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人事・労働

「残業代ゼロ」・「脱時間給」・「成果型賃金」・・・どの名称がお好きですか?

秋の臨時国会に政府が提出を予定している労働基準法の改正案について、連合(の執行部)が、一定の修正を条件として容認の姿勢を見せていたが、傘下の産別労組などが強く反発し、容認を実質的に撤回することとなった。

ここでは細かく立ち入らないが、各新聞の見出しを比べて見ると、なかなか面白い。

(1)朝日新聞

「残業代ゼロ」容認、連合見送りへ 批判受け方針再転換

専門職で年収の高い人を労働時間規制から外す「高度プロフェッショナル制度(高プロ)」を条件付きで容認する方針転換をめぐって混乱していた連合の執行部が、高プロの政府案の修正に関する「政労使合意」を見送る方針を固めたことが、関係者への取材でわかった。(・・・)

(2)日経新聞

連合、「脱時間給」容認を撤回 政労使合意は見送り
 
連合は25日、労働基準法改正案に盛る「脱時間給」制度を巡る政府、経団連との修正案の政労使合意を見送る方針を固めた。連合執行部が現行案の修正を政府に要請したことに、傘下の産業別労働組合などが強く反発。組織をまとめきれないと判断し、撤回することになった。(・・・)

(3)産経新聞

「成果型賃金」容認を撤回へ 連合、政労使での合意見送り 労基法改正案

高収入の一部専門職を残業代支払いなどの労働時間規制から外し、成果に応じて賃金を決める「高度プロフェッショナル制度」を含む労働基準法改正案の修正をめぐり、連合が政労使での合意を見送る方針を固めたことが25日、関係者への取材で分かった。(・・・)

こうしてみると、朝日は「残業代ゼロ」、日経は「脱時間給」、産経は「成果型賃金」である。記事本文そのものはそれほど大きく違っているわけではないが、こういう見出しの書き方の違いはいろいろと考えさせられる。

朝日の「残業代ゼロ」というのは、明らかに非難というか否定的なニュアンスがこめられているが、実際に残業代(時間外割増賃金)は支給されなくなるのだから、間違いではない。

日経の「脱時間給」というのはやや微妙である。労働時間が長くなればそれに応じて残業代が支給されなくなるという意味では、「脱時間給」というのも間違いではない。ただし、今でもいわゆる「月給制」(=遅刻や早退をしたり、所定労働時間より短く勤務しても、賃金が減額されない扱い)の労働者は、既に存在している。(ただしそういう「月給制」の労働者も、原則として残業代は支給しなければならないのが労働基準法の規定である。)こういう「月給制」の人は、今でもすでに(ある程度)「脱時間給」といえるのではないだろうか。

これらに対して、産経の「成果型賃金」というのは、ミスリードを招くものだろう。成果に応じようと応じまいと、とにかく一定の高度に専門的な職務の労働者には残業代を支給しない、というのが労働基準法の改正案なのである。
使用者には、残業代を支給する義務がなくなるだけであって、成果に応じた賃金を支給する義務が発生するわけではない。

逆にいえば、今でも、成果に応じた賃金を支給できないわけではない。成果の上がっている者の賃金を高く、上がっていない者の賃金を低く設定するのは、使用者の自由である。ただしそれとは別に、法定労働時間を超えたら、原則として残業代を支給しなければならないというだけのことである。

なお、過去の記事で何度も書いているが、描き上げた絵の枚数に応じてお金をもらうアニメーターとか、ヤクルトの販売数に応じて報酬をもらうヤクルトレディとか、売上に応じてカネをもらうタクシー運転手などは、立派な「成果に応じた報酬」である。(必ずしも「労働契約」ではないが)

以上のとおり、「残業代ゼロ」は間違いではないが非難のニュアンスに傾きすぎ、「脱時間給」はややズレており、「成果型賃金」は、違う次元の問題を混同している。もう少し別な言い方はないだろうか。

