最近のトラックバック

人気ブログランキング


フォト

人事・労働

政府が検討しているのは、仕事の「成果」に給料を払う制度ではない!

以前何度か書いたこととも重複するが、けさの日経新聞を見て、一言。

日経新聞の記事によれば、

政府・与党は労働時間ではなく仕事の成果に給料を支払う「脱時間給制度」を盛り込んだ労働基準法改正案の今国会成立を見送る方針を固めた。
 7月の東京都議選を控え、与野党の対決が見込まれる同法案の審議は得策ではないと判断した。
 秋に予定する臨時国会で、残業時間の上限規制などを含む「働き方改革関連法案」と一体で審議し、成立をめざす戦略だ
。”

とされている。

この書き方だと、「これからは仕事の成果を評価してもらえる賃金制度になる!」というふうに錯覚する読者がいるのかも知れない。(だが、現在は、仕事の成果を評価できない賃金制度なのか?そうではないだろう。)

しかし政府・与党が検討している労働基準法改正案のキーポイントは、年収1075万円以上の専門職について、1日8時間・週40時間労働という原則や、時間外割増賃金等の支払義務を免除するというものである。

要は、ただ単に、労働時間の規制や、時間外割増賃金(残業代)の支払義務をなくすというだけであって、労働時間に関係なく、固定額の賃金が支払われる制度にすぎない。

くれぐれも誤解しないようにしなければならない。

労働基準法改正で目指そうとしているのは、「労働時間ではなく仕事の“成果”に給料を払う制度」ではなく、「労働時間に関係なく固定額の給料が払われる制度」である。その固定額の給料が「成果」にふさわしいものなのかどうかは、労働基準法の知ったことではない。個々に会社と労働者が判断するべきことである。

なお、本当の意味で「労働時間ではなく仕事の成果に給料を払う制度」としては、出来高払いのアニメーターや、売上に応じた賃金のタクシー運転手などが適切な例であるということも、このブログで、以前に述べたところである。

東京メトロ売店の正社員と契約社員の「差別」問題

 東京メトロの売店を運営する子会社に雇用された契約社員(非正規)が、同じく売店にもっぱら従事している正社員との間で、賃金などの処遇に違いがあるのは、労働契約法20条に違反した差別だとして、会社側を訴えた訴訟が東京地裁に係属していたが、3月23日にその判決があった。

 (いろいろな報道があるが、BuzzFeedのこの記事が比較的詳しい。) 

 本ブログの以前のエントリでもこの事件について触れたことがあるが、これまでの報道で見た限りでは、経緯はおおむね次の通りである。

 東京メトロ子会社には、正社員と契約社員の両方が雇用されていて、①正社員の中には、売店業務しか従事しない者も、そうでない者もいるが、②契約社員は、売店業務しか従事していない。
 そして契約社員が、「売店業務しか従事しない正社員」と比較して、担当する業務はまったく同じであるにもかかわらず、賃金その他で劣った扱いを受けるのは差別だとして訴訟を提起したのである。

 これについて東京地裁は、「売店業務しか従事しない正社員」ではなく「すべての正社員」と契約社員の労働条件を比較して、その差異には合理性があり、不当な差別ではない、と判断したということのようである。(正社員には、配置転換、職種変更や昇進の可能性があるが、契約社員にはそれがない、等々)

 これに対して原告側は、契約社員と比較すべきなのは、「すべての正社員」ではなく「売店業務しか従事しない正社員」だ、と主張している。
 「売店業務しか従事しない正社員」と「契約社員」は、どちらも仕事は同じ売店の業務で、しかもそれ以外の仕事に就くことはないのに、なぜ扱いが違うのか、というわけだ。

 これはどう考えるべきなのか。

 報道から見る限りでは、「売店業務しか従事しない正社員」も、それ以外の正社員も、すべて同じ就業規則の体系の中で勤務している。つまり、正社員はすべて、最近流行の言い方でいえば「ジョブ無限定正社員」ということになる。

