動をしていたからだ。」ということだろう。

 これは安倍昭恵の実際の言動から安倍昭恵の思想を判断しているわけで、一応筋が通っているように見える。

 しかしよくよく考えてみると、このプチ鹿島の論法は、おかしくないだろうか?

 今回の騒動の前に、安倍昭恵が「家庭内野党」「リベラル」と呼ばれていたのも、やはり安倍昭恵の言動が理由になっていたはずである。第三者が根拠もなく勝手に妄想で「安倍首相夫人はリベラル」だと思い込んでいたわけではない。

 もう少し具体的に言おう。

 たとえば、左寄りのメディアである「リテラ」の2015年4月7日付記事「衝撃! 安倍昭恵が夫とは真逆の学者・姜尚中と仲良く…原発や日韓問題でも意気投合」で、安倍昭恵が姜尚中と対談していたことを取り上げている。そこで安倍昭恵は、脱原発について触れたり、「日韓中は兄弟のようなものだ」と述べたりしている。

 また同じ「リテラ」の2016年の別な記事によると、安倍昭恵は青木理のインタビューに応じ、「戦争をするときには、私を殺せ」と夫に向かって言ったと語っているという。

 安倍昭恵が「リベラル」扱いされてきたのは、まさしく安倍昭恵自身の言動が根拠だったのである。
 森友学園を賛美したのも、脱原発や日中韓の友好や戦争反対を主張したのも、いずれも安倍昭恵本人の言動であることに変わりはない。

 それでは、どちらの言動を基準にして判断すれば良いのだろうか。安倍昭恵は“極右”なのか、それとも“リベラル”なのか?

 結論をいえば、身も蓋もない話だが、それは、安倍昭恵を取り上げる論者の都合によって決まるのである。 

 安倍昭恵が右か左かを議論する論者は、どっちにしても、安倍晋三を批判するネタとして取り上げるにすぎない。
 つまり、どちらの方が安倍政権を批判するうえで都合が良いかで、安倍昭恵が右か左かが決まるのだ。

 安倍昭恵が「左」であるほうが、安倍政権を攻撃するのに都合が良い場合は、安倍昭恵は「左」である。「昭恵夫人は脱原発や戦争反対を主張しているのに、夫の安倍首相は、なぜ原発を推進し、安保法制を強引に制定するのか」というふうに主張するのだ。

 逆に安倍昭恵が「右」であるほうが、安倍政権を攻撃するのに都合が良い場合は、安倍昭恵は「右」になる。「昭恵夫人は、異常な“極右”の森友学園を賛美して、そんな連中が作ろうとする小学校の名誉校長に就任した。夫婦揃って異常な極右だ、けしからん」というふうな議論になるのである。

小池百合子を推して安倍政権にダメージを与えたいというのが朝日新聞の思惑?

豊洲移転問題が迷走しているにもかかわらず、マスコミの多くは、依然として小池知事に対して比較的好意的なスタンスを取り続けているように見える。

 ところで本日の朝日新聞(ニッポンの宿題)というオピニオン記事(一定のテーマについて、2名の論者のインタビューを掲載するシリーズ)で、「『安全』と『安心』」と題した記事を掲載していた。インタビューに答えたのは、岸本充生(東京大学大学院特任教授)と吉田省子(北海道大学大学院客員准教授)である。
 インタビューの内容は、豊洲問題についてはわずかに名称を持ち出しただけでほとんど触れておらず、あとは概ね当たり障りのないものだった。
 
 ただ「安全と安心」という二分論的な図式をこの時期にわざわざ取り上げて議論のテーマとすること自体、ある意味では小池百合子に対する援護射撃的な効果を持つものだと言えるのではないだろうか。
 小池知事は「安全」と「安心」を分けて考えるべきだという論法を取っており、豊洲市場について「法令上の安全性は確保されているとしながらも、消費者の信頼が得られていないとして安心だとは言えない」と述べ、専門家による検証などを踏まえて総合的に判断するという説明をしているからである。

