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法学・法律

「解雇規制で正社員の既得権が守られている」というのは、半分はウソですよ

 しつこいようだが、「『解雇規制』って、本当に存在するの?」から始まる一連の「解雇規制」論批判シリーズの続きである。

 「解雇規制は、正社員の既得権を保護しているだけだ。現在雇用されている者を保護してはいるが、現在失業している者のチャンスを奪っている。
という主張もよくなされることがある。たとえば、経済学者の大竹文雄教授のような論者が挙げられる。

 この主張は、半分は正しく、半分は間違っていると思う。ここでも一応はまだまだ終身雇用・長期雇用が維持されている大企業を前提として考えてみよう。

 かなり単純化して考えた場合の話であるが、たとえばある会社で現在雇用されている1人の正社員が、定年まで 解雇されることなく勤続が保証されているとすれば、そのせいで、失業している別の誰かがその会社に就職できないでいる…と言えなくはない。

 その意味では、確かに「現在雇用されている者が保護されていることは、失業者のチャンスを奪っていることになる」という主張は一理ある。

 しかしこれは、解雇規制のせいでそうなっているのではなく、もともと企業が、原則として定年まで解雇しない(暗黙の)契約(終身雇用、長期雇用)を締結しているからにすぎない。

 企業は、解雇規制があるために嫌々ながら「定年まで解雇しない契約」を締結しているのではなく、自分からそのような契約を選んでいるのではないか。

 上に挙げた解雇規制緩和論者である大竹文雄教授自身も、『労働経済学入門』(日経文庫)の中で次のように述べている。(*注)
 「終身雇用という言葉は、誤解を与えやすいものです。文字どおり死ぬまでの雇用を保証するような雇用契約ではないことは、明らかです。定年までできる限り長期間雇用を保証しようという暗黙の契約というのが、より正しい解釈でしょう。」(同書98頁)

 このように、原則として定年まで解雇しない契約なのだとすれば、原則として定年まで解雇できないのは当然の帰結である。解雇しようとして裁判になっても、裁判所は、その原則を覆すだけの根拠がなければ解雇を認めないだろう。大竹教授のいうように「できるだけ長期間雇用を保証する契約」なら、まず会社としては解雇を避けるために「できるだけ」の努力をしなければならないことになる。それをしないで解雇するならば、労働契約法16条で定めるように、合理性・相当性を欠き、解雇権の濫用として無効ということになる。

 これは、わざわざ「解雇規制」と呼ぶほどのことだろうか?

 たとえば「家賃を払う限り60歳まで貸家に居住できる賃貸借契約」を締結したら、貸主が途中で勝手に解約して借主を追い出すことなどできるわけがない。(借地借家法のことはここでは度外視する。)その間、他の人間は貸家を借りることはできないが、それは当然のことである。
 これらは「規制」のせいでそうなっているのではなく、もともとそういう契約を貸主が選択したからである。もちろん家賃の支払いを怠ったり、家を荒らしたりすればまた話は別である。

 この「60歳まで貸家に居住できる権利」は、「既得権」なのだろうか。
 そう呼ぶのは勝手だが、それをいうなら、契約上の権利はすべて「既得権」ということになる

 たとえばある建物について5年間の賃貸借契約を結べば、5年間は他の人間は入居できない。それを「5年間の既得権」と呼ぶ意味があるのだろうか。
 ある知的財産について10年間の独占的ライセンス契約を締結すれば、10年間は他の者はそれを利用できない。それを「10年間も既得権が保証される。けしからん」という人がいるだろうか。

 おわかりだろうか。

 「解雇規制で、正社員は長期間の雇用が保護されている」のではない。もともと正社員とは、長期間の雇用契約なのだ。
 解雇規制があろうとなかろうと、契約が保護されるのは当然の結果なのである。

  (実をいうと、ここでは法律論としてはちょっと乱暴で突っ走った議論をしている。最高裁判例では、「終身雇用の暗黙の契約を締結した」ということを正面から認めるのではなく、「終身雇用の期待の下に期間の定めのない労働契約を締結している」という、より慎重で間接的な表現を使っている。法律上の概念としての「期間の定めのない労働契約」とは、「終身雇用」とイコールというわけではない。最高裁は、そこに「終身雇用の期待」という微妙な表現をプラスしているのだ。
 これに対して、むしろ経営学者や経済学者の方が、法学者や法曹よりもストレートな形で、「終身雇用(長期雇用)の暗黙の契約」が締結されているということを正面から堂々と強調してきた観があるのだが、今となっては感慨深いものがある。)

  なお念のため断っておくと、私は、何がなんでも正社員を解雇してはならないとか、解雇しやすい世の中になってはならない、とまで言い張るつもりはない。「解雇しにくいのは解雇規制のせいだ」「解雇規制で既得権が守られている」という類いの不正確な主張を批判しているだけである。

  「とにかく正社員の保護を縮小させた方が、失業者や非正社員にも新たな雇用のチャンスを与えることになるから、格差の是正につながる」という議論は、賛否はともかくとして一応検討に値するとは思うが、これは解雇規制というより、企業自身がどのような労働契約を締結して働かせるかという観点で考えるべきである。解雇しにくい労働契約ならば裁判で解雇は認められにくい。解雇しやすい労働契約ならば解雇は認められやすい。当たり前の話ではないか。

