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人事・労働

「解雇ルールの明確化」なんて本当にできるの?

 「解雇に対する規制が厳しいおかげで日本企業は解雇が難しい」という類いの主張がウソであることは繰り返し述べた。いろいろな意味で解雇が「難しい」のは事実だろうが、それは「解雇規制」のせいではなく、企業自身がめったに解雇しない前提で雇用をしてきたからにすぎない。
 単純化していえば、よほどのことがない限り解雇しない前提の労働契約をしているのだから、よほどのことがない限り解雇できない(裁判で解雇が認められない)のは、ごくごく当たり前のことである。

 ところで、「解雇規制緩和」のかわりに「解雇ルールの明確化」という言い方をする論者もいる。

 「どのような場合に解雇ができるのか、現在ははっきりしない。国が解雇ルールを明確にするべきだ」というわけだが、この主張は「現状では解雇しにくい。だから解雇ルールを明確にして解雇しやすくしてほしい」という意図が前提になっている。
(その逆に「現状ではいい加減な解雇が横行しているので、解雇できる場合をルールで制限してほしい」といっているわけではないことに注意。)

 解雇ルールといえば、労働契約法16条の「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。 」という定めが重要だが、「この条文だけでは、『合理的な理由があって、社会通念上相当であると認められる解雇』はどういうケースなのか、よくわからない。明確にしてほしい」というわけだ。

 ここでは、個人の職務遂行能力が不足していることを理由にして解雇する場合を例として考えてみよう。

 まず、現在でも職務遂行能力の不足を理由にした解雇が認められた裁判例はある。従って、仮に国がおおざっぱに「職務遂行能力の不足を理由にした解雇は認められる」というガイドラインなり法令なりを制定したところで、それだけでは何も解雇ルールが明確になったことにはならない。裁判例を後追いで整理したものでしかない。

 そもそも世の中一般に、職務遂行能力が「十分」な従業員などあまり多いわけでもないだろう。「職務遂行能力が不足している」というだけではあまりにも漠然としてつかみ所がない。
 問題は、具体的にどの程度まで職務遂行能力が足りなければ解雇が認められるのか、である。

 もちろんそんな細かいことを国がいちいちガイドラインや法令で決められるわけがない。「営業担当者が連続6ヶ月間目標達成できなかったときに解雇する場合は、その解雇は合理的で社会的に相当である」などと国が個々に決めるわけにもいかないだろう。

 そうなってくると、結局のところ、個々に企業が自分で決めるしかなくなってくる。「解雇ルール」を明確にしなければならないのは、実は国というよりも、企業自身なのだ

 たとえば企業が「職務遂行能力が不足している」ことを理由に解雇するならば、その「職務」とはそもそも何なのか、何をやるべきなのか、どこまで達成できれば良いのかも明確にしなければならない。

「解雇ルールを明確にする」ということは、職務の内容や達成目標も個々に明確にしなければならないことになる。やや極端な言い方をすれば、解雇ルールを明確にするためには、仕事に関するすべてのことを明確にしなければならなくなるのだ

 すべてを明確化すれば、確かに解雇ルールも明確になっていくのかも知れない。

 問題は、一般的な日本企業は、そういう厳格な明確化になじむのかということである。物事をあまり明確にしすぎない、いろいろな意味での曖昧さや柔軟さが日本企業の強みと言われてきた(今も言われている)のではなかったか

 そして、職務範囲を明確にするということは、その範囲以外のことはやらなくても良いということを意味する。たとえば「こいつは決められたことしかやらないからクビ」というわけにはいかない。それこそ解雇ルールの明確化の発想とは真っ向から矛盾してしまう。やるべき仕事の範囲をはっきり線引きしたうえで限定しなければ、「明確化」とはいえないからである。

 とはいえ「従業員は、決められた職務の範囲や達成目標に限定しないで、もっと幅広くがんばってもらいたい」というのが多くの経営者の願いというかホンネだろう。だが、解雇ルールを明確にして解雇しやすくなることを目指すような企業で、そういうことが期待できるのだろうか。企業は、いろいろと強みになってきた曖昧さや柔軟さを捨ててまで、そういうことをやりたいというのだろうか。

 なお、解雇ルールが明確になったからといって、解雇をめぐる訴訟がなくなるわけではない。その解雇ルールの解釈について争いが起こる可能性は常に残るからである。
 たとえば「〇〇の場合には解雇できる」という明確なルールがあって、それに従って会社が従業員を解雇したとしても、そもそもその「〇〇の場合」にあたると言えるのかどうかについて見解が合わなければ、最終的には訴訟で決着をつけるしかない。

「解雇規制で正社員の既得権が守られている」というのは、半分はウソですよ

 しつこいようだが、「『解雇規制』って、本当に存在するの?」から始まる一連の「解雇規制」論批判シリーズの続きである。

 「解雇規制は、正社員の既得権を保護しているだけだ。現在雇用されている者を保護してはいるが、現在失業している者のチャンスを奪っている。
という主張もよくなされることがある。たとえば、経済学者の大竹文雄教授のような論者が挙げられる。

 この主張は、半分は正しく、半分は間違っていると思う。ここでも一応はまだまだ終身雇用・長期雇用が維持されている大企業を前提として考えてみよう。

 かなり単純化して考えた場合の話であるが、たとえばある会社で現在雇用されている1人の正社員が、定年まで 解雇されることなく勤続が保証されているとすれば、そのせいで、失業している別の誰かがその会社に就職できないでいる…と言えなくはない。

