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法学・法律

松尾陽ほか『アーキテクチャと法 法学のアーキテクチュアルな展開?』

松尾陽・編『アーキテクチャと法 法学のアーキテクチュアルな展開?』(弘文堂)

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アーキテクチャ。本来、建築や建築物を意味するこの言葉は、いまや物理的な技術一般、物事を構成する枠組みや構造一般のことを指すようになった。・・・これらの物理的な技術や構造を設計することで、人々が行為する物理的な環境を構成し、人々の行動を一定の方向へ誘導する手法として、アーキテクチャという言葉が注目されることにもなった。」(はしがき)

 法律により人間の行動を規制することは一般的に行われているが、それとは別次元で、道路や施設の構造、インターネットのシステムなどの客観的な要素によって人間の行動を規制・誘導するという状況が、今、改めて「法」「自由」「人権」などとの関係で、注目・検討されている。

第1章「法とアーキテクチャ」研究のインターフェース(松尾陽)
第2章「アーキテクチャの設計と自由の再構築」(成原慧)

この2章は、アーキテクチャと法の関連について、全体的な思想・研究状況の紹介や概論の役割を果たしている。
特に先駆的な研究として、米国の研究者(法律実務家でもある)のローレンス・レッシグとキャス・サンスティーンがたびたび取り上げられており、この2名はこの後の章でも頻出なので、私としても読まねばという気になった。

第3章「個人化される環境」(山本龍彦)では、情報環境が極度に個々人向けに“カスタマイズ”される状況が、逆に個人の尊重・尊厳を蝕んでいくという“逆説”が取り上げられている。たとえばある人が閲覧するポータルサイト等の画面に、その人の好みや過去の履歴に応じたニュース記事や商品広告ばかりが選ばれて表示されるようになると、「個人化」された環境といいながら、実は特定の傾向に個人を押し込めて、それ以外の選択の可能性が奪われていくのではないか、ということである。それが「超個人化」が「個人主義」を崩していくという意味で“逆説”とされているのだが、こういう状況は「(超)個人化」というより、「孤立化」とでも言い換えた方が良いのではないか。

第4章「技術の道徳化と刑事法規制」(稲谷龍彦)では、リスクのある技術開発に刑事制裁を課することの可否と社会的な利益等について、完全自動運転車の事故などの例を挙げて検討している。

第5章「アーキテクチャによる法の私物化と権利の限界」(栗田雅裕)では、著作権(特にドイツ)とコピーガードの問題を中心に、アーキテクチャ(ここではコピーガード)が人間の自由(ここでは複製の自由)を侵害するかどうかという問題を中心に検討している。取り上げているのは、著作権法の中の特定の論点であり、かなり特殊な分野ではあるが、その問題提起としてはかなり普遍性を持っており、本書の中でも異彩を放っている。

第6章「貨幣空間の法とアーキテクチャ」(片桐直人)は、いわゆる仮想通貨と法の問題について論じているが、まだ発展途上で激しく変動する分野の問題だけあって、なかなか深く語るのは難しい感じである。

第7章「憲法のアーキテクチャ」(横大道聡)は、技術や物理的施設ではなく、憲法そのものを「アーキテクチャ」として捉えているので、他の論者とは切り口が根本的に異なるのだが、それはそれで面白い。特に「日本では『何かを建設しようとする構築の意思を持つことは危険であるとするのが、憲法学の初動的な反応』で、『憲法学は何かをつくり上げる学問ではなく、抵抗し、批判する学問であるという自己規定が強い』ため、建築学で用いられる概念を憲法学で用いるのは『大抵評判が悪い』とされる。」という指摘は、実に鋭いと思った。

第8章は座談会で、本書の各著者に加えて、大屋雄裕がゲストとして参加している。私自身、「アーキテクチャ」の概念が法学などで使われていることを初めて知ったのは、大屋雄裕の『自由とは何か』(ちくま新書)が最初だった。

安倍首相「憲法は9条改正を優先」に憲法学者はどう答える?