 豊洲移転問題そのものについてはここでは深入りしないが、なぜここまでマスコミは小池百合子を持ち上げるのだろうか。特に政治的傾向が明らかに異なる朝日新聞が小池百合子をなぜ否定的に扱わないのか。
 他のメディアはともかく朝日新聞の場合、ただ単に小池百合子の“劇場型”政治が面白くて記事や番組が盛り上がるとか、そういうだけの理由ではないだろう。

 これは、7月に予定されている都議会選挙で小池知事派が躍進して自民党が議席を減らせば、安倍政権に対するダメージというかブレーキになるだろう・・・という思惑があるからではないか。「都議会選挙までは小池百合子のイメージダウンを避けるようにしよう」「小池派が伸びれば、安倍政権が困るだろう」などという傾向というか空気が朝日新聞社内にあるのではないだろうか。

 さらに付け加えると、小池百合子はメディアを取り込むのがうまい。といっても、安倍首相のように、メディア各社の幹部が呼んで赤坂で会食するなどというやり方ではなく、メディアの現場レベルが喜びそうな「絵」「図」を作ってやって、自分の味方につけるのが巧みなのである。

 橋下徹はメディアに噛みつき喧嘩したが(それ自体がメディアのネタにもなるのだが)、小池百合子はメディアには噛みつかず、味方にしてしまうわけだ。

就職活動で話を“盛る”学生(AERAの記事から)

 AERAに、就職活動で話を平気で「盛る」学生の言い分 キツネとタヌキの化かし合い…?という記事があった。
 就職活動で、自分をよく見せるためにウソをつく学生がよくいるという記事で、このウソというのは3種類に分けることができるという。

 
 一つは、順位や売り上げなどの数字をよりよく言ったり「リーダーだった」などと役職を偽ったりする「実績盛り」。
 私が会社員だった頃も、サークル活動や同好会のリーダーを自称する例の話はよくあった。最近は「海外でボランティア活動をしていた」など自称する例が増えてきているそうである。あまりにも同じパターンのウソが繰り返されるので、もう見え見えになってきているのだろう。


 二つ目は、ウケそうなキャラクターを演じるパターン。要は、いかにも採用されそうな性格の人間に見せかけるということだが(結構むずかしいと思うのだが)、これは採用されてもいずれボロが出て自分を苦しめることになるだろう。


 三つ目は、他社の選考状況についての嘘。たとえばトヨタの採用面接を受ける時に、「日産やホンダの二次面接に進んでいます」などというパターンである。これは普通は確認しようがないので、ウソはつき放題のように思えるが、もともと採用選考である程度は上の段階に進ませてもらえそうな学生でなければ意味はなさそうである。


 このようにウソをつく学生の側にも「企業だってウソを付いたり話を盛っているではないか」という言い分があり、これは一理ある。私の就職活動時代も、社員の誰もが国際的舞台で活躍できるかのような印象を与えたり、一部の華やかな部署だけを紹介したりするような企業の新卒採用向けパンフレットは当然のように存在していた。今でもWebサイトで同じようなことをやっているのだろう。


 そう考えると学生も企業も「お互い様」ということになるが、いくらなんでも在籍・卒業した大学を偽ったとか、持ってもいない公的資格があるように装ったとかいうことになると、採用された後に経歴等の詐称を理由として解雇される恐れがあるので、そこは限界というものがある。

 このような不毛なことが起こるのも、大手企業を中心に、大学4年生(または3年生)を大量に面接・試験して短期間のうちに内定を出すという日本独特の新卒採用のあり方がその根底にあるわけである。学生達は、短い期間で少しでも良い印象を持ってもらうために、表面的に取り繕ったりウソをついたりして、必死で内定を取ろうとする。

 本当なら、1週間か2週間、場合によってはそれ以上の間、インターンシップのような形で職場で何かをやらせてみて適性を見て絞り込んでいく方が、企業にとっても本人にとっても望ましいと思うのだが、大学在学中にこれをやらせると“学業に専念できなくなる”という問題があり、かといって大学卒業後にこのようなインターンシップを行う場合は、その企業に採用されなかった者は学生身分のなくなった無職の状態で不安定に職探しを続けねばならないことになる。なかなか難しい問題である。

「ポスト真実」と「オルタナティヴファクト」と「フェイクニュース」のどれを使う?