個人的には、単純に「固定賃金制度」とか「定額賃金制度」で良いのではないかと思う。

厚生年金の事業主負担分も本人が負担しているのか?(城繁幸氏の説について)

 「みんなの介護」という介護系メディアのサイトで、人事コンサルタントの城繁幸は最近、次のように言っている。

厚生年金に関して知っておくべき話がひとつあります。厚生年金は現在、約19%で、そのうち半分は会社が負担してくれるということになっています。しかし会社側から見れば、事業主負担も実質的には本人負担だということです。”

 城の主張をさらに読んでみると、具体的にはこういうことである。

 まずある企業のAという労働者が、額面で50万円の給料を支給されているとする。厚生年金の保険料率が仮に20%とすると、Aの場合は(単純化していえば)10万円である。

 厚生年金保険料は、事業主と被保険者が折半で負担することになっている。
そこでこの10万円を企業とA本人が折半で5万円ずつ負担することになるから、A自身の手取りは、50万-5万=45万円である(ここでは所得税その他の徴収は無視しておく)。

 しかし城繁幸によれば、事業主負担も、実際には本人が負担させられているのだという。

 企業側からみれば、給料50万円+厚生年金保険料事業主負担分5万円=55万円がAの人件費である。つまりAは「本来55万円をもらえるはずだった」という。

 そのうえで企業側は、上記の5万円を事業主負担分として納付しているから、実際にはAは、“自分がもらうべき”55万円から、事業主負担分5万円と本人負担分5万円の両方の合計10万円を負担して、45万円を手取りとして受け取っていることになる。

 つまり城によれば、厚生年金保険料は、事業主負担分も本人負担分も、どちらも結局は労働者本人の負担でしかないのだという。

 城繁幸のこの議論は、「Aは本来、50万円ではなく55万円をもらえるはずだった」という仮定に基づいている
 仮に厚生年金制度が存在しなければ、Aの給料は50万円ではなく55万円になっていたはずだという主張である。

 だが、本当にそういえるのだろうか。仮に厚生年金のない世界であれば、会社の負担するAに関する人件費が月55万円から50万円に下がるだけではないのか。

 Aは、支給される給料が額面月50万円という前提で会社に雇用されている。月50万円で働いてくれる者に、わざわざ月55万円を支払う会社はないだろう。
 厚生年金がなければ、会社は余計な5万円などわざわざ負担する必要はないし、そしてAは50万円という条件で納得して働くのだから、Aの支給される給料は50万円のままなのではないか。

 なお「事業主負担分」があるのは、厚生年金だけではない。健康保険にも労働保険(雇用保険と労災保険)にも事業主負担分はある。とりわけ労災保険には、本人負担は存在せず、100%事業主負担だが、城繁幸の理屈では、この労災保険も、「労働者が本来もらえるはずだった人件費の中から、すべて自分で支出しているのだ」ということになるのだろうか。

 さらに城繁幸の理屈でいえば、会社が支出する各種福利厚生費(これも人件費の一部といえるだろう。たとえば会社独自の福利厚生制度とか、社内食堂の会社負担分とか、社内運動会とか)も、「本来なら労働者が全額もらえるはずだった人件費に含まれる」ということになる。
 つまり城繁幸の説では、人事や福利厚生にかかわる諸費用は、一見「会社負担」のように見えても、実際はすべて労働者本人が負担しているものでしかなく、実質的には「会社負担」のものなど存在しない、ということになるのだろうか

日本企業の社内行事と社内成人式

 ご存じのとおり、日本企業の社内行事にはいろいろなものがある。会社の運動会や社員旅行については、次第に敬遠されて廃れているとか、逆に最近では見直す動きが出てきたなどの話をよく聞く。
  たとえば西日本新聞のこの記事は、社員旅行の新しい形の例を紹介している。
  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170620-00010002-nishinpc-soci

 それでは、「社内成人式」については聞いたことがあるだろうか。

 社内運動会や社員旅行に比べると、社内成人式はあまり話題にならない。これは、対象者が、会社に勤務する立場で20歳を迎える人だけに限られるということがあるのだろう。つまり実質的には、中学卒か高校卒で採用された人だけなのである。

