最近のトラックバック

人気ブログランキング


フォト

法学・法律

香山リカがチャンネル桜および出演者に対して訴訟を提起

 香山リカの3月30日付のブログ記事によれば、チャンネル桜のインターネット番組『沖縄の声』に出演した人物3名と、株式会社日本文化チャンネル桜を相手として、東京地裁に訴えを提起したという。

 香山リカ自身のブログおよびツィッターでは、「東京地裁に訴えを提起しました」という言い方しかしていないが、事案の内容を見る限りでは、名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟ということだろう。

 (ここで政治的・思想的な次元の議論には触れるつもりはないが)問題となったチャンネル桜の番組を私は見ていないので、香山リカ自身のブログ記事での説明をとりあえず紹介すると:

 チャンネル桜の2016年10月27日の 「【沖縄の声】ヘリパッド反対派を初起訴、香山リカのツイートが法に触れる可能性あり」というタイトルのコンテンツで、まず、キャスターの栗秋琢磨という人が、香山リカについて、「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」を自らのツィッター投稿により犯していると主張し、さらに、「香山リカの勤務先の診療所に医師法の違反が疑われて監査が入った」「千代田の保健所から監査が入った」等という趣旨のことを述べ、それについて、平原伸泰および鉢嶺元治という出演者が相づちを打つなどした、ということのようである。

 まず、香山リカのツィッターでの一定の言動が「対面診療義務違反」「プライバシー侵害ないし守秘義務違反」にあたるかどうかは、問題となっている特定の言動が具体的にどのようなものだったのか、そしてそれをどのように法的に評価するかの問題であるが、ここでは立ち入らない。

 一方、「保健所から監査が入った」と述べた点については、一定の事実についての主張であるが、監査が実際におこなわれていたかどうかにかかわらず、まず、それは香山リカの社会的評価を低下させる発言として、名誉毀損にあたると評価される可能性がある。名誉毀損は、真実であったとしても成立しうる。
 (ただし、以下に述べるとおり、一般論としては、一定の要件をみたす場合に、主張した内容が真実であるか、真実だと誤信したことに相当の理由があった場合に、違法性が阻却されて、名誉毀損が成立しなくなる場合もある。)

 この件で、栗秋が反論するとすれば、名誉毀損について、違法性阻却の事由があることを主張するのが定石だろう。
 具体的には、①自分が香山リカについて述べたことは、公共の利害に関する事実にかかるもので、②目的がもっぱら公益を図ることであり、③真実である(または真実でなかったとしても、真実だと誤信するのに相当の理由があった)、と主張すると思われる。もちろんこの主張が裁判所で認められるかどうかは、やってみなければわからない。

 なお、ブログでの説明を見る限りでは、平原および鉢嶺という人は、ただ単に相づちを打つに近い発言だったようにも見える。ただ単に相づちを打っただけでも名誉毀損にあたるのかどうかという点は、興味深い論点になる可能性があるだろう。(実際の番組では、もっと踏み込んだ発言をしていたのかも知れないが、そこは見ていないのでわからない。)

天皇の基本的人権と皇族の「ご結婚」問題

 天皇の生前退位(または譲位)についての議論にも関係するが、天皇(と皇族)に基本的人権があるのかどうかというのは、法学的にも一つの論点である。

 憲法学の世界では、「天皇には基本的人権はない」という学説と、「基本的人権はあるが制限を受けている」という学説の両方が存在する。

 ここでいう「基本的人権がない」という言葉の意味は、人として生きる価値がどうでもいいとかいう“不敬”な意味ではもちろんなく、憲法で定められている基本的人権の保障(たとえば表現の自由とか、職業選択の自由)が及ばない、ということである。

 「天皇に基本的人権はない」という説は、基本的人権とは、歴史的に、フランス革命などの時代に個人を絶対王権や封建領主などに対して守るために作られた概念であって、個人を国家に対して守る働きをするものだと考えている。そして国民には基本的人権が認められるようになり、その内容や対象範囲が拡大されていって、最後に「国民」に含まれないまま残ったのが、日本の場合でいえば「天皇」(と皇族)だと考える。天皇という地位は、いわば近代以前の身分制の中で最後に残った「飛び地」のようなものであって、その外側に基本的人権を保障された均質な国民がいる、というイメージである。
(憲法学者では、たとえば樋口陽一、長谷部恭男)

 これに対して「基本的人権はあるが制限されている」という説は、まず現時点で、国家の中に均質な個人が集合している状態をイメージする。すべての個人には、本来的には基本的人権が存在している。まずその状態から出発するのである。そのうえで、天皇・皇族という一部の人にだけは、特殊な事情から、その、もともと持っている基本的人権に特殊な「制限」を加えられている。これが天皇ということである。
(憲法学者では、たとえば芦部信義、戸波江二)

