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憲法

石川健治教授の自衛隊と憲法についての主張の考察・続き

昨日のエントリであれこれ書いたことの続き。
結局のところ、石川健治(東大教授)の主張の中核部分というかホンネ部分は、「自衛隊違憲論」ではなく「自衛隊違憲論があった方がいい論」だろう。

自衛隊違憲論があるからこそ、「自衛隊は違憲ではないか」という問いかけが常に生まれ続け、政府も自衛隊を統制して控えめな運用をせざるをえなくなる。
改憲によって自衛隊が完全に合憲になってしまうと、違憲論は消滅してしまうから、違憲論を使った歯止めがなくなり、自衛隊を統制できなくなる。
そこで石川は改憲に反対しているわけだ。

これは「違憲の自衛隊を“統制”するというのは、背理ではないか」とか「自衛隊が違憲なら、統制ではなく廃止しかなのではないか」という根本的な疑問から逃げることによって成り立つ主張である
(私自身は「自衛隊を廃止すべきだ」と考えているわけではない。)

つまり石川教授は、違憲の自衛隊の存在に反対しているのではなく、自衛隊を違憲だと言えなくなることに反対しているという点に注意を要する

これは「違憲の自衛隊は、存在しても良いが、違憲論を利用してこれを統制しなければならない。」ということである。
「自衛隊が存在しても良いなどとは言ってない」というかも知れないが、「自衛隊が存在してはならない」というのなら、廃止するしかないはずである。
自衛隊を存在させたうえで、これを違憲論で統制するというのは、「自衛隊は違憲だが、存在しても良い」といっているのとイコールである。

つまり「違憲の組織・制度でも存在して良い。ただし違憲論を使って統制すべきだ」ということである。

ここで、自衛隊に限らず、集団的自衛権を導く安保法制の違憲論についても同じことが言えるのではないかという疑問が生まれてくる。

あと10年くらいたったら、石川教授かその流れをくむ憲法学者は、
「安保法制は違憲だが、違憲論によって安保法制の運用が統制されている」
とか
「集団的自衛権の違憲論があるからこそ、集団的自衛権を抑制して運用できている」
などと言っている可能性がないとは言えない。

さらにそのうち
「日本は核兵器を持っているが、核兵器は違憲である。核兵器違憲論があるからこそ、日本は核兵器をむやみに使わないようにして、うまく核兵器を統制・運用できている」
などという時代がやって来るかも知れない。

極論はここらへんにして自衛隊に話を戻すと、「そもそも違憲の自衛隊が存在して良いのか」という根本的な疑問から逃げているという点を別にすれば、国家機構の統制システムの議論としては、「自衛隊を違憲論で統制すれば良い」というのは、一応成り立ちうる理屈ではある。

しかし、自衛隊を違憲だと考えるにもかかわらず、その自衛隊を存在させて運用し、違憲論によってそれを統制すれば良いという考え方が、(上述のとおり、統制システム論としては理解できるとしても)「立憲主義」の観点から筋が通っているといえるのかどうかまでは、私にはわからない。

「憲法に違反するものは、存在を許さない」というのが、立憲主義なのではないだろうか。「憲法に違反したものを違憲論で統制して使えば良い」というのも、立憲主義のうちに含まれるのだろうか。

★蛇足ながら若干の補足。「自衛隊は合憲だ(と思う)が、自衛隊違憲論があった方が、うまく抑制できる」とか「自衛隊は合憲であり、今後も違憲にならないような規模に抑えるべき」というなら、矛盾はない。だが私が見た限り、石川はそういう立場ではないようである。

石川健治の「自衛隊明記」論批判と大屋雄裕のつぶやき

何となく、ネットでいろいろな人のツィッターやらブログやらあちこちを見ていたら・・

 先日のエントリでちょっと名前を出した大屋雄裕(慶応大教授・法哲学)のツィッター(5月21日)で、

 “まあ職務に相応する正統性を付与しないというような刑吏に対する差別というのは洋の東西を通じて存在し、石出帯刀に御目見は許されないし山田浅右衛門は浪人だったわけですが、我が国の場合にそれがどういう問題に繋がっているかということも考えずにああいうことを書かれるわけですか。”

という一言があった。

 はて、これは何のことを言っているのだろう。「♯何かを見た」というタグも付いているが、これを付けた人たちのつぶやきにも統一性があるわけではない。「正統性を付与」とは、何についての「正統性」の話なのだろう。やけに気になってしまうではないか。

 大屋教授が何のことを言っていたのかはわからないが、ここでふと思い出したのが、石川健治(東大教授・憲法学)の発言である。

 5月21日の中日新聞で、石川健治は、憲法を改正して自衛隊に「正統性」を付与することを危惧し批判していた。例の安倍首相の「憲法学者の中では自衛隊違憲論が有力だ」「憲法9条に3項を新設して、自衛隊を明記すべきだ」という見解を批判するインタビュー記事である。

 この記事での石川教授の主張の要点は次のとおりである。

①憲法9条は、軍隊を組織する権限を否定し、自衛隊に権限行使の正統性を奪っている。
②この9条のおかげで、自衛隊の憲法上の根拠は弱く、その正統性には弱点があり、自衛隊も「身を慎む」組織として統制されてきた。
③9条に3項を新設して自衛隊を明記してしまうと、正統性を付与されるから、自衛隊はあぐらを書いてしまい、憲法上は軍事力に対するコントロールがなくなってしまう。

この主張にとびつく人も結構いるようだが、ちょっとよく読んでみると、論理的におかしなことに気づかないだろうか?