 私自身の経験でいうと、大手メーカー勤務時代、社内成人式を行う側の仕事をしたことがあった。総務とか人事の担当者の役目である。

 社内成人式は全社一括ではなく事業所ごとに実施することになっていて、大規模な工場では、バブル時代に1年で数十人もの高卒新人を、事務部門でも製造部門でもひっくるめて採用したことがあり、そんな若者たちが採用から2年後になると成人式の対象となるわけである。

 成人式は労使共催の形で行った。工場の食堂を飾り付けて飲食を準備し、工場長と労働組合の支部委員長がそれぞれ祝辞を述べ、さらにパーティーやビンゴゲームなどをしたりするのだった。ゲームの企画は、労組の青年部に頼んでいた。

 イベントを企画するというのは私は性格的に苦手で、毎年、この季節が迫ってくると、胃袋に穴があきそうになるほど緊張したものである。とはいえ、若い人たちが盛り上がるのを見るのは楽しかった。

 このように社内で成人式を行うという発想は、ただ単に18歳で就職して20歳を迎えるというだけでなく、高校を出て社会に出た若者に、マナーや社会常識を教育するという機能までも会社が持っていたことのあらわれだろう。
 高校を卒業した新人にとって、会社は、別な意味での「上級学校」の役割を果たしていたのである。

 その後、日本の大手メーカーの一般的な趨勢には逆らえず、この会社も、全国にあった工場は次々に閉鎖されて減り、残された工場の中でも製造部門が減って開発設計の比率が高くなっていった。
 さらに製造部門でも事務部門でも、正社員から請負や派遣に置き換えが進んで、高卒新人の採用はどんどん減らされていった。

 今でもその会社が社内成人式をそれぞれの事業所で行っているのかどうかは知らない。

「時間ではなく成果に応じた報酬」の働き方を望む人は、アニメーターとブラック不動産営業がおすすめです!

最近、アニメーターの過酷な労働条件がNHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられた。

以前のエントリの「アニメーターの過酷な労働現場は、働き方改革から見れば理想の職場?」でも書いたことの繰り返しになるが、重要なことなので、改めてここで紹介しておきたい。

「クローズアップ現代」によれば、

30分の作品には3,000枚以上の絵が必要だといいます。このスタジオではこうしたアニメのもととなる絵の制作を請け負っています。アニメーターに支払われるのは1枚当たりおよそ200円。一方で、年々、作品には繊細さが要求されるようになり、1枚にかかる作業時間は増えています。

作業の早いアニメーターでも1日20枚ほどが限界です。月収は10万円前後にとどまっています。”

ということであり、さらに

業界で働いている人の4割近くが最低賃金の保障もないフリーランス。正社員は僅か15%でした。”

とされている。

絵を1枚仕上げるごとに200円ということは、10枚なら2000円、100枚なら2万円ということであり、まさに完全に「成果」に応じた報酬である。

労働時間を何百時間かけようと、絵が仕上がらない限り1円も支払われない。支払われる報酬は、枚数に比例する。

これこそ、「時間ではなく成果に応じた報酬をもらう働き方」である。
また、85%は非正社員ということだから、「会社に縛られない、正社員であることにとらわれない働き方」ということでもある。

「労働時間ではなく成果に応じた報酬」を提唱し、「会社に縛られず、正社員にこだわらない働き方」を広げるよう主張する人々にとっては、このアニメーターの働き方こそは、まさに理想ということになる。

もちろん「成果に応じた報酬」が行われているのは、アニメーターに限らない。一般的な会社員の中にも、既にそういう例がある。

たとえば、不動産営業で、物件の売買をまとめない限りは賃金が支払われないという会社の話を稀に聞くことがある。売買の成果が出ない限りは何時間働いても賃金が一切支払われないのであれば、実際はもちろん労働基準法違反なので、ブラック企業と呼ばれても仕方ないのだが、それは別として、まさしく「成果(不動産売買)に応じた報酬」なのだから、これまた働き方改革の理想に合った会社ということになるはずである