 会社の扱いとしては、売店業限定だろうと、管理職候補だろうと、とにかく「正社員」は一種類しかなく、明文の区別は何もないようである。売店業務しか従事しない正社員も、「売店限定の正社員」として採用されているわけではなく、単なる「ジョブ無限定正社員」に違いはないのであって、そのうえで、“結果として”売店業務だけを行ってきただけだ、ということなのだろう。(もちろん正社員同士の間でも、賃金や資格などの違いはあるだろう。それは同じ賃金や処遇の体系の中での違いである。)

 このような中で、「売店業務しか担当していない正社員」と「契約社員」を比較して差別を論じるロジックは、実はなかなか困難な面がある。
 会社の理屈では、「正社員」には「ジョブ無限定の正社員」ただ一種類しか存在しない。「売店業務しか担当しない正社員」などというのは、制度上は存在しないのである。もちろん現実には、売店業務しか担当していない正社員もいるのだが、それは、ジョブ無限定の正社員が、“たまたま”“結果的に”そうなっているというだけということになる。従って、「ジョブ無限定の正社員全般」と「(売店しか担当しない)契約社員」とを比較すべきだということになる。そして東京地裁の判決も、この会社側の理屈に沿ったようである。

 ただし、これはタテマエの世界の話であって、ホンネはもちろん違うだろう。

 ホンネレベルでいえば、おそらく一定の正社員(学歴や性別や入社時の本人の希望などで区別しているはず)については、売店業務しか担当させないという不文律の扱いがあるはずである。ただし、それは決して契約や就業規則のような明示的な形で表に出てくることはないだろう。

 日本の多くの大企業では、将来の管理職候補と目される大卒も、売店や工場勤務を前提として採用された者も、労働契約書や就業規則でその職務を明確に限定・区別されているわけではない。
 もちろん入社時点の学歴その他の要素で、初任給に違いはあるだろうし、担当する業務に応じた賃金の違いが多かれ少なかれあるだろうし、様々な要因で資格や役職や昇給に違いは当然出てくるが、どれも同じ一つの「正社員」の処遇の体系の中の位置づけの違いにすぎないのである。

 本社の幹部要員だろうと、工場や売店の担当者だろうと、「同じ正社員」というタテマエの中で守られているのだ。(実際、一般的な大企業では、工場や売店に勤務することを期待される正社員の大半は、工場や売店だけでその会社生活を終えるのだろうが、中には違う職種に移動するケースもなくはない。)

 さて、実際問題としてどう考えるべきなのだろうか。
 会社や裁判所のように、
 「正社員の中には職務の区別はない。売店だけを担当している者は、たまたまそうなっているだけだ。だから正社員全般と契約社員を比較して、不当な差別かどうかを判断すべきだ。」と考えるのが妥当なのか。
 それとも原告側のように
 「正社員の中には、売店だけを担当する者もいる。その者だけと契約社員を比較すべきだ。」
 と考えるべきか。

 後者の原告の理屈を推し進めると、実は別な問題が出てくる。

 つまり「売店しか担当しない正社員がいるなら、逆に、その賃金が高すぎるのではないか。本当はもっと低くして、契約社員に合わせるべきではないか。なぜ契約社員よりも高い賃金を払っているのか」という議論が出てくる可能性があるのだ。

 というより、会社の本当の奥深いところにあるホンネは、それなのではないかと私は疑っている。会社は、売店の契約社員の賃金を正社員よりも低く抑えておきたいのではなく、逆に、売店担当の正社員の賃金を低く下げたいと考えているのではないだろうか。ただ、正社員の賃金を下げるのが極めて困難(法的論点にはここでは立ち入らないが、労働条件の不利益変更の問題である)であるため、それができないでいるだけなのではないだろうか。

 この件の経緯についての私の推測は、以前の記事でも触れたとおりだが、

 (1)売店業務を担当するのは、もともとはすべて正社員だけだった
 (2)しかし会社は、売店業務は、いずれすべて契約社員に置き換えて、正社員ゼロにすることを考えている
 (3)そこで、売店業務に契約社員だけを採用して配属するようにして、新たな正社員の配属はやめた
 (4)現在売店に勤務している正社員については、定年で退職するのを待っている状態。
 (5)従って現時点では、売店に正社員と契約社員の両方が混在する状態になっており、「同じ仕事なのに労働条件が違う」という問題が起こっている。
 (6)しかしいずれ正社員は定年でゼロになり、売店業務を担当するのはすべて契約社員だけになるから、その時点で差別という問題が「解決」することを会社は期待している

・・・ということではないかということである。

時間をかけなければ成果が出るわけがない!労働時間と成果には関係がある!

