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人事・労働

経済学者たちは終身雇用をどう説明してきたか

 日本の終身雇用についての経済学者の二冊の本をここで紹介しよう。

 一つは荒井一博『終身雇用制と日本文化 ゲーム論的アプローチ』(中央公論社)。 
 もう一つは大竹文雄『労働経済学入門』(日本経済新聞社)。  
 荒井『終身雇用制と日本文化』は1997年、大竹『労働経済学入門』は1998年に出ており、それぞれ似たような時期に書かれた著作ということになるが、読み比べてみるとその違いはなかなか興味深い。

 荒井本は、終身雇用制が試練にさらされて維持が困難になっていること、また多くの欠点があることを認めつつも、ゲーム理論や文化論の切り口から合理性があることを説き、手直ししながらも維持していくべきことを主張している。

 荒井は言う。
 “終身雇用制は、企業がそう簡単には解雇しないという期待を労働者に抱かせ、彼らの協力行動や組織忠誠心を引き出す制度である。したがって、もし企業がそれを突如として廃止して安易な解雇を行えば、暗黙の「契約」に違反することになる。”  
 このあたりは、私がこのブログで何度も述べてきたことに通じるものがある。
 ちなみにこの荒井本では「解雇規制」という言葉は使われていない。

 一方の大竹本は、後年ほど「解雇を自由化すべし」論を前面に打ち出しているわけではなく、比較的抑制された(と同時に突き放した)感じで現状を分析しているのだが、「解雇制限法は現在雇用されていない労働者の雇用機会を減らす」など、後の“解雇規制”緩和論の萌芽が既に見受けられる。日本企業が長期雇用をしている背景としては、大竹は様々な合理的要因とあわせて「解雇権濫用法理といわれる解雇不自由の法的状態」を挙げている。

 いずれにしても、経済学者たちは、かつては「日本企業は合理的な理由があって終身雇用をしている」と主張していたのに、いつのまにか時が経つにつれて、「日本企業は解雇規制で苦しめられて、やむなく終身雇用を強いられている」と主張するようになっていったわけだ。

 そして「企業が解雇規制で苦しめられている論」を全面的に押し出した本として有名なのが、上記の大竹文雄教授も参加している『脱格差社会と雇用法制』(日本評論社、2006年)であるが、これについては改めて述べたい。

ミクロ経済学が想定する労働の世界はクラウドワークだった!

専門外の経済学の話なので誤解があればご指摘いただきたいのだが、教科書的なミクロ経済学の世界で「労働市場」について考えてみると、概ね次の通りだろう。

 ここでは、労働者も企業も、賃金の金額だけを判断基準として行動し、いくらでも自由に労働力が移動することが前提となっている。(つまり賃金以外の他の条件は考慮しないという仮定に立つ。) どの程度の労働者が雇用されて、その時にどのような賃金の水準になるかは、労働力の需要と供給が一致するところで決まる。

 まず企業の行動(=労働力の需要)を考えてみると、賃金が上昇すれば、企業の中には雇えないところもでてくるので、労働力に対する需要が減り、下落すればその反対となる。

 次に労働者の行動(=労働力の供給)はどうかといえば、賃金が上昇すれば、働きたい人間が増えるので、労働力の供給は増え、下落すれば減少する。  

 このような労働力の需要と供給が一致するところが完全雇用の状態であり、これに応じた賃金が完全雇用をもたらす賃金ということになる。

 (ただしここでいう「完全雇用」というのは、およそ世の中の働きたい人間がすべて雇用された状態をいうのではなく、「その賃金で働きたい人間がすべて雇用される状態」を意味する点に注意。
  たとえば世の中に労働者が100万人いるとして、「賃金時給1000円、70万人」が労働の需要と供給の一致する点だとしよう。この場合、時給1000円以下で働く気のある人間は全員雇用されているので、「完全雇用」である。ただし時給1001円以上で働きたい人間(30万人)は雇用されることなく、あぶれる。逆に言えば企業の側も、時給999円以下でだけ雇用したいという企業は、誰も採用することができない。労働者が来なくなるからである。1000円以上で雇用できる企業は、すべて労働者を採用できる。)  

 これが経済学でいう最適な労働市場の状態なのであって、政府の介入は有害だというのが、純粋な経済学上の帰結である。
 たとえば政府が強制的に最低賃金が時給1500円になるように規制すると、999円以下でしか雇用できない企業に加えて、1000円~1499円までの範囲でしか雇用できない企業も、採用できなくなる。このため、雇用は70万人よりも減少してしまうというわけである。

 あくまでこれは様々な仮定を設定したうえでの理論上の世界であって、実際の雇用の世界と違うということは誰でもわかるところである。

 ところが近年、このミクロ経済学の想定する労働市場の世界に近い状況が生まれてきた。それが、いわゆるクラウドワークの世界である。

 クラウドワークでは、依頼者は、仲介企業の運営するウェブサイト経由で、一定の報酬を提示して仕事をしてくれる人を募集し、それに対して無数の人間が応募して、契約者が決まり、仕事をしてもらって報酬を支払う。 仮に提示した報酬が少なすぎて人が集まらないなら金額を上げるだろうし、その逆も成り立つ。そして1つ1つの仕事が終わればお払い箱となる。 クラウドワークで募集される仕事の内容は、自動車運転から記事執筆までいろいろである。