逆に、売買の成果に関係なく一定の賃金を支払い、残業すれば法定の割増賃金を支給する不動産会社があるとすれば、労働基準法をしっかり守っているホワイト企業ということになるが、働き方改革の精神からいえば、成果ではなく時間で報酬を支払っているのだから、古い考え方の会社であり、批判されるべきということになる。(そうですよね?城繁幸さん)

仕上げた絵の枚数に応じて報酬が支払われるアニメーターと、売買の成約実績だけに応じて賃金が支払われるブラック不動産会社の営業マンは、「労働時間ではなく、成果に応じた報酬」を提唱する人々にふさわしい職場というわけである

一体なんのための労働時間短縮なのか?(いわゆるジタハラ)

4月5日の週刊朝日の記事で、

“「ジタハラ」なる言葉をご存じだろうか? 時短ハラスメント、つまり労働時間短縮にまつわるハラスメント(嫌がらせ)を指す新しい造語だ。多くの企業が時短に踏み切る昨今、ジタハラに苦しむ従業員の増加を懸念する声があがっている。”

として、労働時間削減が逆に働く者を苦しめるケースをとりあげていた。

「ジタハラ」という言葉が流行するかどうかはわからないが、電通の過労死事件で捜査の手が入ったあとの、最近の各企業の労働時間短縮の動きには、ただ単に会社にいる時間を機械的に短くさせれば良いかのような風潮が見受けられる。

労働時間が長いのは、たとえば取引先からの要求が厳しすぎるとか、社内の組織や業務音手順の仕組みが理由で各種調整業務に時間がかかるとか、それなりの理由があるわけで、まずはその根本的な原因を解明して取り組まなければ解決できない。

(もちろん、ただ単に何となく職場でダラダラ残っているとか、残業代を稼ぐために不要でも職場にいる時間を長くするとか、そういうのは論外であり、ここでは取り上げない。)

そういう根本的な取組をしないまま、電通などで過労死が問題になったからとにかく早く職場から追い出すとか、労働時間を機械的に削減すれば良いとか、そういう短絡的な動きをすると、業務量が変わらないまま、従来より短時間で結果を出すことが求められて心身の負荷が高くなったり、家に仕事を持ち帰ったり、いろいろなしわ寄せが出てくるのである。

労働時間を規制するのは、働く者の健康や、生活とのバランスを守るのが目的である。労働時間を短くすることそれ自体が目的なわけではないし、まして、短い時間で多い仕事をこなすことを目指しすぎて健康を害してしまうのでは、本末転倒ということになる

政府が検討しているのは、仕事の「成果」に給料を払う制度ではない!

以前何度か書いたこととも重複するが、けさの日経新聞を見て、一言。

日経新聞の記事によれば、

政府・与党は労働時間ではなく仕事の成果に給料を支払う「脱時間給制度」を盛り込んだ労働基準法改正案の今国会成立を見送る方針を固めた。
 7月の東京都議選を控え、与野党の対決が見込まれる同法案の審議は得策ではないと判断した。
 秋に予定する臨時国会で、残業時間の上限規制などを含む「働き方改革関連法案」と一体で審議し、成立をめざす戦略だ
。”

とされている。

この書き方だと、「これからは仕事の成果を評価してもらえる賃金制度になる!」というふうに錯覚する読者がいるのかも知れない。(だが、現在は、仕事の成果を評価できない賃金制度なのか?そうではないだろう。)

しかし政府・与党が検討している労働基準法改正案のキーポイントは、年収1075万円以上の専門職について、1日8時間・週40時間労働という原則や、時間外割増賃金等の支払義務を免除するというものである。

