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待機児童問題は、保育料の値上げで「解決」すれば良い?

本日の日経新聞の「経済教室」は、「待機児童解消できるか (上)」というタイトルである。
 経済学者の宇南山卓(一橋大学准教授)が、保育所の待機児童問題の“現実的”な解決策として「保育料引き上げ」を提唱している。

宇南山によれば、そもそも待機児童とは、保護者が希望しても保育所に入所できない児童のことであり、保育所への需要が供給を超過している状態のことである
 つまり需要過多といっても良いし、供給不足といっても良い。

 この解決策としては、まず保育所の供給を増やすことが考えられるが、費用がかかりすぎで限界があり、あまり現実的ではない。無理に増やそうとすれば、質の悪い保育所が乱造される危険もある。

 そこでこの筆者は、逆に需要を減らすことによって待機児童問題を解決する策を提唱する。どのように減らすかといえば、保育料を引き上げることである。

 経済学的にいえば、商品やサービスの価格が高ければ、それに対する需要は減少する。その考えをそのまま適用して、保育所を使うための保育料を引き上げていくべきというのである。
 保育料が高くなれば、それに応じて、保育所を利用しようという保護者は減っていく。
つまり、保育料が引き上げられて、保育所に入所を希望する保護者が減れば、待機児童問題は「解決」する、という主張である。

 (宇南山が言わんとしていることを、私なりに比喩を使って言うならば、あるラーメン屋に人気がありすぎて、客が殺到し、店に入りきらない客が路上にあふれている状態をイメージすれば良い。この状態を解決するにはラーメンの値上げをするべきだ、というのがこの筆者の主張である。ラーメンが高くなれば、そこに来る客は減って混雑は緩和され、みんな店に収容することができるから、ということだ。

  また別な比喩でいうと、有料指定席の通勤電車を思い浮かべてもいいだろう。京急のウィング号や小田急ロマンスカーなどは、指定席料金を払うことで、通勤ラッシュに悩まされず、ゆったり座って通勤することができる。この種の電車の指定席料金を払える人たちにとっては、通勤ラッシュは「解決」されている。

 宇南山自身が保育所をラーメン屋や有料指定席通勤電車に喩えているわけではないが、言っていることは、これとまったく同じ理屈だろう。)

 正確にいえば、保育所に子どもを入所させたい者が絶対的な意味で減るわけではなく、“高くなった保育料を払ってでも”保育所に入所させたい者が減るだけである。
 ただ、“高くなった”保育料を払えない保護者は、保育所に子どもを預けること自体を諦めるので、そもそもその子は待機児童にはカウントされなくなり、待機児童問題は「解決」することになる。

 そうなると、高い保育料を払える者しか子どもを保育所に預けることができなくなってしまうが、これについては、宇南山は望ましいことだと考えている。
「女性の活躍や人的資本の有効活用の観点からは、賃金水準が高く、就業継続の意欲が強い保護者を優先的に入所させるべきだ」というのである。
 つまり平たく言えば、カネをたっぷり稼いで高い保育料を払える親が優先的に保育所に子どもを入れられるのは、経済的効率の観点から望ましい、というのが宇南山の考え方である。

 (とはいえ、母子家庭などの社会福祉的側面にも配慮が必要であることを否定してはいない。その場合の対策としては、現金給付で対応するということを宇南山は提唱している。つまり経済的困難などで子どもを保育所に預けて働かなければならない人たちへの対策としては、保育所への優先入所ではなく、現金を直接給付して、保育料を払えるようにしてやれば良いということのようである。)

 もっとも、ここまで言い切ってしまうなら、保育所への公的支援など必要なく、すべて民間企業任せにして、純粋に市場競争の原理で保育料を決めれば良いことになってしまうのではないかと思うのだが、宇南山はそこまでは徹底せず、「もちろん保育に対する公的負担自体は合理的だ。保育所は、女性の就労支援、幼児教育、子育て負担軽減など多くの役割を果たしており、結果として少子化解消策や女性活用など私的便益を上回る社会的メリットを産み出すからだ。」と述べている。
 ただしそういう部分と、「経済効率からいえば、高く稼げる親が優先されるのが望ましい」と主張する部分とがどういうふうに矛盾なくつながっているのか、この記事だけではよくわからない。

 私としては、ここでは宇南山の主張を別に否定も肯定もするつもりはないが、「希望者全員が保育所に子どもを入れられるわけではない」という状況の中で、どのように保育所への入所枠を配分するかという問題への一つの答えではある。宇南山のような考えに賛同できない人も当然いるだろうし、そういう人は別な解決策を考えているのだろう。

「時間ではなく成果に応じた報酬」の働き方を望む人は、アニメーターとブラック不動産営業がおすすめです!

