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憲法

天皇の基本的人権と皇族の「ご結婚」問題

 天皇の生前退位(または譲位)についての議論にも関係するが、天皇(と皇族)に基本的人権があるのかどうかというのは、法学的にも一つの論点である。

 憲法学の世界では、「天皇には基本的人権はない」という学説と、「基本的人権はあるが制限を受けている」という学説の両方が存在する。

 ここでいう「基本的人権がない」という言葉の意味は、人として生きる価値がどうでもいいとかいう“不敬”な意味ではもちろんなく、憲法で定められている基本的人権の保障(たとえば表現の自由とか、職業選択の自由)が及ばない、ということである。

 「天皇に基本的人権はない」という説は、基本的人権とは、歴史的に、フランス革命などの時代に個人を絶対王権や封建領主などに対して守るために作られた概念であって、個人を国家に対して守る働きをするものだと考えている。そして国民には基本的人権が認められるようになり、その内容や対象範囲が拡大されていって、最後に「国民」に含まれないまま残ったのが、日本の場合でいえば「天皇」(と皇族)だと考える。天皇という地位は、いわば近代以前の身分制の中で最後に残った「飛び地」のようなものであって、その外側に基本的人権を保障された均質な国民がいる、というイメージである。
(憲法学者では、たとえば樋口陽一、長谷部恭男)

 これに対して「基本的人権はあるが制限されている」という説は、まず現時点で、国家の中に均質な個人が集合している状態をイメージする。すべての個人には、本来的には基本的人権が存在している。まずその状態から出発するのである。そのうえで、天皇・皇族という一部の人にだけは、特殊な事情から、その、もともと持っている基本的人権に特殊な「制限」を加えられている。これが天皇ということである。
(憲法学者では、たとえば芦部信義、戸波江二)

 つまり、「天皇に基本的人権はない」説は、歴史的な流れの中で物事を見て、基本的人権という概念がなかった時代の最後の名残が天皇とか皇族だと考える。ここでは、天皇や皇族は、そもそも「国民」には含まれない。
 これに対して、「天皇に基本的人権はあるが制限されている」説は、まずは国家を構成するすべての国民に基本的人権がある状態から出発して、そこから例外扱いを絞り込んでいくという思考プロセスをたどるわけである。ここでは、天皇や皇族は、「国民の中の例外」ということになる。

 以上の話は、現在の憲法の解釈や説明の仕方の違いであって、結論としてはそれほど違ってくるわけではない。ただし、これから天皇・皇族がどうあるべきかというのは、また別の問題である。

 これからの国のあり方として、できるだけ天皇と皇族を一般人の扱いに近づけるべきだと考えるか、それとも、まったく違う存在として扱い続けるべきだろうか。
 (前者の究極の形が、いわゆる「天皇制の廃止」論ということになるが、それはまた別な機会に触れる。)

 いわゆる保守の立場の論者には、天皇や皇族と一般人との断絶、隔絶を強調し、生活様式も含めて可能な限り一般人とは断絶したものであるべきだ、というニュアンスの人が多い。

 ここで一つ考えなければならないのは、皇室は血筋で保たれているから、結婚して子孫が生まれなければ成り立たないということである。結婚相手がなければ皇室は絶えてしまう。

 ところが一方、天皇や皇族が一般人とは違うということを強調すればするほど、天皇や皇族の結婚は、難しくなるといえるだろう。
 なぜなら、皇族以外の国民はすべて「一般人」なのであって、基本的人権や自由を享受している。皇族と結婚して、基本的人権を失う(または制限される)ことを選ぶ人間は、時代とともに減りこそすれ、増えることはないだろう。

 つまり、皇族の特別扱い(=基本的人権がないor制限される、等々)を強調すればするほど、結婚が難しくなるというアイロニーがあるのである。

 この問題は、現実には男性皇族と一般女性の結婚の場合にだけ起こる。なぜなら、女性皇族は(現在の皇室典範では)一般男性と結婚すれば、皇籍を離脱して、皇族ではない一般国民となるからである。

 戦前は現在とは状況が違っていた。天皇・皇族の他に、かつての公家や大名の子孫である華族という身分の集団がいて、一般国民とは違った法的地位や生活様式を保ち、皇族の結婚相手の女性を輩出していたからである。