 それでは、解雇しやすくするためにどうすれば良いか。ここでも乱暴で大雑把な言い方をしてしまえば、企業が、定年までの雇用を保証しないことを明確にした契約を締結すれば良いのである。(これは必ずしも半年や1年の短期の契約という意味ではない。)

 まず企業が、新卒採用向けの説明会で、学生に向かって「定年までの雇用を保証するものではありません」「働きが悪ければ解雇されることがあります」「働きが良くても事業の都合により整理解雇される場合があります」ということを説明し、納得してもらい、定年まで保証するものではないことがはっきりわかるような労働契約を締結するようにするべきである。

 (もっとも、ここまではっきりした方針を示すような企業であれば、新卒の大量採用をするかどうかは怪しい。中途採用でかなり用が足りるからである。さらに「定年までの雇用を保証するものではない」ということなら、そもそも「定年」さえ必要なくなるだろう。定年とは、継続的な雇用が保証される最終的な年齢の限度のことだからである。)

 このようにしたとしても、たとえば企業が「働きが悪い」従業員を解雇した場合に、「本当に働きが悪かったのかどうか」が裁判で争いになる可能性はある。しかしそれは「解雇規制」の問題ではないだろう。

 また、解雇しやすい企業になることができたとしても、それは現在の日本企業の持つ様々な「強み」とされている要素も失うことを意味すると思うが、それはまた改めて検討したい。

(*注)この大竹文雄教授の『労働経済学入門』は、1998年4月に刊行されているが、興味深いことに、「解雇規制」という用語はこの著書の中で一度も使われていない。そのかわりに、「解雇不自由の法的状態」という言い方をしている。少なくとも「解雇規制」よりはよほどマシな用語法である。と同時に、「解雇規制」という用語が(30日前の解雇予告や労災休業中の解雇禁止などの限られた意味ではなく)一般的に使われるようになったのが、かなり最近の現象であることを示唆しているのではないだろうか。

「解雇規制」って、本当に存在するの?

 ちょっと人目を引こうと思ってわざと極端なタイトルをつけてみたが、正確にいうと

 「日本では、いろいろと解雇が困難な(日本特有の)事情があるのは事実が、それを『解雇規制』と呼ぶのは妥当ではないんじゃないの?」

というニュアンスである。

解雇規制を緩和して、解雇しやすくしろ」という議論は今もあちらこちらで見かけるが、「解雇しにくい」のは、「解雇規制」のせいなのだろうか。風俗営業規制とか騒音規制のようなレベルで「解雇規制」があって、企業が解雇したくてもできないのだろうか。そうではなく、解雇が難しいとすれば、それはもっと別なことが理由ではないのか。
 (後で少し触れるが、法律上は、何でもかんでも解雇し放題なわけではなく、一定の「解雇規制」はもちろん存在する。ただし「正社員を解雇してはならない」とか「正社員を解雇するには労働基準監督署の許可を要する」などという法規制があるわけではない。)

以前のエントリ「解雇しにくい社会」は、日本企業が自分から産み出したものだ!」でも書いたことだが、改めて述べておきたい。

まず具体的な例を仮定して考えてみよう。

ある会社に、「仕事のできない」中高年従業員がいた。名前はX氏。このX氏は、職務遂行能力がない奴と判断されたり、人間関係でうまくいかなかったり、まぁいろいろな事情で、あっても無くても良いような雑用だけをやることになった。いわゆる窓際族である。

会社はいわゆる年功賃金制度であり、X氏もそれなりの賃金をもらっている。

ある日、とうとうシビレを切らした会社はこのX氏を解雇しようと考えた。ただ実際に解雇するとなると、確かにいろいろと面倒なことになるのは事実である。

まず30日前に予告して解雇する必要がある(労働基準法20条1項)。これは確かに解雇規制の一種ではあるが、別に難しいことではない。
ここでX氏がおとなしく解雇を受け入れたら、もちろんそれで万事解決である。

次に、X氏が労働基準監督署に駆け込んだら、どうなるか?

状況にもよるだろうが、会社としてはこの段階では、それほど心配はする必要はない。労基署は、賃金不払や労災など白黒の判断が簡単につく問題については割と動きやすいが、解雇のように複雑な事情や判断が必要な問題では非常に動きにくいのである。

では、X氏が「解雇は無効だ」といって、弁護士に相談して(または本人訴訟で)裁判所に訴訟や労働審判の申立を提起をしたらどうなるだろうか?

本当に「解雇の難しさ」が浮き彫りになるのはここから先なのである。
(ただしこの段階に来るまでに諦めて泣き寝入りしてしまう人も多い。なお他にあっせん手続というのもあるが、ここでは省略)

X氏が「解雇は無効だ」と主張して訴えを起こしたからには、会社としては当然「解雇は有効だ」と言って反論しなければならない。解雇が有効であることを会社は主張・立証する必要がある。
では、どうすれば解雇は「有効」だということになるのだろうか。

労働契約法16条には「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。」という定めがある。
つまり会社としては、解雇に合理的で、なおかつ社会通念上の相当性があることを主張・立証すれば良いのだ。ここでは一応簡潔にまとめて解雇の「合理性・相当性」と呼んでおこう。

さて、「仕事ができない人間を解雇するんだから、当然、合理性・相当性があるはずだ」と思った会社は、「X氏は仕事ができないので、使えません。だから解雇しました」等等と主張する。