最近、アニメーターの過酷な労働条件がNHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられた。

以前のエントリの「アニメーターの過酷な労働現場は、働き方改革から見れば理想の職場?」でも書いたことの繰り返しになるが、重要なことなので、改めてここで紹介しておきたい。

「クローズアップ現代」によれば、

30分の作品には3,000枚以上の絵が必要だといいます。このスタジオではこうしたアニメのもととなる絵の制作を請け負っています。アニメーターに支払われるのは1枚当たりおよそ200円。一方で、年々、作品には繊細さが要求されるようになり、1枚にかかる作業時間は増えています。

作業の早いアニメーターでも1日20枚ほどが限界です。月収は10万円前後にとどまっています。”

ということであり、さらに

業界で働いている人の4割近くが最低賃金の保障もないフリーランス。正社員は僅か15%でした。”

とされている。

絵を1枚仕上げるごとに200円ということは、10枚なら2000円、100枚なら2万円ということであり、まさに完全に「成果」に応じた報酬である。

労働時間を何百時間かけようと、絵が仕上がらない限り1円も支払われない。支払われる報酬は、枚数に比例する。

これこそ、「時間ではなく成果に応じた報酬をもらう働き方」である。
また、85%は非正社員ということだから、「会社に縛られない、正社員であることにとらわれない働き方」ということでもある。

「労働時間ではなく成果に応じた報酬」を提唱し、「会社に縛られず、正社員にこだわらない働き方」を広げるよう主張する人々にとっては、このアニメーターの働き方こそは、まさに理想ということになる。

もちろん「成果に応じた報酬」が行われているのは、アニメーターに限らない。一般的な会社員の中にも、既にそういう例がある。

たとえば、不動産営業で、物件の売買をまとめない限りは賃金が支払われないという会社の話を稀に聞くことがある。売買の成果が出ない限りは何時間働いても賃金が一切支払われないのであれば、実際はもちろん労働基準法違反なので、ブラック企業と呼ばれても仕方ないのだが、それは別として、まさしく「成果(不動産売買)に応じた報酬」なのだから、これまた働き方改革の理想に合った会社ということになるはずである

逆に、売買の成果に関係なく一定の賃金を支払い、残業すれば法定の割増賃金を支給する不動産会社があるとすれば、労働基準法をしっかり守っているホワイト企業ということになるが、働き方改革の精神からいえば、成果ではなく時間で報酬を支払っているのだから、古い考え方の会社であり、批判されるべきということになる。(そうですよね?城繁幸さん)

仕上げた絵の枚数に応じて報酬が支払われるアニメーターと、売買の成約実績だけに応じて賃金が支払われるブラック不動産会社の営業マンは、「労働時間ではなく、成果に応じた報酬」を提唱する人々にふさわしい職場というわけである

政権交代しようにも「安倍以外」の選択肢がないことについて(東浩紀のエッセイから)

東浩紀がAERAのエッセイ

 “安倍首相は戦後まれに見る長期政権を維持している。なにが成果かと言われればピンと来ないし、問題も多い。それでも支持率が高いのは、政権交代可能な現実的野党はなく、自民党内にポスト安倍の候補もいないからだ。・・・しかしこの状況はデモやワイドショーでは変えられない。「安倍以外」の選択肢が出ないことには絶対に変わらないのだ。”

と述べている。

 さて、安倍内閣の支持率が高いのは、「他に適任そうな人がいないから」だけだろうか。
 本当に「他にいない」とだけ考えているなら、普通は、支持でも不支持でもない中間的な反応をするのではないか。

 私の見るところでは、安倍内閣への支持率の高さは、「他にいないから」というのも間違ってはいないのだが、あと一歩踏み込む必要がある。現状は経済面を中心にそこそこうまくいっており、おそらく国民には「変な奴に現状を壊されたくないから」という思いがあるのだ。
 民主党政権の経験もあるだろうが、訳のわからん政策素人みたいな連中に政権をとられてかき乱されてはたまらない、と考える人が多いのではないか。