 つまり、「天皇に基本的人権はない」説は、歴史的な流れの中で物事を見て、基本的人権という概念がなかった時代の最後の名残が天皇とか皇族だと考える。ここでは、天皇や皇族は、そもそも「国民」には含まれない。
 これに対して、「天皇に基本的人権はあるが制限されている」説は、まずは国家を構成するすべての国民に基本的人権がある状態から出発して、そこから例外扱いを絞り込んでいくという思考プロセスをたどるわけである。ここでは、天皇や皇族は、「国民の中の例外」ということになる。

 以上の話は、現在の憲法の解釈や説明の仕方の違いであって、結論としてはそれほど違ってくるわけではない。ただし、これから天皇・皇族がどうあるべきかというのは、また別の問題である。

 これからの国のあり方として、できるだけ天皇と皇族を一般人の扱いに近づけるべきだと考えるか、それとも、まったく違う存在として扱い続けるべきだろうか。
 (前者の究極の形が、いわゆる「天皇制の廃止」論ということになるが、それはまた別な機会に触れる。)

 いわゆる保守の立場の論者には、天皇や皇族と一般人との断絶、隔絶を強調し、生活様式も含めて可能な限り一般人とは断絶したものであるべきだ、というニュアンスの人が多い。

 ここで一つ考えなければならないのは、皇室は血筋で保たれているから、結婚して子孫が生まれなければ成り立たないということである。結婚相手がなければ皇室は絶えてしまう。

 ところが一方、天皇や皇族が一般人とは違うということを強調すればするほど、天皇や皇族の結婚は、難しくなるといえるだろう。
 なぜなら、皇族以外の国民はすべて「一般人」なのであって、基本的人権や自由を享受している。皇族と結婚して、基本的人権を失う(または制限される)ことを選ぶ人間は、時代とともに減りこそすれ、増えることはないだろう。

 つまり、皇族の特別扱い(=基本的人権がないor制限される、等々)を強調すればするほど、結婚が難しくなるというアイロニーがあるのである。

 この問題は、現実には男性皇族と一般女性の結婚の場合にだけ起こる。なぜなら、女性皇族は(現在の皇室典範では)一般男性と結婚すれば、皇籍を離脱して、皇族ではない一般国民となるからである。

 戦前は現在とは状況が違っていた。天皇・皇族の他に、かつての公家や大名の子孫である華族という身分の集団がいて、一般国民とは違った法的地位や生活様式を保ち、皇族の結婚相手の女性を輩出していたからである。

 いま、華族はもはや存在しない。天皇・皇族以外はすべて、基本的人権が備わり、自由なライフスタイルの味を覚え、普通に社会生活をしている国民しかいないのである。

 よく「皇位継承は、男系に限るべきか、女系も認めるべきか」という議論が行われることがあるが、男系だろうと女系だろうと、結婚相手が見つからなければどうにもならないのである。そして今の日本の体制は、個人の意思に反して「嫁にやる」ということは、法的には不可能である。

 逆に、天皇・皇族の立場が、一般国民に近づけば近づくほど、結婚へのハードルは低くなるだろう。ただその方向で進めていくということは、いずれ憲法改正をして、天皇の地位を変えるしかなくなるだろう。それがどのような姿になると考えられるのか、それは改めて考えることとしたい。

呪いのわら人形と脅迫罪

 朝日新聞の記事によれば、群馬県で、ゲームセンター経営者の女性の名前を書いた“呪いのわら人形”に釘を刺して、その女性が使っている駐車場に置いておいた男が、脅迫罪の疑いで逮捕されたという。

 法学を学んだ人なら知っていると思うが、刑法の教科書によく出てくる論点として、「わら人形に釘を刺して誰かを呪い殺そうとしたら(=“丑の刻参り”)殺人未遂になるか?」というのがある。
 もちろんわら人形で呪っても人を殺すことはできない(と現代の科学では考えられている)ので、結論としては殺人未遂にはならないのだが、この記事の事案では「殺人罪(の未遂)」ではなく、「脅迫罪」で逮捕されている。

 脅迫罪は、相手の生命、身体、自由、名誉または財産に対して害を加えるということを告知して脅した場合に成立する。

 この記事の事件は裁判にはまだ至っていないのだが、脅迫罪にあたると警察が判断した理由は、いうまでもなく呪いに危険なパワーがあるからではなく、呪いのわら人形に釘を刺して相手に見せつける行為は、今後(単なる呪いにとどまらず)現実に危害を加える意思があることを示したことにもなると考えられたからだろう。
 一般的にいって、釘の刺されたわら人形を見て恐怖を感じるとすれば、それは呪いのパワーが恐ろしいからではなく、本当に刺されたりするのではないかと思うからである。