 いま、華族はもはや存在しない。天皇・皇族以外はすべて、基本的人権が備わり、自由なライフスタイルの味を覚え、普通に社会生活をしている国民しかいないのである。

 よく「皇位継承は、男系に限るべきか、女系も認めるべきか」という議論が行われることがあるが、男系だろうと女系だろうと、結婚相手が見つからなければどうにもならないのである。そして今の日本の体制は、個人の意思に反して「嫁にやる」ということは、法的には不可能である。

 逆に、天皇・皇族の立場が、一般国民に近づけば近づくほど、結婚へのハードルは低くなるだろう。ただその方向で進めていくということは、いずれ憲法改正をして、天皇の地位を変えるしかなくなるだろう。それがどのような姿になると考えられるのか、それは改めて考えることとしたい。

天皇の地位と皇室典範と国会

 先日のエントリ「『天皇の地位は日本書紀の神勅に由来する』という安藤議員の主張」は、PVが普段に比べて異常に多くなって正直驚いている。皇室についての話題は大きな関心を集めやすいということだろうか?
 安藤議員の発言は、朝日新聞でしか取り上げておらず、他のメディアは一切無視しているので、それほど世間の話題になっているわけでもないし、当ブログでもそれほど大したことは書いていないつもりなのだが…。

 念のため補足しておくと、例の記事を読んだ限りでは、安藤議員の主張の主眼は、「天皇の地位は日本書紀の神勅に由来する」という部分ではなく、「皇室典範は、旧憲法の時代のように、国会が定めるのではなく、国会と無関係に皇室が決めるようにするべきだ」(そのように憲法を改めるべきだ)ということのようである。要は天皇の退位(譲位)とか継承のあり方などの問題は、皇族内部で自律的に決定するべきで、国会(さらには政府も?)が介入するべきではないということだろう。

 (具体的にいうと、現在の日本国憲法は、第2条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」と定めており、皇室典範の内容は国会が定めることになっている。従って現在の憲法を前提とする限り、国会の権限が及ばないような皇室典範を作ることは不可能である。)

 安藤議員としては「天皇の地位は神勅に由来するから、国民は絶対的に服従すべきだ」といいたいのではなく、「天皇の地位は神勅に由来するから、その地位についての問題は国会の意向に左右されるべきではなく、皇族が自ら決めるべきだ(=そのように憲法を改正すべきだ)」ということだろう。

 神勅云々の部分は別として、皇位の継承や退位の問題は皇族が自律的に決めるべきだという考え方それ自体は、一理あるとは思う。ただしそうだとしても、それは皇室典範を国会が改正して、「皇族が自律的に決める」という趣旨の規定を定めれば良いだけである。皇室制度が、国の財政(国民の税金)によって維持されているものである限り、国会が一切介入できないというのはさすがにまずいだろう。

(皇室のあり方に国会が一切介入する余地のないようにするべきだというのなら、国民の税金を一切使わないようなあり方を考えるべきである。)

 なお安藤議員は「日本最高の権威(天皇)が国会の下に置かれている」とも述べたそうだが、権威の部分はともかく、「国会の下」という言い方はどうなのだろうか。皇位継承について定める皇室典範は国会が制定するし、皇室予算も国会の議決に基づくものとされている。その意味で国会の統制が及んでいるのだが、これをもって「天皇は国会の下」と呼ぶべきかどうかは別問題である。

 誤解を招かないように言っておくと、逆に「天皇は国会の上」と言いたいわけでもない。 たとえば一般国民は、国会の制定した法律に従わなければならないが、「国民は国会の下」と言うべきなのだろうか?国民は主権者であり、国会議員を選出する権利を持つのだから、国民が国会より格下というわけではないだろう。要は「上」「下」という概念を持ち込むから混乱するのであって、「天皇は国会の上か、下か」という議論は必要なく、ただ皇位継承や予算などで国会の議決に従うということである。

(なお国会は国権の最高機関とされるが(憲法第41条)、これは政治的美称であって、国会が内閣や最高裁判所の「上」に立つという意味ではないというのが通説である。)

憲法改正の国民投票を一度でもやれば「押しつけ憲法」論は消滅する

日本国憲法施行70周年を迎えたが、憲法改正について一言。

日本国憲法の成立過程については、改憲派の立場から、いわゆる「押しつけ憲法論」が根強く主張されている。どの程度まで日本国民の意向が内容に反映されていた(いなかった)と言えるのかについては様々な議論があるだろうが、いずれにしても、実際問題として、占領軍の意向を無視した憲法を成立させることができなかっただろうという点は今さら否定できない。