 そもそも民進党は、民主党時代から、どこか幼稚で素人臭い印象がぬぐえない。
 民進党などの安倍政権に対する批判の仕方が稚拙であればあるほど、安倍政権が相対的に「まとも」に見えてくるのである。「民進党がダメだから安倍内閣で仕方ない」というより、「民進党がダメだから、相対的に、安倍内閣が良く見えてしまう」といった方が良いだろう。

 いわゆる「市民連合」だの「野党連合」だのの構想は、「安倍以外の選択肢」にはなりえない。
 これらの「市民連合」「野党連合」は、「安保法制」「共謀罪」などの論点である程度一致しているだけであって、具体的な政策ですりあわせができているわけではない。

 そもそも「市民連合」「野党連合」を提唱する人々は、安倍政権との対決を基本的に「善と悪」の戦いと考えていて、悪を倒して善が置き換わるという発想である。
 しかし大半の人々は、別に「安倍内閣が悪だから、善なる者に交代してもらいたい」と考えているわけではなく、安倍内閣とは大きく変わらない路線で、ただ個々に変えた方が良い点もあるだろうから、誰か良い人がいれば変わってもらいたいと考えているだけなのである

 政権交代を「善が悪を倒すための戦い」と考えるか、「同じ土俵の中で多少違う人に変わってもらうための戦い」と考えるかは、全然違うのである。

 それでは、仮に野党の立場だったら、どうすれば良いのだろうか。私だったら、次の選挙では、恥を忍んで、こういうスローガンを出す。

「安倍政権でもいいかも知れない。
 自民党政権、いいでしょう。
 でも、強すぎるのは良くないと思いませんか?
 自民の議席を減らして、安倍政権に大人しくなってもらいましょう。」

 いわゆる市民運動をやっている層からみればまったく盛り上がらないかも知れないが、大都市の浮動層や、あまり強固でない安倍内閣支持層には、かなりアピールできるのではないか。

 そして選挙で自民の票が減れば、自民党内での政局の動きにより、反安倍の動きが強まり、政権交代の可能性が高まるだろう。

 今、野党にできることは、自分が政権を取ることではなく、自民党内での政権交代の触媒のような役割を果たすことくらいである。

石川健治の「自衛隊明記」論批判と大屋雄裕のつぶやき

何となく、ネットでいろいろな人のツィッターやらブログやらあちこちを見ていたら・・

 先日のエントリでちょっと名前を出した大屋雄裕(慶応大教授・法哲学)のツィッター(5月21日)で、

 “まあ職務に相応する正統性を付与しないというような刑吏に対する差別というのは洋の東西を通じて存在し、石出帯刀に御目見は許されないし山田浅右衛門は浪人だったわけですが、我が国の場合にそれがどういう問題に繋がっているかということも考えずにああいうことを書かれるわけですか。”

という一言があった。

 はて、これは何のことを言っているのだろう。「♯何かを見た」というタグも付いているが、これを付けた人たちのつぶやきにも統一性があるわけではない。「正統性を付与」とは、何についての「正統性」の話なのだろう。やけに気になってしまうではないか。

 大屋教授が何のことを言っていたのかはわからないが、ここでふと思い出したのが、石川健治(東大教授・憲法学)の発言である。

 5月21日の中日新聞で、石川健治は、憲法を改正して自衛隊に「正統性」を付与することを危惧し批判していた。例の安倍首相の「憲法学者の中では自衛隊違憲論が有力だ」「憲法9条に3項を新設して、自衛隊を明記すべきだ」という見解を批判するインタビュー記事である。

 この記事での石川教授の主張の要点は次のとおりである。

①憲法9条は、軍隊を組織する権限を否定し、自衛隊に権限行使の正統性を奪っている。
②この9条のおかげで、自衛隊の憲法上の根拠は弱く、その正統性には弱点があり、自衛隊も「身を慎む」組織として統制されてきた。
③9条に3項を新設して自衛隊を明記してしまうと、正統性を付与されるから、自衛隊はあぐらを書いてしまい、憲法上は軍事力に対するコントロールがなくなってしまう。

この主張にとびつく人も結構いるようだが、ちょっとよく読んでみると、論理的におかしなことに気づかないだろうか?