 ただ実際には、脅迫といえるかどうかの線引きが微妙な事案は多いと思われる。
 たとえば「お前を殺してやる」といえば、実際に殺す意思はなかったとしても、相手に「殺されるのではないか」と思わせて脅す意思はあったことになるから、脅迫罪が成立しうる。
 しかし「お前は神の怒りに触れて落雷により死ぬだろう」と言ったとしても、神の怒りや落雷を自分でコントロールできるとは普通は考えられていないから、脅迫罪にはあたらないというのが、一般的な刑法の文献での説明である。
 ただし、脅迫する側の人間には神の怒りや落雷をコントロールできる能力がある、と相手側が信じている場合は、脅迫罪が成立するとされる。(たとえば、神通力があると称している宗教の教祖が、その信者を脅すような場合である。)

 なお脅迫罪は、さきほど述べたように、相手側に「告知」しなければ成立しない罪である。従って、相手に知らせることなく、こっそり丑の刻参りをしてわら人形に釘を刺しても、それだけでは脅迫罪は成立しない。相手の聞いてないところで「お前を殺してやる」と言ったところで脅迫罪には当然あたらないのと同じことである。

犯罪者は合理的に行動するのか?(荘司雅彦弁護士の記事を読んで)

 アゴラに、「刑法の目的と社会の安全を達成するには?」という荘司雅彦弁護士のブログ記事が掲載されていて、犯罪防止と刑罰の関係について述べている。

 荘司弁護士は次のようにいう。

どのような手段を用いれば、できるだけ多くの人を「犯罪は割に合わない」と考えるように仕向けることができるでしょうか?

 この点については、「刑罰の重さ」に「刑罰の執行確率」を乗じた「期待刑罰」が意味を持ちます。
例えば、死刑という刑罰が50%の割合で執行されるとしたら、ほとんどの人は「犯罪は割に合わない」と思うでしょう。仮に10万円の罰金刑でも80%の割合で執行されるしたら期待刑罰は8万円。それで1万円を盗むのは絶対に割が合いませんよね。

刑罰の重さは刑法を改正するだけで実現できます。極端な話、どのような犯罪でも(こまわり君のように)「死刑!」と規定してしまえばいいので、さほどコストはかかりません。」

 この荘司弁護士の説明は、「犯罪が割に合わないと考えた場合は、人間は犯罪を実行しない」という命題が大前提となっていることに注意が必要である。
 これは「法と経済学」という学問分野の考え方によるものだが、この考え方は、ミクロ経済学のように、個々人が経済的合理性に基づいて行動するという仮定に基づいていると思われる。

 この荘司弁護士の記事に対して、特に批判とか賛同とかいうわけではないのだが、私なりにコメントをしておきたい。

 まず犯罪といっても様々な類型があり、合理的に行動するといえるのは、あくまでそのうちの一部分だといえる。

 最もわかりやすいのは、大企業の社員による業務上横領と、公務員による収賄である
これらは、犯罪を犯すことによって得られる利益と、刑罰によって失う利益とを比較して行動するといえるだろう。メガバンクの行員や国家公務員のキャリア組が、横領や収賄をすれば、失うものも大きいはずである。
 まさに荘司弁護士がいうように、「割に合わない」場合には実行されにくい犯罪といえるだろう。

 一方、性犯罪、薬物犯罪、ストーカー犯罪や怨恨による殺傷などは、感情や欲望や衝動によって行うものであって、かならずしも合理的な判断に基づいて行動するわけではないから(というより、合理的に判断する人間であれば、そもそもこれらの犯罪は犯さない)、上記の命題の妥当性はかなり限られてくるといえるだろう。

 また実際問題としては、犯罪に対する刑罰を重くすれば重くするほど、犯罪抑止効果がそのまま上がるというわけでもない。

 たとえば100円盗んでも死刑になる場合、たまたま何らかの理由で100円を盗んでしまった者は、どう行動するだろうか。死刑という不利益があるのに、得られる利益が100円というのは、確かに割が合わない。
 そこで、どうせ死刑ならということで、もっと犯罪を重ねて、コストを回収しようとするわけである。100円盗んで死刑にされるのは割りに合わないが、どうせ死刑に処せられるならば、さらに強盗や殺人や窃盗を繰り返して、財産を家族や友人に与えてやるくらいすれば、「割に合う」ということになってしまう。
 荘司弁護士の言い方を借りれば、「期待刑罰」の不利益をカバーするため、それを上回る利益を犯罪で得ようとして、さらに犯罪を重ねるわけである。
 (黒澤明の映画『用心棒』の中にも、「1人殺そうと、何人殺そうと、死刑にされるのは一度だけだ」という意味のセリフがある。)

 さらに、「割に合わないかどうか」とは別な視点になるが、刑務所への収容が長すぎると、出所後の社会復帰が困難となり、さらに再犯を重ねる人もいるということも考える必要があるだろう。