 安倍首相は、憲法改正について、9条を改正して自衛隊を憲法に明確に位置づけることを優先する、と述べている。

 政府の解釈論というか公式見解としては、自衛隊も、さらには安保法制も合憲とされているので、それならば逆に、9条を改正する必要などないという話になってしまうと思っていたのだが、この点について安倍首相は、「残念ながら憲法学者の多くが違憲と言っている。そういう状況を変えるのは私たちの責任だ」と国会答弁で説明したようである。
時事通信の記事参照

 憲法学者の中では、時代とともに自衛隊合憲論が次第に増えてきてはいるように思うが、主流は依然として自衛隊違憲論なのではないだろうか。(以前のエントリでも触れた

 いずれにしても憲法学者に対して「政府は自衛隊は合憲だと思うが、お前たち学者の多数派が違憲論を主張しているので、改正せざるを得ない」というふうに首相からボールをストレートに投げつけた格好になった。

 これに対して憲法学者の世界から、何らかの反応や問題提起が出てくれば面白いと思うのだが、どうだろうか。

 ここで思考の実験をしてみようと思う。仮に私が憲法学者で、自衛隊違憲論者で、しかも9条改正反対派だとする。そのうえで、自衛隊を廃止して非武装中立国家になるというのは非現実的なので(なんらかの程度は)自衛隊の存在を是認せざるを得ない・・・と考えているとしたら、この安倍首相の問題提起に対してどう答えるだろうか。

 とりあえず、説明の仕方としては、2つのパターンが考えられる。

(1)自衛隊は違憲であるから、解散すべきである。しかしすぐには解散できない。従って、いずれ自衛隊が解散して非武装中立の国家になれるように、政府は真剣に平和外交その他の施策に取り組まなければならない。いつの日か、非武装中立が可能な時代が来るまで、何十年、何百年かかかるかわからないが、その不断の努力の過程の中で、あくまでもやむを得ない暫定的な途中経過の状態としてであれば、自衛隊の存在は認められる。
 自衛隊は違憲だが、その違憲状態を長い時間をかけて解消していくプロセスの中にあると考えて、当面はやむを得ない範囲で維持しつつも、努力をしていかなければならない。

(2)自分は自衛隊は違憲だと考えているが、合憲だという解釈論も説として一応は成り立たないわけではない。つまり違憲説と合憲説の両方が存在する。もちろん政府は、自衛隊を現に運用している立場であるから、合憲だと主張している。しかし違憲説が有力に存在しているということは、現に安倍首相が認めている。
 つまり、憲法9条がある限り、政府も一応、自衛隊違憲説が存在することを、頭の中で意識しないわけにはいかない。これが9条の価値である。
 違憲説が存在する以上は、政府も、どこかで、自衛隊の運用に慎重になり、暴走しないようになるはずである。9条が改正されて、違憲説がまったく存在しなくなってしまったら、政府は安易に軍備拡張や軍事行動に走ってしまう危険があるのではないか。

・・・いかがなものだろうか?
 ただしこの2つの説明に難点がないわけではない。
 (1)は、「非武装中立が可能な時代」がいつまでも来なければ、結局はなし崩しの現状追認と同じであるし、(2)は、自分は違憲論だといっておきながら、政府が合憲論を根拠に自衛隊を保持・運用することを最初から認めて織り込んでしまっているのと同じなのである。
 とりわけ、自分で考えておいて否定的なことを言うのも妙だが、(2)の主張は、正確には「自衛隊違憲論」というより、「自衛隊違憲論が存在することがプラスになっている論」というべきだろう。

護憲派が「天皇」を持ち出すということについて

 一昔前はあまり考えられなかったのだが、いわゆる護憲派や“リベラル”の論者・メディアが、護憲を訴える際に「天皇」を持ち出すという手法が見受けられるようになっている。

 まず、現行憲法下で即位し、憲法尊重を表明している今上天皇の個別の言動を持ち出すやり方は、今ではすっかりおなじみとなり、今上天皇が今や「護憲のシンボル」であるかのような言説も頻繁に見受けられる。

 また直近の例でいえば、5月3日の朝日新聞の記事(ハフィントンポストで全文を読むことができる)では、昭和天皇が、戦争直後の1946年に、GHQの憲法草案について積極的に受け入れるよう発言したというエピソード(を示す資料)が紹介されていた。

“ 憲法草案に「いいじゃないか」 昭和天皇の発言、メモに

 「これでいいじゃないか」――。日本国憲法起草のもとになった連合国軍総司令部(GHQ)草案の受け入れをめぐり、1946年2月22日に昭和天皇が幣原(しではら)喜重郎首相(当時)と面談した際の天皇の発言を示すメモが、憲法学者の故宮沢俊義・東大教授のノートに記されていたことがわかった。「安心して、これで行くことに腹をきめた」という幣原氏の心情も記載されている。 ”