①は、まさにいわゆる自衛隊違憲説であり、一つの有力な解釈である。これはこれでわかる。
それでは、②はどうだろうか。自衛隊違憲説の立場からは何も問題ないように思えるが、そうではない。

①は、 「自衛隊は憲法上は否定される」「自衛隊に正統性はない」ということである。
つまり、「自衛隊の憲法上の根拠は弱く、正統性に弱点がある」(②)のではなく、①の理屈でいうなら、「自衛隊の憲法上の根拠はなく、正統性はない」というべきである。

自衛隊という組織に根拠も正統性もないというのなら(それが石川の主張の①の部分)、そんな組織にコントロールもへったくれもないはずであって、政府は自衛隊を廃止するしかないはずである。

記事で見る限り、石川教授の主張は、①と②の間に論理の飛躍がある。もともとは「自衛隊には憲法上の根拠・正統性はない」(①)という話だったのに、それが「自衛隊には憲法上の根拠・正統性が弱い(=だから統制できている)」(②)という話にすり替わっているのだ。

正統性がない」というのと「正統性が弱い」というのは、大違いであって、つなげることはできない。

なお③の部分についても触れておくると、石川教授の「正統性を与えると、自衛隊は暴走してしまう。適切に権力組織を統制するためには、憲法上の正統性を与えないことだ」というロジックをおしすすめるならば、警察の権力乱用や暴走を防ぐためには、警察も憲法違反にして、正統性のない組織にすれば良いということになるのだろうか。

さて、どうしても上記の主張の論理矛盾を解消して、結論部分だけを生かしたいのであれば、②③の部分はそのままで、①の部分だけ、こんなふうに若干言い回しを変えれば良い。

①憲法9条は、軍隊を組織する権限を否定している可能性が高く、自衛隊の権限行使の正統性には疑いがある。ただしあくまでも「疑い」なので、自衛隊が憲法違反でない可能性も無いではない。私には明確な結論は出せない(or「明確な結論は出したくない」)。

(なお別な逃げ道として、「自衛隊は憲法9条違反だ(と思う)が、最高裁が違憲判決を下さない限り、当面は自衛隊が存続するのはやむをえない。しかし正統性に疑問があるから・・・」という切り口もある。)

どうでしょうか?石川先生。

★私自身としては、以前も書いたが、憲法の後ろの方に経過規定として「附則」のようなものを設けて、「当面の間、最低限の防衛力として自衛隊を保有することを妨げない」という形にするのが良いのではないかと考えている。

フランス大統領選についての2つの対照的な考察(東浩紀と大野舞)

今般のフランスの大統領選挙の結果については、いろいろな考察が発表されているが、『AERA』の東浩紀の巻頭エッセイと、BLOGOSに掲載された大野舞(パリ在住の人)のブログ記事が、好対照をなしていて印象に残ったので、ここでご紹介する。

 まず東浩紀は、現代世界の主要な政治的対立軸は、もはや右と左ではなく、グローバリズムへの賛否なのだという。

 “ルペンは右と言われるが、弱者にやさしい(ように見える)。マクロンは左派に近いと言われるが、実態は金融エリートだ。決選投票では、左右のイデオロギーではなく、グローバリズムへの賛否こそが問われたのである。
  この構図は米大統領選と酷似している。トランプは右だが弱者の支持を集めたし、クリントンはリベラルだが金融街と結びついていた。・・・ナショナリズムとグローバリズムが主要な対立軸を構成し、そこに古い左派の理想が名目的な第三勢力として関わるというこの構図は、おそらくは今後、先進国共通のものになっていくのではないか
。”

 ここでいう「右」「左」の意味は必ずしも定かではないが、それはさておき、東はさらに日本の状況に目を向けて、

 “日本の問題はじつは、右傾化や保守化にではなく、まさに上記の構図自体を作れていないことにあることがわかる。安倍政権は経済的にはグローバリズム寄りだが、イデオロギーは守旧的で排外主義的である。他方で野党はみなグローバリズム批判であり、マクロンに相当する勢力は存在しない。・・・日本にいま必要なのは真のブルジョア政党かもしれない。”

ともいう。

 (安倍政権が経済的にグローバリズム寄りだというのは良いとして、イデオロギー的に「守旧的」「排外主義的」と言えるのだろうか。たとえば外国人材の受入を進めている安倍内閣は「排外主義イデオロギー」に動かされているなのだろうか。
 もちろん安倍首相の個人的信念や傾向については、日本会議との関係とか、その価値観について、「右寄り」「復古的」などと言えるのだろうが、東は、この安倍晋三という一個人の傾向・信念と、安倍内閣全体のイデオロギーとを混同しているといえよう。内閣は、様々な利害調整の中で動いているのであって、首相一人の信念のままに動いているわけではないし、内閣として統一された「イデオロギー」を持っているわけではない。)