 いわゆる終身雇用が労働市場を硬直化させて資源の適切な配分を阻害する、という一部の経済学者の非難も、こういう世界を想定して初めて感覚的に理解できる。 クラウドワークの世界で、一部の人間だけが何十年も継続的な契約を保証されたら、確かにいろいろとおかしなことになる。

 解雇の徹底した自由化を主張する学者(たとえば福井秀夫教授や八田達夫教授)から見れば、終身雇用を原則とする日本企業は、一部の人間だけ終身契約をしている、歪んだクラウドワークのように映っているのであろう。

 もちろんここでは、今後すべての企業の職場がクラウドワークに近づいて行くべきだなどと主張する意図は一切ないので念のため。

城繁幸氏がまたいい加減なことを・・・

 城繁幸がまたブログで、いい加減なことを書いていた。

  サルでもわかる「終身雇用がブラックを産む」わけ

 言わんとするところを整理して要約すると、次のとおりである。

(1)日本の大企業は、繁忙期に急に正社員を増員することはなく、まずは残業でこなす。逆に業務量が減った時も、正社員を解雇することはなく、残業を減らすことで調整する。このようにして解雇を避け、終身雇用を維持している。
(2)労働基準法はザル法であって、労使協定を締結すれば事実上、いくらでも残業をすることができるようになっている。
(3)従って、終身雇用が過労死を産み出していると言える。
(4)ところで、終身雇用で労働条件の良い大企業だけでなく、そうでない中小企業にも同じ労働基準法が適用される。終身雇用のない企業の方が残業規制が厳格というわけではない。
(5)よって、中小企業の労働者は、終身雇用の恩恵を受けられないにもかかわらず、ザル法の労働基準法によって残業が野放しになっていることのしわ寄せを受けている。

(論旨はまだあるが、以下略)

 この城繁幸の文章は、例によって、当たっている部分とデタラメで乱暴な部分が混在している。

 (1)(2)は、単純化した図式ではあるが、ここでは一応良しとしておく。
 問題は(3)以下だ。城繁幸の理屈では、「終身雇用→業務の増減に応じて採用したり解雇したりできない→よって忙しい時も増員ではなく残業で対応せざるをえない→よって終身雇用が過酷な残業や過労死を産み出している」ということになっている。

 そうだとすれば、終身雇用でない企業は、単純に言えば(法的にどうかは別として)ほしいままに採用したり解雇して業務量の変動に対応できるのだから、無茶な残業をさせる必要はないことになるはずである。

 終身雇用をやめれば解雇と採用によって人員を調整するので、少なくとも長時間残業を強いられることはほとんどない、というのが城繁幸がこれまでも繰り返してきた主張だ。

 ということは、逆に、現に終身雇用などせず、ほしいままに解雇も採用もしている中小企業は、無茶な残業は原理的にありえないはずである。労働基準法が「ザル法」かどうかとは関係ない。必要がなければ長時間残業は発生しないからだ。

 有名な「すき家」のバイトの長時間残業の事例について城は、

 “すき家はバイトに長時間残業やらせようとしたらバイトが逃げて本社の正社員が駆り出されてそれでも回らなくて営業時間縮小に追い込まれたという話です。流動性こそが労働者の最大の武器という好例です。”

と述べている。この指摘は間違ってはいないが、持論の根拠として城が持ち出すのは実はおかしい。城繁幸の理論でいえば、そもそも「すき家」のようなところでは、最初から長時間残業など(ほとんど)発生しないはずだろう仕事が忙しいならすぐバイトを増やし、仕事が減ればすぐバイトを減らすだけのことだからである。

 終身雇用でもない中小企業やすき家バイトで過酷な長時間残業が発生しているということは、「終身雇用をやめれば長時間残業はなくなる」という城の主張そのものが破綻していることは明らかである。

 それでは、そもそもなぜ中小企業や「すき家」バイトで長時間残業が発生するのかといえば、それはただ、経営者が人件費(終身雇用でないのなら固定費ではなく変動費のはずだが)を抑えたがっているというだけのことだろう。経営者が悪徳だというよりも、市場競争や取引構造などの問題として見る方が良いと思われる。

 いわゆる終身雇用と残業の発生に大きな関係があるのは事実だろうが、終身雇用がなければ過労死や長時間残業が発生しなくなるという単純な問題ではない。

「終身雇用」をやめたいなら、まず内定式の段階から改めましょう

 まだまだ新卒一括採用を行う企業が多いこの日本では、10月初頭といえば、翌年に卒業を控えて企業に雇用される予定の大学生に対する内定式の季節である。

 弁護士ドットコムの記事で、いわゆるブラック企業の“求人詐欺”対策の観点から、内定段階で労働条件を明示させる必要性について、厚生労働省が「内定段階で労働条件を説明する義務がある場合もある」という見解を示したことが紹介されていた。

 労働基準法15条1項は、「使用者は、労働契約の締結に際し、労働者に対して賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない。」と定めている。

 そこで労働契約が「締結」されるのは具体的にいつの時点なのかが問題となってくるが、細かい議論は省くとして、内定段階でも既に何らかの労働契約が成立していると考えられるならば、労働条件を明示しなければならないということになる。

 要するに、内定をもらった後、実際に企業で勤務を開始するようになってから「こんな労働条件を聞いていなかった!ブラック企業に騙された!」などという問題にならないように、労働条件を内定段階で説明してもらうべきだ、という話である。