①は、まさにいわゆる自衛隊違憲説であり、一つの有力な解釈である。これはこれでわかる。
それでは、②はどうだろうか。自衛隊違憲説の立場からは何も問題ないように思えるが、そうではない。

①は、 「自衛隊は憲法上は否定される」「自衛隊に正統性はない」ということである。
つまり、「自衛隊の憲法上の根拠は弱く、正統性に弱点がある」(②)のではなく、①の理屈でいうなら、「自衛隊の憲法上の根拠はなく、正統性はない」というべきである。

自衛隊という組織に根拠も正統性もないというのなら(それが石川の主張の①の部分)、そんな組織にコントロールもへったくれもないはずであって、政府は自衛隊を廃止するしかないはずである。

記事で見る限り、石川教授の主張は、①と②の間に論理の飛躍がある。もともとは「自衛隊には憲法上の根拠・正統性はない」(①)という話だったのに、それが「自衛隊には憲法上の根拠・正統性が弱い(=だから統制できている)」(②)という話にすり替わっているのだ。

正統性がない」というのと「正統性が弱い」というのは、大違いであって、つなげることはできない。

なお③の部分についても触れておくると、石川教授の「正統性を与えると、自衛隊は暴走してしまう。適切に権力組織を統制するためには、憲法上の正統性を与えないことだ」というロジックをおしすすめるならば、警察の権力乱用や暴走を防ぐためには、警察も憲法違反にして、正統性のない組織にすれば良いということになるのだろうか。

さて、どうしても上記の主張の論理矛盾を解消して、結論部分だけを生かしたいのであれば、②③の部分はそのままで、①の部分だけ、こんなふうに若干言い回しを変えれば良い。

①憲法9条は、軍隊を組織する権限を否定している可能性が高く、自衛隊の権限行使の正統性には疑いがある。ただしあくまでも「疑い」なので、自衛隊が憲法違反でない可能性も無いではない。私には明確な結論は出せない(or「明確な結論は出したくない」)。

(なお別な逃げ道として、「自衛隊は憲法9条違反だ(と思う)が、最高裁が違憲判決を下さない限り、当面は自衛隊が存続するのはやむをえない。しかし正統性に疑問があるから・・・」という切り口もある。)

どうでしょうか?石川先生。

★私自身としては、以前も書いたが、憲法の後ろの方に経過規定として「附則」のようなものを設けて、「当面の間、最低限の防衛力として自衛隊を保有することを妨げない」という形にするのが良いのではないかと考えている。

LINE上級執行役員の「憲法って、ただの紙の上に書かれた文章」発言

 LINEの上級執行役員の田端信太郎という人が、ツィッターである人と議論していて、

納税している人は納税していない人と比べて社会の存続を考えるうえで比較すれば、有用であるということ。そして納税していない人が、公的な再分配を受け取る程度は、納税している人を含めた民主的な政治決定の結果をはみ出ることはできない、ということに合意されるということですね。”

と述べると、それについて相手側が

それには合意できないです。憲法では、全ての個人に生存権が保証されているので。”

と答えた。

 そこでさらに田端は、

 “憲法って、ただの紙の上に書かれた文章ですよね。。。実際に餓死しそうな人がいるときに、「憲法」がアンパンを恵んでくれたりするのですか? 誰か、生身の人間が、お金を出してアンパン買うところから始まりますよね?

 とコメントしたのだが、これがネット上で賛否両論を巻き起こし、また勤務先の会社から厳重注意を受けたそうである。

 (ITmediaの記事参照) 

 私なりの感想をいうならば、田端は、「憲法は紙切れにすぎないから無視して良い」とか「憲法には価値がない」とかいうレベルの主張をしているのではなく、憲法それ自体が直接的に人間の生存を保証する給付を与えてくれる機能を持っているわけではない(=憲法に「生存権」の条項を書き入れても、現実には公的財源の裏付けがなければどうにもならない)という意味のことを言おうとしているのだと思われる。

 憲法は25条で「生存権」を保障している。これは、国や自治体が、国民に対して最低限の生活ができるための一定の給付を与えることを憲法によって義務づけられているということである。生活保護が代表的なものだが、食料や住居を現物支給するという制度も理屈としては考えられるだろう。