 一方の大野舞の記事は、マクロンとルペンの対立の中で、その対立軸そのものが排除してしまっている視点を拾い上げている。決選投票で棄権者が多く出たということは、「グローバリズム(ネオリベ)か排外主義か」の二者択一しかないことへの反発、嫌悪を感じる層が根強く存在しているということである

 そして大野は、マクロンを強く支持する動きは、極右でも極左でもなく「極中」(Extrême Centre)というべきだという論評も紹介する。現在の主流のグローバル資本主義の経済システムを強く推進し、平均的な「中道」こそが正義であるとして、そこから外れた者に対して極めて不寛容なのが「極中」だというのである。
 つまりアイロニカルな表現ではあるが、極左・極右を排除して、自分たちこそが主流だとする「極中」という立場が存在するわけである。

 さらに、このようなグローバルな資本主義を推進し、その恩恵を享受している層(大野が引用する論者の表現を借りれば「社会の中級かそれ以上の階級に属し、生活に何不自由ない人々で、海外に留学したり仕事で飛び回るなどしている人たち」である)は、正義の味方づらをして、極右のルペンとの対決を呼びかけていたけれども、むしろそのような層こそが、社会の格差を広げて、排除された人々を産み出して、ルペンや国民戦線を支持するように追い込んで言ったのだという。

 前述の東の「グローバリズム対反グローバリズムの図式を作るべきだ」という主張と比べてみると、大野が(いろいろな論者を紹介する形で)述べているのは、そのような図式から排除されてしまう問題があるということ、そしてグローバリズムこそが、恩恵を受けられない人々を産み出して、反グローバリズムや極右排外主義を育てたのだということである。

 「マクロン対ルペン」のような図式を、これからのあるべき対立軸の典型のようにとらえる東と、その対立軸そのものに異議を提示する見解を紹介する大野を対比してみると、その違いは非常に興味深い。

(なお東は、日本でも、フランスや米国のような「グローバリズム対反グローバリズム」の「構図」を作るべきだと主張し、「真のブルジョワ政党」が必要だというのだが、そのような構図が日本でなかなか成り立たないとすれば、それなりの理由があるはずである。
ここではあまり深く考察する余裕はないが、たとえばまず、日本は、外国人の労働力をだいぶ受け入れるようになっているとはいえ、フランスや米国のような移民・難民の受入規模には到底及ばないということが挙げられるだろう。EUの中心であるフランス、移民国家でメキシコと国境を接しているある米国とはまったく立場が違うのである。
 さらに自民党という政党は、グローバリズム寄りの施策をいろいろ推進しているとはいえ、伝統的に大都市圏以外の支持基盤も強く、そのグローバリズム志向を徹底することはできないということもあるだろう。
 もっといえば、東のいう「真のブルジョワ政党」、つまりグローバル資本主義を推進する党が出来たとして、それを支持する層=グローバル化の徹底で恩恵を受ける層がどれくらいいるかという問題でもある。)

政府が検討しているのは、仕事の「成果」に給料を払う制度ではない!

以前何度か書いたこととも重複するが、けさの日経新聞を見て、一言。

日経新聞の記事によれば、

政府・与党は労働時間ではなく仕事の成果に給料を支払う「脱時間給制度」を盛り込んだ労働基準法改正案の今国会成立を見送る方針を固めた。
 7月の東京都議選を控え、与野党の対決が見込まれる同法案の審議は得策ではないと判断した。
 秋に予定する臨時国会で、残業時間の上限規制などを含む「働き方改革関連法案」と一体で審議し、成立をめざす戦略だ
。”

とされている。

この書き方だと、「これからは仕事の成果を評価してもらえる賃金制度になる!」というふうに錯覚する読者がいるのかも知れない。(だが、現在は、仕事の成果を評価できない賃金制度なのか?そうではないだろう。)

しかし政府・与党が検討している労働基準法改正案のキーポイントは、年収1075万円以上の専門職について、1日8時間・週40時間労働という原則や、時間外割増賃金等の支払義務を免除するというものである。

要は、ただ単に、労働時間の規制や、時間外割増賃金(残業代)の支払義務をなくすというだけであって、労働時間に関係なく、固定額の賃金が支払われる制度にすぎない。

くれぐれも誤解しないようにしなければならない。

労働基準法改正で目指そうとしているのは、「労働時間ではなく仕事の“成果”に給料を払う制度」ではなく、「労働時間に関係なく固定額の給料が払われる制度」である。その固定額の給料が「成果」にふさわしいものなのかどうかは、労働基準法の知ったことではない。個々に会社と労働者が判断するべきことである。