 またまた最近の「働き方改革」の文脈の議論について。

 「工場の製造労働は、労働時間に応じて成果が出てくる。しかしホワイトカラーやクリエイティブな仕事は、労働時間と成果は関係ない。」という類いの主張が最近、掃いて捨てるほど見られるようになってきた。

 だが、果たしてこの種の言説は正しいのだろうか。“クリエイティブ”な仕事は短時間でも完成するものなのだろうか。たとえば小説家、作曲家や画家の仕事は、労働時間には関係ないのだろうか。

 たとえばあのモーツァルトはごく短時間で次々に曲想がうかんで多くの曲を作ることができたらしいが、そういうのはあくまで例外中の例外である。極めて特殊な例外的天才を基準にすることはできない。

 小説執筆だろうと作曲だろうと絵画だろうと、何らかの芸術作品を作るには、必ず一定の作業時間が必要である。

 もちろん時間をかければ必ず良い作品が出来るというものではない。時間をかけても駄作だったとか、うまく発想がまとまらずに完成できなかったとかいうことはあるだろう。
だが、時間をかけなければ、どちらにしてもまともな作品は出来ないのだ。

 つまり、たっぷり時間をかけることは、クリエイティブな仕事をする者が“成果”をあげるための十分条件ではないけれど、必要条件なのである。

 芸術家はさておき、もう少し一般的な範囲でいうと、専門的な職種の代表としてよく挙げられる医師、弁護士や税理士の場合はどうだろうか。これらの仕事の場合でも、成果と時間は関係ないのだろうか。そうではない。

 医師が診察をしてじっくり症状を検討するのは、それなりに時間をかけないと良い成果を生み出せない。弁護士や税理士は、書類や資料の検討に時間をかける。書類や資料が多ければ、それだけ時間もかかることになる。

 もちろん、かける時間が2倍になれば成果も単純に2倍になるというわけではないので、厳密な意味では時間と成果は「比例」はしない。 
 しかし、時間をある程度かけなければ成果は上がらないし、時間を長くかけた方が成果につながる可能性が高まる(ただし限度はある)という意味では、やはり「時間」と「成果」は関係があるのである。

 誤解されると困るので断っておくと、今回、このようなことをわざわざ書いた理由は、「成果を出すためには時間をかける必要があるから、労働時間規制は無理だ」とか「成果を上げるために、みんなもっと時間をかけて働くべきだ」などと言いたいからではない。
 とにかく「クリエイティブな仕事は、時間に関係なく成果を出せるはずだ」という妄想じみた言説はやめて、まずは「どんな仕事でも、成果を出すには時間がかかる(ただし時間をかけても成果が出るとは限らない)」ということを正面から認め、そのうえで、労働時間規制をどうするかについて議論するのが筋だと考えたからである。

 (なお「ホワイトカラーの仕事には、会議や問い合わせ対応など無駄な時間が多く、成果に結びつかない」という議論もあるが、これは、従事する仕事に無駄なものが含まれているかどうかの問題であって、労働時間と成果の関係の議論とはまったく別問題である。両者を混同してはならない。)

 最後にもう一度書いておこう。「クリエイティブな仕事の場合は、かけた時間と成果とは関係ない」などという妄言は、相手にしてはいけない。

竹内克志「残業問題への対応についての違和感」について

竹内克志氏が、「残業問題の対応についての違和感」と題したブログ記事で、

“長時間の残業による過労死の問題によって、残業に関する規制が強化されていることに関して、いろいろ考えさせられることがあります。

 まず、過剰な残業を強制されるような状況は、排除するという方向性には同意しています。しかしながら、それに対応する法律や企業の対応にすっきりしない感じを持っています。”