対馬から盗まれて韓国に持ち込まれた仏像の問題・続き

 対馬から盗まれて韓国に持ち込まれた高麗時代の仏像の問題について、さらに調べてみた。

 韓国の地方裁判所としては

(1)この仏像は、高麗時代(1330年)に作られて「浮石寺」に納められた
(2)対馬の観音寺は、倭寇集団の頭目が1526年に創建した
(3)仏像が制作された1330年以降5回にわたり倭寇がその地域に侵入した記録がある
(4)この仏像の腹蔵記録には、高麗から日本に正常な形で移されたことを示す記載はない
(5)この仏像には、本来あるべき宝冠等がなく、焼け焦げた跡がある

・・・等を根拠として、この仏像は、倭寇によって略奪された後、対馬に運び込まれて、観音寺に置かれることになったと推認したようである。
(以上の(1)~(5)が事実なのかどうかは、もちろん私にはわからない。
ただ、韓国の裁判所は、この(1)~(5)の事実が存在することを認めたうえで、そこから、結論を導いている。)

 このあたりは、以下の韓国メディアの記事が比較的詳しい。

ハンギョレ新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170127-00026356-hankyoreh-kr
中央日報
http://japanese.joins.com/article/129/225129.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|article|ichioshi

 次の疑問として、仮に上記のとおり、この仏像が倭寇によって奪われて対馬に運び込まれたものだとしても、既に観音寺の所有物になっているのではないか、ということである。

 近代より前の時代の所有権の考え方をどう見るかは難しいところなので、ここでは触れないでおくが、とりあえず近代の民法が施行された後の段階だけで考えてみても、「取得時効」という概念があるはずである。
 仮に盗まれたものであることがわかっていたとしても、平穏かつ公然と20年以上占有していれば、所有権を取得するのである。
 観音寺(の宗教法人)は、当然ながら20年以上、この仏像を占有していたわけであるから、日本の民法を前提とするならば、既に観音寺の所有物になっているといえる。

 この点、韓国の民法はどうかといえば、やはり「取得時効」の概念はあるので、日本と大差はないようである。
 (★なお、1910年以降の日韓併合の時代、「朝鮮民事令」という法令により、基本的に朝鮮半島でも日本の民法に拠ることとされていた。私に細かい知識はないので、機会があればもう少し調べてみたいと思う。)

 このように「時効によって取得している」という議論が、裁判でどのように扱われたのかは、定かではない。

 (もっとも、時効によって取得したことを主張できるのは、観音寺であって、韓国政府ではないということかも知れない。
 今回の裁判は、日本への返還を考える韓国政府と、所有権を主張する浮石寺との間の争いであって、観音寺は当事者ではないことに注意。)

対馬で盗まれた仏像について、韓国の裁判所が韓国の寺に所有権を認めた件

 2012年、長崎県対馬市の観音寺から、県指定文化財の仏像「観世音菩薩坐像」が韓国人窃盗団に盗み出され、韓国に運び込まれた後、韓国当局に押収されていた。

 韓国政府はこの仏像を返還する意向を示していたのだが、ある韓国の寺が、この仏像について、「かつて所蔵していたが、中世に日本の倭寇によって略奪された」と主張して、韓国政府を相手取り、仏像を引き渡すよう求めて訴訟を提起していた。

 この訴訟について、韓国の大田地方裁判所は26日、韓国の寺の所有権を認め、仏像を引き渡すよう命じる判決を下したという。

 (たとえば下記リンク参照)

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170126/k10010853511000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_001

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170126-00000037-jij-kr

 

 感情的な話はさておき、この件では2点の疑問を感じた。

(1)仮にこの韓国の寺が中世の時代に本当にこの仏像を所蔵していて、それが倭寇に略奪されて対馬の寺におさまったのだとしても、現在において、この韓国の寺は、現代の法体系での「所有権」をこの仏像について主張できるものなのだろうか。

   韓国の民法は知らないが、日本の民法の場合は、たとえ盗品であることがわかっていたとしても、所有の意思をもって、平穏かつ公然と占有していれば、20年間で時効により所有権を取得できることとされている。

(2)そもそも論として、倭寇が仏像を盗み出して日本の寺に譲ったりするものなのだろうか。当時の日本の寺が、金で買い取ったか、無償で受け取ったかは知らないが、倭寇からその仏像を手に入れたということだろうか。

  倭寇が食料品や金銀財宝や家畜を盗み出すというのは理解出来るが、仏像を盗み出して日本に持ち込んだ例は、実際問題としてあるのだろうか。

 私は報道でしかこの事件のことを知らないので、ふと思い浮かんだ疑問を書いてみた次第である。韓国の裁判所の判決を見てみれば、具体的に説得力ある説明が何か書いてあるのかも知れないが・・・

★上記の(1)の点について若干補足。

まず、中世(高麗時代)のこの寺と、現在の寺(を経営する宗教法人?)との間に、法的な連続性があるといえるのかどうか。

また、1910年に韓国併合が行われて、朝鮮半島でも日本の民法が施行されていたはずであるが、どんなに遅く見てもその時期には、日本列島・朝鮮半島両方を含めた領域において、同一の民法の秩序のもとで、その仏像の所有権を日本の寺が有していることは、確定していたと言えるだろう。