(もちろん「押しつけ憲法」でないとしても、改正が必要だという主張は論理としては成り立つが、「押しつけられた憲法だから改正すべき」という主張は、常に一定程度の説得力をもって存在してきた。)

 参議院選挙以後、憲法改正を目指す政治的な動きもいろいろと見えているところだが、仮に将来、国会で何らかの憲法改正の発議が行われ、国民投票を行ったにもかかわらず、改正に賛成する投票が投票総数の過半数に至らずに、承認されなかった場合、どうなるだろうか。
 もちろんその場合、国民の承認を得られなかったから憲法改正が行われないということになるのは当然だが、その政治的な意味としては、単に「憲法改正案が国民に承認されなかった」というだけでなく、「現行の憲法が国民によって信任された」ということにもなる。

 つまりその瞬間に「押しつけ憲法」論は成り立たなくなり、現在の日本国憲法は、国民が自分の意思で(消極的に・・・であっても)国民投票により選択した憲法となるわけである。改憲を主張する人々にとっては、国民投票で承認を得ることに失敗した場合、そのことは、単に改憲に失敗するというだけでなく、「押しつけ憲法」論が二度と使えなくなるという意味で、二重のダメージとなるだろう。

 さらにいえば、現在の日本国憲法は、形式上は、大日本帝国憲法を帝国議会の決議で「改正」することによって成立したという体裁を採っているのだが(★注)、国民投票で改正発議が承認されなかった場合、実質的には、国民が現在の日本国憲法を投票によって直接選んだということになる。つまり国民の意思によって日本国憲法が選択し直されたのであり、大日本帝国憲法との形式的なつながりすら断絶されるに等しいインパクトがあるということもできるだろう。

(★日本国憲法の前文の前には、昭和天皇の上諭が次のとおり記載されており、日本国憲法が、帝国議会の議決を経た大日本帝国憲法の改正の手続を経て成立したこととされている。

 「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」

 ただし、これは形式的には「改正」だが、実際は主権者が天皇から国民に変わったという点で、「改正」ではなく「革命」であり、新たな憲法の制定にあたる・・・というのが、憲法学の通説とされている。詳しい議論はここでは省くが、いずれにしても“形式上”は、大日本帝国憲法の「改正」手続を経て日本国憲法が成立したという体裁を取っている。)

 以上は憲法改正が承認されなかった場合の話だが、「押しつけ憲法論」が使えなくなるのは、憲法の一部の条文だけの改正が承認された場合にも、同じことである。(というより、「改正すれば押しつけ憲法でなくなる」というのが、改憲派のロジックだし、実際それ自体は何も間違いではない。)一部の改正があるとしても、日本国憲法が全体として国民に選ばれたことになるからである。

 極論をいえば、ただ単に「第○条の『××は』を『××が』に改正する」という類の、わずかな語句や文字レベルだけの改正案であっても、ひとたび国民投票を行えば、承認されようとされまいと、その時点で「押しつけ憲法」ではなくなる。

 つまり、国民投票を一度でもやるということは、どんな改正案であろうと、結果がどっちに転ぶのであろうと、「押しつけ憲法」論が二度と使い物にならなくなることを意味するわけで、「押しつけ憲法」論は、最初の国民投票が行われるまでしか存在できないということである。

憲法9条についての私の考え:自衛隊の問題は「憲法第104条」新設で対応せよ!

安保法制が憲法9条に違反するかどうかという議論はいまだに記憶に新しいが、そもそも自衛隊は憲法9条違反だという議論が、自衛隊(というよりその前身の保安隊の、そのまた前身の警察予備隊)の創設時から今日まで続いていることを、まず忘れてはいけない。

特に憲法学者の世界では、自衛隊違憲説(憲法9条違反説)が通説というか多数説である。もっとも最近は若手の憲法学者の間で自衛隊合憲説も徐々に増えてきているようで(一例として木村草太・首都大学東京教授)、あと10年や20年もすればかなり憲法学界は様変わりしているかも知れない。世代が変われば法解釈の考え方も変わっていく。戦前戦中に育った世代、戦後間もない頃に成長した世代、さらに自衛隊や安保条約が存在して当たり前という状況で育った世代、憲法学者の中でもそれぞれ違いがあって当然である。

それはさておき、自衛隊が憲法9条違反だという前提に立った場合、それでは具体的にどうすれば良いのかという問題が出てくる。上記の通り、今のところ憲法学者の多数派は自衛隊違憲説だが、様々な憲法の基本書を見ても、「具体的にどうするべきか」まで踏み込んだ記述をしているものは少ないようで、「自衛隊は違憲である」というところでとどまってしまっているものが多い。