 この記事は、様々な視点からの分析が可能だろうが、わざわざ昭和天皇が憲法草案について「いいじゃないか」と言ったということを強調しているということは、「今の憲法は、昭和天皇が積極的に受け入れることに同意したのだから、右派の人間が今の憲法を叩くのはおかしい」とでもいいたいニュアンスを読み取ることができるだろう。

 このように、護憲派が護憲の主張のために天皇を持ち出すのは、「改憲派は尊王右翼だから、逆に天皇が現行の憲法を尊重している話をを持ち出せば、へこませることができるだろう」という計算に基づいているのだろう。

 実際、改憲運動で目立つのが、日本会議のように、尊王的・復古的な流れを汲むグループの人々であることは事実だろう。

 しかし、世論の中で改憲を支持するのは、そのような“復古派”ばかりではない。
むしろ天皇に特別な思い入れのない、また復古主義的でも何でも無い人々の間に、「今の9条では安全保障上問題があるのではないか」「自衛隊を明確に位置づけるべきではないか」などと考える人が着実に増えてきており、おそらく世論の「改憲肯定」派の多数を占めていると思われる

 「改憲派は、復古派・尊王派だから、天皇を持ち出して反撃してやろう」というスタンスのメディアは、特に復古的でも尊王的でもない大衆の間で、改憲に肯定的な傾向が広がっていることをどう見ているのだろうか。

 参考:共同通信の憲法についてのアンケート(東京新聞より)

 

クックパッドのレシピで健康被害が起こった場合の責任は?

 東京で生後6ヶ月の乳児が、蜂蜜の入った離乳食が原因で、乳児ボツリヌス症により死亡したという事故のニュースをきっかけに、蜂蜜入り離乳食のレシピを掲載していたクックパッドにも批判が集まった。批判を受けてクックパッドは、「1歳未満の乳児に蜂蜜を与えないで下さい」という警告を掲載している。

 今回の事故そのものは、クックパッドのレシピによって引き起こされたわけではないようだが、仮にクックパッドに掲載されたレシピに重大な欠陥があって、それに従って作った料理でユーザーに健康被害が起こった場合、運営しているクックパッド(株)は責任を負うのだろうか。ここでは法的観点で考えてみたい。

 まず、欠陥レシピそのものを掲載して不特定多数に情報提供をしたという点で、クックパッド(株)に一定の責任が発生しうることを否定するのは困難だろう。
 クックパッドのレシピは、ユーザーが実際に料理に使うことを前提として掲載しているのであり、欠陥レシピであれば健康被害が生じうることは、クックパッド(株)としても当然に予見できる。

  (*もちろん、現代の科学の水準で健康被害が予見できないような欠陥というのであれば話は別である。いずれにしても、詳しい議論は割愛するが、ここでは、クックパッド(株)に、民法でいう「不法行為責任」が成立することを前提とする。

   なお、2ちゃんねるのような匿名掲示板に掲載されたレシピと、クックパッドのレシピとで、健康被害が起こった場合の責任の評価が違ってくるかどうか、という論点もあるだろう。ここではあまり深入りできないが、単にどこかの誰かが掲示板にレシピを書き込んだものが表示されているだけの場合(2ちゃんねる)と、企業が、積極的にレシピを掲載するサイトであることを売りにして、ユーザーを誘っているような場合(クックパッド)とでは、同列に考えることはできないだろう。)

 ただ、クックパッドのサイトには、「利用規約」へのリンクがあり(ただし目立つところに貼ってあるわけではない)、この「利用規約」には 「本サービスをご利用される場合には、本利用規約に同意したものとみなされます。」「利用者は、利用者自身の自己責任において本サービスを利用するものとし、本サービスを利用してなされた一切の行為およびその結果についてその責任を負うものとします。」などという条項がある。

 これだけ見ると、クックパッドのサイトを利用した以上は利用規約に同意したとみなされ、その利用規約には自己責任の規定もあるから、健康被害が起こってもユーザーの自己責任で済まされるかのようにも見える。

 しかし、「本サービスを利用する場合には、本利用規約に同意したものとみなす」というのは、あくまでもクックパッド(株)が勝手にそのように述べているだけである。クックパッド(株)が一方的に述べているだけなのに、ユーザーが拘束されるとはいえないだろう。