と述べ、残業規制問題について、おおむね次のように主張している(要約)。

 1 労働時間に応じて成果が決まる職種と、そうでない職種がある。後者についても労働時間の規制を及ぼすのは不当である。

 2 一部企業では、PCの使用記録をもって労働時間を記録するというやり方が行われている。これは、企業の側が違法な長時間労働をさせていないことの証明として行うのであれば、一応理解できる。しかし、管理職のように、労働時間に応じて成果が決まるわけではない従業員にとっては、このようなやり方は不利になるものである。

 3 スタートアップ企業(ベンチャー企業)には、経営者と従業員との区別が明らかでないケースもあり、そのような場合にも一律の労働時間の規制を及ぼすのは、経営の活力を損なう恐れがある。

 このうち1については、何か誤解をしているようだが、労働基準法の労働時間規制は、「成果」が上がるかどうかとは何の関係もない。成果が上がろうと上がるまいと、長時間労働は、働く者の健康を損なうものだから、規制を受けるにすぎない

(さらにいえば、「成果が労働時間に比例するわけではない」ということは、労働時間を規制しなくて良い理由にはならない。「成果が労働時間と関係ない」ということは、「成果を上げるまでは、どこまでも際限なく働かなければならず、健康を害する」ということにもなりかねないからである。逆に「短時間でも成果が上がる」のであれば、規制があろうとあるまいと影響はないはずである。)

2の点は、元の記事の意図が必ずしも明確ではないのだが、おそらく「単に労働時間だけで成果を評価しないでくれ」という趣旨と思われる。しかしここで問題となっているのは、健康管理のための労働時間である。PCの記録による労働時間の把握は、“少なくとも”これだけの時間は働いた(働かされた)ことの証明となるのだから、その限りでは、労働者にとって有利になるものだろう。それと、どの程度の報酬(賃金)を支払うかは、また別問題である。

3の点はなかなか難しい問題であるが、“ベンチャー”“スタートアップ”企業といっても、それこそ「すき家」のようなケースもあるので、労働者保護をおろそかにして良いかどうかは別問題である。もう少しきめ細かく具体的に検討してみる必要があるだろう。

就職活動で話を“盛る”学生(AERAの記事から)

 AERAに、就職活動で話を平気で「盛る」学生の言い分 キツネとタヌキの化かし合い…?という記事があった。
 就職活動で、自分をよく見せるためにウソをつく学生がよくいるという記事で、このウソというのは3種類に分けることができるという。

 
 一つは、順位や売り上げなどの数字をよりよく言ったり「リーダーだった」などと役職を偽ったりする「実績盛り」。
 私が会社員だった頃も、サークル活動や同好会のリーダーを自称する例の話はよくあった。最近は「海外でボランティア活動をしていた」など自称する例が増えてきているそうである。あまりにも同じパターンのウソが繰り返されるので、もう見え見えになってきているのだろう。


 二つ目は、ウケそうなキャラクターを演じるパターン。要は、いかにも採用されそうな性格の人間に見せかけるということだが(結構むずかしいと思うのだが)、これは採用されてもいずれボロが出て自分を苦しめることになるだろう。


 三つ目は、他社の選考状況についての嘘。たとえばトヨタの採用面接を受ける時に、「日産やホンダの二次面接に進んでいます」などというパターンである。これは普通は確認しようがないので、ウソはつき放題のように思えるが、もともと採用選考である程度は上の段階に進ませてもらえそうな学生でなければ意味はなさそうである。


 このようにウソをつく学生の側にも「企業だってウソを付いたり話を盛っているではないか」という言い分があり、これは一理ある。私の就職活動時代も、社員の誰もが国際的舞台で活躍できるかのような印象を与えたり、一部の華やかな部署だけを紹介したりするような企業の新卒採用向けパンフレットは当然のように存在していた。今でもWebサイトで同じようなことをやっているのだろう。


 そう考えると学生も企業も「お互い様」ということになるが、いくらなんでも在籍・卒業した大学を偽ったとか、持ってもいない公的資格があるように装ったとかいうことになると、採用された後に経歴等の詐称を理由として解雇される恐れがあるので、そこは限界というものがある。