要は、ただ単に、労働時間の規制や、時間外割増賃金(残業代)の支払義務をなくすというだけであって、労働時間に関係なく、固定額の賃金が支払われる制度にすぎない。

くれぐれも誤解しないようにしなければならない。

労働基準法改正で目指そうとしているのは、「労働時間ではなく仕事の“成果”に給料を払う制度」ではなく、「労働時間に関係なく固定額の給料が払われる制度」である。その固定額の給料が「成果」にふさわしいものなのかどうかは、労働基準法の知ったことではない。個々に会社と労働者が判断するべきことである。

なお、本当の意味で「労働時間ではなく仕事の成果に給料を払う制度」としては、出来高払いのアニメーターや、売上に応じた賃金のタクシー運転手などが適切な例であるということも、このブログで、以前に述べたところである。

東京メトロ売店の正社員と契約社員の「差別」問題

 東京メトロの売店を運営する子会社に雇用された契約社員(非正規)が、同じく売店にもっぱら従事している正社員との間で、賃金などの処遇に違いがあるのは、労働契約法20条に違反した差別だとして、会社側を訴えた訴訟が東京地裁に係属していたが、3月23日にその判決があった。

 (いろいろな報道があるが、BuzzFeedのこの記事が比較的詳しい。) 

 本ブログの以前のエントリでもこの事件について触れたことがあるが、これまでの報道で見た限りでは、経緯はおおむね次の通りである。

 東京メトロ子会社には、正社員と契約社員の両方が雇用されていて、①正社員の中には、売店業務しか従事しない者も、そうでない者もいるが、②契約社員は、売店業務しか従事していない。
 そして契約社員が、「売店業務しか従事しない正社員」と比較して、担当する業務はまったく同じであるにもかかわらず、賃金その他で劣った扱いを受けるのは差別だとして訴訟を提起したのである。

 これについて東京地裁は、「売店業務しか従事しない正社員」ではなく「すべての正社員」と契約社員の労働条件を比較して、その差異には合理性があり、不当な差別ではない、と判断したということのようである。(正社員には、配置転換、職種変更や昇進の可能性があるが、契約社員にはそれがない、等々)

 これに対して原告側は、契約社員と比較すべきなのは、「すべての正社員」ではなく「売店業務しか従事しない正社員」だ、と主張している。
 「売店業務しか従事しない正社員」と「契約社員」は、どちらも仕事は同じ売店の業務で、しかもそれ以外の仕事に就くことはないのに、なぜ扱いが違うのか、というわけだ。

 これはどう考えるべきなのか。

 報道から見る限りでは、「売店業務しか従事しない正社員」も、それ以外の正社員も、すべて同じ就業規則の体系の中で勤務している。つまり、正社員はすべて、最近流行の言い方でいえば「ジョブ無限定正社員」ということになる。

 会社の扱いとしては、売店業限定だろうと、管理職候補だろうと、とにかく「正社員」は一種類しかなく、明文の区別は何もないようである。売店業務しか従事しない正社員も、「売店限定の正社員」として採用されているわけではなく、単なる「ジョブ無限定正社員」に違いはないのであって、そのうえで、“結果として”売店業務だけを行ってきただけだ、ということなのだろう。(もちろん正社員同士の間でも、賃金や資格などの違いはあるだろう。それは同じ賃金や処遇の体系の中での違いである。)

 このような中で、「売店業務しか担当していない正社員」と「契約社員」を比較して差別を論じるロジックは、実はなかなか困難な面がある。
 会社の理屈では、「正社員」には「ジョブ無限定の正社員」ただ一種類しか存在しない。「売店業務しか担当しない正社員」などというのは、制度上は存在しないのである。もちろん現実には、売店業務しか担当していない正社員もいるのだが、それは、ジョブ無限定の正社員が、“たまたま”“結果的に”そうなっているというだけということになる。従って、「ジョブ無限定の正社員全般」と「(売店しか担当しない)契約社員」とを比較すべきだということになる。そして東京地裁の判決も、この会社側の理屈に沿ったようである。

 ただし、これはタテマエの世界の話であって、ホンネはもちろん違うだろう。

 ホンネレベルでいえば、おそらく一定の正社員(学歴や性別や入社時の本人の希望などで区別しているはず)については、売店業務しか担当させないという不文律の扱いがあるはずである。ただし、それは決して契約や就業規則のような明示的な形で表に出てくることはないだろう。