これに対してX氏側弁護士(または裁判官)は何というだろうか。

「窓際族っていうけど、具体的に今、何の仕事を担当させているんですか?」
「ほとんど仕事をさせていないって?じゃあ仕事をさせればいいでしょ。仕事をさせるのは会社の役割ですよね。」
「使えない?具体的にどう使えないのか、証明できますか?記録あるの?仕事の成果はどうやって確認してるの?」
「雑用しかやらせてない?その雑用を一通りこなしているなら、ちゃんと職務を果たしたことになるんじゃないの?」
「お宅の会社には、他にもいろいろな職種があるでしょ。他の仕事をやらせたらいいんじゃないんですか」
「職種を変えるローテーションや転勤は、お宅の会社では普通にやっていますよね。だったら、この人も、職種を変えてみたらいいんじゃないですか。」
「賃金に見合った仕事をしてないって?中高年で賃金が高い?年功賃金にしたのはお宅の会社の勝手でしょ?仕事に見合った賃金体系にすれば良かったんじゃないの?」

…等等の議論になるだろう。何となく「使えない」「能力がない」というだけでは、漠然としすぎており、まったく反論にならない。
上記のような議論に具体的に答えることができなければ、「解雇に合理性・相当性がある」ことは裁判所に認めてもらえないだろう。そこが難しいのだ。

一般的に言って、会社というものは(少なくとも日本の会社は)、必ずしも従業員の職務を具体的に細かく定義して、何が達成できたかをチェックできるようにしているわけではない。
特に窓際族のような立場となると、軽い仕事を担当させられることが多いが、そうなるとかえって「仕事ができない」ことの証明が難しいという逆説さえ生じる。
たとえば「仕事ができないから、掃除だけやらせています。」という理屈では、逆に「掃除という「職務」をちゃんと果たしているなら、なぜ解雇するのですか?」ということになりかねない。
(「掃除を命じたのに、紙飛行機を作って遊んでばかりです」なら話は別。)

また、「仕事ができない」ということが証明できたとしても、ローテーションや転勤を普通に行っている会社であれば、「この人にも、他の部署・職務を担当させてみたらどうか。そこまでやらなければ仕事の能力は判断できないのではないか」ということになってしまう。

おわかりいただけただろうか。

解雇が難しいケースは確かに多いが、その解雇の難しさ(正確には「解雇が合理的で相当性があることを裁判で証明することの難しさ」)の理由の大半は、実は日本企業が自分から作り出しきていたものなのだ。

政府が勝手に解雇規制をしたので、企業が抑圧されて解雇できなくなっている…というわけではない。タクシーの参入規制とか、大学の新設規制とか、薬品の通信販売規制などとはわけが違うのだ。

日本企業の仕事のさせ方では、いざ解雇したくなった時に、解雇の合理性・相当性が立証しにくいことが多い」というのが当たっているのではないだろうか。

(★ここまで読んで、「整理解雇の4要件の話はどうした?」という人がいるかも知れない。しかしここで述べたX氏のケースは、整理解雇ではない。単に特定の1人の従業員X氏を、仕事が出来ないことを理由として解雇しようとしているだけである。
  整理解雇はこれとはまったく違う。整理解雇とは、無能なX氏だろうと有能なY氏だろうと関係なく、経営上の労務調整の必要のため、やむなく人員を削減する目的で行う解雇のことである。混同してはいけないのだが、各種のブログや記事を読むと、時々ごっちゃにしている人がいる。整理解雇の問題は、また機会を改めて考えてみたい。)

労働時間の把握が、ようやく使用者の義務として明文化される?

 6日の読売新聞の記事によれば、厚生労働省は、労働安全衛生法施行規則を改正して、従業員の労働時間の把握を企業の義務として明文化する方針を固めたとのことである。
 (読売新聞以外では今のところ報道されていないので、どこまでしっかりした裏付けがある記事なのか気になるところではあるが・・・)

 以前のエントリでも触れたとおり、労働時間(または出退勤時間)を使用者が記録・把握する義務は、これまでのところ、労働基準法でも、労働安全衛生法でも、法令に明文では定められていない。

労働基準法には、使用者側が労働時間を記録する義務は書かれていない!

今こそ労働時間の記録を法律上の義務にしよう

 現時点の厚生労働省の公式見解としては、あくまで“解釈上”「使用者には、労働時間を適正に把握するなど、労働時間を適切に管理する責務がある」としているだけである。ストレートに法令の条文で「使用者は労働者の労働時間を記録しなければならない」等の記載がされているわけではない。

 今回の読売新聞の報道が事実だとすれば、ようやく労働時間の把握義務が、法令の条文として明確に定められることになる(ただし「法律」ではなく、それより下位の「規則」(省令)であるが)。

 なお、これは労働基準法ではなく労働安全衛生法の施行規則として定めるとのことであり、事実だとすれば、労働時間の把握が健康管理のため重要であるという認識のあらわれだろう。
 報道によれば「管理監督者を含めたすべての労働者を対象とする」とのことだが、管理監督者であれば長時間労働で過労死しても良いなどという理屈はないから、これは当然のことである。そうだとすれば、現在政府が導入を検討している、いわゆる“高度プロフェッショナル”(=残業代が支給されない、一定の専門的職務の従事者)も、残業代の支給の有無とは無関係に、労働時間を把握するということになろう。