 このような不毛なことが起こるのも、大手企業を中心に、大学4年生(または3年生)を大量に面接・試験して短期間のうちに内定を出すという日本独特の新卒採用のあり方がその根底にあるわけである。学生達は、短い期間で少しでも良い印象を持ってもらうために、表面的に取り繕ったりウソをついたりして、必死で内定を取ろうとする。

 本当なら、1週間か2週間、場合によってはそれ以上の間、インターンシップのような形で職場で何かをやらせてみて適性を見て絞り込んでいく方が、企業にとっても本人にとっても望ましいと思うのだが、大学在学中にこれをやらせると“学業に専念できなくなる”という問題があり、かといって大学卒業後にこのようなインターンシップを行う場合は、その企業に採用されなかった者は学生身分のなくなった無職の状態で不安定に職探しを続けねばならないことになる。なかなか難しい問題である。

安楽亭は客層がいいということを強調するバイト

アルバイト情報を掲載した「アルバイトプロジェクト」というウェブマガジンがあるのだが、その中の安楽亭についてのバイト情報がちょっと目についたので、ご紹介する。

安楽亭は客層がめっちゃいい!実際にバイトしている人の評判と口コミ 」というタイトルので、筆者は女子高生だと名乗ったこんな文章が載っている。

“安楽亭でバイトしている高校2年の女子です。

私はかれこれ1年くらい都内の安楽亭でアルバイトをしています。
やめたいと思ったことは一度もなく、非常に続けやすいバイトだと思っています。とくに高校生にはおすすめです!”

という具合に始まって、一通り安楽亭のバイトの環境を誉めたあとで、自分以外にも安楽亭で働いている人の口コミを紹介するといって、まずは仕事の大変さについて触れた声を3件紹介し、その後で、今度は労働環境の良さを強調する声を同じく3件挙げている。

そして労働条件の概要について説明して、最後にネット経由でバイトに応募できるリンク先に導く・・・という構成である。

若干不思議なのは、筆者自身が安楽亭でバイト中の女子高生(のはず)なのに、

“客層がいいと噂の安楽亭。おまけにバイトへの待遇もいいので働く側にとってはかなりメリットが大きそうです。”

と、どこか外部の第三者のような書き方の部分があったり、バイトのまかないによる食事について触れた箇所で

“安楽亭では焼肉が食べれるのか?とワクワクしている自分がいるでしょう。”

と、日本語としては不自然な言い回しがあったりするところである。

 まあどこの会社も似たような感じで、バイトの記事を出しているのだろうか。

労働生産性が低いから残業が多いのではなく、残業が多いから労働生産性が低いのでは?

 THE PAGEの「残業上限100時間はアリかナシか? 労使交渉がヤマ場、何が問題なの? 」という記事で、長時間労働の制限に関する労使交渉を取り上げているが、その中の次の部分が気になった。

 “日本企業の生産性が低いことも残業に拍車をかけています。労働経済白書では、日本企業の生産性が低い理由として経営戦略とIT化の問題を指摘しています。伸びる市場での日本企業のシェアが低く、低迷市場でのシェアが高くなっており、日本企業は相対的に儲からない構造に陥っています。”

 この文章の最初の部分は正しいのだろうか。つまり、生産性(労働生産性)が低いと、残業が増えるのだろうか。労働生産性が低いことが原因となって残業は増えるのだろうか

 まず「労働生産性」とは何かといえば、以前のエントリでも触れたが、一般的にいえば、「付加価値」を、就業者数、または就業者数×労働時間(総労働時間と呼んでおく)で割った数値である。
 「付加価値÷就業者数」が1人あたり労働生産性、「付加価値÷総労働時間」が1時間あたり労働生産性である。
  ここでは残業が問題となっているから、後者で考えるべきだろう。

 そして「付加価値」とは、個々の企業経営レベルでいえば、売上から仕入を引いたもので、おおむね利益+人件費(+間接税その他)といえるし、一国レベルでいえばGDP(国内総生産)と同視して良いだろう。

 それでは「付加価値÷総労働時間」が低いと、残業が増えるのだろうか?