なお、本当の意味で「労働時間ではなく仕事の成果に給料を払う制度」としては、出来高払いのアニメーターや、売上に応じた賃金のタクシー運転手などが適切な例であるということも、このブログで、以前に述べたところである。

安倍昭恵は「右」なの?「左」なの?(プチ鹿島のコラムを読んで)

 文春オンラインに、プチ鹿島の「森友学園の『昭恵夫人』とは一体何者だったのか? ~スポニチ『アッキー 人ごとボヤッキー』が示すもの~」というコラムが掲載されている。

 首相夫人の安倍昭恵は、かねてから「家庭内野党」「旦那と違ってリベラルな人」などと言われていた。しかし今回の森友学園問題で、“極右”の塚本幼稚園を賛美するなどしていたことが取り上げられ、改めて立ち位置が議論されているわけだが、プチ鹿島は、「昭恵夫人が家庭内野党だというのは幻想だ」と断じて、次のように述べている。

“昭恵夫人は「籠池先生の教育に対する熱き想いに感銘を受け、このたび名誉校長に就任させていただきました。」とか「瑞穂の國記念小學院は、優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ、芯の通った子どもを育てます。」と、森友学園のHPでメッセージを寄せていた(現在は削除)。

 ここまで強烈に支持しているのだから、それはもう脇が甘いのではなく心からの賛同であり協力だ。思想は自由だからよいのだけど、今回私が痛感したのは次のことだ。

  今までメディアは昭恵夫人を「家庭内野党」だとか「リベラル」などと呼び、少なからぬ人々がそう思ってきた。

 でも、今回の森友学園の件で、それは幻想っぽいことがわかったのではないか。昭恵夫人のなんとなくのイメージだけが先行していたのだ。

 安倍首相は「印象操作しないで」とよく批判するが、ご自分の奥さんが結果的に最も印象操作に成功していたとも言える。”

 つまりプチ鹿島が言いたいことは、「安倍昭恵夫人は、安倍晋三と同じく“極右”だ。その理由は、森友学園の教育を賛美する言動をしていたからだ。」ということだろう。

 これは安倍昭恵の実際の言動から安倍昭恵の思想を判断しているわけで、一応筋が通っているように見える。

 しかしよくよく考えてみると、このプチ鹿島の論法は、おかしくないだろうか?

 今回の騒動の前に、安倍昭恵が「家庭内野党」「リベラル」と呼ばれていたのも、やはり安倍昭恵の言動が理由になっていたはずである。第三者が根拠もなく勝手に妄想で「安倍首相夫人はリベラル」だと思い込んでいたわけではない。

 もう少し具体的に言おう。

 たとえば、左寄りのメディアである「リテラ」の2015年4月7日付記事「衝撃! 安倍昭恵が夫とは真逆の学者・姜尚中と仲良く…原発や日韓問題でも意気投合」で、安倍昭恵が姜尚中と対談していたことを取り上げている。そこで安倍昭恵は、脱原発について触れたり、「日韓中は兄弟のようなものだ」と述べたりしている。

 また同じ「リテラ」の2016年の別な記事によると、安倍昭恵は青木理のインタビューに応じ、「戦争をするときには、私を殺せ」と夫に向かって言ったと語っているという。

 安倍昭恵が「リベラル」扱いされてきたのは、まさしく安倍昭恵自身の言動が根拠だったのである。
 森友学園を賛美したのも、脱原発や日中韓の友好や戦争反対を主張したのも、いずれも安倍昭恵本人の言動であることに変わりはない。

 それでは、どちらの言動を基準にして判断すれば良いのだろうか。安倍昭恵は“極右”なのか、それとも“リベラル”なのか?

 結論をいえば、身も蓋もない話だが、それは、安倍昭恵を取り上げる論者の都合によって決まるのである。 

 安倍昭恵が右か左かを議論する論者は、どっちにしても、安倍晋三を批判するネタとして取り上げるにすぎない。
 つまり、どちらの方が安倍政権を批判するうえで都合が良いかで、安倍昭恵が右か左かが決まるのだ。

 安倍昭恵が「左」であるほうが、安倍政権を攻撃するのに都合が良い場合は、安倍昭恵は「左」である。「昭恵夫人は脱原発や戦争反対を主張しているのに、夫の安倍首相は、なぜ原発を推進し、安保法制を強引に制定するのか」というふうに主張するのだ。

 逆に安倍昭恵が「右」であるほうが、安倍政権を攻撃するのに都合が良い場合は、安倍昭恵は「右」になる。「昭恵夫人は、異常な“極右”の森友学園を賛美して、そんな連中が作ろうとする小学校の名誉校長に就任した。夫婦揃って異常な極右だ、けしからん」というふうな議論になるのである。

小池百合子を推して安倍政権にダメージを与えたいというのが朝日新聞の思惑?