 既に以下の各記事でも書いてきたが、このブログでは、メディアや研究者が「ポスト真実」という用語を使うことについては、どちらかといえば否定的な目で見ている。

「ポスト真実」という言葉をわざわざ使う意味あるの?

「ポスト真実」などという言葉を使ってて恥ずかしくないの?

「ポスト真実」のかわりに「ニワカ真実」にしたらどうか?

この考えは今でも変わらない。

 そもそも政治家が事実と異なることを意図的にしゃべりまくるようなケースについては、ただ単に「嘘」「デマ」と呼べば良いだけである。「ポスト真実」などという言葉を使うと、あまりネガティブなニュアンスが感じられない。それどころか、「嘘」や「デマ」とは別に、もっと何か高級な「ポスト真実」というものが存在するようなイメージすら出てしまう。

 ここで一例として、研究者の日比嘉高(名古屋大学准教授)は、昨年11月10日の時点のブログ記事では、「ポスト真実」(ポスト事実)という概念を積極的に持ち出し、「ポスト事実の時代」「ポスト事実の政治」などという表現を使っていたのだが、最近の政治状況について論じた2月12日の記事では、「ポスト真実」という言葉はおさらい的に少し触れるだけで、全体的にみるとほとんど「嘘」という言葉を中心に使っている。
 これも、「ポスト真実」などというと「嘘」よりは良いものであるかのように感じられてしまうのを避けようと考えたからかも知れない。

 これとは別に「オルタナティヴファクト」という概念も一部で使われるようになった。
 これは「もう一つの事実」「異なった事実」という感じだが、「本来の事実とは違う、でっち上げた事実」というニュアンスで使うこともでき、何だかよくわからない「ポスト真実」よりはマシだと思う。
 (手前味噌だが、以前私がこのブログで書いた「ニワカ真実」という言葉に近いような気がしないでもない。さらにいえば「エセ真実」というのが適切だろうか。)ただ「オルタナティヴファクト」は長ったらしいので、語呂が悪く、あまり定着しないと思う。

 一方、「フェイクニュース」という言葉も最近広がっているが、これは「嘘ニュース」「偽ニュース」ということで、意味が明確で語呂も良いので、それなりに日本で定着しそうな気がする。
 この言葉は、たとえばトランプのような人が報道機関に対して攻撃の意味で投げつけることもあるが、逆に、報道機関がネットや政治家の流す嘘に対してこの言葉を使って非難することもできる。

 「ポスト真実」は、カバーする範囲は広く、時代精神とか風潮のようなものにもかかわる概念だが、「フェイクニュース」はもっと狭い。
 ただいずれにしても、一部の研究者やジャーナリストの自己満足や飯の種でしかないような「ポスト真実」という曖昧な言葉よりは、「フェイクニュース」の方が100倍マシで、なかなか使い勝手が良い言葉であり、かなり定着するのではないかと思う。

上野千鶴子の「平等に貧しくなろう」論について:感情的反発は無意味である

 東京新聞が建国記念日にちなんで、「この国のかたち」のあり方について3人の論者にインタビューをしたが、そのうち上野千鶴子の発言「平等に貧しくなろう」が反響を呼んでいるようだ。

 上野千鶴子の論旨は次のとおりである:

 (1)出生による人口の自然増は期待できない

 (2)移民受入による人口の社会増も、日本では無理だろう

 (3)人口減少による衰退、貧困化は避けられない

 (4)どうせ衰退・貧困化するならば、(放置するのではなく)再分配により平等に貧しくなる道を探るべきである

このインタビューはネットなどで拡散されて大きな反響を呼んだようである。
たとえば:

・上野千鶴子の“平等に貧困”に呆れ(いいんちょ)
http://blogos.com/article/209925/

・「平等に貧しくなろう」は不可能。船は下から沈むし、人は希望があるから生きていける (おときた駿・都議会議員)
http://blogos.com/article/209949/

 私があちこちの反応を見た限りでは、「上野千鶴子は恵まれた世代・地位の人物であり、自分が経済的にも安定した立場でありながら、後の世代を見捨てるような発言をするのは無責任でけしからん」という類いの感情的な反応か、あるいは「希望を失わせるようなことを言うのはおかしい」という精神論的な反応が目立つ。