 その意味では、確かに「現在雇用されている者が保護されていることは、失業者のチャンスを奪っていることになる」という主張は一理ある。

 しかしこれは、解雇規制のせいでそうなっているのではなく、もともと企業が、原則として定年まで解雇しない(暗黙の)契約(終身雇用、長期雇用)を締結しているからにすぎない。

 企業は、解雇規制があるために嫌々ながら「定年まで解雇しない契約」を締結しているのではなく、自分からそのような契約を選んでいるのではないか。

 上に挙げた解雇規制緩和論者である大竹文雄教授自身も、『労働経済学入門』(日経文庫)の中で次のように述べている。(*注)
 「終身雇用という言葉は、誤解を与えやすいものです。文字どおり死ぬまでの雇用を保証するような雇用契約ではないことは、明らかです。定年までできる限り長期間雇用を保証しようという暗黙の契約というのが、より正しい解釈でしょう。」(同書98頁)

 このように、原則として定年まで解雇しない契約なのだとすれば、原則として定年まで解雇できないのは当然の帰結である。解雇しようとして裁判になっても、裁判所は、その原則を覆すだけの根拠がなければ解雇を認めないだろう。大竹教授のいうように「できるだけ長期間雇用を保証する契約」なら、まず会社としては解雇を避けるために「できるだけ」の努力をしなければならないことになる。それをしないで解雇するならば、労働契約法16条で定めるように、合理性・相当性を欠き、解雇権の濫用として無効ということになる。

 これは、わざわざ「解雇規制」と呼ぶほどのことだろうか?

 たとえば「家賃を払う限り60歳まで貸家に居住できる賃貸借契約」を締結したら、貸主が途中で勝手に解約して借主を追い出すことなどできるわけがない。(借地借家法のことはここでは度外視する。)その間、他の人間は貸家を借りることはできないが、それは当然のことである。
 これらは「規制」のせいでそうなっているのではなく、もともとそういう契約を貸主が選択したからである。もちろん家賃の支払いを怠ったり、家を荒らしたりすればまた話は別である。

 この「60歳まで貸家に居住できる権利」は、「既得権」なのだろうか。
 そう呼ぶのは勝手だが、それをいうなら、契約上の権利はすべて「既得権」ということになる

 たとえばある建物について5年間の賃貸借契約を結べば、5年間は他の人間は入居できない。それを「5年間の既得権」と呼ぶ意味があるのだろうか。
 ある知的財産について10年間の独占的ライセンス契約を締結すれば、10年間は他の者はそれを利用できない。それを「10年間も既得権が保証される。けしからん」という人がいるだろうか。

 おわかりだろうか。

 「解雇規制で、正社員は長期間の雇用が保護されている」のではない。もともと正社員とは、長期間の雇用契約なのだ。
 解雇規制があろうとなかろうと、契約が保護されるのは当然の結果なのである。

  (実をいうと、ここでは法律論としてはちょっと乱暴で突っ走った議論をしている。最高裁判例では、「終身雇用の暗黙の契約を締結した」ということを正面から認めるのではなく、「終身雇用の期待の下に期間の定めのない労働契約を締結している」という、より慎重で間接的な表現を使っている。法律上の概念としての「期間の定めのない労働契約」とは、「終身雇用」とイコールというわけではない。最高裁は、そこに「終身雇用の期待」という微妙な表現をプラスしているのだ。
 これに対して、むしろ経営学者や経済学者の方が、法学者や法曹よりもストレートな形で、「終身雇用(長期雇用)の暗黙の契約」が締結されているということを正面から堂々と強調してきた観があるのだが、今となっては感慨深いものがある。)

  なお念のため断っておくと、私は、何がなんでも正社員を解雇してはならないとか、解雇しやすい世の中になってはならない、とまで言い張るつもりはない。「解雇しにくいのは解雇規制のせいだ」「解雇規制で既得権が守られている」という類いの不正確な主張を批判しているだけである。

  「とにかく正社員の保護を縮小させた方が、失業者や非正社員にも新たな雇用のチャンスを与えることになるから、格差の是正につながる」という議論は、賛否はともかくとして一応検討に値するとは思うが、これは解雇規制というより、企業自身がどのような労働契約を締結して働かせるかという観点で考えるべきである。解雇しにくい労働契約ならば裁判で解雇は認められにくい。解雇しやすい労働契約ならば解雇は認められやすい。当たり前の話ではないか。

 それでは、解雇しやすくするためにどうすれば良いか。ここでも乱暴で大雑把な言い方をしてしまえば、企業が、定年までの雇用を保証しないことを明確にした契約を締結すれば良いのである。(これは必ずしも半年や1年の短期の契約という意味ではない。)

 まず企業が、新卒採用向けの説明会で、学生に向かって「定年までの雇用を保証するものではありません」「働きが悪ければ解雇されることがあります」「働きが良くても事業の都合により整理解雇される場合があります」ということを説明し、納得してもらい、定年まで保証するものではないことがはっきりわかるような労働契約を締結するようにするべきである。