「自衛隊は憲法違反だというなら、9条を改正すべきだ」という主張が当然ありうるのだが、これに対しては、「現実に合わないからといって理想を取り下げるべきではない。現実を理想に合わせるように努力すべきだ」という反論がなされることがある。
しかし問題は、単に「現実」と「理想」の相違だけで済む話ではない。一般に「理想と現実」というと、「現実は理想通りにならないものだ」というふうに、もともと両者の間に違いがあって当然というニュアンスがあるが、9条に限らず、憲法の条文は、そのような意味での「理想」なのだろうか。
たとえば憲法18条は「何人(なんびと)も、いかなる奴隷的拘束も受けない」と定めているが、これは「理想」なのだろうか。仮に奴隷制を認める法令があって、奴隷状態の人がいた場合、「現実を理想に合わせるように努力するべき」で済むのだろうか。

ここで憲法98条1項を見てみると、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定めている。つまり「現実を憲法の理想に合わせるように努力すべきだ」ということではなく、憲法に違反する現実(法律、命令、詔勅、国務に関する行為)はそもそも「無効」なのである。つまり奴隷制の例でいえば、「理想(18条)に現実(奴隷制)を合わせるように“努力”すべきだ」というだけでなく、「18条に違反する法律、命令(・・・)その他の行為は無効だ」ということになる。奴隷制をなくすように理想に向けて努力しろというレベルの問題ではなく、奴隷制を認める法令は「無効」である。
憲法9条も同じように考えるならば、自衛隊法や防衛省設置法も、「理想に反する」「理想に向けて努力すべき」では済まず、「無効」だということになる。

この点の問題は、憲法の基本書でいえば、たとえば高橋和之「立憲主義と日本国憲法」(第3版) で端的に触れられている。

「(9条の)改正に反対の人も、自衛隊は違憲であり直ちに廃止すべきだなどとは主張しないであろう。時間をかけて9条の規範内容を実現していくべきだと考えていると思われる。では、その間の憲法規範と現実との矛盾はどう説明するのであろうか。その矛盾が確認さえされていれば、矛盾が長期にわたって継続してもよいと考えるのであろうか。それでは、憲法を遵守すべきだという立憲主義の精神は、ご都合主義的なものとして後退せざるをえないのではなかろうか。」(同書63頁)

上記の「現実に合わないからといって理想(9条)を取り下げるべきではない。現実を理想に合わせるように努力すべきだ」という主張は、この点でいえば、「自衛隊がいつか廃止されるまでは(20年後?50年後?100年後?)、憲法9条違反の状態が継続しても良い」と言っているに等しいのである。

自衛隊合憲論の立場に立つならば、このような問題は生じないことになるが、自衛隊違憲論の立場を採る場合、この「現実に自衛隊をすぐに(永久に?)廃止することはできない以上、自衛隊が存在している間の状態をどう位置づけるか」という問題を避けて通ることはできない。(「違憲なら違憲で、控えめに自衛隊を運用すれば良い」という主張をする論者もいるようだが、これも「違憲(=無効)の制度でも(控えめに)運用すれば、存在して良い」と言っているのと同じであるから、立憲主義という意味では自滅行為である。

以下、この点についての私の考えを述べる。

自衛隊合憲論に立ってしまえば話は楽なのだが、憲法9条の文言を見るならば、やはり自衛隊がこれに違反しているのではないかという疑いを断ち切ることは難しい。自衛隊を廃止するなど(少なくとも10年や20年のタイムスパンでは)無理であり、それどころか永久に無理かも知れず、いずれにしても自衛隊が存在する限り、自衛隊と憲法の整合性が取れるようにしておかなければならない。
かといって9条の戦争放棄についての文言を捨ててしまうのが惜しいという気持ちもある。

そこで、憲法9条はそのままにしたうえで、これとは別に、憲法の末尾に、自衛隊の存在を認める新たな条文を追加するのである。
憲法の条文を実際に読んでもらうとわかるが、憲法は103条まで存在している。このうち国家の基本的構成や国民の権利など本質的部分を定めているのは1条から99条までであって、100条から103条までは、「第11章 補則」という章にまとめられている。この100条ないし103条は、憲法が施行された時の経過措置を定めたもので、1条から99条までの条文とは性質がまったく異なるものなのだが、そこに、自衛隊に関する条文を新たに追加するというわけである。

具体的には、新たに「第104条」を設けて、たとえば「第9条の定めにかかわらず、当面の間、自衛のための最小限の防衛力として自衛隊を保持することを妨げない。」としてはどうだろうか。

このアイデアはどうだろうか。憲法について「9条護持」でも「9条改正」でもなく、「104条追加」運動というのをやってみては・・・?