 ただしここで考えなければいけないのは、日本が将来どうなるか(どうすべきか)であって、上野千鶴子の人物像や態度をどう評価するかではない。
 つまり重要なのは、日本が現実に衰退するかどうか、将来どうすべきかであって、上野千鶴子という一学者が恵まれた世代なのかどうかとか、身勝手で無責任なのかどうかではないのである。

 日本の将来像において上野千鶴子が示している前提条件は、上記のとおり、(1)出生率は上がらない、(2)移民も無理、という2点であって、そこから(3)の衰退不可避という結論が導き出されている。

 そのうえで、どうせ衰退するなら、再分配によって平等に痛みを分かち合い貧しくなろう、ということである。

 そこで、上野千鶴子の主張が気にいらないというのであれば、この問題提起に答える形で反論すべきであって、

 (1)出生率を上げる方法がある

 (2)移民を受け入れるべきである

 (3)出生率向上や移民受入がなくても、人口を維持増加させる手段がある(例:クローン人間)

 (3)'人口が減少しても、経済発展を維持させる手段がある(例:AIやロボットによる労働力代替の推進)

等々の形の主張を組み立てなければならない。

 反論するならこのように論旨に沿った形でやるべきであって、いたずらに感情的・短絡的に上野千鶴子に反論したところで何の意味もないのである。

 特に「上野千鶴子は、自分自身では恵まれている立場なのに、なんでこんなことを言うのか」という人は、個人的なやっかみでしかない。個人的やっかみがダメだというのではないが、問題の中身に踏み込んだ議論にはつながらない。
 たとえば氷河期世代の論者がこのインタビューとまったく同じ「平等に貧しくなろう」論を語ったとしたら、「さすが苦労した氷河期世代だ、よくわかってる、支持すべきだ」ということになるのだろうか。そういう問題ではないだろう。

初詣ベビーカー論争と東浩紀と「権利」と「迷惑」

『AERA』で、東浩紀が「初詣ベビーカー論争に見る『迷惑』と『権利』の混同」という記事を書いている。

 ここで東浩紀は、初詣の場でベビーカーを使うと大勢の迷惑になるからやめるべきだという主張に対して、「迷惑」と「権利」を分けて考えるべきだと述べている。

 東はいう。
迷惑はやめろ、というのは厄介な命令である。それは規則を破るなという客観的な意味とともに、他人を不快にするなという主観的な意味をもっている。
 この厄介さは欧米由来の「権利」にはない。けれど日本人の多くは、迷惑の話と権利の話を混同している。
 だから論争が空転する。(・・・)これはベビーカー論争以外でも見られる構図である
。」

そして
私見では、この問題は、迷惑の話と権利の話を切り分けることでしか解決しない。
 権利の主張はときに他人の不快につながる。しかしそれでいいし、権利とはそもそもそういうものだと理解するべきなのだ。
 ベビーカーを使うと周囲が困惑するかもしれない。それでも使いたければ使えばいい。 
有休を取ると同僚が嫌な顔をするかもしれない。それでも取りたければ取ればいい。
 それが権利というものの本質ではないだろうか
。」
と結んでいる。

 一般論として、初詣の際にベビーカーを使うことの是非についてはここでは触れないが、ただ東の論理の進め方には、若干の混乱が見受けられるので、ここで整理しておきたい。

 そもそも初詣でベビーカーを使用する行為は、労働者が有休休暇を取得するのが「権利」であるのと同じような意味で、「権利」なのだろうか?

 ある行為をすることが「権利」だというからには、それを妨げないように求めることができなければならないし、侵害された場合はその侵害に対して、原則として何らかの救済を求めることができなければならない。

 たとえば有給休暇や育児休業を取得したい場合は、雇用主(会社)に対してそれを認めるように請求することができる。
 それは、たとえ同僚に「迷惑」がかかるとしても、法的に保障・保護された「権利」なのである。
 理屈のうえでは、雇用主が有給休暇を与えない場合は、訴訟で認めさせることもできる。 (いちいちそこまでやるかどうかは別だが、休暇を認めるかどうかについて争いになった裁判例は、現実に存在する)
 その意味で、東の言っている「他人に迷惑がかかるとしても、権利は行使して良いのだ」という命題は、有休休暇については正しい。

 さて、神社や寺に初詣をする際にベビーカーを使用することは、この有給休暇と同じような意味で「権利」なのだろうか?権利だとしたら、寺院や寺に対して、それを妨げないように求めることは可能なのだろうか?