 (もっとも、ここまではっきりした方針を示すような企業であれば、新卒の大量採用をするかどうかは怪しい。中途採用でかなり用が足りるからである。さらに「定年までの雇用を保証するものではない」ということなら、そもそも「定年」さえ必要なくなるだろう。定年とは、継続的な雇用が保証される最終的な年齢の限度のことだからである。)

 このようにしたとしても、たとえば企業が「働きが悪い」従業員を解雇した場合に、「本当に働きが悪かったのかどうか」が裁判で争いになる可能性はある。しかしそれは「解雇規制」の問題ではないだろう。

 また、解雇しやすい企業になることができたとしても、それは現在の日本企業の持つ様々な「強み」とされている要素も失うことを意味すると思うが、それはまた改めて検討したい。

(*注)この大竹文雄教授の『労働経済学入門』は、1998年4月に刊行されているが、興味深いことに、「解雇規制」という用語はこの著書の中で一度も使われていない。そのかわりに、「解雇不自由の法的状態」という言い方をしている。少なくとも「解雇規制」よりはよほどマシな用語法である。と同時に、「解雇規制」という用語が(30日前の解雇予告や労災休業中の解雇禁止などの限られた意味ではなく)一般的に使われるようになったのが、かなり最近の現象であることを示唆しているのではないだろうか。

「解雇規制」などという言葉を使わない『ゼミナール経営学入門』

 「解雇規制」論について、さらに付け加えてみる。

 ここで一冊の本をちょっと見てみよう。伊丹敬之&加護野忠男著『ゼミナール経営学入門』(日本経済新聞出版社)である。
初版は1989年で、2003年に改定されて現在も販売されている。今手元にあるのは2003年版である。

Zemi

(2003年は、日本的経営に対する疑問が既に強くなっていた時期で、日本的経営の強みを述べる著者の言葉も、どこか歯切れの悪さが感じられる。おそらく1989年版はかなり違った感じなのではないかと思うので、いずれ手に入れてみたい。)

 さて、伊丹敬三教授や加護野忠男教授といえば、日本的経営の強みを強調してきた経営学者として知られているが、この著書では、「解雇規制」についてどのように述べているだろうか。
 「解雇規制を緩和すべきだ」などとは言っていないだろうということは、読む前から想像できる。それでは逆に、「解雇規制が日本企業の強みを作ってきた」とでも主張しているのだろうか。

 そうではない。

 この本の中には、「解雇規制」という言葉は一度も出てこない。
 2003年時点では、「解雇規制」という言葉が経営論の文脈で使われること自体、まだあまり無かったのかも知れない。
(もちろん一般的な用語として「解雇規制」という言葉が世の中で使われることはあっただろうが、おそらくこの頃は「労災休業中の解雇は規制される」とか「解雇するには30日前に予告しなければならない」などの個別の規制が主に意識されていたのかも知れない。)

 この『ゼミナール経営学入門』の227頁を見てみると、こんな一節がある。

日本企業は…雇用構造の選択を、実際にはどのように行ってきたのだろうか。
…一般的に、日本的経営の三種の神器といわれるものがある。終身雇用、年功序列、企業別労働組合、の三つである。
…終身雇用とは、正規の従業員として採用された場合に、経営上の大きな困難や従業員の大きな不手際がないかぎり、厳密に言えば定年まで雇用されるという暗黙の契約である。
…こうした雇用構造を選択すると、さまざまな労働市場との対応の特徴が生まれる
。」

おわかりだろうか。この著書によれば、終身雇用(長期雇用)とは、日本企業が「選択」したものなのである。

企業が自分の意思で「経営上の大きな困難や従業員の大きな不手際がない限り…定年まで雇用されるという暗黙の契約」を、従業員と締結したと考えているのだ。

そうだとすれば、「よほどのことがない限り、定年まで雇用されるという契約」があるのなら、「よほどのことがない限り、裁判になっても、解雇が認められない」というのも当然のことである。

要は、政府が勝手に「解雇規制」をしているわけではなく、企業が自分で「終身雇用」「めったに解雇することがない契約」を「選択」してきたということである。

 この『ゼミナール経営学入門』の分析が的確かどうかはさておき、2003年時点では、「国が解雇規制をしているので企業が困っている」という類いの論法は、一般には広まっていなかったということがわかる。それどころか、おそらく「解雇規制」という言葉すらあまり使われていなかったのだ。
 それは当然のことである。日本企業は、めったに「解雇」しないという雇用構造を自分の意思で「選択」し、その強みを利用してきたというのが、こういう経営学の観点だったのだ。「企業が解雇規制を押しつけられている」などという発想が出てくるはずがない。

 ただ驚きなのは、少し前まで、そういう経営学の著作が(妥当な観点かどうかはさておき)広く世間で読まれていたのに、もうそういう時代を忘れ去ったかのように、「解雇規制で日本企業が困っている」という論調が普通に通用しているということである。

正社員の「解雇規制」なんて存在するの?