 とばいえ、憲法に生存権が規定されていれば、それだけで生活保護費等が自動的にどこかからわき出てくるわけではなく、そのための財源がなければならない。その財源は税収によってまかなわれる。

 つまり田端は、憲法それ自体に生活保護を直接給付できる機能があるわけではなくて、誰かが納税して国が生活保護の財源を確保することによって初めて生存権が保障される、という当たり前のことを、いささか挑発的に述べたのではないか

 憲法の教科書を学んだ人なら誰でもわかると思うが、この「生存権」は、同じ憲法で保障された他の権利、たとえば「信教の自由」(20条)などと違う、際だった特徴がある。

 たとえばカトリックや浄土真宗を信仰する人の信教の自由は、政府=公権力がカトリックや浄土真宗を弾圧したり、違う宗教を信じるように押しつけたりしなければ、守られる。
 ここでは政府は何もしなければ良いのであり、憲法は、公権力を制限して、個人の自由を守る働きをする。政府が個人の自由を侵害すれば、憲法違反となる。(このような権利を「消極的自由権」ともいう。)

 これに対して「生存権」は、政府が何もしなければ、どうすることもできない。政府が積極的に動いて、生活困難な人に対して何らかの金銭や物品を給付することで、初めて「生存権」が保障されることになるからである。
 
 この場合、いくつかの問題が出てくる。まず、政府は、どの程度の給付を支給すれば、憲法の「生存権」に違反しないのだろうか。たとえば生活保護を支給するとして、いくらであれば、憲法違反にならずに済むのだろうか。
 さらに、上記の問題がクリアできて、一応の生活保護として支給すべき水準がある程度は基準として決めることができるとしても、実際の財源がどうしても足りない場合は、どうすれば良いのだろうか。

 このように、「生存権」は憲法上の権利ではあるが、それをどのように実現するかについては、「信教の自由」などとは違う困難な問題があるわけである。

 さて、今回の田端の発言で本当に議論の対象とするべきなのは、「憲法がただの紙の上の文章」という部分ではなく、その前の「納税していない人が、公的な再分配を受け取る程度は、納税している人を含めた民主的な政治決定の結果をはみ出ることはできない」という部分である。

 憲法の規範レベルの問題でいえば、公的な再配分=生活保護等は、民主的な政治決定のプロセスで定めさえすれば、どのようにでも変えて良いというわけではない。
 たとえば、“民主的な政治決定”の結果として、一切の生活保護は月5千円の給付だけとすることは、さすがに(現在の物価水準を前提として)憲法違反だろう。かなり稀なケースを除いて、月5千円ではまず生活できないからである。
 いかに民主的な意思決定の結果として、生活保護を月5千円と決めたのだとしても、それは生存権を侵害するものであり、憲法違反と評価されるだろう。つまりどのように民主的な意思決定の結果であっても、憲法に違反することはできないのである。その意味では、田端の議論相手の人物の「憲法では、すべての個人に生存権が保障されている。」という反論は正しい。

 しかし次の段階として、現実の経済的制約の問題が出てくる。どのように財源を探しても、増税しても何をしても、財政上の制約があって、生活保護を1人あたり月5千円しか支給できない場合は、いくら憲法違反だと言ったところでどうしようもないではないか、という問題である。ここは、田端の表現を借りれば「有用」な存在である「納税者」を確保し、その活動を促進して税収を維持するような施策をするしかないということになるだろう。

安倍首相「憲法は9条改正を優先」に憲法学者はどう答える?

 安倍首相は、憲法改正について、9条を改正して自衛隊を憲法に明確に位置づけることを優先する、と述べている。

 政府の解釈論というか公式見解としては、自衛隊も、さらには安保法制も合憲とされているので、それならば逆に、9条を改正する必要などないという話になってしまうと思っていたのだが、この点について安倍首相は、「残念ながら憲法学者の多くが違憲と言っている。そういう状況を変えるのは私たちの責任だ」と国会答弁で説明したようである。
時事通信の記事参照

 憲法学者の中では、時代とともに自衛隊合憲論が次第に増えてきてはいるように思うが、主流は依然として自衛隊違憲論なのではないだろうか。(以前のエントリでも触れた

 いずれにしても憲法学者に対して「政府は自衛隊は合憲だと思うが、お前たち学者の多数派が違憲論を主張しているので、改正せざるを得ない」というふうに首相からボールをストレートに投げつけた格好になった。

 これに対して憲法学者の世界から、何らかの反応や問題提起が出てくれば面白いと思うのだが、どうだろうか。

 ここで思考の実験をしてみようと思う。仮に私が憲法学者で、自衛隊違憲論者で、しかも9条改正反対派だとする。そのうえで、自衛隊を廃止して非武装中立国家になるというのは非現実的なので(なんらかの程度は)自衛隊の存在を是認せざるを得ない・・・と考えているとしたら、この安倍首相の問題提起に対してどう答えるだろうか。