 (ちなみに、労働時間把握の義務を明文化しようという動きは、2016年に、野党4党から、労働基準法改正案の提出という形で出ていたようだが、これはそのままになってしまっている。)

 それにしても、健康管理という面でいえば、残業代が支給されるかどうかよりも、労働時間を使用者が把握・記録するかどうかの方がはるかに重要だと思うのだが、どうもメディアの関心が薄いようである。

稲田朋美防衛大臣の発言と自衛隊法と公職選挙法

都議会選挙で、自民党の候補について「自衛隊としても」応援をお願いしたという稲田朋美防衛大臣の発言が問題となっている。

具体的な法律に照らして検討してみよう。

まず自衛隊法61条1項で
隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。」
とある。

これだけを見ると、まず、政党などのための寄付金集めをしてはいけないのは何となくわかる。ただ、「政治的目的」と「政治的行為」とは具体的にどこまでの範囲を指しているのかよくわからないが、これは政令で定めることになっている。

この「政令」が、自衛隊法施行令である。
自衛隊施行令86条1号によれば、禁止される「政治的目的」の例として

衆議院議員、参議院議員、地方公共団体の長、地方公共団体の議会の議員・・・の選挙において、特定の候補者を支持し、又はこれに反対すること

があり、さらに87条1項8号によれば、禁止される「政治的行為」の例として

政治的目的をもつて、前条第一号に掲げる選挙・・・において、投票するように又はしないように勧誘運動をすること

とある。

すると、都議会選挙で「自民党候補に投票するように、自衛隊としてお願いするという稲田朋美の発言はそのまま自衛隊法違反ということになりそうだが、自衛隊法で政治的行為が禁じられているのは、「隊員」である。
「隊員」とは、自衛隊法2条5項によれば

防衛省の職員で、防衛大臣、防衛副大臣、防衛大臣政務官、防衛大臣補佐官、防衛大臣政策参与、防衛大臣秘書官、第一項の政令で定める合議制の機関の委員、同項の政令で定める部局に勤務する職員及び同項の政令で定める職にある職員以外のものをいう

とされているので、たとえば統幕議長や東部方面総監は「隊員」に含まれるが、防衛大臣は「隊員」ではないので、稲田自身が自衛隊法違反の罪そのものに直接問われるということにはならない。

(ちなみに自衛隊法61条1項に違反して「隊員」が政治的行為を行った場合、3年以下の懲役または禁固に処せられる(同法119条1項1号)。

ただし、防衛大臣が、防衛大臣の立場で、自衛隊が自衛隊法違反の行為をすることを前提とした発言を公に行ったということになるから、防衛大臣としては不適格ということになるだろう。

またこれとは別に、公職選挙法違反の問題がある。

詳細ははぶくが、公選法136条の2では、公務員(防衛大臣も含まれる)が、候補者を推薦し、支持する目的をもって、その地位を利用して、候補者の推薦に関与し、若しくは関与することを援助し、又は他人をしてこれらの行為をさせることを禁止している。

選挙について「防衛省として、自衛隊としてお願いしたい」という言い方をした稲田の発言は、ここでは、防衛大臣としての地位を利用した都議選の候補者支援活動ではないかということで、問題となるわけである。

松尾陽ほか『アーキテクチャと法 法学のアーキテクチュアルな展開?』

松尾陽・編『アーキテクチャと法 法学のアーキテクチュアルな展開?』(弘文堂)

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アーキテクチャ。本来、建築や建築物を意味するこの言葉は、いまや物理的な技術一般、物事を構成する枠組みや構造一般のことを指すようになった。・・・これらの物理的な技術や構造を設計することで、人々が行為する物理的な環境を構成し、人々の行動を一定の方向へ誘導する手法として、アーキテクチャという言葉が注目されることにもなった。」(はしがき)

 法律により人間の行動を規制することは一般的に行われているが、それとは別次元で、道路や施設の構造、インターネットのシステムなどの客観的な要素によって人間の行動を規制・誘導するという状況が、今、改めて「法」「自由」「人権」などとの関係で、注目・検討されている。

第1章「法とアーキテクチャ」研究のインターフェース(松尾陽)
第2章「アーキテクチャの設計と自由の再構築」(成原慧)

この2章は、アーキテクチャと法の関連について、全体的な思想・研究状況の紹介や概論の役割を果たしている。
特に先駆的な研究として、米国の研究者(法律実務家でもある)のローレンス・レッシグとキャス・サンスティーンがたびたび取り上げられており、この2名はこの後の章でも頻出なので、私としても読まねばという気になった。

第3章「個人化される環境」(山本龍彦)では、情報環境が極度に個々人向けに“カスタマイズ”される状況が、逆に個人の尊重・尊厳を蝕んでいくという“逆説”が取り上げられている。たとえばある人が閲覧するポータルサイト等の画面に、その人の好みや過去の履歴に応じたニュース記事や商品広告ばかりが選ばれて表示されるようになると、「個人化」された環境といいながら、実は特定の傾向に個人を押し込めて、それ以外の選択の可能性が奪われていくのではないか、ということである。それが「超個人化」が「個人主義」を崩していくという意味で“逆説”とされているのだが、こういう状況は「(超)個人化」というより、「孤立化」とでも言い換えた方が良いのではないか。