 さきのエントリの続きで、今度は整理解雇を念頭において考えてみよう。
 企業が無能(?)なX氏を解雇するケースではなく、経営上の理由で労務を調整するために整理解雇をしようとするケースである。有能だろうと無能だろうと、一定の従業員を解雇して人減らしをしたいと考えているとしよう。 これはなかなか裁判で合理性が認められにくいのは事実である。

 深くは立ち入らないが、裁判例では、整理解雇の4要件というのが一般に知られている。
 ①人員削減の必要性があること、②人員削減の手段として整理解雇を選択する必要性があること、③解雇対象者の選び方が妥当であること、④手続(労使の協議や労働者への説明など)が妥当であること、である。これらの4つの要件(4要素という言い方をする論者もいる)に基づき、整理解雇が有効かどうかを裁判所が判断してきた。

 こういう状況について「日本の正社員は解雇規制が厳しくて整理解雇が難しく、契約社員に比べて保護されている(ので規制緩和すべきである)」という評論家やエコノミストの論調をよくみかけるが、これは原因と結果を逆にした勘違いではないだろうか。

 主要な日本企業(規模の大きな企業)は長年、職務も勤務場所も(そして実質的に労働時間も)無限定で長期雇用を前提とした年功的賃金体系の雇用を行ってきたことは周知のとおりである。
 ある程度の大企業に勤務した経験がある人なら、思い出してみてほしい。就職活動をしていた時に、「不況になったら人員調整で整理解雇することもあるけど、いいね」と学生たちに説明して、納得のうえで労働契約をする大企業などあっただろうか。どこもかしこも、長期的に勤務する前提の話しかしてこなかったではないか。
 年功賃金の体系はだいぶ崩れてきているとはいえ、まだまだ多くの主要企業の賃金や退職金や福利厚生は、いつ解雇されても変わらないような水準ではなく、長期勤続してはじめて上がっていく前提のシステムである。
 要するに主要な企業は、滅多なことでは解雇せず、長期的に働いてもらう前提で人を雇用して、そういう従業員を「正社員」と勝手に呼んでいるだけのことである。
 おわかりだろうか。政府が「正社員」を守るために「解雇規制」をしているわけではない。企業が、「滅多なことでは解雇しない条件の従業員」を自分で勝手に採用して、それを「正社員」と呼んでいるだけなのだ。

 そうだとすれば、いざ「正社員」を解雇しようとして訴訟になった時に、裁判所になかなか「解雇の合理性」を認めてもらえないのは当然のことだろう。
 もともと滅多なことで解雇しない前提で(労働時間や担当職務も柔軟に対応することを含んで)雇用したのだから、滅多なことで解雇が認められないのはごくごく当たり前の帰結である。

 少々単純化していえば、「整理解雇」の要件が非常に厳しいのは、根本的にはこれが理由といえる。裁判所が、さきに紹介した「整理解雇の4要件」に照らして整理解雇の有効性を慎重に判断するのも、別に勝手な思いつきでやっているわけではない。
 
 「日本では、企業が倒産の危機にでもならないと、裁判所が整理解雇を認めてくれない」とか「採算の悪い事業を切り捨てて大胆に事業再編しようとしても、整理解雇が難しい」というのも、何も不思議ではない現象なのだ。

 どこの企業が、新卒説明会で「事業の採算が悪い場合は、あなたの働きの良し悪しにかかわらず、整理解雇します」と学生たちに説明しているのだろうか。それこそ倒産の危機に出もならない限り首にされることはないという前提の話しかしていないのではないか。

 また「A事業の採算が悪くなって切り捨てたくても、整理解雇が難しい」というのも当然である。採用する時に「A事業(の●●の職務)だけを担当する」という契約で採用したのだろうか。そうではないだろう。だいたいの正社員は「なんでもやらせる」(職務無限定)という前提で採用しているのだ。「なんでもやる」従業員として採用したのなら、「A事業がつぶれても他の事業をやらせれば良いから、解雇までする必要はないではないか」と言われると反論できないのである。  

 これに対して、最初から「一定の契約期間だけ雇用する」という前提で雇用するのが「契約社員」である(契約期間の更新はありうるとして)。
 契約社員は正社員より解雇規制が緩やかだというよりも、もともと短期の契約期間を区切って雇用しているから(いわゆる「期間の定めのある労働契約」)、その契約期間を更新しなければ原則としてそこで終わりとなる。(近年の労働契約法の改正については、ここでは触れないでおく。)

 「正社員の方が規制により保護されている」とか「正社員の解雇規制は厳しいので、切り捨てやすい契約社員で労務を調整する」というのは、正確な言い方ではない。
 企業が最初から「滅多に解雇しないつもりの従業員」と「短期契約だけでおわりにできる従業員」の二種類に分けて採用して、前者を正社員、後者を契約社員と呼んでいるだけのことなのだ。

 (追記:ここまで述べたら、あとはいわゆる「解雇の金銭解決」の問題についても触れた方が良いと思うが、これは機会を改めてのことにしたい。)

「解雇規制」って、本当に存在するの?