豊洲移転問題が迷走しているにもかかわらず、マスコミの多くは、依然として小池知事に対して比較的好意的なスタンスを取り続けているように見える。

 ところで本日の朝日新聞(ニッポンの宿題)というオピニオン記事(一定のテーマについて、2名の論者のインタビューを掲載するシリーズ)で、「『安全』と『安心』」と題した記事を掲載していた。インタビューに答えたのは、岸本充生(東京大学大学院特任教授)と吉田省子(北海道大学大学院客員准教授)である。
 インタビューの内容は、豊洲問題についてはわずかに名称を持ち出しただけでほとんど触れておらず、あとは概ね当たり障りのないものだった。
 
 ただ「安全と安心」という二分論的な図式をこの時期にわざわざ取り上げて議論のテーマとすること自体、ある意味では小池百合子に対する援護射撃的な効果を持つものだと言えるのではないだろうか。
 小池知事は「安全」と「安心」を分けて考えるべきだという論法を取っており、豊洲市場について「法令上の安全性は確保されているとしながらも、消費者の信頼が得られていないとして安心だとは言えない」と述べ、専門家による検証などを踏まえて総合的に判断するという説明をしているからである。

 豊洲移転問題そのものについてはここでは深入りしないが、なぜここまでマスコミは小池百合子を持ち上げるのだろうか。特に政治的傾向が明らかに異なる朝日新聞が小池百合子をなぜ否定的に扱わないのか。
 他のメディアはともかく朝日新聞の場合、ただ単に小池百合子の“劇場型”政治が面白くて記事や番組が盛り上がるとか、そういうだけの理由ではないだろう。

 これは、7月に予定されている都議会選挙で小池知事派が躍進して自民党が議席を減らせば、安倍政権に対するダメージというかブレーキになるだろう・・・という思惑があるからではないか。「都議会選挙までは小池百合子のイメージダウンを避けるようにしよう」「小池派が伸びれば、安倍政権が困るだろう」などという傾向というか空気が朝日新聞社内にあるのではないだろうか。

 さらに付け加えると、小池百合子はメディアを取り込むのがうまい。といっても、安倍首相のように、メディア各社の幹部が呼んで赤坂で会食するなどというやり方ではなく、メディアの現場レベルが喜びそうな「絵」「図」を作ってやって、自分の味方につけるのが巧みなのである。

 橋下徹はメディアに噛みつき喧嘩したが(それ自体がメディアのネタにもなるのだが)、小池百合子はメディアには噛みつかず、味方にしてしまうわけだ。

就職活動で話を“盛る”学生(AERAの記事から)

 AERAに、就職活動で話を平気で「盛る」学生の言い分 キツネとタヌキの化かし合い…?という記事があった。
 就職活動で、自分をよく見せるためにウソをつく学生がよくいるという記事で、このウソというのは3種類に分けることができるという。

 
 一つは、順位や売り上げなどの数字をよりよく言ったり「リーダーだった」などと役職を偽ったりする「実績盛り」。
 私が会社員だった頃も、サークル活動や同好会のリーダーを自称する例の話はよくあった。最近は「海外でボランティア活動をしていた」など自称する例が増えてきているそうである。あまりにも同じパターンのウソが繰り返されるので、もう見え見えになってきているのだろう。


 二つ目は、ウケそうなキャラクターを演じるパターン。要は、いかにも採用されそうな性格の人間に見せかけるということだが(結構むずかしいと思うのだが)、これは採用されてもいずれボロが出て自分を苦しめることになるだろう。


 三つ目は、他社の選考状況についての嘘。たとえばトヨタの採用面接を受ける時に、「日産やホンダの二次面接に進んでいます」などというパターンである。これは普通は確認しようがないので、ウソはつき放題のように思えるが、もともと採用選考である程度は上の段階に進ませてもらえそうな学生でなければ意味はなさそうである。