 日本の多くの大企業では、将来の管理職候補と目される大卒も、売店や工場勤務を前提として採用された者も、労働契約書や就業規則でその職務を明確に限定・区別されているわけではない。
 もちろん入社時点の学歴その他の要素で、初任給に違いはあるだろうし、担当する業務に応じた賃金の違いが多かれ少なかれあるだろうし、様々な要因で資格や役職や昇給に違いは当然出てくるが、どれも同じ一つの「正社員」の処遇の体系の中の位置づけの違いにすぎないのである。

 本社の幹部要員だろうと、工場や売店の担当者だろうと、「同じ正社員」というタテマエの中で守られているのだ。(実際、一般的な大企業では、工場や売店に勤務することを期待される正社員の大半は、工場や売店だけでその会社生活を終えるのだろうが、中には違う職種に移動するケースもなくはない。)

 さて、実際問題としてどう考えるべきなのだろうか。
 会社や裁判所のように、
 「正社員の中には職務の区別はない。売店だけを担当している者は、たまたまそうなっているだけだ。だから正社員全般と契約社員を比較して、不当な差別かどうかを判断すべきだ。」と考えるのが妥当なのか。
 それとも原告側のように
 「正社員の中には、売店だけを担当する者もいる。その者だけと契約社員を比較すべきだ。」
 と考えるべきか。

 後者の原告の理屈を推し進めると、実は別な問題が出てくる。

 つまり「売店しか担当しない正社員がいるなら、逆に、その賃金が高すぎるのではないか。本当はもっと低くして、契約社員に合わせるべきではないか。なぜ契約社員よりも高い賃金を払っているのか」という議論が出てくる可能性があるのだ。

 というより、会社の本当の奥深いところにあるホンネは、それなのではないかと私は疑っている。会社は、売店の契約社員の賃金を正社員よりも低く抑えておきたいのではなく、逆に、売店担当の正社員の賃金を低く下げたいと考えているのではないだろうか。ただ、正社員の賃金を下げるのが極めて困難(法的論点にはここでは立ち入らないが、労働条件の不利益変更の問題である)であるため、それができないでいるだけなのではないだろうか。

 この件の経緯についての私の推測は、以前の記事でも触れたとおりだが、

 (1)売店業務を担当するのは、もともとはすべて正社員だけだった
 (2)しかし会社は、売店業務は、いずれすべて契約社員に置き換えて、正社員ゼロにすることを考えている
 (3)そこで、売店業務に契約社員だけを採用して配属するようにして、新たな正社員の配属はやめた
 (4)現在売店に勤務している正社員については、定年で退職するのを待っている状態。
 (5)従って現時点では、売店に正社員と契約社員の両方が混在する状態になっており、「同じ仕事なのに労働条件が違う」という問題が起こっている。
 (6)しかしいずれ正社員は定年でゼロになり、売店業務を担当するのはすべて契約社員だけになるから、その時点で差別という問題が「解決」することを会社は期待している

・・・ということではないかということである。

時間をかけなければ成果が出るわけがない!労働時間と成果には関係がある!

 またまた最近の「働き方改革」の文脈の議論について。

 「工場の製造労働は、労働時間に応じて成果が出てくる。しかしホワイトカラーやクリエイティブな仕事は、労働時間と成果は関係ない。」という類いの主張が最近、掃いて捨てるほど見られるようになってきた。

 だが、果たしてこの種の言説は正しいのだろうか。“クリエイティブ”な仕事は短時間でも完成するものなのだろうか。たとえば小説家、作曲家や画家の仕事は、労働時間には関係ないのだろうか。

 たとえばあのモーツァルトはごく短時間で次々に曲想がうかんで多くの曲を作ることができたらしいが、そういうのはあくまで例外中の例外である。極めて特殊な例外的天才を基準にすることはできない。