 ユーザーを拘束できるためには、クックパッド(株)とユーザーとの間に、何らかの「契約」が成立しているといえなければならない。そして、契約が成立しているといえるためには、両方の当事者の間で意思表示が合致している必要がある。

 この件では、クックパッドが一方的に利用規約を記載してリンクを貼り、「利用したら、本利用規約に同意したとみなす」と勝手に宣言しているだけであって、そこにはユーザーの意思表示はまったく介在していない。

 このように、一方の側が一方的に何か宣言しているだけでは、契約が成立したとはいえないのであって、相手側からの何らかの意思表示といえるものも必要である。

 たとえば、ユーザーがレシピを見ようとすると、「本利用規約に同意します」というクリックボタンが画面に表示されて、そのボタンをユーザーが押して初めてレシピが表示されてくる、という構造であれば、話は別である。そこでは、ユーザーが「同意します」のボタンをクリックする形で「意思表示」をしたことになるからである。

 ところがクックパッドのサイトの場合は、このユーザー側からの意思表示は何も存在しないし、そもそも利用規約があることすら知らなくてもレシピを見ることができてしまうのである。これでは、ユーザーが利用規約に同意したと解釈することはできない。
 従って「自己責任」についての規定も適用されないことになる。(なおユーザーが「会員登録」などをする場合は、また違ってくる。登録をする時点で、ユーザーの「意思表示」が発生しうるからである。)

 それでは、健康被害が起こった場合に、クックパッドがその損害について100%損害賠償責任を負わなければならないのかというと、それはまた別問題である。クックパッドに掲載された欠陥レシピについて、健康上の問題について確認もせずそのままうのみにして利用した場合、そのユーザーにも落ち度というか不注意(「過失」)があった、と判断できる場合もあるだろう。その場合は、「過失相殺」という考えに立って、損害賠償の額が減額されることになる。

 もちろん、過失相殺が認められるかどうか、またどの程度認められるかは、ケースバイケースである。たとえば、クックパッドが、サイトの中で、ユーザーにとって非常に見つけやすい位置に、大きく「このレシピの安全性を保証するものではありません。安全性についてはユーザーが自らの責任でご確認下さい」とでも表示していれば、過失相殺は認められやすくなるだろう。

香山リカがチャンネル桜および出演者に対して訴訟を提起

 香山リカの3月30日付のブログ記事によれば、チャンネル桜のインターネット番組『沖縄の声』に出演した人物3名と、株式会社日本文化チャンネル桜を相手として、東京地裁に訴えを提起したという。

 香山リカ自身のブログおよびツィッターでは、「東京地裁に訴えを提起しました」という言い方しかしていないが、事案の内容を見る限りでは、名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟ということだろう。

 (ここで政治的・思想的な次元の議論には触れるつもりはないが)問題となったチャンネル桜の番組を私は見ていないので、香山リカ自身のブログ記事での説明をとりあえず紹介すると:

 チャンネル桜の2016年10月27日の 「【沖縄の声】ヘリパッド反対派を初起訴、香山リカのツイートが法に触れる可能性あり」というタイトルのコンテンツで、まず、キャスターの栗秋琢磨という人が、香山リカについて、「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」を自らのツィッター投稿により犯していると主張し、さらに、「香山リカの勤務先の診療所に医師法の違反が疑われて監査が入った」「千代田の保健所から監査が入った」等という趣旨のことを述べ、それについて、平原伸泰および鉢嶺元治という出演者が相づちを打つなどした、ということのようである。

 まず、香山リカのツィッターでの一定の言動が「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」にあたるかどうかは、問題となっている特定の言動が具体的にどのようなものだったのか、そしてそれをどのように法的に評価するかの問題であるが、ここでは立ち入らない。

 一方、「保健所から監査が入った」と述べた点については、一定の事実についての主張であるが、監査が実際におこなわれていたかどうかにかかわらず、まず、それは香山リカの社会的評価を低下させる発言として、名誉毀損にあたると評価される可能性がある。名誉毀損は、真実であったとしても成立しうる。
 (ただし、以下に述べるとおり、一般論としては、一定の要件をみたす場合に、主張した内容が真実であるか、真実だと誤信したことに相当の理由があった場合に、違法性が阻却されて、名誉毀損が成立しなくなる場合もある。)