 とりあえず、説明の仕方としては、2つのパターンが考えられる。

(1)自衛隊は違憲であるから、解散すべきである。しかしすぐには解散できない。従って、いずれ自衛隊が解散して非武装中立の国家になれるように、政府は真剣に平和外交その他の施策に取り組まなければならない。いつの日か、非武装中立が可能な時代が来るまで、何十年、何百年かかかるかわからないが、その不断の努力の過程の中で、あくまでもやむを得ない暫定的な途中経過の状態としてであれば、自衛隊の存在は認められる。
 自衛隊は違憲だが、その違憲状態を長い時間をかけて解消していくプロセスの中にあると考えて、当面はやむを得ない範囲で維持しつつも、努力をしていかなければならない。

(2)自分は自衛隊は違憲だと考えているが、合憲だという解釈論も説として一応は成り立たないわけではない。つまり違憲説と合憲説の両方が存在する。もちろん政府は、自衛隊を現に運用している立場であるから、合憲だと主張している。しかし違憲説が有力に存在しているということは、現に安倍首相が認めている。
 つまり、憲法9条がある限り、政府も一応、自衛隊違憲説が存在することを、頭の中で意識しないわけにはいかない。これが9条の価値である。
 違憲説が存在する以上は、政府も、どこかで、自衛隊の運用に慎重になり、暴走しないようになるはずである。9条が改正されて、違憲説がまったく存在しなくなってしまったら、政府は安易に軍備拡張や軍事行動に走ってしまう危険があるのではないか。

・・・いかがなものだろうか?
 ただしこの2つの説明に難点がないわけではない。
 (1)は、「非武装中立が可能な時代」がいつまでも来なければ、結局はなし崩しの現状追認と同じであるし、(2)は、自分は違憲論だといっておきながら、政府が合憲論を根拠に自衛隊を保持・運用することを最初から認めて織り込んでしまっているのと同じなのである。
 とりわけ、自分で考えておいて否定的なことを言うのも妙だが、(2)の主張は、正確には「自衛隊違憲論」というより、「自衛隊違憲論が存在することがプラスになっている論」というべきだろう。

天皇の基本的人権と皇族の「ご結婚」問題

 天皇の生前退位(または譲位)についての議論にも関係するが、天皇(と皇族)に基本的人権があるのかどうかというのは、法学的にも一つの論点である。

 憲法学の世界では、「天皇には基本的人権はない」という学説と、「基本的人権はあるが制限を受けている」という学説の両方が存在する。

 ここでいう「基本的人権がない」という言葉の意味は、人として生きる価値がどうでもいいとかいう“不敬”な意味ではもちろんなく、憲法で定められている基本的人権の保障(たとえば表現の自由とか、職業選択の自由)が及ばない、ということである。

 「天皇に基本的人権はない」という説は、基本的人権とは、歴史的に、フランス革命などの時代に個人を絶対王権や封建領主などに対して守るために作られた概念であって、個人を国家に対して守る働きをするものだと考えている。そして国民には基本的人権が認められるようになり、その内容や対象範囲が拡大されていって、最後に「国民」に含まれないまま残ったのが、日本の場合でいえば「天皇」(と皇族)だと考える。天皇という地位は、いわば近代以前の身分制の中で最後に残った「飛び地」のようなものであって、その外側に基本的人権を保障された均質な国民がいる、というイメージである。
(憲法学者では、たとえば樋口陽一、長谷部恭男)

 これに対して「基本的人権はあるが制限されている」という説は、まず現時点で、国家の中に均質な個人が集合している状態をイメージする。すべての個人には、本来的には基本的人権が存在している。まずその状態から出発するのである。そのうえで、天皇・皇族という一部の人にだけは、特殊な事情から、その、もともと持っている基本的人権に特殊な「制限」を加えられている。これが天皇ということである。
(憲法学者では、たとえば芦部信義、戸波江二)

 つまり、「天皇に基本的人権はない」説は、歴史的な流れの中で物事を見て、基本的人権という概念がなかった時代の最後の名残が天皇とか皇族だと考える。ここでは、天皇や皇族は、そもそも「国民」には含まれない。
 これに対して、「天皇に基本的人権はあるが制限されている」説は、まずは国家を構成するすべての国民に基本的人権がある状態から出発して、そこから例外扱いを絞り込んでいくという思考プロセスをたどるわけである。ここでは、天皇や皇族は、「国民の中の例外」ということになる。

 以上の話は、現在の憲法の解釈や説明の仕方の違いであって、結論としてはそれほど違ってくるわけではない。ただし、これから天皇・皇族がどうあるべきかというのは、また別の問題である。