憲法の「戦争放棄」の意味

現行の憲法の前文では「平和主義」が謳われ、第9条では、いわゆる「戦力放棄」が謳われているが、今更ながら、この「戦争放棄」はいったい何のために憲法に定められているのだろうか。

「9条はもともと日本を弱体化するために占領時に決められたものだ」というやや極端な主張をする人もいるが、それは別とすると、考え方はおおむね2つに分かれる。

 (1)戦争を放棄することで、平和を守り、国民の生命や財産、人権を守ることができるから。

 (2)戦争を行わないことそれ自体が、第二次大戦の惨禍を経験した日本の理想だから。(実際にそれによって国民の生命や財産、人権が守られることになるかどうかは別次元の問題。)

(1)は、あくまで平和を維持して国民の利益・人権を保護する手段として効果的だから、戦争を放棄する、という考え方だが、(2)は、戦争の放棄それ自体が憲法の目指す重要な理想であって、それによって国民の利益・人権にプラスになるかどうかはまったく別という考え方である。

要するに、(1)の立場は、戦争放棄を単なる手段と考えるが、(2)の立場は、戦争放棄それ自体が目的だと考えるわけだ。

仮定の話として、戦争を放棄することによって逆に国民の利益や人権が脅かされるような事態が起こるとしたら、どう対応するのか。

(1)の立場では、戦争放棄は単なる手段に過ぎないのだから、逆に国民の利益や人権が脅かされるのであれば、(憲法改正は必要だとしても)戦争放棄をやめる、という発想につながる。

「憲法9条があれば、アメリカからの防衛力強化や戦略的協力の要求をかわす口実にすることができる」という主張も、この(1)の立場の変種とみることができるだろう。

もちろん(2)の立場も、国民の利益・人権がどうなっても良いと考えているわけではないだろうが、戦力放棄はその問題とは別であって、国民にとって利益だろうと不利益だろうと、理想は理想として守らねばならない、ということになる。

たとえば「たとえ侵略されても、戦うよりは殺される方がましである」という発想は、この(2)の立場の一種だろう(実際に、かつて朝日新聞の「声」欄でそういう趣旨の投書を見たことがある。)

憲法9条を守ることを主張する場合、上記のどちらの意味で言っているのか、立場を明らかにするべきだろう。

憲法では9条が一番大切なのか?他は二の次か?

先月のことだが、このような記事があった:「岡田代表 改憲論議、条件付きで容認も 9条以外で」。民進党の岡田は、憲法改正については、9条以外の条文についての改正であれば議論に応じるという。

蓮舫もこれと似たようなニュアンスのことを言っていたが、どうやら民進党の幹部たちは、憲法では9条が最も重要な条文で、他は二の次だと考えているようである。

それでは、たとえば13条(個人の尊重)、14条(平等原則)、18条(奴隷禁止)、21条(表現の自由)、36条(拷問禁止)などは、9条よりも重要度が劣るから、改正の協議に応じても良いということだろうか?

まともに考えてみれば、戦力の保持禁止についての改正よりも、奴隷禁止や拷問禁止の条項を改正する方がよほど問題であり恐ろしいことである。軍隊はないが奴隷制や拷問がある国よりは、軍隊はあるが奴隷制や拷問がない国の方がはるかに恐ろしいことは、常識的に考えればすぐわかるはずではないのか。

憲法9条至上主義とでもいうのか、「憲法では9条こそが最も大切で守らなければならない条文であり、他はそれよりは重要度が劣る」というような感覚は、おそらく民進党幹部だけでなく、多くの(いわゆる改憲派でない)人々が共有しているのかも知れない。

これは、「憲法といえば9条」という意識が蔓延していて、憲法改正論議も9条のことばかりを議論してきたという日本社会の風潮に原因があるのだろう。

憲法と反米と親米

ちょうどネット上で、米国のバイデン副大統領が、「日本の憲法は我々が作った」と発言したことが話題になったが、それにちなんで少し。

時々ネット上で

「サヨクやリベラルは反米なのに、どうして米国の作った憲法を守ろうとするのか?」

というような書き込みを見かけることがある。

ただ、これは逆に言えば

「ウヨクや保守は親米なのに、どうして米国の作った憲法を変えようとするのか?」

・・・という命題も成り立ってしまう。

実際は、“サヨク”“リベラル”は、米国のすべてに反発するような意味での「反米」ではないだろうし、もちろん“ウヨク”“保守”も、逆に米国のすべてを受け入れて追随するというわけでもないだろう。