 小説執筆だろうと作曲だろうと絵画だろうと、何らかの芸術作品を作るには、必ず一定の作業時間が必要である。

 もちろん時間をかければ必ず良い作品が出来るというものではない。時間をかけても駄作だったとか、うまく発想がまとまらずに完成できなかったとかいうことはあるだろう。
だが、時間をかけなければ、どちらにしてもまともな作品は出来ないのだ。

 つまり、たっぷり時間をかけることは、クリエイティブな仕事をする者が“成果”をあげるための十分条件ではないけれど、必要条件なのである。

 芸術家はさておき、もう少し一般的な範囲でいうと、専門的な職種の代表としてよく挙げられる医師、弁護士や税理士の場合はどうだろうか。これらの仕事の場合でも、成果と時間は関係ないのだろうか。そうではない。

 医師が診察をしてじっくり症状を検討するのは、それなりに時間をかけないと良い成果を生み出せない。弁護士や税理士は、書類や資料の検討に時間をかける。書類や資料が多ければ、それだけ時間もかかることになる。

 もちろん、かける時間が2倍になれば成果も単純に2倍になるというわけではないので、厳密な意味では時間と成果は「比例」はしない。 
 しかし、時間をある程度かけなければ成果は上がらないし、時間を長くかけた方が成果につながる可能性が高まる(ただし限度はある)という意味では、やはり「時間」と「成果」は関係があるのである。

 誤解されると困るので断っておくと、今回、このようなことをわざわざ書いた理由は、「成果を出すためには時間をかける必要があるから、労働時間規制は無理だ」とか「成果を上げるために、みんなもっと時間をかけて働くべきだ」などと言いたいからではない。
 とにかく「クリエイティブな仕事は、時間に関係なく成果を出せるはずだ」という妄想じみた言説はやめて、まずは「どんな仕事でも、成果を出すには時間がかかる(ただし時間をかけても成果が出るとは限らない)」ということを正面から認め、そのうえで、労働時間規制をどうするかについて議論するのが筋だと考えたからである。

 (なお「ホワイトカラーの仕事には、会議や問い合わせ対応など無駄な時間が多く、成果に結びつかない」という議論もあるが、これは、従事する仕事に無駄なものが含まれているかどうかの問題であって、労働時間と成果の関係の議論とはまったく別問題である。両者を混同してはならない。)

 最後にもう一度書いておこう。「クリエイティブな仕事の場合は、かけた時間と成果とは関係ない」などという妄言は、相手にしてはいけない。

竹内克志「残業問題への対応についての違和感」について

竹内克志氏が、「残業問題の対応についての違和感」と題したブログ記事で、

“長時間の残業による過労死の問題によって、残業に関する規制が強化されていることに関して、いろいろ考えさせられることがあります。

 まず、過剰な残業を強制されるような状況は、排除するという方向性には同意しています。しかしながら、それに対応する法律や企業の対応にすっきりしない感じを持っています。”

と述べ、残業規制問題について、おおむね次のように主張している(要約)。

 1 労働時間に応じて成果が決まる職種と、そうでない職種がある。後者についても労働時間の規制を及ぼすのは不当である。

 2 一部企業では、PCの使用記録をもって労働時間を記録するというやり方が行われている。これは、企業の側が違法な長時間労働をさせていないことの証明として行うのであれば、一応理解できる。しかし、管理職のように、労働時間に応じて成果が決まるわけではない従業員にとっては、このようなやり方は不利になるものである。

 3 スタートアップ企業(ベンチャー企業)には、経営者と従業員との区別が明らかでないケースもあり、そのような場合にも一律の労働時間の規制を及ぼすのは、経営の活力を損なう恐れがある。

 このうち1については、何か誤解をしているようだが、労働基準法の労働時間規制は、「成果」が上がるかどうかとは何の関係もない。成果が上がろうと上がるまいと、長時間労働は、働く者の健康を損なうものだから、規制を受けるにすぎない