 むしろ逆だろう。残業が増えれば、当然に総労働時間が増えるから、労働生産性=「付加価値÷総労働時間」は低くなるのである。

 つまり「労働生産性が低いと、残業が増える」のではなく、「残業が増えると、労働生産性が低くなる」のである。もう少し正確にいえば、「付加価値が増えないままで残業が増えると、労働生産性が低くなる」ということだろう。

 労働生産性とは、まず付加価値と労働時間を与えられてから、二次的に計算される指標にすぎない。

 さて、ある会社で、付加価値が増えないのに残業が増えているとすれば、それは、いくら働いても付加価値の増加につながらない業務の時間が多くなっているからということになる。

 ただし単純化した議論は禁物である。長時間労働しても付加価値が増えない理由は、それこそ千差万別だからである。「働いても付加価値が増えない」ということ、「働かなくても付加価値が減らない」ということは、必ずしもイコールではない。

 まったくムダ・無意味な仕事であれば、前者にあたる。いくら働いても付加価値が増えず、逆にやらなくても別に付加価値が減ることもないような仕事なら、単に辞めれば良い。しかし、働いても付加価値が増えないが、働かなければ付加価値を減らす危険がある仕事というものもある。
 間接部門の中にはそういう仕事が多いだろう。たとえば品質管理とか安全管理とか給与計算の仕事は、それ自体が付加価値を増やすものではない。それではやらなくても良い仕事なのかというと、もちろんそういうことではない。品質管理や安全管理や給与計算の業務がなければ、会社の運営に支障をきたし、結局、付加価値も減少してしまうからである。

 やめても付加価値が減らないような無駄な仕事なら、やめれば良い。その結果、残業が減るということもあるだろう。残業が減れば総労働時間も減る。付加価値が同じままで総労働時間が減るなら、当然、労働生産性は上がる。
  これは、「労働生産性が上がったから、残業が減った」のではなく、「残業が減ったから、労働生産性が上がった」ということである。そして残業が減った本当の理由は、無駄な仕事が減ったからだ。「労働生産性」という言葉をわざわざ使わなくても説明できることである。

「生活費のための残業」なんてものは存在するのか?

 ITmediaの記事によれば、エンジニア情報サイト「fabcross for エンジニア」が3月2日、会社員・公務員1万145人を対象にした「残業に関するアンケート」の調査結果を発表したという。

 “調査によると、「残業する主な要因」として最も多かった回答は「残業費をもらって生活費を増やしたいから」で、「非常に当てはまる」「やや当てはまる」の合計が34.6%だった。次いで「担当業務でより多くの成果を出したいから」(29.2%)、「上司からの指示」(28.9%)、「自分の能力不足によるもの」(28.9%)という結果になった。”
…とのことである。

 このアンケートに限らず、「生活費のために残業をする人が多い」という議論は良く見受けられる。中には「残業を減らすには、残業しなくても良いほどの高い賃金にすれば良い。そうすれば労働時間が減る」という論者もいる。

 しかしよくよく考えてみると、「生活費が欲しいので残業をする」というのは、おかしな話である。生活費が特に欲しくない時は、残業をしなくて良いのだろうか。働く側の懐の事情次第で、残業をやるかやらないかを好き勝手に選ぶことができるのだろうか。

 世の中にはいろいろなサラリーマンがいるだろうから、たとえば残業代が欲しいだけのために、意図的に仕事を遅らせて(サボタージュ?)、午後5時や6時以降も居座り続けて仕事を続ける人はいるかも知れないが、これは病理現象だろう。アンケートで答えた中で最多数派の「生活費を増やしたいから」という選択肢を選んだ人たちが、こういうタイプだとは考えにくい。

 意図的に仕事を遅らせるような異常なケースは別にすれば、残業は、あくまで仕事の必要に応じて行うものである。直接上司から指示されるかどうかは別として、業務だからやむなく行うにすぎない。

 私が思うに、「生活費のための残業」などという混乱した議論が起こるのは、「残業が業務上で発生する理由」と、「働く側が残業の命令(必要性)を受け入れる理由」を混同しているからである。

 「生活費のために残業する」というのは、「生活費のために、自分の意思で勝手に残業する」という意味ではなく、「生活費のために、どっちみちしなければならない残業を我慢する(受け入れる)」という意味に解釈するべきではないだろうか。
 「生活費のため」というのは、残業をする理由ではなく、残業を我慢する理由なのである。

「労働時間ではなく成果に応じた報酬」とは、「出来高払い」のことですよね?