 この件で、栗秋が反論するとすれば、名誉毀損について、違法性阻却の事由があることを主張するのが定石だろう。
 具体的には、①自分が香山リカについて述べたことは、公共の利害に関する事実にかかるもので、②目的がもっぱら公益を図ることであり、③真実である(または真実でなかったとしても、真実だと誤信するのに相当の理由があった)、と主張すると思われる。もちろんこの主張が裁判所で認められるかどうかは、やってみなければわからない。

 なお、ブログでの説明を見る限りでは、平原および鉢嶺という人は、ただ単に相づちを打つに近い発言だったようにも見える。ただ単に相づちを打っただけでも名誉毀損にあたるのかどうかという点は、興味深い論点になる可能性があるだろう。(実際の番組では、もっと踏み込んだ発言をしていたのかも知れないが、そこは見ていないのでわからない。)

天皇の基本的人権と皇族の「ご結婚」問題

 天皇の生前退位(または譲位)についての議論にも関係するが、天皇(と皇族)に基本的人権があるのかどうかというのは、法学的にも一つの論点である。

 憲法学の世界では、「天皇には基本的人権はない」という学説と、「基本的人権はあるが制限を受けている」という学説の両方が存在する。

 ここでいう「基本的人権がない」という言葉の意味は、人として生きる価値がどうでもいいとかいう“不敬”な意味ではもちろんなく、憲法で定められている基本的人権の保障(たとえば表現の自由とか、職業選択の自由)が及ばない、ということである。

 「天皇に基本的人権はない」という説は、基本的人権とは、歴史的に、フランス革命などの時代に個人を絶対王権や封建領主などに対して守るために作られた概念であって、個人を国家に対して守る働きをするものだと考えている。そして国民には基本的人権が認められるようになり、その内容や対象範囲が拡大されていって、最後に「国民」に含まれないまま残ったのが、日本の場合でいえば「天皇」(と皇族)だと考える。天皇という地位は、いわば近代以前の身分制の中で最後に残った「飛び地」のようなものであって、その外側に基本的人権を保障された均質な国民がいる、というイメージである。
(憲法学者では、たとえば樋口陽一、長谷部恭男)

 これに対して「基本的人権はあるが制限されている」という説は、まず現時点で、国家の中に均質な個人が集合している状態をイメージする。すべての個人には、本来的には基本的人権が存在している。まずその状態から出発するのである。そのうえで、天皇・皇族という一部の人にだけは、特殊な事情から、その、もともと持っている基本的人権に特殊な「制限」を加えられている。これが天皇ということである。
(憲法学者では、たとえば芦部信義、戸波江二)

 つまり、「天皇に基本的人権はない」説は、歴史的な流れの中で物事を見て、基本的人権という概念がなかった時代の最後の名残が天皇とか皇族だと考える。ここでは、天皇や皇族は、そもそも「国民」には含まれない。
 これに対して、「天皇に基本的人権はあるが制限されている」説は、まずは国家を構成するすべての国民に基本的人権がある状態から出発して、そこから例外扱いを絞り込んでいくという思考プロセスをたどるわけである。ここでは、天皇や皇族は、「国民の中の例外」ということになる。

 以上の話は、現在の憲法の解釈や説明の仕方の違いであって、結論としてはそれほど違ってくるわけではない。ただし、これから天皇・皇族がどうあるべきかというのは、また別の問題である。

 これからの国のあり方として、できるだけ天皇と皇族を一般人の扱いに近づけるべきだと考えるか、それとも、まったく違う存在として扱い続けるべきだろうか。
 (前者の究極の形が、いわゆる「天皇制の廃止」論ということになるが、それはまた別な機会に触れる。)

 いわゆる保守の立場の論者には、天皇や皇族と一般人との断絶、隔絶を強調し、生活様式も含めて可能な限り一般人とは断絶したものであるべきだ、というニュアンスの人が多い。

 ここで一つ考えなければならないのは、皇室は血筋で保たれているから、結婚して子孫が生まれなければ成り立たないということである。結婚相手がなければ皇室は絶えてしまう。

 ところが一方、天皇や皇族が一般人とは違うということを強調すればするほど、天皇や皇族の結婚は、難しくなるといえるだろう。
 なぜなら、皇族以外の国民はすべて「一般人」なのであって、基本的人権や自由を享受している。皇族と結婚して、基本的人権を失う(または制限される)ことを選ぶ人間は、時代とともに減りこそすれ、増えることはないだろう。