蓮舫と外患誘致罪と法律事務所の広告

またまた民進党の蓮舫代表に対する「告発」について。

(ここでも繰り返しになるが、これは、蓮舫の言動についての是非とか政治的な評価とか価値判断はここでは一切立ち入らず、法律面での興味だけに基づいて書く記事である。)

 ネットで何となく見ていたら、蓮舫議員について「国籍法・公職選挙法違反」と「公正証書原本不実記載等」の他に、「外患誘致」で告発した人もいるようで、これはいささか驚いている。
 外患誘致についての「告発状」もネットで公開されている(これが東京地検に実際に提出された告発状の内容と同じかどうかはわからない。)
 「国籍法・公職選挙法違反」と「公正証書原本不実記載等」については一部の新聞で報道されたが、「外患誘致」についてはどこのメディアも黙殺しているようである。

 さて、まず結論からいうと、外患誘致罪にはまったく該当しない

 外患誘致罪が成り立たないのはあまりにも明らかなので、わざわざ真面目に否定的なコメントや説明をする人すらいないのかも知れないが、この件に興味のある人のため、一応簡単に説明しておきたい。

 なぜ蓮舫の行為が外患誘致罪に該当しないかというと、単純に外患誘致罪が成立するための要件(構成要件)を満たしていないからであり、それに尽きる。

 といっても、これだけではトートロジーのようになってしまうので、具体的に説明すると、ある人間の行為について外患誘致罪が成立するには、

(1)その者が、日本国に対する武力行使について、外国政府と通謀したこと
(2)上記の通謀の結果として、日本国への武力の行使がなされたこと

この2つの要件が充たされなければならない。
ここでいう「通謀」とは、意思を連絡し合って、合意が成立することまでが必要とされる。外国政府の関係者との雑談で何となく話題に出した、という程度では足りない。

また、外国政府との通謀とは関係なく、外国政府が一方的に武力行使を決めて攻撃してきた場合も、上記の(2)の部分だけが存在して(1)は欠けていることになるから、外患誘致罪は成立しない。 

たとえば、

(1)平成〇年〇月頃、A国の外務大臣と、北海道への攻撃について話し合い、合意に達した。
(2)上記の通謀に基づいて、A国政府は、北海道を攻撃する決定を下し、平成〇年〇月〇日午前〇時、同国空軍は、北海道××地域に対して空対地ミサイルによる攻撃を行った

というところまで具体的にいって、はじめて外患誘致罪が成立するわけである。

 従って、蓮舫を外患誘致で告発したいのであれば、

(1)日本国に対する武力行使について、どこの国と、どのように通謀したのか
(2)その結果として、日本国に、その国が、どのように武力行使をしたのか

について説明する必要があるのだが、もちろんそんなことは無理である。
((1)の部分は、たとえば「中国政府の要人といろいろな話題について仲良く話し合った」というだけではもちろん該当しない。「中国政府の要人と、日本に対する武力攻撃について話し合った」というところまで踏み込むことができなければならない。)

 あまり良い喩えではないが、本件で「外患誘致罪」の成立を主張するのは、比喩的にいえば、誰が殺されたという肝心な部分の説明がないのに、殺人罪の成立を主張するようなものである。(氏名不詳でもかまわないが、殺されたのは特定の人間でなければならない。)

なお、外患誘致には、「未遂」と「予備・陰謀」がある。
未遂が成立するためには、少なくとも、日本への武力攻撃について外国と話し合いをするところまでいかなければならない。
予備・陰謀の場合は、日本への武力攻撃についての外国との話し合いの準備行為や謀議をする場合であり、「武力攻撃についての話し合いの準備行為」を具体的に説明できなければならない。
従って、外患誘致の未遂や予備・陰謀についても告発するのは無理だろう。

 ところでこの話題が広がったのは、高島章弁護士という人が、9月にtwitterで次のようにつぶやいて話題を呼んだことが一因なのではないかと思う。https://twitter.com/BarlKarth/status/775894492276662272

 高島弁護士とは面識はないが、刑事事件を多く手がけておられる方のようで、上記のtwitterをよく読んでみると、蓮舫をネタにしているのではなく、むしろアトム法律事務所というところをネタにしてブラックジョークを飛ばしていることがわかる。蓮舫は二次的な材料に過ぎない。

 アトム法律事務所というのは(高島弁護士とは別な事務所)、刑事事件専門として手広く広告をしている東京の弁護士の事務所だが、その公式サイトで、「外患誘致罪で逮捕されたら・・・」などという記事があったので、それを見て高島弁護士が面白おかしく触れたのだろう。

http://www.atombengo.com/news/keijibengopost12620.html#breadcrumb

 刑事事件専門の弁護士の広告で「窃盗で逮捕されたら当事務所にご相談ください」とか「強制わいせつで逮捕されたら弁護はおまかせを」というならわかるが、「外患誘致罪で逮捕されたら・・・」というのは、いささか非現実的で面白い。アトム法律事務所の先生方は、受け狙いでやったのだろうか。普通は経験しないようなそんな罪名をわざわざ広告に書いたので、同業界の高島弁護士からネタにされたというわけである。