 会社に対して「権利として有給休暇を取得させるように」と請求するのと同じように、参拝客は寺院に対して「権利としてベビーカー同伴で初詣をさせるように」という請求をすることができるのだろうか。
 たとえば、有給休暇を与えない雇用主を労働者が訴えて請求することができるのと同じような意味で、ベビーカー使用を認めない寺院に対して、訴訟で、使用を認めるよう求めることができるのだろうか。

 さらにいえば、有給休暇の場合は、労働者にそれを取得する「権利」があるということは、雇用主がそれを付与する「義務」を負うということでもあるわけだが、ベビーカー使用の場合は、寺院はその使用を認める「義務」を負っているのだろうか。

 思うに、寺院の境内は寺院の所有地であって、大勢の参拝客が来る中でどのように管理を行うかは、寺院の判断に委ねられており、それこそ寺院の「権利」である。
 その中で、参拝客相互の「迷惑」をどこまで許容するかも、寺院は考慮に入れなければならない。
 参拝客はそのような寺院の管理権の中で参拝を認められているのであって、参拝にベビーカーを使用することが「権利」とまで言えるかどうかはまた別問題である。

 その意味で、「迷惑のことは考えなくても良い、権利だけ考えれば良い」という東の主張は、有休休暇や育児休業の場合には、一応は当たっているが、初詣のベビーカー使用の場合は当てはまらないのである。

(★ただし、このAERAの記事の中で、東は「迷惑」というコトバを、「他人の主観的な不快感」という程度の軽い意味でしか使っていないことに注意を要する。)

 もちろん最終的な結論として、ベビーカーの使用を認めないのが妥当かどうかは、また別問題であって、個々の状況に応じて判断するべきことである。

「ポスト真実」のかわりに「ニワカ真実」にしたらどうか?

 世間の多くのブロガーと同じように、私も、このブログへのアクセス状況を時々チェックしており、まああまり人が来ないのだろうなとは思っているが、最近、昨年12月に書いた「『ポスト真実』という言葉をわざわざ使う意味あるの?」というエントリのPV数が異様に上昇しており、非常に驚いている。

 特に世間に注目されることを書いたわけでもないので、心当たりがあるとすれば、googleなどで「ポスト真実」(post-truth)という単語が検索されることが多く、その中でたまたまこのブログのエントリも見つけて、ついでに立ち寄る人も増えたということかも知れない。

 既に書いたとおり、私の意見としては、政治で真実を軽視したりデマを流したり、怪しい情報に大衆が踊らされたりする現象は、昔からもともと存在していたことであり、特に目新しいわけではないので、この「ポスト真実」などという言葉をわざわざ使う必要はないのではないかということである。

 とはいうものの、インターネット、特にSNSの発達によって、デマや怪情報の拡散が従来に比べてはるかに簡単で大規模になったということは言えるだろう。

 その意味で、「従来よりもデマ等の発生・拡散がはるかに激しくなった」という点に着目して、何かしら新しい用語を使いたいというのであれば、それは確かに理解できないわけではない。

 しかし「ポスト真実」という用語では、そのニュアンスがうまく伝わるようには思えない。
(「ポスト」という接頭語を付けると、「ポストモダン」「ポスト構造主義」のように何か高級なイメージの漂う、ある種の研究者がいじくり回すための概念のような味わいがあるが、そういう閉鎖された世界だけの用語で終わってしまうのではつまらない。)

 そこで一案だが、「ポスト真実」のかわりに「ニワカ真実」という言い方にしてみたらどうだろうか。

 「ニワカ」は「ポスト」に対応する言葉ではないので、post-truthの忠実な訳語とはいえないが、“急に作り上げたニセモノ”というニュアンスはこれで伝わるのではないだろうか。

 (たとえばインターネット上の言い回しとして、何かの番組や連載漫画や芸能人について掲示板等で論じているところに、最近知ったばかりの人が参入してきて的外れなことを言うと、『おまえ、ニワカか?』などと侮蔑的に言われることがある。
  このように『ニワカ』とは『急に作り上げられたニセモノ』という意味合いがあるので、『ニワカ真実』といえば、『急にSNS等で作られてばらまかれた、真実ではない偽の情報』という雰囲気を出すことができると思う。)

 とはいっても、ここで私がこんなことを書いたところで「ニワカ真実」という言葉が新たに流行することはないだろうが・・・。

「ポスト真実」などという言葉を使ってて恥ずかしくないの?