 さて、ここからが本題である。

 日本のいわゆる“解雇規制”緩和論者は、企業がより簡単に解雇できるようにしたいと考えているわけだが、まさにこういう時こそ出番であって、率先して企業に働きかけるべきだろう。

 企業が内定段階で労働条件を説明しなければならないとすれば、簡単に解雇できるようにしたい場合は、当然、解雇についてもしっかりと内定段階で説明しなければならないはずである。「どういう場合に解雇されるのか」は、重要な労働条件の一つだからだ。

 従って、仕事の出来が悪い者をすぐ解雇したい企業は、内定式の時に学生に向かって「仕事の出来が悪い人は、解雇します」と明言しておくべきだし、さらに不採算事業をすぐに切り捨てて整理解雇をできるようにしたい企業であれば、「特定の事業の業績が思わしくない場合は、個人の働きの善し悪しにかかわらず、解雇することがあります」とハッキリ説明しておくべきだということになる。

 さらに何よりも大切なのは「当社は、いわゆる終身雇用の制度はとりません」と断言しておくことである。

 (ここまでやっておいても、いざ解雇して訴訟となったときに会社側が絶対に勝てるという保証があるわけではない。しかし、少なくとも何もしないよりは勝つ見込みが高くなるだろう。)

 …このようなアドバイスを、解雇規制緩和論者たちは、企業に積極的に行うべきなのだ。

 もちろんほとんどの企業は、そんなことをしろと言われても困るだけだろう。
 しっかり長く働いてもらいたい前途ある若者に、そんな夢のないことを言うのは望ましくないと考えるだろうから、内定式では、「仕事の出来が悪ければ解雇します」とも言わないし、「会社業績が思わしくなければみなさんを整理解雇します」とも言うことはない。

 それどころか内定式では、長きにわたって会社で活躍し続けてもらう前提の話しかしないし、ほとんどの学生もそのつもりで入社の日を迎える。

 (しかもこういう会社のほとんどには定年制がある。定年制は「定年までは原則として解雇しない」ということが前提となっている。仮に個人の働きや会社の業績次第でいつでも解雇できる会社であれば、定年制は単なる不当な高齢者差別でしかない。仕事が出来ない者は、年齢と関係なく、仕事の不出来を理由に解雇すれば良いはずだからである。)

 そういうわけで,、どこの会社も、内定式の時に学生に向かって、整理解雇や成績不良による解雇の説明などすることはなく、ずっと勤めて昇進して定年までいられるような前提の話しかしないまま入社させていくから、実質的にみれば、「定年までできる限り長期間雇用を保証しようという暗黙の契約」(大竹文雄)が相変わらず毎年毎年新たに締結されていくことになる。

 そして一部の評論家たちは、いつまでも「国が解雇規制をしているから企業が全然解雇できない。労働市場が流動化せず、成長分野に人が流れない」などと騒ぎ続けるのである。

「解雇ルールの明確化」なんて本当にできるの?

 「解雇に対する規制が厳しいおかげで日本企業は解雇が難しい」という類いの主張がウソであることは繰り返し述べた。いろいろな意味で解雇が「難しい」のは事実だろうが、それは「解雇規制」のせいではなく、企業自身がめったに解雇しない前提で雇用をしてきたからにすぎない。
 単純化していえば、よほどのことがない限り解雇しない前提の労働契約をしているのだから、よほどのことがない限り解雇できない(裁判で解雇が認められない)のは、ごくごく当たり前のことである。

 ところで、「解雇規制緩和」のかわりに「解雇ルールの明確化」という言い方をする論者もいる。

 「どのような場合に解雇ができるのか、現在ははっきりしない。国が解雇ルールを明確にするべきだ」というわけだが、この主張は「現状では解雇しにくい。だから解雇ルールを明確にして解雇しやすくしてほしい」という意図が前提になっている。
(その逆に「現状ではいい加減な解雇が横行しているので、解雇できる場合をルールで制限してほしい」といっているわけではないことに注意。)

 解雇ルールといえば、労働契約法16条の「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。 」という定めが重要だが、「この条文だけでは、『合理的な理由があって、社会通念上相当であると認められる解雇』はどういうケースなのか、よくわからない。明確にしてほしい」というわけだ。

 ここでは、個人の職務遂行能力が不足していることを理由にして解雇する場合を例として考えてみよう。

 まず、現在でも職務遂行能力の不足を理由にした解雇が認められた裁判例はある。従って、仮に国がおおざっぱに「職務遂行能力の不足を理由にした解雇は認められる」というガイドラインなり法令なりを制定したところで、それだけでは何も解雇ルールが明確になったことにはならない。裁判例を後追いで整理したものでしかない。

 そもそも世の中一般に、職務遂行能力が「十分」な従業員などあまり多いわけでもないだろう。「職務遂行能力が不足している」というだけではあまりにも漠然としてつかみ所がない。
 問題は、具体的にどの程度まで職務遂行能力が足りなければ解雇が認められるのか、である。

 もちろんそんな細かいことを国がいちいちガイドラインや法令で決められるわけがない。「営業担当者が連続6ヶ月間目標達成できなかったときに解雇する場合は、その解雇は合理的で社会的に相当である」などと国が個々に決めるわけにもいかないだろう。

 そうなってくると、結局のところ、個々に企業が自分で決めるしかなくなってくる。「解雇ルール」を明確にしなければならないのは、実は国というよりも、企業自身なのだ

 たとえば企業が「職務遂行能力が不足している」ことを理由に解雇するならば、その「職務」とはそもそも何なのか、何をやるべきなのか、どこまで達成できれば良いのかも明確にしなければならない。