 (★さらに見てみると、アトム法律事務所の公式サイトには「内乱罪で逮捕されたら・・・」とか「私戦予備罪で逮捕されたら・・・」などというのもあった。)

 そこまでは良いとして、上記の高島弁護士のtwitterに対するネットでのいろいろな反応を観察してみると、どうも、蓮舫について外患誘致罪が成り立つ可能性が一応ある(or処罰までいくかどうかは別として、一応まじめに議論してみる価値はある)・・・と、ジョークではなく本気で思い込んでしまった人が一定の程度いたように思われる。

蓮舫に対する公正証書原本不実記載等についての告発

 蓮舫の国籍問題に関して「国籍法・公職選挙法違反」についての告発が既におこなわれていたが、12月13日に今度は「公正証書不実記載等罪(の未遂)」での告発が新たに加わった。

告発状は以下のサイトで公開されている。
http://r4kokuhatsu.wixsite.com/jouhouteikyou

ここでは、政治的な価値判断ではなく、純粋に法律的な観点からこの告発について検討してみたい。

まず前提知識として、二重国籍の人が日本国籍を選択するには、国籍法14条により:
 (A)外国の国籍を“離脱”するか
 (B)日本国籍を選択し外国籍を放棄する“宣言”をするか
いずれかの手続を要することとされており、この手続が戸籍法106条に定められているということは押さえておきたい。

 そして役所の実務としては、(A)については「外国国籍喪失届」、(B)については「国籍選択届」という書式を提出することになっている。

さて、本件の時系列の主な部分を整理すると、

(1)9月6日、蓮舫の説明によれば、台湾国籍の「放棄」の申請を台湾当局に対して行った。http://www.news24.jp/articles/2016/09/23/04341782.html

  ★正確には台湾では「国籍喪失許可申請」というようである。

(2)9月23日、蓮舫の説明によれば、台湾当局から、手続が完了したという報告と証明書を受け取り、戸籍法106条前段(★正確には第1項)にのっとって、区役所に対して外国の国籍の離脱の届出を行った。(つまり上記(A))

(3)10月15日の会見での蓮舫の説明によれば、都内の区役所に提出した台湾籍の離脱証明書が受理されず(上記(A)の手続ができなかったということである)、行政指導により、戸籍法に基づき日本国籍の選択宣言をした。(つまり上記(B)のパターンに切りかえた。ただし実際に「宣言」をした日付は不明。9月23日~10月15日の間ということになろう。)http://www.sankei.com/politics/news/161015/plt1610150010-n1.html

・・・ということになるが、このうち上記(2)の時点で、区役所に外国国籍喪失届(戸籍法106条第1項の届け出)を提出するためには、同条第2項により、外国の国籍の喪失を証明する書面を添付しなければならない。

蓮舫がどのような書面を添付したのかはわからないが、(2)の9月23日の報道によれば「私の台湾籍の離脱手続に関しまして、先ほど台湾当局から、手続が完了したという報告と証明書をいただきました」と述べていたところから、当時は、台湾籍を喪失した証明書なのかと思われていた。

 ところで、台湾の国籍に関する手続は、手続をする本人だけでなく誰もがインターネットで検索できるようになっており(このこと自体が驚きだが)、これによると、蓮舫は、国籍喪失の手続については、10月17日時点で台湾の内政部の審査が終わり、外交部に文書が送られた段階だったということである。

つまり、蓮舫が10月17日より一定期間前のどこかの時点で、台湾に対して国籍離脱の許可の申請を行ったことは事実だったようだが、9月23日の時点ではまだ国籍を喪失しておらず、10月17日時点でまだ審査中だということである。

となると、上記(2)の9月23日の時点では、区役所に対してまだ「外国の国籍の喪失を証明する書面」などまだ存在していないから提出できないはずであり、それでは一体何を提出したのかが問題となってくる。

そこで上記の告発者は、

  ・9月23日の時点では、まだ台湾籍を喪失していないから、国籍喪失の証明書などあるはずもない。しかし一応、区役所でいったんは受け付けられているからには、国籍喪失の証明書に似たような何かの別な書類を添付して、区役所の担当者(戸籍吏員)をだまそうとしたと思われる。
  まだ台湾籍を喪失していないにもかかわらず、喪失したように戸籍に記載させようとしたのだから、公正証書原本不実記載等(の未遂)の罪にあたる