 これからの国のあり方として、できるだけ天皇と皇族を一般人の扱いに近づけるべきだと考えるか、それとも、まったく違う存在として扱い続けるべきだろうか。
 (前者の究極の形が、いわゆる「天皇制の廃止」論ということになるが、それはまた別な機会に触れる。)

 いわゆる保守の立場の論者には、天皇や皇族と一般人との断絶、隔絶を強調し、生活様式も含めて可能な限り一般人とは断絶したものであるべきだ、というニュアンスの人が多い。

 ここで一つ考えなければならないのは、皇室は血筋で保たれているから、結婚して子孫が生まれなければ成り立たないということである。結婚相手がなければ皇室は絶えてしまう。

 ところが一方、天皇や皇族が一般人とは違うということを強調すればするほど、天皇や皇族の結婚は、難しくなるといえるだろう。
 なぜなら、皇族以外の国民はすべて「一般人」なのであって、基本的人権や自由を享受している。皇族と結婚して、基本的人権を失う(または制限される)ことを選ぶ人間は、時代とともに減りこそすれ、増えることはないだろう。

 つまり、皇族の特別扱い(=基本的人権がないor制限される、等々)を強調すればするほど、結婚が難しくなるというアイロニーがあるのである。

 この問題は、現実には男性皇族と一般女性の結婚の場合にだけ起こる。なぜなら、女性皇族は(現在の皇室典範では)一般男性と結婚すれば、皇籍を離脱して、皇族ではない一般国民となるからである。

 戦前は現在とは状況が違っていた。天皇・皇族の他に、かつての公家や大名の子孫である華族という身分の集団がいて、一般国民とは違った法的地位や生活様式を保ち、皇族の結婚相手の女性を輩出していたからである。

 いま、華族はもはや存在しない。天皇・皇族以外はすべて、基本的人権が備わり、自由なライフスタイルの味を覚え、普通に社会生活をしている国民しかいないのである。

 よく「皇位継承は、男系に限るべきか、女系も認めるべきか」という議論が行われることがあるが、男系だろうと女系だろうと、結婚相手が見つからなければどうにもならないのである。そして今の日本の体制は、個人の意思に反して「嫁にやる」ということは、法的には不可能である。

 逆に、天皇・皇族の立場が、一般国民に近づけば近づくほど、結婚へのハードルは低くなるだろう。ただその方向で進めていくということは、いずれ憲法改正をして、天皇の地位を変えるしかなくなるだろう。それがどのような姿になると考えられるのか、それは改めて考えることとしたい。

天皇の地位と皇室典範と国会

 先日のエントリ「『天皇の地位は日本書紀の神勅に由来する』という安藤議員の主張」は、PVが普段に比べて異常に多くなって正直驚いている。皇室についての話題は大きな関心を集めやすいということだろうか?
 安藤議員の発言は、朝日新聞でしか取り上げておらず、他のメディアは一切無視しているので、それほど世間の話題になっているわけでもないし、当ブログでもそれほど大したことは書いていないつもりなのだが…。

 念のため補足しておくと、例の記事を読んだ限りでは、安藤議員の主張の主眼は、「天皇の地位は日本書紀の神勅に由来する」という部分ではなく、「皇室典範は、旧憲法の時代のように、国会が定めるのではなく、国会と無関係に皇室が決めるようにするべきだ」(そのように憲法を改めるべきだ)ということのようである。要は天皇の退位(譲位)とか継承のあり方などの問題は、皇族内部で自律的に決定するべきで、国会(さらには政府も?)が介入するべきではないということだろう。

 (具体的にいうと、現在の日本国憲法は、第2条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」と定めており、皇室典範の内容は国会が定めることになっている。従って現在の憲法を前提とする限り、国会の権限が及ばないような皇室典範を作ることは不可能である。)

 安藤議員としては「天皇の地位は神勅に由来するから、国民は絶対的に服従すべきだ」といいたいのではなく、「天皇の地位は神勅に由来するから、その地位についての問題は国会の意向に左右されるべきではなく、皇族が自ら決めるべきだ(=そのように憲法を改正すべきだ)」ということだろう。

 神勅云々の部分は別として、皇位の継承や退位の問題は皇族が自律的に決めるべきだという考え方それ自体は、一理あるとは思う。ただしそうだとしても、それは皇室典範を国会が改正して、「皇族が自律的に決める」という趣旨の規定を定めれば良いだけである。皇室制度が、国の財政(国民の税金)によって維持されているものである限り、国会が一切介入できないというのはさすがにまずいだろう。

(皇室のあり方に国会が一切介入する余地のないようにするべきだというのなら、国民の税金を一切使わないようなあり方を考えるべきである。)

 なお安藤議員は「日本最高の権威(天皇)が国会の下に置かれている」とも述べたそうだが、権威の部分はともかく、「国会の下」という言い方はどうなのだろうか。皇位継承について定める皇室典範は国会が制定するし、皇室予算も国会の議決に基づくものとされている。その意味で国会の統制が及んでいるのだが、これをもって「天皇は国会の下」と呼ぶべきかどうかは別問題である。