「解雇ルールを明確にする」ということは、職務の内容や達成目標も個々に明確にしなければならないことになる。やや極端な言い方をすれば、解雇ルールを明確にするためには、仕事に関するすべてのことを明確にしなければならなくなるのだ

 すべてを明確化すれば、確かに解雇ルールも明確になっていくのかも知れない。

 問題は、一般的な日本企業は、そういう厳格な明確化になじむのかということである。物事をあまり明確にしすぎない、いろいろな意味での曖昧さや柔軟さが日本企業の強みと言われてきた(今も言われている)のではなかったか

 そして、職務範囲を明確にするということは、その範囲以外のことはやらなくても良いということを意味する。たとえば「こいつは決められたことしかやらないからクビ」というわけにはいかない。それこそ解雇ルールの明確化の発想とは真っ向から矛盾してしまう。やるべき仕事の範囲をはっきり線引きしたうえで限定しなければ、「明確化」とはいえないからである。

 とはいえ「従業員は、決められた職務の範囲や達成目標に限定しないで、もっと幅広くがんばってもらいたい」というのが多くの経営者の願いというかホンネだろう。だが、解雇ルールを明確にして解雇しやすくなることを目指すような企業で、そういうことが期待できるのだろうか。企業は、いろいろと強みになってきた曖昧さや柔軟さを捨ててまで、そういうことをやりたいというのだろうか。

 なお、解雇ルールが明確になったからといって、解雇をめぐる訴訟がなくなるわけではない。その解雇ルールの解釈について争いが起こる可能性は常に残るからである。
 たとえば「〇〇の場合には解雇できる」という明確なルールがあって、それに従って会社が従業員を解雇したとしても、そもそもその「〇〇の場合」にあたると言えるのかどうかについて見解が合わなければ、最終的には訴訟で決着をつけるしかない。

「解雇規制で正社員の既得権が守られている」というのは、半分はウソですよ

 しつこいようだが、「『解雇規制』って、本当に存在するの?」から始まる一連の「解雇規制」論批判シリーズの続きである。

 「解雇規制は、正社員の既得権を保護しているだけだ。現在雇用されている者を保護してはいるが、現在失業している者のチャンスを奪っている。
という主張もよくなされることがある。たとえば、経済学者の大竹文雄教授のような論者が挙げられる。

 この主張は、半分は正しく、半分は間違っていると思う。ここでも一応はまだまだ終身雇用・長期雇用が維持されている大企業を前提として考えてみよう。

 かなり単純化して考えた場合の話であるが、たとえばある会社で現在雇用されている1人の正社員が、定年まで 解雇されることなく勤続が保証されているとすれば、そのせいで、失業している別の誰かがその会社に就職できないでいる…と言えなくはない。

 その意味では、確かに「現在雇用されている者が保護されていることは、失業者のチャンスを奪っていることになる」という主張は一理ある。

 しかしこれは、解雇規制のせいでそうなっているのではなく、もともと企業が、原則として定年まで解雇しない(暗黙の)契約(終身雇用、長期雇用)を締結しているからにすぎない。

 企業は、解雇規制があるために嫌々ながら「定年まで解雇しない契約」を締結しているのではなく、自分からそのような契約を選んでいるのではないか。

 上に挙げた解雇規制緩和論者である大竹文雄教授自身も、『労働経済学入門』(日経文庫)の中で次のように述べている。(*注)
 「終身雇用という言葉は、誤解を与えやすいものです。文字どおり死ぬまでの雇用を保証するような雇用契約ではないことは、明らかです。定年までできる限り長期間雇用を保証しようという暗黙の契約というのが、より正しい解釈でしょう。」(同書98頁)

 このように、原則として定年まで解雇しない契約なのだとすれば、原則として定年まで解雇できないのは当然の帰結である。解雇しようとして裁判になっても、裁判所は、その原則を覆すだけの根拠がなければ解雇を認めないだろう。大竹教授のいうように「できるだけ長期間雇用を保証する契約」なら、まず会社としては解雇を避けるために「できるだけ」の努力をしなければならないことになる。それをしないで解雇するならば、労働契約法16条で定めるように、合理性・相当性を欠き、解雇権の濫用として無効ということになる。

 これは、わざわざ「解雇規制」と呼ぶほどのことだろうか?

 たとえば「家賃を払う限り60歳まで貸家に居住できる賃貸借契約」を締結したら、貸主が途中で勝手に解約して借主を追い出すことなどできるわけがない。(借地借家法のことはここでは度外視する。)その間、他の人間は貸家を借りることはできないが、それは当然のことである。
 これらは「規制」のせいでそうなっているのではなく、もともとそういう契約を貸主が選択したからである。もちろん家賃の支払いを怠ったり、家を荒らしたりすればまた話は別である。

 この「60歳まで貸家に居住できる権利」は、「既得権」なのだろうか。
 そう呼ぶのは勝手だが、それをいうなら、契約上の権利はすべて「既得権」ということになる

 たとえばある建物について5年間の賃貸借契約を結べば、5年間は他の人間は入居できない。それを「5年間の既得権」と呼ぶ意味があるのだろうか。
 ある知的財産について10年間の独占的ライセンス契約を締結すれば、10年間は他の者はそれを利用できない。それを「10年間も既得権が保証される。けしからん」という人がいるだろうか。