と主張しているわけである。

 さて、蓮舫が9月23日の時点で、区役所に対して一体何を提出したのかについては今のところ報道がないので、現時点ではわからない。一つの推測としては、台湾当局に対して、国籍離脱許可の申請書を出して審査してもらう時に、その受領印のついた申請書副本とか、受理書のようなものは受け取った可能性が考えられる。
 つまり、「国籍喪失の証明書」はまだ発行されていないが、「国籍喪失の申請を出したことの証明書」になりうるものが発行されていたのかも知れない。

 仮にそうだとした場合、これを外国国籍喪失届に添えて区役所に提出することが、「公正証書原本不実記載等」の実行行為にあたるかどうかが問題である。

 本件で公正証書原本不実記載の罪が成立するためには、公務員に対して、真実に反する申立(届出)を行って、戸籍簿に、客観的真実に反する記載をさせることが必要である(ただし本件では未遂の問題)。さらに、上記のことを認識したうえで(=故意に)届出を行ったのでなければならない。

 蓮舫(またはその代わりに区役所に行った人物)が、区役所窓口で実際にどのようなやりとりをしたのかはわからない。
 ただ、真実はどうあれ、
「台湾当局に国籍離脱の許可の申請を行った時点で、まだ正式な離脱の許可が出ていなくても、国籍法14条の“離脱”にあたるから外国国籍喪失の届を出して良いのだとうっかり思い込んでいました。」
とか
「とりあえず提出はしておいて、区役所の担当の方に指導してもらいながら、正式に国籍の喪失の許可が出たら、その時点で証明書を出そうと思っていました」
などと蓮舫が主張したら、少なくとも公正証書原本不実記載等の「故意」(=犯罪を犯す意思)を立証するのが難しくなり、刑事責任を問うところまで持っていくのも非常に困難になると思われる。
 (もちろんその場合、刑法上の罪に問うのが困難だというだけであって、届出についての実際の経緯をまともに蓮舫が説明しなかったという別な問題は残る。)

少年犯罪と少年法と厳罰化

 Yahoo!ニュースに「『少年法』厳罰化に効果はあるか」という記事があり、河合幹雄(桐蔭横浜大学法学部法律学科教授)、岡田尊司(精神科医)、藤井誠二(ノンフィクションライター)、中澤照子(保護司)の4名の論者がそれぞれの見解を述べている。

 この記事の内容はリンク先を読めば良いのでここでは紹介しないが、ともあれ少年による凶悪な犯罪が起こるたびに、「少年法は機能していない」とか「厳罰化すべき」という声が聴かれがちで、極端な場合、「少年法を廃止して厳罰化せよ」という意見すらある。

 それではまず、仮に少年法を「廃止」するとどうなるかといえば、犯罪を犯した少年に対しては、少年法ではなく刑法が適用されることになるから、少年院で教育することをやめて、刑罰を科するということになる。まずここでは、少年院は刑罰施設ではなく、強制的な教育のための施設であることを覚えておこう。この意味で刑務所とはまったく機能が違う。
 (少年院の概要については、法務省のサイトで見ることができる。)

 刑罰には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料および没収があるが、実質的に問題になるのはほとんどの場合が、死刑から罰金までの4種類だろう。死刑はとりあえずおいておいて、少年法を廃止した場合、現行制度であれば少年院に収容されるようなケースであっても、刑務所に収容される場合が当然多く出てくる。
 (ただし逆に、罰金を科されるだけで終わる場合も出てくるだろう。つまりどこにも収容されず、何の教育も受けず、金を払うだけで終わるケースも出てくるということである。)

 一方、「厳罰化」というのは、もう少し具体的にいえば、死刑や無期刑が適用される範囲を拡大すること、また有期刑の刑期を広げるということになるだろう。
 この「厳罰化」については、犯罪予防に効果がないと言われることがある。
 しかし正確にいえば、少なくともただ一点、「社会からの隔離による本人の再犯予防」という意味では「厳罰化」は効果がある。
 死刑や無期の場合は、ほぼ完全に再犯の可能性が根絶されるし、有期刑の場合も、たとえば従来懲役3年だった事案を5年にするならば、再犯ができない期間がそれだけ伸びることになるから、その意味では犯罪予防が強化されることになる。(正確に言えば、仮釈放の制度があるので、刑期そのまま服役するとは限らないが。)

 ただし、ここで考えなければならないのは、死刑や無期刑でない限り、いつかは社会に戻ってくるということである。
 懲役3年なら遅くとも3年後、懲役7年なら7年後に、その少年は社会に復帰する。

 もちろんこれは少年犯罪者に限らず、どんな犯罪者であっても同じことだが、特に少年の場合は、人格・精神の成長期だということを考えなければならない
 14歳や15歳の多感な時期の少年を、学校や少年院(どちらも教育施設である)ではなく刑務所に入れて、何年間もそこで生活させ、再び社会に戻す場合、どのようなことになるだろうか。
 刑務所は教育施設ではなく、自由を奪って監禁し、場合によっては強制労働(懲役)をさせることが目的の場所である。そこには「育成」の観点はないし、むしろ性格形成に悪影響を与えることすらある。