 このようにウソをつく学生の側にも「企業だってウソを付いたり話を盛っているではないか」という言い分があり、これは一理ある。私の就職活動時代も、社員の誰もが国際的舞台で活躍できるかのような印象を与えたり、一部の華やかな部署だけを紹介したりするような企業の新卒採用向けパンフレットは当然のように存在していた。今でもWebサイトで同じようなことをやっているのだろう。


 そう考えると学生も企業も「お互い様」ということになるが、いくらなんでも在籍・卒業した大学を偽ったとか、持ってもいない公的資格があるように装ったとかいうことになると、採用された後に経歴等の詐称を理由として解雇される恐れがあるので、そこは限界というものがある。

 このような不毛なことが起こるのも、大手企業を中心に、大学4年生(または3年生)を大量に面接・試験して短期間のうちに内定を出すという日本独特の新卒採用のあり方がその根底にあるわけである。学生達は、短い期間で少しでも良い印象を持ってもらうために、表面的に取り繕ったりウソをついたりして、必死で内定を取ろうとする。

 本当なら、1週間か2週間、場合によってはそれ以上の間、インターンシップのような形で職場で何かをやらせてみて適性を見て絞り込んでいく方が、企業にとっても本人にとっても望ましいと思うのだが、大学在学中にこれをやらせると“学業に専念できなくなる”という問題があり、かといって大学卒業後にこのようなインターンシップを行う場合は、その企業に採用されなかった者は学生身分のなくなった無職の状態で不安定に職探しを続けねばならないことになる。なかなか難しい問題である。

「ポスト真実」と「オルタナティヴファクト」と「フェイクニュース」のどれを使う?

 既に以下の各記事でも書いてきたが、このブログでは、メディアや研究者が「ポスト真実」という用語を使うことについては、どちらかといえば否定的な目で見ている。

「ポスト真実」という言葉をわざわざ使う意味あるの?

「ポスト真実」などという言葉を使ってて恥ずかしくないの?

「ポスト真実」のかわりに「ニワカ真実」にしたらどうか?

この考えは今でも変わらない。

 そもそも政治家が事実と異なることを意図的にしゃべりまくるようなケースについては、ただ単に「嘘」「デマ」と呼べば良いだけである。「ポスト真実」などという言葉を使うと、あまりネガティブなニュアンスが感じられない。それどころか、「嘘」や「デマ」とは別に、もっと何か高級な「ポスト真実」というものが存在するようなイメージすら出てしまう。

 ここで一例として、研究者の日比嘉高(名古屋大学准教授)は、昨年11月10日の時点のブログ記事では、「ポスト真実」(ポスト事実)という概念を積極的に持ち出し、「ポスト事実の時代」「ポスト事実の政治」などという表現を使っていたのだが、最近の政治状況について論じた2月12日の記事では、「ポスト真実」という言葉はおさらい的に少し触れるだけで、全体的にみるとほとんど「嘘」という言葉を中心に使っている。
 これも、「ポスト真実」などというと「嘘」よりは良いものであるかのように感じられてしまうのを避けようと考えたからかも知れない。

 これとは別に「オルタナティヴファクト」という概念も一部で使われるようになった。
 これは「もう一つの事実」「異なった事実」という感じだが、「本来の事実とは違う、でっち上げた事実」というニュアンスで使うこともでき、何だかよくわからない「ポスト真実」よりはマシだと思う。
 (手前味噌だが、以前私がこのブログで書いた「ニワカ真実」という言葉に近いような気がしないでもない。さらにいえば「エセ真実」というのが適切だろうか。)ただ「オルタナティヴファクト」は長ったらしいので、語呂が悪く、あまり定着しないと思う。

 一方、「フェイクニュース」という言葉も最近広がっているが、これは「嘘ニュース」「偽ニュース」ということで、意味が明確で語呂も良いので、それなりに日本で定着しそうな気がする。
 この言葉は、たとえばトランプのような人が報道機関に対して攻撃の意味で投げつけることもあるが、逆に、報道機関がネットや政治家の流す嘘に対してこの言葉を使って非難することもできる。

 「ポスト真実」は、カバーする範囲は広く、時代精神とか風潮のようなものにもかかわる概念だが、「フェイクニュース」はもっと狭い。
 ただいずれにしても、一部の研究者やジャーナリストの自己満足や飯の種でしかないような「ポスト真実」という曖昧な言葉よりは、「フェイクニュース」の方が100倍マシで、なかなか使い勝手が良い言葉であり、かなり定着するのではないかと思う。

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