 ちょっと人目を引こうと思ってわざと極端なタイトルをつけてみたが、正確にいうと

 「日本では、いろいろと解雇が困難な(日本特有の)事情があるのは事実が、それを『解雇規制』と呼ぶのは妥当ではないんじゃないの?」

というニュアンスである。

解雇規制を緩和して、解雇しやすくしろ」という議論は今もあちらこちらで見かけるが、「解雇しにくい」のは、「解雇規制」のせいなのだろうか。風俗営業規制とか騒音規制のようなレベルで「解雇規制」があって、企業が解雇したくてもできないのだろうか。そうではなく、解雇が難しいとすれば、それはもっと別なことが理由ではないのか。
 (後で少し触れるが、法律上は、何でもかんでも解雇し放題なわけではなく、一定の「解雇規制」はもちろん存在する。ただし「正社員を解雇してはならない」とか「正社員を解雇するには労働基準監督署の許可を要する」などという法規制があるわけではない。)

以前のエントリ「解雇しにくい社会」は、日本企業が自分から産み出したものだ!」でも書いたことだが、改めて述べておきたい。

まず具体的な例を仮定して考えてみよう。

ある会社に、「仕事のできない」中高年従業員がいた。名前はX氏。このX氏は、職務遂行能力がない奴と判断されたり、人間関係でうまくいかなかったり、まぁいろいろな事情で、あっても無くても良いような雑用だけをやることになった。いわゆる窓際族である。

会社はいわゆる年功賃金制度であり、X氏もそれなりの賃金をもらっている。

ある日、とうとうシビレを切らした会社はこのX氏を解雇しようと考えた。ただ実際に解雇するとなると、確かにいろいろと面倒なことになるのは事実である。

まず30日前に予告して解雇する必要がある(労働基準法20条1項)。これは確かに解雇規制の一種ではあるが、別に難しいことではない。
ここでX氏がおとなしく解雇を受け入れたら、もちろんそれで万事解決である。

次に、X氏が労働基準監督署に駆け込んだら、どうなるか?

状況にもよるだろうが、会社としてはこの段階では、それほど心配はする必要はない。労基署は、賃金不払や労災など白黒の判断が簡単につく問題については割と動きやすいが、解雇のように複雑な事情や判断が必要な問題では非常に動きにくいのである。

では、X氏が「解雇は無効だ」といって、弁護士に相談して(または本人訴訟で)裁判所に訴訟や労働審判の申立を提起をしたらどうなるだろうか?

本当に「解雇の難しさ」が浮き彫りになるのはここから先なのである。
(ただしこの段階に来るまでに諦めて泣き寝入りしてしまう人も多い。なお他にあっせん手続というのもあるが、ここでは省略)

X氏が「解雇は無効だ」と主張して訴えを起こしたからには、会社としては当然「解雇は有効だ」と言って反論しなければならない。解雇が有効であることを会社は主張・立証する必要がある。
では、どうすれば解雇は「有効」だということになるのだろうか。

労働契約法16条には「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。」という定めがある。
つまり会社としては、解雇に合理的で、なおかつ社会通念上の相当性があることを主張・立証すれば良いのだ。ここでは一応簡潔にまとめて解雇の「合理性・相当性」と呼んでおこう。

さて、「仕事ができない人間を解雇するんだから、当然、合理性・相当性があるはずだ」と思った会社は、「X氏は仕事ができないので、使えません。だから解雇しました」等等と主張する。

これに対してX氏側弁護士(または裁判官)は何というだろうか。

「窓際族っていうけど、具体的に今、何の仕事を担当させているんですか?」
「ほとんど仕事をさせていないって?じゃあ仕事をさせればいいでしょ。仕事をさせるのは会社の役割ですよね。」
「使えない?具体的にどう使えないのか、証明できますか?記録あるの?仕事の成果はどうやって確認してるの?」
「雑用しかやらせてない?その雑用を一通りこなしているなら、ちゃんと職務を果たしたことになるんじゃないの?」
「お宅の会社には、他にもいろいろな職種があるでしょ。他の仕事をやらせたらいいんじゃないんですか」
「職種を変えるローテーションや転勤は、お宅の会社では普通にやっていますよね。だったら、この人も、職種を変えてみたらいいんじゃないですか。」
「賃金に見合った仕事をしてないって?中高年で賃金が高い?年功賃金にしたのはお宅の会社の勝手でしょ?仕事に見合った賃金体系にすれば良かったんじゃないの?」

…等等の議論になるだろう。何となく「使えない」「能力がない」というだけでは、漠然としすぎており、まったく反論にならない。
上記のような議論に具体的に答えることができなければ、「解雇に合理性・相当性がある」ことは裁判所に認めてもらえないだろう。そこが難しいのだ。

一般的に言って、会社というものは(少なくとも日本の会社は)、必ずしも従業員の職務を具体的に細かく定義して、何が達成できたかをチェックできるようにしているわけではない。
特に窓際族のような立場となると、軽い仕事を担当させられることが多いが、そうなるとかえって「仕事ができない」ことの証明が難しいという逆説さえ生じる。
たとえば「仕事ができないから、掃除だけやらせています。」という理屈では、逆に「掃除という「職務」をちゃんと果たしているなら、なぜ解雇するのですか?」ということになりかねない。
(「掃除を命じたのに、紙飛行機を作って遊んでばかりです」なら話は別。)

また、「仕事ができない」ということが証明できたとしても、ローテーションや転勤を普通に行っている会社であれば、「この人にも、他の部署・職務を担当させてみたらどうか。そこまでやらなければ仕事の能力は判断できないのではないか」ということになってしまう。

おわかりいただけただろうか。

解雇が難しいケースは確かに多いが、その解雇の難しさ(正確には「解雇が合理的で相当性があることを裁判で証明することの難しさ」)の理由の大半は、実は日本企業が自分から作り出しきていたものなのだ。