第4章「技術の道徳化と刑事法規制」(稲谷龍彦)では、リスクのある技術開発に刑事制裁を課することの可否と社会的な利益等について、完全自動運転車の事故などの例を挙げて検討している。

第5章「アーキテクチャによる法の私物化と権利の限界」(栗田昌裕)では、著作権(特にドイツ)とコピーガードの問題を中心に、アーキテクチャ(ここではコピーガード)が人間の自由(ここでは複製の自由)を侵害するかどうかという問題を中心に検討している。取り上げているのは、著作権法の中の特定の論点であり、かなり特殊な分野ではあるが、その問題提起としてはかなり普遍性を持っており、本書の中でも異彩を放っている。

第6章「貨幣空間の法とアーキテクチャ」(片桐直人)は、いわゆる仮想通貨と法の問題について論じているが、まだ発展途上で激しく変動する分野の問題だけあって、なかなか深く語るのは難しい感じである。

第7章「憲法のアーキテクチャ」(横大道聡)は、技術や物理的施設ではなく、憲法そのものを「アーキテクチャ」として捉えているので、他の論者とは切り口が根本的に異なるのだが、それはそれで面白い。特に「日本では『何かを建設しようとする構築の意思を持つことは危険であるとするのが、憲法学の初動的な反応』で、『憲法学は何かをつくり上げる学問ではなく、抵抗し、批判する学問であるという自己規定が強い』ため、建築学で用いられる概念を憲法学で用いるのは『大抵評判が悪い』とされる。」という指摘は、実に鋭いと思った。

第8章は座談会で、本書の各著者に加えて、大屋雄裕がゲストとして参加している。私自身、「アーキテクチャ」の概念が法学などで使われていることを初めて知ったのは、大屋雄裕の『自由とは何か』(ちくま新書)が最初だった。

安倍首相「憲法は9条改正を優先」に憲法学者はどう答える?

 安倍首相は、憲法改正について、9条を改正して自衛隊を憲法に明確に位置づけることを優先する、と述べている。

 政府の解釈論というか公式見解としては、自衛隊も、さらには安保法制も合憲とされているので、それならば逆に、9条を改正する必要などないという話になってしまうと思っていたのだが、この点について安倍首相は、「残念ながら憲法学者の多くが違憲と言っている。そういう状況を変えるのは私たちの責任だ」と国会答弁で説明したようである。
時事通信の記事参照

 憲法学者の中では、時代とともに自衛隊合憲論が次第に増えてきてはいるように思うが、主流は依然として自衛隊違憲論なのではないだろうか。(以前のエントリでも触れた

 いずれにしても憲法学者に対して「政府は自衛隊は合憲だと思うが、お前たち学者の多数派が違憲論を主張しているので、改正せざるを得ない」というふうに首相からボールをストレートに投げつけた格好になった。

 これに対して憲法学者の世界から、何らかの反応や問題提起が出てくれば面白いと思うのだが、どうだろうか。

 ここで思考の実験をしてみようと思う。仮に私が憲法学者で、自衛隊違憲論者で、しかも9条改正反対派だとする。そのうえで、自衛隊を廃止して非武装中立国家になるというのは非現実的なので(なんらかの程度は)自衛隊の存在を是認せざるを得ない・・・と考えているとしたら、この安倍首相の問題提起に対してどう答えるだろうか。

 とりあえず、説明の仕方としては、2つのパターンが考えられる。

(1)自衛隊は違憲であるから、解散すべきである。しかしすぐには解散できない。従って、いずれ自衛隊が解散して非武装中立の国家になれるように、政府は真剣に平和外交その他の施策に取り組まなければならない。いつの日か、非武装中立が可能な時代が来るまで、何十年、何百年かかかるかわからないが、その不断の努力の過程の中で、あくまでもやむを得ない暫定的な途中経過の状態としてであれば、自衛隊の存在は認められる。
 自衛隊は違憲だが、その違憲状態を長い時間をかけて解消していくプロセスの中にあると考えて、当面はやむを得ない範囲で維持しつつも、努力をしていかなければならない。

(2)自分は自衛隊は違憲だと考えているが、合憲だという解釈論も説として一応は成り立たないわけではない。つまり違憲説と合憲説の両方が存在する。もちろん政府は、自衛隊を現に運用している立場であるから、合憲だと主張している。しかし違憲説が有力に存在しているということは、現に安倍首相が認めている。
 つまり、憲法9条がある限り、政府も一応、自衛隊違憲説が存在することを、頭の中で意識しないわけにはいかない。これが9条の価値である。
 違憲説が存在する以上は、政府も、どこかで、自衛隊の運用に慎重になり、暴走しないようになるはずである。9条が改正されて、違憲説がまったく存在しなくなってしまったら、政府は安易に軍備拡張や軍事行動に走ってしまう危険があるのではないか。

・・・いかがなものだろうか?
 ただしこの2つの説明に難点がないわけではない。
 (1)は、「非武装中立が可能な時代」がいつまでも来なければ、結局はなし崩しの現状追認と同じであるし、(2)は、自分は違憲論だといっておきながら、政府が合憲論を根拠に自衛隊を保持・運用することを最初から認めて織り込んでしまっているのと同じなのである。
 とりわけ、自分で考えておいて否定的なことを言うのも妙だが、(2)の主張は、正確には「自衛隊違憲論」というより、「自衛隊違憲論が存在することがプラスになっている論」というべきだろう。