その意味で、「反米なのにどうして憲法を守るのか」(またはその逆)という主張は、実りのある議論にはつながらない。

今こそ護憲派は、国民投票を要求して戦うべき

 いわゆる護憲派は、集団的自衛権の行使を「憲法解釈の変更」だけで行うという手法を批判している。

 まず問題とされているのは、集団的自衛権の行使そのものの善し悪しというよりも、「憲法解釈の変更」だけで集団的自衛権を行使できるかということである。

 そうだとすれば、護憲派は、まず、「憲法を改正しなければ集団的自衛権の行使はできない」ということを、もっと全面に打ち出さなければならない。 

 一般に、政府が重大な政策の変更を行う時は、解散や総選挙で民意を問うことが要求される。まして、集団的自衛権を行使するというのは、きわめて重大な政策変更であるばかりか、現行の憲法で認められるかどうかについても重大な争いがある問題である。

  そうだとすれば、まずは民意を問わなければならないはずである。それも、単なる選挙ではなく、憲法改正の是非を問わなければならない。

  護憲派は、政府に要求すべきである。

 「集団的自衛権を行使したいのなら、憲法改正手続が必要だ。憲法改正の是非を問うて解散、総選挙を行え。そして衆参両院で2/3以上の議席を獲得したなら、国民投票にかけよ。もちろんわれわれ護憲派が憲法改正を阻止してみせる」と。 

 しかしなぜそのように堂々と主張する護憲派がいないのであろうか。パンドラの箱を開けてしまうことを恐れているのか。「ひょっとしたら本当に憲法が改正されてしまうかも知れない。下手なことを言うとヤブヘビになる。」と思っているのだろうか。

 

 

 

 

 

集団的自衛権と憲法(4)

 政府の憲法解釈を変更することで、集団的自衛権を行使できるようにするということは、いわゆる解釈改憲であるが、逆にいえば、憲法9条の条文そのものは改正されずに残るということである。

 安倍政権の公式見解としては、「憲法9条に違反して集団的自衛権を行使しても良い」と言っているわけではなく、「集団的自衛権を行使しても(一定の前提条件つきで?)憲法9条に反しない」ということであろう。

 そのような憲法解釈の変更はおかしいという立場からすれば、「どうしても集団的自衛権を行使したいのであれば、ちゃんとした議論と手続をふんで、憲法を改正するのが筋だ」ということになる。 

 しかし、ここでシニカルな言い方をすれば、いわゆる護憲派の立場からみても、「仮に、どう転んでも政府の集団的自衛権行使を阻止できないのだとすれば、憲法9条が改正されずに残るぶんだけ、解釈改憲の方が、本当の改憲よりもマシだ」という考え方がありうるかも知れない。9条が残っていれば、一応は何らかの歯止めにはなりうるからである。(私自身の9条改正の是非についての考え方は、また別な機会に説明したい。)

 

憲法9条の議論の中で戦争のイメージが噛み合わないということ

 朝日新聞に掲載された社会学者古市憲寿の憲法9条に関する発言。

http://www.asahi.com/articles/ASG4X7676G4XUTIL067.html?iref=comtop_list_nat_f02

 短い記事で特に深いことを述べているわけではないが、なるほどと思ったのは、憲法9条を議論する時の戦争のイメージに関する「ずれ」についての指摘である。

 いわゆる9条護憲派は、「9条改正は戦争への道だ」と主張し、その「戦争」の悲惨さのイメージとして、第二次世界大戦の空襲や原爆を持ち出すことが多い。「戦争を語り継がなければ」というのも、第二次世界大戦の体験を語り継ぐということである。

 これに対して9条改憲派は、現代の世界のあちこちで行われている比較的小規模な武力紛争への対処を念頭に置いていることが多い。

 国際情勢の中で日本が武力紛争に外交・軍事でどう対応すべきかを持ち出して9条改正を求めるのが改憲派で、これに対して護憲派は、空襲で焼夷弾の中を逃げ回った民衆の惨禍の話で答える。

 これでは議論が確かに噛み合わないであろう。

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