 おわかりだろうか。

 「解雇規制で、正社員は長期間の雇用が保護されている」のではない。もともと正社員とは、長期間の雇用契約なのだ。
 解雇規制があろうとなかろうと、契約が保護されるのは当然の結果なのである。

  (実をいうと、ここでは法律論としてはちょっと乱暴で突っ走った議論をしている。最高裁判例では、「終身雇用の暗黙の契約を締結した」ということを正面から認めるのではなく、「終身雇用の期待の下に期間の定めのない労働契約を締結している」という、より慎重で間接的な表現を使っている。法律上の概念としての「期間の定めのない労働契約」とは、「終身雇用」とイコールというわけではない。最高裁は、そこに「終身雇用の期待」という微妙な表現をプラスしているのだ。
 これに対して、むしろ経営学者や経済学者の方が、法学者や法曹よりもストレートな形で、「終身雇用(長期雇用)の暗黙の契約」が締結されているということを正面から堂々と強調してきた観があるのだが、今となっては感慨深いものがある。)

  なお念のため断っておくと、私は、何がなんでも正社員を解雇してはならないとか、解雇しやすい世の中になってはならない、とまで言い張るつもりはない。「解雇しにくいのは解雇規制のせいだ」「解雇規制で既得権が守られている」という類いの不正確な主張を批判しているだけである。

  「とにかく正社員の保護を縮小させた方が、失業者や非正社員にも新たな雇用のチャンスを与えることになるから、格差の是正につながる」という議論は、賛否はともかくとして一応検討に値するとは思うが、これは解雇規制というより、企業自身がどのような労働契約を締結して働かせるかという観点で考えるべきである。解雇しにくい労働契約ならば裁判で解雇は認められにくい。解雇しやすい労働契約ならば解雇は認められやすい。当たり前の話ではないか。

 それでは、解雇しやすくするためにどうすれば良いか。ここでも乱暴で大雑把な言い方をしてしまえば、企業が、定年までの雇用を保証しないことを明確にした契約を締結すれば良いのである。(これは必ずしも半年や1年の短期の契約という意味ではない。)

 まず企業が、新卒採用向けの説明会で、学生に向かって「定年までの雇用を保証するものではありません」「働きが悪ければ解雇されることがあります」「働きが良くても事業の都合により整理解雇される場合があります」ということを説明し、納得してもらい、定年まで保証するものではないことがはっきりわかるような労働契約を締結するようにするべきである。

 (もっとも、ここまではっきりした方針を示すような企業であれば、新卒の大量採用をするかどうかは怪しい。中途採用でかなり用が足りるからである。さらに「定年までの雇用を保証するものではない」ということなら、そもそも「定年」さえ必要なくなるだろう。定年とは、継続的な雇用が保証される最終的な年齢の限度のことだからである。)

 このようにしたとしても、たとえば企業が「働きが悪い」従業員を解雇した場合に、「本当に働きが悪かったのかどうか」が裁判で争いになる可能性はある。しかしそれは「解雇規制」の問題ではないだろう。

 また、解雇しやすい企業になることができたとしても、それは現在の日本企業の持つ様々な「強み」とされている要素も失うことを意味すると思うが、それはまた改めて検討したい。

(*注)この大竹文雄教授の『労働経済学入門』は、1998年4月に刊行されているが、興味深いことに、「解雇規制」という用語はこの著書の中で一度も使われていない。そのかわりに、「解雇不自由の法的状態」という言い方をしている。少なくとも「解雇規制」よりはよほどマシな用語法である。と同時に、「解雇規制」という用語が(30日前の解雇予告や労災休業中の解雇禁止などの限られた意味ではなく)一般的に使われるようになったのが、かなり最近の現象であることを示唆しているのではないだろうか。

「解雇規制」などという言葉を使わない『ゼミナール経営学入門』

 「解雇規制」論について、さらに付け加えてみる。

 ここで一冊の本をちょっと見てみよう。伊丹敬之&加護野忠男著『ゼミナール経営学入門』(日本経済新聞出版社)である。
初版は1989年で、2003年に改定されて現在も販売されている。今手元にあるのは2003年版である。

Zemi

(2003年は、日本的経営に対する疑問が既に強くなっていた時期で、日本的経営の強みを述べる著者の言葉も、どこか歯切れの悪さが感じられる。おそらく1989年版はかなり違った感じなのではないかと思うので、いずれ手に入れてみたい。)

 さて、伊丹敬三教授や加護野忠男教授といえば、日本的経営の強みを強調してきた経営学者として知られているが、この著書では、「解雇規制」についてどのように述べているだろうか。
 「解雇規制を緩和すべきだ」などとは言っていないだろうということは、読む前から想像できる。それでは逆に、「解雇規制が日本企業の強みを作ってきた」とでも主張しているのだろうか。

 そうではない。

 この本の中には、「解雇規制」という言葉は一度も出てこない。
 2003年時点では、「解雇規制」という言葉が経営論の文脈で使われること自体、まだあまり無かったのかも知れない。
(もちろん一般的な用語として「解雇規制」という言葉が世の中で使われることはあっただろうが、おそらくこの頃は「労災休業中の解雇は規制される」とか「解雇するには30日前に予告しなければならない」などの個別の規制が主に意識されていたのかも知れない。)