護憲派が「天皇」を持ち出すということについて

 一昔前はあまり考えられなかったのだが、いわゆる護憲派や“リベラル”の論者・メディアが、護憲を訴える際に「天皇」を持ち出すという手法が見受けられるようになっている。

 まず、現行憲法下で即位し、憲法尊重を表明している今上天皇の個別の言動を持ち出すやり方は、今ではすっかりおなじみとなり、今上天皇が今や「護憲のシンボル」であるかのような言説も頻繁に見受けられる。

 また直近の例でいえば、5月3日の朝日新聞の記事(ハフィントンポストで全文を読むことができる)では、昭和天皇が、戦争直後の1946年に、GHQの憲法草案について積極的に受け入れるよう発言したというエピソード(を示す資料)が紹介されていた。

“ 憲法草案に「いいじゃないか」 昭和天皇の発言、メモに

 「これでいいじゃないか」――。日本国憲法起草のもとになった連合国軍総司令部(GHQ)草案の受け入れをめぐり、1946年2月22日に昭和天皇が幣原(しではら)喜重郎首相(当時)と面談した際の天皇の発言を示すメモが、憲法学者の故宮沢俊義・東大教授のノートに記されていたことがわかった。「安心して、これで行くことに腹をきめた」という幣原氏の心情も記載されている。 ”

 この記事は、様々な視点からの分析が可能だろうが、わざわざ昭和天皇が憲法草案について「いいじゃないか」と言ったということを強調しているということは、「今の憲法は、昭和天皇が積極的に受け入れることに同意したのだから、右派の人間が今の憲法を叩くのはおかしい」とでもいいたいニュアンスを読み取ることができるだろう。

 このように、護憲派が護憲の主張のために天皇を持ち出すのは、「改憲派は尊王右翼だから、逆に天皇が現行の憲法を尊重している話をを持ち出せば、へこませることができるだろう」という計算に基づいているのだろう。

 実際、改憲運動で目立つのが、日本会議のように、尊王的・復古的な流れを汲むグループの人々であることは事実だろう。

 しかし、世論の中で改憲を支持するのは、そのような“復古派”ばかりではない。
むしろ天皇に特別な思い入れのない、また復古主義的でも何でも無い人々の間に、「今の9条では安全保障上問題があるのではないか」「自衛隊を明確に位置づけるべきではないか」などと考える人が着実に増えてきており、おそらく世論の「改憲肯定」派の多数を占めていると思われる

 「改憲派は、復古派・尊王派だから、天皇を持ち出して反撃してやろう」というスタンスのメディアは、特に復古的でも尊王的でもない大衆の間で、改憲に肯定的な傾向が広がっていることをどう見ているのだろうか。

 参考:共同通信の憲法についてのアンケート(東京新聞より)

 

クックパッドのレシピで健康被害が起こった場合の責任は?

 東京で生後6ヶ月の乳児が、蜂蜜の入った離乳食が原因で、乳児ボツリヌス症により死亡したという事故のニュースをきっかけに、蜂蜜入り離乳食のレシピを掲載していたクックパッドにも批判が集まった。批判を受けてクックパッドは、「1歳未満の乳児に蜂蜜を与えないで下さい」という警告を掲載している。

 今回の事故そのものは、クックパッドのレシピによって引き起こされたわけではないようだが、仮にクックパッドに掲載されたレシピに重大な欠陥があって、それに従って作った料理でユーザーに健康被害が起こった場合、運営しているクックパッド(株)は責任を負うのだろうか。ここでは法的観点で考えてみたい。

 まず、欠陥レシピそのものを掲載して不特定多数に情報提供をしたという点で、クックパッド(株)に一定の責任が発生しうることを否定するのは困難だろう。
 クックパッドのレシピは、ユーザーが実際に料理に使うことを前提として掲載しているのであり、欠陥レシピであれば健康被害が生じうることは、クックパッド(株)としても当然に予見できる。

  (*もちろん、現代の科学の水準で健康被害が予見できないような欠陥というのであれば話は別である。いずれにしても、詳しい議論は割愛するが、ここでは、クックパッド(株)に、民法でいう「不法行為責任」が成立することを前提とする。

   なお、2ちゃんねるのような匿名掲示板に掲載されたレシピと、クックパッドのレシピとで、健康被害が起こった場合の責任の評価が違ってくるかどうか、という論点もあるだろう。ここではあまり深入りできないが、単にどこかの誰かが掲示板にレシピを書き込んだものが表示されているだけの場合(2ちゃんねる)と、企業が、積極的にレシピを掲載するサイトであることを売りにして、ユーザーを誘っているような場合(クックパッド)とでは、同列に考えることはできないだろう。)

 ただ、クックパッドのサイトには、「利用規約」へのリンクがあり(ただし目立つところに貼ってあるわけではない)、この「利用規約」には 「本サービスをご利用される場合には、本利用規約に同意したものとみなされます。」「利用者は、利用者自身の自己責任において本サービスを利用するものとし、本サービスを利用してなされた一切の行為およびその結果についてその責任を負うものとします。」などという条項がある。