 つまり、皇族の特別扱い(=基本的人権がないor制限される、等々)を強調すればするほど、結婚が難しくなるというアイロニーがあるのである。

 この問題は、現実には男性皇族と一般女性の結婚の場合にだけ起こる。なぜなら、女性皇族は(現在の皇室典範では)一般男性と結婚すれば、皇籍を離脱して、皇族ではない一般国民となるからである。

 戦前は現在とは状況が違っていた。天皇・皇族の他に、かつての公家や大名の子孫である華族という身分の集団がいて、一般国民とは違った法的地位や生活様式を保ち、皇族の結婚相手の女性を輩出していたからである。

 いま、華族はもはや存在しない。天皇・皇族以外はすべて、基本的人権が備わり、自由なライフスタイルの味を覚え、普通に社会生活をしている国民しかいないのである。

 よく「皇位継承は、男系に限るべきか、女系も認めるべきか」という議論が行われることがあるが、男系だろうと女系だろうと、結婚相手が見つからなければどうにもならないのである。そして今の日本の体制は、個人の意思に反して「嫁にやる」ということは、法的には不可能である。

 逆に、天皇・皇族の立場が、一般国民に近づけば近づくほど、結婚へのハードルは低くなるだろう。ただその方向で進めていくということは、いずれ憲法改正をして、天皇の地位を変えるしかなくなるだろう。それがどのような姿になると考えられるのか、それは改めて考えることとしたい。

呪いのわら人形と脅迫罪

 朝日新聞の記事によれば、群馬県で、ゲームセンター経営者の女性の名前を書いた“呪いのわら人形”に釘を刺して、その女性が使っている駐車場に置いておいた男が、脅迫罪の疑いで逮捕されたという。

 法学を学んだ人なら知っていると思うが、刑法の教科書によく出てくる論点として、「わら人形に釘を刺して誰かを呪い殺そうとしたら(=“丑の刻参り”)殺人未遂になるか?」というのがある。
 もちろんわら人形で呪っても人を殺すことはできない(と現代の科学では考えられている)ので、結論としては殺人未遂にはならないのだが、この記事の事案では「殺人罪(の未遂)」ではなく、「脅迫罪」で逮捕されている。

 脅迫罪は、相手の生命、身体、自由、名誉または財産に対して害を加えるということを告知して脅した場合に成立する。

 この記事の事件は裁判にはまだ至っていないのだが、脅迫罪にあたると警察が判断した理由は、いうまでもなく呪いに危険なパワーがあるからではなく、呪いのわら人形に釘を刺して相手に見せつける行為は、今後(単なる呪いにとどまらず)現実に危害を加える意思があることを示したことにもなると考えられたからだろう。
 一般的にいって、釘の刺されたわら人形を見て恐怖を感じるとすれば、それは呪いのパワーが恐ろしいからではなく、本当に刺されたりするのではないかと思うからである。

 ただ実際には、脅迫といえるかどうかの線引きが微妙な事案は多いと思われる。
 たとえば「お前を殺してやる」といえば、実際に殺す意思はなかったとしても、相手に「殺されるのではないか」と思わせて脅す意思はあったことになるから、脅迫罪が成立しうる。
 しかし「お前は神の怒りに触れて落雷により死ぬだろう」と言ったとしても、神の怒りや落雷を自分でコントロールできるとは普通は考えられていないから、脅迫罪にはあたらないというのが、一般的な刑法の文献での説明である。
 ただし、脅迫する側の人間には神の怒りや落雷をコントロールできる能力がある、と相手側が信じている場合は、脅迫罪が成立するとされる。(たとえば、神通力があると称している宗教の教祖が、その信者を脅すような場合である。)

 なお脅迫罪は、さきほど述べたように、相手側に「告知」しなければ成立しない罪である。従って、相手に知らせることなく、こっそり丑の刻参りをしてわら人形に釘を刺しても、それだけでは脅迫罪は成立しない。相手の聞いてないところで「お前を殺してやる」と言ったところで脅迫罪には当然あたらないのと同じことである。

犯罪者は合理的に行動するのか?(荘司雅彦弁護士の記事を読んで)

 アゴラに、「刑法の目的と社会の安全を達成するには?」という荘司雅彦弁護士のブログ記事が掲載されていて、犯罪防止と刑罰の関係について述べている。

 荘司弁護士は次のようにいう。

どのような手段を用いれば、できるだけ多くの人を「犯罪は割に合わない」と考えるように仕向けることができるでしょうか?