 誤解を招かないように言っておくと、逆に「天皇は国会の上」と言いたいわけでもない。 たとえば一般国民は、国会の制定した法律に従わなければならないが、「国民は国会の下」と言うべきなのだろうか?国民は主権者であり、国会議員を選出する権利を持つのだから、国民が国会より格下というわけではないだろう。要は「上」「下」という概念を持ち込むから混乱するのであって、「天皇は国会の上か、下か」という議論は必要なく、ただ皇位継承や予算などで国会の議決に従うということである。

(なお国会は国権の最高機関とされるが(憲法第41条)、これは政治的美称であって、国会が内閣や最高裁判所の「上」に立つという意味ではないというのが通説である。)

憲法改正の国民投票を一度でもやれば「押しつけ憲法」論は消滅する

日本国憲法施行70周年を迎えたが、憲法改正について一言。

日本国憲法の成立過程については、改憲派の立場から、いわゆる「押しつけ憲法論」が根強く主張されている。どの程度まで日本国民の意向が内容に反映されていた(いなかった)と言えるのかについては様々な議論があるだろうが、いずれにしても、実際問題として、占領軍の意向を無視した憲法を成立させることができなかっただろうという点は今さら否定できない。

(もちろん「押しつけ憲法」でないとしても、改正が必要だという主張は論理としては成り立つが、「押しつけられた憲法だから改正すべき」という主張は、常に一定程度の説得力をもって存在してきた。)

 参議院選挙以後、憲法改正を目指す政治的な動きもいろいろと見えているところだが、仮に将来、国会で何らかの憲法改正の発議が行われ、国民投票を行ったにもかかわらず、改正に賛成する投票が投票総数の過半数に至らずに、承認されなかった場合、どうなるだろうか。
 もちろんその場合、国民の承認を得られなかったから憲法改正が行われないということになるのは当然だが、その政治的な意味としては、単に「憲法改正案が国民に承認されなかった」というだけでなく、「現行の憲法が国民によって信任された」ということにもなる。

 つまりその瞬間に「押しつけ憲法」論は成り立たなくなり、現在の日本国憲法は、国民が自分の意思で(消極的に・・・であっても)国民投票により選択した憲法となるわけである。改憲を主張する人々にとっては、国民投票で承認を得ることに失敗した場合、そのことは、単に改憲に失敗するというだけでなく、「押しつけ憲法」論が二度と使えなくなるという意味で、二重のダメージとなるだろう。

 さらにいえば、現在の日本国憲法は、形式上は、大日本帝国憲法を帝国議会の決議で「改正」することによって成立したという体裁を採っているのだが(★注)、国民投票で改正発議が承認されなかった場合、実質的には、国民が現在の日本国憲法を投票によって直接選んだということになる。つまり国民の意思によって日本国憲法が選択し直されたのであり、大日本帝国憲法との形式的なつながりすら断絶されるに等しいインパクトがあるということもできるだろう。

(★日本国憲法の前文の前には、昭和天皇の上諭が次のとおり記載されており、日本国憲法が、帝国議会の議決を経た大日本帝国憲法の改正の手続を経て成立したこととされている。

 「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」

 ただし、これは形式的には「改正」だが、実際は主権者が天皇から国民に変わったという点で、「改正」ではなく「革命」であり、新たな憲法の制定にあたる・・・というのが、憲法学の通説とされている。詳しい議論はここでは省くが、いずれにしても“形式上”は、大日本帝国憲法の「改正」手続を経て日本国憲法が成立したという体裁を取っている。)

 以上は憲法改正が承認されなかった場合の話だが、「押しつけ憲法論」が使えなくなるのは、憲法の一部の条文だけの改正が承認された場合にも、同じことである。(というより、「改正すれば押しつけ憲法でなくなる」というのが、改憲派のロジックだし、実際それ自体は何も間違いではない。)一部の改正があるとしても、日本国憲法が全体として国民に選ばれたことになるからである。

 極論をいえば、ただ単に「第○条の『××は』を『××が』に改正する」という類の、わずかな語句や文字レベルだけの改正案であっても、ひとたび国民投票を行えば、承認されようとされまいと、その時点で「押しつけ憲法」ではなくなる。

 つまり、国民投票を一度でもやるということは、どんな改正案であろうと、結果がどっちに転ぶのであろうと、「押しつけ憲法」論が二度と使い物にならなくなることを意味するわけで、「押しつけ憲法」論は、最初の国民投票が行われるまでしか存在できないということである。

憲法9条についての私の考え:自衛隊の問題は「憲法第104条」新設で対応せよ!