 これだけ見ると、クックパッドのサイトを利用した以上は利用規約に同意したとみなされ、その利用規約には自己責任の規定もあるから、健康被害が起こってもユーザーの自己責任で済まされるかのようにも見える。

 しかし、「本サービスを利用する場合には、本利用規約に同意したものとみなす」というのは、あくまでもクックパッド(株)が勝手にそのように述べているだけである。クックパッド(株)が一方的に述べているだけなのに、ユーザーが拘束されるとはいえないだろう。

 ユーザーを拘束できるためには、クックパッド(株)とユーザーとの間に、何らかの「契約」が成立しているといえなければならない。そして、契約が成立しているといえるためには、両方の当事者の間で意思表示が合致している必要がある。

 この件では、クックパッドが一方的に利用規約を記載してリンクを貼り、「利用したら、本利用規約に同意したとみなす」と勝手に宣言しているだけであって、そこにはユーザーの意思表示はまったく介在していない。

 このように、一方の側が一方的に何か宣言しているだけでは、契約が成立したとはいえないのであって、相手側からの何らかの意思表示といえるものも必要である。

 たとえば、ユーザーがレシピを見ようとすると、「本利用規約に同意します」というクリックボタンが画面に表示されて、そのボタンをユーザーが押して初めてレシピが表示されてくる、という構造であれば、話は別である。そこでは、ユーザーが「同意します」のボタンをクリックする形で「意思表示」をしたことになるからである。

 ところがクックパッドのサイトの場合は、このユーザー側からの意思表示は何も存在しないし、そもそも利用規約があることすら知らなくてもレシピを見ることができてしまうのである。これでは、ユーザーが利用規約に同意したと解釈することはできない。
 従って「自己責任」についての規定も適用されないことになる。(なおユーザーが「会員登録」などをする場合は、また違ってくる。登録をする時点で、ユーザーの「意思表示」が発生しうるからである。)

 それでは、健康被害が起こった場合に、クックパッドがその損害について100%損害賠償責任を負わなければならないのかというと、それはまた別問題である。クックパッドに掲載された欠陥レシピについて、健康上の問題について確認もせずそのままうのみにして利用した場合、そのユーザーにも落ち度というか不注意(「過失」)があった、と判断できる場合もあるだろう。その場合は、「過失相殺」という考えに立って、損害賠償の額が減額されることになる。

 もちろん、過失相殺が認められるかどうか、またどの程度認められるかは、ケースバイケースである。たとえば、クックパッドが、サイトの中で、ユーザーにとって非常に見つけやすい位置に、大きく「このレシピの安全性を保証するものではありません。安全性についてはユーザーが自らの責任でご確認下さい」とでも表示していれば、過失相殺は認められやすくなるだろう。

香山リカがチャンネル桜および出演者に対して訴訟を提起

 香山リカの3月30日付のブログ記事によれば、チャンネル桜のインターネット番組『沖縄の声』に出演した人物3名と、株式会社日本文化チャンネル桜を相手として、東京地裁に訴えを提起したという。

 香山リカ自身のブログおよびツィッターでは、「東京地裁に訴えを提起しました」という言い方しかしていないが、事案の内容を見る限りでは、名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟ということだろう。

 (ここで政治的・思想的な次元の議論には触れるつもりはないが)問題となったチャンネル桜の番組を私は見ていないので、香山リカ自身のブログ記事での説明をとりあえず紹介すると:

 チャンネル桜の2016年10月27日の 「【沖縄の声】ヘリパッド反対派を初起訴、香山リカのツイートが法に触れる可能性あり」というタイトルのコンテンツで、まず、キャスターの栗秋琢磨という人が、香山リカについて、「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」を自らのツィッター投稿により犯していると主張し、さらに、「香山リカの勤務先の診療所に医師法の違反が疑われて監査が入った」「千代田の保健所から監査が入った」等という趣旨のことを述べ、それについて、平原伸泰および鉢嶺元治という出演者が相づちを打つなどした、ということのようである。

 まず、香山リカのツィッターでの一定の言動が「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」にあたるかどうかは、問題となっている特定の言動が具体的にどのようなものだったのか、そしてそれをどのように法的に評価するかの問題であるが、ここでは立ち入らない。

 一方、「保健所から監査が入った」と述べた点については、一定の事実についての主張であるが、監査が実際におこなわれていたかどうかにかかわらず、まず、それは香山リカの社会的評価を低下させる発言として、名誉毀損にあたると評価される可能性がある。名誉毀損は、真実であったとしても成立しうる。
 (ただし、以下に述べるとおり、一般論としては、一定の要件をみたす場合に、主張した内容が真実であるか、真実だと誤信したことに相当の理由があった場合に、違法性が阻却されて、名誉毀損が成立しなくなる場合もある。)

 この件で、栗秋が反論するとすれば、名誉毀損について、違法性阻却の事由があることを主張するのが定石だろう。
 具体的には、①自分が香山リカについて述べたことは、公共の利害に関する事実にかかるもので、②目的がもっぱら公益を図ることであり、③真実である(または真実でなかったとしても、真実だと誤信するのに相当の理由があった)、と主張すると思われる。もちろんこの主張が裁判所で認められるかどうかは、やってみなければわからない。