 この点については、「刑罰の重さ」に「刑罰の執行確率」を乗じた「期待刑罰」が意味を持ちます。
例えば、死刑という刑罰が50%の割合で執行されるとしたら、ほとんどの人は「犯罪は割に合わない」と思うでしょう。仮に10万円の罰金刑でも80%の割合で執行されるしたら期待刑罰は8万円。それで1万円を盗むのは絶対に割が合いませんよね。

刑罰の重さは刑法を改正するだけで実現できます。極端な話、どのような犯罪でも(こまわり君のように)「死刑!」と規定してしまえばいいので、さほどコストはかかりません。」

 この荘司弁護士の説明は、「犯罪が割に合わないと考えた場合は、人間は犯罪を実行しない」という命題が大前提となっていることに注意が必要である。
 これは「法と経済学」という学問分野の考え方によるものだが、この考え方は、ミクロ経済学のように、個々人が経済的合理性に基づいて行動するという仮定に基づいていると思われる。

 この荘司弁護士の記事に対して、特に批判とか賛同とかいうわけではないのだが、私なりにコメントをしておきたい。

 まず犯罪といっても様々な類型があり、合理的に行動するといえるのは、あくまでそのうちの一部分だといえる。

 最もわかりやすいのは、大企業の社員による業務上横領と、公務員による収賄である
これらは、犯罪を犯すことによって得られる利益と、刑罰によって失う利益とを比較して行動するといえるだろう。メガバンクの行員や国家公務員のキャリア組が、横領や収賄をすれば、失うものも大きいはずである。
 まさに荘司弁護士がいうように、「割に合わない」場合には実行されにくい犯罪といえるだろう。

 一方、性犯罪、薬物犯罪、ストーカー犯罪や怨恨による殺傷などは、感情や欲望や衝動によって行うものであって、かならずしも合理的な判断に基づいて行動するわけではないから(というより、合理的に判断する人間であれば、そもそもこれらの犯罪は犯さない)、上記の命題の妥当性はかなり限られてくるといえるだろう。

 また実際問題としては、犯罪に対する刑罰を重くすれば重くするほど、犯罪抑止効果がそのまま上がるというわけでもない。

 たとえば100円盗んでも死刑になる場合、たまたま何らかの理由で100円を盗んでしまった者は、どう行動するだろうか。死刑という不利益があるのに、得られる利益が100円というのは、確かに割が合わない。
 そこで、どうせ死刑ならということで、もっと犯罪を重ねて、コストを回収しようとするわけである。100円盗んで死刑にされるのは割りに合わないが、どうせ死刑に処せられるならば、さらに強盗や殺人や窃盗を繰り返して、財産を家族や友人に与えてやるくらいすれば、「割に合う」ということになってしまう。
 荘司弁護士の言い方を借りれば、「期待刑罰」の不利益をカバーするため、それを上回る利益を犯罪で得ようとして、さらに犯罪を重ねるわけである。
 (黒澤明の映画『用心棒』の中にも、「1人殺そうと、何人殺そうと、死刑にされるのは一度だけだ」という意味のセリフがある。)

 さらに、「割に合わないかどうか」とは別な視点になるが、刑務所への収容が長すぎると、出所後の社会復帰が困難となり、さらに再犯を重ねる人もいるということも考える必要があるだろう。

対馬から盗まれて韓国に持ち込まれた仏像の問題・続き

 対馬から盗まれて韓国に持ち込まれた高麗時代の仏像の問題について、さらに調べてみた。

 韓国の地方裁判所としては

(1)この仏像は、高麗時代(1330年)に作られて「浮石寺」に納められた
(2)対馬の観音寺は、倭寇集団の頭目が1526年に創建した
(3)仏像が制作された1330年以降5回にわたり倭寇がその地域に侵入した記録がある
(4)この仏像の腹蔵記録には、高麗から日本に正常な形で移されたことを示す記載はない
(5)この仏像には、本来あるべき宝冠等がなく、焼け焦げた跡がある

・・・等を根拠として、この仏像は、倭寇によって略奪された後、対馬に運び込まれて、観音寺に置かれることになったと推認したようである。
(以上の(1)~(5)が事実なのかどうかは、もちろん私にはわからない。
ただ、韓国の裁判所は、この(1)~(5)の事実が存在することを認めたうえで、そこから、結論を導いている。)