(さらにいえば、「成果が労働時間に比例するわけではない」ということは、労働時間を規制しなくて良い理由にはならない。「成果が労働時間と関係ない」ということは、「成果を上げるまでは、どこまでも際限なく働かなければならず、健康を害する」ということにもなりかねないからである。逆に「短時間でも成果が上がる」のであれば、規制があろうとあるまいと影響はないはずである。)

2の点は、元の記事の意図が必ずしも明確ではないのだが、おそらく「単に労働時間だけで成果を評価しないでくれ」という趣旨と思われる。しかしここで問題となっているのは、健康管理のための労働時間である。PCの記録による労働時間の把握は、“少なくとも”これだけの時間は働いた(働かされた)ことの証明となるのだから、その限りでは、労働者にとって有利になるものだろう。それと、どの程度の報酬(賃金)を支払うかは、また別問題である。

3の点はなかなか難しい問題であるが、“ベンチャー”“スタートアップ”企業といっても、それこそ「すき家」のようなケースもあるので、労働者保護をおろそかにして良いかどうかは別問題である。もう少しきめ細かく具体的に検討してみる必要があるだろう。

就職活動で話を“盛る”学生(AERAの記事から)

 AERAに、就職活動で話を平気で「盛る」学生の言い分 キツネとタヌキの化かし合い…?という記事があった。
 就職活動で、自分をよく見せるためにウソをつく学生がよくいるという記事で、このウソというのは3種類に分けることができるという。

 
 一つは、順位や売り上げなどの数字をよりよく言ったり「リーダーだった」などと役職を偽ったりする「実績盛り」。
 私が会社員だった頃も、サークル活動や同好会のリーダーを自称する例の話はよくあった。最近は「海外でボランティア活動をしていた」など自称する例が増えてきているそうである。あまりにも同じパターンのウソが繰り返されるので、もう見え見えになってきているのだろう。


 二つ目は、ウケそうなキャラクターを演じるパターン。要は、いかにも採用されそうな性格の人間に見せかけるということだが(結構むずかしいと思うのだが)、これは採用されてもいずれボロが出て自分を苦しめることになるだろう。


 三つ目は、他社の選考状況についての嘘。たとえばトヨタの採用面接を受ける時に、「日産やホンダの二次面接に進んでいます」などというパターンである。これは普通は確認しようがないので、ウソはつき放題のように思えるが、もともと採用選考である程度は上の段階に進ませてもらえそうな学生でなければ意味はなさそうである。


 このようにウソをつく学生の側にも「企業だってウソを付いたり話を盛っているではないか」という言い分があり、これは一理ある。私の就職活動時代も、社員の誰もが国際的舞台で活躍できるかのような印象を与えたり、一部の華やかな部署だけを紹介したりするような企業の新卒採用向けパンフレットは当然のように存在していた。今でもWebサイトで同じようなことをやっているのだろう。


 そう考えると学生も企業も「お互い様」ということになるが、いくらなんでも在籍・卒業した大学を偽ったとか、持ってもいない公的資格があるように装ったとかいうことになると、採用された後に経歴等の詐称を理由として解雇される恐れがあるので、そこは限界というものがある。

 このような不毛なことが起こるのも、大手企業を中心に、大学4年生(または3年生)を大量に面接・試験して短期間のうちに内定を出すという日本独特の新卒採用のあり方がその根底にあるわけである。学生達は、短い期間で少しでも良い印象を持ってもらうために、表面的に取り繕ったりウソをついたりして、必死で内定を取ろうとする。

 本当なら、1週間か2週間、場合によってはそれ以上の間、インターンシップのような形で職場で何かをやらせてみて適性を見て絞り込んでいく方が、企業にとっても本人にとっても望ましいと思うのだが、大学在学中にこれをやらせると“学業に専念できなくなる”という問題があり、かといって大学卒業後にこのようなインターンシップを行う場合は、その企業に採用されなかった者は学生身分のなくなった無職の状態で不安定に職探しを続けねばならないことになる。なかなか難しい問題である。

より以前の記事一覧

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