 なお、ブログでの説明を見る限りでは、平原および鉢嶺という人は、ただ単に相づちを打つに近い発言だったようにも見える。ただ単に相づちを打っただけでも名誉毀損にあたるのかどうかという点は、興味深い論点になる可能性があるだろう。(実際の番組では、もっと踏み込んだ発言をしていたのかも知れないが、そこは見ていないのでわからない。)

天皇の基本的人権と皇族の「ご結婚」問題

 天皇の生前退位(または譲位)についての議論にも関係するが、天皇(と皇族)に基本的人権があるのかどうかというのは、法学的にも一つの論点である。

 憲法学の世界では、「天皇には基本的人権はない」という学説と、「基本的人権はあるが制限を受けている」という学説の両方が存在する。

 ここでいう「基本的人権がない」という言葉の意味は、人として生きる価値がどうでもいいとかいう“不敬”な意味ではもちろんなく、憲法で定められている基本的人権の保障(たとえば表現の自由とか、職業選択の自由)が及ばない、ということである。

 「天皇に基本的人権はない」という説は、基本的人権とは、歴史的に、フランス革命などの時代に個人を絶対王権や封建領主などに対して守るために作られた概念であって、個人を国家に対して守る働きをするものだと考えている。そして国民には基本的人権が認められるようになり、その内容や対象範囲が拡大されていって、最後に「国民」に含まれないまま残ったのが、日本の場合でいえば「天皇」(と皇族)だと考える。天皇という地位は、いわば近代以前の身分制の中で最後に残った「飛び地」のようなものであって、その外側に基本的人権を保障された均質な国民がいる、というイメージである。
(憲法学者では、たとえば樋口陽一、長谷部恭男)

 これに対して「基本的人権はあるが制限されている」という説は、まず現時点で、国家の中に均質な個人が集合している状態をイメージする。すべての個人には、本来的には基本的人権が存在している。まずその状態から出発するのである。そのうえで、天皇・皇族という一部の人にだけは、特殊な事情から、その、もともと持っている基本的人権に特殊な「制限」を加えられている。これが天皇ということである。
(憲法学者では、たとえば芦部信義、戸波江二)

 つまり、「天皇に基本的人権はない」説は、歴史的な流れの中で物事を見て、基本的人権という概念がなかった時代の最後の名残が天皇とか皇族だと考える。ここでは、天皇や皇族は、そもそも「国民」には含まれない。
 これに対して、「天皇に基本的人権はあるが制限されている」説は、まずは国家を構成するすべての国民に基本的人権がある状態から出発して、そこから例外扱いを絞り込んでいくという思考プロセスをたどるわけである。ここでは、天皇や皇族は、「国民の中の例外」ということになる。

 以上の話は、現在の憲法の解釈や説明の仕方の違いであって、結論としてはそれほど違ってくるわけではない。ただし、これから天皇・皇族がどうあるべきかというのは、また別の問題である。

 これからの国のあり方として、できるだけ天皇と皇族を一般人の扱いに近づけるべきだと考えるか、それとも、まったく違う存在として扱い続けるべきだろうか。
 (前者の究極の形が、いわゆる「天皇制の廃止」論ということになるが、それはまた別な機会に触れる。)

 いわゆる保守の立場の論者には、天皇や皇族と一般人との断絶、隔絶を強調し、生活様式も含めて可能な限り一般人とは断絶したものであるべきだ、というニュアンスの人が多い。

 ここで一つ考えなければならないのは、皇室は血筋で保たれているから、結婚して子孫が生まれなければ成り立たないということである。結婚相手がなければ皇室は絶えてしまう。

 ところが一方、天皇や皇族が一般人とは違うということを強調すればするほど、天皇や皇族の結婚は、難しくなるといえるだろう。
 なぜなら、皇族以外の国民はすべて「一般人」なのであって、基本的人権や自由を享受している。皇族と結婚して、基本的人権を失う(または制限される)ことを選ぶ人間は、時代とともに減りこそすれ、増えることはないだろう。

 つまり、皇族の特別扱い(=基本的人権がないor制限される、等々)を強調すればするほど、結婚が難しくなるというアイロニーがあるのである。

 この問題は、現実には男性皇族と一般女性の結婚の場合にだけ起こる。なぜなら、女性皇族は(現在の皇室典範では)一般男性と結婚すれば、皇籍を離脱して、皇族ではない一般国民となるからである。

 戦前は現在とは状況が違っていた。天皇・皇族の他に、かつての公家や大名の子孫である華族という身分の集団がいて、一般国民とは違った法的地位や生活様式を保ち、皇族の結婚相手の女性を輩出していたからである。

 いま、華族はもはや存在しない。天皇・皇族以外はすべて、基本的人権が備わり、自由なライフスタイルの味を覚え、普通に社会生活をしている国民しかいないのである。

 よく「皇位継承は、男系に限るべきか、女系も認めるべきか」という議論が行われることがあるが、男系だろうと女系だろうと、結婚相手が見つからなければどうにもならないのである。そして今の日本の体制は、個人の意思に反して「嫁にやる」ということは、法的には不可能である。

 逆に、天皇・皇族の立場が、一般国民に近づけば近づくほど、結婚へのハードルは低くなるだろう。ただその方向で進めていくということは、いずれ憲法改正をして、天皇の地位を変えるしかなくなるだろう。それがどのような姿になると考えられるのか、それは改めて考えることとしたい。

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