 このあたりは、以下の韓国メディアの記事が比較的詳しい。

ハンギョレ新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170127-00026356-hankyoreh-kr
中央日報
http://japanese.joins.com/article/129/225129.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|article|ichioshi

 次の疑問として、仮に上記のとおり、この仏像が倭寇によって奪われて対馬に運び込まれたものだとしても、既に観音寺の所有物になっているのではないか、ということである。

 近代より前の時代の所有権の考え方をどう見るかは難しいところなので、ここでは触れないでおくが、とりあえず近代の民法が施行された後の段階だけで考えてみても、「取得時効」という概念があるはずである。
 仮に盗まれたものであることがわかっていたとしても、平穏かつ公然と20年以上占有していれば、所有権を取得するのである。
 観音寺(の宗教法人)は、当然ながら20年以上、この仏像を占有していたわけであるから、日本の民法を前提とするならば、既に観音寺の所有物になっているといえる。

 この点、韓国の民法はどうかといえば、やはり「取得時効」の概念はあるので、日本と大差はないようである。
 (★なお、1910年以降の日韓併合の時代、「朝鮮民事令」という法令により、基本的に朝鮮半島でも日本の民法に拠ることとされていた。私に細かい知識はないので、機会があればもう少し調べてみたいと思う。)

 このように「時効によって取得している」という議論が、裁判でどのように扱われたのかは、定かではない。

 (もっとも、時効によって取得したことを主張できるのは、観音寺であって、韓国政府ではないということかも知れない。
 今回の裁判は、日本への返還を考える韓国政府と、所有権を主張する浮石寺との間の争いであって、観音寺は当事者ではないことに注意。)

対馬で盗まれた仏像について、韓国の裁判所が韓国の寺に所有権を認めた件

 2012年、長崎県対馬市の観音寺から、県指定文化財の仏像「観世音菩薩坐像」が韓国人窃盗団に盗み出され、韓国に運び込まれた後、韓国当局に押収されていた。

 韓国政府はこの仏像を返還する意向を示していたのだが、ある韓国の寺が、この仏像について、「かつて所蔵していたが、中世に日本の倭寇によって略奪された」と主張して、韓国政府を相手取り、仏像を引き渡すよう求めて訴訟を提起していた。

 この訴訟について、韓国の大田地方裁判所は26日、韓国の寺の所有権を認め、仏像を引き渡すよう命じる判決を下したという。

 (たとえば下記リンク参照)

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170126/k10010853511000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_001

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170126-00000037-jij-kr

 

 感情的な話はさておき、この件では2点の疑問を感じた。

(1)仮にこの韓国の寺が中世の時代に本当にこの仏像を所蔵していて、それが倭寇に略奪されて対馬の寺におさまったのだとしても、現在において、この韓国の寺は、現代の法体系での「所有権」をこの仏像について主張できるものなのだろうか。

   韓国の民法は知らないが、日本の民法の場合は、たとえ盗品であることがわかっていたとしても、所有の意思をもって、平穏かつ公然と占有していれば、20年間で時効により所有権を取得できることとされている。

(2)そもそも論として、倭寇が仏像を盗み出して日本の寺に譲ったりするものなのだろうか。当時の日本の寺が、金で買い取ったか、無償で受け取ったかは知らないが、倭寇からその仏像を手に入れたということだろうか。

  倭寇が食料品や金銀財宝や家畜を盗み出すというのは理解出来るが、仏像を盗み出して日本に持ち込んだ例は、実際問題としてあるのだろうか。

 私は報道でしかこの事件のことを知らないので、ふと思い浮かんだ疑問を書いてみた次第である。韓国の裁判所の判決を見てみれば、具体的に説得力ある説明が何か書いてあるのかも知れないが・・・

★上記の(1)の点について若干補足。

まず、中世(高麗時代)のこの寺と、現在の寺(を経営する宗教法人?)との間に、法的な連続性があるといえるのかどうか。

また、1910年に韓国併合が行われて、朝鮮半島でも日本の民法が施行されていたはずであるが、どんなに遅く見てもその時期には、日本列島・朝鮮半島両方を含めた領域において、同一の民法の秩序のもとで、その仏像の所有権を日本の寺が有していることは、確定していたと言えるだろう。

2017年5月
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