昨日のエントリの続きの補足。

 「労働時間ではなく、成果に応じた報酬にするべきだ。これこそが働き方改革だ!」という主張が、いまや大流行である。私も別にこれを全否定するわけではないのだが、全肯定というわけでもなく、慎重に考える必要がある。

 そもそも「労働時間ではなく、成果に応じた報酬」という言葉の使い方にはブレがあり、意味があやふやなまま流行っている感じがないでもないので、注意が必要である。ここで整理というか補足をしておきたい。

 「労働時間ではなく成果に応じて報酬(賃金)を払う」という言葉の意味を厳格にとらえるなら、まず、どれだけ労働時間が短くても、一定の成果を出せば、その成果に応じた賃金がもらえるということになる。一般に、労働時間短縮とか残業削減の議論の中で、長時間労働を解決する対策として「成果に応じた賃金にすれば良い」という意見を出す論者は、この点に着目している。
 (ただし、たとえば効率が非常に良くて午後3時に仕事を仕上げてしまうような社員がいた場合、会社は、毎日その社員を午後3時に帰らせるままにしておくだろうか?自分が経営者だったらどうするか考えてみれば良い。普通は、余力があると判断して、さらに仕事量を増やすはずである。優秀というか効率の良い人には、ますます仕事が任されるものである。)

 しかし物事は逆のケースも考えなければならない。「成果に応じた賃金」を純粋に考えていくと、どれだけ長く働いても、成果が出なければ賃金が出ないということになるはずである。一番わかりやすい例は、昨日のエントリで取り上げた、請負形態のアニメーターである。アニメ作品で自分が分担する工程を完成させて納品しない限り、1円ももらえない。何十時間かけようと、納品が終わるまではゼロ円である。

 もう1つのわかりやすい例としては、完全歩合給のタクシー運転手である。売上の一定パーセンテージを賃金として支給される。どれだけ長く働いても、売上が増えなければ、賃金も増えない。(ただし現実には、タクシー運転手にも最低賃金法や労働基準法の適用があるので、一定の労働時間があれば賃金ゼロというわけにはいかない。)

 このように、アニメーターとタクシー運転手は、「労働時間ではなく成果に応じた報酬」ではあるが、これらの職種は労働時間が短くて済んでいるのだろうか。もちろんそういうことではない。

 一方、いわゆる「ホワイトカラーエグゼンプション」(WE)の制度についても、「労働時間ではなく成果に応じた報酬の制度」と称されることがある。WEとは、たとえば年俸や月俸を定額で決めておいて、残業代を支給しない制度である。日本では全面的には導入されていないが、現在でも、いわゆる管理監督職(部長や課長など)については、このような仕組が労働基準法でも認められており、残業代を支給しない企業は多い。

 たとえば東洋経済のこの記事では、

 “ホワイトカラーエグゼンプションとは、労働法上の規制を緩和・適用免除される労働者を対象に、働いた時間に関係なく、成果に対して賃金を支払うという仕組みのこと。働いた時間ではなく「成果」によって報酬が決まる制度で、そこには長時間残業や休日出勤という概念もありません。”

 と書いており、「WE=労働時間ではない成果に対して賃金を払う仕組み」という図式で考えている。

 しかしWEというのは、残業代が支給されないというだけであって、成果によって月々の賃金が変わるわけではない。月俸50万とか年俸1000万と決めている以上、成果が出ようと出まいと、毎月の賃金は一定のはずである。月俸50万円のビジネスマンが、大きな成果を上げた月は月俸80万円になるのだろうか。成果が上がらなければ月俸20万円に減るのだろうか。そんな制度を導入している会社は、まず存在しないだろう(皆無とまではいわないが、ほとんど無いだろう)。

 もちろん、成果の善し悪しは、人事評価や昇給査定などで判断されるだろう。そこで翌年の年俸とか月俸には影響するだろうし、成果が悪ければ金額を下げられるケースもありうる。しかしこれは、WEかどうかに関係なく、どんな会社員にでもありうることである。残業代を支給される“普通”の労働者でも、人事評価や昇給査定はある。