 以前も「『ポスト真実』という言葉をわざわざ使う意味あるの?」というエントリを書いたが、再び「ポスト真実」という言葉に関して考えたことを少しばかり書いておきたい。

 津田大介が『週刊朝日』で、「2016年を象徴する言葉といえば「ポスト真実」だが、それを地で行く恐ろしい事件が発生した。」として、ピザ店襲撃事件(「ピザゲート事件」)について紹介している
 既に報道されているので知っている人も多いと思うが、昨年12月、ワシントンD.C.郊外のとあるピザ店で、「クリントンやその関係者が関与して、児童虐待や人身売買が行われている」というデマがネットで拡散し、それを真に受けた男がその店を襲撃して発砲し逮捕されたという事件である。

 これについて津田は
ピザゲート騒動」は、2016年、そして「ポスト真実」を象徴する出来事と言えよう。ディストピアを描いた出来の悪いSF小説のような「現実」を我々は生きている。」
 と結んでいるのだが、そもそもこの事件について「ポスト真実」という言葉を敢えて使う必要はあるのだろうか

 事件そのものは恐ろしいものだが(店を襲って発砲したのだから、恐ろしいに決まっている)、デマに踊らされて騒動を起こす人間などというのは昔からいくらでもいたのであり、それがネットで情報が拡散される時代になったために、昔よりも拡散の速度や程度が激しくなったに過ぎない。それは政治の世界でも同じことである。

 これに対して、「ポスト真実の時代の特徴は、嘘を真実だと信じることではなく、真実のことなどどうでも良くなることだ。」という論者もいる。
たとえばこの記事の渡辺敦子による解説参照

 しかし、津田が挙げているピザゲート事件の犯人は、クリントンやピザ店が児童虐待に関与しているという噂があくまでも「真実」なのだと信じて襲撃したのである。
 「クリントンやピザ店が本当に児童虐待に関与しているかどうかはどうでもいい。とにかくピザ店を襲撃しよう」と欲して行動したわけではない。

 このように考えると、主に政治の分野とはいえ、大衆世論がデマに踊らされたり、ろくに事実も確認せずに騒ぐ現象のことを、何か新しい出来事のように「ポスト真実」と呼ぶ必要などないといえるだろう。「デマゴギーを利用した政治」とか「政治家がいい加減なことを言って有権者を惑わす」などという現象も、いつの時代にもあることであって、最近になってネットやSNSが道具として加わったにすぎない。

 何か新しいテーマの記事や論文を書きたがっているメディアや研究者が、「ポスト真実」という言葉に飛びつくのは理解できるが、他の人はそれにつきあう必要など感じないだろう

 ちなみに雑誌『世界』1月号で、三島憲一(大阪大学名誉教授)は、『ポスト真理の政治』というエッセイを書いているが、この中で
 「『ポスト真理』や『ポスト事実』という表現は、日本でよく使われる『反知性主義』と同じに、またしても大学内部での『恵まれた人々』が、外の頑迷な人々を馬鹿にする優越願望と結びつきかねない。」
 と語っている。
 (ただし三島教授は「ポスト真理(真実)」等という言葉の有用性を、留保つきながら一応は認めている感じで、「ごまかし、大言壮語、言い逃れ、幻想、しゃぼん玉などを総括した表現と思えば便利な符牒である。」とも述べている。)

 「ポスト真実」という言葉が、メディアとか研究者の世界で流行するという現象は、むしろ、メディアや研究者の世界と、外の大衆の世界との断絶を象徴しているように思える。
 外の世界から断絶していたメディアや研究者は、英国のEU離脱やトランプ当選の時になって意表をつかれて、大慌てして騒いだのだが。