 この『ゼミナール経営学入門』の227頁を見てみると、こんな一節がある。

日本企業は…雇用構造の選択を、実際にはどのように行ってきたのだろうか。
…一般的に、日本的経営の三種の神器といわれるものがある。終身雇用、年功序列、企業別労働組合、の三つである。
…終身雇用とは、正規の従業員として採用された場合に、経営上の大きな困難や従業員の大きな不手際がないかぎり、厳密に言えば定年まで雇用されるという暗黙の契約である。
…こうした雇用構造を選択すると、さまざまな労働市場との対応の特徴が生まれる
。」

おわかりだろうか。この著書によれば、終身雇用(長期雇用)とは、日本企業が「選択」したものなのである。

企業が自分の意思で「経営上の大きな困難や従業員の大きな不手際がない限り…定年まで雇用されるという暗黙の契約」を、従業員と締結したと考えているのだ。

そうだとすれば、「よほどのことがない限り、定年まで雇用されるという契約」があるのなら、「よほどのことがない限り、裁判になっても、解雇が認められない」というのも当然のことである。

要は、政府が勝手に「解雇規制」をしているわけではなく、企業が自分で「終身雇用」「めったに解雇することがない契約」を「選択」してきたということである。

 この『ゼミナール経営学入門』の分析が的確かどうかはさておき、2003年時点では、「国が解雇規制をしているので企業が困っている」という類いの論法は、一般には広まっていなかったということがわかる。それどころか、おそらく「解雇規制」という言葉すらあまり使われていなかったのだ。
 それは当然のことである。日本企業は、めったに「解雇」しないという雇用構造を自分の意思で「選択」し、その強みを利用してきたというのが、こういう経営学の観点だったのだ。「企業が解雇規制を押しつけられている」などという発想が出てくるはずがない。

 ただ驚きなのは、少し前まで、そういう経営学の著作が(妥当な観点かどうかはさておき)広く世間で読まれていたのに、もうそういう時代を忘れ去ったかのように、「解雇規制で日本企業が困っている」という論調が普通に通用しているということである。

正社員の「解雇規制」なんて存在するの?

 さきのエントリの続きで、今度は整理解雇を念頭において考えてみよう。
 企業が無能(?)なX氏を解雇するケースではなく、経営上の理由で労務を調整するために整理解雇をしようとするケースである。有能だろうと無能だろうと、一定の従業員を解雇して人減らしをしたいと考えているとしよう。 これはなかなか裁判で合理性が認められにくいのは事実である。

 深くは立ち入らないが、裁判例では、整理解雇の4要件というのが一般に知られている。
 ①人員削減の必要性があること、②人員削減の手段として整理解雇を選択する必要性があること、③解雇対象者の選び方が妥当であること、④手続(労使の協議や労働者への説明など)が妥当であること、である。これらの4つの要件(4要素という言い方をする論者もいる)に基づき、整理解雇が有効かどうかを裁判所が判断してきた。

 こういう状況について「日本の正社員は解雇規制が厳しくて整理解雇が難しく、契約社員に比べて保護されている(ので規制緩和すべきである)」という評論家やエコノミストの論調をよくみかけるが、これは原因と結果を逆にした勘違いではないだろうか。

 主要な日本企業(規模の大きな企業)は長年、職務も勤務場所も(そして実質的に労働時間も)無限定で長期雇用を前提とした年功的賃金体系の雇用を行ってきたことは周知のとおりである。
 ある程度の大企業に勤務した経験がある人なら、思い出してみてほしい。就職活動をしていた時に、「不況になったら人員調整で整理解雇することもあるけど、いいね」と学生たちに説明して、納得のうえで労働契約をする大企業などあっただろうか。どこもかしこも、長期的に勤務する前提の話しかしてこなかったではないか。
 年功賃金の体系はだいぶ崩れてきているとはいえ、まだまだ多くの主要企業の賃金や退職金や福利厚生は、いつ解雇されても変わらないような水準ではなく、長期勤続してはじめて上がっていく前提のシステムである。
 要するに主要な企業は、滅多なことでは解雇せず、長期的に働いてもらう前提で人を雇用して、そういう従業員を「正社員」と勝手に呼んでいるだけのことである。
 おわかりだろうか。政府が「正社員」を守るために「解雇規制」をしているわけではない。企業が、「滅多なことでは解雇しない条件の従業員」を自分で勝手に採用して、それを「正社員」と呼んでいるだけなのだ。

 そうだとすれば、いざ「正社員」を解雇しようとして訴訟になった時に、裁判所になかなか「解雇の合理性」を認めてもらえないのは当然のことだろう。
 もともと滅多なことで解雇しない前提で(労働時間や担当職務も柔軟に対応することを含んで)雇用したのだから、滅多なことで解雇が認められないのはごくごく当たり前の帰結である。

 少々単純化していえば、「整理解雇」の要件が非常に厳しいのは、根本的にはこれが理由といえる。裁判所が、さきに紹介した「整理解雇の4要件」に照らして整理解雇の有効性を慎重に判断するのも、別に勝手な思いつきでやっているわけではない。
 
 「日本では、企業が倒産の危機にでもならないと、裁判所が整理解雇を認めてくれない」とか「採算の悪い事業を切り捨てて大胆に事業再編しようとしても、整理解雇が難しい」というのも、何も不思議ではない現象なのだ。

 どこの企業が、新卒説明会で「事業の採算が悪い場合は、あなたの働きの良し悪しにかかわらず、整理解雇します」と学生たちに説明しているのだろうか。それこそ倒産の危機に出もならない限り首にされることはないという前提の話しかしていないのではないか。