安保法制が憲法9条に違反するかどうかという議論はいまだに記憶に新しいが、そもそも自衛隊は憲法9条違反だという議論が、自衛隊(というよりその前身の保安隊の、そのまた前身の警察予備隊)の創設時から今日まで続いていることを、まず忘れてはいけない。

特に憲法学者の世界では、自衛隊違憲説(憲法9条違反説)が通説というか多数説である。もっとも最近は若手の憲法学者の間で自衛隊合憲説も徐々に増えてきているようで(一例として木村草太・首都大学東京教授)、あと10年や20年もすればかなり憲法学界は様変わりしているかも知れない。世代が変われば法解釈の考え方も変わっていく。戦前戦中に育った世代、戦後間もない頃に成長した世代、さらに自衛隊や安保条約が存在して当たり前という状況で育った世代、憲法学者の中でもそれぞれ違いがあって当然である。

それはさておき、自衛隊が憲法9条違反だという前提に立った場合、それでは具体的にどうすれば良いのかという問題が出てくる。上記の通り、今のところ憲法学者の多数派は自衛隊違憲説だが、様々な憲法の基本書を見ても、「具体的にどうするべきか」まで踏み込んだ記述をしているものは少ないようで、「自衛隊は違憲である」というところでとどまってしまっているものが多い。

「自衛隊は憲法違反だというなら、9条を改正すべきだ」という主張が当然ありうるのだが、これに対しては、「現実に合わないからといって理想を取り下げるべきではない。現実を理想に合わせるように努力すべきだ」という反論がなされることがある。
しかし問題は、単に「現実」と「理想」の相違だけで済む話ではない。一般に「理想と現実」というと、「現実は理想通りにならないものだ」というふうに、もともと両者の間に違いがあって当然というニュアンスがあるが、9条に限らず、憲法の条文は、そのような意味での「理想」なのだろうか。
たとえば憲法18条は「何人(なんびと)も、いかなる奴隷的拘束も受けない」と定めているが、これは「理想」なのだろうか。仮に奴隷制を認める法令があって、奴隷状態の人がいた場合、「現実を理想に合わせるように努力するべき」で済むのだろうか。

ここで憲法98条1項を見てみると、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定めている。つまり「現実を憲法の理想に合わせるように努力すべきだ」ということではなく、憲法に違反する現実(法律、命令、詔勅、国務に関する行為)はそもそも「無効」なのである。つまり奴隷制の例でいえば、「理想(18条)に現実(奴隷制)を合わせるように“努力”すべきだ」というだけでなく、「18条に違反する法律、命令(・・・)その他の行為は無効だ」ということになる。奴隷制をなくすように理想に向けて努力しろというレベルの問題ではなく、奴隷制を認める法令は「無効」である。
憲法9条も同じように考えるならば、自衛隊法や防衛省設置法も、「理想に反する」「理想に向けて努力すべき」では済まず、「無効」だということになる。

この点の問題は、憲法の基本書でいえば、たとえば高橋和之「立憲主義と日本国憲法」(第3版) で端的に触れられている。

「(9条の)改正に反対の人も、自衛隊は違憲であり直ちに廃止すべきだなどとは主張しないであろう。時間をかけて9条の規範内容を実現していくべきだと考えていると思われる。では、その間の憲法規範と現実との矛盾はどう説明するのであろうか。その矛盾が確認さえされていれば、矛盾が長期にわたって継続してもよいと考えるのであろうか。それでは、憲法を遵守すべきだという立憲主義の精神は、ご都合主義的なものとして後退せざるをえないのではなかろうか。」(同書63頁)

上記の「現実に合わないからといって理想(9条)を取り下げるべきではない。現実を理想に合わせるように努力すべきだ」という主張は、この点でいえば、「自衛隊がいつか廃止されるまでは(20年後?50年後?100年後?)、憲法9条違反の状態が継続しても良い」と言っているに等しいのである。

自衛隊合憲論の立場に立つならば、このような問題は生じないことになるが、自衛隊違憲論の立場を採る場合、この「現実に自衛隊をすぐに(永久に?)廃止することはできない以上、自衛隊が存在している間の状態をどう位置づけるか」という問題を避けて通ることはできない。(「違憲なら違憲で、控えめに自衛隊を運用すれば良い」という主張をする論者もいるようだが、これも「違憲(=無効)の制度でも(控えめに)運用すれば、存在して良い」と言っているのと同じであるから、立憲主義という意味では自滅行為である。

以下、この点についての私の考えを述べる。

自衛隊合憲論に立ってしまえば話は楽なのだが、憲法9条の文言を見るならば、やはり自衛隊がこれに違反しているのではないかという疑いを断ち切ることは難しい。自衛隊を廃止するなど(少なくとも10年や20年のタイムスパンでは)無理であり、それどころか永久に無理かも知れず、いずれにしても自衛隊が存在する限り、自衛隊と憲法の整合性が取れるようにしておかなければならない。
かといって9条の戦争放棄についての文言を捨ててしまうのが惜しいという気持ちもある。