政府が勝手に解雇規制をしたので、企業が抑圧されて解雇できなくなっている…というわけではない。タクシーの参入規制とか、大学の新設規制とか、薬品の通信販売規制などとはわけが違うのだ。

日本企業の仕事のさせ方では、いざ解雇したくなった時に、解雇の合理性・相当性が立証しにくいことが多い」というのが当たっているのではないだろうか。

(★ここまで読んで、「整理解雇の4要件の話はどうした?」という人がいるかも知れない。しかしここで述べたX氏のケースは、整理解雇ではない。単に特定の1人の従業員X氏を、仕事が出来ないことを理由として解雇しようとしているだけである。
  整理解雇はこれとはまったく違う。整理解雇とは、無能なX氏だろうと有能なY氏だろうと関係なく、経営上の労務調整の必要のため、やむなく人員を削減する目的で行う解雇のことである。混同してはいけないのだが、各種のブログや記事を読むと、時々ごっちゃにしている人がいる。整理解雇の問題は、また機会を改めて考えてみたい。)

労働時間の把握が、ようやく使用者の義務として明文化される?

 6日の読売新聞の記事によれば、厚生労働省は、労働安全衛生法施行規則を改正して、従業員の労働時間の把握を企業の義務として明文化する方針を固めたとのことである。
 (読売新聞以外では今のところ報道されていないので、どこまでしっかりした裏付けがある記事なのか気になるところではあるが・・・)

 以前のエントリでも触れたとおり、労働時間(または出退勤時間)を使用者が記録・把握する義務は、これまでのところ、労働基準法でも、労働安全衛生法でも、法令に明文では定められていない。

労働基準法には、使用者側が労働時間を記録する義務は書かれていない!

今こそ労働時間の記録を法律上の義務にしよう

 現時点の厚生労働省の公式見解としては、あくまで“解釈上”「使用者には、労働時間を適正に把握するなど、労働時間を適切に管理する責務がある」としているだけである。ストレートに法令の条文で「使用者は労働者の労働時間を記録しなければならない」等の記載がされているわけではない。

 今回の読売新聞の報道が事実だとすれば、ようやく労働時間の把握義務が、法令の条文として明確に定められることになる(ただし「法律」ではなく、それより下位の「規則」(省令)であるが)。

 なお、これは労働基準法ではなく労働安全衛生法の施行規則として定めるとのことであり、事実だとすれば、労働時間の把握が健康管理のため重要であるという認識のあらわれだろう。
 報道によれば「管理監督者を含めたすべての労働者を対象とする」とのことだが、管理監督者であれば長時間労働で過労死しても良いなどという理屈はないから、これは当然のことである。そうだとすれば、現在政府が導入を検討している、いわゆる“高度プロフェッショナル”(=残業代が支給されない、一定の専門的職務の従事者)も、残業代の支給の有無とは無関係に、労働時間を把握するということになろう。

 (ちなみに、労働時間把握の義務を明文化しようという動きは、2016年に、野党4党から、労働基準法改正案の提出という形で出ていたようだが、これはそのままになってしまっている。)

 それにしても、健康管理という面でいえば、残業代が支給されるかどうかよりも、労働時間を使用者が把握・記録するかどうかの方がはるかに重要だと思うのだが、どうもメディアの関心が薄いようである。

「残業代ゼロ」・「脱時間給」・「成果型賃金」・・・どの名称がお好きですか?

秋の臨時国会に政府が提出を予定している労働基準法の改正案について、連合(の執行部)が、一定の修正を条件として容認の姿勢を見せていたが、傘下の産別労組などが強く反発し、容認を実質的に撤回することとなった。

ここでは細かく立ち入らないが、各新聞の見出しを比べて見ると、なかなか面白い。

(1)朝日新聞

「残業代ゼロ」容認、連合見送りへ 批判受け方針再転換

専門職で年収の高い人を労働時間規制から外す「高度プロフェッショナル制度(高プロ)」を条件付きで容認する方針転換をめぐって混乱していた連合の執行部が、高プロの政府案の修正に関する「政労使合意」を見送る方針を固めたことが、関係者への取材でわかった。(・・・)

(2)日経新聞

連合、「脱時間給」容認を撤回 政労使合意は見送り
 
連合は25日、労働基準法改正案に盛る「脱時間給」制度を巡る政府、経団連との修正案の政労使合意を見送る方針を固めた。連合執行部が現行案の修正を政府に要請したことに、傘下の産業別労働組合などが強く反発。組織をまとめきれないと判断し、撤回することになった。(・・・)

(3)産経新聞

「成果型賃金」容認を撤回へ 連合、政労使での合意見送り 労基法改正案

高収入の一部専門職を残業代支払いなどの労働時間規制から外し、成果に応じて賃金を決める「高度プロフェッショナル制度」を含む労働基準法改正案の修正をめぐり、連合が政労使での合意を見送る方針を固めたことが25日、関係者への取材で分かった。(・・・)

こうしてみると、朝日は「残業代ゼロ」、日経は「脱時間給」、産経は「成果型賃金」である。記事本文そのものはそれほど大きく違っているわけではないが、こういう見出しの書き方の違いはいろいろと考えさせられる。

朝日の「残業代ゼロ」というのは、明らかに非難というか否定的なニュアンスがこめられているが、実際に残業代(時間外割増賃金)は支給されなくなるのだから、間違いではない。