 また「A事業の採算が悪くなって切り捨てたくても、整理解雇が難しい」というのも当然である。採用する時に「A事業(の●●の職務)だけを担当する」という契約で採用したのだろうか。そうではないだろう。だいたいの正社員は「なんでもやらせる」(職務無限定)という前提で採用しているのだ。「なんでもやる」従業員として採用したのなら、「A事業がつぶれても他の事業をやらせれば良いから、解雇までする必要はないではないか」と言われると反論できないのである。  

 これに対して、最初から「一定の契約期間だけ雇用する」という前提で雇用するのが「契約社員」である(契約期間の更新はありうるとして)。
 契約社員は正社員より解雇規制が緩やかだというよりも、もともと短期の契約期間を区切って雇用しているから(いわゆる「期間の定めのある労働契約」)、その契約期間を更新しなければ原則としてそこで終わりとなる。(近年の労働契約法の改正については、ここでは触れないでおく。)

 「正社員の方が規制により保護されている」とか「正社員の解雇規制は厳しいので、切り捨てやすい契約社員で労務を調整する」というのは、正確な言い方ではない。
 企業が最初から「滅多に解雇しないつもりの従業員」と「短期契約だけでおわりにできる従業員」の二種類に分けて採用して、前者を正社員、後者を契約社員と呼んでいるだけのことなのだ。

 (追記:ここまで述べたら、あとはいわゆる「解雇の金銭解決」の問題についても触れた方が良いと思うが、これは機会を改めてのことにしたい。)

「解雇規制」って、本当に存在するの?

 ちょっと人目を引こうと思ってわざと極端なタイトルをつけてみたが、正確にいうと

 「日本では、いろいろと解雇が困難な(日本特有の)事情があるのは事実が、それを『解雇規制』と呼ぶのは妥当ではないんじゃないの?」

というニュアンスである。

解雇規制を緩和して、解雇しやすくしろ」という議論は今もあちらこちらで見かけるが、「解雇しにくい」のは、「解雇規制」のせいなのだろうか。風俗営業規制とか騒音規制のようなレベルで「解雇規制」があって、企業が解雇したくてもできないのだろうか。そうではなく、解雇が難しいとすれば、それはもっと別なことが理由ではないのか。
 (後で少し触れるが、法律上は、何でもかんでも解雇し放題なわけではなく、一定の「解雇規制」はもちろん存在する。ただし「正社員を解雇してはならない」とか「正社員を解雇するには労働基準監督署の許可を要する」などという法規制があるわけではない。)

以前のエントリ「解雇しにくい社会」は、日本企業が自分から産み出したものだ!」でも書いたことだが、改めて述べておきたい。

まず具体的な例を仮定して考えてみよう。

ある会社に、「仕事のできない」中高年従業員がいた。名前はX氏。このX氏は、職務遂行能力がない奴と判断されたり、人間関係でうまくいかなかったり、まぁいろいろな事情で、あっても無くても良いような雑用だけをやることになった。いわゆる窓際族である。

会社はいわゆる年功賃金制度であり、X氏もそれなりの賃金をもらっている。

ある日、とうとうシビレを切らした会社はこのX氏を解雇しようと考えた。ただ実際に解雇するとなると、確かにいろいろと面倒なことになるのは事実である。

まず30日前に予告して解雇する必要がある(労働基準法20条1項)。これは確かに解雇規制の一種ではあるが、別に難しいことではない。
ここでX氏がおとなしく解雇を受け入れたら、もちろんそれで万事解決である。

次に、X氏が労働基準監督署に駆け込んだら、どうなるか?

状況にもよるだろうが、会社としてはこの段階では、それほど心配はする必要はない。労基署は、賃金不払や労災など白黒の判断が簡単につく問題については割と動きやすいが、解雇のように複雑な事情や判断が必要な問題では非常に動きにくいのである。

では、X氏が「解雇は無効だ」といって、弁護士に相談して(または本人訴訟で)裁判所に訴訟や労働審判の申立を提起をしたらどうなるだろうか?

本当に「解雇の難しさ」が浮き彫りになるのはここから先なのである。
(ただしこの段階に来るまでに諦めて泣き寝入りしてしまう人も多い。なお他にあっせん手続というのもあるが、ここでは省略)

X氏が「解雇は無効だ」と主張して訴えを起こしたからには、会社としては当然「解雇は有効だ」と言って反論しなければならない。解雇が有効であることを会社は主張・立証する必要がある。
では、どうすれば解雇は「有効」だということになるのだろうか。

労働契約法16条には「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。」という定めがある。
つまり会社としては、解雇に合理的で、なおかつ社会通念上の相当性があることを主張・立証すれば良いのだ。ここでは一応簡潔にまとめて解雇の「合理性・相当性」と呼んでおこう。

さて、「仕事ができない人間を解雇するんだから、当然、合理性・相当性があるはずだ」と思った会社は、「X氏は仕事ができないので、使えません。だから解雇しました」等等と主張する。