そこで、憲法9条はそのままにしたうえで、これとは別に、憲法の末尾に、自衛隊の存在を認める新たな条文を追加するのである。
憲法の条文を実際に読んでもらうとわかるが、憲法は103条まで存在している。このうち国家の基本的構成や国民の権利など本質的部分を定めているのは1条から99条までであって、100条から103条までは、「第11章 補則」という章にまとめられている。この100条ないし103条は、憲法が施行された時の経過措置を定めたもので、1条から99条までの条文とは性質がまったく異なるものなのだが、そこに、自衛隊に関する条文を新たに追加するというわけである。

具体的には、新たに「第104条」を設けて、たとえば「第9条の定めにかかわらず、当面の間、自衛のための最小限の防衛力として自衛隊を保持することを妨げない。」としてはどうだろうか。

このアイデアはどうだろうか。憲法について「9条護持」でも「9条改正」でもなく、「104条追加」運動というのをやってみては・・・?

憲法の「戦争放棄」の意味

現行の憲法の前文では「平和主義」が謳われ、第9条では、いわゆる「戦力放棄」が謳われているが、今更ながら、この「戦争放棄」はいったい何のために憲法に定められているのだろうか。

「9条はもともと日本を弱体化するために占領時に決められたものだ」というやや極端な主張をする人もいるが、それは別とすると、考え方はおおむね2つに分かれる。

 (1)戦争を放棄することで、平和を守り、国民の生命や財産、人権を守ることができるから。

 (2)戦争を行わないことそれ自体が、第二次大戦の惨禍を経験した日本の理想だから。(実際にそれによって国民の生命や財産、人権が守られることになるかどうかは別次元の問題。)

(1)は、あくまで平和を維持して国民の利益・人権を保護する手段として効果的だから、戦争を放棄する、という考え方だが、(2)は、戦争の放棄それ自体が憲法の目指す重要な理想であって、それによって国民の利益・人権にプラスになるかどうかはまったく別という考え方である。

要するに、(1)の立場は、戦争放棄を単なる手段と考えるが、(2)の立場は、戦争放棄それ自体が目的だと考えるわけだ。

仮定の話として、戦争を放棄することによって逆に国民の利益や人権が脅かされるような事態が起こるとしたら、どう対応するのか。

(1)の立場では、戦争放棄は単なる手段に過ぎないのだから、逆に国民の利益や人権が脅かされるのであれば、(憲法改正は必要だとしても)戦争放棄をやめる、という発想につながる。

「憲法9条があれば、アメリカからの防衛力強化や戦略的協力の要求をかわす口実にすることができる」という主張も、この(1)の立場の変種とみることができるだろう。

もちろん(2)の立場も、国民の利益・人権がどうなっても良いと考えているわけではないだろうが、戦力放棄はその問題とは別であって、国民にとって利益だろうと不利益だろうと、理想は理想として守らねばならない、ということになる。

たとえば「たとえ侵略されても、戦うよりは殺される方がましである」という発想は、この(2)の立場の一種だろう(実際に、かつて朝日新聞の「声」欄でそういう趣旨の投書を見たことがある。)

憲法9条を守ることを主張する場合、上記のどちらの意味で言っているのか、立場を明らかにするべきだろう。

憲法では9条が一番大切なのか?他は二の次か?

先月のことだが、このような記事があった:「岡田代表 改憲論議、条件付きで容認も 9条以外で」。民進党の岡田は、憲法改正については、9条以外の条文についての改正であれば議論に応じるという。

蓮舫もこれと似たようなニュアンスのことを言っていたが、どうやら民進党の幹部たちは、憲法では9条が最も重要な条文で、他は二の次だと考えているようである。

それでは、たとえば13条(個人の尊重)、14条(平等原則)、18条(奴隷禁止)、21条(表現の自由)、36条(拷問禁止)などは、9条よりも重要度が劣るから、改正の協議に応じても良いということだろうか?

まともに考えてみれば、戦力の保持禁止についての改正よりも、奴隷禁止や拷問禁止の条項を改正する方がよほど問題であり恐ろしいことである。軍隊はないが奴隷制や拷問がある国よりは、軍隊はあるが奴隷制や拷問がない国の方がはるかに恐ろしいことは、常識的に考えればすぐわかるはずではないのか。

憲法9条至上主義とでもいうのか、「憲法では9条こそが最も大切で守らなければならない条文であり、他はそれよりは重要度が劣る」というような感覚は、おそらく民進党幹部だけでなく、多くの(いわゆる改憲派でない)人々が共有しているのかも知れない。

これは、「憲法といえば9条」という意識が蔓延していて、憲法改正論議も9条のことばかりを議論してきたという日本社会の風潮に原因があるのだろう。

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