日経の「脱時間給」というのはやや微妙である。労働時間が長くなっても、それに応じた残業代が支給されなくなるという意味では、「脱時間給」というのも間違いではない。ただし、今でもいわゆる「月給制」(=遅刻や早退をしたり、所定労働時間より短く勤務しても、賃金が減額されない扱い)の労働者は、既に存在している。(ただしそういう「月給制」の労働者も、原則として残業代は支給しなければならないのが労働基準法の規定である。)こういう「月給制」の人は、今でもすでに(ある程度)「脱時間給」といえるのではないだろうか。

これらに対して、産経の「成果型賃金」というのは、ミスリードを招くものだろう。成果に応じようと応じまいと、とにかく一定の高度に専門的な職務の労働者には残業代を支給しない、というのが労働基準法の改正案なのである。
使用者には、残業代を支給する義務がなくなるだけであって、成果に応じた賃金を支給する義務が発生するわけではない。

逆にいえば、今でも、成果に応じた賃金を支給できないわけではない。成果の上がっている者の賃金を高く、上がっていない者の賃金を低く設定するような労働契約を締結するのも自由である。ただしそれとは別に、法定労働時間を超えたら、原則として残業代を支給しなければならないというだけのことである。

なお、過去の記事で何度も書いているが、描き上げた絵の枚数に応じてお金をもらうアニメーターとか、ヤクルトの販売数に応じて報酬をもらうヤクルトレディとか、売上に応じてカネをもらうタクシー運転手などは、立派な「成果に応じた報酬」である。(必ずしも「労働契約」ではないが)

以上のとおり、「残業代ゼロ」は間違いではないが非難のニュアンスに傾きすぎ、「脱時間給」はややズレており、「成果型賃金」は、違う次元の問題を混同している。もう少し別な言い方はないだろうか。

個人的には、単純に「固定賃金制度」とか「定額賃金制度」で良いのではないかと思う。

厚生年金の事業主負担分も本人が負担しているのか?(城繁幸氏の説について)

 「みんなの介護」という介護系メディアのサイトで、人事コンサルタントの城繁幸は最近、次のように言っている。

厚生年金に関して知っておくべき話がひとつあります。厚生年金は現在、約19%で、そのうち半分は会社が負担してくれるということになっています。しかし会社側から見れば、事業主負担も実質的には本人負担だということです。”

 城の主張をさらに読んでみると、具体的にはこういうことである。

 まずある企業のAという労働者が、額面で50万円の給料を支給されているとする。厚生年金の保険料率が仮に20%とすると、Aの場合は(単純化していえば)10万円である。

 厚生年金保険料は、事業主と被保険者が折半で負担することになっている。
そこでこの10万円を企業とA本人が折半で5万円ずつ負担することになるから、A自身の手取りは、50万-5万=45万円である(ここでは所得税その他の徴収は無視しておく)。

 しかし城繁幸によれば、事業主負担も、実際には本人が負担させられているのだという。

 企業側からみれば、給料50万円+厚生年金保険料事業主負担分5万円=55万円がAの人件費である。つまりAは「本来55万円をもらえるはずだった」という。

 そのうえで企業側は、上記の5万円を事業主負担分として納付しているから、実際にはAは、“自分がもらうべき”55万円から、事業主負担分5万円と本人負担分5万円の両方の合計10万円を負担して、45万円を手取りとして受け取っていることになる。

 つまり城によれば、厚生年金保険料は、事業主負担分も本人負担分も、どちらも結局は労働者本人の負担でしかないのだという。

 城繁幸のこの議論は、「Aは本来、50万円ではなく55万円をもらえるはずだった」という仮定に基づいている
 仮に厚生年金制度が存在しなければ、Aの給料は50万円ではなく55万円になっていたはずだという主張である。

 だが、本当にそういえるのだろうか。仮に厚生年金のない世界であれば、会社の負担するAに関する人件費が月55万円から50万円に下がるだけではないのか。

 Aは、支給される給料が額面月50万円という前提で会社に雇用されている。月50万円で働いてくれる者に、わざわざ月55万円を支払う会社はないだろう。
 厚生年金がなければ、会社は余計な5万円などわざわざ負担する必要はないし、そしてAは50万円という条件で納得して働くのだから、Aの支給される給料は50万円のままなのではないか。

 なお「事業主負担分」があるのは、厚生年金だけではない。健康保険にも労働保険(雇用保険と労災保険)にも事業主負担分はある。とりわけ労災保険には、本人負担は存在せず、100%事業主負担だが、城繁幸の理屈では、この労災保険も、「労働者が本来もらえるはずだった人件費の中から、すべて自分で支出しているのだ」ということになるのだろうか。

 さらに城繁幸の理屈でいえば、会社が支出する各種福利厚生費(これも人件費の一部といえるだろう。たとえば会社独自の福利厚生制度とか、社内食堂の会社負担分とか、社内運動会とか)も、「本来なら労働者が全額もらえるはずだった人件費に含まれる」ということになる。
 つまり城繁幸の説では、人事や福利厚生にかかわる諸費用は、一見「会社負担」のように見えても、実際はすべて労働者本人が負担しているものでしかなく、実質的には「会社負担」のものなど存在しない、ということになるのだろうか