内閣総理大臣は「日本民族」の族長ではない件

 ここ数日で急にアクセス数というかPV数が激増したので驚いた。特別普段と変わったことをした覚えはないのだが、心当たりとしては、『ざわざわ森のがんこちゃん エピソード0』を取り上げたことくらいだろうか。

 さて今回も、例の朝日新聞の特集『我々はどこから来て、どこへ向かうのか』からまず話を始める。この特集の1月3日の記事は、「日本人って何だろう」と題するもので

 「様々なルーツを持つ日本人の活躍が、珍しくなくなった。「同質」を自分たちの特徴と考えてきた日本人。その自画像は、変わっていくのだろうか。」

という文章から始まるものだった。

 見てのとおり、この朝日の記事は「様々なルーツを持つ日本人」という言葉で始まっていて、外国から帰化した人物や外国人を親に持つ人物を取り上げているが、ここでいう「日本人」とは、いうまでもなく「日本国民」という意味である。

 一方NHKは、2016年4月に『サイエンスZERO』で、『日本人のルーツ発見!“核DNA解析”が解き明かす縄文人』という放送をしている。また、さらにさかのぼって2001年にも、『日本人 はるかな旅』という特集番組を放送しているが、ここでも「日本人のルーツ」という表現を使っている。
(私は後者の番組しか見ていないのだが、縄文人が遺伝的にシベリアのブリヤート人と近いといっていた。)

 こちらのNHKの番組でいう「日本人」という言葉は、朝日新聞の記事とは意味が違っている。
 まず「日本国民」という意味ではないことは明らかである。「日本国民」とは、法的に日本国籍を有する者という意味であって、その遺伝子がどこに由来するかとはまったく関係がない。「法的な日本国民のルーツはシベリアで…」などという記述をするのはおかしな話である。

 それでは「日本民族」という意味なのかといえば、それもしっくりこない。
 そもそも「民族」の概念自体がかなりあやふやであり、法律上の定めがあるわけでもないし、学問上も明確に定義されているわけでもない。最近は学問的な文脈では「民族」という概念を使用するのを避ける動きも有力となっていると聞く。
 それでもあえて「民族」という概念を考えてみると、一応は言語とか文化や伝統(これもかなり曖昧だが)の共通性がある集団を想定している言葉ではあるだろう。
 しかしこの意味での「日本民族」のルーツが遺伝子だかDNAの研究で明らかになったのかというと、それもおかしな話である。言語や伝統文化は、遺伝子やDNAによって伝わるものではないし、縄文時代の遺伝子の由来するどこかの地域の古代の人間が、日本の言語や伝統文化の祖になる要素を持っていたかどうかなどわからないのである。

 こう考えてみると、NHKは「日本人のルーツ」という表現を、かなりいい加減に使っていると言わざるを得ないのではないか。本来であれば、そのままずばり「縄文人のルーツ」と呼ぶか、または「日本列島住民のルーツ」とでもいうのが妥当だったと思う。

 なお現在でも「日本人の遺伝子には○○の性質があるが、韓国人の遺伝子にはそれがない」という類の主張をする人がときおり見受けられるが、均一な遺伝子を持つ人間の集団としての「日本人」「韓国人」というグループが存在するわけではない。「日本国民には○○の性質の遺伝子を持つ人が相当割合いるが…」という程度の言い方にとどめるべきだろう。

 日本国は、何かの均一な遺伝子を持つ人間の集団の国家ではないし、「日本民族」の国家として定められているわけでもない。日本国は「日本国民」の国家であって、それ以上でもそれ以下でもない

 どこかで聞いた表現を借りれば、内閣総理大臣は、「日本国民」の選挙で選ばれた国会議員の中から任命される行政府の長であって、「日本民族」の族長ではない

 (★付言すると、上記の朝日新聞の記事は、「移民に反対するのは単一民族の幻想を持つ人間だ」といわんばかりの論調である。しかしながら移民に賛成するか否かと、自国を単一民族と考えるかどうかとは、一応別の次元の問題であって、ここにも論理のすり替えがある。“単一民族”意識を持つ人の方が移民に反対する割合は高いのかも知れないが、その意識を持たない人が移民にすべて賛成しているというわけでもないだろう。)

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