これに対してX氏側弁護士(または裁判官)は何というだろうか。

「窓際族っていうけど、具体的に今、何の仕事を担当させているんですか?」
「ほとんど仕事をさせていないって?じゃあ仕事をさせればいいでしょ。仕事をさせるのは会社の役割ですよね。」
「使えない?具体的にどう使えないのか、証明できますか?記録あるの?仕事の成果はどうやって確認してるの?」
「雑用しかやらせてない?その雑用を一通りこなしているなら、ちゃんと職務を果たしたことになるんじゃないの?」
「お宅の会社には、他にもいろいろな職種があるでしょ。他の仕事をやらせたらいいんじゃないんですか」
「職種を変えるローテーションや転勤は、お宅の会社では普通にやっていますよね。だったら、この人も、職種を変えてみたらいいんじゃないですか。」
「賃金に見合った仕事をしてないって?中高年で賃金が高い?年功賃金にしたのはお宅の会社の勝手でしょ?仕事に見合った賃金体系にすれば良かったんじゃないの?」

…等等の議論になるだろう。何となく「使えない」「能力がない」というだけでは、漠然としすぎており、まったく反論にならない。
上記のような議論に具体的に答えることができなければ、「解雇に合理性・相当性がある」ことは裁判所に認めてもらえないだろう。そこが難しいのだ。

一般的に言って、会社というものは(少なくとも日本の会社は)、必ずしも従業員の職務を具体的に細かく定義して、何が達成できたかをチェックできるようにしているわけではない。
特に窓際族のような立場となると、軽い仕事を担当させられることが多いが、そうなるとかえって「仕事ができない」ことの証明が難しいという逆説さえ生じる。
たとえば「仕事ができないから、掃除だけやらせています。」という理屈では、逆に「掃除という「職務」をちゃんと果たしているなら、なぜ解雇するのですか?」ということになりかねない。
(「掃除を命じたのに、紙飛行機を作って遊んでばかりです」なら話は別。)

また、「仕事ができない」ということが証明できたとしても、ローテーションや転勤を普通に行っている会社であれば、「この人にも、他の部署・職務を担当させてみたらどうか。そこまでやらなければ仕事の能力は判断できないのではないか」ということになってしまう。

おわかりいただけただろうか。

解雇が難しいケースは確かに多いが、その解雇の難しさ(正確には「解雇が合理的で相当性があることを裁判で証明することの難しさ」)の理由の大半は、実は日本企業が自分から作り出しきていたものなのだ。

政府が勝手に解雇規制をしたので、企業が抑圧されて解雇できなくなっている…というわけではない。タクシーの参入規制とか、大学の新設規制とか、薬品の通信販売規制などとはわけが違うのだ。

日本企業の仕事のさせ方では、いざ解雇したくなった時に、解雇の合理性・相当性が立証しにくいことが多い」というのが当たっているのではないだろうか。

(★ここまで読んで、「整理解雇の4要件の話はどうした?」という人がいるかも知れない。しかしここで述べたX氏のケースは、整理解雇ではない。単に特定の1人の従業員X氏を、仕事が出来ないことを理由として解雇しようとしているだけである。
  整理解雇はこれとはまったく違う。整理解雇とは、無能なX氏だろうと有能なY氏だろうと関係なく、経営上の労務調整の必要のため、やむなく人員を削減する目的で行う解雇のことである。混同してはいけないのだが、各種のブログや記事を読むと、時々ごっちゃにしている人がいる。整理解雇の問題は、また機会を改めて考えてみたい。)

労働時間の把握が、ようやく使用者の義務として明文化される?

 6日の読売新聞の記事によれば、厚生労働省は、労働安全衛生法施行規則を改正して、従業員の労働時間の把握を企業の義務として明文化する方針を固めたとのことである。
 (読売新聞以外では今のところ報道されていないので、どこまでしっかりした裏付けがある記事なのか気になるところではあるが・・・)

 以前のエントリでも触れたとおり、労働時間(または出退勤時間)を使用者が記録・把握する義務は、これまでのところ、労働基準法でも、労働安全衛生法でも、法令に明文では定められていない。

労働基準法には、使用者側が労働時間を記録する義務は書かれていない!

今こそ労働時間の記録を法律上の義務にしよう

 現時点の厚生労働省の公式見解としては、あくまで“解釈上”「使用者には、労働時間を適正に把握するなど、労働時間を適切に管理する責務がある」としているだけである。ストレートに法令の条文で「使用者は労働者の労働時間を記録しなければならない」等の記載がされているわけではない。

 今回の読売新聞の報道が事実だとすれば、ようやく労働時間の把握義務が、法令の条文として明確に定められることになる(ただし「法律」ではなく、それより下位の「規則」(省令)であるが)。

 なお、これは労働基準法ではなく労働安全衛生法の施行規則として定めるとのことであり、事実だとすれば、労働時間の把握が健康管理のため重要であるという認識のあらわれだろう。
 報道によれば「管理監督者を含めたすべての労働者を対象とする」とのことだが、管理監督者であれば長時間労働で過労死しても良いなどという理屈はないから、これは当然のことである。そうだとすれば、現在政府が導入を検討している、いわゆる“高度プロフェッショナル”(=残業代が支給されない、一定の専門的職務の従事者)も、残業代の支給の有無とは無関係に、労働時間を把握するということになろう。

 (ちなみに、労働時間把握の義務を明文化しようという動きは、2016年に、野党4党から、労働基準法改正案の提出という形で出ていたようだが、これはそのままになってしまっている。)

 それにしても、健康管理という面でいえば、残業代が支給されるかどうかよりも、労働時間を使用者が把握・記録するかどうかの方がはるかに重要だと思うのだが、どうもメディアの関心が薄いようである。

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