日本企業の社内行事と社内成人式

 ご存じのとおり、日本企業の社内行事にはいろいろなものがある。会社の運動会や社員旅行については、次第に敬遠されて廃れているとか、逆に最近では見直す動きが出てきたなどの話をよく聞く。
  たとえば西日本新聞のこの記事は、社員旅行の新しい形の例を紹介している。
  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170620-00010002-nishinpc-soci

 それでは、「社内成人式」については聞いたことがあるだろうか。

 社内運動会や社員旅行に比べると、社内成人式はあまり話題にならない。これは、対象者が、会社に勤務する立場で20歳を迎える人だけに限られるということがあるのだろう。つまり実質的には、中学卒か高校卒で採用された人だけなのである。

 私自身の経験でいうと、大手メーカー勤務時代、社内成人式を行う側の仕事をしたことがあった。総務とか人事の担当者の役目である。

 社内成人式は全社一括ではなく事業所ごとに実施することになっていて、大規模な工場では、バブル時代に1年で数十人もの高卒新人を、事務部門でも製造部門でもひっくるめて採用したことがあり、そんな若者たちが採用から2年後になると成人式の対象となるわけである。

 成人式は労使共催の形で行った。工場の食堂を飾り付けて飲食を準備し、工場長と労働組合の支部委員長がそれぞれ祝辞を述べ、さらにパーティーやビンゴゲームなどをしたりするのだった。ゲームの企画は、労組の青年部に頼んでいた。

 イベントを企画するというのは私は性格的に苦手で、毎年、この季節が迫ってくると、胃袋に穴があきそうになるほど緊張したものである。とはいえ、若い人たちが盛り上がるのを見るのは楽しかった。

 このように社内で成人式を行うという発想は、ただ単に18歳で就職して20歳を迎えるというだけでなく、高校を出て社会に出た若者に、マナーや社会常識を教育するという機能までも会社が持っていたことのあらわれだろう。
 高校を卒業した新人にとって、会社は、別な意味での「上級学校」の役割を果たしていたのである。

 その後、日本の大手メーカーの一般的な趨勢には逆らえず、この会社も、全国にあった工場は次々に閉鎖されて減り、残された工場の中でも製造部門が減って開発設計の比率が高くなっていった。
 さらに製造部門でも事務部門でも、正社員から請負や派遣に置き換えが進んで、高卒新人の採用はどんどん減らされていった。

 今でもその会社が社内成人式をそれぞれの事業所で行っているのかどうかは知らない。

「時間ではなく成果に応じた報酬」の働き方を望む人は、アニメーターとブラック不動産営業がおすすめです!

最近、アニメーターの過酷な労働条件がNHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられた。

以前のエントリの「アニメーターの過酷な労働現場は、働き方改革から見れば理想の職場?」でも書いたことの繰り返しになるが、重要なことなので、改めてここで紹介しておきたい。

「クローズアップ現代」によれば、

30分の作品には3,000枚以上の絵が必要だといいます。このスタジオではこうしたアニメのもととなる絵の制作を請け負っています。アニメーターに支払われるのは1枚当たりおよそ200円。一方で、年々、作品には繊細さが要求されるようになり、1枚にかかる作業時間は増えています。

作業の早いアニメーターでも1日20枚ほどが限界です。月収は10万円前後にとどまっています。”

ということであり、さらに

業界で働いている人の4割近くが最低賃金の保障もないフリーランス。正社員は僅か15%でした。”

とされている。

絵を1枚仕上げるごとに200円ということは、10枚なら2000円、100枚なら2万円ということであり、まさに完全に「成果」に応じた報酬である。

労働時間を何百時間かけようと、絵が仕上がらない限り1円も支払われない。支払われる報酬は、枚数に比例する。

これこそ、「時間ではなく成果に応じた報酬をもらう働き方」である。
また、85%は非正社員ということだから、「会社に縛られない、正社員であることにとらわれない働き方」ということでもある。

「労働時間ではなく成果に応じた報酬」を提唱し、「会社に縛られず、正社員にこだわらない働き方」を広げるよう主張する人々にとっては、このアニメーターの働き方こそは、まさに理想ということになる。

もちろん「成果に応じた報酬」が行われているのは、アニメーターに限らない。一般的な会社員の中にも、既にそういう例がある。

たとえば、不動産営業で、物件の売買をまとめない限りは賃金が支払われないという会社の話を稀に聞くことがある。売買の成果が出ない限りは何時間働いても賃金が一切支払われないのであれば、実際はもちろん労働基準法違反なので、ブラック企業と呼ばれても仕方ないのだが、それは別として、まさしく「成果(不動産売買)に応じた報酬」なのだから、これまた働き方改革の理想に合った会社ということになるはずである

逆に、売買の成果に関係なく一定の賃金を支払い、残業すれば法定の割増賃金を支給する不動産会社があるとすれば、労働基準法をしっかり守っているホワイト企業ということになるが、働き方改革の精神からいえば、成果ではなく時間で報酬を支払っているのだから、古い考え方の会社であり、批判されるべきということになる。(そうですよね?城繁幸さん)

仕上げた絵の枚数に応じて報酬が支払われるアニメーターと、売買の成約実績だけに応じて賃金が支払われるブラック不動産会社の営業マンは、「労働時間ではなく、成果に応じた報酬」を提唱する人々にふさわしい職場というわけである

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