 WEは、「労働時間ではなく成果に応じた賃金を受ける制度」ではない。ただ単に「労働時間と無関係に、定額の賃金を受ける制度」に過ぎないのである。

 本当の意味での「労働時間ではなく成果に応じた賃金」とは、WEではなく、請負アニメーターや歩合制タクシー運転手のような、いわゆる出来高払いのことである。皆さん、言葉の使い方を間違えないように注意しましょう。

アニメーターの過酷な労働現場は、働き方改革から見れば理想の職場?

キャリコネニュースの記事『クールジャパンも崩壊寸前!?アニメーターの過酷な勤務実態 「賃金が低すぎて自立して生きていくのが辛い』によれば、NPO法人若年層のアニメ制作者を応援する会(通称AEYAC)という団体が、2月25日、「2016年度AEYAC若年層アニメーター生活実態調査報告書」を発表した。
 キャリコネの記事によれば、「調査結果からは、若手のアニメーターが低賃金や長時間労働に苦しめられていることが明らかになった。」ということであり、

>勤務形態は、労働基準法が適用されない「個人事業主(スタジオ所属)」(68.6%)が最も多く、次に多いのは「契約社員」(19.0%)だった。「正社員」はわずか7.2%に留まった。
>給与形態は、「完全出来高」(46.4%)、「固定給+出来高」(39.3%)の順に多かった。

・・・
>1か月の休日は、4日(29.4%)、5日(16.3%)の人で半数近くに上っており、長時間労働のうえに休日も限られていることが伺える。

・・とのことで、しかも平均月給は20万円を超える者は全体の3.9%しかいないなど、なかなか過酷な労働環境である。

 しかし皮肉なことだが、このようなアニメーターの過酷な仕事のあり方は、最近あちこちで主張される「これからの働き方」「新しい働き方」を称賛する人たちから見れば、まさにこれからの仕事のあるべき姿を示す、理想の職場ということになるのである。
 なぜかって?
 たとえば、『ビジネスノマドジャーナル』の次の記事を見ていただきたい。

【進む働き方変革】第2回:働いた時間ではなく、「成果」で評価をする働き方に

 この記事では、一般論として、これからの働き方のあるべき仕組みとしては、労働時間で評価することをやめ、成果に応じた報酬にして、個人は会社から自立して仕事をするようにするべきだとして、次のように述べる。

“時間労働を是正するという観点でも、働いた時間ではなく成果で評価をすることが、個人の自由な働き方の実現に必要になるでしょう。”
“「会社にいた時間」ではなく、「仕事の成果」に対して報酬を払う。労働時間に依存しない評価を、人材活用の仕組みに組み込んでいくことが必要です。”
“実際のところ、インディペンデントコントラクター(高い専門性を持った個人事業主)になる主な動機の一つとして、「自分のスケジュールを自分で管理したい」ということが挙げられています”

 要するに、この記事が強調しているのは、①「労働時間ではなく成果で評価して報酬を払うようにするべきである」、②「個人は企業から自立した個人事業主のようになるのが望ましい」という点である。

 この記事の観点からいえば、上記の過酷なアニメーターの労働状況は、まさに個人の自由な働き方を実現した、理想的なものだということになる。

なぜなら、多くのアニメーターは、上記の①と②の条件に完全に当てはまっているからである。

 まず、①アニメ作品を製作するという仕事であり基本的に出来高制なのだから、労働時間とは関係なく、まさに「成果」に対して報酬をもらう立場であり(=逆にいえば、いくら働いても、作成したものを提出しないと、1円もはいってこない)

 次に、②労働基準法が適用されない「個人事業主」が多いので、まさに「企業から独立した個人事業主」に他ならない。

なんとも驚くべきことではないだろうか。
「新しい働き方」「これからの働き方」を主張して、「成果による報酬」「自立した個人事業主」を提唱し、長時間労働からの解放や自由な個人のあり方を追求すると称している人たちのいう条件を満たす職場が、過酷なアニメーターの現場だったとは・・。

より以前の記事一覧

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