 刑期を長くすればするほど、その間は社会から隔離されて再犯が阻止されるが、逆にそのぶんだけ、刑期を終えた後の社会復帰は困難になるといえる。下手をすれば、刑務所に長く閉じ込めることが成長期の人格形成をゆがめて、なおさら悪化させ、再犯の可能性をむしろ高める危険すらある。たとえば14歳の少年を、少年院ではなく刑務所に入れて、10年後に社会に戻すとしたら、どのような人間になって出てくるだろうか、少しでも想像してみると良いだろう。

 この問題は単純に答えが出るものではないし、法制度だけで少年犯罪を減らせるというものでもない。逆に刑罰が軽ければ軽いほど良いなどというつもりもない。また被害者の救済はこれとは別次元で考えなければならないことである。
 重要なことは、どんな犯罪を犯した少年だろうと、死刑や無期刑になるケースを除いて、ほとんどはいつか必ず社会に戻ってくるということである。少年法を廃止しようとしまいと、厳罰化しようとしまいと、その点は変わらない。そこまで考えて制度を設計しなければならない。

憲法改正の国民投票を一度でもやれば「押しつけ憲法」論は消滅する

日本国憲法施行70周年を迎えたが、憲法改正について一言。

日本国憲法の成立過程については、改憲派の立場から、いわゆる「押しつけ憲法論」が根強く主張されている。どの程度まで日本国民の意向が内容に反映されていた(いなかった)と言えるのかについては様々な議論があるだろうが、いずれにしても、実際問題として、占領軍の意向を無視した憲法を成立させることができなかっただろうという点は今さら否定できない。

(もちろん「押しつけ憲法」でないとしても、改正が必要だという主張は論理としては成り立つが、「押しつけられた憲法だから改正すべき」という主張は、常に一定程度の説得力をもって存在してきた。)

 参議院選挙以後、憲法改正を目指す政治的な動きもいろいろと見えているところだが、仮に将来、国会で何らかの憲法改正の発議が行われ、国民投票を行ったにもかかわらず、改正に賛成する投票が投票総数の過半数に至らずに、承認されなかった場合、どうなるだろうか。
 もちろんその場合、国民の承認を得られなかったから憲法改正が行われないということになるのは当然だが、その政治的な意味としては、単に「憲法改正案が国民に承認されなかった」というだけでなく、「現行の憲法が国民によって信任された」ということにもなる。

 つまりその瞬間に「押しつけ憲法」論は成り立たなくなり、現在の日本国憲法は、国民が自分の意思で(消極的に・・・であっても)国民投票により選択した憲法となるわけである。改憲を主張する人々にとっては、国民投票で承認を得ることに失敗した場合、そのことは、単に改憲に失敗するというだけでなく、「押しつけ憲法」論が二度と使えなくなるという意味で、二重のダメージとなるだろう。

 さらにいえば、現在の日本国憲法は、形式上は、大日本帝国憲法を帝国議会の決議で「改正」することによって成立したという体裁を採っているのだが(★注)、国民投票で改正発議が承認されなかった場合、実質的には、国民が現在の日本国憲法を投票によって直接選んだということになる。つまり国民の意思によって日本国憲法が選択し直されたのであり、大日本帝国憲法との形式的なつながりすら断絶されるに等しいインパクトがあるということもできるだろう。

(★日本国憲法の前文の前には、昭和天皇の上諭が次のとおり記載されており、日本国憲法が、帝国議会の議決を経た大日本帝国憲法の改正の手続を経て成立したこととされている。

 「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」

 ただし、これは形式的には「改正」だが、実際は主権者が天皇から国民に変わったという点で、「改正」ではなく「革命」であり、新たな憲法の制定にあたる・・・というのが、憲法学の通説とされている。詳しい議論はここでは省くが、いずれにしても“形式上”は、大日本帝国憲法の「改正」手続を経て日本国憲法が成立したという体裁を取っている。)

 以上は憲法改正が承認されなかった場合の話だが、「押しつけ憲法論」が使えなくなるのは、憲法の一部の条文だけの改正が承認された場合にも、同じことである。(というより、「改正すれば押しつけ憲法でなくなる」というのが、改憲派のロジックだし、実際それ自体は何も間違いではない。)一部の改正があるとしても、日本国憲法が全体として国民に選ばれたことになるからである。

 極論をいえば、ただ単に「第○条の『××は』を『××が』に改正する」という類の、わずかな語句や文字レベルだけの改正案であっても、ひとたび国民投票を行えば、承認されようとされまいと、その時点で「押しつけ憲法」ではなくなる。

 つまり、国民投票を一度でもやるということは、どんな改正案であろうと、結果がどっちに転ぶのであろうと、「押しつけ憲法」論が二度と使い物にならなくなることを意味するわけで、「押しつけ憲法」論は、最初の国民投票が行われるまでしか存在できないということである。

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